全31件 (31件中 1-31件目)
1
人間の想像力というのはすごいモノである。想像力と言ってもいろいろあるが、今回は「思い込み」に関することについて書いてみようと思う。 お父さんはタバコを吸うのだが、息子が世間一般の常識である「タバコは体に悪い」「世の中の悪」というのを当然のモノとして受け入れた結果、タバコのニオイへの拒否反応が年々ひどくなってきている。 タバコのニオイどころか、タバコの煙を見ただけで気持ちが悪くなるようだ。こうなると完全に弊害の方が多い。タバコを吸う心配がないと安心していたが、行き過ぎである。 もちろん生まれた時からそうだったわけでは無い。テレビなのか友人との会話からなのか「タバコ=最低最悪のモノ」という認識が強まり、それに触れるどころか見るだけで体調にまで影響するようになってしまった。 通常の紙タバコのニオイが嫌だというレベルではない。電子タバコのニオイもダメである。フルーツのような甘い香りしかしない電子タバコでも、タバコと認識した瞬間から気持ちが悪くなるようだ。ここまでくると一種の精神障害と言ってもよいのではないかと思う。 10年以上前だが、「抗菌グッズ」というのが日本で流行ったことがある。その当時は、ドアノブを触りたくないとか、公衆トイレや共同トイレを使えないとかいう人がたくさんいた。自宅以外のすべてのモノに触りたくないとか、とにかく手を洗いまくるとか、聞いていて頭がおかしいのではないかと思う人が、世の中に存在したのだ。 世の中には抗菌ペンとか抗菌箸とか抗菌シャツとかとにかく抗菌と名のついたものがあふれかえった。この時代に「菌」が気になっていた人は、まさに「菌は悪」という思い込みが異常に高くなってしまった人達だろう。 ある程度常識がある人であれば、「菌」というものから逃れる方法などないということを理解していると思うのだが、「異常な潔癖症」の人たちは自分の体の内にも外にも山ほど菌がついているということを認識できない人種なのだと思う。 手を洗おうと、アルコール殺菌をしようと「菌」をゼロにすることなどできない。ただ本人が納得するかどうかの話だけである。菌の有無ではなく、殺菌(アルコールで拭くなど)をしたかどうかで精神状態が変わるだけであり、極めて非科学的である。 ただし、この手の思い込みは馬鹿にできない。気分を悪くしたり、恐怖症になったりと体調や精神に異常をきたすからである。息子に「思い込みは危険だからやめなさい」と言っても理解ができないようだ。実際に気分が悪くなるのだから「思い込み」ではなく「体質」だと信じて疑わない。 ちなみに「思い込み」が肉体に影響を与えることは、誰にでもあることである。例えば、東南アジアなど日本より衛生観念が低い国に旅行した人がよく経験するのだが、美味しい食事を楽しんだ後に、厨房の汚さや食器をどろどろのため水で洗っている様子を目撃してしまい、一気に気持ち悪くなるということはよくあることである。精神が弱い人だとそのまま嘔吐してしまう。厨房など見なければ、「美味しかった」で終わっていたのに、見てしまったために起こる悲劇である。「汚いモノを食べてしまった」という思い込みが嘔吐にまでいってしまうのである。 お父さんも飼い犬のフンのニオイを嗅ぐと「オエッ」なる。だがこれもおそらく「フンのにおい=臭い」という思い込みからだろうと思っている。人間よりも嗅覚が何万倍も鋭いと言われる犬は、自分のフンに限らず、散歩に行けば他の犬のフンのニオイも普通にかいでいる。犬にとってみれば、「フンのにおい」であるだけで、「臭い」「汚い」という思い込みが一切ないからだと思う。 お父さんは子供が小さい頃、おしっこをしたおむつは普通に交換していたが、うんこをしたときのおむつ替えは本当に苦手だった。お母さんに文句を言われながらも、ほとんどお母さんにやってもらっていた。お父さんは「オエッ」となるのが止まらなかったのだが、お母さんはそうはならなかった。これが大人のモノならお母さんも「オエッ」となったとは思う。自分の子供のモノだから「汚い」とか「臭い」という意識がなかったのだろう。 思い込みが強い人は、ある意味精神的に弱い人だと思う。まず自分で自覚できないと治ることはないだろうが、自分の家族にそういう人がいると、非常に心配になる。
2024.03.31
コメント(0)
前回のブログで、あるマンガから影響を受けた話を書いたが、今回もその続きである。現代社会はゆがんでいるとお父さんも日々感じているが、それをわかりやすくマンガとして楽しめるストーリーの中で語ってくれている。反対意見も多々ある問題作だとは思うが、興味があれば「KAKERU」のマンガを読んでみるのはいいと思う。 さて前回の続きに戻ろう。このマンガでは性描写が多いこともあり、性や男女の生物としての在り方と、人間社会が作り上げた常識のギャップもよく出てくる。 少子化問題を訴えながら、女性の社会進出を促し、子供を産む最適年齢を過ぎた後に結婚した男女が、不妊治療にお金をかける。第1子を30歳で生むのと20歳で生むのとでは、そのあとに生む子供の数には変化が出るだろう。だが、若いうちに生んだ方が良いとは、今の世の中では絶対に言ってはいけないことである。公式に立場ある人が言えば間違いなく糾弾されるし、有名人がSNSでつぶやいただけでも炎上する。だが、統計を取ればおそらくきっちりと真実として違いが出てくることだろうと思う。 話は少しずれるが、最近のライトノベルやそのコミカライズをよく読むが、異世界へ転生する話がとても多い。それも世界史で言う中世の封建国家の世界である。身分制度があり、奴隷がいる場合もあるし、現代的な価値観のない世界である。そこで現代の価値観である基本的人権や表現の自由、男女平等などを使って人望を得るパターンをよく見かける。 勧善懲悪で話が進む子供向けや爽快感だけを求める大人向けである。人生の深さなどそこにはない。正義と悪との戦いである。 もしお父さんが実際に同じように中世の世界に転生して、主人公と同じことをしたら、すぐに生きていけなくなるだろう。 奴隷という制度が常識的にある世の中で、奴隷に人権を認める行為をすれば、犯罪になるかもしれない。レストランに奴隷を連れて行って、席に着かせて一緒に食事をするという行為は、現代で言えば、家畜を無理やりレストランに連れてきて、食事をさせるのと同等の行為であるからだ。お父さんがレストランに牛や鶏を連れて行き、席を用意させて食事をすることをレストランに求めれば、追い出されるか警察を呼ばれることだろう。 人種差別も男女差別も身分制度もすべて同様であるとお父さんは思っている。世の中の進歩とともに世界の常識が変わっている(というより作られている)だけで、その時代にいきなり数百年後の価値観を持ち込んでも無駄である。まあ小説やマンガにそこまでのリアリティを求めるのは無粋であるし、現代の価値観を知っているお父さんはその小説を楽しむことができるのは確かである。 ちなみにお父さんはアメリカで3年過ごした経験から、人種差別は制度上で無くすことはできても、心から消すことはできないと思っている。今の価値観は産業革命以降に世界を席巻した欧米人が最も上となっているが、この順位はアジアやアフリカと入れ替わるかもしれない。と言っても数百年はかかると思うが。 だが、人種間での差別は混血として融合が進み、人種での差異が物理的に消えない限り無くならないだろう。なぜなら、生物は自分と異なる身体的特徴があるモノを自分と同じとは考えないからだ。 お父さんはアメリカに3年住んだが、本能的に人種の違いを感じ続けていた。ところがアジアで外見が同じ外国人にはその本能的な違いをあまり感じたことがない。アジアで感じるのは、文化的違い、習慣の違い、思考の違いぐらいである。 おそらくアメリカでお父さんとあっていた人も、本能的な人種の違いは感じていたと思う。先進国のミドルクラス以上の人としか付き合っていないので、差別的な扱いを受けることは少なかったが、それでも街中で生活している中では、いろいろと差別は受けてきた。あまり気にしないで生活していたのは、自分の方が社会的には上だという優越感があったせいだと思っている。 社会的価値観はこれからもどんどん変化していくし、行き過ぎれば揺り戻しもあるだろう。LGBTERの問題などは、いつか逆になる可能性は十分にあると思う。これも人種差別と同様に、人間が本能的に感じる嫌悪感を制度で抑えるものであるからである。 お父さんが有名人であれば、このブログの内容だけで社会的制裁を受けることになるようなことを書いたが、言論の自由よりも社会正義が優先される今のいびつな社会的価値観が長く続くとはあまり思っていない。
2024.03.30
コメント(0)
お父さんが最近読んでいるマンガの中に「KAKERU」とうい作者のマンガがある。最初は何かの書評で「面白い」とか「おすすめ」となっていたので、軽い気持ちで電子書籍の1巻を購入して読んでみた。現在3種類のマンガが刊行されているが、どれも内容は異世界に飛ばされて限られた条件(電気や内燃機関を使えない)でのサバイバル生活をテーマにしているが、とても面白いと思った。と同時に結構衝撃を受けた。 我々は、テレビや映画で見たものを、現実として勝手に認識しているということがよくわかる内容だ。例えばフィクションの世界で、戦闘シーンでは切られたり、刺されたり、撃たれたりすると、割とあっさりとその場で倒れて銭湯不能になるのだが、実際には脳を吹き飛ばされたりしない限りは、たとえ心臓を刺されたとしても人はしばらく動くことができるようだ。 考えてみれば、お父さんは剣道を子供の頃やっていたのだが、「残心」という言葉をよく言われていた。打ち込んで一本をとっても、「残心を示す」ことが不十分ではいけない。では残心とは何かというと、相手の反撃に備えることである。打ち込んだ技がきれいに決まったとしても、素早く相手の反撃に備えて体勢を整えなくてはならないのだ。 これはまさに剣道ではなく、真剣で戦うことを前提とした剣術の心得が残ったものだと思う。本気の切り合いでは、深手を負ったとしても体が動く限りは攻撃を続けるのは普通にあることだろう。残心をおろそかにすれば、切った相手からの最後の反撃を食らう可能性がある。 さて前置きが長くなってしまったが、今回お父さんがこのマンガで衝撃を受けたのは、社会的価値観は「つくられたもの」であり、不変の原理ではないということが書かれてあることである。 極端に言えば、「基本的人権」というのは、日本国憲法で保障される「人が生まれながらにして持っており、誰からも侵されない権利」であるのだが、これも人間がそう決めて作ったものである。人は自由であり平等でなくてはならないと今の価値観ではなっており、例えば中世の身分制度や男女差別などは基本的人権を尊重しない非道な行いとなる。 一夫一婦制にしても、人間が決めたルールであるし、マナーやルール、法律も含めてすべて人間が「こうすることが正しい」と決めたものである。現代人、それも先進国で当たり前にある倫理は多くが人間の本質でも神が決めた掟でもなく、人間が「これが常識」と作り上げてきたものというのが、このマンガの中で随所に出てくる。 自分たちの作ったルールに自分たちが縛られているというおかしな構造を当たり前に思って過ごしているということが書いてある。 人によっては嫌悪を覚える主張であるだろうが、お父さんにとっては目からウロコが落ちる思いだった。まさにその通りだなと感じたからだ。性的、暴力的な表現などを言って年齢以下には見せないルールなどがあるせいで、「性も暴力も悪である」と老若男女が思う世の中になっている。よって、今の時代に生まれた子供達は、深層心理にこれらを悪として抱えることになり、自分の人生から遠ざけていく。 抑圧された状態を続けていくので、耐えられなくなると爆発した感情による行動によって、犯罪にまで発展することがある。ここまでマンガに書いてあるわけでは無いが、非常に現代社会にひずみをマンガを通して訴えていると感じている。 子供達にも読ませたいのだが、性描写が結構露骨なので、親が進めるべきか少し悩んでいる。この悩み自体が、このマンガで主張する現代のゆがみではあるのだが、理解するのと行動するのには大きな違いがある。
2024.03.29
コメント(0)
