2003
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1968年に結成され1969年レコード・デビューしたイギンボトムでのアラン・ホールズワース画像です。初めて見るものばかりでした。メンバーはグレン・サウスバンドと一部かぶってるようです。詳細は不明。あと1967年末から活動していたザ・ミュージアムでのアランの画像です。たぶんイギンボトムやグレンサウスバンド以前にアランがいたバンドでしょう。67年10月に結成したハモンドオルガン、ギター、ベース、ドラムスの4人組で、アランは最初のギタリストに入れ替わって加入したそうです。音楽性は不明ですが、アランがオカッパ頭なので、このころ流行のサイケの波を被ったバンドだったのかもしれません。そしてアランが18歳の時、地元紙に載せられた際の記事。この時のバンドはMike Judge and Jurymenというバンドだったようですね。1964年秋以降から翌65年の夏前までのいずれかの時期なのでしょう。最後に、この画像がなんというバンド名かはわかりません。もしかすると上記のジュリーメンなのかもしれませんが確証はないですw最後に、アランの音楽家としての最初期を探ってる間にイギンボトムとグレン・サウス・バンドの相関関係がわからなくなってきてました。そこで質問をしてみた所、イギンボトムの元メンバー、デイヴ・フリーマンさんから簡潔なお答えをいただきました。イギンボトムの方がバンドとして古いそうです。ということでアランのバンド遍歴は1967年ミュージアム、1968-69年イギンボトム、その後グレン・サウス・バンドとなったと考えてよさそうですね。
Apr 30, 2017
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UK離脱後のアラン・ホールズワースは、ジャック・ブルース、ジョン・ハイズマンとトリオで活動を模索してましたが、時期的にまだパンクが流行しておりレコード契約が取れず、スーパーバンド構想は結局実現しませんでした。その頃のでも音源がサウンドクラウド上にあったのでリンクします。いつ無くなってしまうか判らないので、チェックはお早めに♪White Line demo (Allan Holdsworth, Jack Bruce, Jon Hiseman)https://soundcloud.com/hoopii/white-line-demo-allanこの音声を聴くと、IOUでのポールウィリアムスの歌い方は元がジャック・ブルースなんだなと思わされますwポールとアラン追記:当初は1979年音源と書いておりましたが、その後の情報で1978年11月、UK離脱直後のデモ音源であったことが判明しました。BrufordのOne of a Kindセッションはこのデモ制作の後でした。
Apr 29, 2017
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イアン・マクドナルドが参加してるバンド、ハニーウェストの映像がバンドのフェイスブック上に公開されました。https://www.facebook.com/honeywestmusic/
Apr 29, 2017
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UKファンでいったいどの程度の方々が彼らの最初のプロモ映像をフルで見られた経験がおありでしょうか? 現在動画サイトにあげられてる映像のほとんどがテレビ埼玉で放送された際の曲のラストがカットされたものですが、今回ご紹介するのはエンディングまで収められた動画です。画質はかなり悪いですが貴重な映像です。実際のプロモは、このエンディング同様、暗がりでイントロが始まる展開だったのですが、その部分までみられる動画は今のところまだ無いようです。
Apr 29, 2017
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亡くなったアラン・ホールズワースの遺族らが立ち上げた葬儀費用を募るクラウドファンドが、最終的に11万ドルをを超えた時点で終了されました。娘さんたちの感謝がクラウドのページに表明されました。(一部意訳)「アランが死んで私たちは悪夢のような時を過ごしていました。私たちが皆様から受けた愛と支援に感謝の言葉すらみつかりません。すべての種類の言葉、思い出、寄付に感謝します。私たちはプライベートセレモニーを行い、近く父の公的な記念碑を作る計画をしてます。私たちのお父さんは最高でした。ルイーズ、エミリー、サム・ホルーズワース(3人連名)」記念碑ができたなら、そこは我々ファンの集う巡礼地となるのでしょう。
