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砲手はこれだけで事足るのだが、その周囲附近には弥次馬 兼援兵が雲霞 のごとく付き添うている。ポカーンと擂粉木が団子に中 るや否やわー、ぱちぱちぱちと、わめく、手を拍 つ、やれやれと云う。 中 ったろうと云う。これでも利 かねえかと云う。 恐れ入らねえかと云う。 降参かと云う。これだけならまだしもであるが、敲 き返された弾丸は三度に一度必ず臥竜窟邸内へころがり込む。これがころがり込まなければ攻撃の目的は達せられんのである。ダムダム弾は近来諸所で製造するが随分高価なものであるから、いかに戦争でもそう充分な供給を仰ぐ訳に行かん。 大抵一隊の砲手に一つもしくは二つの割である。ポンと鳴る度にこの貴重な弾丸を消費する訳には行かん。そこで彼等はたま拾 と称する一部隊を設けて落弾 を拾ってくる。 落ち場所がよければ拾うのに骨も折れないが、草原とか人の邸内へ飛び込むとそう容易 くは戻って来ない。だから平生ならなるべく労力を避けるため、拾い易 い所へ打ち落すはずであるが、この際は反対に出る。 目的が遊戯にあるのではない、戦争に存するのだから、わざとダムダム弾を主人の邸内に降らせる。 邸内に降らせる以上は、邸内へ這入 って拾わなければならん。 邸内に這入るもっとも簡便な方法は四つ目垣を越えるにある。 四つ目垣のうちで騒動すれば主人が怒 り出さなければならん。しからずんば兜 を脱いで降参しなければならん。 苦心のあまり頭がだんだん禿げて来なければならん。 今しも敵軍から打ち出した一弾は、照準 誤 たず、四つ目垣を通り越して桐 の下葉を振い落して、第二の城壁|即 ち竹垣に命中した。 随分大きな音である。ニュートンの運動律第一に曰 くもし他の力を加うるにあらざれば、一度 び動き出したる物体は均一の速度をもって直線に動くものとす。もしこの律のみによって物体の運動が支配せらるるならば主人の頭はこの時にイスキラスと運命を同じくしたであろう。 幸 にしてニュートンは第一則を定むると同時に第二則も製造してくれたので主人の頭は危うきうちに一命を取りとめた。 運動の第二則に曰く運動の変化は、加えられたる力に比例す、しかしてその力の働く直線の方向において起るものとす。これは何の事だか少しくわかり兼ねるが、かのダムダム弾が竹垣を突き通して、障子 を裂き破って主人の頭を破壊しなかったところをもって見ると、ニュートンの御蔭 に相違ない。しばらくすると案のごとく敵は邸内に乗り込んで来たものと覚しく、「ここか」「もっと左の方か」などと棒でもって笹 の葉を敲き廻わる音がする。すべて敵が主人の邸内へ乗り込んでダムダム弾を拾う場合には必ず特別な大きな声を出す。こっそり這入って、こっそり拾っては肝心 の目的が達せられん。ダムダム弾は貴重かも知れないが、主人にからかうのはダムダム弾以上に大事である。この時のごときは遠くから弾の所在地は判然している。 竹垣に中 った音も知っている。 中った場所も分っている、しかしてその落ちた地面も心得ている。だからおとなしくして拾えば、いくらでもおとなしく拾える。ライプニッツの定義によると空間は出来得べき同在現象の秩序である。いろはにほへとはいつでも同じ順にあらわれてくる。 柳の下には必ず鰌 がいる。 蝙蝠 に夕月はつきものである。 垣根にボールは不似合かも知れぬ。しかし毎日毎日ボールを人の邸内に抛 り込む者の眼に映ずる空間はたしかにこの排列に慣 れている。 一眼 見ればすぐ分る訳だ。それをかくのごとく騒ぎ立てるのは必竟 ずるに主人に戦争を挑 む策略である。こうなってはいかに消極的なる主人といえども応戦しなければならん。さっき座敷のうちから倫理の講義をきいてにやにやしていた主人は奮然として立ち上がった。 猛然として馳 け出した。 驀然 として敵の一人を生捕 った。 主人にしては大出来である。 大出来には相違ないが、見ると十四五の小供である。 髯 の生 えている主人の敵として少し不似合だ。けれども主人はこれで沢山だと思ったのだろう。 詫 び入るのを無理に引っ張って椽側 の前まで連れて来た。ここにちょっと敵の策略について一言 する必要がある、敵は主人が昨日 の権幕 を見てこの様子では今日も必ず自身で出馬するに相違ないと察した。その時万一逃げ損じて大僧 がつらまっては事面倒になる。ここは一年生か二年生くらいな小供を玉拾いにやって危険を避けるに越した事はない。よし主人が小供をつらまえて愚図愚図 理窟 を捏 ね廻したって、落雲館の名誉には関係しない、こんなものを大人気 もなく相手にする主人の恥辱 になるばかりだ。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2016年03月31日
