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我が家の次女は数学というより算数の時代から、勉強が苦手である。現在でもすべての強化で勉強というものが嫌いであり、できることなら中学を卒業したら働きたいというほど勉強嫌いである。 お父さんがこれまでの人生で見てきて、勉強が苦手な人というのは小学校で時計の読み方で躓くことが多いと思っている。そして次の壁が分数である。この2つを乗り越えられる人は少なくとも小学校までの勉強で苦労することはない。 どうしてこの2つが難しいかというと、どちらも実感できない概念だからである。現在の時間は60進法を基本にいろいろと混ざっている。1年を365日とする。これは地球が太陽の周りを1周するのにかかる日数なので世界的に認識される数であり、概念とはちょっと異なる。では1日を24時間とするというのはどうだろうか。1時間を60分としたのは?1分が60秒なのは?と考えると、人間が勝手に決めたものだと思う。もちろん理由は存在するのだろうが、お父さんははっきりとは知らない。60という数字は約数が多いから便利だったとも聞いている。 さて時間は概念といったが、「今何時」というのを肌で感じることはできないからだ。もちろん太陽が南にあるから12時ぐらいはわかる人もいるだろうが、真っ暗な部屋に閉じ込められて、何も見えない、何も聞こえない中に置かれた今何時と聞かれても全く分からなくなる。 温度も概念的な数字であるが、少なくとも熱いとか寒い、冷たいなどの感覚がある。それに数値を当てはめた生活をしていれば何となくわかるものである。 学校の「時間」の勉強が、太陽の位置を基準にして教えられたら、大多数の人が理解できるだろう。日の出が6時、南中が12時、日の入りが18時と覚えれば、あとは見た目や角度で計算もできる。 だが残念ながら時間の勉強は時計の読み方から始まる。1から12の文字が書かれた丸板に、長針と短針が描かれていて、「今何時?」というのを問われる。よって、時計のルールを覚えなくてはならない。この時短針が「何時何分の何時を」、長針が「何時何分の何分」を示しており、片方は12で1周なのに、片方は60で1周である。そして1分も1時間も肌で感じることも目で見ることもできない。 さらに言うと短針は1時間ごとに1から2にカチャっと進めばいいものを、1時と1時50分では位置が異なっている。もちろんこのほうが実際に時計が読めるようになった人には都合がよいのだが、読めないうちは1と2の間に短針があるから1時か2時のどちらかだとはなっても、すぐに1時台であると理解できない人がいて当然である。 分に至っては、たとえ60個の目盛りが刻まれていても、2で10分、8では40分といわれても混乱するだけだろう。 お父さんは時計の勉強で苦労した覚えはないが、当時すでにデジタル表示の時計が世の中にはあったので、全部それにしてしまえば楽なのにと思っていた。いちいち面倒くさい方法で時間を表示することに何の意味があるのだろうと本当に不思議だった。 実際にすべてがデジタル時計になれば、学校で時計の勉強をする必要はなくなるだろうし、アナログ時計の読み方を知らない大人が、初めて読み方を教わったらこんな面倒くさいものを覚える必要はないと考えると思っている。 電卓によって、そろばんは駆逐されてしまったが、デジタル時計はアナログ時計を駆逐することに失敗している。そろばんは実用品、時計はファッションも兼ねているからであろうと思うが、本当の理由はわからない。 今の世に生きる人の多くがそろばんができず、またそれによって不便を感じていないように、時計もデジタルにすれば勉強の必要はなくなる。どちらの世界が良いのかお父さんにはわからないが、時計の読み方で苦しんでいる時だけはアナログ時計は要らないものであろう。
2024.11.07
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お父さんが子供の頃、年末の大きな行事として「餅つき」があった。親戚一同が祖父の家に集まって正月用のお餅をつくのだ。前日からもち米をといでおき、朝早くから大きな蒸し器で米を蒸す。蒸しあがったもち米を臼と杵で粘りのある餅になるようついていく。ただお父さんが物心ついた時には、祖父の家には最新式の餅つき機があり、それを使っていた。もちがつきあがると、まずは鏡餅を作る。熱い餅を丸めて鏡餅の形に作っていく。各家の神棚や床の間の分を作るので、結構な数を作っていたし、場所によって大きさも変えていたので、結構大変な作業だった。次にのしもちを作っていく。大きな板につきあがったお餅を乗せて伸ばしていく。角餅の形に切るのは2日後ぐらいだ。ここまでは子供は見ているだけで手を出させてもらえなかった。最後に祖父の家では餡入りの餅を作っていた。餡子も前日から用意していて、つきあがったもちで餡子をくるむのが子供達の仕事だった。作った先から食べていたので、よく怒られたものだ。 さてこうしてできたお餅は、鏡餅は神棚などに、角餅は冷蔵庫に、餡子餅も冷蔵庫だった気がするが、それぞれ保管されていた。今は市販品のお餅が1個ずつフィルム包装されているので、常温に放置していてもカビが生えることはない。 しかしながら昔は正月の3が日が過ぎる前から鏡餅はカビが生え始めていた。冷蔵庫で保管している角餅も1週間ぐらいでカビが生え始める。正月明けの餅はカビとの戦いだった。さらに言うと、放送されていない餅はどんどん乾燥してくるので、割れていく。その割れ目にできたカビを取るには割れ目に沿って餅をきらなければならない。そんなことをすればお餅が小さくなってしまうので、割れ目のカビは無視していた。 よって正月明けの餅はかび臭い香りと味がするのもお父さんにとっては当たり前だったが、無論美味しいわけでは無い。カビが一番ひどいのが、鏡餅だ。1月11日の鏡開き(鏡餅をおろして、皆で食べる)まで、ずっと外気にさらしっぱなしになっているので、あちこちひび割れている上に、カビだらけになっている。これを無業息災の為とかで無理やり食べさせられるのが、子供の頃は一番嫌だった。 今は祖父の家での餅つきもなくなり、鏡餅はスーパーなどで売っている鏡餅の形の樹脂の中にお餅が個別包装されてはいっているモノを用いるので、カビと戦うことは無くなった。角餅に関しては、いまだに1升分だけ業者がついた餅を購入しているので、カビが生えるが、鏡開きでは鏡餅のなかの餅を食べるので、カビが生えていることはない。 ただ大人になって思うのは、あのカビだらけの鏡餅を割って、ついたカビを包丁で削り落としながら(本来は鏡餅に刃物をいれることは良くないとされている)、カビだらけの鏡餅を食べるのも悪くはなかったと思う。子供はニオイに敏感なので、カビの香りや味は苦手だったが、今なら美味しく食べることもできるかもしれない。当時の大人はそれほど文句を言わずに食べていた記憶がある。 カビだらけのお餅を頑張って食べるのも正月の一つの風景だったと今のお父さんなら思える。ただ今の子供達はカビだらけのお餅のカビをある程度取り除いて食べるといった行為は絶対にしないだろう。我が家の子供にとって、正月にお餅を食べるのは儀式的なものととらえているようで、お父さんが子供の時の様な「ぜいたく」とは考えていない。一つはお餅より美味しいモノがいくらでも食べられる時代になったということもあるだろうし、もう一つの理由としてつきたてのお餅を食べる機会が減っているのもあるかもしれない。あとはストーブの上で餅を焼く楽しみがなくなったのも原因の一つかもしれない。
2024.01.17
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昨日アシックスのジャージを買ってもらえなかった思い出を書いたが、このジャージの話にはさらに続きがある。無メーカーのジャージを着ることになったお父さんに更なる事件が待っていたのだ。 あまりに抗議するお父さんに対して、母親は「次にジャージを買う時は必ずメーカー品を買う」と約束してくれた。どうせすぐに忘れるだろうと思っていたと今ならわかる。 ところが事件が起きた。例のジャージを着てその冬のどんと祭に参加していたお父さんに、飛んできた火の粉が落ちたのだ。場所は右肩の後ろで、お父さんは友達に指摘されるまで全く気が付かなかった。 気が付いた時には、右肩の後ろに3センチ以上のいびつな大穴が開いていた。 一瞬、「やばい、おこられる」と思ったが、次の瞬間素晴らしい可能性に気が付いた。こんなに大きな穴が開いたのだから、ジャージを買い直してもらえると。そして今度こそメーカー品を買ってもらえると。 家に帰って母親に火の粉で穴が開いたことを伝え、しおらしく演技をしながら新しいジャージを買ってもらえるようにお願いした。 母親も、さすがに穴あきジャージはダメだと思ってくれたのだろう。新しく買うことをしぶしぶ認めてくれた。お父さんは、今度こそメーカー品を買ってもらえると喜んだ。もうどのメーカーでも構わないので、安いモノでいいからメーカー品を買ってもらえるようにお願いした。 ところが結局お父さんの願いはかなわなかった。お父さんの母親は恐るべき人であった。翌日穴の開いたジャージを、「着られるようにした」と母親から渡された。何を言っているのかと思ったら、穴の開いた部分に継ぎあてがされていた。 戦争前後の子供ではない。お父さんの小学校時代に、継ぎをあてた服を着ている子供など一人もいなかった。そして猛烈な抗議もむなしく、お父さんはそのジャージを着て学校に行かされた。 継ぎあてを初めて見るクラスメイトがお父さんのジャージを入れ替わり立ち代わり見に来た。本当にひどい仕打ちだと思った。 最終的にお父さんがメーカー品のジャージを手にするのは高校1年生の時である。中学校は学校指定のジャージだったので、メーカー品を買うことは無かった。高校の部活で、スポーツ店で学校名と部活名が入ったデサントのジャージがお父さんの初メーカー品ジャージだった。 友達の前ではなんともないふりをしていたが、心の中は「とうとう手に入れた」という思いでいっぱいだった。 思い入れの強かったそのジャージをお父さんは大事に3年間着続けた。同級生がボロボロに使う中、汚れないように、痛まないように注意して着ていた。そのおかげで高校を卒業したときにも、まだまだジャージはきれいな状態だった。部活仲間に驚かれたほどだった。 思い入れが強すぎて、いまだにそのジャージは家に置いてある。何度も捨てる機会はあったのだが、そのたびに「初のメーカー品ジャージ」という思い出が、捨てる決意をさせてくれなかった。高校名が入ったジャージなどもう一生着ることは無いのだが、それでも捨てることなくいまだに保管している。 ちなみに子供のころ、「自分の子供にはメーカー品をきちんと買い与える」と誓ったおかげで、我が家の子供たちは小さい頃からきちんとしたスポーツメーカーのTシャツやジャージを着ている。 我が家の子供たちは、何度も何度も泣いて頼んでもお父さんにメーカー品を買ってくれなかったお父さんの母親、おばあちゃんに感謝するべきかもしれない。
2023.07.11
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お父さんが小学校4年生ぐらいのころから、スポーツメーカーのロゴ入りのTシャツ、短パン、ジャージなどが子供達の間で流行り始めた。キャプテン翼というサッカーマンガ&アニメが流行ったのが原因だと思う。そのアニメの中で、アディダス、プーマ、アシックスなどのいわゆるスポーツメーカーのキャップやシューズが描かれていたからだ。 親が子供のおねだりを許す家の子は、全身をスポーツブランドで固めていた。当時お父さんたちは、スポーツメーカーのグッズを「メーカー品」と呼んであこがれていた。親から新しいメーカー品を買ってもらうと、学校で自慢するというのが流行りだった。 ここからは我が家の話であるが、お父さんの両親は子供に流行りものを買い与えることを決してしなかった。欲しがれば欲しがるほどかたくなに買ってくれなかった。まあ裕福だったわけでもないので仕方がないとは思う。それでもクラスでメーカー品のジャージを持っていないのは5年生になるころにはほとんどいない状態になっていた。 しかしながら、お父さんにもようやくチャンスが訪れた。小学校5年生の秋に、体が成長し前年のジャージが着られないとなったので、母親が新しいジャージを買ってくれると言ってくれたのだ。 そこで必死でお願いをして、新しいジャージにメーカー品を買ってもらえることになった。うれしくてうれしくて友達にも自慢して、ようやくお父さんもみんなの仲間入りができると喜んだ。 どのメーカーが良いかと聞かれたので、アシックスを指定して、色は何でもいいからとにかくアシックスのジャージを買ってきてくれと頼んだ。母親も了解してくれていたので、買いに行くという日は、朝から間違いなくアシックスを買ってきてもらうように念押しをして、その日は学校から走って帰ったことを覚えている。 家について、母親に新しく買ったジャージをもらった。メーカー品であれば何でもいいと思っていたので、新しいジャージのアシックスのロゴを必死で探した。ところがどんなに探しても、どこにもアシックスのロゴは見当たらなかった。そこでようやくこのジャージはアシックスではないと気が付いた。 母親に、アシックスでないジャージを間違えて買ってきているから、交換してきてくれと頼んだら、母親から衝撃の一言が返ってきた。「アシックスのジャージを買う約束などしていない」と。 大人になった今ならば理解ができる。母親は一応アシックスのジャージを手には取ったのだと思う。しかしながら値段をみてビビったのだ。そして安いジャージを探し、子供のおねだりなど押さえつけられると考えて、無メーカーの安いジャージを購入することに決めたのだ。いまだに母親はそんなことは無かったとか、ほしいと言われるモノを買い与えてきたと言っているが、記憶に残らないぐらいどうでもいいことだったのだろうと思う。 お父さんは泣きわめいて抗議した。友達にも買ってもらえると言ってあるし、約束したのに違うモノを買ってくるなんてひどすぎると。だが小学生の講義など所詮は無力である。結局母親の逆ギレで、お父さんにはその無メーカーの紫ともグレートも言えない怪しい色のジャージを着るしかなかった。 友達にも散々言われたが、耐えるしかなかった。お父さんが勉強も運動もトップクラスで(書いていて恥ずかしい)、クラス委員などもこなす優等生だったからこそいじめまで行かなかったが、普通のクラスメイトならからかわれていじめられた可能性がかなり高い出来事だった。
