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健康関連のエリアでインターネットでニュースを何気なく見ていましたら影響が大きいと思われる情報を見つけました。タイトルがナスに大量の神経伝達物質 信州大発見、ピーマンの1000倍 発表元は信州大学です。注目に値する記事ですね。2016年12月30日 日本経済新聞 電子版概要は以下です。信州大学農学部の中村浩蔵准教授は、ナスに神経伝達物質のアセチルコリンが大量に含まれていることを発見した。 アセチルコリンは記憶の働きにかかわるとされる物質。ピーマン、ニンジンなどの農産物に比べて1000倍以上含まれているという。今後、機能性表示食品として登録を目指す。乾燥させたナスにはアセチルコリンなどの有効成分が凝縮されており、機能性表示食品の認定を受けるための安全性試験を経て、2年後をメドに申請する。 中村准教授はソバ菜を発酵させた「発酵キョウバク」の研究で、アセチルコリンを他の物質から細かく分離させて高感度に検出する方法を開発した。その手法を応用し、ナスのアセチルコリン含有量が多いことを発見した。アセチルコリンとはアセチルコリンは最も早く同定された神経伝達物質である。末梢神経系では、運動神経の神経筋接合部、交感神経および副交感神経の節前線維の終末、副交感神経の節後線維の終末などのシナプスで伝達物質として働く。特に注目したいのは1000倍も含まれるということです。と言う点で本当に期待できます。詳細は以下の発信元をご覧ください。→詳細記事★しかし┌(×_×)┐申し訳ありません。これは好い、特に認知症気味の人には薦めよう思ったのですが、少し調べてみたら、問題があることがわかりました。ナス科の作物は基本的に毒性をもつこと。なすは、東洋医学的に体を冷やす効果をもつ、極陰性であることです。ということは、情報の一面性のみですぐ人にこれは好い情報があったというのは問題だということです。常に多方面から情報を考えて使う習慣をつけるようにしましょう。
2016年12月30日
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とん子の顔は南蛮鉄 の刀の鍔 のような輪廓 を有している。すん子も妹だけに多少姉の面影 を存して琉球塗 の朱盆 くらいな資格はある。ただ坊ばに至っては独 り異彩を放って、面長 に出来上っている。 但 し竪 に長いのなら世間にその例もすくなくないが、この子のは横に長いのである。いかに流行が変化し易 くったって、横に長い顔がはやる事はなかろう。 主人は自分の子ながらも、つくづく考える事がある。これでも生長しなければならぬ。 生長するどころではない、その生長の速 かなる事は禅寺 の筍 が若竹に変化する勢で大きくなる。 主人はまた大きくなったなと思うたんびに、後 ろから追手 にせまられるような気がしてひやひやする。いかに空漠 なる主人でもこの三令嬢が女であるくらいは心得ている。 女である以上はどうにか片付けなくてはならんくらいも承知している。 承知しているだけで片付ける手腕のない事も自覚している。そこで自分の子ながらも少しく持て余しているところである。 持て余すくらいなら製造しなければいいのだが、そこが人間である。 人間の定義を云うとほかに何にもない。ただ入 らざる事を捏造 して自 ら苦しんでいる者だと云えば、それで充分だ。さすがに子供はえらい。これほどおやじが処置に窮しているとは夢にも知らず、楽しそうにご飯をたべる。ところが始末におえないのは坊ばである。 坊ばは当年とって三歳であるから、細君が気を利 かして、食事のときには、三歳然たる小形の箸 と茶碗をあてがうのだが、坊ばは決して承知しない。 必ず姉の茶碗を奪い、姉の箸を引ったくって、持ちあつかい悪 い奴を無理に持ちあつかっている。 