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やがて時間が来たと見えて、講話はぱたりとやんだ。 他の教室の課業も皆一度に終った。すると今まで室内に密封された八百の同勢は鬨 の声をあげて、建物を飛び出した。その勢 と云うものは、一尺ほどな蜂 の巣を敲 き落したごとくである。ぶんぶん、わんわん云うて窓から、戸口から、開きから、いやしくも穴の開 いている所なら何の容赦もなく我勝ちに飛び出した。これが大事件の発端である。まず蜂の陣立てから説明する。こんな戦争に陣立ても何もあるものかと云うのは間違っている。 普通の人は戦争とさえ云えば沙河 とか奉天 とかまた旅順 とかそのほかに戦争はないもののごとくに考えている。 少し詩がかった野蛮人になると、アキリスがヘクトーの死骸を引きずって、トロイの城壁を三匝 したとか、燕 ぴと張飛が長坂橋 に丈八 の蛇矛 を横 えて、曹操 の軍百万人を睨 め返したとか大袈裟 な事ばかり連想する。 連想は当人の随意だがそれ以外の戦争はないものと心得るのは不都合だ。 太古蒙昧 の時代に在 ってこそ、そんな馬鹿気た戦争も行われたかも知れん、しかし太平の今日 、大日本国帝都の中心においてかくのごとき野蛮的行動はあり得べからざる奇蹟に属している。いかに騒動が持ち上がっても交番の焼打以上に出る気遣 はない。して見ると臥竜窟 主人の苦沙弥先生と落雲館|裏 八百の健児との戦争は、まず東京市あって以来の大戦争の一として数えてもしかるべきものだ。 左氏 が※陵 の戦 を記するに当ってもまず敵の陣勢から述べている。 古来から叙述に巧みなるものは皆この筆法を用いるのが通則になっている。だによって吾輩が蜂の陣立てを話すのも仔細 なかろう。それでまず蜂の陣立ていかんと見てあると、四つ目垣の外側に縦列を形 ちづくった一隊がある。これは主人を戦闘線内に誘致する職務を帯びた者と見える。 「降参しねえか」「しねえしねえ」「駄目だ駄目だ」「出てこねえ」「落ちねえかな」「落ちねえはずはねえ」「吠えて見ろ」「わんわん」「わんわん」「わんわんわんわん」これから先は縦隊総がかりとなって吶喊 の声を揚げる。 縦隊を少し右へ離れて運動場の方面には砲隊が形勝の地を占めて陣地を布 いている。 臥竜窟 に面して一人の将官が擂粉木 の大きな奴を持って控 える。これと相対して五六間の間隔をとってまた一人立つ、擂粉木のあとにまた一人、これは臥竜窟に顔をむけて突っ立っている。かくのごとく一直線にならんで向い合っているのが砲手である。ある人の説によるとこれはベースボールの練習であって、決して戦闘準備ではないそうだ。 吾輩はベースボールの何物たるを解せぬ文盲漢 である。しかし聞くところによればこれは米国から輸入された遊戯で、今日 中学程度以上の学校に行わるる運動のうちでもっとも流行するものだそうだ。 米国は突飛 な事ばかり考え出す国柄であるから、砲隊と間違えてもしかるべき、近所迷惑の遊戯を日本人に教うべくだけそれだけ親切であったかも知れない。また米国人はこれをもって真に一種の運動遊戯と心得ているのだろう。しかし純粋の遊戯でもかように四隣を驚かすに足る能力を有している以上は使いようで砲撃の用には充分立つ。 吾輩の眼をもって観察したところでは、彼等はこの運動術を利用して砲火の功を収めんと企てつつあるとしか思われない。 物は云いようでどうでもなるものだ。 慈善の名を借りて詐偽 を働らき、インスピレーションと号して逆上をうれしがる者がある以上はベースボールなる遊戯の下 に戦争をなさんとも限らない。 或る人の説明は世間一般のベースボールの事であろう。 今吾輩が記述するベースボールはこの特別の場合に限らるるベースボール即 ち攻城的砲術である。これからダムダム弾を発射する方法を紹介する。 直線に布 かれたる砲列の中の一人が、ダムダム弾を右の手に握って擂粉木の所有者に抛 りつける。ダムダム弾は何で製造したか局外者には分らない。 堅い丸い石の団子のようなものを御鄭寧 に皮でくるんで縫い合せたものである。 前 申す通りこの弾丸が砲手の一人の手中を離れて、風を切って飛んで行くと、向うに立った一人が例の擂粉木をやっと振り上げて、これを敲 き返す。たまには敲き損 なった弾丸が流れてしまう事もあるが、大概はポカンと大きな音を立てて弾 ね返る。その勢は非常に猛烈なものである。 神経性胃弱なる主人の頭を潰 すくらいは容易に出来る。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2016年03月27日