2023.07.10
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7月末に日本に帰国する予定である。本当はもう少し早く帰る予定であったが、重要なお客様がベトナム工場に来ることになり、少し帰国が伸びてしまった。帰国した週末が地元の夏祭りに当たるので、久しぶりに花火を見ながら屋台をめぐってみたいと思う。 お父さんは昔から縁日の屋台が大好きだった。特にタコ焼き、お好み焼きなどの粉モノを食べるのが好きなのだが、最近は血糖値の問題もあってあまり食べないようにしている。それにしても最近は祭りの屋台から小動物が消えてしまったと思う。 いまだに残っているのは金魚すくいぐらいだろうか。金魚すくいは相変わらず屋台が出ているのを見かける。 お父さんが子供のころは子供向けに小動物を売ったりつかまえたりする屋台がたくさん存在していた。お父さんはそういう小動物を買いたくていつも親にねだっていたが、なかなか買ってもらえることは無かった。 どうして子供頃、あんなに小動物を飼いたいと思ったのか、今になってはよくわからないが、子供にとって小動物を飼いたいという衝動は本能的に備わっているモノなのかもしれない。 お父さんの子供のころ売っていた、もしくはつかまえる屋台としては、金魚すくいを筆頭に、ウナギ釣り、ドジョウすくい、ヒヨコ、ミドリガメ、カブトムシ、鈴虫などたくさんあった。どれも500円前後だったと思う。 お祭りで親からもらうお小遣いが500円ぐらいだったので、1匹でお祭りのお小遣いが無くなってしまうのだが、それでも小動物を買いたかった。 ダメと言われて一度は家に帰るのだが、こっそり後から買いに行って物置のすみで飼育していたこともある。特にヒヨコはニワトリまで育ててみたくて、何度も購入しては成長する前に死んでしまうことが多かった。 不思議なくらい縁日のヒヨコというのはすぐに死んでしまうことが多かった。その亡骸を庭に埋めてお墓を何度も作った記憶がある。 親になると、すぐに死んでしまうというイメージが強いので、子供が欲しがっても拒否していたのだと思う。我が家の子供たちも金魚すくいをよくやっていたが、1か月以内に大体死んでしまっていたと思う。 小動物にはかわいそうなのだが、子供のころに生き物を飼って、その死を経験するのは子供にとってそれなりに退治だと思っている。これは賛否両論あるだろうが、お父さん自体は小動物の死をたくさん経験することで、リアルに死というモノを体験してきた。そのおかげで、命の大切さやはかなさを学んだような気がする。 今の子供たちはゲームなどでバーチャルな死はたくさん経験しているが、そこに命の大切さやはかなさは存在していない。リセットすればすぐに復活してしまうからだ。お墓を作ることも死体にふれることもない。 結局死というモノを体験することなく大人になってしまう。ペットを気分で購入し、要らなくなったら捨ててしまう人が増えているのは、こういう状況も影響しているのではないかと思っている。 縁日の屋台が子供に命の大切さを教えるために存在していたはずはないのだが、子供の経験としてはとても大事なモノだったような気がする。今は子供に死を経験させないように、小動物の命を商売にしないように事前に排除されているのではないかと思う。これが幸せなこととは思えないのは、お父さんだけだろうか。
2023.07.04
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人生が進むにつれて、思い出というのはどんどんできていくが、ドンドン記憶から消えていく。様々な思い出や記憶がある中で、お父さんにとって非常に寂しい思い出がある。大した思い出ではないのだが、お父さんの中でたまに思い出しては寂しい思いをするという不思議な思い出だ。 この思い出はお父さんが幼稚園か小学校の低学年ぐらいの時の思い出だ。スフにどこかに連れて行ってもらった後に、祖父の家で会話をしている。そこで祖父に「せっかくいろいろ連れて行っても大人になってしまえば忘れてしまうのだろうな」と少し寂し気に言われた記憶が残っている。そして祖母が「それはしょうがないですよ」と祖父に行っていたことも覚えている。 お父さんはそれに対して憤慨して「絶対に忘れない」と断言したことも記憶に残っている。しかしながら祖父や祖母の言った通り、何を忘れないと言ったかを覚えていないのだ。どこへ行ったかも、何をしたのかも全く記憶に残っていない。ただ「忘れない」と言った祖父母との会話の記憶だけがある状態だ。 この記憶を思い出す度に、あれほど絶対に覚えていると誓ったのに、結局は祖父母の言うように忘れてしまったという寂しさをどうしても感じてしまう。すでに亡くなっている祖父母に申し訳ない気持ちになってしまうのだ。 今でも懸命に思い出そうとしているのだが、上記の会話以外を思い出すことは無い。おそらく今後もそうなのだろうと思う。ひょっとしたら人生最後の瞬間にあるという過去の出来事の走馬灯のようなものがあれば、その時に思い出すのかもしれない。 この記憶があるせいで、自分が子供と遊んだ思い出も、子供の成長とともに子供の記憶からは無くなるのだろうと覚悟ができている。現に子供たちは幼稚園の頃の記憶ですでに忘れているモノが多々ある。 どこへ行ったとか、そこで何をやったとか言うのをまるで覚えていないことがある。そのたびにお父さんはこの祖父母との会話を思い出してしまう。 おそらく祖父母にもそういう記憶が合ったからこそ、あの時あのような会話になったのだと今ではわかる。
2023.07.02
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お父さんは物心ついた時から虫取りが大好きだった。春先に虫が出てくる時期から、秋に虫がほとんどいなくなるまで、虫取り網を持って虫を捕まえていた。カブトムシやクワガタ、セミなどポピュラーな虫だけでなく、目につく虫はほとんどすべてつかまえていた。 おかげでいろいろな虫を覚えたし、つかまえ方もいろいろ工夫していた。毒のあるなしや掴み方、飼育の仕方まで様々図鑑などで調べて遊んでいた。 それ以外で言うと、釣りも好きだった。母方の祖父の家が海のすぐそばにあったので、暇なときは一人で海に釣りにも行っていた。お金もないので、竹竿を持ち出して釣り糸の先に針をつけただけの簡単な仕掛けで、食べることもできないような小さな魚を釣るのが好きだった。食用になる魚はきちんとしたエサや仕掛け、竿やリールが必要だったので、なかなかできなかった。 それでも餌を自分で調達したり、安いエサを小さくきざんで長く使えるようにしたりといろいろと工夫した。 魚が釣れた時のビンビンと伝わる感触がたまらなく気持ちよかった。 夏場に海で遊ぶときは、砂浜よりも磯で遊ぶことの方が好きだった。磯には様々な海の生物がいたからだ。カニを捕まえたり、アサリを掘ったり(お父さんのイメージではアサリは砂浜より磯の下の砂の中にいる)、買いを捕まえたりして遊んでいた。 少し大きくなるとモリをもって海に潜り、魚やカニを捕まえて食べた。 普通の子供が虫取りや釣りをしなくなった年頃になっても、お父さんはいつまでもやっていた記憶がある。社会人になってようやく落ち着いたといったところだろうか。 ところが、社会人というのは子供がある程度大きくなると、自分が幼いころにはできなかったことができるようになっている。要は行動力とお金の自由度が、子供のころとは全然違うのだ。 子供のころの遊びは、大人になってやると趣味になる。 今のお父さんの趣味はオオクワガタ採集と船釣りだ。子供のころ、山に入って雑木林でクワガタを探したのと異なり、オオクワガタは発電機と照明を山に持ち込んでやっている。もう50万円以上はつぎ込んでいる。携帯電話の電波も入らない山奥で、オオクワガタをとるために高価な機材で頑張っているという話は、誰にも理解してもらえないが、お父さんにとっては楽しい趣味の時間である。 釣りに関しては100万円以上かけている。船釣りに出かけると料金だけで1万円前後かかるので、魚屋で買ってきた方が確実だとお母さんに言われるが、大物が釣れた時の嬉しさは食べるだけの人には一生わからないだろう。生活がかかっていないところも趣味の釣りのいいところである。その分釣れなかった時の落胆は大きいが。 こうして考えてみると、お父さんは小さい頃から「狩り」の様に生き物を捕まえることが大好きで、いまだにそうだということがわかる。おそらく一生この性分は抜けないのだろうと今は思っている。
2023.07.01
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子供の頃、お父さんはコミックというモノを一切買ってもらえない家庭で過ごした。当時流行していたドクタースランプとか、キャプテン翼とか、ドラゴンボールなどは、友達の家に遊びに行ったときにむさぼるように読んでいた。 唯一買ってもらえたのは、学研の歴史人物シリーズなどで、娯楽要素よりも教育要素の強いモノだったが、家にあるマンガはそれしかなかったので、繰り返し読んでいた。お父さんが歴史好きになったのはこの環境も一つの原因かもしれない。 さて小説を全く読まないお父さんは、本屋に連れていかれた時は図鑑を買ってもらうことが多かった。特に虫が大好きだったお父さんは、昆虫図鑑を出版社別に何冊も持っていた。その他にも、昆虫の飼い方の本とか、虫の習性の本とか、虫のつかまえ方の本など虫に関するものは目についたものをよく購入していた。 さて当時はインターネットなど存在しない時代であるし、虫などは子供の領分とみられていたせいか、今考えると内容に怪しいモノがたくさんあったのだが、子供にそんなことはわかるわけがない。 おそらく著者というか出版社も、科学的に調査した結果とかではなく、民間伝承的なモノや、おそらくこんな感じで良いのではという適当な情報を載せていたのだと思う。図鑑に載っている飼い方やつかまえ方を何度も実施してみたが、ほとんどうまくいかなかった。 大人になって、冷静に考えると笑えるような情報もたくさんあった。例えばセミの飼い方など、水につけた木(花瓶というか生け花のように生木を入れる)をケースに入れてセミを入れるように書いてあったが、2日ぐらいで死んでしまう。ケース内で生木から樹液など吸うセミなどいないのだ。そもそも飼育方法がダメなのだから短命と言われているセミが長生きできるわけがない。 また最近の研究では、セミの寿命は7日間などではなく、環境によって30日ぐらいは成虫のまま生きるということもわかってきているようだ。お父さんも7日間しか生きられないにしては、7月などガンガンセミが鳴いている割に死骸が少ないと不思議に思っていた。地面にセミの死骸を見るようになるのは8月になってからだ。 図鑑や本というのは、常に真実を書いているわけでは無いということを大人になると知るようになる。今の図鑑などはもう少しましだと思うのだが、今後も徐々に新発見、新研究とともに変わっていくことだろう。 カブトムシやクワガタの飼い方もお父さんの子供の頃とは変わっているし、卵から成虫まで返すこともかなり簡単にできるようになっている。これは研究というよりも、商業的に虫を販売できるようになった結果だと思っているが。 お父さんの頭の中には子供の頃図鑑や本で覚えた知識がまだかなり残っている。今後もアップデートしないと間違った知識を持ったまま人生が終ってしまうかもしれない。
2023.05.02