Apr 28, 2017
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5年前の2012年、微妙にキング・クリムゾン周辺人脈が関わったバンド、キング・ハリーについて取り上げました。その後、難儀なことにCDで再発されたりもしましたが、肝心のメンバーもディッケンソンやアラン・バリーの行方がこの記事から5年の間全くつかめていません。したがってこのバンドの結成に至る詳細な情報は今も不明なままです。メンバーのうちティノ・リチニオは故人のため、その情報を掘り起こすのも限界があります。未亡人に質問しても仕方がないでしょうしねwということで、今回久々に情報集積をもとにファミリーツリーだけ更新いたしました。2012年の下記文中にツリーへのリンクをおいてあります。興味をお持ちの方はどうぞご覧ください。この一年、ツリーの登場人物のうちレイクとウェットンがこの世を去ってしまったのが残念でしたが、生前一部情報を提供していただけたのが幸いでした。King Harry - Divided We Stand (1977) https://plaza.rakuten.co.jp/chop100/diary/201205190000/4/28追記一部誤植があったので後日修正いたします。現在データ収納したPCが故障中のためw5/9追記データ収納していたPC復旧の見込みが立たないためHDDより直接サルベージ。とりあえず誤植箇所の修正を致しました。上記リンク先にファミリーツリー新ヴァージョンを公開しなおしました。
Apr 26, 2017
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新入生が入ると部活動の勧誘がありますね。桜が散ると次は・・・アラン・・・あのギターは今どこにJCといえばJC-120、勘違いしてはいけませんねw
Apr 19, 2017
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先ほどニューヨークタイムズが報じたアランの死亡記事で、死因は心臓発作と報じられました。ロンドンの会長によると娘のルイーズさんが昼食に出て自宅へ戻るとすでに亡くなっていたそうです。以前より心臓病を患っているというニュースが伝えられておりましたが、その悪化が彼の命を奪ったわけですね。遺族によるアランの葬儀費用を捻出する為のクラウドファンディングは現時点で10万ドルを超えました。おそらく十分にアランの葬儀は賄えるようになったと思います。今後我々ファンは彼のベスト盤などを手にすることでご遺族のサポートができると思います。アランの在りし日の姿を振り返りますアランの訃報を伝えた米紙が意外な事実を記事で報じました。彼の実の父親は実は判らないのだそうで(※2018年11月16日追記、その後両親の名の出てる記事では判明しました。アランは母ヴェラ・ホールズワースと父ジョシュア・ホリンズの間に生まれた息子だったそうです。)、SamおじいさんとElsieおばあさんによって育てられたのだそうです。彼の紹介記事ではよく父親がジャズピアニストでと書かれてきましたが、それは実の父ではなく、親代わりだったおじいさんを指したことだったようです。おじいさんもまた労働者でその生活は貧しいものだったそうです。ジャズピアニストというのもセミプロ活動だった可能性が高いです。(右側でおもちゃのサックスを吹くのがアラン)時代はまだビートルズが大人気だった60年代前期、17歳からギターを本格的に始めたアランはいくつかのローカルバンドで演奏を開始します。ルックスが良く地元ではアイドル人気も得ていたようです。(※2018・11・22追記:その後の見つけたいくつかのインタビューで、14歳の時ギターをプレゼントされたの事)この画像、オカッパに近い髪型からして1966-67年あたりだろうか?レコードデビューバンドのイギンボトム70年代初頭のソウルバンド「グレン・サウス・バンド」時代。昼間工場に勤めながら。夜は仲間とバンド活動をしてたようです。