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吾輩は虎から急に猫と収縮したのだから何となく極 りが悪くもあり、おかしくもあったが、主人のこの権幕と横腹を蹴られた痛さとで、虎の事はすぐ忘れてしまった。 同時に主人がいよいよ出馬して敵と交戦するな面白いわいと、痛いのを我慢して、後 を慕って裏口へ出た。 同時に主人がぬすっとうと怒鳴る声が聞える、見ると制帽をつけた十八九になる倔強 な奴が一人、四ツ目垣を向うへ乗り越えつつある。やあ遅かったと思ううち、彼 の制帽は馳け足の姿勢をとって根拠地の方へ韋駄天 のごとく逃げて行く。 主人はぬすっとうが大 に成功したので、またもぬすっとうと高く叫びながら追いかけて行く。しかしかの敵に追いつくためには主人の方で垣を越さなければならん。 深入りをすれば主人|自 らが泥棒になるはずである。 前 申す通り主人は立派なる逆上家である。こう勢 に乗じてぬすっとうを追い懸ける以上は、夫子 自身がぬすっとうに成っても追い懸けるつもりと見えて、引き返す気色 もなく垣の根元まで進んだ。今一歩で彼はぬすっとうの領分に入 らなければならんと云う間際 に、敵軍の中から、薄い髯 を勢なく生 やした将官がのこのこと出馬して来た。 両人 は垣を境に何か談判している。 聞いて見るとこんなつまらない議論である。 「あれは本校の生徒です」 「生徒たるべきものが、何で他 の邸内へ侵入するのですか」 「いやボールがつい飛んだものですから」 「なぜ断って、取りに来ないのですか」 「これから善 く注意します」 「そんなら、よろしい」 竜騰虎闘 の壮観があるだろうと予期した交渉はかくのごとく散文的なる談判をもって無事に迅速に結了した。 主人の壮 んなるはただ意気込みだけである。いざとなると、いつでもこれでおしまいだ。あたかも吾輩が虎の夢から急に猫に返ったような観がある。 吾輩の小事件と云うのは即 ちこれである。 小事件を記述したあとには、順序として是非大事件を話さなければならん。 主人は座敷の障子を開いて腹這 になって、何か思案している。 恐らく敵に対して防禦策 を講じているのだろう。 落雲館は授業中と見えて、運動場は存外静かである。ただ校舎の一室で、倫理の講義をしているのが手に取るように聞える。 朗々たる音声でなかなかうまく述べ立てているのを聴くと、全く昨日 敵中から出馬して談判の衝 に当った将軍である。 「……で公徳と云うものは大切な事で、あちらへ行って見ると、仏蘭西 でも独逸 でも英吉利 でも、どこへ行っても、この公徳の行われておらん国はない。またどんな下等な者でもこの公徳を重んぜぬ者はない。 悲しいかな、我が日本に在 っては、未 だこの点において外国と拮抗 する事が出来んのである。で公徳と申すと何か新しく外国から輸入して来たように考える諸君もあるかも知れんが、そう思うのは大 なる誤りで、昔人 も夫子 の道一 以 て之 を貫 く、忠恕 のみ矣 と云われた事がある。この恕 と申すのが取りも直さず公徳の出所 である。 私も人間であるから時には大きな声をして歌などうたって見たくなる事がある。しかし私が勉強している時に隣室のものなどが放歌するのを聴くと、どうしても書物の読めぬのが私の性分である。であるからして自分が唐詩選 でも高声 に吟じたら気分が晴々 してよかろうと思う時ですら、もし自分のように迷惑がる人が隣家に住んでおって、知らず知らずその人の邪魔をするような事があってはすまんと思うて、そう云う時はいつでも控 えるのである。こう云う訳だから諸君もなるべく公徳を守って、いやしくも人の妨害になると思う事は決してやってはならんのである。……」 主人は耳を傾けて、この講話を謹聴していたが、ここに至ってにやりと笑った。ちょっとこのにやりの意味を説明する必要がある。 皮肉家がこれをよんだらこのにやりの裏 には冷評的分子が交っていると思うだろう。