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何の故にこんな大きな机を新調して、また何の故にその上に寝て見ようなどという了見 を起したものか、本人に聞いて見ない事だから頓 とわからない。ほんの一時の出来心で、かかる難物を担 ぎ込んだのかも知れず、あるいはことによると一種の精神病者において吾人がしばしば見出 すごとく、縁もゆかりもない二個の観念を連想して、机と寝台を勝手に結び付けたものかも知れない。とにかく奇抜な考えである。ただ奇抜だけで役に立たないのが欠点である。 吾輩はかつて主人がこの机の上へ昼寝をして寝返りをする拍子 に椽側へ転げ落ちたのを見た事がある。それ以来この机は決して寝台に転用されないようである。机の前には薄っぺらなメリンスの座布団 があって、煙草 の火で焼けた穴が三つほどかたまってる。 中から見える綿は薄黒い。この座布団の上に後 ろ向きにかしこまっているのが主人である。 鼠色によごれた兵児帯 をこま結びにむすんだ左右がだらりと足の裏へ垂れかかっている。この帯へじゃれ付いて、いきなり頭を張られたのはこないだの事である。 滅多 に寄り付くべき帯ではない。まだ考えているのか下手 の考と云う喩 もあるのにと後 ろから覗 き込んで見ると、机の上でいやにぴかぴかと光ったものがある。 吾輩は思わず、続け様に二三度|瞬 をしたが、こいつは変だとまぶしいのを我慢してじっと光るものを見つめてやった。するとこの光りは机の上で動いている鏡から出るものだと云う事が分った。しかし主人は何のために書斎で鏡などを振り舞わしているのであろう。 鏡と云えば風呂場にあるに極 まっている。 現に吾輩は今朝風呂場でこの鏡を見たのだ。この鏡ととくに云うのは主人のうちにはこれよりほかに鏡はないからである。 主人が毎朝顔を洗ったあとで髪を分けるときにもこの鏡を用いる。――主人のような男が髪を分けるのかと聞く人もあるかも知れぬが、実際彼は他 の事に無精 なるだけそれだけ頭を叮嚀 にする。 吾輩が当家に参ってから今に至るまで主人はいかなる炎熱の日といえども五分刈に刈り込んだ事はない。 必 ず二寸くらいの長さにして、それを御大 そうに左の方で分けるのみか、右の端 をちょっと跳 ね返して澄 している。これも精神病の徴候かも知れない。こんな気取った分け方はこの机と一向 調和しないと思うが、あえて他人に害を及ぼすほどの事でないから、誰も何とも云わない。 本人も得意である。 分け方のハイカラなのはさておいて、なぜあんなに髪を長くするのかと思ったら実はこう云う訳 である。 彼のあばたは単に彼の顔を侵蝕 せるのみならず、とくの昔 しに脳天まで食い込んでいるのだそうだ。だからもし普通の人のように五分刈や三分刈にすると、短かい毛の根本から何十となくあばたがあらわれてくる。いくら撫 でても、さすってもぽつぽつがとれない。 枯野に蛍 を放ったようなもので風流かも知れないが、細君の御意 に入らんのは勿論 の事である。 髪さえ長くしておけば露見しないですむところを、好んで自己の非を曝 くにも当らぬ訳だ。なろう事なら顔まで毛を生やして、こっちのあばたも内済 にしたいくらいなところだから、ただで生 える毛を銭 を出して刈り込ませて、私は頭蓋骨 の上まで天然痘 にやられましたよと吹聴 する必要はあるまい。――これが主人の髪を長くする理由で、髪を長くするのが、彼の髪をわける原因で、その原因が鏡を見る訳で、その鏡が風呂場にある所以 で、しこうしてその鏡が一つしかないと云う事実である。 風呂場にあるべき鏡が、しかも一つしかない鏡が書斎に来ている以上は鏡が離魂病 に罹 ったのかまたは主人が風呂場から持って来たに相違ない。 持って来たとすれば何のために持って来たのだろう。あるいは例の消極的修養に必要な道具かも知れない。 昔 し或る学者が何とかいう智識を訪 うたら、和尚 両肌を抜いで甎 を磨 しておられた。 何をこしらえなさると質問をしたら、なにさ今鏡を造ろうと思うて一生懸命にやっておるところじゃと答えた。そこで学者は驚ろいて、なんぼ名僧でも甎を磨して鏡とする事は出来まいと云うたら、和尚からからと笑いながらそうか、それじゃやめよ、いくら書物を読んでも道はわからぬのもそんなものじゃろと罵 ったと云うから、主人もそんな事を聞き噛 って風呂場から鏡でも持って来て、したり顔に振り廻しているのかも知れない。 大分 物騒になって来たなと、そっと窺 っている。かくとも知らぬ主人ははなはだ熱心なる容子 をもって一張来 の鏡を見つめている。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2016年05月23日