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ベトナムではセミの羽化の季節がやってきている。お父さんの会社には、木がたくさん植えてあるので、地中から出てきたセミの幼虫があちこちの木で羽化を始める。年によっては羽化したセミの抜け殻で木が埋まってしまう年もある程、あちこちでセミの羽化を見ることができる。 お父さんは夕方6時半ぐらいからゴルフの練習で外へ出るのだが、早めに羽化をするセミはその時間にはもう真っ白な羽根を伸ばして木にたかっているので、とてもきれいな姿を見ることができる。 セミの羽化を見ることは、子供の頃からのお父さんの夢の一つだった。小学校1年生の時、セミの羽化が見たくてセミの幼虫を探したことがある。近所の家(当時は塀とかあまりきちんとなかったので、勝手に入ることができた)のセミの抜け殻がたくさんついているビワの木の下をスコップで掘り返して探したこともある。 この時ついに、1匹の幼虫を見つけたのだが、親に自慢してみせたら、セミの幼虫を見つけたことではなく、近所の家の庭を掘り返したことを怒られた。そしてその家に母親と一緒に謝りに行かされてしまった。今考えれば当たり前で、親の心境はひどいモノだったとわかるが、お父さんは全然悪いことをしたと思っていなかった。 つかまえた幼虫は学校へ持っていって友達に見せびらかした後、教室の後ろでビンに入れて羽化するのを待ったのだが、数日で死んでしまった。初めての羽化観察は大失敗だった。 2回目のチャンスが訪れたのはその1年後ぐらいだっただろうか。やはり抜け殻の多い木の下で、これから羽化を始めようとしている幼虫を見つけた。大事に家に持ち帰って家のカーテンに摑まらせたのだが、場所が決まらないのかずっと動いていてなかなか羽化を始めようとしなかった。 親に怒られて虫かごに入れて夕食を食べて風呂に入っているうちにセミの幼虫は羽化していた。ただ本来ならじっとして体が固まるのを待つはずのセミは、虫かごの中を歩き回っていた。翌朝見ると、生きてはいたし、羽根も固まっていたが、足は動いているが羽ばたくこともできない状態になっていた。2回目も失敗してしまった。 3回目のチャンスは祖父母と一緒に山口県に旅行に行ったときのことだ。小学校3年生だった。旅館の庭で羽化をしようとして地面から出てきたセミの幼虫を見つけた。この時は同い年のいとこも一緒だった。2回の失敗でお父さんも勉強していたので、今度は網戸に摑まらせたところ、しっかりと止まってくれて羽化が始まった。 ところが、背中が割れて少ししたところで羽化が止まってしまった。1時間たっても2時間たっても変化がないので、いとこと何とかしようと祖父のライターを借りて下からあぶったりしてしまった。この時網戸が溶けて穴が開いたことを覚えている。 結局翌朝までそのままで、3回目のチャレンジも失敗してしまった。 その後セミの幼虫を捕まえることは無く、大人になってしまった。結局本当にセミの羽化を最初から最後まで見ることができたのは、ベトナムに来るようになってからだ。工場の庭でセミが羽化するので、頑張らなくても見ることができる。 テレビで見ていたように、真っ白な体が出てきて徐々に羽根が広がって、白いセミが現れる。一晩かけて白いセミは本来の黒っぽい色に、羽根は透明になって飛び立っていく。 ちなみにその姿をお母さんにも見せたくて、段階ごとの写真を送ったら、「気持ち悪い写真を送るな」と怒られてしまった。子供が小さい頃に一緒に見ることができたらもっと楽しかったと思うが、もう手遅れだ。楽しみは孫に取っておこうと思う。孫が興味を持ってくれるといいのだが。
2023.04.23
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先日ハチの話を書いていて、ハチに関する話をもう一つ思い出した。実際は2つ思い出したのだが、2回に分けて書いていこうと思う。 お父さんは小学生時代、大きなベランダのある部屋を与えられていた。兄の部屋とつながったそのベランダは、一家のリビングと同じ広さがあった。 天気のいい日はそこでのんびり外を眺めるのが好きだったし、友達ともベランダに出て遊んだことも結構あった。一軒家であれほど広いベランダを持つ家はなかなか無いのではと今でも思う。 さてそのベランダだが、田舎に建っていたせいか、よくアシナガバチが巣を作っていた。最初は小さい巣なので気が付かないが、大きくなってくるとハチが増えて飛び回るので、気がつくようになる。時には部屋にも入ってくるので、退治しないと危険な状態になる。 普通に巣を叩き落して除去してしまえばよいのだが、子供の頃はそのハチの巣にちょっかいをかけて遊ぶことも多かった。特によくやっていたのが、ハチの巣に殺虫剤をかけて、怒って襲ってくるハチを部屋に逃げ込んで窓を閉めることで回避するという遊びだ。遊びと言ってもハチの巣を除去する前段階の行為でもある。 ある日、お父さんが大きくなったハチの巣に殺虫剤をかけようとしていたら、1歳年下の妹が見に来た。あぶないから近づかないように言ったのだが、私も見たいと言ってきかなかった。 殺虫剤をかけたらすぐに逃げ込むように指示をして、妹はお父さんの後ろをついてきた。 いつものようにハチの巣に向かって殺虫剤をかけて、部屋に逃げ込もうとしたら、初めての恐怖でパニックになった妹が部屋の入り口でもたもたしている。後ろからはハチが襲い掛かってきているのでお父さんも焦った。 そして、妹がようやく部屋に入った瞬間、彼女は驚きの行動に出た。お父さんをベランダに残したまま、部屋の窓ガラスを閉めてカギをかけたのだ。自分が助かるためにお父さんを犠牲にする行為だ。 結局逃げ場のなくなったお父さんは襲ってくるハチに腕を刺されて痛い思いをした。ハチが窓の周辺からいなくなるまで妹は頑として窓を開けなかった。 小さいころから妹は、自分が逃げられれば家族が犠牲になっても構わないという性格で、風呂釜がガス漏れして小さな爆発が起きた時も、一人で逃げるようなことをしていた。 それにしても、逃げようとして目の前で締め出された時の驚きと、その後のハチに襲われた恐怖は今でも覚えている。幸いにもアナフィラキシーショックも出ずにただ痛いだけで済んだのだが、本当にひどい思いをした。妹はもう忘れているだろうか。 ベランダのハチの巣に殺虫剤をかけて遊んでいたら、妹に締め出されて刺されてしまった。ひどい話だ。
2022.06.04
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お父さんは家族から、何でも口に出す人と思われている。その場の雰囲気を考えるとか空気を読むとかしないということで、家族からの評判は今一つだ。お父さんは「言うべきことははっきりと言う」というポリシーなので、今のところやり方を変えるつもりはない。 ただ一つ言い訳をしておくと、自分が関係ないものには一切口出しをしない。口を出すのは自分も関わってやらなくてはならないことだけに限定している。 さてそんなお父さんだが、先日家族とマスクの話をしていて、ふと忘れていた小学生時代のことを思い出した。思えば周りに流されずにきちんと自分の意見を言わなくてはならないと思うようになった最初の出来事かもしれない。 お父さんが小学校の3年生ぐらいの時だと思うが、使っていた消しゴムが小さくなり新しいものを購入するように母親にお願いした。当時のお父さんの小学校は「購買」という物があり、学校で使う文房具や雑貨などは校内の「購買」で購入することができた。朝と昼休みに「購買」が開いていたので、お父さんは母親からお金をもらって消しゴムを購入するため「購買」に行った。 いつもの光景だが、だいたい購買は生徒が並んでいる。窓口でほしいものを告げると中の人が窓口にそれを持ってきて、窓口でお金と引き換えに物品を受け取るという仕組みだった。 さてお父さんが並んで順番を待っていると、前の方で買っている人が「マスク」を買っていた。別に普通の事なのだが、そこからがすごかった。お父さんの前に10人ぐらい並んでいたと思うのだが、次の人も、その次の人も「マスク」を購入していくのだ。5人を過ぎたぐらいで、売り手の方も「マスクがこんなに続くなんて」と驚いていた。その後もマスクは連続して売れ続け、お父さんの順番が近づいても「マスク」を購入する人が続いた。売り手は「どこまでマスクが続くのだ?」と不思議な出来事にワクワクしていた。 お父さんは「消しゴム」を買うつもりだったが、あまりにもマスクが続くのでやばいと思い始めた。消しゴムを買うと、マスクの連続販売記録が途切れてしまうからだ。何とかお父さんの前までで、連続記録が途切れることを祈ったが、最後の期待だったお父さんの前の人も結局マスクを注文してしまった。 当時のお父さんは流れに逆らうことができずに、結局マスクを買ってしまった。全く必要のないモノである上に、消しゴムを買うお金も無くなってしまった。でもマスクの連続記録を途切れさせるわけにいかなかったと自分に言い聞かせていた。ところが、次の瞬間お父さんは愕然とした。お父さんの後ろにいた人が、マスクではないものを購入したのだ。連続記録はお父さんで途絶えた。後ろの人が何を買ったのか覚えていないが、マスクではなかった。 お父さんは後ろの人がお父さんの前にいれば、マスクなんて買わなかったのにと激しく後悔した。いや、なんで流れに負けてマスクを買ってしまったのかと、絶望した。 この事件以来、お父さんは自分が言わなくてはならないことは、周りがどうであれはっきり言おうと決意した。お父さんが図々しくなる第1歩だったかもしれないと思う。 今では余計なことまで言うお父さんだが、子供の頃はこんなに気が弱かったのだ。だから今は気の弱いお前たちも、いろいろな失敗をして、強くなってほしいと願っている。
2022.05.20
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お父さんが初めて給料をもらえる仕事をしたのは、小学校の3年生の時である。当時祖父が経営していた水産加工会社の仕事を2日間手伝わされた時だ。もちろん法律的には違法であるし、給料と言っても祖父から1000円をもらっただけだ。会社からもらったわけではない。 小さい時なのでほとんど覚えていないが、おそらくその時、会社の従業員の欠勤などでどうしても人手が足りなかったのだと思う。魚をセイロに並べる仕事だったので、いないよりはということで遊びに来ていたお父さんにやらせてみたのだと思っている。 実際の作業は大人たちに囲まれて、ひたすらに魚を並べるだけの単純な作業だったが、難しい仕事ではなかったので、体力との勝負だった。ただ周りの大人たちのスピードについていけず、悔しくて必死でやっていたのを覚えている。考えてみるとそのころから負けず嫌いだったのだろう。 次に仕事をしたのは、同じく祖父の経営する会社での仕事だが、機械に部品をセットする仕事だった。これは中学1年生の時と2年生の時に2回ほどやった。夏休みに2週間、大人に混じって仕事をした。周りの大人たちはさぞ迷惑だっただろうと思う。 こちらの作業は部品を機械にセットするのにコツが必要で、失敗すると治工具を破損してしまうような仕事だった。そしてなれないお父さんは何度も治工具を壊した。 こちらの仕事は、父親がお金を稼ぐ大変さを勉強させるためにと強制的にお父さんにやらせたものだった。水産加工場と異なり、工業だったせいか現場はかなりピリピリしていて、とても怖かった。終了時間が早く来るようにとにかく無心で働いていた。 人生で一番つまらなくて嫌な仕事だったかもしれない。基本的には社会体験のようなものだので、自給170円というひどい仕事だった。終了日に明細を見せられて愕然とした記憶がある。 お父さんは経営者の祖父がいたおかげで、無理やり放り込まれて働いた経験を持っているが、普通の人は経験できないし、今のお前たちにお父さんが経験させてやることもできない。今にして思えば本当に貴重な経験だった。 大学生になりいろいろなアルバイトをしたし、社会人としても働いてきたが、あの部品工場での仕事のように「嫌でたまらない」という仕事をしたことは無い。自分の意志とは無関係で放り込まれ、知り合いが誰もいない中で、失敗を繰り返したあの仕事は、本当につらかったと今でも思う。
2022.04.04
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ルービックキューブは頭脳系のパズルだ。お父さんが小学生の頃に日本で大ブームを起こした。今調べてみたら日本発売は1980年だったようだ。日本中がルービックキューブに夢中になっていたので、お父さんの家にも当然存在していた。 しかしながらこのパズルはある程度右脳が発達していないと、もしくは図形や3次元モデルが頭の中で自由に動かせるような能力を持っていないとなかなかに難しいパズルだ。お母さんは今でも1面すら作ることができないらしい。 どうしていまさらルービックキューブについて思い出したかというと、お母さんからある話を聞いたからだ。長女の同級生に小学生のころ、ルービックキューブを6面すべて揃えるのに20秒前後しか必要としない生徒がいたということだ。この生徒は夏休みの自由研究でもルービックキューブの揃え方をテーマに発表したらしい。お母さんは聞いていても実演を見ても全く理解できなかったようだ。 この生徒も今や長女と同じ高校3年生になり、先日の全国模試で東京大学のA判定をとったと聞いた。生まれながらに頭が良いのだろうと思う。 お父さんは大学浪人時代に東京大学合格を目指す人たちと同じ寮に住んでいた。そこには今まで出会ったことのない天才たちがいた。全国模試の1桁に名前が載っている人が目の前にいるという事実に驚いたものだ。そもそも本人も周りの人もどうして現役の時に受験に失敗したのか全く分からないような頭脳の持ち主だった。 彼にわからない数学の問題を聞いた時、問題を読んだ後に「多分答えはこれになると思うけど、ちょっと解いてみるね。」と言って問題を解き始めた。数分できっちりと解ききって、「やっぱり最初の答えであっていたね」と解き方を見せてくれたが、お父さんにとって何の参考にもならなかった。問題を解く前に答えが浮かんでくるというのだから、お父さんの脳みそがついていけるわけがない。 ルービックキューブが得意だった生徒も、レベルの違いはあるにしろ同じような部類の脳みそを持っているのだと思う。 さて、お父さんは頭脳は大したことは無いが、昔から好奇心は旺盛だった。ルービックキューブの6面をそろえたいが、お父さんがどんなに頑張ってもそろえることができなかった。そこでお父さんはルービックキューブを分解することに決めた。 家族がみんな飽きていたので、お父さん専用になっていたキューブのブロックを無理やり引っ張ってはがしてみた。思ったよりも簡単で中の構造はとても面白かった。そもそもどうしてキューブの位置が自在に動くのかが不思議だったので、ばらしてみて初めて構造を理解でき、興奮したのを覚えている。 再度きれいに組み立てて6面をそろえることが、できた。家族に見せたら大変驚かれたが、種明かしをしたら怒られた。みんなのおもちゃを壊すのではないと。 この時のことを思い出すと、やっぱりお父さんはエンジニア向きだと思う。開発や発明にはあまり向いていない。でも現状あるものを組み合わせて遊ぶ(使う)という脳みそはこのころから持っていたのだろう。 頭脳を使ってパズルを簡単に解く人は尊敬するが、お父さんのやり方で6面そろえる子供もいたのではないかと思う。パズルとしてはずるなのだが、どうしても6面そろえたいときに別の方法を考えることもまた理系に適した脳みそだと思う。 ちなみにいまだにお父さんはルービックキューブで6面をそろえることはできない。