しかし主人は決して、そんな人の悪い男ではない。 悪いと云うよりそんなに智慧 の発達した男ではない。 主人はなぜ笑ったかと云うと全く嬉しくって笑ったのである。 倫理の教師たる者がかように痛切なる訓戒を与えるからはこの後 は永久ダムダム弾の乱射を免 がれるに相違ない。 当分のうち頭も禿げずにすむ、逆上は一時に直らんでも時機さえくれば漸次 回復するだろう、濡 れ手拭 を頂いて、炬燵 にあたらなくとも、樹下石上を宿 としなくとも大丈夫だろうと鑑定したから、にやにやと笑ったのである。 借金は必ず返す者と二十世紀の今日 にもやはり正直に考えるほどの主人がこの講話を真面目に聞くのは当然であろう。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2016年03月26日
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この男は学者作家に共通なる頭を有していたと云う。 吾輩のいわゆる学者作家に共通なる頭とは禿 と云う意味である。なぜ頭が禿げるかと云えば頭の営養不足で毛が生長するほど活気がないからに相違ない。 学者作家はもっとも多く頭を使うものであって大概は貧乏に極 っている。だから学者作家の頭はみんな営養不足でみんな禿げている。さてイスキラスも作家であるから自然の勢 禿げなくてはならん。 彼はつるつる然たる金柑頭 を有しておった。ところがある日の事、先生例の頭――頭に外行 も普段着 もないから例の頭に極ってるが――その例の頭を振り立て振り立て、太陽に照らしつけて往来をあるいていた。これが間違いのもとである。 禿げ頭を日にあてて遠方から見ると、大変よく光るものだ。 高い木には風があたる、光かる頭にも何かあたらなくてはならん。この時イスキラスの頭の上に一羽の鷲 が舞っていたが、見るとどこかで生捕 った一|疋 の亀を爪の先に攫 んだままである。 亀、スッポンなどは美味に相違ないが、希臘時代から堅い甲羅 をつけている。いくら美味でも甲羅つきではどうする事も出来ん。 海老 の鬼殻焼 はあるが亀の子の甲羅煮は今でさえないくらいだから、当時は無論なかったに極っている。さすがの鷲 も少々持て余した折柄 、遥 かの下界にぴかと光った者がある。その時鷲はしめたと思った。あの光ったものの上へ亀の子を落したなら、甲羅は正 しく砕けるに極 わまった。 砕けたあとから舞い下りて中味 を頂戴 すれば訳はない。そうだそうだと覗 を定めて、かの亀の子を高い所から挨拶も無く頭の上へ落した。 生憎 作家の頭の方が亀の甲より軟らかであったものだから、禿はめちゃめちゃに砕けて有名なるイスキラスはここに無惨 の最後を遂げた。それはそうと、解 しかねるのは鷲の了見である。 例の頭を、作家の頭と知って落したのか、または禿岩と間違えて落したものか、解決しよう次第で、落雲館の敵とこの鷲とを比較する事も出来るし、また出来なくもなる。 主人の頭はイスキラスのそれのごとく、また御歴々 の学者のごとくぴかぴか光ってはおらん。しかし六畳敷にせよいやしくも書斎と号する一室を控 えて、居眠りをしながらも、むずかしい書物の上へ顔を翳 す以上は、学者作家の同類と見傚 さなければならん。そうすると主人の頭の禿げておらんのは、まだ禿げるべき資格がないからで、その内に禿げるだろうとは近々 この頭の上に落ちかかるべき運命であろう。して見れば落雲館の生徒がこの頭を目懸けて例のダムダム丸 を集注するのは策のもっとも時宜 に適したものと云わねばならん。もし敵がこの行動を二週間継続するならば、主人の頭は畏怖 と煩悶 のため必ず営養の不足を訴えて、金柑 とも薬缶 とも銅壺 とも変化するだろう。なお二週間の砲撃を食 えば金柑は潰 れるに相違ない。 薬缶は洩 るに相違ない。 銅壺ならひびが入るにきまっている。この睹易 き結果を予想せんで、あくまでも敵と戦闘を継続しようと苦心するのは、ただ本人たる苦沙弥先生のみである。ある日の午後、吾輩は例のごとく椽側 へ出て午睡 をして虎になった夢を見ていた。 主人に鶏肉 を持って来いと云うと、主人がへえと恐る恐る鶏肉を持って出る。 迷亭が来たから、迷亭に雁 が食いたい、雁鍋 へ行って誂 らえて来いと云うと、蕪 の香 の物 と、塩煎餅 といっしょに召し上がりますと雁の味が致しますと例のごとく茶羅 ッ鉾 を云うから、大きな口をあいて、うーと唸 って嚇 してやったら、迷亭は蒼 くなって山下 の雁鍋は廃業致しましたがいかが取り計 いましょうかと云った。