世の中を見渡すと無能無才の小人ほど、いやにのさばり出て柄 にもない官職に登りたがるものだが、あの性質は全くこの坊ば時代から萌芽 しているのである。その因 って来 るところはかくのごとく深いのだから、決して教育や薫陶 で癒 せる者ではないと、早くあきらめてしまうのがいい。 坊ばは隣りから分捕 った偉大なる茶碗と、長大なる箸を専有して、しきりに暴威を擅 にしている。 使いこなせない者をむやみに使おうとするのだから、勢 暴威を逞 しくせざるを得ない。 坊ばはまず箸の根元を二本いっしょに握ったままうんと茶碗の底へ突込んだ。 茶碗の中は飯が八分通り盛り込まれて、その上に味噌汁が一面に漲 っている。 箸の力が茶碗へ伝わるやいなや、今までどうか、こうか、平均を保っていたのが、急に襲撃を受けたので三十度ばかり傾いた。 同時に味噌汁は容赦なくだらだらと胸のあたりへこぼれだす。 坊ばはそのくらいな事で辟易 する訳がない。 坊ばは暴君である。 今度は突き込んだ箸を、うんと力一杯茶碗の底から刎 ね上げた。 同時に小さな口を縁 まで持って行って、刎 ね上げられた米粒を這入 るだけ口の中へ受納した。 打ち洩 らされた米粒は黄色な汁と相和して鼻のあたまと頬 っぺたと顋 とへ、やっと掛声をして飛びついた。 飛びつき損じて畳の上へこぼれたものは打算 の限りでない。 随分無分別な飯の食い方である。 吾輩は謹 んで有名なる金田君及び天下の勢力家に忠告する。 公等 の他をあつかう事、坊ばの茶碗と箸をあつかうがごとくんば、公等 の口へ飛び込む米粒は極めて僅少 のものである。 必然の勢をもって飛び込むにあらず、戸迷 をして飛び込むのである。どうか御再考を煩 わしたい。 世故 にたけた敏腕家にも似合しからぬ事だ。 姉のとん子は、自分の箸と茶碗を坊ばに掠奪 されて、不相応に小さな奴をもってさっきから我慢していたが、もともと小さ過ぎるのだから、一杯にもった積りでも、あんとあけると三口ほどで食ってしまう。したがって頻繁 に御はちの方へ手が出る。もう四膳かえて、今度は五杯目である。とん子は御はちの蓋 をあけて大きなしゃもじを取り上げて、しばらく眺 めていた。これは食おうか、よそうかと迷っていたものらしいが、ついに決心したものと見えて、焦 げのなさそうなところを見計って一掬 いしゃもじの上へ乗せたまでは無難 であったが、それを裏返して、ぐいと茶碗の上をこいたら、茶碗に入 りきらん飯は塊 まったまま畳の上へ転 がり出した。とん子は驚ろく景色 もなく、こぼれた飯を鄭寧 に拾い始めた。 拾って何にするかと思ったら、みんな御はちの中へ入れてしまった。 少しきたないようだ。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2016年12月28日
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すでにだだっ子である以上は、喧嘩をする勢で、むっくと刎ね起きた主人が急に気をかえて袋戸の腸を読みにかかるのももっともと云わねばなるまい。第一に眼にとまったのが伊藤博文の逆か立ちである。上を見ると明治十一年九月廿八日とある。韓国統監もこの時代から御布令の尻尾を追っ懸けてあるいていたと見える。大将この時分は何をしていたんだろうと、読めそうにないところを無理によむと大蔵卿とある。なるほどえらいものだ、いくら逆か立ちしても大蔵卿である。少し左の方を見ると今度は大蔵卿横になって昼寝をしている。もっともだ。逆か立ちではそう長く続く気遣はない。下の方に大きな木板で汝はと二字だけ見える、あとが見たいがあいにく露出しておらん。次の行には早くの二字だけ出ている。こいつも読みたいがそれぎれで手掛りがない。もし主人が警視庁の探偵であったら、人のものでも構わずに引っぺがすかも知れない。探偵と云うものには高等な教育を受けたものがないから事実を挙げるためには何でもする。