2003
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1970年代キング・クリムゾン参加でバンドの第二のピークを導き、70年代末はパンクの台頭する中UK、1980年代消えかけていたプログレッシヴロックの火種を次世代へと繋ぐASIAでの活躍などで長い間私たちロックファンを魅了し続けてくれたジョン・ウェットン様がお亡くなりになりました。 2017年1月31日早朝、結腸ガンとの長きに渡る戦いの末の逝去。彼の50年に渡るミュージシャン人生は、けっしてすべてが成功してた訳ではありませんが、それでも多くのファンに愛され続けた人生だったといえるでしょう。でも、もっと長生きして我々にその姿を見せていただきたかった。私個人からは短い質門でしかやり取りはありませんでしたが、それでもゴードン・ハスケルのアルバム制作時期やモーガルスラッシュ、ヘレンシャピロについて簡潔なレスポンスをいただきました。たぶん世界中のファンと気さくにやり取りをなされてた、その一端を見せていただけたものと思っています謹んでご冥福をお祈り申し上げます。ジェフ・ダウンズが弔文を公開しました。日本語訳は以下のリンクでご覧ください。http://nme-jp.com/news/33037/ウェットン氏の歩みをかいつまんで画像で振り返ります1968/ヘレン・シャピロ with Zoo ルーマニア公演モーガルスラッシュルネッサンスファミリーキング・クリムゾンロキシー・ミュージックユーライア・ヒープUKウィッシュボーン・アッシュASIAファミリーに参加した1971年9月以前の足跡をファミリー系図から引っ張り出してきました。データ作成には昨年亡くなられた60s/70s英国ロック・データベース管理人様、ジョン・ウェットンファンサイト様、そしてジョン・ウェットン氏他多くの皆様からの情報を参考とさせていただいてます。このうちTetradについてはGinger Manとかぶる為に、またモーガル・スラッシュからファミリー入り前の極短期セッションであったエドワーズ・ハンドやJaneやルネッサンスについては誠に勝手ながら割愛しています。※画像クリックで別タブで拡大表記します。
Jan 31, 2017
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盲目の天才マルチプレイヤー、レイチェル・フラワーズさんを軸に組まれた国際プログレコラボレーション演奏動画。プレイヤーたちのELPに対する思いがはじけるようで、その完成度と共に楽しい仕上がりとなっています♪The Endless Enigma - An International Collaborationこの他にもAn International Collaborationでいくつもの演奏が上がっています。どれもが素晴らしい出来となっているのでELP好きには楽しめるのではないでしょうか。YOUTUBE情でも彼女の演奏が沢山ありますが、それ以外にもサウンドクラウド上で多くの演奏を発表してることをtmatsushita様からツイートで教えてもらいました♪ 太陽と戦慄の完全カバーも凄かったです。↓https://soundcloud.com/rachelflowers-1/larks-tongues-in-aspic-part-2-king-crimson-cover
Jan 30, 2017
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会長がロンドンThe 606 Clubで行なわれたゴードン・ハスケルのギグに行かれたそうで、大変いいライブだったというお話でした。会場では近日発売される新ベスト盤CD、More Than Thatが選考販売されていたそうです。ライブでも披露された新曲More Than Thatがタイトルにされたアルバムでもちろんその新曲も収まられてるそうです。会長様より貴重なライブ画像を提供して頂きましたので一部ご紹介させて頂きます。ハスケル氏のサイトを見てみると確かに70歳記念のベスト盤が出ると告知がされていました。デジタル配信もされるようですので、CDとどちらで購入するか選べるようになるようです。曲目の確認と試聴が可能です。Gordon Haskell - More Than That(2017)曲はHambledon Hill以降のソロ作からのセレクトにタイトルの新曲が納められた形ですね。チャリティサイトでのみ発売されたシングルI'm Letting Everybody Knowも3曲目に収められています。(2/2訂正、2曲目に収録でした。)発売を待ちたいと思います。追記:会場には会長に誘われて着ていたデヴィッド・クロス夫妻もいたそうで、夫妻を見たハスケルから「どこかで見た顔だね。君からはお金借りていなかったよね」とギャグを飛ばしていたそうです。