先日会社の代表として、無理やりに地元県議会議員の報告会というのに出席させられてしまった。お父さんにも自分の仕事があるのだが、出張中の社長の代理に指名されたのだ。県議会議員の県政の報告など聞いていても寝てしまうのではないかと、それを心配して仕方なく出かけた。 会場について驚いたのだが、想像を超える後援会や支持者が集まっており、公式に発表されたわけでは無いが、300人ほどいるとのことであった。コロナ以降、一番混雑した地元のイベントとなってしまった。 さて、主役の県議だけでなく、来賓には県内の同じ会派の県議をはじめ、市議もいたが、地域の国会議員も来ていて挨拶をしていた。 出席者の中には地元の有力企業の代表者などがたくさんいたので、居眠り姿を見せるわけにはいかない。少し緊張して話を聞いていたが、政治家の話のうまさに驚くことになった。 内容はそれほど面白いものではないのだが、国会議員の挨拶などは、よどみなくとてもわかりやすい言葉で構成されており、聞いていて気持ちよくなるほどだった。県議会の議長なども来ていたが、やはり話がとても上手だった。人に自分の話を聞かせる話術をしっかりと勉強しているのだろうと感じた。 市議会議員になると、さすがに下手だなあと思う人もいたが、後援会の企業の代表の話が一番下手くそだったかもしれない。 政治家は自分の話を聞いてもらうところから議員への道が始まるのが普通だ。たとえ親の後を継いで出馬するにしても、支持者を得るためには話を聞いてもらわなくてはならない。さらに言うと、目新しさのないありふれた公約を、この人はすごい人だと思わせるように話す必要がある。 今回の議員のあいさつや報告を聞いていて、政治家は話術のプロであると本当に感心してしまった。自分にも同じような話術があればとあこがれるほど素晴らしかった。大した内容でもないのに、あそこまで聞かせる技術は一朝一夕では不可能だろう。 国会答弁でしどろもどろな人をニュースなどで見ることがあるが、あれは役人が作った答弁書を読んでいるからであり、自分の言葉でつづった話であれば、きっと上手に話ができるのだろうと思う。 政治家を、というより政治家の話術というものを思い知る大変貴重な機会であった。
2024.03.28
コメント(0)
先日ある問題が会って次女の学校の先生との話し合いに参加した。学年主任の先生に立ち合いをお願いして担任と部活の顧問の先生との話し合いだったが、学校の先生というのも大変であるとしみじみと思った。だがそれと同時に、プロ意識がないまま先生をやっている人もいるのだと感じてしまった。 問題の内容は詳しく書けないが、一つは問題のある生徒ヘの指導ができず、被害を被っている生徒へ我慢を強いるという担任の対応がかなり問題視されていた。問題の生徒は、精神的に疲労すると登校しなくなるようで、不登校改善のために通常の生徒に我慢をさせるという行為を担任が続けていた。問題のある生徒にきちんと指導をすると不登校になってしまうという恐れからくる行動だ。 気持ちはわかるが、公平でない行為を続けていれば、一般生徒からの不満はどんどんと募っていく。子供なので、同級生をはねのけるということができないことが多く、やはり担任に相談をするのだが、日に日に担任への苦情が増えていったようだ。 その結果として、担任は一般生徒を悪として、「お前たちが悪いのだから、我慢をするのは当たり前」という到底受け入れがたい指導に変わってしまい、今回問題化したように思う。さすがに授業中にちょっかいを出されたり、大声で悪口を言われる行為をされて、「原因はやられた側にある」と言われても、受け入れられる訳がない。子供から親に伝わり、一気に問題化してしまった。 担任はまだ新任で3年目という状態で、経験も少なければ、直接見た印象では先生という職業に憧れてなった人ではなく情熱もあまりないと感じた。今回の騒動で、変化はあると思うが、前向きな変化はあまり期待できないと感じた。 学年主任の先生がじれて代わりに話をするほどには、頼りない印象であった。 部活の顧問に関しては論外であった。こちらは先生によるいじめ、もしくはパワハラと認定されてもおかしくない行動をしていた。一部の部員の悪口を他の部員に吹聴したり、自分の機嫌が悪ければ、通常通りやっている部活動の内容にいきなり文句を言うような指導をしていたらしい。 極めつけは自分が気に入らない生徒を呼び出して、退部届を無理やり書かせようとしたことだ。さらに裏工作でその子の悪口を他の部員に吹き込み、「皆が迷惑しているから辞めなさい」と迫ったようだ。 この先生に関しては部活顧問からの退任を要求されていた。まあ当然の成り行きだろうと思う。さすがに「今後は気を付けます」では済まないだろう。 問題の先生が来年からどういう状態になるかわからないが、もう少しプロ意識を持たないと、これから苦労するだろうと思う。学年主任の先生はお父さんと同年代だったが、さすがにしっかりしていると感じたのだから。
2024.03.27
コメント(0)
世の中には行列ができるお店というのが多々ある。ほとんどが飲食店である。お父さんの住む町にも行列のできるラーメン屋やそば屋がある。平日はよくわからないが、週末には開店前から行列ができている。 お父さんは普通の人と同じように、並んで待つことがあまり好きではない。好きではないのだが、食べることは大好きなので行列ができるお店ならば、きっとおいしいだろうと1度は並んで食べてみることが多い。 出張先などではなかなかできないが、自宅から車で行ける範囲であればこれまでいろいろと並んで食べてきた。そして結論から言ってしまうと、お父さんにとって行列ができるお店にもう一度行きたくなる確率は10%未満である。不味いと思うことは少ないが、もう一度並んでまで食べたいと思う店は非常に少ない。 学生で体力と時間があるならともかく、今は歳をとって立って並んでいるのも疲れる。それでも並んで食べたいと思わせてくれるお店は、頭に思い浮かぶ分だと3軒しかない。 お父さんも行列ができる店は気になるのだが、開店の1時間以上前から並ぶという経験はしたことがない。ところがお父さんの周りには、行列ができる店と聞くと数時間前から並ぶことができる人がいる。それが義母だ。 先日も東京で、行列ができる羊羹のお店に開店2時間前から並んで買ってきてくれた。食べてみたが、普通の羊羹との違いはそれほどない。良い材料を使っていることがよくわかる味ではあった。 しかしながら、素直な感想を言う訳にはいかない。義母が早朝から並んで購入してきてくれたのだ。それほどでもないと言ったら悲しむだろう。そもそも義母が行列に並ぶ店はお持ち帰りができて我が家などに発送できるお店にしか並ばない。つまり自分の為というよりは、他人の為に並ぶ人なのだ。単純に「喜んでもらおう」と思っているのが長い付き合いなのでよくわかっている。 お母さんは実の娘なので「やめろ」と言えるが、お父さんは義理の息子として義母が並んでまで買ってくれたものを、行為を含めて否定することはできない。義母は常に人を喜ばせたい人なのである。 ちなみにこういうおもてなしの返礼として、お母さんの実家に何かを送ると、また何かしら返ってくる。昔はさらに何かを送り返していたが、今は一回でやめている。こちらが止めないといつまでも続くことを学習したからだ。 行列に並んで、うちの家族が喜んでくれるだろうと頑張ってくれている義母には感謝しかないが、だんだん年齢も上がっているので無理はしないでほしいとは思う。
2024.03.26
コメント(0)
先日仕事で遠方から大学教授に来社してもらった。その時に一緒に行動した大学院生が、お父さんをいろいろと驚かせてくれた。今回はそのことについて書いてみようと思う。 2日間の日程で打ち合わせをするために来社してもらったのだが、初日ですべて案件が片付いたので、2日目はお父さんが2人に地元の観光地を案内した。といっても東北の田舎にそんなに観光する場所があるわけでは無い。特に3月はまだ雪が残っている季節である。夏であれば少しは楽しめる場所も冬に行くところではない。 結局お寺と酒蔵を案内して、昼食にそばを食べてもらい電車に乗せることにした。最初に訪れたお寺は、昔ながらのお寺で本堂以外にいくつかのお堂が建っている。お父さんと大学教授はもう20年以上の知人なので、それなりに気を使いつつも仲良く話ができるのだが、学生は初めての「接待」で少し緊張していたのかもしれない。 まず驚いたのが、お寺でお参りをしたのだが、学生さんはお賽銭も出さず、手も合わせずで我々2人がお参りするのを見ていただけだった。文殊菩薩のお堂があったので、頭がよくなるようにと50歳を越えたおっさん二人が手を合わせる中、学生さんはやはりただ見ているだけだった。 おみくじを引いた時も、学生さんは「引かない」と拒絶していた。社会人ならば、接待を受ける側もそれなりに気遣いはするので、お参りもきちんとするし、おみくじもノリで引いてくれる。だが彼は頑として拒絶し続けた。 そこでお父さんはある可能性に気付いた。ひょっとすると特定の宗教の信者なのではないかと。宗教によっては他の宗教にお参りすることを否定しているモノもある。もしそうだったならお寺を案内したのは選択ミスだったと思ったのだ。 思い切って本人に聞いてみたが、「そなことはないです」とすぐに否定された。教授も同じ思いがあったようで、「どうして手も合わせないのか」と聞いたら、「財布を車に置いてきたので、お賽銭がなかった」と答えた。お賽銭がなくても手を合わせて祈ることぐらい問題ないのにと言うと、そうなんですかと淡々と答えるだけだった。 お父さんと1対1ならお金を貸してとは言えないだろう。でもいつも一緒に研究室にいる自分の先生になら、財布を置いてきたことぐらいは言えるだろうと思うのだが、今はそんなことを言うこともできないのかと不思議だった。 酒蔵を見学したときは、おかしな言動があったわけでは無いが、とにかく無表情で、楽しいのかつまらないのか発言もしないので謎のままだった。 最後にそば屋で食事をしたのだが、ここでもお父さんにとっては衝撃的なことが起きた。田舎のそば屋なので量が多い、さらに大盛が無料なので、3人ともざるそばの大盛を頼んだ。ところが届いたそばは想像よりはるかに多く、且つそばつゆがそばの量に対して少なかった。 当然食べているうちにそばつゆが無くなってしまい、お父さんと教授はそばつゆを追加で頼んだ。店の人も普通に追加で持ってきてくれた。 学生の彼も同じ量を食べていたので、そばつゆは大丈夫かなと思っていたのだが、普通に食べていたので、上手につゆを使っているのだと勝手に思っていた。 結局お父さんと学生さんは大盛を食べきったが、教授は食べきれずに学生さんに残りを食べてくれるように頼んだ。断るかと思ったら以外にあっさりと受け入れて、教授が残したそばを食べ始めたのだが、そこで教授が「つゆはまだあるのか?」と尋ねた。 そして答えは「とっくに無くなっています」だった。目の前でお父さんも教授もそばつゆを追加しているのに、彼は追加を頼むより、つゆ無しで食べることを選択したようだ。 ところが驚いた教授が店員につゆの追加を頼むと、普通に受け取って食べ始めた。緊張していたという話ではなく、単純にコミュニケーションを誰かととるのが嫌いもしくは苦手なのだろうとようやく思った。無表情でいるのも話しかけられないための手段の一つなのだろう。 最近はこういう人がいても、周りも普通に受け入れるのだとお父さんは思い知った。でも社会人になったら苦労するだろうとは思う。 子供たちがよく、知らない人と話すのが苦手というが、そんなのはほとんどの人が苦手である。それでも必死で会話するのが人間の常識だと思っていたのだが、どうも今は常識ではないようだ。場の雰囲気がかえって悪くなっても会話しないことを選ぶ人がいるようだ。我が家の子供達は大丈夫だろうか。
2024.03.25
コメント(0)
