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ある夜突然、夢の中に空飛ぶ円盤がやってきた。
まだ空飛ぶ円盤のことを誰もUFOなんて呼んでいないで、アメリカでは
フライングソーサーと呼んでいる頃のことだった。
この夜以来、空飛ぶ円盤はぼくの夢の中に7年間絶えまなくやってきた。
空飛ぶ円盤が飛来するだけではなく宇宙人もやってきて、「やっと
お会いできましたね、間もなくコンタクトが始まります」という
ようなことを言うかと思うと、様々な地球の未来の危機に関する
ビジョンやメッセージを告げてみたり、何度か空飛ぶ円盤に乗せ
られて地球を離れていく夢などを見せられるのだった。
眼が醒めてもこのことが普通の夢とは別のような気がした。
というのも、現実以上のリアリティと至福感があったからだ。
後に現実に彼等によるコンタクトが開始されるのだが、その直接の
原因は、四六時中、ぼくの頭の中が空飛ぶ円盤や宇宙人への想いで
占領されていたことと関係があったようだ。
このような想いがいつの間にか彼等に伝わっていたらしい。
長い時間をかけて調査された結果、コンタクトが開始されるのだが、
ぼくの想いは彼等には「神様のような存在になりたい」というような
イメージで伝わっていたそうだ。
ぼくが神様になりたいなんて大それた気持を抱くはずがないが、
心の中ではいつも自我の支配から自由になって宇宙意識と同化
できるような、無欲の欲が持てるようになりたいと夢見ていた
ことは確かであった。
だからこんなぼくの気持が彼等には、「神様のような存在に
なりたい」というふうに伝わったのかも知れない。
これもそれも実はアダムスキーの『 空飛ぶ円盤同乗記 』を
読んだからである。
この本の存在を知ったのは1967年ニューヨークの知人からだった。
帰国後、出版元から入手して読み始めた。
読み進める従って、紙数が薄くなっていくのが惜しくて仕方
ないほど感動の連続だった。
読書中、ぼくは何度も妻に、この本はぼくのバイブルだ。
ぼくはこの本によって人生が変えられそうだ、いや変わる、
と何度も叫んだものだ。
今でも空飛ぶ円盤が架空のSFの産物ぐらいにしか思っていない
人が沢山いるというのに、28年前は、いわずと知れたことだ。
それ以前の時代に空飛ぶ円盤から出てきた宇宙人と会って
テレパシーで語り合ったり、すでに地球に人間と混じって
住んで、ちゃんと社会生活をしているという宇宙人に誘われて、
空飛ぶ円盤に乗せられて、母船で宇宙人の長老と会見したなど
という人間がいたら、誰だって頭がおかしいと思うに違いない。
そんな非現実的な話を語った本に、なぜぼくがこの現実以上に
現実感を抱いたかということだが、その理由はぼくにもよく
わからない。
ただこの突飛な出来事が、ぼくには突飛に思えなかったのである。
直感的に真実だと認識したのであった。
むしろ、この物語を否定する根拠が、「非科学的であるから」
というなら、人間の存在や、私自身の存在も否定されてしまう
ではないかと思うのである。
ぼくはこの本を頭で読んだわけではない。
肉体によって感じ取ったわけである。
頭は常に何かを拠りどころにして証明を求め続けたがる。
そして感情に常に振り回されている。
だけど肉体は正直である。
肉体の思考は命の根源からきているからウソをつかない。
ぼくはこの本を肉体で読んだのである。
この本を体験することがそのまま空飛ぶ円盤を想い、宇宙人を想う
ことにつながっていたのだ。
こんなぼくの思念を宇宙人がキャッチして、後にコンタクトして
くれることになったのだと思う。
この本の中で宇宙人の一人がアダムスキーに、「私たちは地球人の
ことを、あなた方のだれよりもよく知っています」といっているが、
これは事実である。
自分が知らない自分のことさえ彼等はちゃんと知っているのである。
人類全員、一人一人をくまなく調査しているのである。
いくら宇宙人だってこんなことまでは不可能だと思うのは地球人の
傲慢で、彼等にすれば朝めし前である。
われわれ地球の科学がどれほど進歩しているといったって、彼等の
科学に比較すると、何百年、何千年も遅れているのである。
地球人中心のものの考え方が宇宙人の科学を否定する結果になって
いるのだ。
われわれ地球人には、一人一人の霊性や魂や肉体のことがまだ
わかっていない。
彼等は、われわれ一人一人の霊性や魂のレベルの進化を読みとる
ことができるのである。
宇宙人がアダムスキーとコンタクトしたのは偶然ではない。
彼に個人的な利益を与えるためではなかった。
むしろ、彼にとっては困難な状況や環境にあったかも知れない。
彼に与えられた使命は、彼の無意識がすでに求めていたものと一致
していたと思う。
彼のようなコンタクターは宇宙人の存在を通して、地球人の意識の