2021.05.30
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お父さんは子供たち全員の逆上がりの練習に付き合った。息子は相変わらずのヘタレでできないことをできるように練習するのが嫌だったようで、お父さんとの練習はすぐに終了になったので、息子が逆上がりができるのかいまだに知らない。 娘二人は頑張って練習したので、今はわからないが当時はできた。お父さんは逆上がりを教えるのがへたくそだ。なぜなら逆上がりというものを見せてもらったすぐ後に、普通に成功したからだ。逆上がりを練習したことが無いのだ。 だからなぜできないのかがわからない。そんな人が上手に教えられるはずがない。 今回は別に自分の子供のことを書くつもりはない。お父さんが子供の頃に鉄棒で遊んでいたことを書きたいと思っている。 幼稚園の頃は、逆上がりや連続逆上がり、前回り、足掛け回りなど通常の技で遊んでいた。しかしながら小学生になると、昭和時代の子供はそんなもので満足しなくなる。スリルを求めるようになるからだ。 通常の技から少し危険な技に挑戦し始める。低学年の頃に遊んだのは「グライダー」と呼ばれる技だ。鉄棒の上で両手両足を鉄棒に押し付けて回転し、タイミングを見計らって前方へ飛び出して着地する技だ。今なんというかは知らない。 子供たちに聞いても、そんな技で遊んだことが無いということだ。まあ失敗するとそれなりにけがもしやすいのでいつの間にか禁止されたのかもしれない。ちなみに昭和のガキは禁止されようがやっていたが。 グライダーという技は、鉄棒の高さが高いほどスリルが増すと同時に危険度も上がる。どれだけ高い鉄棒からどこまで飛べるかが鉄棒遊びにおけるステイタスになる。お父さんは子供の時は身軽だったので、高鉄棒の一番高いところからもグライダーで飛んでいた。 もちろん着地しっはいは何度も経験しているが、大きな怪我はしたことが無い。以前子供と小学校のグランドで高鉄棒を久しぶりに見たが、こんな高さから小学生がジャンプしていたと思うと少し怖くなった。子供のやんちゃさってすごいなと思う。 小学校の高学年の頃は、「フジサカ」という技で遊んでいた。コウモリのように足で鉄棒から逆さにぶら下がり、体を振ってタイミングよく足を外すことで、半回転して着地するという技だ。これはさすがに初めから一人でやることができなかった。 補助についてもらい、片手もしくは両手を支えてもらうことで徐々にできるようになった記憶がある。 できるようになると、高い鉄棒からやるのだが、本当に難しいのは低い鉄棒だ。回転するだけの高さが少ないからだ。ただし鉄棒が低いので失敗しても大きな怪我はしない。 ちなみに子供といったときにまだできるか試そうと思って、高鉄棒に足で逆さにぶら下がってみたが、失敗したときのことを考えて実践できなかった。 子供の頃はあんなに簡単にできたのにと不思議に思うぐらいだった。 ちなみにこの「フジサカ」という技は結構大きな怪我をする子供がいた。恐怖ややりすぎで失敗するのだ。お父さんが小学校で友達と遊んでいた時、上級生が乱入してきて「俺が見本を見せてやる!」みたいなことを言ってきたことがある。 颯爽と鉄棒に取り付いて体を振り、かっこよくフジサカを決めようとして頭から落下するのをまじかで目撃した。砂場に落ちたので頭や首は無事のようで意識は普通にあったが、彼の腕が段付きになっていた。ぼっきりと骨折したのだ。 上級生といえども小学生、泣きながら痛がっていたのを覚えている。 それなりに危険な技だったが、小学生の男子はある程度恐怖を克服してこれらの技ができないと、当時は馬鹿にされたものだ。 まあ女子はあまりやっていなかった記憶があるので、娘には求めないが、息子にはもう少し馬鹿をやってもらいたいと思う時がある。あまりにもイイ子というか無茶をしない息子にちょっと寂しいお父さんである。
2020.11.28
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お父さんは子供の頃、火で遊ぶのが大好きだった。もちろん親からは禁止されていたが、焚火がダイオキシンが発生するから禁止などと言われる前の時代だったので、マッチやライターを持ち出して遊ぶことは比較的簡単だった。 どの家にもドラム缶や一斗缶を流用したような焚き火用というよりゴミを燃やす道具が置いてあった。今では考えられなくなってしまったが、家庭ゴミの中で生ゴミでない紙ゴミなどキッチン以外で発生するゴミはビニールも含めて庭で燃やしてしまうのが当時は当たり前だった。 休みの日など、普段はお手伝いなどしないお父さんが率先して家中のゴミ箱からゴミを集めて燃やして遊んでいた。これだけならば特に大きな問題はない。だがそこはいたずら好きのお父さんなのでただ決められた場所で燃やすことには飽きてくる。 思いつく限りいろいろな火遊びをした。その中には結構危なかったものや、失敗したものもある。 今ではあまり家にマッチというものが置いていないが、昔はどの家庭にも大量のマッチがあった。飲食店などで無料のマッチがレジにおいてあることが多く、親が何気なく持ってきてたまったものがかなりあったのだ。 マッチを使った遊びでは、マッチを井桁に組んで灰皿の中で疑似キャンプファイヤーをしたり、マッチの頭の部分だけを削って集めて山にしたところに火をつけたりと、今にして思えば何がそんなに楽しかったのだろうと思えるものもある。 外では枯葉を集めて焚火をしたりしたが、彼はというのは意外と燃えない。マンガやアニメをまねてサツマイモを入れたこともあるが、うまく焼けたことは一度もない。落ち葉を集めて焼きいもができるというのは意外とフィクションなのではないかと思っている。 さて失敗談をいくつか書いておこう。まず一つ目は、祖父母の家のコタツの中で起こしたボヤ騒ぎだ。祖父母の家には古い掘りゴタツがあり、昔は練炭で温めていたところを改造して電気球式のヒーターが置いてあった。そのため掘りゴタツの中は格子状の足置きがあり、その下は厚さ3センチぐらいの灰になっていた。 コタツの中でマッチを擦ったりしても、灰に落とせば火が消えるので火遊びにはもってこいの場所だった。ただ祖父がこのコタツに鼻をかんだちり紙などの紙ごみを落っことしてしまうことがよくあり、あちこちに紙ゴミが落ちていた。 その紙ゴミにお父さんが吸ったマッチの火が燃え移り、コタツの中で火が大きくなったことがある。祖父も祖母もコタツに足を入れている状態でだ。お父さんはびっくりして、洗面所の歯磨き用コップで水を汲み消火作業に当たったが、そんな小さな水では消えなかった。 お父さんのおかしな行動を不審に思った祖父がコタツ布団をめくって火が出ているのを見つけた。そこから洗面器を持ってきて大量の水で消火してくれた。この時は祖父母に一回、迎えに来た母親に1回と計2回怒られた。 あとは自分の部屋のゴミ箱に紙ゴミが少しあったので、暇つぶしに火をつけたところ思った以上に火が大きくなり、壁にすすがついて取れなくなってしまった。これも親にだいぶ怒られたが、火事にならなくてよかったと思う。 今でもお父さんの実家にいけばこの壁のすすは残っているのでお前たちも見ることができるだろう。 その他にも海辺で流木を燃やして遊んだり、庭木を一部燃やしてしまったりとかなりいろいろやった記憶がある。プラスチックが溶けながら燃えるのはとても面白かった。 お前たちはお父さんの子供にしてはとにかくいたずらをしない。特に火に関しては小学校時代、「危ないもの」と認識して恐れてすらいた。やはり時代が違うのだろうか。 今ふと思ったが、お前たちはマッチをすることがちゃんとできるのだろうか。
2020.11.27
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お父さんは子供の頃、とてもやんちゃなガキだった。自分の息子が同じだったらさぞ苦労したことだろうと思うが、我が家の息子は実におとなしい。お父さんがやったようなやんちゃないたずらをまるでやらない。ちょっと寂しいとお父さんは感じている。 その代わりに末娘である次女がひどい。人の部屋に入ってモノは取っていくし、取っていったものを壊すし、部屋には何かをいろいろ混ぜたような怪しげな水(我が家では魔女水と呼んでいる)がいくつも置いてあるしでお母さんと頭を悩ませている。 さてお父さんのいたずらは意図してやったものがほとんどだが、意図していなくて結果としていたずらになってしまったものが記憶に残る中に2回ほどある。 一つ目は、障子に書いたいたずら書きだ。といっても障子に絵や字を書きたくて書いたのではない。当時習字を習っていたお父さんは、家で筆を洗っていた。暇だったのでとても念入りに洗っていた。その結果、筆は墨がまるでにじんでこないほどにきれいになった。 洗面所の目の前に妹の部屋の障子があったので、きれいになった筆で障子に妹の名前を書いた。思った通り、墨は全く障子につかなかったのでお父さんは筆の洗い上がりに満足して障子に文字を書いたことなどきれいさっぱり忘れていた。 そしてその週の週末に、親父の怒鳴り声で妹の部屋の前に兄弟全員集合させられた。そしてその理由が墨でうっすらと妹の名前が書いてある障子が原因だった。すっかり忘れていたので、確認すらしていなかったが、やはり筆に墨が若干残っていたようで、濡れている間は見えなかったが、乾いたらはっきりと文字が浮き上がっていた。 お父さんは親父の怒りの激しさに自分がやったと名乗りを上げることができずに「知らない」としらを切った。もちろん犯人はお父さんなので、兄も妹も自分ではないと言い張っていた。結局犯人不明のまま兄弟全員が怒られることで終わった。 しかしながら、親父の推理では兄がやったに違いにということで兄がひたすら疑われていた。理由は、書かれていた字が「きれい」だから。 お父さんは兄弟で一番字が汚いことで有名だった。適当に障子に書いた字は偶然ではあるが、確かにきれいな字に見えた。兄にとってはとんでもない濡れ衣を着せられたことになったが、お父さんにとっては字が汚いことで唯一難を逃れた出来事だった。 ちなみに当時のお父さんは、兄にいろいろな濡れ衣を着せられて翻弄されていたので、兄に申し訳ないとは全く思わなかった。いやむしろざまあみろと思っていた。この事件はお父さん以外はもう覚えていないかもしれないが、いろいろな「意外」が重なったのでよく覚えている。 もう一つの意図しないいたずらは、いとこと実家の2階の屋根裏に忍び込んで遊んでいた時のことだ。当日はやや体調が悪かったが、いとこが遊びに来たことでテンションが上がり無理をして遊んでいた。ところが屋根裏で遊んでいるうちに、頭がクラっとしたと思った瞬間、お父さんは屋根裏の梁から妹の部屋の天井に落ちてしまった。 下には妹がいて、お父さんが落ちたことで天井が割れ穴が開いたと叫んでいた。 「やばい、怒られる」とさらに血の気が引いた状態で屋根裏から降りて天井を見ると、確かに天井のいたが一部割れて、継ぎ目が外れるように天井に穴が開いていた。 これは相当に怒られると恐怖にかられたお父さんは体調が悪いこともあって、そこから一気に熱が上がってしまった。 親父が返ってきて怒られるまで布団で寝ながら恐怖に震えていたのを覚えている。親父が帰宅して猛烈に怒られると思ったが、体調不良もあり思ったほど怒られなかった。「これは直らないな」と親父がつぶやいていたことを覚えている そして、「体調が悪いのはやらかしたからだろう」と母に語っているのを聞いた記憶がある。お父さんは親にはばれてしまうのだなと感じたのを覚えている。実際その時どれぐらい体調が悪かったのか今ではわからないが、怒られる怖さで体調が悪くなった可能性は高いと思う。 今の自宅にも屋根裏に登るための場所が2か所ある。お父さんの今の体重では仮に梁から落ちたら天井を突き破って床まで落ちる可能性があるので、登ったことは無い。そして子供たちも屋根裏には興味がないようだ。安心しつつも少し残念なのはお父さんだけなのだろうと思う。お母さんに話してもこの気持ちはわかってもらえないだろう。