あれは始末に行かないものだ。願くばもう少し遠慮をしてもらいたい。遠慮をしなければ事実は決して挙げさせない事にしたらよかろう。聞くところによると彼等は羅織虚構をもって良民を罪に陥れる事さえあるそうだ。良民が金を出して雇っておく者が、雇主を罪にするなどときてはこれまた立派な気狂である。次に眼を転じて真中を見ると真中には大分県が宙返りをしている。伊藤博文でさえ逆か立ちをするくらいだから、大分県が宙返りをするのは当然である。主人はここまで読んで来て、双方へ握り拳をこしらえて、これを高く天井に向けて突きあげた。あくびの用意である。このあくびがまた鯨の遠吠のようにすこぶる変調を極めた者であったが、それが一段落を告げると、主人はのそのそと着物をきかえて顔を洗いに風呂場へ出掛けて行った。待ちかねた細君はいきなり布団をまくって夜着を畳んで、例の通り掃除をはじめる。掃除が例の通りであるごとく、主人の顔の洗い方も十年一日のごとく例の通りである。先日紹介をしたごとく依然としてがーがー、げーげーを持続している。やがて頭を分け終って、西洋|手拭を肩へかけて、茶の間へ出御になると、超然として長火鉢の横に座を占めた。長火鉢と云うと欅の如輪木か、銅の総落しで、洗髪の姉御が立膝で、長煙管を黒柿の縁へ叩きつける様を想見する諸君もないとも限らないが、わが苦沙弥先生の長火鉢に至っては決して、そんな意気なものではない、何で造ったものか素人には見当のつかんくらい古雅なものである。長火鉢は拭き込んでてらてら光るところが身上なのだが、この代物は欅か桜か桐か元来不明瞭な上に、ほとんど布巾をかけた事がないのだから陰気で引き立たざる事|夥しい。こんなものをどこから買って来たかと云うと、決して買った覚はない。そんなら貰ったかと聞くと、誰もくれた人はないそうだ。しからば盗んだのかと糺して見ると、何だかその辺が曖昧である。昔し親類に隠居がおって、その隠居が死んだ時、当分留守番を頼まれた事がある。ところがその後一戸を構えて、隠居所を引き払う際に、そこで自分のもののように使っていた火鉢を何の気もなく、つい持って来てしまったのだそうだ。少々たちが悪いようだ。考えるとたちが悪いようだがこんな事は世間に往々ある事だと思う。銀行家などは毎日人の金をあつかいつけているうちに人の金が、自分の金のように見えてくるそうだ。役人は人民の召使である。用事を弁じさせるために、ある権限を委托した代理人のようなものだ。ところが委任された権力を笠に着て毎日事務を処理していると、これは自分が所有している権力で、人民などはこれについて何らの喙を容るる理由がないものだなどと狂ってくる。こんな人が世の中に充満している以上は長火鉢事件をもって主人に泥棒根性があると断定する訳には行かぬ。もし主人に泥棒根性があるとすれば、天下の人にはみんな泥棒根性がある。長火鉢の傍に陣取って、食卓を前に控えたる主人の三面には、先刻雑巾で顔を洗った坊ばと御茶の味噌の学校へ行くとん子と、お白粉罎に指を突き込んだすん子が、すでに勢揃をして朝飯を食っている。主人は一応この三女子の顔を公平に見渡した。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。夏目漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2016年12月17日