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だから養子が死んでそのまた養子が跡を続 いだら葛根湯 がアンチピリンに化けるかも知れない。かごに乗って東京市中を練りあるくのは宗伯老の当時ですらあまり見っともいいものでは無かった。こんな真似をして澄 していたものは旧弊な亡者 と、汽車へ積み込まれる豚と、宗伯老とのみであった。 主人のあばたもその振わざる事においては宗伯老のかごと一般で、はたから見ると気の毒なくらいだが、漢法医にも劣らざる頑固 な主人は依然として孤城落日のあばたを天下に曝露 しつつ毎日登校してリードルを教えている。かくのごとき前世紀の紀念を満面に刻 して教壇に立つ彼は、その生徒に対して授業以外に大 なる訓戒を垂れつつあるに相違ない。 彼は「猿が手を持つ」を反覆するよりも「あばたの顔面に及ぼす影響」と云う大問題を造作 もなく解釈して、不言 の間 にその答案を生徒に与えつつある。もし主人のような人間が教師として存在しなくなった暁 には彼等生徒はこの問題を研究するために図書館もしくは博物館へ馳けつけて、吾人がミイラによって埃及人 を髣髴 すると同程度の労力を費 やさねばならぬ。この点 から見ると主人の痘痕 も冥々 の裡 に妙な功徳 を施こしている。もっとも主人はこの功徳を施こすために顔一面に疱瘡 を種 え付けたのではない。これでも実は種え疱瘡をしたのである。 不幸にして腕に種えたと思ったのが、いつの間 にか顔へ伝染していたのである。その頃は小供の事で今のように色気 もなにもなかったものだから、痒 い痒いと云いながら無暗 に顔中引き掻 いたのだそうだ。ちょうど噴火山が破裂してラヴァが顔の上を流れたようなもので、親が生んでくれた顔を台なしにしてしまった。 主人は折々細君に向って疱瘡をせぬうちは玉のような男子であったと云っている。 浅草の観音様 で西洋人が振り反 って見たくらい奇麗だったなどと自慢する事さえある。なるほどそうかも知れない。ただ誰も保証人のいないのが残念である。いくら功徳になっても訓戒になっても、きたない者はやっぱりきたないものだから、物心 がついて以来と云うもの主人は大 にあばたについて心配し出して、あらゆる手段を尽してこの醜態を揉 み潰 そうとした。ところが宗伯老のかごと違って、いやになったからと云うてそう急に打ちやられるものではない。 今だに歴然と残っている。この歴然が多少気にかかると見えて、主人は往来をあるく度毎にあばた面 を勘定してあるくそうだ。 今日何人あばたに出逢って、その主 は男か女か、その場所は小川町の勧工場 であるか、上野の公園であるか、ことごとく彼の日記につけ込んである。 彼はあばたに関する智識においては決して誰にも譲るまいと確信している。せんだってある洋行帰りの友人が来た折なぞは、「君西洋人にはあばたがあるかな」と聞いたくらいだ。するとその友人が「そうだな」と首を曲げながらよほど考えたあとで「まあ滅多 にないね」と云ったら、主人は「滅多になくっても、少しはあるかい」と念を入れて聞き返えした。 友人は気のない顔で「あっても乞食か立 ん坊 だよ。 教育のある人にはないようだ」と答えたら、主人は「そうかなあ、日本とは少し違うね」と云った。 哲学者の意見によって落雲館との喧嘩を思い留った主人はその後書斎に立て籠 ってしきりに何か考えている。 彼の忠告を容 れて静坐の裡 に霊活なる精神を消極的に修養するつもりかも知れないが、元来が気の小さな人間の癖に、ああ陰気な懐手 ばかりしていては碌 な結果の出ようはずがない。それより英書でも質に入れて芸者から喇叭節 でも習った方が遥 かにましだとまでは気が付いたが、あんな偏屈 な男はとうてい猫の忠告などを聴く気遣 はないから、まあ勝手にさせたらよかろうと五六日は近寄りもせずに暮した。 今日はあれからちょうど七日目 である。 禅家などでは一七日 を限って大悟して見せるなどと凄 じい勢 で結跏 する連中もある事だから、うちの主人もどうかなったろう、死ぬか生きるか何とか片付いたろうと、のそのそ椽側 から書斎の入口まで来て室内の動静を偵察 に及んだ。 書斎は南向きの六畳で、日当りのいい所に大きな机が据 えてある。ただ大きな机ではわかるまい。 長さ六尺、幅三尺八寸高さこれにかなうと云う大きな机である。 無論出来合のものではない。 近所の建具屋に談判して寝台|兼 机として製造せしめたる稀代 の品物である。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2016年05月13日