進化を促す役割を負っているので、自己を公の場に晒す必要があり、
あらゆる批判や誹謗のターゲットになりかねない。
宇宙人のサポートがあるにしても、それを克服する勇気がなければ、
その目的を達成することは不可能だろう。
この『 空飛ぶ円盤同乗記 』を単なるファンタジーとして読むなら、
この本が内包する貴重なメッセージや意識はあなたには伝わらない。
驚嘆すべき宇宙船の内部の構造ひとつひとつが、われわれの意識を
変えさせるのである。
そしてそのことを受け入れ、喜ぶべきであろう。
この地球科学を凌駕した現実をいちいち疑ったり、議論する人は
もしかしたら不幸な人達といえるかも知れない。
何があっても、何が起こっても不思議なことは何ひとつない、
というような時代にわれわれは住んでいるように思う。
空一面に空飛ぶ円盤が埋めつくすようなことが仮に起こったとしても、
何ら不思議ではない時代にだ。
そんな時代の予感がこの『 空飛ぶ円盤同乗記 』にはある。
なぜアダムスキーがこの本を発表したかということを、われわれは
もう一度しっかり考え直す必要があるようにぼくは思う。
今あちこちでアセンション(次元上昇)がいわれている。
地球も人類もかつてない時代を目前にして、大変革が起ころうと
している、そんな予感が感性の豊かな人達の魂には伝わっている
はずである。
この世紀末意識と、『 空飛ぶ円盤同乗記 』はどこかで深く結びついている。
もしぼくがこの本に、あの時期に出会わなかったことを想像すると
ゾッとする。
この本があっての物種だと、ぼくは現在の自分を肯定するのである。
空飛ぶ円盤が存在するかしないか、どこに現れたか、目撃したかしないか、
というような初歩的なレベルから一歩も抜け出せずに何十年も議論を
繰り返していることが、人間の向上や進歩とどう繋がるというのだ。
たった一冊の本が人生を変えることがある。
十代の頃読んだ、江戸川乱歩や南洋一郎の本がぼくの人格を形成し、
ぼくを創造の世界に引きずり込んだ。
そしてもう一冊、この『 空飛ぶ円盤同乗記 』は人生の半ばでぼくの
魂の形成に大きく関わった。
この本を通してぼくは自分自身を知ろうとした。
またこの本によって、自分自身がバラバラになってしまった。
今までの通念が、ぼくを解体してしまったからである。
このことには、タイミングも伴っただろう。
勿論、精神状態も影響しただろう。
全てが必然によって、ぼくはこの本と出合ったのである。
それを運命と呼んでいいのかどうかは知らない。
だけどこの本によってぼくは、天に存在する者の視線と意識の
ビームを受け続けているという幸福感を実感していることを
考えると、やはり運命的な出合いというしかない。
30年も前(1998年当時)の過去に出た本だが、いまだに未来の
出来事として現実からスポイルされているとすれば、われわれは
大いに反省すべきである。
われわれの知らない次元の、しかも地球や人類にかかわっている
現実が、想像を絶するレベルでこの瞬間にも進行しているという
ことを、頭ではなく肉体で体感しなければならないところに来て
いるはずだ。
自分に起こっていない現実を、非現実や他人事として排除して
いると、アセンションのタイミングから取り残されてしまうかも
しれない。
といって助かりたいという一念が新たな欲望を生み、望みさえ
果たせなくなるかも知れない。
『 空飛ぶ円盤同乗記 』を踏んまえて、眼の前の現実を着実に
肉体的にクリアーし、神秘や幻想のみに逃避しないように
しなければならない。
アダムスキーの体験は確かに精神的かも知れないが、それ以上に
空飛ぶ円盤に乗った、宇宙人と遭遇した、という肉体的な体験を
最優先して考えなければならないと思う。
精神に起こった出来事は肉体に起こった出来事より立派なように
考えがちだが、ぼくは違うと思う。
むしろ、このアダムスキーの体験は肉体レベルでの経験である。
だからこそ、われわれは感動するのではないだろうか。
この本の中で宇宙人は、「触覚こそ他のあらゆる感覚に先行する
叡智そのものだ」といっている。
これこそ肉体の言葉だ。
またぼくがコンタクトしている宇宙人から教わったことだが、
「宇宙人は考えない」という。
では、アホかというとそうではない。
つまり「見ることが考えることである」という。
われわれは他人の言葉を聞いたり、読んだりすることによって
考えを得ようとするが、本当は「見ること」なのである。
芸術は見ることから創造が生まれる。
今日の芸術は考えることから生まれると信じているが、実は
見るという肉体的行為から始まるのである。
そのことをぼくはこの本からも教わっていたと思う。(画家)



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