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少しはこの辺の事情を察して主人も少々怒るのを差し控 えてやったら、八っちゃんの寿命が少しは延びるだろうに、いくら金田君から頼まれたって、こんな愚 な事をするのは、天道公平君よりもはげしくおいでになっている方だと鑑定してもよかろう。 怒るたんびに泣かせられるだけなら、まだ余裕もあるけれども、金田君が近所のゴロツキを傭 って今戸焼 をきめ込むたびに、八っちゃんは泣かねばならんのである。 主人が怒るか怒らぬか、まだ判然しないうちから、必ず怒るべきものと予想して、早手廻しに八っちゃんは泣いているのである。こうなると主人が八っちゃんだか、八っちゃんが主人だか判然しなくなる。 主人にあてつけるに手数 は掛らない、ちょっと八っちゃんに剣突 を食わせれば何の苦もなく、主人の横 っ面 を張った訳になる。 昔 し西洋で犯罪者を所刑にする時に、本人が国境外に逃亡して、捕 えられん時は、偶像をつくって人間の代りに火 あぶりにしたと云うが、彼等のうちにも西洋の故事に通暁 する軍師があると見えて、うまい計略を授けたものである。 落雲館と云い、八っちゃんの御袋と云い、腕のきかぬ主人にとっては定めし苦手 であろう。そのほか苦手はいろいろある。あるいは町内中ことごとく苦手かも知れんが、ただいまは関係がないから、だんだん成し崩しに紹介致す事にする。 八っちゃんの泣き声を聞いた主人は、朝っぱらからよほど癇癪 が起ったと見えて、たちまちがばと布団 の上に起き直った。こうなると精神修養も八木独仙も何もあったものじゃない。 起き直りながら両方の手でゴシゴシゴシと表皮のむけるほど、頭中引き掻 き廻す。 一ヵ月も溜っているフケは遠慮なく、頸筋 やら、寝巻の襟 へ飛んでくる。 非常な壮観である。 髯 はどうだと見るとこれはまた驚ろくべく、ぴん然とおっ立っている。 持主が怒 っているのに髯だけ落ちついていてはすまないとでも心得たものか、一本一本に癇癪 を起して、勝手次第の方角へ猛烈なる勢をもって突進している。これとてもなかなかの見物 である。 昨日 は鏡の手前もある事だから、おとなしく独乙 皇帝陛下の真似をして整列したのであるが、一晩寝れば訓練も何もあった者ではない、直ちに本来の面目に帰って思い思いの出 で立 に戻るのである。あたかも主人の一夜作りの精神修養が、あくる日になると拭 うがごとく奇麗に消え去って、生れついての野猪的 本領が直ちに全面を暴露し来 るのと一般である。こんな乱暴な髯をもっている、こんな乱暴な男が、よくまあ今まで免職にもならずに教師が勤まったものだと思うと、始めて日本の広い事がわかる。 広ければこそ金田君や金田君の犬が人間として通用しているのでもあろう。 彼等が人間として通用する間は主人も免職になる理由がないと確信しているらしい。いざとなれば巣鴨へ端書 を飛ばして天道公平君に聞き合せて見れば、すぐ分る事だ。この時主人は、昨日 紹介した混沌 たる太古の眼を精一杯に見張って、向うの戸棚をきっと見た。これは高さ一間を横に仕切って上下共|各 二枚の袋戸をはめたものである。 下の方の戸棚は、布団 の裾 とすれすれの距離にあるから、起き直った主人が眼をあきさえすれば、天然自然ここに視線がむくように出来ている。 見ると模様を置いた紙がところどころ破れて妙な腸 があからさまに見える。 腸にはいろいろなのがある。あるものは活版摺 で、あるものは肉筆である。あるものは裏返しで、あるものは逆さまである。 主人はこの腸を見ると同時に、何がかいてあるか読みたくなった。 今までは車屋のかみさんでも捕 えて、鼻づらを松の木へこすりつけてやろうくらいにまで怒 っていた主人が、突然この反古紙 を読んで見たくなるのは不思議のようであるが、こう云う陽性の癇癪持ちには珍らしくない事だ。 小供が泣くときに最中 の一つもあてがえばすぐ笑うと一般である。 主人が昔 し去る所の御寺に下宿していた時、襖 一 と重 を隔てて尼が五六人いた。 尼などと云うものは元来意地のわるい女のうちでもっとも意地のわるいものであるが、この尼が主人の性質を見抜いたものと見えて自炊の鍋 をたたきながら、今泣いた烏がもう笑った、今泣いた烏がもう笑ったと拍子を取って歌ったそうだ、主人が尼が大嫌になったのはこの時からだと云うが、尼は嫌 にせよ全くそれに違ない。 主人は泣いたり、笑ったり、嬉しがったり、悲しがったり人一倍もする代りにいずれも長く続いた事がない。よく云えば執着がなくて、心機 がむやみに転ずるのだろうが、これを俗語に翻訳してやさしく云えば奥行のない、薄 っ片 の、鼻 っ張 だけ強いだだっ子である。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2016年12月13日