2020.11.26
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お父さんが子供の頃は縁日(いわゆるお祭り)でよくヒヨコを売っていた。ヒヨコというのは子供から見てもとてもかわいい生き物である。親になったニワトリにさわれなくても、ヒヨコはみんな大好きだったと思う。 お父さんは子供の頃からヒヨコを見るととにかく買ってほしくて祖父母や両親にねだっていた。毎回買ってもらえるわけではないが、盛大にごねて何とか買ってもらえることも何回かあった。 結局ほとんどの場合大きくなるまでに死んでしまうのだが、親鳥まで育てたこともある。 今回は縁日で買ったヒヨコの中で思い出に残る話をいくつか書いてみたいと思う。最後はすべて死んでいるので読みたくなければここでやめておいてくれ。「閲覧注意」というやつだ。 一つ目の話はヒヨコはヒヨコでもニワトリではなくウズラのヒヨコを買ったときの話だ。ウズラのヒヨコはニワトリと違って体が小さく色も茶色い縞がありニワトリのヒヨコほどかわいいとは言えない。この時はねだっても買ってもらえなかった。 それでもお父さんはあきらめなかった。ニワトリのヒヨコよりも小さかったせいか安かったと思う。親に内緒で一人で縁日に行ってこっそり1羽購入したのだ。親には内緒なので部屋に持ち込んで隠して飼うつもりだった。 夜に箱に入れて、よく朝目覚めると箱が開いてヒヨコの姿が見つからなかった。部屋のドアは閉めてあったので、部屋の外へ逃げたとは考えられなかった。お父さんは必至で部屋中を探したがどこにもヒヨコの姿はなかった。 仕方なく学校へ行ったのだが、変えるまでに母親に見つかってしまい怒られるのではないかとひやひやしていた。しかし学校から帰っても親からは何も言われず、ヒヨコも見つからなかった。結局お父さんはヒヨコが家の外へ逃げ出してどこかへ行ってしまったという結論に達した。 しかしヒヨコは数か月後に本棚を移動したとき、本棚の後ろでミイラになって発見された。壁と本棚はほとんど隙間が無かったので捜索範囲に入っていなかった。もちろん本棚は親と一緒に動かしたので親も本棚の裏に鳥のミイラがあったことに驚いていたが、お父さんがヒヨコを買ったことすら知らない親は、どうしてこんなところに鳥のヒナが入り込んだのか不思議がっていた。お父さんも不思議な振りをしていたので怒られることは無かった。 まあ今となってみれば、お父さんが犯人なことはばれていたことだろうと思う。すでに死んでいたし、証拠もないので怒ることをしなかったのだろう。 2つ目の話は、一瞬でヒヨコが消えたお話だ。そのときは2匹のヒヨコがいた。お父さんはヒヨコをベランダに出して、追いかけたり抱っこしたりして遊んでいた。そして遊んでいるうちにトイレに行きたくなった。ヒヨコをベランダに残して、大きい方だったので10分ほどして戻ってきた。戻ってきたベランダにヒヨコは1羽もいなかった。 ベランダから落ちたとか隙間から家に入ったとか推理して探したが、見つかることは無かった。お父さんが大人になって思うに、犯人はカラスではないかという結論に達している。お父さんが住んでいた家の周りにはカラスがたくさんいた。トンビや鷹もいないではなかったが、家の近所に下りてくるというよりかなり上空を舞っていたので、2匹同時に数分の間に捕まえることは難しいだろう。 カラスは集団でくれば2羽捕まえることなどあっという間だと思う。子供だったお父さんはカラスは生ごみなどを食べているイメージだったので、ヒヨコを食べるとは思わなかったが、その後カラスが小鳥の巣を襲って卵やヒナを食べてしまうことを知った。 あの短時間でヒヨコをさらっていったのはおそらく近所にたくさんいたカラスだろうと思う。 最後の話は若鳥にまで成長したヒヨコの話だ。お父さんが高校生の頃に誰かからもらって育てたヒヨコだ。さすがに高校生になるとヒヨコを買うことはしていないのだが、誰かからもらった覚えがある。さて高校生になるときちんと育てることができるので、ヒヨコは元気に成長して立派な若鳥になった。 毎日庭を歩いて草を食べたりミミズや虫を見つけて食べていた。名前すらなかったが、家族の人気者だった。ただ一つ困ったことがあった。オンドリだったので、早朝から大きな声でコケコッコーと鳴くようになったのだ。我が家の家族はともかく、明らかに近所迷惑だ。 いろいろ試した結果、夜寝るときに段ボールを上からかぶせておくと、早朝に泣かないことが分かった。夜寝る前にお父さんが段ボールをかぶせ、朝八時過ぎぐらいに母親がダンボールを取り除くとようやくニワトリが鳴く。これが我が家の日課になっていた。 悲劇はお父さんの兄であるAおじさんが帰省してきたときにおこった。箱をかぶせているという話を聞いたAおじさんは、気を利かしたつもりで「ニワトリの世話をしてみたい」とお父さんの代わりにニワトリの世話を買って出た。 そして最初の夜、ニワトリを発泡スチロールの箱に入れて、ふたをし、さらに近くにあった漬物石でがっちり密閉してしまった。 翌朝お父さんが、段ボールをどけたがニワトリの姿がない。おかしいと思って庭を探したがやはりニワトリの姿がない。家族に確認したが誰も知らない。そしてAおじさんが騒ぎを聞きつけてやってきた。きちんと箱に入れたから逃げ出すはずはないとニワトリの小屋にしていたサンルームに皆を呼んだ。 そして発泡スチロールに密閉したことを家族はその時初めて知った。密閉されたことで酸欠状態となったニワトリは、箱の中で窒息死していた。Aおじさんは家族全員から非難をされて立場をなくしていたが、お父さんはそんなことよりもニワトリが死んでしまったことに大きなショックを受けた。 これを最後にお父さんは二度とヒヨコを育てることをしていない。死んでしまったときのショックもあるし、住宅街の中ではニワトリの朝の鳴き声は近所迷惑になるという大人の都合もある。 お父さんに飼われたヒヨコたちはすべて天寿を全うできずに死んでしまった。とても申し訳ないと今では思っている。
2020.11.24
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お父さんが小学校に通う通学路は当時、ほとんどが田んぼや畑が広がっていた。都会のようにあちこちに公園などなかったので、田んぼや畑は子供たちの格好の遊び場だった。ちなみに田んぼのあぜ道はよく通学路のショートカットに使われていて、運悪く朝から水の張った田んぼに落ちて足を泥だらけにして登校してくる子供を見かけることがあった。 さて、春になると田んぼは水を張って「しろかき」をする。こうなると悪ガキたちはあぜ道やコンクリートの仕切りの上で落としっこをする。負けて落ちれば足は靴も靴下もズボンも泥だらけだ。それを嫌ってはだしになったりパンツだけになってやる子供もいた。 今のお前たちから見たらバカにしか見えないだろうが、とても楽しかった。お父さんは手が長かったしバランス感覚が良かったので、この落としっこで負けたことがない。記憶の中ではたった一度だけ田んぼに落ちたことがあるがそれは相手の反則によってだ。 お父さんが落とした相手が、田んぼの中にお父さんを引き釣り込んだのだ。これは暗黙のルール上で許されない行為だった。お父さんは激怒して相手を田んぼの中に転がして全身泥まみれにさせた記憶が残っている。大人げない行為だが、子供だったのでセーフとしておいてほしい。相手が誰だったかも思い出せない。もちろん家に帰って、ものすごく怒られた。兄弟でこの遊びをやっていたのはお父さんだけだった。 田植えが終わったころには田んぼにオタマジャクシやカブトエビ、ホウネンエビなど水中生物がたくさん湧いてくる。オタマジャクシなどはうじゃうじゃいたのでむごい遊びをしながらよく殺して遊んでいた。松の葉っぱに何匹串刺しにできるか競争したり、地面やブロック塀に思いっきりたたきつけて誰が一番オタマジャクシをつぶせるかを競ったりした。もちろん今ではグロくてそんなことはできないし、命を粗末にしていた当時のお父さんをぶん殴ってやりたいとも思う。当時のオタマジャクシさんたちごめんなさい。 夏から稲刈りまではそれほど田んぼで遊べなかった。稲も大きくなるし、稲穂をダメにするのは子供心に「やってはいけないこと」だった。日本人のDNAがコメに対する冒とくを許さなかったのだろうか。 ただし稲刈りが終わった田んぼは絶好の遊び場だ。特に脱穀した後の稲わらを積んであるうえで、プロレスごっこをするのが定番だった。稲わらは1m以上の厚さで積んであるので頭から突っ込んでも地面に届かずふかふかだった。 その代わりに遊んだ後は体中に稲わらのカスが入っていて、全員来ていた服を脱いで必死で取っていた。髪の毛の中からパンツの中まで稲わらが入る込むので、チクチクして大変だった。家に帰るたびに怒られるのだがやめられない遊びだった。 冬になると寒いので田んぼで遊ぶことはほとんどないが、土が乾いて硬くなっているので、通学路のショートカットとして田んぼの中をよく歩いていた。 そして冬の終わりというか、春先に最大の恐怖を伴う遊びが始まる。それが「牛糞チキンレース」だ。田んぼの肥料として田おこしの前に田んぼには牛糞が山のようになって積まれている田んぼがいくつかあった。そしてその牛糞の表面が乾いてくるとこのゲームが始まる。 牛糞の上を行けるところまで歩いていくのだ。固まっているのは表面だけなので、端の方は子供が乗っても大丈夫なのだが、奥へ行けば行くほど足を踏み抜く可能性が高くなる。どこまでいけるかを競い合うのだ。誰かが牛糞に埋まるまで続く恐怖のチキンレースだ。 大体お調子者が無理をして体ごと牛糞に埋まる。一緒に遊んでいるメンバーは助けてあげることはできない。牛糞の上で埋まった友達の手を取って引っ張れば自分も牛糞に埋まる可能性が高いからだ。実際に助けようとして埋まる友達を何度か見ている。 基本的に埋まった人間は半べそを書きながら自分で牛糞から抜け出してくるしかない。抜け出した人間は体中に牛糞をメインにした肥やしがついてとても臭い。 確実に家で怒られる。何度か落ちた親が学校に苦情を入れて先生から集団で怒られたことがある。今となってはいい思い出だ。 今の家も周囲に田んぼがあるが、小学生たちが田んぼで遊んでいるのを見たことが無い。面白いのになあとお父さんは思うのだが、お前たちにしてみれば「昭和の遊び」なのだろう。
2020.11.23
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お父さんは子供の頃、とにかく馬鹿な遊びをたくさんしてきた。自分の子供であるお前たちが同じことをすると思うと血の気が引くと思うようなこともたくさんやってきた。幸いなことに、というか今の子供は外で遊びをほとんどしないので、お父さんのようなやんちゃな遊びをお前たちはしない。なのでお父さんがやっていたことを書くとドン引きしてしまうかもしれない。 今回書こうと思うのは、屋根に上って遊んでいた時のことだ。お父さんが屋根に上って遊んでいたのは主に祖父母の家だ。2階の窓から1階の窓に簡単に出ることができる構造だった。そこから中二階の屋根に上り、2階の屋根の上(屋根の頂上)まで登って遊んでいた。 当時の祖父母の家は瓦が漆喰で固定されていたが、漆喰があちこち割れていて、それを高いところから投げて遊んだり、屋根の上からボールを転がして落としたりといろいろやっていた。 2階の屋根の上はとても景色がよく、西側には海が見え、北側には富士山が見えた。天気のいい日の屋根の上はとても気持ちがいい場所だった。 しかしながら当然屋根の上なので、落ちたら大けがをする高さだ。運が悪ければ死んでしまう可能性も十分にある。足を滑らせただけで終わるような場所だった。すでに祖父母の家は解体されてしまって存在しないが、もし今同じ所へ上れと言われても、恐怖で上まで登れないと思う。 子供の頃はまるで恐怖心が無かったのが不思議なくらいだ。 大人が見れば、きわめて危険な行為のため、隣のおばあさんに見つかるとすぐに祖父母に報告が行ってしまい、きつく怒られた。だから屋根の上で遊ぶときは隣のおばあさんに見つからないよう常に警戒していた。 おばあさんが外に出てくると反対側の屋根に移動していなくなるまで腹ばいで屋根にくっついて隠れていた。 それでも子供と言うのは馬鹿である。結局騒いで遊んでいるうちに隣のおばあさんに見つかって怒られることを繰り返していた。当時は戦隊ものの真似をして、「ババア発見、至急退避!!」みたいに騒ぎながら遊んでいた。 ちなみにお父さんと仲の良かったいとこが祖父母の家に遊びに来ると、いつもは泊まれる祖父母の家に泊まることができず、「明日の朝来なさい」と家に帰らされていた。そんな日は、翌日の早朝(大体朝4時ぐらい)に家を出て、30分ほどで祖父母の家に到着する。もちろん家の中は全員が寝ている時間だ。 お父さんは塀によじ登り、そこから台所の屋根、1階の屋根、中2階の屋根と登っていき、2階の部屋の天窓(前日の夜にこっそりカギを開けておく)から侵入していた。祖父母が6時過ぎに起きてくるともうお父さんが家の中にいる状態だ。毎回びっくりしていたが、不思議とこの侵入経路で勝手に家に入ってきたときに怒られた記憶はない。 毎回のことなのでお父さんの両親も祖父母もあきらめていたのだろう。今考えるとそんな早朝に屋根に上っていて落ちたらだれにも気づかれずに大変なことになっていたのかもしれないのだが。時代が子供の怪我におおらかだったからこそできたことかもしれない。