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西洋と大 に違うところは、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと云う一大仮定の下 に発達しているのだ。 親子の関係が面白くないと云って欧洲人のようにこの関係を改良して落ちつきをとろうとするのではない。 親子の関係は在来のままでとうてい動かす事が出来んものとして、その関係の下 に安心を求むる手段を講ずるにある。 夫婦君臣の間柄もその通り、武士町人の区別もその通り、自然その物を観 るのもその通り。――山があって隣国へ行かれなければ、山を崩すと云う考を起す代りに隣国へ行かんでも困らないと云う工夫をする。 山を越さなくとも満足だと云う心持ちを養成するのだ。それだから君見給え。 禅家 でも儒家 でもきっと根本的にこの問題をつらまえる。いくら自分がえらくても世の中はとうてい意のごとくなるものではない、落日 を回 らす事も、加茂川を逆 に流す事も出来ない。ただ出来るものは自分の心だけだからね。 心さえ自由にする修業をしたら、落雲館の生徒がいくら騒いでも平気なものではないか、今戸焼の狸でも構わんでおられそうなものだ。ぴん助なんか愚 な事を云ったらこの馬鹿野郎とすましておれば仔細 なかろう。 何でも昔しの坊主は人に斬 り付けられた時|電光影裏 に春風 を斬るとか、何とか洒落 れた事を云ったと云う話だぜ。 心の修業がつんで消極の極に達するとこんな霊活な作用が出来るのじゃないかしらん。 僕なんか、そんなむずかしい事は分らないが、とにかく西洋人風の積極主義ばかりがいいと思うのは少々誤まっているようだ。 現に君がいくら積極主義に働いたって、生徒が君をひやかしにくるのをどうする事も出来ないじゃないか。 君の権力であの学校を閉鎖するか、または先方が警察に訴えるだけのわるい事をやれば格別だが、さもない以上は、どんなに積極的に出たったて勝てっこないよ。もし積極的に出るとすれば金の問題になる。 多勢 に無勢 の問題になる。 換言すると君が金持に頭を下げなければならんと云う事になる。 衆を恃 む小供に恐れ入らなければならんと云う事になる。 君のような貧乏人でしかもたった一人で積極的に喧嘩をしようと云うのがそもそも君の不平の種さ。どうだい分ったかい」 主人は分ったとも、分らないとも言わずに聞いていた。 珍客が帰ったあとで書斎へ這入 って書物も読まずに何か考えていた。 鈴木の藤 さんは金と衆とに従えと主人に教えたのである。 甘木先生は催眠術で神経を沈めろと助言 したのである。 最後の珍客は消極的の修養で安心を得ろと説法したのである。 主人がいずれを択 ぶかは主人の随意である。ただこのままでは通されないに極 まっている。 九 主人は痘痕面 である。 御維新前 はあばたも大分 流行 ったものだそうだが日英同盟の今日 から見ると、こんな顔はいささか時候|後 れの感がある。あばたの衰退は人口の増殖と反比例して近き将来には全くその迹 を絶つに至るだろうとは医学上の統計から精密に割り出されたる結論であって、吾輩のごとき猫といえども毫 も疑を挟 む余地のないほどの名論である。 現今地球上にあばたっ面 を有して生息している人間は何人くらいあるか知らんが、吾輩が交際の区域内において打算して見ると、猫には一匹もない。 人間にはたった一人ある。しかしてその一人が即 ち主人である。はなはだ気の毒である。 吾輩は主人の顔を見る度に考える。まあ何の因果でこんな妙な顔をして臆面 なく二十世紀の空気を呼吸しているのだろう。 昔なら少しは幅も利 いたか知らんが、あらゆるあばたが二の腕へ立ち退 きを命ぜられた昨今、依然として鼻の頭や頬の上へ陣取って頑 として動かないのは自慢にならんのみか、かえってあばたの体面に関する訳だ。 出来る事なら今のうち取り払ったらよさそうなものだ。あばた自身だって心細いに違いない。それとも党勢不振の際、誓って落日を中天 に挽回 せずんばやまずと云う意気込みで、あんなに横風 に顔一面を占領しているのか知らん。そうするとこのあばたは決して軽蔑 の意をもって視 るべきものでない。滔々 たる流俗に抗する万古不磨 の穴の集合体であって、大 に吾人の尊敬に値する凸凹 と云って宜 しい。ただきたならしいのが欠点である。 主人の小供のときに牛込の山伏町に浅田宗伯 と云う漢法の名医があったが、この老人が病家を見舞うときには必ずかごに乗ってそろりそろりと参られたそうだ。ところが宗伯老が亡くなられてその養子の代になったら、かごがたちまち人力車に変じた。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2016年05月01日
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