イギンボトム時代からの仲間の話ではこのバンドは7カ月演奏していたそうです。(うちアランが参加したのは三か月ほどの模様)翌72年には60年代末英国北部での演奏家ユニオンツアーで同じステージに立ったサキソフォン/フルート奏者レイ・ウォーリーから連絡が入り「まだ演奏しているのかい?」と尋ねられています。工場勤めしながら演奏していたアランをロンドンへ呼び寄せたのも実はレイだったようです。72年春からはレイの家に居候し、彼からおこずかいをもらい、ロンドンのミュージシャンのたまり場で多くのミュージシャンに紹介されていたそうです。その過程でジェイミー・ミューアらとサンシップを組んだり、レイとその仲間たちパット・スマイスと演奏したり、イアン・カー名義のアルバム、ベラドンナのセッションへ参加。アランがクラブ:ロニー・スコッツでのギターフェスティバルで注目されたのは1972年9月13日で確定。噂を聞いたジョン・ハイズマンがテンペストにアランを誘ったきっかけにもなっているギグで、ロバート・フリップがアランを称賛したと言われてます。共演はバニー・ケッセルとジョン・ウィリアムス。ダブルベースにロン・ハーマン、ドラムスにナイジェル・モリス。ケッセルからアランは「どんな弦を使ってるんだい?」と不思議がられたと当時の記事が伝えてました。テンペスト時代1973年、この時点ではまだトレモロアームを使用してなかったアラン。このバンドを抜ける直前、新加入したオリー・ハルソールと共演し、その変態ギタープレイに影響を受けたのでしょう。アランは多くのバンド遍歴を重ねましたが、それは彼が気まぐれだったからというよりも彼のあふれんばかりの才能から、様々なバンドからの引き合いが絶え間なくあったことの裏返しでもあったと思います。実際、彼の70年代のギグ記録を記載したサイトでは常に複数のバンドを掛け持ちしていたことが読み取れました。彼が短期間だけとはいえ一つのバンドにだけ契約で縛られていたのは、UK在籍の頃だけだったようです。ソフトマシーン1974-75ソフトマシンに在籍してた頃もいくつものセッションへと参加してます。トニー・ウィリアムスやジャック・ブルースとの共演。近年公開されたパット・スマイスとの1974年コラボ映像ライフタイム在籍時。このバンドで二枚のアルバムと初ソロ作を制作しツアーも行いましたが、バンドを抜けた時、英国への帰国費用の為、マネージャによってアラン愛用の白のSGが売り飛ばされてしまったそうです。GONGBILL BRUFORDソロアルバム セッションUKBRUFORDジョン・アンダーソンやジャック・ブルースらとのオールスターバンドアラン・ホールズワース・バンド1994年、キアヌ・リーヴスの大ヒット映画「スピード」のサントラにアランが参加してた件について。セッションには参加したが、実際映画を鑑賞したアランには自分の音は聞こえなかったそうです。どうりてサントラいくら聞いてもわからないはずです。一応参加はしたから映画のエンドロールやサントラ盤にアラン・ホールズワースの名が残されてるようですが、彼のソロを期待して映画を見たりCD聞いても彼のプレイは聞けないようです。映画でのクレジットでLが一個足りてないのはご愛嬌という事でw※2018年2月13日追記:アランがギターを始めてからの使用ギターが語られたインタビューから。61年頃最初は何か判らんフラットトップ→カール・ヘフナー・プレジデント→ハンク・マービンに憧れてストラトキャスターを半年→それを売ってギブソンSGをほぼ10年間。(2019年6月15日追記◆最初のSGは赤、イギンボトム解散後に売却し、ヴァイオリンとカールヘフナーのColoramaを購入するも全く使い物にならず。白いSGカスタムに買いなおしたそうです。テンペスト時代に一部写真にあるES-335はヴォーカルのポール・ウィリアムス所有。アランはこれを弾いて気に入り、そのままレコーディングに使用したそうで、その後のソフトマシーン参加時にもレコーディングでSGカスタムとともに使用されたのだとか。)SGカスタムは渡米して初ソロアルバムの頃まで使ってましたが、英国に帰国する際マネージャーに飛行機代として売られてしまったそうなので、そこまでがアランのSG時代だったと言えるんでしょうね。70年代前半画像には他にも335やレスポールを弾く画像が残されてはいますが、彼にとってのメインはこの時代SGであったと言えるのかもしれません。BrufordのころにサブギターながらSGをまたまた弾いてましたね。