社会人として会社に入社して理想と現実が異なるのはよくあることである。思っていた仕事と違うとか、やりたい職種や部署に行けなかったという悩みはごく当たり前に存在する。それでも理想と違う環境で頑張る人と、理想を求めて転職する人がいるのも普通の事である。 就職する学生に焦点を当てて、理想の会社を選び採用されるにはどうするべきかを指南する本や就職あっせん業者はたくさんある。それだけ需要があるのだろう。 しかしながら、会社側にも同じように、「新入社員が思っていたのと違う」と感じていることを理解しているだろうか。就職活動というのは、自分を以下にアピールするかが大事である。特に面接では、会社によってさまざまな質問をしてくる。ウソを含めてでも自分をアピールすることは、就職活動の必須の能力ではないだろうか。 ところが、そうして入社した会社から「こんなはずではなかった」と思われる人が一定数いるのは事実である。お父さんも選考する側になって久しいが、自分が採用を強く推した人が、社内での評価が低いということは珍しくない。もちろんお父さんに人を見る目がなかったというのが大前提だが、どうして評価してしまったのか原因がわからない。お父さんをだますほど能力があるのなら、仕事の能力もあるのではないかと思うのだが、そう簡単な話ではないようだ。 どこの会社でも、このように採用を決めた人が期待したパフォーマンスができないということは問題になっている。そのため、採用担当者のセミナーというのも存在している。どうやってできる人を見抜くかのセミナーである。 しかしながら、こういう話はあまり世の中で出回らない。おそらくそんなことで悩んでいると外に漏れると、「ダメな人がいる会社=良い会社ではない」と思われるからだと思う。 就職活動も採用活動も、すべて本音だけでできるわけでは無いのだが、虚飾された部分が大きすぎると双方にとって不幸な結果となってしまう。ではどうすればいいのかと、簡単に答えが出るようならとっくにやっているだろう。 採用担当をすると、どんどん人間不信になる人がいるのだが、気持ちはよくわかる。
2024.03.24
コメント(0)
日本語とは、他者との対立を避けるように様々な言い回しが使われる言語である。断定をしないで、遠回しに言うことができないと一人前の大人とは言えないだろう。それができないと良好な人間関係を保つことができなくなる。 しかしながら、最近は婉曲した表現が理解できない人がかなりの割合で増えているとお父さんは感じている。日本語で「ちょっと考えさせてください」とか「それは難しいですね」と言われたら、それは拒絶であるのだが、「考えて結論を出して回答をもらえる」「難しいけれどできないわけではないので実行してくれる」ととらえる人は意外に多い。 本来なら理解してほしいと思うが、字面をとらえるだけならば、理解できない人を責めることはできないかもしれないと、最近思うようになってきた。 そのため、仕事では間違いが起きないようにはっきりと断定するように心掛けている。業務の指示や回答を婉曲的に伝えると、問題が発生する可能性があるためだ。 先日仕事の依頼があった時に、珍しく社長がお断りのメールを入れた。付き合いの長いお客さんだったので、社長自ら丁寧な言葉でお断りをしたのだ。 ところがその顧客から、先日の依頼の回答がないと連絡が来てしまった。時間がないのでWEBで直接話がしたいと要求され、結局WEBでの打ち合わせの結果、今度は社長が「やる」と言わされてしまった。現場としてみれば実に迷惑な話だ。 お父さんの会社の社長は、頭の良い人で、特に文章力に関しては社内で勝てる人はいないだろうと思う。それぐらい社長が作る文章は「日本語」としては丁寧できれいである。 しかしながら、ビジネスでのやり取り、特に交渉関係では社長の作る文章は「何が言いたいかよくわからない」ということになってしまっている。会社の目標なども文章がいろいろと修飾されていて、受け取った社員が戸惑うこともある。 業務の指示や目標は、「明瞭簡潔」が必須である。交渉においてもあいまいな表現は相手に隙を与えかねない。特に拒絶に関しては、はっきりと伝えるべきである。一般的な日本人はこれがものすごく苦手である。 お父さんの会社でも、ベトナムで「あいまいな表現」をすることで社内に意思が伝わらずに問題が発生するということがよくある。 ちなみにお父さんは、わからない時に社長に「こういうことでよいですね」と明瞭簡潔にして確認を取るので、よく社長からも上司からも怒られている。特に怒られるのが、「わざとそこをあいまいな表現にしたのに」となるときだ。 お父さんの性格もあるのだろうが、「よい」「だめ」「やる」「やらない」などははっきりしないと安心して仕事に取り掛かれない。だから、何度怒られても今のところ「はっきりとした回答を求める」ということを止めるつもりはない。 人間関係を円滑にするための言葉の技法が、かえって仕事の円滑化の障害になっていることは多い。どちらが正しいと断言ができないので、今のところお父さんは自分の信じる明瞭簡潔型で行くしかない。
2024.03.23
コメント(0)
先日、長女がお父さんの父親(今回は娘の祖父ということで祖父で統一して書く)に会った際に、「時代を見る目を養うことが大事」「時代を先取りするとともに、時代に合わせた能力を身につけて、生き方や働き方を模索する」という話をされていた。 お父さんは隣で聞いているだけだったが、祖父の言うことは正しいとは思った。しかしながら、現役時代はともかく今の祖父は全く時代についていけていない。先見の明のどころか、現状にも対応できていないのだ。 仕事をしていた人に顕著にみられる傾向だと思うが、現役を引退して仕事を市内生活になると、ほとんどの人がその時点の価値感やその他の時代感覚も一緒に止まってしまうように感じる。 例えば祖父は高度経済成長やバブル時代を現役世代として経験している。そのために不動産は安定安心の資産という考え方が強い。しかしながら今は大都市はともかく、地方は深刻な人口減少に悩んでいる。駅からの徒歩圏であっても空き店舗や空き家がある時代に、不動産が安心資産とはとても言えない状況である。 時代に大変革をもたらしたスマートフォンに関しても、祖父は使いこなすことができていない。電話としての機能以外にカメラ機能を使っているに過ぎない。LINEなどで画像のやり取りすらできないので、いまだに撮影した写真はプリント(写真屋で現像)して渡される。 ネットでの物品の購入もできないので、テレビ通販や雑誌の通販でモノを購入している。今の現役世代は、出張時に電車の切符も宿泊ホテルもネットで購入してしまうが、祖父はそれができないので常に駅の窓口や電話でのホテル予約をしているが、実際はそれもできずにお父さんなどに頼んでくる。スマホのMAPも使えないので、目的地にたどり着くのにかなりの労力を要しているようだ。 英語ができないことに劣等感と不便を多く感じてきた人生だったため、孫たちに英語を勉強するようにと常に言っているが、スマホの翻訳アプリを使うだけでも今の現役世代は英語ができないながらも海外出張をこなしていることを理解できない。 もちろん英語ができることに越したことはないが、あと数年でAI翻訳機能がかなり実用化されるとお父さんは予想している。試してはいないが、サムソンの新型スマホは音声を自動翻訳して会話できる機能がすでについていると聞いている。 祖父は常々「時代を見る目はその人の能力に依存する」と言っているが、お父さんはそれに「時代の流れの中でもがいている(仕事をしている)人でなければ時代を見る目を養うのは難しい」と付け加えたい。 10年先の世の中に祖父と長女のどちらが対応できるかと言えば、間違いなく長女の方だろうと思う。どんなに過去の経験があったとしても、未来への対応能力はその中で必死で生きている人の方が上である。
2024.03.22
コメント(0)
現在お父さんの父親は83歳である。まだまだ元気で大きな病気もせずに生きているが、ここ1年ぐらいでかなり脳の老化が進んできたように思う。過去の記憶はかなりあいまいになっていたり、事実と異なる記憶が発生したりしているのも気になるが、午前中に行ったことを夕方には忘れているということも多い。 何かを朝頼まれたからと夕方対応すると、「そんなこと言った?」という言葉が返ってくることがある。本人もボケてきている自覚があるので、不安そうになっている。 脳だけでなく、いろいろな部分が老化しているが、本人が気にしているので今は指摘しないようにしている。 車の運転なども、視野が狭くなっている上に、判断力、対応時間なども悪化しているので、本来なら運転をさせたくはない。もし人身事故など起こしたら「高齢者ドライバーがまた事故をおこした」というニュースになるだろうし、運転を許容していた家族も非難されることだろう。 しかしながらお父さんの父親の住むところは、バスもなくタクシー会社もない。歩いていける範囲にスーパーも病院もないので、車に乗らざるを得ない場所である。どうしても体が動くならば車を運転しないと生活ができない。悩ましいところである。 最近はいろいろな動作も遅くなってきている。たまに一緒にゴルフに行くことがあるのだが、ゴルフが終わって入浴した後、着替えるのにひどいと30分ぐらいかかっている。ズボンをはいたりするのに時間がかかるというよりも、ズボンをはこうとしてから実際に泊までに時間がかかっている。はこうと思ってから実際にはくまでの間に別の事をしたりするのだ。要は集中して行動することができなくなっている。 話をしていても、同じこと何度も繰り返して話すのは当たり前で、最近は話が別の話題に突然飛んだりするし、話が飛んでしまえば元の話に戻ることはほとんどない。言いたいことを整理して順番に話すということもできなくなっている。 お父さんは現在51歳なので、父親とは32歳の差がある。父親が明らかに老化が進んだと感じたのが3年ほど前なので、お父さんも30年後に生きていれば、おそらく同じような状態になるのだろうと思う。 先日父親に会いに長女を連れて行ってきたが、長女にはあらかじめ「おじいちゃんがおかしなことを言っても、訂正や突っ込みをするな」と伝えておいた。帰りの車の中で、やっぱりおかしいと思うか聞いたら、長女は無言でうなずいた。やはり以前とは違うと感じてしまうようだ。 ただ長女には、お父さんもお母さんも長生きして80歳にもなれば同じようになる。そのうちに長女自身も同じになるのだから、人間はそういうものだと思っているようには話した。 お父さんも祖父母の老いていく姿にショックを受けた経験があるので、長女を含めて我が家の子供達も今後少なからずショックを受けるのだと思う。90歳を越えた祖母にお父さんが会いに行ったときは、すでに祖母はお父さんが誰なのか理解していなかった。その後、面倒を見てくれていた叔父叔母から、「覚えていない人が来ると、祖母も少なからず落ち込むので、会いにこないでくれ」と言われた。次に祖母に会ったのは「亡くなった」と連絡が来てからである。祖母はちょうど100歳だった。 現在父親は一人暮らしをしているので、何とか健康を保ちつつ、脳にも頑張ってもらいたいが、ここからの老化は加速度的に進むのだろうとは覚悟している。
2024.03.21
コメント(0)
お父さんは家を建てた時に神棚を作った。それまでは借家だったので神棚は無く、毎年参拝している神社のお札は、父親の家の神棚に置かせてもらっていた。小さな借家に5人暮らしだったので、簡易的な小さな神棚ですら置く場所がなかったからだ。 新築した家の神棚は少し大きめに作ったつもりだったが、いろいろと社やお札を置いてみるとすぐにいっぱいになった。その中でも結構幅を取るのが榊を活けている花瓶である。最初は神棚用の小さな白い花瓶を使っていたが、榊というのはかなり水を吸う植物であるようで、すぐに水が無くなり枯れてしまう。 そんなわけで大きな花瓶を購入して神棚に置いたのだが、今度はかなり場所を取るようになってしまっている。 毎月1日と15日に榊を取り換えているが、不思議と15日で榊はかなり枯れてしまう。水はきちんと入っているのだが、それだけではダメなようだ。調べると長持ちさせるには毎日水を変えると良いと書いてあったが、大きな花瓶を毎朝神棚から出して水交換をするのはかなり面倒なのでやる気がしない。 お父さんの会社のベトナム工場にも神棚があるのだが、ベトナムには榊がないのでレプリカの榊を飾っている。水交換も榊の取り換えもいらないのでとても便利ではある。ベトナムでは榊が手に入らないという正当な理由があるので、レプリカを飾ることに罪悪感もない。 何度か自宅の神棚もレプリカに変えてしまおうかと考えたのだが、何となくズルをしているような気がしていまだに生の榊を飾っている。 何とか理由付けをしてみようと思って、どうして神棚に榊を飾るのかを調べてみた。正当な理由は見つからなかったが、神の世界とこの世の境におくので「境の木」が「さかき」になり、漢字を創作して「榊」になったということが書いてあった。 また榊は一年中緑色の葉を茂らせる常緑樹で、つやつやした葉と葉の先端がとがっていることが特徴との事。確かにそのとおりである。昔から神聖な木とされていて、神棚では神棚に飾るのは、神様の依り代になるとも書いてあった。 やはり飾らないよりは榊は飾った方が良いようだ。 神社の神主に聞いたという話もあったが、神様は神棚に祀るだけでも良いことなので、榊がレプリカでも大きな問題ではないという。形式より心が大事であるようだ。ところが「そうはいっても」と思う気持ちがまだぬぐえていない。 まだしばらくは本物を飾ろうとは思う。冬は夏に比べるとまだまだ榊がもつので。夏になって榊の痛みが早くなった時にもう一度検討してみようと思う。