それなら牛肉で勘弁するから早く西川へ行ってロースを一斤取って来い、早くせんと貴様から食い殺すぞと云ったら、迷亭は尻を端折 って馳 け出した。 吾輩は急にからだが大きくなったので、椽側一杯に寝そべって、迷亭の帰るのを待ち受けていると、たちまち家中 に響く大きな声がしてせっかくの牛 も食わぬ間 に夢がさめて吾に帰った。すると今まで恐る恐る吾輩の前に平伏していたと思いのほかの主人が、いきなり後架 から飛び出して来て、吾輩の横腹をいやと云うほど蹴 たから、おやと思ううち、たちまち庭下駄をつっかけて木戸から廻って、落雲館の方へかけて行く。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2016年03月22日
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しかし蒲鉾 の種が山芋 であるごとく、観音 の像が一寸八分の朽木 であるごとく、鴨南蛮 の材料が烏であるごとく、下宿屋の牛鍋 が馬肉であるごとくインスピレーションも実は逆上である。 逆上であって見れば臨時の気違である。 巣鴨へ入院せずに済むのは単に臨時気違であるからだ。ところがこの臨時の気違を製造する事が困難なのである。 一生涯 の狂人はかえって出来安いが、筆を執 って紙に向う間 だけ気違にするのは、いかに巧者 な神様でもよほど骨が折れると見えて、なかなか拵 えて見せない。 神が作ってくれん以上は自力で拵えなければならん。そこで昔から今日 まで逆上術もまた逆上とりのけ術と同じく大 に学者の頭脳を悩ました。ある人はインスピレーションを得るために毎日渋柿を十二個ずつ食った。これは渋柿を食えば便秘する、便秘すれば逆上は必ず起るという理論から来たものだ。またある人はかん徳利を持って鉄砲風呂 へ飛び込んだ。 湯の中で酒を飲んだら逆上するに極 っていると考えたのである。その人の説によるとこれで成功しなければ葡萄酒 の湯をわかして這入 れば一|返 で功能があると信じ切っている。しかし金がないのでついに実行する事が出来なくて死んでしまったのは気の毒である。 最後に古人の真似をしたらインスピレーションが起るだろうと思いついた者がある。これはある人の態度動作を真似ると心的状態もその人に似てくると云う学説を応用したのである。 酔っぱらいのように管 を捲 いていると、いつの間 にか酒飲みのような心持になる、坐禅をして線香一本の間我慢しているとどことなく坊主らしい気分になれる。だから昔からインスピレーションを受けた有名の大家の所作 を真似れば必ず逆上するに相違ない。 聞くところによればユーゴーは快走船 の上へ寝転 んで文章の趣向を考えたそうだから、船へ乗って青空を見つめていれば必ず逆上|受合 である。スチーヴンソンは腹這 に寝て小説を書いたそうだから、打 つ伏 しになって筆を持てばきっと血が逆 かさに上 ってくる。かようにいろいろな人がいろいろの事を考え出したが、まだ誰も成功しない。まず今日 のところでは人為的逆上は不可能の事となっている。 残念だが致し方がない。 早晩随意にインスピレーションを起し得る時機の到来するは疑 もない事で、吾輩は人文のためにこの時機の一日も早く来らん事を切望するのである。 逆上の説明はこのくらいで充分だろうと思うから、これよりいよいよ事件に取りかかる。しかしすべての大事件の前には必ず小事件が起るものだ。 大事件のみを述べて、小事件を逸するのは古来から歴史家の常に陥 る弊竇 である。 主人の逆上も小事件に逢う度に一層の劇甚 を加えて、ついに大事件を引き起したのであるからして、幾分かその発達を順序立てて述べないと主人がいかに逆上しているか分りにくい。 分りにくいと主人の逆上は空名に帰して、世間からはよもやそれほどでもなかろうと見くびられるかも知れない。せっかく逆上しても人から天晴 な逆上と謡 われなくては張り合がないだろう。これから述べる事件は大小に係 らず主人に取って名誉な者ではない。 事件その物が不名誉であるならば、責 めて逆上なりとも、正銘 の逆上であって、決して人に劣るものでないと云う事を明かにしておきたい。 主人は他に対して別にこれと云って誇るに足る性質を有しておらん。 逆上でも自慢しなくてはほかに骨を折って書き立ててやる種がない。 