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当夜主人の頭のなかに起った以上の思想もそんな訳合 で幸 にも諸君にご報道する事が出来るように相成ったのは吾輩の大 に栄誉とするところである。 但 し主人は「何が何だか分らなくなった」まで考えてそのあとはぐうぐう寝てしまったのである、あすになれば何をどこまで考えたかまるで忘れてしまうに違ない。 向後 もし主人が気狂 について考える事があるとすれば、もう一|返 出直して頭から考え始めなければならぬ。そうすると果してこんな径路 を取って、こんな風に「何が何だか分らなくなる」かどうだか保証出来ない。しかし何返考え直しても、何条 の径路をとって進もうとも、ついに「何が何だか分らなくなる」だけはたしかである。 十 「あなた、もう七時ですよ」と襖越 しに細君が声を掛けた。 主人は眼がさめているのだか、寝ているのだか、向うむきになったぎり返事もしない。 返事をしないのはこの男の癖である。ぜひ何とか口を切らなければならない時はうんと云 う。このうんも容易な事では出てこない。 人間も返事がうるさくなるくらい無精 になると、どことなく趣 があるが、こんな人に限って女に好かれた試しがない。 現在連れ添う細君ですら、あまり珍重しておらんようだから、その他は推 して知るべしと云っても大した間違はなかろう。 親兄弟に見離され、あかの他人の傾城 に、可愛がらりょうはずがない、とある以上は、細君にさえ持てない主人が、世間一般の淑女に気に入るはずがない。 何も異性間に不人望な主人をこの際ことさらに暴露 する必要もないのだが、本人において存外な考え違をして、全く年廻りのせいで細君に好かれないのだなどと理窟をつけていると、迷 の種であるから、自覚の一助にもなろうかと親切心からちょっと申し添えるまでである。 言いつけられた時刻に、時刻がきたと注意しても、先方がその注意を無にする以上は、向 をむいてうんさえ発せざる以上は、その曲 は夫にあって、妻にあらずと論定したる細君は、遅くなっても知りませんよと云う姿勢で箒 とはたきを担 いで書斎の方へ行ってしまった。やがてぱたぱた書斎中を叩 き散らす音がするのは例によって例のごとき掃除を始めたのである。 一体掃除の目的は運動のためか、遊戯のためか、掃除の役目を帯びぬ吾輩の関知するところでないから、知らん顔をしていれば差 し支 えないようなものの、ここの細君の掃除法のごときに至ってはすこぶる無意義のものと云わざるを得ない。 何が無意義であるかと云うと、この細君は単に掃除のために掃除をしているからである。はたきを一通り障子 へかけて、箒を一応畳の上へ滑 らせる。それで掃除は完成した者と解釈している。 掃除の源因及び結果に至っては微塵 の責任だに背負っておらん。かるが故に奇麗な所は毎日奇麗だが、ごみのある所、ほこりの積っている所はいつでもごみが溜 ってほこりが積っている。 告朔 の※羊 と云う故事 もある事だから、これでもやらんよりはましかも知れない。しかしやっても別段主人のためにはならない。ならないところを毎日毎日御苦労にもやるところが細君のえらいところである。 細君と掃除とは多年の習慣で、器械的の連想をかたちづくって頑 として結びつけられているにもかかわらず、掃除の実 に至っては、妻君がいまだ生れざる以前のごとく、はたきと箒が発明せられざる昔のごとく、毫 も挙 っておらん。 思うにこの両者の関係は形式論理学の命題における名辞のごとくその内容のいかんにかかわらず結合せられたものであろう。 吾輩は主人と違って、元来が早起の方だから、この時すでに空腹になって参った。とうていうちのものさえ膳 に向わぬさきから、猫の身分をもって朝めしに有りつける訳のものではないが、そこが猫の浅ましさで、もしや煙の立った汁の香 が鮑貝 の中から、うまそうに立ち上っておりはすまいかと思うと、じっとしていられなくなった。はかない事を、はかないと知りながら頼みにするときは、ただその頼みだけを頭の中に描いて、動かずに落ちついている方が得策であるが、さてそうは行かぬ者で、心の願と実際が、合うか合わぬか是非とも試験して見たくなる。 試験して見れば必ず失望するにきまってる事ですら、最後の失望を自 ら事実の上に受取るまでは承知出来んものである。 吾輩はたまらなくなって台所へ這出 した。まずへっついの影にある鮑貝 の中を覗 いて見ると案に違 わず、夕 べ舐 め尽したまま、闃然 として、怪しき光が引窓を洩 る初秋 の日影にかがやいている。 御三 はすでに炊 き立 の飯を、御櫃 に移して、今や七輪 にかけた鍋 の中をかきまぜつつある。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2016年10月19日
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