会長によると二人はギリシャに家を持つ仲間だったみたいですね。一緒にタバコを吸いながらギリシャで語り合うこともあったそうです。※3月10日修正※会長様から記述について直しがはいりましたので、慎んで修正いたしますw「金借りてなかった?とかギリシャ住人だったとか一緒に煙草吸いながら・・等の主語はデイビー・オリスト氏です。誘ったら606の近所に住んでいるらしく、デイビーも来ましたw」どうもタバコ吸った件や金借りたギャグはデイビーに対しての事だそうです。クロス氏はおタバコを吸わないそうですので。毎度せっかちで申し訳ございません。クロス夫人のちえみさんがコンサートで撮影したハスケルとクロスのツーショット写真をフェイスブック上で公開されてます。観る為にはフェイスブックアカウントが必要なので登録した上でご覧ください。考えるほど奇妙な取り合わせですが、コレもまた一つの縁なのでしょうねwハスケルのロンドンへの移住で今後クロスとの共演があるのかどうか?こればかりはなんともいえませんが、もしかしたらという可能性。あるかもしれません。お2人ともお元気で活躍される事を。再追記:2月頭現時点で、9月までのコンサートスケジュールがハスケル氏のサイトで公開されました。もちろんコレは現時点で決定したもののみですので、これ以外のイベントに出演する事もあるでしょう。彼が活発化してきた2017年、何とか来日までつなげられればよいのですが。ワーナーさん辺り、どうでしょうか? でかい箱じゃなくてもいいんですw
Jan 25, 2017
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今は一年で一番寒い時ですね。風呂を洗ってて腰を痛めました。皆さんも前屈みになる際はご注意ください。忘れた事にでてくることもございます。他の用途には使わないほうがいいですねw81年キング・クリムゾンの初来日公演を見たときに感じたこと小柳ルミ子カバーソング
Jan 19, 2017
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サバティカル休暇を終えたリーフリンが戻る事でドラム4人の8人編成となると言うキング・クリムゾン。ただでさえステージが一杯なのに大変ですねー。今年は主にアメリカツアーで廻るそうです。噂によるとハリウッドボウルでも行なわれるかもしれないそうで。サウンドエンジニアは大変ですなw
Jan 18, 2017
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昨年末ギリシャの島からロンドンに拠点を移し、活動を活発化させているゴードン・ハスケル氏。ロンドンでのコンサートに会長が行かれるそうで、羨ましい限りです。と言う事で、ハスケル氏の好きなものを尋ねてみました。会長からコンサートでも手もとにグラスがありますよねと言われたのでそれを踏まえて質門。 今朝出したのに早速返信がありました。相変わらず律儀なお方です。恐縮しながらも毎度の意訳でございます。質門:以前、ウィスキーという素晴らしい曲を発表なさりましたね。(1981年シングルB面、サードアルバム収録)。答え「私自身が自分で気に入ってるフェイバリットソングは、ネイチャー・ボーイだよ。(ナット・キング・コールの曲)私自身のフェイバリットワークはHow Wonderful You Areだね。」質門:お酒はどんなものがお好きなんですか?答え「ウィスキーはどんなのでも飲むんだけど、最近自分はバーボンが好きなんだと気付いたんだ」だそうです。今年予定されている数々のコンサートが無事に成功される事をお祈りいたします。
Jan 18, 2017
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レココレの最新号が出たので本日仕事帰りに早速購入いたしました。中身は普段雑誌で余り特集で組まれることが無い80年代の情報が盛りだくさん。さすがレココレというべきか、最近クリムゾンにハマった人も古くから好きな人も充分楽しめる特集となっています。さて、多くの音楽ライター諸氏が記事を書かれてる中に、いくつかおぼろげな点もあったので、私の知りうる限りの補足をマコトに僭越ながら書いておきたいと思います。・赤岩さんがクリムゾン初来日のコンサート日程がおかしい。誰か情報を知りませんか?と書かれてますが、答えは一つ。追加公演、再追加公演、再々追加公演と余りの反響に次々とスケジュールが足されていったのが、17日の新潟公演が東京との往復強行軍と言う奇妙な日程になってしまった理由だと記憶しています。・立川さんの文中、エイドリアンが初来日公演で大人しい日本の観客に立って踊れといっていた部分ですが、演者、観客共に堅すぎて翌日の東京新聞ライブ評で「おとなしすぎる」と書かれた初日の渋谷公演の事を指しているのではないかと思います。