落雲館に群がる敵軍は近日に至って一種のダムダム弾を発明して、十分 の休暇、もしくは放課後に至って熾 に北側の空地 に向って砲火を浴びせかける。このダムダム弾は通称をボールと称 えて、擂粉木 の大きな奴をもって任意これを敵中に発射する仕掛である。いくらダムダムだって落雲館の運動場から発射するのだから、書斎に立て籠 ってる主人に中 る気遣 はない。 敵といえども弾道のあまり遠過ぎるのを自覚せん事はないのだけれど、そこが軍略である。 旅順の戦争にも海軍から間接射撃を行って偉大な功を奏したと云う話であれば、空地へころがり落つるボールといえども相当の功果を収め得ぬ事はない。いわんや一発を送る度 に総軍力を合せてわーと威嚇性 大音声 を出 すにおいてをやである。 主人は恐縮の結果として手足に通う血管が収縮せざるを得ない。 煩悶 の極 そこいらを迷付 いている血が逆 さに上 るはずである。 敵の計 はなかなか巧妙と云うてよろしい。 昔 し希臘 にイスキラスと云う作家があったそうだ。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2016年03月21日
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――即 ち主人が後架へまかり越したと見て取るときは、必ず桐の木の附近を徘徊 してわざと主人の眼につくようにする。 主人がもし後架から四隣 に響く大音を揚げて怒鳴りつければ敵は周章 てる気色 もなく悠然 と根拠地へ引きあげる。この軍略を用いられると主人ははなはだ困却する。たしかに這入 っているなと思ってステッキを持って出懸けると寂然 として誰もいない。いないかと思って窓からのぞくと必ず一二人這入っている。 主人は裏へ廻って見たり、後架から覗 いて見たり、後架から覗いて見たり、裏へ廻って見たり、何度言っても同じ事だが、何度云っても同じ事を繰り返している。 奔命 に疲れるとはこの事である。 教師が職業であるか、戦争が本務であるかちょっと分らないくらい逆上 して来た。この逆上の頂点に達した時に下 の事件が起ったのである。 事件は大概逆上から出る者だ。 逆上とは読んで字のごとく逆 かさに上 るのである、この点に関してはゲーレンもパラセルサスも旧弊なる扁鵲 も異議を唱 うる者は一人もない。ただどこへ逆 かさに上 るかが問題である。また何が逆かさに上るかが議論のあるところである。 古来欧洲人の伝説によると、吾人の体内には四種の液が循環しておったそうだ。 第一に怒液 と云う奴 がある。これが逆かさに上ると怒 り出す。 第二に鈍液 と名づくるのがある。これが逆かさに上ると神経が鈍 くなる。 次には憂液 、これは人間を陰気にする。 最後が血液 、これは四肢 を壮 んにする。その後 人文が進むに従って鈍液、怒液、憂液はいつの間 にかなくなって、現今に至っては血液だけが昔のように循環していると云う話しだ。だからもし逆上する者があらば血液よりほかにはあるまいと思われる。しかるにこの血液の分量は個人によってちゃんと極 まっている。 性分によって多少の増減はあるが、まず大抵一人前に付五升五合の割合である。だによって、この五升五合が逆かさに上ると、上ったところだけは熾 んに活動するが、その他の局部は欠乏を感じて冷たくなる。ちょうど交番焼打の当時巡査がことごとく警察署へ集って、町内には一人もなくなったようなものだ。あれも医学上から診断をすると警察の逆上と云う者である。でこの逆上を癒 やすには血液を従前のごとく体内の各部へ平均に分配しなければならん。そうするには逆かさに上った奴を下へ降 さなくてはならん。その方にはいろいろある。 今は故人となられたが主人の先君などは濡 れ手拭 を頭にあてて炬燵 にあたっておられたそうだ。 頭寒足熱 は延命息災の徴と傷寒論 にも出ている通り、濡れ手拭は長寿法において一日も欠くべからざる者である。それでなければ坊主の慣用する手段を試みるがよい。 一所不住 の沙門 雲水行脚 の衲僧 は必ず樹下石上を宿 とすとある。 樹下石上とは難行苦行のためではない。 全くのぼせを下 げるために六祖 が米を舂 きながら考え出した秘法である。 試みに石の上に坐ってご覧、尻が冷えるのは当り前だろう。 尻が冷える、のぼせが下がる、これまた自然の順序にして毫 も疑を挟 むべき余地はない。