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最近民進党の蓮舫氏の国籍問題、トランプ次期米国大統領の台湾の蔡英文総統との電話など、台湾がより注目されているのですが、今日インターネットを見ていましたら興味深いものがありました。新規ジャーナルを公開しました。東南アジア学会の発行ジャーナル 「東南アジア-歴史と文化-」──「日本人法」制定過程をめぐる議論から──吉田 信さん公開日: 2016年12月13日結構長い分なので、部分的につまみ読みでまとめた?繋げたが正確ですが、紹介します。オランダ領東インドに施行されたいわゆる「統治法」は、オランダ本国での立憲主義の確立をうけ、植民地に対する「法の支配」の導入を企図していた。第一になすべきことは、植民地において、法の適用される範囲を確定すること、すなわちどの住民集団にどの法律が適用されるべきかを定めることだった。そのため、統治法は、その10 条においてオランダ領東インド(以下東インド)の住民を「ヨーロッパ人」と「原住民」とに区分し、サブカテゴリーとしてそれぞれの住民集団に「同等視される者」という区分を設けた。「ヨーロッパ人」に対しては本国同様の法律が適用される一方、「原住民」に対しては土着の「慣習法」が適用されることとなり、オランダの東インド統治は、二重構造を基本とすることとなる。両者を分かつ基準となったものが、「人種」であり、「文明」であった。華人を主とした「外来東洋人」という範疇を「ヨーロッパ人」および「原住民」と並ぶ個別の法的地位として加わった。この流れの中で、「日本人法(Japannerwet)」は、東インドにおいて従来「原住民と同等視される者」とみなされてきた日本人の法的地位を「ヨーロッパ人と同等視される者」へ転換するものであった。オランダ側で立法に携わった者達が法案の形成過程に際して、日本人に対しどのようなイメージを抱いていたのか。そこからさらに、オランダの政策立案者が「文明」をどのように理解していたのか。また、日本人法に反対の立場をとった者は、この点をどのように理解していたのか。日本人をヨーロッパ人と同等視するうえで、なにが障害となり、なにが懸念されていたのか。などの点を説明している。日本とオランダとの条約改正が両国間で交渉されつつあった時、東インドの行政法に詳しいファン・デル・ケンプは法的な住民区分の相違が文明の進展度に応じて異なるという論を展開していた。国際関係は、進歩の増大につれ、文明化した諸民族(beschaafde volken)の法的地位における相違を取り払いつつある。それゆえわれわれの法律も文明化した民族とあまり文明化していない民族との間の分割を認めている、すなわちヨーロッパ人と原住民という類型のようなものであり、また誰がそれぞれの範疇にいわゆる同等視されねばならないのかを述べている。なぜ日本人法は制定されねばならなかったのか。その淵源は、明治政府の条約改正交渉に求めることができる。日本とオランダとの条約改正交渉は、岩倉使節団がハーグを訪ねた際におこなわれている。オランダ政府は、交渉の席上日本に裁判所が存在しないことや、行政府と立法府が明確に分離していないこと、つまりは近代的な三権の確立と分立の不在を理由として、条約の改定に消極的な姿勢を示していた。在日本オランダ総領事が日本政府より送付された条約案をオランダ外務省へ提出、そのなかで東インドにおいて「原住民」の法的地位を付与されている日本人に対して、例外適用を東インド総督に要請するこれに対して、植民地相は外相宛に次のような返答をおこなっている。