2024.03.20
コメント(0)
お父さんの父親の家には神棚と仏壇がある。まあ普通の事ではある。しかしながら最近父親が高齢になり、物忘れなどがひどくなっている。仏壇では大きなろうそくを使い、拝むときだけ火をつけて、すぐに消していたのだが、数年前から消すことを忘れるようになっていた。消すのを忘れると、ろうそくが大きいので溶けたロウが燭台に落ち、それがあふれて仏壇が大変なことになる。それが何度も発生した。 そのため、数年前に仏壇のろうそくは電気式にして一日中つけっぱなしにしても、危なくないように対策を取った。ご先祖様も特に文句は言わないだろうと思う。 仏壇は対策をしたが、神棚の方は30分で燃え尽きる小さなろうそくを使っていたため、消し忘れるということはなく、燃え尽きて終わりなのでそのままになっていた。 しかしながら最近は手元が来るようになっていて、よくモノを落としたり倒したりするので、やはり神棚のろうそくも危ないと思えるようになっている。さらに言うと、地震などがあって、ろうそくが倒れるという状況も十分考えられる。 高齢でなければ、自信の後すぐに神棚のろうそくを確認することができるが、やはり高齢になると、数分前に何をしていたかなどの記憶があいまいになってくる。まだまだ普通に生活もできるし、会話も問題ないのだが、年々脳の機能も身体能力も衰えてきている。 そこで神棚も電気式のろうそくにすることにしたのだが、神棚にはコンセントがない。延長コードでつなぐこともできなくはないが、高いところにある神棚までコードを持っていくのはかなり面倒くさいし見栄えも悪い。 仕方がないので先日電気屋さんに工事をしてもらい、神棚の中にコンセントを設置してもらった。 以前の父親ならば、お金をかけて工事をするぐらいなら、普通のろうそくを使うと言い張っただろうが、最近は自分でも自信が内容ですんなりと工事を受け入れた。 というわけで、今では仏壇も神棚も電気のろうそくに変わった。電気のろうそく(LED)は発熱も少なく、倒れたままでも火事の心配がない。 これは良いとお父さんも、自宅の神棚を電気式に変えることにした。もちろんお父さんの家の神棚もコンセントは無い。しかしながらネットで検索すると、電気式のろうそくはコードタイプと電池タイプがある。電池タイプは電池交換が必要ではあるが、切れたら電池交換すればよいので、お父さんは電池タイプを購入した。さらにタイマーで7分ほどで自動消灯するタイプなので、消し忘れて電池を消耗することもない。 電池式のろうそくに切り替えてから、火事の心配がなくなりとても安心できるようになった。我が家はキッチンのコンロもIHなので、火は使わない。毎日火を使っているのは神棚、そして冬場の石油ストーブぐらいである。こちらは基本的に地震では自動で消火してくれる。またカセットコンロが火を使うが、こちらは食事の時に使うだけで、消し忘れの心配はない。我が家が火事になる確率はかなり低くなったと言えるだろう。 電気ろうそくの欠点は情緒が無いことと、本物の火に比べて照度が低いことだ。それさえ我慢すれば、得られる安心はとても大きい。
2024.03.19
コメント(0)
運をよくしたいとか運がいい人になりたいというのは、人間の共通した願望であろうと思う。お父さんも運がいい人になりたいが、実はすでに自分は運がいい人だと感じているので、そこまで強烈に運を求めてはいない。 数年前に「引き寄せの法則」というのが世の中で流行ったが、「夢などを実現した自分を想像することで、実際にそれが現実になる」とういのが趣旨だったと思う。当時ネット上でも本屋などでもその手の話題があちこちに見られた。 お父さんはオカルトチックな話が意外と好きなので、ネットで内容を確認したりしていたが、引き寄せの法則を使って成功したという経験は出来なかったように思う。 さて、運を引き寄せると書いたが、ここで言う運というのは「宝くじで高額当選する」とかいう運の事ではない。人生がスムーズになり、結構幸せな人生だなと感じることができる生き方を運と言っている。 お父さんは「運」というのは、自分がやってきたことに対する結果だと思っている。因果応報、情けは人の為ならずである。 なぜ今回このことを書いてみようと思ったかと言うと、最近同僚や部下に「なんでこんな態度をするんだろう」という人の言動を多く感じたからである。お父さんから言わせれば、彼らは確実に「運」を下げている。 何回かこのブログで書いているが、お父さんの幸せになるための信条は「笑顔・清潔・感謝」である。自分でつかみ取るにしろ、他者から与えられるにしろ、運というのは自分の意志だけでつかみ取ることはできない。 お父さんが「運がいい」と自分を思っているのは、本気で願ったもことはそれなりに実現していること、困ったときに助けてくれる人が不思議と出てくることが多いからである。家族もすべてが上々というわけでは無いが、健康で仲良くやっている。 お父さんが言う運は、他者が自分の思惑以上に協力してくれる、与えてくれると言い換えてもいいかもしれない。若いうちは気がつかないが、自分のちょっとした行動が他者から自分への評価を変えることは、日常的に起こっている。自分の実力だと思っていることも、自分に気がつかないように誰かがサポートしてくれていたりしてくれることが多い。 また類は友を呼ぶという言葉があるように、狡い人の周りには狡い人がいて、やさしい人の周りにはやさしい人が集まりやすい。笑顔・清潔・感謝も笑顔の人には笑顔の人が、清潔な人には清潔な人が、感謝の念が深い人には同じく感謝の念が深い人が集まる。これは単純にお互いが安心できる相手であるからだと思っている。 打算的な行動で運を引き寄せることは難しいとお父さんは思う。上から目線ではないが、どれだけ人に与えられるか、他利の精神を持ち合わせて行動できるかが運を引き寄せる大きなカギである。 自分の気分で態度を悪く接すれば、相手は間違いなく不快になる。その不快感が別の機会に自分に戻ってくる。感謝の心をもって笑顔で接した人は、それによって自分への行動が好ましいモノになる。実に当たり前の事である。 最近息子が思春期で、無駄に態度が悪かったり、斜に構えた意見を言うようになっているが、そうなれば親も最低限は世話するが、自分のさじ加減で与えることができる有償無償のあらゆるものが与えたれなくなる。その結果として、息子が不貞腐れた態度を取れが、さらに親から与えられるものは減っていく。少なくともお父さんは、息子の態度によって与えようと思っていたものもやめたとなったことが何度もある。 兄弟3人がいる中で、普通にしていればお父さんから与えられたものをフイにしているのは、不思議と息子がダントツで多い。よほど相性が悪いのかと思うのだが、息子が露骨に損得勘定で意見したり行動したりしているのが直らないうちは、まだまだこの状態が続くと思う。長女や次女と息子が異なるのは、他利の精神があまりにも足りないというところだと思う。 話がズレてしまったが、運がいい人になりたかったら、どれだけ自分が相手を思って行動できるかだとお父さんは考えている。自分を捨ててまで人に尽くす必要はない。できることはやってあげる。それだけで良い。そして自分が与えられたときは、深く感謝するだけでなく、相手にそれを言動をもって伝えることも重要である。 心で感謝していても、態度が悪ければ意味がない。心で感謝するというのは、しないよりはマシであるが、きっちり伝えたほうが良い。ここがお父さんと宗教の違いだろうか。 笑顔・清潔・感謝は人に不快感を与えないため、もしくは人に好印象を与えるためである。人は一人で生きているわけではない。他人の助けなしには生きることができない。子供たちがどこまでお父さんの言うことを理解してくれるか、とても心配している。
2024.03.18
コメント(0)
先日アメリカで、ゴジラの映画がアカデミー賞を受賞したというニュースが流れた。日本人として日本の映画が賞を取ったことはうれしいニュースであった。そしてゴジラを製作した関係者が大喜びで受賞している映像を見て、とても好感を持った。 お父さんは件の映画を見ていないので、映画が良いとか悪いとかの印象はない。ましてや今回の受賞にお父さんの評価はまるで関係がない。 お父さんは、最近の受賞で今回のメンバー程純粋に喜びを表に出す人は珍しいと思ったので、とても印象に残ったのだ。 お父さんが子供の頃、日本人が世界で賞を受賞するということは、本当にまれであり、受賞者は国の誇りだとたたえられていた。そのころの人たちは、純粋に喜ぶ姿を見せてくれていた。賞をもらうのは、いいことでありうれしいことという共通認識があった。2000年以降、日本は各業界でいろいろな賞を受賞できるようになったが、最近は喜びを表現することよりも、「別に賞の為にやったわけではない」という態度が目立つ。授賞式を欠席したり、コメントも喜びというより迷惑といった態度の人が普通にいる。 本当に迷惑と思っている人はほとんどいないとお父さんは思っている。表彰されるということ、賞をもらうということは純粋に承認欲求を満たしてくれるからである。だから素直に喜んでくれれば、本人も見ている人達も気持ちよくなれるはずなのである。 スタジオジブリの映画もアカデミー賞を受賞していたが、宮崎駿氏は姿すら見せなかった。プロデューサーが会見を開いていたが、監督が出てこないというのは本当にみっともないとお父さんは思う。 実は会社でも、何かで賞を出したりすると「要らない」という人が結構いる。いつから日本人はこんなに頭がおかしくなったのかと思う。ベトナム工場では、みんなニコニコして嬉しそうに社内の表彰を受けてくれる。出す方もうれしくなる態度である。 もし本当にうれしくなかったとしても、うれしいというべきであり、それなりの表現もするのが大人の対応ではないだろうか。「そんなものいらない」という態度がかっこいいと思うのは勝手であるが、同じ賞を喜ぶ人を見下すひどい態度だとお父さんは思っている。
2024.03.17
コメント(0)
農家と漁師、どちらも第1次産業に属する職業で、我々に食材をもたらしてくれるとても大事な、ありがたい職業である。お父さんは、これまでどちらかと言うと農村側に属する地域に住んでいた。現在も周囲には農家の人が多い。 しかしながら、お父さんの祖父は漁師の家の出身であり、子供の頃は親戚の集まりに漁師が結構いた。後継者がおらずに今はすべての身内が漁師を引退してしまっているが、両氏との交流もそれなりにあった中で育ってきた。 農家と漁師は同じ1次産業とはいえ、大きな違いがある。それは、農家はじっくりと自分の田畑で作物を育てるのに対して、漁師は魚のいる漁場を誰よりも早く見つけて、魚を取らなければならないということである。つまり漁師は常に抜け駆けをしないと、儲からない。 お父さんの勝手な印象だが、漁師はやはり口が悪いし、けんかっ早い。船の上はある意味命がけなので、のんびり考えて話している暇はないからだろう。ここだという場所で、ここだという時に動かないと魚が取れないのだから、当然言葉は短く強くなると思う。漁場を奪い合うのだから、けんかするぐらいの根性がなくてははじき出されてしまう。 なのでお父さんが見る限り、彼らは荒くれもののようではあるが、あまり根性が悪いとか性格が曲がっている人は少ないように思う。 農家は、1日2日で状況が変わるということはない。収穫期はとても忙しく、出荷時を逃すと売れないサイズに成長してしまうこともあるのだが、誰かが畑に入って収穫して持っていってしまうわけでは無い。だから基本的に性格は穏やかで、人を出し抜こうという雰囲気を感じないことが多い。 お互いに縄張りがはっきりした中で、同じ用水路を使い、同じような作物を育てているので、人と争うということをしないようにしていると思う。 では心の中まで穏やかで、性格が良いかと言うとそうではないとお父さんは感じる。農家は漁師よりも見栄っ張りだし、少し悪く言うと腹黒いと思っている。漁師はその日の漁獲量できっちと結果がでて収入も決まる。 農家は作物の状態を周りに見られ続けるのだが、周りの田畑よりも自分の田畑の出来が悪いと、それをずっとさらされ続ける結果になる。 漁師が明日は俺の方が魚を取ってやるとすぐに切り替えるのに対して、農家は来年こそはとなってしまう。それまでの1年間を我慢するので性格が捻じ曲がる人が出てくるのではないかと思っている。 また待つことに慣れているせいか、交渉事もなかなか譲ることがない。さっさと決めてしまえばと思うことでも、全員が賛成しないと決まらないということを当たり前のようにやっている。お父さんとはまるで合わない。 農家と漁師とどちらが良いとは言えないが、お父さんは漁師のほうが付き合うとしたらストレスが少ない。