2020.11.22
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我が家は東日本大震災の3か月前、2010年12月に新居が完成し引っ越しをした。最新のオール電化の家で、暖房はもちろん、ボイラーはエコキュート、キッチンはIH、トイレは電磁弁式のタンクレストイレを取り付けていた。その結果、震災後の停電期間中すべての機器が使用できずにつらい思いをした。 そんな中で活躍したのが、灯油ストーブである。引っ越し時に処分していたが、震災から3日後にお父さんが実家から持ち込んだ。このストーブは薬10年間我が家を冬の間温め続け、今年新しいものに買い替えた。 そもそもお母さんは灯油ストーブが大好きだ。ストーブの上にやかんとか鍋が乗っていると安心するらしい。逆にストーブに火がついているのに何も乗せないのは、ストーブに対する冒とくであるというぐらい、何かを乗せている。 ストーブでお湯を沸かすと、ストーブの熱量がお湯を沸かすのに持っていかれるので部屋の空気が温まりにくいと教えても、「理屈を抜かすな!」と怒られるので最近はお父さんも何も言わなくなった。 と言うのも、最近は興味が無くなってしまったが、お父さんも子供の頃は灯油ストーブの上にいろいろなものを乗せて遊んでいたから、お母さんの気持ちがよくわかるのだ。 お父さんが一番ストーブの上にのせていたのは、お餅だ。正月用のお餅は少なくとも1月いっぱいぐらいは冷蔵庫に保管されていた。それを石油ストーブの上面に乗せて焼くのだ。お餅が少し焦げていい臭いがしてくる、そしてだんだん膨らんで食べごろになる。 子供の頃はそれを見るのが面白くて、必要以上にお餅を焼いてよく怒られたものだ。だから、お餅を焼くように親から言われると誰が持ちを乗せるかで兄弟でけんかになった。 祖父母の家でもストーブの上ではよくいろいろと焼いていた。祖父の酒のつまみであるスルメもストーブの上の常連だった。ちょっとした魚の干物(いわゆる乾きもの)もストーブで温められていい香りを放っていた。 お父さんは子供の頃からいたずら坊主だったので、とにかくいろいろなものを暖めて遊んでいた。例えば氷、氷は徐々に溶けて水になり、水が蒸発して跡形もなく消えてしまう。それが面白くていくつもいくつも氷を溶かして遊んだ記憶がある。 冬の定番であるミカンもよく焼いて遊んだ。皮をむいたミカンの房を一個ずつストーブに乗せて「焼きミカン」を作る。大人には不良だったが、いつもと違って房から水分が抜けて硬くなり、温かくなったミカンはおいしかった。 その他にもチョコレートやせんべいなどお菓子を乗せて上面を焦げ付かせて怒られたことも何度もある。それでもストーブの上でモノを暖めるのはとても面白かった。娯楽が少ない時代だからこそいろいろ遊んだのだと思う。 そう考えると、我が家の子供たちがストーブで遊んでいるのを見たことが無い。お母さんに聞いても誰もストーブで遊ぼうとはしていないらしい。これは安全を考えて喜ぶべきなのか、好奇心が無いことを悲しむべきなのかどちらなのだろうか。 結果として我が家のストーブの上面はいつもきれいである。お父さんはちょっとだけ寂しい思い出そのきれいなストーブを眺めている。
2020.11.20
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お父さんが小学生の時、時代は昭和だった。令和の今の世の中の便利さはまだなかったと考えてくれ。今のお前たちにとって友達の家には基本的についているインターホンもしくは呼び鈴は、お父さんが子供のころにはほとんどついていなかった。 よって友達の家に着いて本人を呼び出すのには掛け声が必要だった。典型的な掛け声が「○○くん、あーそーぼー!」だった。地域によって変わるのかもしれないが、お父さんはこの掛け声を友達の家に着くと大きな声で叫んでいた。何せ中の人に聞こえなければ意味がないからだ。しばらく待っても反応が無ければもう一度さらに大きな声で「〇〇くん、あーそーぼー!」と声をかける。 インターホンや呼び鈴がある家でも基本的人は掛け声だった。だからお父さんの友達たちにこれができない人はいなかったと思う。 息子の友達が我が家に息子を誘いに来る。彼らは当たり前のようにインターホンのボタンを押す。お父さんが「はい」と言ってインターホンに出ると、小さな声で「長男くんいますか?」とささやく。 時代は変わったのだ。変わったのはわかっている。でもお父さんはあの子供の元気な声をもっと聞きたいというのが本音だ。日本全国でそんな子供はすでにいないとわかってはいるのだが。 令和の時代では考えられないかもしれないが、家によっては玄関のドアを開けて中に入り込んでから声をかける家もあった。大体どの家の玄関も家に人がいる限り開いていた。今はどうなのだろうか。でもお父さんも、今の時代に家のドアを開けて中に入ってから「ごめんください」とか声を掛けられたらビビると思う。そう考えるとお父さんも時代とともに意識が変わっているのだと感じる。 昔は「押し売り」という職業が世の中にあると認知されていた。お父さんは実際に会ったことも見たこともないが、家の玄関に入り込んで無理やりものを売る職業だ。お父さんが子供のころの漫画やテレビにはよく出てきた。今なら一発で警察を呼ばれるだろうし、家によっては監視カメラもついているのですぐに捕まってしまうだろう。 「○○くん、あーそーぼー!」の掛け声は日本が平和だったころの象徴だったのかもしれない。
2020.06.19
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お父さんはこれまで子供のウソにだいぶ悩まされてきた。お前たちも親になればわかることだが、自分の子供がつくウソを親は8割ぐらいは見抜いている。100%と言えないのは、お父さんもばれれば絶対に怒られるはずのウソが他の兄弟のせいになったなどの経験があるからだ。そして親だって100%子供の言っていることを判断できるわけではない。そこまでの自身は無い。 ただしこれも親になって分かったことだが、親は子供のウソを見抜いた時にすべてを「見抜いている」とは言わない。毎回怒るのも面倒くさいし、そのウソのせいでウソをついた本人以外が被害を被ることが無い場合などは、スルーすることが結構ある。 だからお父さんがお前たちの親になるまで「うまく親をだませた」と思っていたことも実はばれていた可能性が高い。そんな訳でお前たちのウソは基本的にはばれていると思っていたほうが良い。 長女もそれなりにウソをついてきたが、基本的に悪さを隠すというよりもプライドを保つためのウソが多かった。これはお父さんやお母さんにとってたいした問題ではないウソだ。できないことをできると言ったところで後から困るのは本人だけだ。ウソが自分を追い込んでいくタイプで親も兄弟も誰も困らない。だから長女のウソをきつく叱った経験はほとんどない。 これに対して長男は結構悪質なウソをよくついていた。人のモノを持ち出して壊したり、失くしたりしたものを自分ではないと嘘をつくのだ。それ以外にも受験前にわざわざ友達からゲーム機を借りてきて部屋でこっそりやっていたりとゲームに関するウソはよくついていた。いずれもバレてお父さんからきつい叱責を受けている。 さて息子が中学生になってウソもだいぶ落ち着いたと思ったら、小学校高学年になった次女のウソが悪質になってきた。やはり兄弟のものを勝手に持って行って壊したり失くしたりしている。そして本人は私ではないと嘘をつく。ここまではお父さんも自分が体験してきたことだから子供特有のものだと思っている。 ところが次女のウソが悪質なのは、その場をしのぐためのウソを当たり前に口にするようになったことである。宿題はやった。宿題は今日は無い。などのウソから食事を残したものをこっそりゴミ箱に捨てて、全部食べたと報告をする。これを全く臆することなくやってのける。お母さんは初めのころ、結構騙されていた。お父さんも騙されたことがあるかもしれないが、基本的に一度疑いを持った人物を完全に信じることをしないひねくれた性格なので、徹底的に追い詰めていくこともする。なので最近次女のウソはどんどんバレていて次女は追い込まれてきている。 通常ここまでやられると嘘をつくことのデメリットが大きくなるので、ウソをつかなくなるものなのだが、次女のウソは一向に止まらない。どうしたらよいかお父さんはとても悩んでいる。「ウソをついたほうが得だ」と次女が自信を持ってしまったら、少なくとも日本人社会ではまともに生きてゆけない。 日本人はウソが大嫌いだからだ。平気でウソをつく人間とは表面上つきあうことはあっても、絶対に深い関係にはならない。できる限り接触するのを避けるようになる。要は気がついたら自分の周りから人がいなくなってしまうのだ。 どんなに上手にウソをついていたつもりでも、特定の相手にしか不利益を出していなくても日本人はその人の周りからいなくなる。 次女には何度も叱ったりなだめたりしながら教えているのだがいまだに理解できていないようだ。周りから人がいなくなってからでは遅いのだが、何とかならないモノだろうか。 子供を育てるというのは本当に難しい。次女に関してはしばらく注意深く観察(監視)する日々が続くだろう。精神的にとても疲れる。
2020.06.18
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我が家の子供達、つまりお前たちは掃除がへたくそだ。お父さんが30分できれいにできる部屋を2時間かかってもきれいにできないでいる。あきれるばかりだ。なんでこんなに掃除がヘタなのだろうと思って考えてみて少し気が付いたことがある。 お父さんも小学生のころは、お父さんのお父さんに掃除がへたくそだ、要領が悪いとよく怒られていた。掃除の時間も長くとても要領がよいとはいえなかった。 家を訪ねてきていた伯母さんに、「細かいところからやらないで、大きなところからやった方がきれいになるよ」と言われたことを思い出す。当時は言っている意味が分からなかった。 今お前たちの片づけと掃除を見ていてその意味がようやく分かるようになった。お前たちの掃除は目についたものを一個ずつちまちまと片付ける。だから一向に進まない。お父さんは例えば本なら本を一気に回収して片付けていく。片付ける前に回収と分類をしているのだ。 また片づけ後の状態をイメージしながらやっていることも大きいと思う。お前たちの場合は、一度片付けたものをまた移動したり不合理なことを繰り返している。 ただお前たちの要領の悪さをお父さんも昔はやっていたような気がする。 ではいつごろから掃除ができるようになったかと言うと、はっきりしたきっかけは思いつかない。ただし、高校生のころには試験前によく部屋の片づけをしていた。そのころにはかなり部屋をきれいにできるようになっていたと思う。 友達を部屋に呼んで遊んでいたのも大きいかもしれない。高校生男子らしい部屋に切り替えていったときにそれまで持っていた「捨てたらもったいない」ものをかなり処分したからだ。 次のきっかけは大学に入学して一人暮らしを始めてからだろう。ワンルームの小さな部屋はものが多いと置く場所がなくなる。だから大学時代の部屋はだいぶものが少なかった。友達と麻雀をやるスペースぐらいをきちんととれるぐらいにはすっきりしていたと思う。 最後は社会人になって寮生活をした時だ。寮は極端に収納が無かった。6畳一間で昔ながらの押し入れ一個の部屋だったのでほとんどものを置けなかった。更に言うと社会人としての5Sを結構叩き込まれて整理整頓がだいぶ身についたのだと思う。使ったら元の場所に戻すという行為も当たり前にできるようになったのだ。 お前たちがどのように成長し、どのように片づけをできるようになっていくのかわからないが。早くきちんとできるようになってほしいと思う。実家にいるうちは難しいかな。お前たちに恋人ができたら変わってくるだろうか。 一人暮らしをするようになって、テレビで見るような汚部屋にだけはしないでほしいと切に願っている。
2020.06.10