かようにいろいろな方法を用いてのぼせを下げる工夫は大分 発明されたが、まだのぼせを引き起す良方が案出されないのは残念である。 一概に考えるとのぼせは損あって益なき現象であるが、そうばかり速断してならん場合がある。 職業によると逆上はよほど大切な者で、逆上せんと何にも出来ない事がある。その中 でもっとも逆上を重んずるのは詩人である。 詩人に逆上が必要なる事は汽船に石炭が欠くべからざるような者で、この供給が一日でも途切れると彼れ等は手を拱 いて飯を食うよりほかに何等の能もない凡人になってしまう。もっとも逆上は気違の異名 で、気違にならないと家業 が立ち行かんとあっては世間体 が悪いから、彼等の仲間では逆上を呼ぶに逆上の名をもってしない。 申し合せてインスピレーション、インスピレーションとさも勿体 そうに称 えている。これは彼等が世間を瞞着 するために製造した名でその実は正に逆上である。プレートーは彼等の肩を持ってこの種の逆上を神聖なる狂気と号したが、いくら神聖でも狂気では人が相手にしない。やはりインスピレーションと云う新発明の売薬のような名を付けておく方が彼等のためによかろうと思う。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2016年03月18日
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ご存知でしょうかふくらはぎ健康法と言うものがあります。下半身の血流をを担当するふくらはぎ周辺をマッサージングすることにより下肢の血行をよくする健康法ということになります。ふくらはぎ健康法によって種々の健康効果が現れます。これは血行が良くなることによって体の末端まで、栄養や酸素が運ばれ組織が活発に働き心臓の過負荷の低減が達成されることによります。現代人は明らかに運動不足であり、健康維持・増進にはまず運動との意識が世の中に広がっています。もっともやりやすいのがウォーキングです。足裏も血液循環のポンプと昔から言われていました。今回は足裏とふくらはぎの筋肉との血流に対する貢献度について調べて見るとともに、ふくらはぎの健康の重要性を再度確認してみました。いろんな事典によりますと人体を循環している血の量の75%は静脈にあると言うことです。という事は静脈系の血流が健康にとっては非常に大切であると言わざるをえません。静脈の血液が心臓に向かって流れると言う事は静脈血管が以下の3種類の圧力を受けるということです。・心臓の収縮による圧力・骨格筋肉の伸縮による静脈の圧力・呼吸する時の胸腔圧力変化これも常識、上半身の静脈の血流は心臓がメインで、下半身の静脈の血流はふくらはぎがメインでになっています。このような説明もよく見ます。2足歩行する人類は下半身からの血液を心臓返すために、ふくらはぎがポンプの機能を持つようになった。運動によるふくらはぎの筋肉の伸縮が逆流が起きないように逆止弁が付いている静脈を外部から縮めたり伸ばしたりすることによって血液を徐々にに心臓のほうへ送る返します。足裏については、いろいろ探しましたが足の指の変形などによって、着地するときのショックが腰椎などに伝わり下半身の血行を低下させ、静脈内の逆止弁などを破壊したりして静脈瘤等を発生させる原因になったりしているようです。もちろん体重がかかり、足裏の静脈を押すことによる血流増進効果もあるとは思います。しかしかかとや土踏まずの構造から見ると効果は低いような感じがします。すなわち血流は基本的にふくらはぎのようです。ふくらはぎ健康への貢献度は最大限に強調してもし過ぎる事はないと思います。1日中ほとんど座って過ごすということは人体に2つある心臓の中で下半身の静脈の血液はほとんど戻らないということなんです。これは是非理解して、対策を講じる必要があることだと思います。換言すれば、毎日毎日自分の寿命を縮めてると言う事といってもいい内容です。この記事を書いたらすぐ運動しまーす。【参考リンク】カテゴリ別ダイエット情報いろいろ健康法のブログ健康生活応援団
2016年03月15日