2024.03.16
コメント(0)
人間には理性というものがある。感情を抑えて理にかなった行動をする力である。この理性があるからこそ、人間は他の生物に先んじて繫栄し、人類社会を繁栄させてきたとお父さんは思っている。ただし、合理的に行動する方が良いとわかっていても、感情で動いてしまうのも人間である。 感情で行動してしまった経験がないという人はあまりいないのではないかと思う。お父さんも感情で行動したり判断したことはいくらでもある。そして、感情で動いた結果というのは基本的にうまくいかないことが多い。 結局後から、もう少し考えてから行動すればよかったと後悔するのだが、そういう経験を積み重ねているにも関わらず、感情で行動することを止めることはできていない。本当に不思議である。 この感情から来る行動が仕事に出ると、本当に大変である。お父さん自身の周りに迷惑をかけた経験がないので、あまり強くは言えないのだが、同僚や上司の感情からの言動で苦労してきたので、仕事においては感情で行動しないようにかなり自制しているつもりだ。 仕事に感情を持ち込むとろくなことにならないと、他者の行動だけでも嫌というほど思い知らされてきた。 部下の行動ならば、まだ注意したりして制御することができるのだが、上司となるとそうはいかない。上司の感情が治まるまで待てれば良いのだが、あの会社は嫌いだから取引したくないなどと言われると、本当に困ってしまう。好き嫌いではなく、会社にとってメリットがあるかデメリットがあるかで判断するという当たり前ができなくなるので、上司の感情による指示で、わざわざデメリットの多い取引をせざるを得ないということが、実際に発生するのだ。 これが社長などの経営者となると、もう誰も手を付けられない。経営者というのは、部下には「過ちは早く認めて是正するように」と指示を出しているのに、自分の場合は「自分が失敗したことは簡単には認めてはいけない」となるようである。 そのため、誰が見ても失敗であったとしても、何かしらの言い訳を準備し、社長のせいではないという逃げ道を用意してあげないと、撤回してくれないのだ。 その結果、撤回までに時間がかかり大きな商機を逃してしまったという経験をこれまでに何度もしてきている。お父さんの会社が中小企業だからそうなのであればよいのだが、最近は、大企業でも当たり前に発生していると感じるようになった。 恐いのは国会議員など国の行く末を決める政治家である。近年の政治家の発言や行動を見ていて、「常に合理的に判断している」と思うことは無くなってしまった。世論や野党の追及に感情的とは言わないまでも、合理的な判断をしているとはとても思えない。 人間は、理性をもって合理的に判断することができる能力を持っているにもかかわらず、感情によってそれができなくなる。本当に不思議なのだが、自分もそうなのだから、文句を言うこともできない。
2024.03.15
コメント(0)
外国人労働者の犯罪のニュースを聞くことは、最近では珍しくなくなってしまった。またかという感じでニュースを聞くことが多いのだが、ベトナム人の犯罪のニュースを聞くと、ベトナムで仕事をしているお父さんとしては、やるせない気持ちになる。 せっかく日本にまで来て働いているのだから、まっとうな収入で生活をしてほしいモノである。99%のベトナム人がきちんと頑張っているのに、1%の人のせいで、ベトナム人の印象が悪くなるのは本当につらいものがある。 さて今回はベトナム人の犯罪について書きたいわけでは無い。ベトナム人のニュースで、「グエン」という名前が出るのに違和感があるからである。 ベトナムで働いた経験のある人ならだれでも知っていると思うが、ベトナムの名字で「グエン」というのは、よくあるというレベルではないほど多い。40%ぐらいがグエンという性を名乗っていると言われている。 それ以外でもベトナムは同じ姓がものすごく多いので、基本的にお互いを名字で呼ぶことはない。お互いを呼ぶのはファーストネームである。そうでないと会話が成り立たなくなるからだ。まあ名前も同じようなものがいっぱいあるので、それでも混乱することはあるのだが。 またベトナム人は中国の文化を受け継いでいるので、苗字が先で名前が後に来る。要は日本や中国、韓国と同じ順番である。グエン・チ・フオンという人がいれば、グエンが苗字、チがミドルネーム、フオンが名前である。 ベトナムになれていない日本人が、電話などで「グエンさんをお願いします」と言ってきたり、「先日グエンさんとお会いしました」と言ってきたりするが、どのグエンさんかさっぱりわからない。会社の約半数がグエンさんなのだから。 そのため、ニュースでも「ベトナム国籍のグエン容疑者」という表現をされると、個人名を言っているように聞こえない。極端な話であるが、「ベトナム国籍のベトナム人容疑者」と言われているように聞こえてしまう。まあベトナムを知らない人には違和感はないと思うが。 ちなみにお父さんが住んでいる東北地方は、ベトナム程ではないにしても同じ苗字の人が多い。佐藤は全国でも多いだろうが、及川とか千葉とか菅原などと言った名字の人が会社にもその他の集団でもほぼ確実に複数人存在している。 結果として、これらの名字の人は名前で識別されることが普通である。名字で呼ぶと誰の事か判別できないので当たり前の事である。 日本人にとって、相手を名前で呼ぶというのは「親しい間柄」と認識されることがあるし、親しくない人を名前で呼ぶことは無礼だと感じる意識もある。お父さんも東北に移り住んだ頃は、人を名前で呼び合っていることにものすごく違和感があった。だが今では慣れてしまっており、同僚の名字を忘れてしまうことすらある。 会社内で会議をするときも、苗字ではわからないので、ほぼ名で識別している。 同じ苗字が多い地域に住まないと名字で呼ぶことの不便さはわからないだろう。名前で部下を呼ぶことがパワハラと言われる世の中にならないことを祈りたい。
2024.03.14
コメント(0)
世の中には「行動力がある」と言われている人が一定数いる。お父さんもどちらかと言うと行動力がある方に分類されているらしい。行動力がない人から見ると、行動力のある人というのは、もともとそういう性格なのだと思う人が多いのではないかと思われるが、実際に性格が「せっかち」とか「勇気がある」とかで行動力があると言われている人は少ないと思う。 お父さんが思うに、行動力がある人というのは、早く行動することのメリットを体験していて、そちらの方が効率的であるということを知っている人だと思っている。性格的に後に残すよりも先にやってスッキリしたいという人はそれなりにいるかもしれないが、それよりもこのメリットを享受したい人の方が、少なくとも仕事で行動力のある人には多いのではないだろうか。 仕事というのは、何もしないでそのままにしておいても、良い方に好転することは基本的にない。問題などは放置することで悪化するのが普通である。それはわかっているのだが、行動することがなかなかできないというのは、行動してしまったほうが楽だという感覚があまりないからだろう。 行動すると、行動による結果が出る。それが良い場合もあるし、悪い場合もあるのだが、それでも行動前とは状況が変わる。変化した状況で考え、また行動して結果が出る。これを繰り返すと物理的に忙しくなるので、あまり悩んでいる時間はない。 逆に放置していると、常に心の中に「やらなくてはいけない」という思いが残ったままで過ごすことになる。さらに、選択肢を頭の中でシミュレーションして、最悪の結果を想像して落ち込んでしまったりしてしまうものである。 行動力のある人も、最悪の結果は想像している。だからこそ、そうならないように行動をしていくのだ。特に相手がいるような問題に関しては、とっとと行動して結果をもらうほうが想像で悩んでいるより、精神的にかなり楽である。 この精神的に楽な状態を何度も経験するうちに、行動した方がメリットが多いことに気がつき、行動力が上がるとお父さんは思っている。 悩んでいるだけでは、状況は変わらない。誰もがわかっていることである。よいアイデアが浮かばなくて行動できないという人もいるかもしれないが、何かしらの対応は頭に浮かんでいることの方が多い。こういう時でも、行動力のある人は可能性が低い中でも最善と思われる選択肢を選んで行動をする。悩んでいるより100倍ましであると理解しているからである。 最初の1歩を踏み出すのは、誰でも恐いモノである。それでも、勇気を出して行動することで行動のメリットを多く経験し、行動力のある人になる方が、人生は開けてくると思う。初めの1歩を踏み出すのは、どうしても勇気とか決意が必要になる。子供達にも行動力を身につけてほしいのだが、初めの一歩を踏み出すきっかけをお父さんが外から与えることは難しい。
2024.03.13
コメント(0)
お母さんが本格的にダイエットを始めた。今回はジムに通って運動と食事の指導を受ける。最初はライ〇ップでやろうとしたが、近くにないので結局同様の指導ができるジムを探したようだ。電車で通う必要はあるが、ライ〇ップでは高速バスか新幹線になってしまうので、かなり安上がりである。さらに、ジム代もライ〇ップよりは値段が安い。 お母さんは、食事制限による微妙なダイエットのようなものを続けてきたが、目立った効果はなかった。太ることがないという程度だ。お父さんと同じく50歳台に到達したので、中途半端なダイエットではすでに効果は見込めない。 ライ〇ップのWEBページなどを見たが、50歳以上のコースというのはあまり設定されていない。お客さんが少ないのかもしれないが、おそらく効果が少ないのではないかとお父さんは思っている。 お父さんも運動はともかく食事はお母さんのダイエット食と同じにしてみようと思っていたが、内容を聞いて断念した。現在お母さんは糖質ゼロの食事をしている。炭水化物および砂糖の入ったモノを口にしてはいけないという。 通常の食事は何とかなるが、お父さんはお客さんと食事をする機会が多い。出張時だけでなく、来社されるお客さんとも食事がある。3月だけでも終わったモノを含めて5回ほど外食の予定だ。 さらに言うと、長女が春休みで帰省するなどの予定もあり、外食ゼロというのも考えにくい。まあ言い訳になっているかもしれないが。 お母さんの糖質ゼロは、米・パン・麺など炭水化物がすべてだめ、小麦粉も基本的にダメだ。さらに砂糖を使った料理もダメなので、通常の外食はほぼ不可能である。家での食事にしても、かなり苦労をすると思う。まだ始めたばかりなので、何とかなっているが、厳密に守り切るのは不可能だとお父さんは思っている。 今回お母さんが入会したジムに聞いてもらったのだが、お父さんのような食生活(接待的な食事を断れない状態)でも、対応できるコースというかカリキュラムがあるか尋ねたら、「難しい」という答えだった。やはりCMで見るような効果を期待するなら、それなりの苦労は覚悟しないと駄目なようだ。 お母さんにはこれまで何度も「運動をしよう」と持ち掛けてきたが、家にこもって裁縫をしているのが何よりも幸せである人なので、全く反応がなかった。しかしながら体重を気にしていることは、長年一緒に暮らしているお父さんには手に取るように分かった。最近は体型を見せるのが嫌になっているようで、公衆浴場に入ることすら嫌がるようになっていた。 そこでお金はきついのだが、心と体の健康のために、ライ〇ップを勧めたのだ。若い頃と違うのだから、50歳になったのだからお金で解決できるならお金を使おうと。考え方はよろしくないかもしれないが、お母さんのダイエットが成功して、運動をするようになり、且つそれなりに体型に自信が持てれば、ジム代ぐらいのお金なら十分有効なお金の使い方だとお父さんは思っている。 お母さんのダイエットが成功し、少し自信をつけてくれたらお父さんもうれしい。ぜひお母さんが満足する効果が出てほしいと願っている。2か月のコースなので、5月には結果が出る。