実際後日のこなれてきたライブでは客のノリもよくなり、当時浅草で見られた方々でしたらご存知の様に観客が踊りまくってしまい、慌てた主催側が途中で登場し「皆さん座ってください。このまま騒がれ続けると中止にしなくてはならなくなります!」と何度か警告が発せられたほどでしたものねw ブリューも客に座れ!座れ!と両手を何度も押し下げるポーズを見せていました。・オン(アンド・オフ)ザ・ロードの映像解説で、「ビルが木箱を叩いてる」といくつか書かれてますが、熱心なファンにはご存知の方も多いでしょう。あれは、ログドラムとかスリットドラムという名称の楽器ですね♪木に切り込みを入れ、叩く部分で音階が出る打楽器です。当時欲しくて買おうとしたら5,6万円くらいしたのかなぁ。高くて諦めた思い出がございます。最初地元の本屋で2月号を買おうとしたらまだ未入荷で、あちこち探してしまいましたが結局ユニオンさんで買えました。興味のある方は是非♪おまけ プログレ女子4コマ その121
Jan 13, 2017
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毎度のとんちき意訳ですがw「医療チームの助言により、3月と4月のツアーに出られなくなったことを残念に思う。間もなく新しい化学治療に入るので、旅立てなくなってしまったのだ。よき友人であるビリー・シャーウッドが私の穴を埋めてくれる。歴史的なツアーになるのは間違いないだろうし。私自身も今年の後半にはツアーに戻りたい。この決心がこの先私の健康とファンにとって最大の利益になると考えています。ボーンマスにてジョン・ウェットン 2017/1/11」全快を心よりお祈りいたすのみです
Jan 12, 2017
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昨年2016年12月に亡くなったグレッグ・レイク。彼が自伝を書いていた事は以前から熱心なファンに知られていましたが、昨年12月の亡くなる直前に書き終えていたそうです。自伝の第一部はネット配信の形で以前から出ていたと会長から伺ってましたが、やはり一冊になってから読みたいものだと思っていました。しかし、その後グレッグ本人が亡くなってしまうとは予想だにしておらず。自伝も今後どうなるんだろうとは思っておりました。 長年グレッグにマネージャーとして親友として付き添い続け、彼の訃報を世に発表したスチュワート・ヤングによると2014年グレッグが末期がんと診断された時、グレッグは自伝を書こうと思ったのだそうです。日本版もいつか出るんだろうと思いますが、なるだけ早く読みたいものですね。アマゾンUKで確認し、アマゾンJP洋書でもう一度確認しましたが、いずれも5月25日発売予定となっています。本国での発売予定価格は20英国ポンド。送料から考えてアマゾンJPで予約開始となったらそちらのほうがお得となるかもしれません。販売価格によりますけどね。GREG LAKE Lucky Man AMAZON.UKhttps://www.amazon.co.uk/Lucky-Man-Greg-Lake/dp/1472126483GREG LAKE Lucky Man AMAZON.JPhttps://www.amazon.co.jp/Lucky-Man-Greg-Lake/dp/1472126491/※注/リンク先は発売元の都合で変わる事があります。追記:今回の自伝出版についての情報で、日本での紹介記事にヤング氏談話から引用で「グレッグが病気を知った2014年から自伝を」と書かれているくだりに疑問を抱きまして。ちょっと遡ってみました。やはり2013年の春時点でグレッグ・レイクは自伝を書くという情報が既にありましたw たぶんヤング氏も若干記憶に誤差が生じられているのかもしれませんね。
Jan 11, 2017
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ツイッターで以前ブログで取り上げましたよねとtmatsushita様よりご指摘を受けたマイナーCDからボズの参加曲です。そういや買ってませんでしたw すっかりと忘れてて。«Mr Boz» (B. Burrell-J. Mizarolli-T. Panou) CDはコチラで売られてます。PAYPALも使えるようです。http://www.mizarolli.net/acatalog/_Jazz_Rebel_2000.html
Jan 9, 2017
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冬本番と言う寒さでございます。冬休み最後に菜摘の番組見学にプ女らが行ったお話。新年会で飲みすぎないよう注意しましょう。飲みすぎても明日はきます。容赦なくwおててのシワとシワをあわせて、しわよせ~wエピフォン・ジェネシス、70年代末に3年ほど売られたギター。ちょうどプログレ女子4コマの時代とピッタリはまってるw