Apr 19, 2017
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アランを偲び、彼の映像をプチ特集。(ライブ音声のみで映像のないものもあります)NUCLEUS with ALLAN HOLDSWORTH- LIVE 1972 Tempest - Brothers live in London 1973Allan Holdsworth with The Pat Smythe Trio - British Rail (Live video 1974) Soft Machine live on RAI 1974 Tony Williams & Lifetime - Wildlife- LIVE 1975 Gong - Live 1976 - Allan Holdworth - Night Illusion 以前の動画よりきれいな映像ですBill Bruford - Bruford with Annette Peacock & Allan Holdsworth, OGWT 02-27-78 U K - In The Dead Of Night -1978 Gary Husband w Allan Holdsworth - "I.O.U." album outtake (1980) ALLAN HOLDSWORTH : White Line さよならアラン
Apr 18, 2017
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アランの娘のルイーズさんが、FB上でアランの訃報を伝えました。享年70歳だったそうです。彼がこの4月に出演した人生最後のステージ映像が公開されています。いつなくなるかわかりませんのでお早めに。(※動画に残されれた最後のステージはこの日でしたが、いくつかの情報で4月10日が彼の生涯ラストステージだったそうです。)Allan Holdsworth @ Alvas Showroom Apr 3rd 2017 思えばこの一年、アランは体型を崩すほど心臓を悪くされてたと聞いてはいました。ソロアルバムを集成したBOXセットやベスト盤が出る頃にまるで図ったようにさらりとこの世から旅立ってしまいました。日本を日本のファンをいつも大事にしてくれたアラン。感謝に堪えません。あなたの音楽にサウンドに触れられて私たちがどれほど多くの感銘を受けたことか。どうぞ安らかに。追記:AMASS様が全世界のミュージシャンから寄せられたアランへの追悼文をまとめられています。http://amass.jp/87488/ビル・ブルーフォード「大きな悲しみで、彼のご家族ご友人に哀悼の意を表します。アランは簡単な男ではなかったが、簡単な奴で済んでいたらアランではなかっただろう。彼は完ぺきな音を追及していた。」スティーブ・ルカサー「信じられない!彼は我々世代の伝説的なギタリストだった。」ニール・ショーン「アランよ安らかに。なんて悲しいことか。人生を楽しむにはなんて重苦しい年なんだ。」ピーター・フランプトン「彼の訃報を聞いてとてつもなく悲しい。華麗でユニークなギターの達人、アランよ安らかに。」ジョー・サトリアーニ「RIPアラン。あなたは私に大きなインスピレーションを残してくれました。あなたの美しい音楽は永遠です。」ジャッコ・ジャクジック「おお神よ!アランが亡くなった。天才で開拓者で私のヒーローの一人でした。」スティーブ・ヴァイ「エレキギターにアランはユニークな貢献をした。彼の成しえたこととその才能に私たちは深く感謝している。」エディ・ジョブソン「アランとは私がまだ16歳で英国北部をサーキットしてた時、最初に出会いました。当時はまだ彼が世界で最も偉大なギタリストになるとは知らなかった。私は古い友達・同僚を失ってしまったが、世界は音楽の伝説を失ってしまった。RIP」チャド・ワッカーマン「我々は今日、真の音楽の革新を失った。彼の家族にお悔やみを申し上げます。彼とは82年ギターとドラムスの二人だけで行われたオーディションで出会いました。彼の音楽は私の経験したことのない世界だった。作り上げるのは困難だったがすぐ夢中になった。彼の音楽は強烈な一面、美しい。彼は天才だったし、私は彼を信じていた。聡明なインプロヴァイザーだった。世界は重要なミュージシャンを失ったが、私は長年の友人を失ってしまった。