2024.03.12
コメント(0)
先日お父さんの同僚が、地元の神楽の発表会があると言って、案内をくれた。市民ホールで市内各地域の神楽保存会がそれぞれの神楽を踊るイベントのようであったが、お父さんは神楽の良さがわからない。Youtubeでも生配信をするということだったので、時間が合ったら閲覧すると言って話は終わった。 しかしながらというか、予想通りというか、神楽に興味のないお父さんは、生配信の時間には別の事をしていて、神楽の事は思い出すこともなかった。数日後にその同僚を見て、そういえばと思い出し、その同僚にどうだったか聞いたぐらいだ。 同僚も内心どうだったかはわからないが、無事に終わりましたぐらいの話しかせずこの話はすべて終了した。 しかしながらその同僚に観客はどれぐらいいたのか聞いたところ、20人ぐらいだったと聞いて少し驚いてしまった。各神楽の団体は大体1チーム10名以上だ。10チーム以上が出ていたので、参加者だけで100人はいたことになる。観客が演者よりも多い状態だったということだ。身内の半分が来たとしても50人はいなくてはならないのに、20人とは本当に驚きである。身内ですが神楽に興味がないということになる。お父さんが興味がないのも当然だと思った。 踊りや歌・合奏などの伝統芸能は、はっきり言って令和の世の中ではほとんどの人が興味のないモノだと思う。東京でやっている歌舞伎などは伝統芸能としては例外的に人気があると言える。 東北には様々な伝統芸能としての踊りが存在していて、お祭りなどの際に見かけることはあるのだが、じっくりと最初から最後まで見たという経験はない。見ても意味が分からないし、そもそも何が面白いのかが理解できない。 神楽をやっている同僚に確認したところ、踊っている側としては、ここが見せ場であるというシーンもあるとのことなのだが、お父さんにはわからない。 テレビドラマや映画など時代劇風のモノで、昔の人が歌や踊りをみて楽しんでいるシーンがよくあるが、何が面白いのか現代に住むお父さんには理解ができない。せいぜい踊り子の中にきれいな女性がいれば、少し目が行くくらいだろう。 伝統芸能が廃れていくのは、後継者がいないのが問題ではなく、見て楽しめる人がいないからだとお父さんは考えている。実際に踊りやダンスを楽しんだり職業にしている人はそれなりにいるからだ。オリンピック種目になったブレイキンなどは、テレビで見ていてもそのパフォーマンスに驚かされるし、楽しいので見入ってしまう。伝統芸能の踊りとは大きく異なる。 お父さんの家族は劇団四季のミュージカルを観るのが大好きである。面白いと思えれば、観客は増えていくのである。 伝統芸能に関しては、未来に引き継ぐ人を育てるためには、その面白さを、何をどう見て評価するかを教えて、それを理解して楽しむ人が増えない限りとても難しい命題だと思っている。
2024.03.11
コメント(0)
お父さんが子供の頃、子供のお菓子の定番にガムとキャラメルがあった。どちらも我が家の子供たちが食べたいと言わないお菓子である。 お父さんは仕事や車の運転の眠気防止のためにガムを食べているが、それ以外でガムを噛むことはない。キャラメルに関しては、「生キャラメル」と言うのを北海道のお土産などでもらって食べた記憶はあるが、お父さんが子供の頃に食べたグリコや森永のキャラメルは、最後に食べたのは10年以上前だと思う。全く記憶にない。 我が家の子供たちがガムを食べない理由の一つは、小さい頃、幼稚園ぐらいまでの頃にガムを与えていたら、噛み終わったガムをきちんと紙にくるんで捨てることができずに、あちこちにガムを貼り付けられたので、ガムを与えるのを止めてしまったことも原因の一つであるとは思う。 ただし少なくとも最近のコンビニなどで、ガムのコーナーに子供向けのガムがほとんどないように思える。 お父さんが子供の頃は、様々な味というか風味のガムが出ていた。お父さんが好きだったのはJUICY&FRESHという黄色いパッケージのガムで、とにかく甘かった。それ以外にもブルーベリーやマスカット、アセロラに梅のガムもあった。ミント系もスペアミントとかクールミントなどがあり、ガム売り場でどれを買おうかよく悩んだ記憶がある。 今出ているガムは、それなりに種類があるが、あまり食指が働くものがない。 ガムというのは、最後に飲み込まずに吐き出すという致命的な欠陥がある。おそらく現代の生活で、ガムを吐き出す行為自体が嫌悪されているのかもしれない。考えてみれば昔は道路や歩道上に吐き捨てられたガムがくっついているのをよく見たのだが、最近はほとんど見かけなくなった。 焼肉屋でもガムを配っていたが、これもいつの間にか飴になってしまっている。ガムというお菓子が世の中にあまり受け入れられなくなっている証拠だと思う。 キャラメルは、甘くて美味しい子供に大人気のお菓子だった。1箱に10粒ほど入っていて、ゆっくり消費していくのが好きだった。こちらは今でも食べさせれば子供は喜ぶのではないかと思うのだが、少なくても我が家の子供たちが食べたいということはない。 彼らが好むのは、グミとかハイチュウのようなキャラメルに比べると軟らかく、短時間で食べることができるものになっている。 考えてみると、キャラメルは口の中でゆっくり溶けていく。1粒食べるのにそれなりに時間がかかるお菓子である。そういう特徴も現代の子供にはウケないのかもしれない。お父さんが子供の頃のキャラメルの最大のデメリットは、治療した歯に詰めていた銀が外れてしまうことだ。 自分でもそうだったが、友人を含めてキャラメルで銀の詰め物が外れたシーンを見ることは珍しいことではなかった。 一粒300メートルのキャッチコピーで人気のあったグリコのキャラメル。甘い香りとレトロなパッケージで人気のあった森永ミルクキャラメル。高級感があって、箱も形も高級に見えた森永ハイソフトなど定番のキャラメルを、最近では見かけなくなってしまった。キャラメルが世の中から消えた理由はよくわからない。それともお父さんが知らないだけで、キャラメルは今でも人気のお菓子なのだろうか。 ガムやキャラメルが世の中から消えることはないと思うが、今後はあまり人気のない商品として店の片隅で売られる商品となることだろう。
2024.03.10
コメント(0)
次女は勉強が苦手である。必死で頑張っても理解ができないという話ではなく、勉強をすること自体に拒否反応を持っている。国語、数学、英語、理科、社会など主要教科だけでなく保体、音楽、美術などの座学部分にも拒否反応を示す。実技である体育や歌と演奏、絵をかいたり彫刻をしたりという部分は得意である。 つまりは教科書を用いた講義全般が苦手なのである。最初から講義を聞く気がないし、帰港としても脳が拒絶するのかすぐに別の事を始めるか、寝てしまう。家で宿題を広げても1問目を説きながら寝てしまうのだから、親としても何をどうしていいのかいまだに答えが出せずにいる。 その一方で、次女は会話における頭の回転はとても速い。お笑い芸人の様にボケもツッコみも瞬時にすることができる。お父さんがからかったり、何かをしたときにすぐに反応して言葉を返すことができるのは、3人の子供の中で次女だけである。 それ以外にも、絵を描くのが好きで様々なアニメや漫画のキャラクターを黙々と描いているし、ダンスなどは1度見ただけで結構覚えてしまう。自分で曲に合わせて振付をすることも、いともたやすくこなしてしまう。 ある意味勉強特化の劣等生である。自分の好きな道に進むことができれば、人当たりもよいし、対人関係を上手にこなす能力はあるので、大成するかもしれないと思っている。だが学生でいる間は、勉強からは逃れられない。そのため高校卒業まではとにかく頑張ってもらわなければならない。 特に来年は高校受験があるうえに、行きたい高校が決まっているので、それに向けて勉強をしなければならない状態にある。 次女が行きたい高校の過去問を見たら、次女には解けない問題しかなかった。しかしながらこの学校は、筆記試験無しの推薦入学制度がある。中学校の内申点、評定平均などと後は面接で合格者を出す試験だ。 お母さんと話し合って、何とかこの制度で志望校に入れたいとは思っているのだが、そのためには中学校の成績を上げて評定平均を少しでも高くする必要がある。 今年になってから、この対策に親子で力を入れることにした。そうはいっても、教科書で勉強することは次女の脳みそが拒否している。どうしようか考えていた中で、次女が一番苦手な英語から丸暗記方式で覚えることを試みた。 中学校の英語は、基本的には英語の基礎部分だけである。現在・過去・未来、肯定文・否定分・疑問文、原型・完了形・進行形、あとは受け身と比較ぐらいである。これをとにかく丸暗記(文字ではなく音で覚える)ということを試みている。 次女の脳みそはどうやら右脳型で論理的思考や文字での理解よりも、音や映像で理解する方が早いとお父さんは考えたからだ。英語のスペルはこの際考えず、まずは英語が話せるようにしてしまおうと思っている。子供はまず会話から言葉を覚えていく。 英語は言語のひとつなのだから、同じ様に覚えてしまえば文字は後からついてくると決めて、とにかく音で覚えさせることにした。 現在人称代名詞の変化(I・my・me・mine・・・)は完全に覚えた。Be動詞の現在過去過去分詞もほぼ覚えた。それを使った例文も覚えた。お父さんが思ったより以外に覚えるのが早い。この状態なら結構早く英語が上達すると考えたが、2月の定期テストでは思わしい結果が出なかった。 テストが終わって弛緩モードに入ってしまい、今は少し停滞しているが、春休みに入ったらもう一度立て直すつもりである。英語で成果が出れば、他の教科もある程度はやる気になると思うのだが、数学や国語の教え方はまだ閃いていない。何か良い方法はないものだろうか。
2024.03.09
コメント(0)
上司の思考というのは、部下にとって非常に重要なものである。最近は上司の思考を無視して仕事をしようとする人が多い気がするが、上司の思考を無視しても自分を評価する立場の上司からは良い評価はもらえないものである。 これは上司が良いとか悪いとかの話ではない。どんな上司であろうと、その考え方、やり方を無視しても部下にあまり得なことはない。異なる考えや方法で、もし結果をきちんと出していたにしても同じである。 人間が出世して上司という立場になると、上司になれたのだから、自分のやり方は正しかったという思考になるのが普通である。なので上になればなるほど、自分の思考に自信を持ち、且つ部下をその思考で導いてあげようと考えるものなのだ。 若い人や、視野の広い人には有難迷惑な話であるかもしれないが、上司というのは良くも悪くもそういうものだと理解した方がよい。 ある程度経験を積み、ある程度出世した人が自分の考えもなく、自己評価も低いということは基本的にありえない。 昔から、出世したかったら社長や上司のイエスマンになりなさいと言われている。これは人間心理を理解したうえでの格言だと思う。実際にお父さんの周りで出世の早い人は、仕事もできるのだが、上司のイエスマンであることが多い。イエスマンとはいえないまでも、上司の指導通りに仕事をしています、おかげで仕事がうまくいっていますというアピールをきちんと行っている。 自分の意見を通すときも上手に上司の思考をこねくり回して、本当は全く別の方法を取っているのに、上司の意向に従っているふりをするのがとても上手なのである。 まだ働いていない人や、社会人になった人には申し訳ないが、テレビドラマや映画に出てくる理想の上司はいないのが当たり前である。若い頃に出会った理想の上司も、歳を重ねるにつれて粗が見えてくるものである。 お父さんもある程度の地位になっているのでよくわかるのだが、人前で講話や説教をしたり、自分の指示で部下が動き成果を出した時は、とてつもなく良い気分になるものである。これは経験したものでなくては理解できない感情だと思う。 先日承認欲求について書いたが、こういう経験が承認欲求を更に高める原因となっている。 わがままに見える上司、感情的な発言が多い上司、どれも自分の承認欲求により動いている。なので、そこに水を差す行為は上司に嫌われて自分の上司による評価を落としてしまう。だから悔しくてもバカらしくても上司の思考に合わせて物事を進めるのが、社会を生き抜くカギになる。 自分はそうはならないとお父さんも若い頃は思っていたが、50歳を過ぎてお父さんも承認欲求は高まっていると自分で分析している。後はこじれすぎて周りに迷惑をかけたり、大きなミスをしなければよいと思うだけである。