Jan 9, 2017
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2016年に発表されたリチャード・パーマー=ジェイムズのアルバムからプロモ映像が公開されました。Richard Palmer-James - Takeaway
Jan 7, 2017
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昨年夏(つまり2016年)にワーナーが廉価盤企画で多くのロックの歴史的な作品を発売しましたね。その中にゴードン・ハスケルがアトランティック/アトコから1971年にだしたセカンドソロ作品「It is and It isn't」もございました。アマゾンなど幾つかのサイトでは海外盤の説明に74年作品だとか72年だとか書かれてしまっていましたが、ワーナーからの再発商品説明には「71年」作品と明記されました。もうこれで安心ですねw(なにか?)。しかし、相変わらず邦題が「歳時記」とか勝手なタイトル付けられたままで難儀です。何で俳句の季語集なんだよ、ハスケルのアルバムが・・・ブツブツブツ。 さて、再発を機会とし新たにハスケル作品に触れられた方々へ、彼の60年代から70年代のズンドコ活動をご紹介しておきましょう 子供の時分、学校でハスケル君と同級生となったのが、後にクリムゾンの主となるロバート・フリップ君でした。子供の頃から天才肌で奇妙な子供だったそうですがw フリップはバイオリンで地域のジュニアオーケストラにおりました。当時ロックンロールが流行り始め、少年少女を夢中にさせてはじめていた時代。様々なロックの話題が学友の間でされるようになると、ハスケルはフリップとフリスビー遊びをしながらこう話しました。 「ボクがベースを弾けるようになったら、バンドに入れてくれるかい?」当時まだフリップはバンドも組んでいませんし、楽器を持ってる友達同士でバンドやろうぜ的な会話が結構あったのかもしれません。フリップはハスケルにジャズコードを主に音楽理論を教えたそうです。難儀な子供ですねw ま、そのお陰でハスケルは60年代半ばからあちこちのバンドやセッションで活動できたんだから教え方はともかく有意義な時間だったのでしょう。ハスケル氏も「フリップに何か教わったのはアレが最初で最後だ」と申してますし。 早速学友4人でバンドが組まれ、彼らは二階建てバスでアンプや楽器を練習場所に運び込み練習。1962年夏に最初のバンド、レイヴンズは田舎の少年たちのR&Rコピーバンドとして産声を上げたのでした。一年程の活動でバンドは解散してしまいましたが、その1年半後1964年春バンド名をザ・リーグ・オブ・ジェントルメンとしてバンドが再結成されます。地元紙記事にも載るなどそこそこローカルで有名になったようですが翌65年夏、父の不動産業を継ぐ為の学業専念を理由にフリップは脱退してしまいます。(脱退後もホテルバンドなどでコソコソ小銭かせいでましたがw)。残されたハスケルらメンバーは新メンバーを補充しましたが程なく解散した模様。その後、警察で仕事(何の役目かは不明)を得ましたが、一日で自分に合わないと辞めたそうで、音楽の道に舞い戻り、かってマイケルとピーターのジャイルズ兄弟も在籍した60年代前半のグループ、ダウランズのドサ周りでベースを弾いておりました(1965年末)。するとギグをみに着てたバンドのファンから「フルール・ド・リス(FDL)からベースが抜けてメンバー探してるよ」と聞き、オーディションに赴きそのまま加入がアッサリ決ってしまいました。このFDLというバンドもプロデビュー以前からメンバーチェンジが激しいバンドで、これは解散までこんな調子でしたw ハスケルのいた2年ちょっとの間でもこの有様↓です。このバンドFDL時代、マネージャーにアトランティック欧州担当のフランク・フェンターが当たっていた為、渡英してくる様々な黒人歌手らとのツアーでのバックをやってもいたそうで、レコーディングやデモ作りでもハウスバンドとして重宝がられてたようです。肝心のFDL本体は数枚のシングル曲を出しただけで、これといったヒット曲はありませんでしたが、当時同居していたフェンターの元妻シャロン・タンディのバックを務めたシングル「HOLD ON」はスマッシュヒットしていたようです。当時ハスケルが書きレコーディングセッションで提供した楽曲レイジー・ライフが南アフリカで大ヒットシングルとなったことを知ったフリップは、ハスケルの母親が勤めてた病院にもじゃもじゃ頭のまま現れてハスケル母を大変ビックリさせたそうで。何とか連絡を持ったフリップはハスケルに「ヒット出してるバンドがメンバー募集している。一緒に入らないか?」