さようならアラン。」シド・スミス「アランとは74年6月ニューキャッスルで二日間行われた演奏家ユニオン主催のソフトマシーンのワークショップで出会った。私は幾分不安定なベーシストとして参加していた。コンサートを見たり、彼らと会話し楽しく様々なアドバイスをもらいました。ジャズロック界で最も有名なバンドで彼はスターだった、アランのギタープレイは空で飛び回る鳥のように暴れまわり大変なものだった。私はそれまでに多くの有名ギタリストを見てきたが彼の様な音を出した人物はいませんでした。大胆で怖いもの知らずで熱狂的で刺激的でした。10代の私の耳は困惑するばかり。私が彼を最後に見たのは2014年のニューヨーク。74年の頃と変わらず大胆で熱狂的なな演奏でした。」最後に、アランの死後、娘さんたちがアランの資産が全くなく葬儀費用が無い事でクラウドファンディングを目標2万ドルで開始しました。4/18の9時現在、目標を大きく超え現在8万ドルを上回っています。世界中に温かいファンがいる事に感動いたしました。
Apr 17, 2017
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動画タイトルには1971とついてますが、実際は1970年12月31日に最初の放送となったTake A Pebbleのビートクラブ映像です。動画後半には取ってつけたように他のソースから同日演奏されたナイフエッジも収められてますがこちらは様々な映像ソフトでも見ることができるファンに良く知られた映像ですね。状態は良くないとはいえ「石をとれ」のかなりアレンジが入ったテイクで面白いと思いました♪
Apr 11, 2017
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イアン・マクドナルドが近年活動しているバンド、HONEY WEST。昨年アルバム制作が報じられて以降主だった動きが伝わってきませんでしたが、実はバンドサイドで公式発表まで情報を出さないようにしていたそうです。少し時間がかかりましたが5月19日発売との情報がFBでも出ましたし、日本でもAMASSさんから発信されました。今のところ国内輸入盤販売サイトでの情報はまだありませんが、アメリカのAMAZON.COMにはリリース情報も出ています。そのうち日本でも各販売網でリリース情報が出てくるでしょうね。
Apr 10, 2017
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春です。4/8現在、全国で不安定な天気の中、あちこちでお花見の大騒ぎが繰り広げられた事でしょう。皆さんはお花見をしましたか?(今回もいつも通り、画像をクリックすると別タブに拡大表示します。)フリップ師は何を食べてたのでしょーか?浅草篇(あくまで推測です)気温も上がってきました。春らしく花もたくさん咲いていますね。
Apr 8, 2017
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ロックの殿堂入りしたYES。マスコミ相手のスピーチです。※現時点でまだショーのオフィシャル動画は公開されていませんので、インスタ動画を下にリンクしました。リッケンバッカーを弾くスティーヴ・ハウ受賞記念演奏はラウンドアバウト♪観客席からのスマフォ撮影でしょうけどインスタで。https://www.instagram.com/p/BSmvWKADxPp/次はロンリーハート。ハウ師匠がリッケンバッカーベースを弾いてます♪https://www.instagram.com/p/BSmv1xejrTq/YOUTUBEに別角度動画が上がってるのをばばんこ先生のツイートで知りましたので追加w他にもいくつかそしてYESメンそろってのスピーチ
Apr 8, 2017
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トニーさんのインタビュー動画です。AMASSさんが取り上げたので知りました♪
Apr 5, 2017