2024.03.08
コメント(0)
承認欲求というものは、本来誰もが持っているモノである。老若男女問わず承認欲求のない人間というのはほとんどいないだろう。誰にも会わず、自分一人で山奥で生活している人がいたとしても、それは承認欲求をかなえられずに諦めながら生活している人であり、承認欲求がない人ではないと思っている。 子供は親に褒められたいし、若者は異性から認められたい、社会人は仕事で認められたいし、歳を取れば過去の人生を認めてもらいたい。人間が生きていく上で当たり前に心に抱く欲求だと言えるだろう。 再度書くが、異性には興味がない、仕事で褒められてもうれしくない、自分の人生なんて大したものではなかったという人は、そういう欲求を満たせるような人間ではないと自分で勝手にあきらめているだけで、承認欲求がないわけでは無い。だから無理に否定する必要はないだろう。 世の中には、承認欲求が大きすぎて逆に嫌われてしまう人というのがいる。認めてもらおうと頑張れば頑張るほど認めてもらえなくなるので、こういう人は徐々に精神的におかしくなっていく。 どういう理由でそうなるのかわからないが、自己評価が高い人というのがいて、さらにそれを無理やり認めてもらいたくなるようだ。お父さんも承認欲求は高い方だと自分で思うが、無理強いをしても無駄だということは理解しているので、アピールはしないようにしているつもりではある。後からあの言動は恥ずかしかったと思うことはあるのだが、こればかりは後の祭りでどうしようもない。 承認欲求の中でも、面倒くさいのが「私は人より優れている」「皆が優秀な私に従うべき」と考えている人である。本当にそれが他者も認める事実なら、自然とその欲求はかなえられていくのだが、そうならないということは、自分が思うほど優秀ではないと周囲から見られているということなのだが、自己評価の高い人はそれに気がつくことができない。 ただし、この欲求をかなえようとして、仕事、恋愛、家庭などを頑張るのならば、承認欲求も周囲へのアピールもある程度は許容できるし、うまくすれば本当に素晴らしい人になれるかもしれない。だから承認欲求というものとうまく付き合うことができる人は、それなりの人物になれるのではないかと思っている。 お父さんが見ていて、承認欲求が満たされず、こじらせてしまう人は高齢者に多いと感じている。特に社会的地位や財力を持っている人の中には、どうしようもないと思う人がいる。こういう人が現役を引退すると、このどうしようもないが悪化する。自分の自慢と他社への批判しか口から出てこなくなる。 自分が成功した体験から、現在頑張って発展途上の人をバカにしたり、自分の考えは世の中の誰よりも正しいという発言を繰り返すようになる。ところがすでに現役を引退しているので、これまでの様に仕方なく追従していた部下はいない。そのために承認欲求が満たされなくなってくる。 会社の創業者、名物経営者などにかなり多くこういう人を見かける。せっかく現役時代に成功し、周りから認められていたにもかかわらず、老後の言動で「あの人も老いた」とか「あの人はもうダメだ」と言われてしまうのだ。 沈黙は金という言葉があるが、成功者ほど老後は沈黙を守る方が、それまでに得た名声を維持できるとお父さんは思っている。
2024.03.07
コメント(0)
人間は、良心に反することをすると罪悪感を覚えるのが普通である。たとえみんながやっている事であろうと、それが「良いことではない」とわかっていれば、罪悪感をゼロにして行動することはできない。 日本人が世界基準では、礼儀正しいとかまじめと言われるのは、この罪悪感を嫌悪する傾向が強いというのも理由の一つだと考えている。 「海外」といってもお父さんの場合「ベトナム」が主な比較対象になるのだが、日本人であるお父さんから見たら、「えっ!!」と思うような不快な行動は、彼らに罪悪感がないからこそ普通にできるのだと思う。 アメリカに滞在していた時も、驚くようなことは多々あった。彼らは自分の立場を守る為であれば、平気で道理を曲げるようなことをする。先進国なのだから、日本とそれほど変わらないと思っていたお父さんには衝撃だった。 では罪悪感とはどこから来るのかと言うと、その国の常識や習慣やルール、周囲の環境など外的要因から来るというのがお父さんの持論である。さらに言うと、自分の経験してきたことも、罪悪感の原因になる。自分がされて嫌だったと思うことを、自分が別の人にしていると感じた時にも、罪悪感と言うのは芽生えるものである。 罪悪感を覚えた時、どういう行動をとるかはその人の性格、もしくは性質によって分かれる。日本人は罪悪感を覚えると、その気持ち悪さから罪悪感を覚える行動をしなくなる人が多いゆえに、社会が健全に回っていると思われる。日本人は物理的な得よりも精神の安定を好むのではないかと思う。もちろん周囲の目を気にして、やらないという場合も多々あるのだろうが、それでも日本人ほど精神的なものに重きを置いている民族をお父さんは知らない。 日本では昔から「お天道様が見ている」というように、ばれないと思っていても誰かとか何かが見ていて、必ず報いを受けるというように教育するが、海外でもそういう教育はきちんとしている。 キリスト教もイスラム教もそういう教えがきちんとあるし、そうでなくとも親や学校は「人としてあるべき姿」をきちんと教えている。 それでも日本人に比べて、海外では罪悪感により自分を制御する人に割合は少ないとお父さんは感じている。 例えばベトナム人から聞いた話だが、賄賂をもらうとか人のモノを盗むのは悪いことではあるが、自分にそのチャンスが来るということは、逆に神様やご先祖様が自分の為にその立場を授けてくれたと考える人が多いらしい。こうなると罪悪感ではなく、盗みを働いてご先祖様に感謝するという日本人にはあまり理解できない心の動きがある。 ただし、日本人が皆素晴らしい精神性を備えているわけでは無い。お父さんの周りにも、この人はこんな言動をしていて、罪悪感はないのだろうかと思う人はそれなりにいる。おそらく罪悪感を覚えても、心の中で自己正当化に成功しているのだと思う。 最近は日本でも詐欺事件どころか、金欲しさの強盗が起きることも珍しくは無くなってしまった。 最近では罪悪感を自己正当化でごまかしているというより、もともとの自己基準が普通ではなく、全く罪悪感を覚えずに行動する人が増えていると感じるようになってきた。こういう人は、心にストッパーがないので、非道と言えることを平気で実行することができる。逆に自分が痛みを受けた時にも、これまでの自分を反省するのではなく、ただ恨みに思うことしかしない。 お父さんは子供の頃、まだ死の概念をきちんと持っていなかったころは、虫や小動物を殺して遊んでいた。いま同じことをできるかと言われれば、絶対にできない。外的な影響を受けて精神的に成長した証拠ではないだろうか。 健全で安全な社会を形成するには、きちんと罪悪感を植え付け、さらにそれがストッパーになる環境を整えることが重要である。法律を厳しくする方法もないとは言えないが、社会全体をカバーする法律を作り、それを取り締まるのはかなり難しいだろう。 外国人労働者を受け入れようとしている今の日本は、このような日本人が作り上げた精神的な安定を崩してしまう危険性をはらんでいることは理解していなければならないだろう。日本社会で生まれ育った外国人ならともかく、海外で育った外国人に日本人的な感覚を理解させることはほぼ不可能である。
2024.03.06
コメント(0)
先日お母さんと普段いかないスーパーで買い物をしていたら、赤いウインナーを売っているのを見かけた。そういえば、最近見なくなったねとお母さんと話したが、改めて考えると赤いウインナーをここ数年と言うより10年以上食べた記憶がない。 子供の頃、お弁当に赤ウインナーを使ってタコのように見せる「タコさんウインナー」というものをよく見かけた。お父さんの母親は、タコさんウインナーを作ることはなかったが、赤いウインナーを使ったお弁当は、とても美味しそうに見えてうらやましかった。 しかしながら、今のお父さんは赤いウインナーをおいしそうとは思わなくなっている。何で色を付けているのかわからないが、人体に害があるものでもないだろう。それでも子供の頃と違って、美味しそうに見えないとなったのは、食品に色を付けることが「悪」となってから長い月日がたったからだろう。 食材に不自然な色を付けるというのは、お父さんが子供の頃はかなり常識的に行われていた。そしてそれに違和感を持つこともなかった。しかしながら冷静に考えると、どうしてあの頃違和感を持たなかったのか不思議に思えるものがいくつかある。 例えば、喫茶店などでソーダを頼むと緑色のものが出てくるのが当たり前だった。クリームソーダは緑色のソーダにバニラアイスがのせてあるものである。緑色はどこから来たのだろうか。いま自販機で緑色のソーダを販売しても、おそらくあまり売れないだろう。マスカットのソーダと書いてあるならまだ何とかなるだろうか。 ソーダなどについていた不自然に赤いサクランボも今は無くなってしまった。明らかに自然な色ではないのだが、フルーツポンチなどに入っている赤いサクランボは兄弟で誰が食べるか争いになるのが普通だった。 現在の日本では、「着色しています」と露骨にわかる食品は売れないのだと思う。まあお菓子類はまだまだそういうものがあるのだろうが、食事に使う食品にはほとんど見られなくなったと思う。パッと思い浮かぶのは紅白かまぼこぐらいだろうか。 それ以外は、よく考えれば「着色だ」とわかるが、例えば「かにかま」を食べながら「着色された食品を食べている」と強く認識していることはない。 今となってはどうして赤いウインナーが美味しそうに見えていたのか、自分の事なのに理解できない。
2024.03.05
コメント(0)