と声を掛けたのでした。結局その後ジャイルズ・ジャイルズ・アンド・フリップ(GGF)でデラムとのレコード契約を得てしまったフリップは行動を共にせず、ハスケルのみがバンドを移籍してしまったのでした。このフラワーポットメンはディープパープル結成前のジョン・ロードが企画にいたバンドでしたが彼らが去るとバックメンの募集を行ないましたが、結成時期の初期GGFも一夜バックメンで参加しギグが大失敗したという因縁のあるバンドでしたw ここでのツアー契約が終わるとハスケルは、同じ様にシングルでヒット曲を出していたキューピッズ・インスピレーションに加入。ここではアルバムにハスケル楽曲を1曲残しています。ただこのバンド、契約通りに所属事務所がお金を払わなかったらしく、1969年年明けにハスケルは離脱。近年ハスケルは当時を振り返り、FDL時代の仲間がやっとヒット曲を出したのにボクはクリスマスツアーの移動中壊れた車を雪の中バンドの連中と押している。とかなりFDL脱退を後悔してた思い出話を書いてました。ただ、このバンドの頃までコツコツと自作曲を書き貯めており、それを元にマネージャーとCBSに売り込んだところ、デビューアルバムであるSAIL IN MY BOATの発売が決定しました。ハスケル氏に以前うかがった話では、演奏家はプロデューサーのジミーダンカン任せ、アレンジはジョン・キャメロン任せでレコーディングがどんな様子かほとんど覚えてないそうですw実はこのジミー・ダンカン、ジョン・キャメロンの二人はキューピッズ当時の仕事で既に顔見知りだったという関係もありました。GORDON HASKELL - SAIL IN MY BOAT (1969)ハスケルが結成直後のキング・クリムゾンのリハを覗きに行っていたのもこんな頃の話なのでしょうね。当時から凄いけどボクとはスタイルが違う音楽だと思ってたそうですが。デビュー間もなく成功を収めたキング・クリムゾンが、69年秋の北米ツアーで分裂し、メンバー脱退が相次ぎ、明けて1970年になるとグレッグ・レイクの脱退がまだ公表されないまま新メンバー探しが開始されてました。その頃70年2月13日、ハスケルはアルバム曲をシングル用に録り直し発売してました。 Gordon Haskell – OO LA DI DOO DA DAY この1970年ハスケルは、共通の知人である音楽制作者ジョン・ミラーを介して、ジョン・ウェットンと初めて知り合ったということです。つまりモーガル・スラッシュと同じマネジメントに属していた訳。(上記シングルのみアレンジはジョン・アンソニー)クリムゾンがシングル盤キャットフードを発売しBBCでテレビ出演した後、4月からレイクはELP結成の為、クリムゾンのセカンドアルバムレコーディングに現れなくなってしまいました。まだ仮歌程度の歌唱しかレイクがしていなかったケイデンスとカスケイドの歌入れの為、フリップは幼馴染のハスケルをゲストに招き、ハスケルも小銭が貰えるので喜んで参加したという話。クリムゾンのセカンドアルバム、ポセイドンのめざめが出される頃、新ボーカリスト選定でフリップ側でも色々と問題が生じ多くの候補者が却下され続けていました。サードアルバム制作に向けてメンバーは固まりつつあったのですが、ベースとリードヴォーカルが未定。一時黒人ミュージカル俳優を候補にしていたのもギャラで合わず見送り。この頃ハスケルがフリップに再三クリムゾンへの参加を打診されては断り続けてた時期。結局ハスケルは奥さんから定期的な収入が欲しいと言われて加入を決心したのだそうで。キング・クリムゾンのサードアルバム制作に1970年夏から秋に掛けて参加したハスケルは、制作後に引き続き行なわれたライブ用のリハーサルにおいてキー変更に応じないフリップと喧嘩しそのまま脱退。勢いで飛び出したがいいが、何も計画がない。そんなある日、ジョン・ミラーから「今ロンドンに、アーメット・アーティガン(アトランティックレコード創設者)が滞在してるよ」とホテルを教えてもらったハスケル。早速アーティガンに売り込み、彼の目前で自作曲をギターで5曲ほど披露する場を与えられた。アーティガンはその場で非常に気に入り契約を即断。ハスケルも契約で借金の肩代わりまでしてくれるというアーティガンに助けられた形。彼のセカンドアルバムIt is and It isn'tの制作は、ハスケルの希望通り名プロデューサーであるアリフ・マーディンに決まり、アリフがビネガージョーとレコーディングを予定してたスタジオで2週間掛けてレコーディングされた(その後ニューヨークでの追加録音もあったが)。演奏参加者にはハスケルの友人たちが起用され、ベースにジョン・ウェットン、ドラムスにはビル・アトキンソン(別名ビル・ハリソン)と解散したばかりのモーガルスラッシュからの2名。リードギターにはハスケルと同郷でダウランズ時代の旧友アラン・バリー。キーボードにレアバードのデイヴ・カフェネッティなどが参加。