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以前LPの録音やグラフィック作業用に買った省スペースデスクトップPCがだいぶ古くなってきました。OSはVISTA。アキバで以前買ったPC-VL300mg2yという拡張性のないPCですwHDモニター出力ができるので、何百枚ものレコードを24BIT/96Hzで録音したり、写真をいじるのに重宝してきました。ノートPCだとストレスが溜まりますしね。HDDにたまったデータを外付けHDDに移動し、使わなくなった古いソフトを外し、念の為とバックアップをDVDに焼いた後、WINDOWS7へ移行し、その後WINDOWS10へとアップグレードしました。よく使う多くのグラフィックソフトや音楽ソフトはそのまま使いたかったので、アップグレードにこだわったのです。ですから32ビットのままです。64ビットにしてもマシンスペック的にメモリが増やせないためこれで十分。メモリは4ギガ載ってるので、そのままです。オンボードのグラフィックがWIN10用ドライバが出ておりませんが、NECサイトでWIN7用ドライバをDLしインストールしたら使えるようになりました。OS移行後、繰り返しのWINDOWSアップデートを済ませたあと、GlaryやCCleanerなどのソフトでゴミファイルを徹底的に掃除して、デフラグ。折を見てHDDの掃除がすんだら今夜は物理的にPC内部のお掃除です。カバーを開けて、中のほこりを掃除機で吸出し、ファンをきれいに拭き掃除。CPUを外して隅々まできれいにしてから、CPUをE4600からE6850へ。内蔵されたマザーボードのメーカーサイトの古い情報がすでに消えてるので、いくつかのサイトで成功例のある同じ電圧でクロック数の早いCPUに変えました。MSIの情報だと古いタイプのcore 2 quadは乗るようですが、これは電圧がでかい。VL300mg2yがスリムタイプで電源が弱く、大きなCPUファンも載せられないのでquadは選択から外しました。E6850ならば2017年春現在千円から二千円程度で買えるので大した投資にはなりませんwヒートシンクを取り外し、ソケットのCPUを入れ替え、グリスを塗りなおしてあとはファンを戻すだけ。ついでに3ピンCPUファンソケットを分岐ケーブルで二股にしました。半月後届くVGA用ファンをその時とりつけるためにw(4/14追記:VGA用ファンが届いたので取り付けました。それだけw)アマゾンでケーブルやファンが送料込みでとんでもなく安く売られてて驚いたのですが、出品業者が中国でしたw だから安いというのもあるんでしょうね。80年代だったら日本の精密製品はココムの壁で共産国に出荷もできなかった時代を考えると時代の流れを痛感しますwついでにモニターやオーディオ機器なども掃除して部屋がすっきり♪たまには大掃除もいいものです。CPUファンをクリーンにしたので非常にファンも静かになりました。最近うるさかったのは埃で放熱がうまく働かなたかったせいだったわけです。いやほんと静かになりました。PCを起動し、OSでチェックするとしっかりと3GHzで駆動してます。90年代や2000年代、PCパーツを交換してあれこれ改造しまくってた頃を考えると拍子抜けするほど今のはシンプルですね。i5ノートは仕事の持ち出し用で、自宅ではデータをあれこれいじるのにデスクトップの大画面表示させるのに慣れきってしまったので、まだしばらくはこの古いマシンでアレコレできそうです。ちなみにプログレ女子4コマはそのほとんどがこのマシン。ノートの小さな画面ではやはり操作しにくいですのでwコミPOも軽快に使えます。なっちゃんの持ってるギターは、ハンターマスケットのメンバーでギター職人であるクリス・ジョージのハンドメイドエレキです♪カラーは彼女のイメージカラーであるパープル。
Apr 5, 2017
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今年ジョン・ウェットンと同じ日に亡くなられた元マンのディーク・レナードさん。昨年秋私からの質問にとても丁寧なご返答をいただき、彼のシングル盤でアンドリュー・マカロックがドラムを叩いてた事が彼の証言で確定しました。その際ツイッターでココモJP様よりそのシングルが日本盤で当時出されていた事を教えていただきました。その発売当時の雑誌での寸評がみつかったのでちょいとご紹介♪辛口な評価でメタメタですw まあ音楽評論家なんてものは、個人の趣味主観で飯を食ってる難儀な商売ですから気にしないほうがいいんでしょうね。
Apr 1, 2017
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