条約をそこ〔日本政府案〕に書かれているように、オランダの植民地に適用することは難しい。オランダ領東インドにおける統治法10 条は、キリスト教徒でない限り日本人を他のヨーロッパの国民と同じには認めていない。それを日本人のために逸脱させることはできない。また、植民地を持たず、それゆえわれわれにとって同等でない日本に対して植民地におけるあらゆる権利を認めることは承服しかねる。植民地相が拒んでいる理由は、まず、宗教が理由として述べられている。統治法の成立過程で議会は「原住民」のキリスト教への偽装改宗が進むことで、税や賦役を逃れる事態を懸念し、「原住民」キリスト教徒はキリスト教徒であってもヨーロッパ人と同等視しないことを最終的に決めた。これは、法的地位の基準が、「宗教」から「人種」へ移行したことを意味していた。 宗教のほかに、ヨーロッパ人と同等の法的地位を付与する前提として挙げられているのが、植民地の領有である。この問題は、日本が日清戦争の賠償として台湾を領有したことにより解決をみる。また、日清戦争の開戦直前、日本はイギリスとの間に治外法権の撤廃を盛り込んだ日英通商航海条約を締結し、はじめての不平等条約改正をはたすこととなった。イギリスとの条約改正は、オランダを含む他の西欧列強諸国との条約改正にも影響を及ぼすこととなる。 「日本人法」の法案は、下院へ提出され、政府案の趣旨説明で植民地相クレーメル(Cremer)は法案の提出理由を次のように述べていた。〔日本は〕文明と進歩に関し、ヨーロッパの諸民族とまったく異なるところはない。このことは、形式的にも実質的にも日本で導入されている民法(商法)および刑法典が完全にヨーロッパ式のものであるという事実によって確かなのである。日本とオランダとの間に条約改正がなされたことは、オランダ政府の求めていた条件を日本が達成したことを意味する。法案は、下院議員から構成される法案の検討委員会にまわされ、同年10月1 日に委員会は議会に対して以下のような報告書を提出した。〔政府の〕趣旨説明は、日本国が、文明と進歩に関して、その国にヨーロッパ式の法典を導入したことから明らかなように、ヨーロッパの諸民族とまったく異なるところがないと述べている。だが、この点について述べるなら、日本は宗教に関してはヨーロッパと同じではなく、アジアの諸民族とのみ同等視されるのであって、日本で主要な宗教とキリスト教との間には、儀礼や慣習の点で決定的な相違があるというのは必然的な結論である。さらに、数名の考えるところでは、法案の可決が他の外来東洋人、とりわけ華人のヨーロッパ人との同等視に帰結することは否定できない。検討委員会は、政府の見解に異議を唱えた。「文明と進歩」は、「宗教」の基準によっても理解されねばならない。加えて、委員会の見解として興味深いものが、華人に及ぼす影響に関する箇所である。下院に提出された法案に対し、強力な反対意見を展開したのが、のちに首相となるカイペル(Kuyper)である。カイペルは、次のように述べた。日本人ははるかに文明化し、非常に進歩したので、完全にヨーロッパ人と同等であると政府は述べている政府はそれに対する証拠を出しているだろうか。確かに。証拠として、現在日本で導入されている法典は、ヨーロッパでのわれわれの法典とほぼ同じものであると述べている。これはそのとおりだし、この事実は大変ありがたいものと思う。だが、法典を導入したとして、それ自身がある民族4千万人の文明度に対する証拠となるのであろうか。国民自身まで高尚になるようなことはあるのだろうか。東インドに来る日本人について言うならば、日本政府の官吏は問題ではない、むしろ個々の日本人男性や女性が問題となるのである。「文明化」の基準を政府はヨーロッパ式の法典に求めている。