今日は平常心ということについて考えてみたい。
弁護士で心臓神経症の人が森田先生のところに治療に来られた。その人は、 「自分は10数年禅をやっており、 100ほどの公案にもパスしており、座禅をするときには平常心是道となることができるが、電車の中で卒倒しそうになるときには、どうしても平常心になることができない、どうしたらいいものか」と相談された。
これに対して森田先生は、あなたの言われる平常心は少し間違っているように思われると言われた。
死は恐ろしい、腹が減っればひもじい、あなたならば電車に乗れば恐ろしい、それが平常心というものではないか。
そもそも平常心というものは、作り出すものではなくて、そこにあるものである。
恐ろしいならば恐ろしいままの心、恐ろしくないならば恐ろしくないままの心、それが平常心である。
電車の中で心臓神経症の発作が起こったら、逃げ出したり交番に書き込んだりしないで、じっと受忍していれば、そのまま発作は経過して、苦悩は雲散霧消する。心臓に欠陥が無いという事は、あらかじめ分かっていることだから、苦しくなった時に、恐怖でパニック状態に陥ったら、そのままパニックになりきって時間が過ぎるのを待てばよいのだ。
このようなパニックが起きると大変だと、その1点に注意を集中するとますますその感覚はますます増悪してしまう。
そしてついにたえずそのことを予期恐怖するようになる。次第に電車に乗れなくなる。
最終的には症状として固着してしまい、思考の悪循環、実生活上の悪循環が積み重なり生活が後退していく。
平常心と言うのは、当然の心、あるべきはずの心、すなわち我々の心の事実である。
夏は暑く、冬は寒い。心臓麻痺は恐ろしく、幽霊は気味が悪く、腹が減ればご飯が食べたい。
木に登れば、ハラハラするし、畳の上に寝転んでいればハラハラしない。
その当然のあるがままの心が平常心である。
この患者は、電車に乗って、心臓麻痺を想像しながら、しかも畳の上で、座禅をするときと同じ心持ちになりたいと望み、それを平常心と思っているのであった。
この方は高学歴がありながら、森田先生の言われることは全く理解できなかった。
パニック障害が強すぎてなんとしても克服したいという気持ちが空回りしすぎていたのか。
あるいは森田先生の助言を端から受け入れる気持ちがなかったのか。
森田療法を受け入れるという素直な気持ちにならないと、一生涯苦難の人生を歩むしかない。
現在パニック障害の治療法としては、精神療法の面では認知行動療法が主流となっている。
認知の誤りを修正し、治療者が付き添いながら少しずつ不安に慣らしていく方法である。
実際に効果はあるようですが、それだけでは再発する割合が高いのではないか。
根本的に治癒しようとすると、森田理論を応用する必要がある。
その中でも不安や恐怖の特徴とその役割は徹底的に理解する必要がある。
森田理論では不安や恐怖を完全に取り去るという考え方ではない。
不安や恐怖を抱えたままで、目の前のなすべきことを嫌々仕方なしにてもできるような人間に変わっていくような態度を養成することにあります。
森田は不安や恐怖を邪魔者扱いにはしていない。
不安や恐怖は人間にとってなくてはならないものである。
そもそも、不安や恐怖がわき起こらない人は、危険な場面や大きなリスクを抱えた場合、それを乗り越えることができない。不安や恐怖の強い人は、強力なレーダーを標準装備しているようなものである。
強力すぎるがゆえに取り越し苦労か尽きないのであるが、持っていない人にとってみればとても羨ましい装備なのである。
また不安や恐怖は、問題点や課題を示してくれるだけではなく、夢や目標も明らかにしてくれる。
このように考えると、不安や恐怖を取り除くためにエネルギーの大半をつぎ込む人を見ていると、水車に決闘を挑んで飛び込んでいったドン・キホーテを連想させる。
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