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お父さんが今回家の片づけをしていてたくさん捨てたものがある。それはクッキーの缶と紙の手提げ袋だ。平成に生まれて令和を生きていくお前達にはなじみがないだろうが、お父さんやお母さんが生まれ育った昭和時代には、クッキーの缶などは捨てないで取っておくのが暗黙のルールだった。 だからそれが身についたお母さんは、新居に越してからの10年間に我が家に来たクッキーの缶を捨てずにすべて取ってあった。100円ショップで簡単に缶や入れ物が手に入る時代になってからクッキーの缶を何かに使うことはほとんどなくなってしまったというのにだ。 お父さんが子供のころは文房具を入れたり、書類を入れたりその他にも細かいものを収納する入れ物としてクッキーの缶はどの家でも当たり前のように再利用されていた。 紙の手提げ袋も同じだ。基本的に再利用できる状態の手提げ袋はどの家でも必ず取ってあったものだ。紙袋が必要になったらその置き場所から自由に使えたし、もらった紙袋は所定の位置に置いていた。間違ってゴミ箱に捨てたりすれば怒られるほどだった。 そう考えると今の世の中は再利用というか廃物利用ということをほとんどしなくなってしまった。プリンの入れ物をコップに使っている家はほとんどないだろう。お父さんは子供のころ、モロゾフというプリンの入っていたコップを当たり前のように使っていた。 そして今回の片づけでもモロゾフのプリンが入っていたガラス容器が出てきた。懐かしさを感じながら捨ててしまった。 横川の釜めしの入れ物のように捨てるにはもったいないし、かといって使い道もないというものと違って、プリンの入れ物、クッキーの缶、紙袋などは上にも書いたように当たり前に使っていたのだ。書いていると思いだしてくるが、ジャムのガラス瓶も捨ててはいけないモノのひとつだった。 お父さんが覚えている限り、お父さんのお母さんはジャムの瓶をいろいろなものに使っていた。ちょっとした漬物を入れていたり、外れたボタンを取っておく入れ物にしていたりとジャムの瓶は家のあちこちで活躍していた。 そんなわけで、令和の世になって入れ物の再利用がほとんど行われなくなったにも関わらずお父さんもお母さんも缶や瓶、紙袋を取っておく癖がついてしまっている。今回の片づけで断腸の思いと言うのは言い過ぎかもしれないが、そのほとんどを廃棄した。 ああ、クッキーの缶を捨てる時代になったのだなあと少し感傷に浸ってしまった。お母さんも同じ思いだったようだ。クッキーの缶やジャムの瓶を捨てるのが精神的にストレスだったと言っていた。 お前たちが今当たり前に思っていることも、30年後には変わってしまうことも多々あるだろう。その時の生活スタイルはどんなふうになっているのだろうか。それを思ってもあまりワクワクしないのはお父さんが年を取ったせいかもしれない。
2020.06.02
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お父さんのお父さん(お前たちのおじいちゃん)は、昔から縁起物が大好きだ。そして縁起物の中でも木彫りや石彫りの像が好きな人だ。そのせいで昔からお前たちのおじいちゃんの住む家にはあちこちに木像や石像が飾ってある。 趣味なので買ってきて飾ることは否定しない。お父さんが困るのはお前たちのおじいちゃんが飾るだけではなく祀って(まつって)しまうことだ。祀ると言っても棚を作ってしめ縄をかけてというわけではないのだが、お水を供えてしまうのだ。ちなみにしめ縄までかけられた木造もベトナムにひとつある。 それまで飾りとして、ただの置物だった木像や石像が、祀った瞬間から神様に変身してしまう。祀ってしまった以上、定期的にお水を取り替え、ホコリがつけば掃除をするといった具合におろそかにできなくなる。もちろん人にあげることすらできなくなる。正月になればお餅やお酒まで供えるようになる。 お父さんはお前たちのおじいちゃんが恵比寿様や大黒様の像を買うたびに、飾るのは良いが祀るのはやめてくれと何度も話をしているが、全く聞き入れてもらえない。お前たちのおじいちゃんは年の半分は海外にいるので、いない間はお父さんが水を変えたり、掃除をしたりしている。 もしおじいちゃんがいなくなったら、誰がその後を引き継ぐのだろうか。祀ってしまった神様は簡単に捨てることもできない。 実はお父さんも小学生のころ、遊びで祀ってしまったために今でも祀り続けているものがある。それは高さ5センチぐらいのお地蔵さまで、昔からお土産物屋で売っているのを買い集めたものだ。今は実家に置いてあるが、全部で30体ぐらいある。お前たちもお父さんの実家で見た記憶があるだろう。 小学生の時、お父さんのおじいちゃんの家では正月飾りやしめ縄を自宅で作っていた。何でもやりたがりで好奇心の塊だったお父さんは、しめ縄やお飾りの作り方を教えてもらい作って遊んでいた。作ってしまえば今度は使いたくなる。 そのターゲットになったのがお地蔵様のお土産だ。木の箱に台座をつけてお地蔵様を並べ、木材で鳥居を作ってそこに自分で作ったしめ縄をつけて満足してしまった。それまでの置物だったお地蔵さまを神様にしてしまった。更にその前に賽銭箱の形の貯金箱を置き、水を供えてろうそく台(燭台)までおいてしまった。 依頼30年間、お地蔵さまはそこで祀られている。お父さんも実家に帰った時には必ず手を合わせている。そのうち実家からお父さんの自宅に持ってこなくてはならなくなるだろう。お父さんが生きているうちに何とかしないと今度はお前たちにお世話係が移ることになる。 日本人は意外と祀ることが好きな人種だ。大きな岩や、大きな木、高い山やきれいな川を神様に見立てて祀ってしまう。お前たちは日本人であるし、お父さんやおじいちゃんの血が流れている。縁起物を買うのは慎重になってもらいたいし、飾り方も注意してこれから生きていってほしい。
2020.04.02
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お父さんが子供のころ、お正月はお父さんのおじいちゃんの家で親戚一同が集まって食事をしていた。お父さんは従弟たちと遊べるこの時期が大好きだった。 夕方4時頃から正月の宴会が始まるが、子供は1時間も知らないうちに食事が終わって大人だけの宴会に移行する。そのうちお酒を飲まない女性陣も宴席を離れる。それから始まるのが恒例の百人一首大会だ。おばあちゃんが賞金を出し、1~3位までに渡される。 当然子供達も参戦するのだが、歌を覚えている大人たちには基本的に勝てない。お父さんはそれがとても悔しかった。ほかの子供と一緒に下の句を読む前に札をとってしまう大人たちに「ずるい」と言い続けていた。そもそも和歌や百人一首など意味も分からなかったし、本もなかったから勉強もできなかった。 それでも「勝ちたかったら覚えなさい」という大人たちの意見に、ある時から必死に百首覚えようと頑張った。もともと暗記は苦手ではなかったので、意味の分からないまま丸暗記で一首ずつ覚えていった。百首完ぺきとはいかなかったと思うが、ほとんどの札を覚えてお正月の百人一首大会に臨んだ。 結果は圧勝だった。並みいる大人たちを寄せ付けず、完全勝利を成し遂げた。とても気持ちが良かった。大人たちはほめてくれたし、従弟たちからは去年まで自分が言っていた「ずるい」を連発された。お父さんは前年まで言われていた「勝ちたかったら覚えればいい」を言う立場になった。 しかしながら翌年からこの百人一首大会に異変が起きた。おばあちゃんの賞金がなくなったのだ。理由はお父さんが強すぎて勝負が見えているからだ。やる前から勝者が決まっているようなものだから賞金は無くして楽しくやろうということになってしまった。 お父さんは抗議した。勝ちたかったら覚えろというから頑張って覚えたのに、強すぎるからダメだと言われたようなものだ。 そしてその年以降、大人たちも百人一首に興味をなくしたようになり百人一首の白熱した勝負は無くなってしまった。 お父さんが頑張って覚えなければもう少し続いたのだろうか?当時はとても理不尽だと思った。 しかしながら、長女が小学校5年生で百人一首を完ぺきに覚えたとたん、我が家でも同じことが起きた。長女と誰も百人一首をしたがらなくなってしまった。もちろん理由は勝てないからだ。お父さんもいまだにそれなりに歌を覚えているが、若者の札を探し当てるスピードにかなわなくなってしまった。 今でも長女は家族に勝負してくれる人がいなくてふてくされている。長男も次女も全く歌を覚えようとしないのでいつまでも長女1強時代が続いているのだ。 以前お父さん、お母さん、お父さんの妹の3人で長女に挑んだが負けてしまった。まあお父さん以外の2人は蝉丸の歌ぐらいしか知らないからまるで戦力にならなかったが。 そんなわけで長女もお父さんと同じ苦しみを味わっている。頑張って覚えた人が悲しい思いをする百人一首というゲームは一般家庭には向かないと思う。
2020.03.23
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今日は息子の小学校卒業式の日だ。コロナウィルスの影響で卒業生と先生、あとは父兄が2名まで出席可能とかなり人数を絞った卒業式になったようだ。お父さんは海外にいるので出席はできなかったが、出席したお母さんから写真を送ってもらった。 中学受験をした息子はほとんどの同級生と今日でお別れになることもあり、友達と写真を撮りまくったと聞いている。息子にそういう友達が多いことにちょっと安心している。長女の時は学年全体が荒れていて、内気な長女は心を許せる友達が少なかったから。 お父さんが小学生のころは、一学年200人ほどいたため、卒業式の練習も本番も随分と長いものだった。長男は約80人の同級生なので、お父さんが子供のころに比べるとだいぶ短い時間で卒業証書の授与が終わっているのだろう。今回は在校生もいないので、だいぶあっさりと式が終わったのではと思う。 お父さんは小学校の卒業式をあまりはっきり覚えていない。ただ「卒業の言葉」みたいな文章を卒業生全員に一言ずつ割り振り、本番で披露したのを覚えている。卒業式の情景もあまり頭に浮かんでこない。特に印象的なことが無かったからだろう。 そういう意味では在校生もいない、練習もしないで臨んだ卒業式を息子は一生覚えているのではないかと思う。 地方だったこともあり、お父さんの学年には中学受験で別の学校に行く生徒はいなかった気がする。中学から親の都合で転校する生徒はいたが。要は同じメンバーと中学校でまた一緒に会えるため、悲しさというのもなかった。同じクラスの女子が泣いているのを「なぜ泣くのか?」と眺めていた思い出が残っている。 あとは小学校の卒業式で思い出せるものはない。お父さんの時代は謝恩会などというものはなかったので謝恩会とやらの思い出もない。 小学校のメンバーは、中学でも一緒だったこともあり「小学校の同窓会」というものは一度も開催されたことが無い。お父さんの場合、同窓会はすべて中学校か高校だけだ。お前たちが将来小学校の同窓会を開くのかは不明だが、息子にとって小学校の友達とのつながりがこれからも続くよう願う。 お父さんは小学校(&中学校)の同級生で今でも連絡を取っているのは、高校が同じだった人を除けば1人だけである。よく考えていると寂しい気もするが、地元を離れたらそんなものだと思う。 とりとめのない文章になってしまったが、息子よ!卒業おめでとう。成長したなと思う反面、高校卒業で家を出るまであと6年しかないことについつい思いがいってしまう。子育ては一瞬で終わるとよく言われるが、こういう節目が来ると本当に実感してしまう。
2020.03.20
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お父さんが育った家庭はゲーム機持ち込み禁止だった。お父さんの両親(お前たちのおじいちゃんとおばあちゃん)の方針だった。お母さんの家はゲーム機禁止ではなかったようだが、お父さんもお母さんもゲームというものにあまり興味が無いので、必然的に我が家はゲーム禁止になった。 お前達3人の中で、息子のみがこのゲーム禁止で苦労をしているようだ。これまでに何度か隠れてゲームを持ちこんで没収されている。このブログはお前たちに教えていないからすぐには読まれないことを前提に書かせてもらえば、お父さんもゲームを持ちこんでは没収されていた。だから息子がやっていることは理解できるし、怒りつつも心の中では笑っている。 お父さんが子供のころ、最初に流行った家庭用ゲームはソフトという概念がなく、1台のゲームで1種類のゲームができるだけのものだった。そして小学校3年生のころ、ゲームウォッチが爆発的な人気となった。親が買ってくれる家には3台から10台ぐらいのゲームウォッチがあり、今のスマホに近いサイズだったこともあり、友達が飽きたものを借りてきてこっそりプレイするのにちょうどよかった。 親にばれないまま返したものもあれば、熱中して親の侵入に気づかずにばれたり、兄弟のタレコミ(妹に見つかりやらせてというのを断ったら告げ口された)でばれたりして結構怒られた。今になって思えば、当時のお父さんの両親もゲームを許すかどうかで悩んだだろうと思う。友達がゲームで遊んでいたり、ゲームの話題で盛り上がっている時に仲間に入れないからだ。 お父さんもお母さんも子供が友達の輪に入れないことのみにおいてゲームの購入を悩んだ。しかしながら、ゲームをやっている時間ほど無駄なものはないという自分たちの経験から、結局ゲームを買わないまま今に至っている。 ただお父さんは「ゲーム禁止」において、子供たちの可能性を少しだけ狭めていると感じることがある。それはお前たちが将来「ゲーム関連」の仕事をする可能性を排除しているということだ。 お父さんが小学校5年生のころ、仲の良かった友達が自分用のパソコン(富士通FM7)を買ってもらった。お父さんはその時初めてパソコンというものを見た。そしてゲームだけでなく、ソフト(当時はカセットテープ)を入れ替えることでいろいろなことができることを知った。 一番驚いたのが、さらにパソコンに詳しいその友達の従弟にプログラムを組んで好きなゲームを作れる人がいたことだ。自分でゲームが作れるということに衝撃を受け、お父さんはパソコンがめちゃくちゃほしくなった。親にねだっては見たものの、自分でゲームを作りたいというお父さんの望みは「ゲーム禁止の家」ではかなえられることはなかった。 大学生になって初めてパソコンを購入した時には、世の中にはソフトが氾濫していたし、自分で一から勉強してプログラミングをしたいという気は失せていた。ただその当時、インターネットが世の中に普及し始めて自分のホームページを作って遊んでいたので、HTMLのプログラムは今でもある程度覚えている。 お前たちはゲームをやらせてもらえない家に生まれたので、ゲームをやりたい願望はあっても、ゲームを作りたい願望までは無いと思う。自立して、もしくは家を出てからゲーム機を買って遊んだところで「ゲームを作りたい」にはならないと思っている。 そういう意味でゲーム禁止はお前たちの可能性を一部分つぶしている自覚がお父さんにはある。ただ息子がゲーム機を借りた時の怠惰な生活と受験前の成績の落ち込みを見た時、お父さんのゲーム禁止の判断は正しかったと思うようになった。 だから今後も我が家にゲーム機はやってこないだろう。そしてたとえかわいい孫にねだられたとしてもお父さんもお母さんもゲーム機を買い与えることは無いと思う。お前たちのおじいちゃんもおばあちゃんもゲーム機だけは買ってくれないのと同じだ。まあお前たちが率先してゲームを自分の子供に買い与えるならば、ソフトぐらいは買ってあげるかもしれないが。