これに対してカイペルは、個々の日本人を念頭に置きながら「文明化」の議論を展開している。 東インドに到来する日本人の職種を直接問題にするファン・デ・フェルデ議員による反対意見もあった。売春婦や女衒、その類の者たちから大部分が構成されているある種の人たちに特権が与えられることになれば、どのような印象を他の住民に与えることになるのだろうか。カイペルをはじめとして法案に反対する議員は、日本人に対する法的地位をヨーロッパ人と同等にすることが、東インドへの大量の日本人移民を引き起こすのではないかとの懸念を共有していた。 「日本人法」の前提となる日蘭通商航海条約をめぐっては、当初日本の植民地領有が要件とされていた。だが、現実に日本が台湾を植民地として領有し、条約改正をおこない、「日本人法」によりヨーロッパ人と同等の法的地位を獲得することが問題になると、植民地領有がかえって議論の的となった。日本人の「文明化」でさえ疑わしいのに台湾人にいたってはどう理解すべきなのか。政府に対して、この点から法案の妥当性を疑問視したのもカイペルであった。日本人はこれまではさほど多く移民を出してこなかったのだが、最近では急激に移民を送り出し、年に2 万 千人の男性と1 万 千の女性が移民として日本を出た。台湾人はその文明と進歩に関して、 ヨーロッパ人とすでに同じであると確信しているのだろうか。日本人が穏やかな民族であるならば、私はこの脅威を過大視しないだろう、だが、日本人は現在、世界で最も乱暴な民族に属していることをわれわれは理解している。彼らは領土拡張の野心をもつようになって、アジア全体で強大な島嶼帝国になろうと望んでいる。この第一歩が台湾の領有によってすでになされたのである。クレーメル植民地相は、次のように答弁した。台湾が併合された時点で、台湾人はヨーロッパ式の法律のもとで生きるのであり、われわれのところでと同じようにそこで暮らすのだ。カイペルとクレーメル植民地相の議論は、平行線をたどったまま採決がおこなわれ、法案は過半数の承認を得て可決された。「日本人法」をめぐる反応竹越与三郎は法案の施行から10年後となる年に東インドを訪れた時の記録を翌年出版した『南国記』に記している。東インドに居住している華人が「台湾籍」を取得することによって日本臣民の地位を取得している状況を報告している。 「日本人法」の意義をめぐっては、わずかではあるが植民地法の専門家の見解が存在している。ライデン大学に対抗して植民地官僚養成機関の設けられたユトレヒト大学で教鞭をとっていたネーデルブルフは、日本人が治外法権の撤廃を望んだだけでなく「外国においてももはや東洋人とみなされないこと」を望んでいた、と述べている。西洋人の東洋人に対する見方の根底のところがよく分かるぶんしょうです。また、台湾人と華人(中国人)の日本との関連が、現在の国際政治の駆け引きや思惑と同じように行われていたことがよく分かる情報でした。その後、韓国人まで絡んで、もうすぐプーチンのロシアまで入って、もちろんトランプのアメリカも、複雑で面白いですね。
2016年12月13日
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「坊やちゃん、元禄が濡れるから御よしなさい、ね」と姉が洒落 れた事を云う。その癖 この姉はついこの間まで元禄と双六 とを間違えていた物識 りである。 元禄で思い出したからついでに喋舌 ってしまうが、この子供の言葉ちがいをやる事は夥 しいもので、折々人を馬鹿にしたような間違を云ってる。 火事で茸 が飛んで来たり、御茶 の味噌 の女学校へ行ったり、恵比寿 、台所 と並べたり、或る時などは「わたしゃ藁店 の子じゃないわ」と云うから、よくよく聞き糺 して見ると裏店 と藁店を混同していたりする。 主人はこんな間違を聞くたびに笑っているが、自分が学校へ出て英語を教える時などは、これよりも滑稽な誤謬 を真面目になって、生徒に聞かせるのだろう。 