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辞職をする勇気のあるようなものなら最初から教師などをして生徒の御守 りは勤めないはずである。 主人は教師である。 落雲館の教師ではないが、やはり教師に相違ない。からかうには至極 適当で、至極|安直 で、至極無事な男である。 落雲館の生徒は少年である。からかう事は自己の鼻を高くする所以 で、教育の功果として至当に要求してしかるべき権利とまで心得ている。のみならずからかいでもしなければ、活気に充 ちた五体と頭脳を、いかに使用してしかるべきか十分 の休暇中|持 てあまして困っている連中である。これらの条件が備われば主人は自 からからかわれ、生徒は自からからかう、誰から云わしても毫 も無理のないところである。それを怒 る主人は野暮 の極、間抜の骨頂でしょう。これから落雲館の生徒がいかに主人にからかったか、これに対して主人がいかに野暮を極めたかを逐一かいてご覧に入れる。 諸君は四つ目垣とはいかなる者であるか御承知であろう。 風通しのいい、簡便な垣である。 吾輩などは目の間から自由自在に往来する事が出来る。こしらえたって、こしらえなくたって同じ事だ。 然し落雲館の校長は猫のために四つ目垣を作ったのではない、自分が養成する君子が潜 られんために、わざわざ職人を入れて結 い繞 らせたのである。なるほどいくら風通しがよく出来ていても、人間には潜 れそうにない。この竹をもって組み合せたる四寸角の穴をぬける事は、清国 の奇術師|張世尊 その人といえどもむずかしい。だから人間に対しては充分垣の功能をつくしているに相違ない。 主人がその出来上ったのを見て、これならよかろうと喜んだのも無理はない。しかし主人の論理には大 なる穴がある。この垣よりも大いなる穴がある。 呑舟 の魚をも洩 らすべき大穴がある。 彼は垣は踰 ゆべきものにあらずとの仮定から出立している。いやしくも学校の生徒たる以上はいかに粗末の垣でも、垣と云う名がついて、分界線の区域さえ判然すれば決して乱入される気遣はないと仮定したのである。 次に彼はその仮定をしばらく打ち崩 して、よし乱入する者があっても大丈夫と論断したのである。 四つ目垣の穴を潜 り得る事は、いかなる小僧といえどもとうてい出来る気遣はないから乱入の虞 は決してないと速定 してしまったのである。なるほど彼等が猫でない限りはこの四角の目をぬけてくる事はしまい、したくても出来まいが、乗り踰 える事、飛び越える事は何の事もない。かえって運動になって面白いくらいである。 垣の出来た翌日から、垣の出来ぬ前と同様に彼等は北側の空地へぽかりぽかりと飛び込む。 但 し座敷の正面までは深入りをしない。もし追い懸けられたら逃げるのに、少々ひまがいるから、予 め逃げる時間を勘定に入 れて、捕 えらるる危険のない所で遊弋 をしている。 彼等が何をしているか東の離れにいる主人には無論目に入 らない。 北側の空地 に彼等が遊弋している状態は、木戸をあけて反対の方角から鉤 の手に曲って見るか、または後架 の窓から垣根越しに眺 めるよりほかに仕方がない。 窓から眺める時はどこに何がいるか、一目 明瞭に見渡す事が出来るが、よしや敵を幾人 見出したからと云って捕える訳には行かぬ。ただ窓の格子 の中から叱りつけるばかりである。もし木戸から迂回 して敵地を突こうとすれば、足音を聞きつけて、ぽかりぽかりと捉 まる前に向う側へ下りてしまう。 膃肭臍 がひなたぼっこをしているところへ密猟船が向ったような者だ。 主人は無論後架で張り番をしている訳ではない。と云って木戸を開いて、音がしたら直ぐ飛び出す用意もない。もしそんな事をやる日には教師を辞職して、その方専門にならなければ追っつかない。主人方の不利を云うと書斎からは敵の声だけ聞えて姿が見えないのと、窓からは姿が見えるだけで手が出せない事である。この不利を看破したる敵はこんな軍略を講じた。 主人が書斎に立て籠 っていると探偵した時には、なるべく大きな声を出してわあわあ云う。その中には主人をひやかすような事を聞こえよがしに述べる。しかもその声の出所を極めて不分明にする。ちょっと聞くと垣の内で騒いでいるのか、あるいは向う側であばれているのか判定しにくいようにする。もし主人が出懸けて来たら、逃げ出すか、または始めから向う側にいて知らん顔をする。また主人が後架へ――吾輩は最前からしきりに後架後架ときたない字を使用するのを別段の光栄とも思っておらん、実は迷惑千万であるが、この戦争を記述する上において必要であるからやむを得ない。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2016年03月10日
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