2020.03.19
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お父さんは、お前たちを小さいころからスイミングスクールに入れた。きっかけは体が弱かった長女の体力強化だったのだが、子供たちを泳げるようにしておきたいというのはお父さんの強い思いもあった。 というのもお父さんは小学校5年生の6月まで泳げなかった。顔を水につけられないとか、水が怖いのではなく息継ぎができなかった。 水泳以外の運動は基本的にこなせる体力やセンスはあったので、小学校1年生から4年生までは水泳の授業がとても嫌だった。 そんな思いをさせたくないというのと、人生で海や池に落ちた時に助かるようにと水泳は人生に必須だと思っていた。お父さんが良く出張しているベトナムでは泳げる人のほうが少ない。学校にプールなどないのだから、誰も泳ぎの練習などしたことがないのだ。 だから社員旅行で海にいってクルーズ船などに乗っても、彼らの水への恐怖は尋常ではない。まるで100mはある崖から下を見下ろすように、船べりから海を見ている。 さて話を戻すと、お父さんが泳げるようになったのは一念発起して必死に練習したからではない。端的に言うと無理やり当時の担任の先生にやらされたからだ。 小学校5年生の初夏、お父さんは風邪で学校を休んだ。復帰して登校した日の朝、黒板にお父さんの名前が書かれているのを見つけた。市内の学校対抗水泳の学内選抜メンバーに選ばれていたのだ。5年生になってクラス替えがあり、お父さんが泳げるないことを知らない友達や先生が「お父さんなら運動神経があるし問題ないだろう」と勝手に推薦されていたのだ。 お父さんは焦った。推薦した友達たちがお父さんに「今日から練習開始だ」と伝えてきた。お父さんにはまるで時間がなかった。すぐに友達に自分が泳げないことを伝えて、選手は無理だと宣言した。しかし担任の先生もいる中で決まっているメンバーである。自分だけで勝手に取り消しにはできなかった。 お父さんは半べそをかきながら担任の先生に「泳げない」ことを伝えてメンバーから降ろしてもらえるように頼み込んだ。しかし当時のお父さんの担任はある意味昭和の熱血教師だった。担任がお父さんに指示した内容は「他の運動ができるのに水泳だけできないのはもったいない。お父さんならすぐに泳げるようになるから、いい機会だと思って選抜メンバーとして練習に参加しろ。泳げるようになるはずだ。」というとても生徒思いのものだった。 こうしてお父さんの涙の訴えはまるで聞き入れてもらえず、素直な小学生のお父さんは選抜メンバーの練習に参加した。 選抜メンバーの練習なので当たり前なのだが、練習はいきなり「クロール(自由型)25m×10本」のような形態で始まった。プールサイドでバタ足の練習などありえなかった。泳げること前提ではなく、泳ぎがうまいことが前提のメンバーが集まっているのだ、お父さんを除いて。 当然お父さんは泳げなかった。途中で何度も息継ぎの為に足をついて、先生に「ちゃんと泳げ」と言われながら練習を続けた。精神的には地獄だった。翌日からはこれに飛び込みが加わった。飛び込み台から飛び込んだことはそれまで一度もなかった。泳げないのだから当然である。 1回目、2回目と頭から飛び込むのが怖くて足から落ちるような飛び込みをしたところ、お父さんが飛び込むときに周りにギャラリーができた。お父さんが足から飛び込んでいるのを見て笑うためだ。ここでお父さんのプライドに火が付いた。笑われることでプライドが傷ついたお父さんは、意を決して頭から飛びこんだ。一回できてしまえば、あとは簡単だった。お父さんを見て笑っていた人たちも、お父さんが不通に飛び込みをしだしたのを見て、すぐに興味をなくしていった。 問題は25mすら泳げないことである。相変わらず息継ぎができなかった。息継ぎなしで25m泳ぐことに全力を尽くしたが成功できなかった。 さて、お父さんが息継ぎができなかったのには理由がある。お父さんがまだ小学校低学年だったころ、お父さんの兄(Aおじさん)が夏季限定のスイミングスクールに通っていた。お父さんはまだそのスクールに入れる年齢ではなかったが、ある時市内の温水プールで遊んでいたらAおじさんを教えていた水泳の先生と偶然出会った。 お父さんのお母さんが、挨拶をした後にせっかくだからお父さんにも少し水泳を教えてくれとお願いしたのだ。そしてその時に初めて「息継ぎ」のやり方をお父さんは教えてもらった。この日の出会いがお父さんを「息継ぎができない人」にするとも知らずに。 その先生は、「息継ぎは、息を吸うのではなく息を吐くのだ」とお父さんに教えた。口を水面上に出したときに、「パッ!」と声を出して息を吐けば空気は自然に入ってくると教えられた。息を吸おうとすると水が口に入ってくるからとにかく息を吐き続けろと。当時バカで素直だったお父さんは、そこからひたすら息継ぎの態勢で息を吐き続けた。絶対に息を吸わないように。 今となれば本当にバカだと思う。その先生は「息を吐き出すのが先で、その後吸うのは当たり前。」と思ってそういう教え方をしたのだ。確かにいきなり息を吸えば、口の周りの水が気管に入ってくる可能性もある。 しかし当時のバカなお父さんは、「絶対に息を吸うな」というところに重点をおいた。息を吐くだけで吸わないのだから、当然息継ぎは完成していない。それどころか息継ぎをすればするほど肺から空気はなくなってしまう。こうしてお父さんは息継ぎの真似はしても息を絶対に吸わないという息継ぎをそれから何年もすることになり、結果として泳げない人になった。 そして、ついに時は来た。水泳練習3日目、教師にプールサイドに呼び出されたお父さんは「今日中に25m泳げるようになれ。途中で立つな」と厳命された。もう後がない。でもどんなに息を吐いてもいまだに息継ぎはできない。どうしようと悩んだ。 ついにお父さんは息継ぎで「息を吸う」ことを決意した。数年間封印していた禁断の動作だ。呼び出しから練習に戻ったお父さんは、息を吐くことから吸うことに息継ぎの方法を変えた。わかると思うがその結果、普通に25mを泳ぎ切ることができた。 今考えれば当たり前のことだが、お父さんはとてもうれしかった。そして周りのメンバーに「息継ぎとは息を吸っても良いのか?」と今思えばバカな質問をした。もちろん周りの反応は「息継ぎで息を吸わないで何をするのだ????」というものだった。 お父さんはこの時、息継ぎの呪縛から解き放たれた。世界が急に広がった。そして「嘘」を教えたかつての水泳指導と先生を恨んだ。もちろん今恨んでいるのは当時の「バカなお父さん」であるが。 こうしてお父さんの長い「カナヅチ人生」は幕を下ろした。 結局基礎体力がもともとあったこともあり、大会には選手として出場することもできた。さすがに賞はとれなかったが。 それ以後お父さんは「泳げる人」となり、現在に至る。結局担任の強引な説得はお父さんを泳げるようにした。それもたった3日で。ただしあの当時、お父さん以外で同じように泳げない生徒が泳げるようになったかは疑問である。 お父さんからすれば、素人がオリンピックの強化メンバーに選ばれて同じメニューで練習させられているようなものだったのだから。 お前たちは3人ともすでに競泳4種すべてを泳げるようになっている。きちんと指導を受けているのでお父さんの自己流とは比べ物にならないくらいきれいなフォームというおまけ付きだ。よく頑張ってくれたと思う。お前たちはお父さんの「子供は小さいうちから泳げるようする。」という目標を達成してくれたのだから。
2020.02.23
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クリスマスの思い出で、「ほとんどプレゼントをもらったことが無い」と書いたが、記憶の中で2回だけ覚えていることがある。お父さんが記憶している非常に貴重な「サンタクロースからのプレゼント」だ。お父さんだって「良い子」だったことがあるのだ。 一つ目は、朝起きるとそこには「待望のプレゼント」が置いてあった。ラッピングされた上等なものではないが、明らかに兄弟の枕元にも同じものが置いてある。テンションは一気にMAXまで上がる。ついにこの時が来たと。 その時のプレゼントは今でもはっきり覚えている。クリスマスの景色が書いてある板チョコだ。100円の明治のチョコレート2枚分ぐらいの大きさだ。当時のお父さんにとって板チョコは、お父さんのおじいちゃんがごく稀にくれるもので、兄弟3人で分けて食べるものだった。 希望したおもちゃではないが、歓喜の嵐である。とにかくサンタが来たことがうれしかった。ようやくサンタがお父さんのところへやってきた。これでお父さんのことをサンタさんが認識したと思った。来年からもきっとプレゼントがもらえる。 ちなみにこのチョコレートにも後日談がある。恒例の12月30日にやってきた従弟たちに、お父さんのお母さん(お前たちのおばあちゃん)が全く同じチョコレートをあげていた。サンタクロースから別のプレゼントをすでにもらっている従弟たちにチョコレートは配られた。お父さんたち兄弟には、「お前たちはサンタさんから同じものをもらったのだから」と追加の配給は無かった。 今になれば他愛のないことだが、当時は本当にがっかりした。それが単純に「従弟たちだけずるい」と思ったのか、「自分のサンタさんからのプレゼントがしょぼい」と思ったのか?今となっては思い出せない。 もう一つは、そろそろサンタクロースのシステムを理解し始めたころのプレゼント。クリスマスの前にある事件があった。お父さんのお父さん(お前たちのおじいちゃん)は、当時単身赴任で家にはほとんどいなかった。年末年始やお盆には帰ってきていたが、それ以外は2か月に1回ぐらいしか帰ってこなかった。そしてお前たちのやさしいおじいちゃんは、家に帰ってくると毎回スーパー「K」でお菓子を買ってくれた。これはその時の出来事。 今でもクリスマスの時期にはスーパーで売っているが、紙でできた赤い靴に細かいお菓子がいっぱい詰まっているモノだ。当時お父さんのあこがれだった。これまで毎年ねだっては却下され続けてきたが、この時も一応ねだってみた。 これまでは「ダメ」の一言で終わっていたので、今回もダメならいいと思っていた。しかし、お前たちのおじいちゃんはなぜか激怒した。何を言われたかは今となってはあまり覚えていない。ただとにかくひどい怒られ方をした。お父さんはこの時心に誓った。こんなに怒られるのだから今後はこの赤い靴のお菓子を手にすることはないだろうと。 そしていつもの25日の朝、お父さんは枕元で「赤い靴のお菓子」を見つけた。うれしかった。手にすることをあきらめたものを手に入れることができたのだから。しかしその後すぐにお父さんを恐怖の感情が襲った。 「あれだけ買うことを怒られたお菓子をサンタさんが知らずにプレゼントしてくれた。まずい!親に見つかったらまた怒られる。そして捨てられてしまうだろう。」と。お父さんはどうしていいかわからずただただこれから起きてくる両親がどんな反応をするのかを怯えて待っていた。 ところが予想外のことが起きた。お前たちのおじいちゃんは、スーパーではあれほど激怒したお菓子をサンタさんがプレゼントしてくれたことを喜んでくれたのだ。お父さんは何が起きているのかまるで分らなかった。サンタクロースのシステムを理解し始めていたとはいえ、まだ確信を持っていたわけではない。あれだけ怒られたお菓子を両親が選ぶわけがない。これはサンタクロースのミスだ。サンタは別にいたんだと思っただけに、両親の、特にお前たちのおじいちゃんの豹変ぶりは恐怖ですらあった。 もう少し成長してからお父さんは何が起こったかを理解した。あの激怒は不器用なお前たちのおじいちゃんが、とっさに何とかしようとして思わず「激怒」という最悪の選択肢を選んでしまったということに。 お父さんはあの時誓ったことを今でも守っている。サンタさんとはきちんと打合せをしておかなければならず、お前たちをクリスマス前に不用意にショッピングに連れて行かないようにするということを。
2019.12.25
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