坊やは――当人は坊やとは云わない。いつでも坊ばと云う――元禄が濡れたのを見て「元 どこがべたい」と云って泣き出した。 元禄が冷たくては大変だから、御三が台所から飛び出して来て、雑巾を取上げて着物を拭 いてやる。この騒動中比較的静かであったのは、次女のすん子嬢である。すん子嬢は向うむきになって棚の上からころがり落ちた、お白粉 の瓶 をあけて、しきりに御化粧を施 している。 第一に突っ込んだ指をもって鼻の頭をキューと撫 でたから竪 に一本白い筋が通って、鼻のありかがいささか分明 になって来た。 次に塗りつけた指を転じて頬の上を摩擦したから、そこへもってきて、これまた白いかたまりが出来上った。これだけ装飾がととのったところへ、下女がはいって来て坊ばの着物を拭いたついでに、すん子の顔もふいてしまった。すん子は少々不満の体 に見えた。 吾輩はこの光景を横に見て、茶の間から主人の寝室まで来てもう起きたかとひそかに様子をうかがって見ると、主人の頭がどこにも見えない。その代り十文半 の甲の高い足が、夜具の裾 から一本|食 み出している。 頭が出ていては起こされる時に迷惑だと思って、かくもぐり込んだのであろう。 亀の子のような男である。ところへ書斎の掃除をしてしまった妻君がまた箒 とはたきを担 いでやってくる。最前 のように襖 の入口から「まだお起きにならないのですか」と声をかけたまま、しばらく立って、首の出ない夜具を見つめていた。 今度も返事がない。 細君は入口から二歩 ばかり進んで、箒をとんと突きながら「まだなんですか、あなた」と重ねて返事を承わる。この時主人はすでに目が覚 めている。 覚めているから、細君の襲撃にそなうるため、あらかじめ夜具の中に首もろとも立て籠 ったのである。 首さえ出さなければ、見逃 してくれる事もあろうかと、詰まらない事を頼みにして寝ていたところ、なかなか許しそうもない。しかし第一回の声は敷居の上で、少くとも一間の間隔があったから、まず安心と腹のうちで思っていると、とんと突いた箒が何でも三尺くらいの距離に追っていたにはちょっと驚ろいた。のみならず第二の「まだなんですか、あなた」が距離においても音量においても前よりも倍以上の勢を以て夜具のなかまで聞えたから、こいつは駄目だと覚悟をして、小さな声でうんと返事をした。 「九時までにいらっしゃるのでしょう。 早くなさらないと間に合いませんよ」 「そんなに言わなくても今起きる」と夜着 の袖口 から答えたのは奇観である。 妻君はいつでもこの手を食って、起きるかと思って安心していると、また寝込まれつけているから、油断は出来ないと「さあお起きなさい」とせめ立てる。 起きると云うのに、なお起きろと責めるのは気に食わんものだ。 主人のごとき我儘者 にはなお気に食わん。ここにおいてか主人は今まで頭から被 っていた夜着を一度に跳 ねのけた。見ると大きな眼を二つとも開 いている。 「何だ騒々しい。 起きると云えば起きるのだ」 「起きるとおっしゃってもお起きなさらんじゃありませんか」 「誰がいつ、そんな嘘 をついた」 「いつでもですわ」 「馬鹿を云え」 「どっちが馬鹿だか分りゃしない」と妻君ぷんとして箒を突いて枕元に立っているところは勇ましかった。この時裏の車屋の子供、八っちゃんが急に大きな声をしてワーと泣き出す。 八っちゃんは主人が怒 り出しさえすれば必ず泣き出すべく、車屋のかみさんから命ぜられるのである。かみさんは主人が怒るたんびに八っちゃんを泣かして小遣 になるかも知れんが、八っちゃんこそいい迷惑だ。こんな御袋 を持ったが最後朝から晩まで泣き通しに泣いていなくてはならない。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2016年12月11日
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