このロンドンでのレコーディング時期が長らく未解明で、ハスケル氏も忘れたといっていたが、ジョン・ウェットン氏に「あなたの活動歴から推測するとファミリー加入直前の8月しか可能性が見当たらないのですが」と確認したら「今出先でちょっと日記が無いので判らないけど、たぶんそれであってると思うよ」と言われましたので、たぶん8月w じゃないかと。gordon haskell - It is and It isn't (1971)タイトルで名前が小文字表記なのでそれに準拠。アルバムの発売に合わせ71年11月末、ロンドンのレインボウ・シアターで初ソロステージ(競演はウィッシュボーン・アッシュ他)。当時既にウェットンはファミリーに加入してたのでココに参加した考えからは除外。この後ハスケルはスタクリッジやオーディエンスらとの英国国内ツアーも廻っていたそうです。一部で書かれてた米国ツアーはオファーが無かったから「アメリカツアーにはいってません」との事。セカンドアルバムはビルボードなどでも好意的に評価されたが、70年代末でも日本でシールドされたLPが999円でバーゲン販売されてる事もあった位で、現実問題としてアメリカじゃ当時ツアーやら無いアーチストが売れる訳も無かった・・・ということになるのでしょう。音的にはアメリカでマーディンの手により最終マスタリングされたアルバムですから、ATCO盤が英アトランティンク盤LPより落ちるって事でもなさそうです。結局ソロで思うように売れず、また他のタレントのバックでベースマンとして収入を得ようと思ったハスケルはその後、ティム・ハーディン、旧友ブリン・ハワースなどのステージでベースを弾き、いくつかのレコードでセッション参加していました。(スタクリッジやご近所のアルヴィン・リーとはリハのみで終わってしまったそうですが。)1970年代中期、ブリン・ハワースのバックバンドで意気投合した加藤ヒロシらとバンド「ジョー」を組むと変名バンドを含めいくつかのディスコソングレコードを制作しています。この時期、ジョーが演奏したもので一番有名なのが山口百恵ロンドンレコーディングアルバム「ゴールデン・フライト」がありました。このレコーディング時、ディレクター氏の談話でハスケルは自作曲を50曲ほど貯め込んでいたというお話がありました。また同時期ロンドンの地下レストランで3人編成のフォークグループでも活動。そのメンバーからの紹介でクリフ・リチャードのバックバンドへ加入し、合計で12週間世界各地でプレイしていたそうです。当時わずか3日程、アラン・バリーもギタリストとして参加し、ハスケルと一緒のステージに立っていました。とハスケル氏本人の弁。マネージャーともめてバリーさんは可哀想に解雇されたそうですが。70年代末、ハスケルは60年代に最初の自作曲をレコーディングした南アフリカの歌手、ビル・キンバーに招かれRCAと契約。キンバーがこの当時RCAで重役となっていたのが幸いしたそうです。貯めに貯めたオリジナル曲から選りすぐってレコーディングし、待望のサードアルバムが制作されたのは世の中がパンクに溢れかえっていた時代。多くのベテランミュージシャンが仕事を失ってた時代でもありました。結局、サードアルバムServe at room temperatureは、制作後極少量がテストプレスされ印刷も何もない白ジャケットの姿で配布されたのみで世間には発表されませんでした。かろうじて3枚ほど出されたシングル盤レコードにアルバムから曲が収められ発売されましたが、私を含めマニアが買う程度じゃ売れ行きもたかが知れてました。サードアルバムは1997年、日本のEvangelレコードが発売。ツイッターでココモJP様から、友人が発売元のレーベルをやっていたと伺った際は、世の中狭いなと思わされましたwこちらは97年発売となったCDその後本国でも発売されたそうですから、世の中捨てたもんじゃありませんね♪ このアルバムの後ハスケル氏はソロシングルに5-10-15というディスコ曲を発表しましたが、80年代のレコードはここまで。以後は北欧地域のバーなどをギターかついで弾き語りで長らく廻っていたそうです。彼が再びレコーディング出来るようになる1990年まで約10年。そして21世紀になり大ヒットを出した2002年まで、ここからまだまだ遥かに長い道のりが続いて行ったという訳です。
Jan 6, 2017
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Jan 2, 2017
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今年が皆様にとって、プログレ界にとって素晴らしい一年になりますように意味無し法一
Jan 1, 2017
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