前にも書いているかもしれないが、人間と言うのは怖いものである。いろいろと怖さと言うのはあるかもしれないが、お父さんが一番怖いと思うことは、表面上の態度と心で思っていることは全く異なることが多々あるということだ。 自分が信頼していて仲が良いと思っている相手が、実は自分のことが大嫌いで、できれば付き合いたくないと思っていることなど珍しいことではない。そして、はっきりとそれを言われるまで、自分では全く気が付かないということである。 先日お父さんの上司が、仕事であるトラブルを起こしてしまった。本人は、自分は部下から信頼されているので、ちょっと誤れば人間関係というか、信頼関係はゆるぎないと考えているのだが、実際は「言動の矛盾」や「自分中心の考え方」が多く、部下からは嫌われている。嫌われているというより、この人はダメだとあきらめられている。仕事上の上司であるので普段はなるべくかかわらないようにしつつ、関わらなくてはならない場合のみ、上司の機嫌を損ねないように対応しているに過ぎない。 それでそれなりに会社は回っていたのだが、先日のトラブル発生時に、その上司の上司が、お前は部下から信頼されていない。態度を改めるようにとついに直接言ってしまった。しかしながら、お父さんの上司は、それを本当の事とは受け止めなかった。 そしてメールで関係者に「自分は嫌われていないよね」という確認メールを打つという暴挙にでた。言われたことにかなりショックを受けたための行動だと思われる。 結果として、メールを受けた部下達はその上司に、「私はあなたを信頼しています」という返信をした。というよりも、それ以外の返事はできない。そこで「実はあなたが嫌いで、信頼もしていません」と返信できる人はいない。書くなら会社を辞める覚悟をもたないと無理である。 その返事を見て、件の上司はお父さんに「やはり俺は部下から信頼されている」と返信されたメールを見せてくれた。しかしながら、上司から部下へのメールも、返信されたメールもSNSを通してスマホで社内に出回っていたことをこの上司は一生知ることはない。 話は変わるが、先日次女がクラスメイトから嫌がらせを受けているという話を聞いた。内容は他愛もないモノであったが、嫌がらせをしている子はすでにクラスでかなり嫌われていて、相手にされておらず、学校も休みがちだという。おそらく気の弱い次女を現在ターゲットにしているのだろう。次女に、はっきりと相手に「私はあなたが嫌いだから関わらないで」と言うように話した。それができずに嫌がらせが続くならお父さんが学校に連絡を取るからと。 次女がどうしたのかわからないが、その後1回もその子の話を聞いていない。ひょっとしたら学校に来ていないのかもしれない。思春期には精神が不安定だったり、上下関係を意識して、自分より下を作りたがるものであるが、これが高校や大学までにその精神から脱却できないと、周りから人がいなくなる。 お父さんも大学時代のサークルに、「俺様すごい」と必死でアピールしてくる同期がいたが、1年しないうちに周りから人がいなくなり、サークルに出てこなくなった。 面と向かって「あなたは今のままでは周りから人がいなくなる。少なくとも今は嫌われている」と言ってもらえるのは、せいぜい中学生までである。高校生以降は自分で気づくしかない。気がつかなければ孤立するだけである。 学生の頃は、こういうフェードアウトを組織的にやることもあるが、大人になると自然と個々人がやるので修復するのはかなり困難である。 最初の原因は基本的に自分自身にあるのだが、何が悪いのかも知らないままに周りから人がいなくなっていく。これが人間社会の怖さである。お父さんも自分がそういう状況になっているグループがあるかもしれない。だがそれに気がつくことは一生ないだろう。
2024.03.04
コメント(0)
先日のニュースで、九州のある町長がセクハラで辞任するというニュースが流れていた。セクハラの内容はそれほど悪質とは思えないが、女性の頭やお尻を触ったり、「安心して子供を産める体だ」みたいなことを言っていたらしい。50歳を過ぎたお父さんでも、今の世の中ではアウトだと理解できる。ましてや政治家がやっていい言動ではない。 ただしこのレベルのであれば、セクハラやパワハラが今ほど社会問題化されていない時代なら、どこにでもいたただのおじさんの行動である。お父さんが社会に出たころ、女性に触るおじさんと言うのは、さして珍しいものではなかった。ましてや「恋人はいるのか」とか「結婚しないのか」ぐらいの話は女性側も問題にしていなかったと思うのだが、お父さんは男性なので、真実はわからない。 しかしながら、現代社会ではどれも許容範囲を越えているということは、お父さんも知っている。そもそも会社の同僚女性に触りたいと思ったこともないので、若い頃であってもどうしておじさんたちがそういうことをしているのか理解できなかった。ただ恋人の有無を聞くぐらいは普通にしていた記憶がある。お父さんも普通に聞かれていたし、いたって普通の会話だったとは思っている。なぜ現在では問題になっているのか理由は理解できていない。 パワハラについても同じことが言える。お父さんが学生時代は学校の先生から殴られる(平手、げんこつ、ケツバットなど)ことは普通にあったし、それによって心を病むこともなかった。だから社会に出てからも、暴力はさすがにダメだが、きつい言葉で怒られることも普通にあったし、それを「NG行動」とは認識していなかった。 それでも今はパワハラが社会問題になっている。お父さんもそれなりに勉強をして、パワハラにならないように会社では注意している。 ちなみにお父さんの会社ではセクハラもパワハラも全社員に教育を行っている。そのため受ける側の部下や女性が「何がセクハラやパワハラになるか」と言うことを理解している。問題なのは、教育を受けても「そんなの大げさ」と考えて、言動をあたら目用としない60歳前後の人たちである。 60歳から上の世代、昭和40年より前に生まれた世代はセクハラもパワハラもテレビや新聞の中の出来事で、自分が少しぐらいやったところで問題はないと本気で考えている人が多い。 そのためお父さんの会社でも何度か問題化している。部下から訴えがあるのだ。訴えがあれば、会社としてはきちんと対応することになる。ハラスメントとは、状況や内容ではなく、受けた人がハラスメントだと感じれば、加害者側の弁明などなんの意味もないからだ。 ちなみに40歳以下で、セクハラやパワハラの訴えを受けた人は今のところ一人もいないし、お父さんが見ていても「危ない」と思う人もいない。彼らはそれをきちんと理解して、場合によっては社会的に抹殺されてしまう可能性も感じている。そのせいか逆に恋愛に消極的とも感じてしまうが、それはまた別の話である。 今回辞職することになった町長も、おそらく辞職することになっても「何が悪かったのか」を理解できないまま人生を終えるのではないかと思う。インタビューを見ていれば、「大変なことをしてしまった」とは感じていないのがわかってしまう。お父さんの会社で注意や指導を受けても回診しない老人たちにそっくりだからだ。 あと10年~20年で今の価値感を理解できない人は物理的に世の中から消えていくだろう。お父さんの世代が老人世代になるのだが、果たしてそのころの価値観をお父さんは理解でき、きちんと対応できるのか不安ではある。
2024.03.03
コメント(0)
仕事のモチベーションを上げるための取り組みというのは、どんな会社でもやっていることである。本屋に行けば、従業員のモチベーションを上げるための指南書のようなものが多数置いてあるし、モチベーションUPの為のセミナーや講演会の案内は、1年に何度も会社に送られてくる。 前向きに仕事をする社員を育てるというのは、会社にとって極めて重要な案件である。社員のパフォーマンスというか成果は、モチベーションが高いか低いかで大きく異なるのが普通だからだ。だからモチベーションを上げるという会社の取り組みは正しい。ただし、キャリアアップを実感できるとか、明確な目標を設定するとか、褒めたり叱ったりとか言うものでは、根源となるモチベーションは上がらないとお父さんは思っている。 では何が本当のモチベーションを上げる効果になるかと言うと、端的に言ってしまえば「お金」である。会社の最終目標が「利益を上げる」というのと同じように、人間が働く理由は「給料」の為、「お金」の為である。 どんなに仕事が楽しくても、生活できる給料がもらえなければその会社で働き続けることはできない。続けたくてもできないのだ。 この「お金」の部分を無視して、キャリアアップだとか明確な目標がとか言っても、モチベーションが上がることはほとんどないと断言できる。社員は修行僧ではないので、キャリアアップも目標を達成できた場合でも、それによる評価として「給与が上がる」というのがモチベーションにつながるのである。 お父さんがこういう話をすると、嫌な顔をする人は一定数いるものである。「人はパンのみにて生きるにあらず」という有名な言葉があるが、パンがなくては生きていけないのが現実である。 生活基盤が安定していて初めて、次の欲求が出てくる。端的に言うと、衣食住が安定し、少しの余禄がある状態で初めて、仕事に別の価値を求めることができる。衣食足りて礼節を知るという言葉の通り、まずは生活できる給与が必要である。 今の世の中は、物質文化というか、すべての価値はお金に換算して決められていく。「プライスレス」と聞くと何となくかっこいいのだが、現実でプライスレスの喜びを感じるにはお金が必要なのである。 だらだらと書いてしまったが、お金を出さずにモチベーションを上げることは、現実的な方策とは言えない。仕事で成果を出したら給与か賞与をUPすることでモチベーションが上がるのであって、成果をだして口頭で褒められたからとか、表彰されたからモチベーションが上がるわけではない。 これを勘違いして、お金を出さずにモチベーションを上げようとして失敗する経営者をたまに見る。おそらく人間の本質がわかっていないのだと思う。
2024.03.02
コメント(0)
先日ウズラの卵を給食で食べて小学生が亡くなったというニュースを見た。子を持つ親として、亡くなった子供の身内の方々には同情を禁じ得ない。朝普通に登校した子供が、まさかそんな理由で帰らぬ人となるのは想像できなかっただろうし、受け入れることもできないかもしれない。自分が同じ立場だったらと思うと涙が出そうになるニュースであった。 しかしながら、その後のニュースの内容を聞いて、日本はもうダメなのではないかと思ってしまった。ウズラの卵が危険だから、給食には今後ウズラの卵を使わないようにするようなことを言っていた。 さらに、同じニュースの中で、小学校低学年も高学年も同じサイズの食材となっていると、これも問題であるかのようなコメントがあった。 お父さんが子供の頃から、ウズラの卵は家でも給食でも外食でも普通に食べてきた。給食が学年ごとに食材のサイズを変えていたという話も聞いたことがない。というか変えるという発想すらなかった。 これまでにも調べてみればウズラの卵や白玉で子供が死亡する事件と言うのはあったという。それでも今日までウズラの卵が給食で使われてきたのは、ウズラの卵は子供にとって危険な食べ物だという認識がなかったからだろう。 賛否両論あるのだろうが、今回の事件をもってウズラの卵が全国の給食から消えるような事態になるのなら、もう日本はダメだと思う。事件が起きるたびに、対策を立てるのは正常な行動ではあるが、はるか昔から食材として存在したウズラの卵が、運が悪いと死亡の原因になるという極めて確率の低い発生事例をもとに無くなってしまう。そんなことを繰り返して、この国はどんどんおかしくなっていっている。 公園で子供が怪我をするからと、多くの遊具が消えたのはもうずいぶん昔の話である。さらに公園でボール遊びができるところは今ではほとんどなくなってしまった。すべて怪我をする可能性があるからというものが理由である。 事故を起こした子供の親が、管理する自治体を訴えたりすれば、自治体は遊具を撤去して、ボール遊びも禁じざるを得ない。 結果として公園は子供の遊び場ではなくなった。ゲームという新しい遊戯の発展もあるだろうが、交通事故より少ない可能性を恐れて、子供を公園から遠ざけてしまったのだとお父さんは思っている。 話がズレてしまったが、最終的に給食は日本の文化からなくなるとお父さんは思っている。食中毒や今回のような事故で責任を取らされるのなら、給食など無くしてしまうというのが責任者の結論になるだろう。 親が作った弁当なら、食中毒を起こしても、死亡事故を起こしても学校が訴えられることがない。それが合理的な判断だと思う。 しかしながら、今回の事件で給食に問題があると考えている人ほど、給食の廃止には反対するのだろうとも思う。要はこのようなことでクレームをつける人というのは、物事の1部分しか見えない上に、自分の都合の良いようにならないのは世の中が悪いと思っている人達だからだ。 長女と長男が通った中学校は、公立であるが中高一貫の学校で入試のある学校だった。受験者を対象とした学校説明会で、きちんと理由を説明したうえで、給食は無いので弁当を持ってくるか、パンを購入するようにと指示があった。皆納得して子供を受験させていると考えるのが道理である。 ところがお母さんの話では、長女の入学から長男の卒業まで6年間、毎年PTA総会などで、「どうして給食にしてくれないのか」とクレームをつける親がいたという。入試前から説明していることを含め、毎年同じ回答を学校側がするのを聞いているのは苦痛だったとよく言っていた。 こういうおかしなクレーマーが世間に受け入れられることで、今回も亡くなった子供の親が何も言わないうちに、ウズラの卵は給食から消える。誰もがどんなクレームでも受けることを怖がっているし、無理筋なクレームが正当化される世の中になっている。 いつか揺り返しが来るかもしれないが、本来自由が保障されている日本の国が、自縄自縛で規制だらけになってきている。
2024.03.01
コメント(0)
全31件 (31件中 1-31件目)
1