今日、みやぎ在宅支援ドクターネット講演会がありまして、
民俗研究家の結城登美雄 さんのお話を聴いてきました。
いろんな思いが渦巻く、素敵な講演でした。
また、お話が、日本昔話を聞いているようで、
自然となつかしい日本の姿に、舞い戻ってしまってるようでした。
その中で、作り手と食べ手のつながりの話しが
学校の教師と保護者の関係に、ダブッて見えてきました。
私たちの日々の食事は、食材はもちろん、
調理・料理も、自分の台所ではなく、
企業などの外部の台所に依存するようになりました。
囲むべき食卓も外食が増えています。
自分で作らずに他者にゆだねれば、
どこかに不安と不信をかこつことになるのは当然です。
食の安全をめぐる議論には、
どこか、ゆだねられた作り手への追及は厳しいが、
ゆだねた食べ手のありようを問うものは、ほとんどありません。
でも、これは、片手落ちではないでしょうか?
結城さんは、沖縄の百四歳の老女から
「お前さんたち本土の人にとって食とは何か」と問われて返答に窮したそうです。
うろたえる結城さんを見かねて、
「食は、ぬちぐすい、さ」と教えてくれたそうです。
「ぬち」とは命、「ぐすい」とは薬のこと。
「食とは命の薬である。
その大切な食を他人にゆだねておいて
不信ばかりを募らせて、みっともないね。
そんなに疑うなら、なぜ自分で作ろうとしないのか」
と言うのです。
その昔、道元禅師は、
食の食べ手に対して
「功の多少を計り、彼(か)の来処を量る」ことの大切を説きました。
つまり、
「この食事が作られるまでにかけられた、多くの手間と労力を考えよ」というのです。
疑いの目で見られる加工食品を
「何人もの人の手によって、手間と労力をかけて作られた食べ物」と、
喝破した道元禅師の言葉をかみしめたいものです。
そして道元は食の作り手にさらに問います。
「食材が上等とか粗末であるとか差別するな。
深い心で物を大切に無駄なく生かし、
真心をもって調理・料理せよ」と。
全く、学校教育に当てはまると思いませんか?
もし、日本人が100人の村であったなら、食を作っている人は、
農業と漁業を合わせて、たったの3人だそうです。
そして、その内の一人は、後期高齢者、
さらに一人は、高齢者、
ところが、あと50年後には、食に携わる人は、1人になるそうです。
たった、これだけの人が100人の命を支えているのです。
消費者と生産・流通・加工の間に横たわる食の安全性への
不信感は大きく、残留農薬基準など、厳しくすることは当然です。
しかし、その安心が作り手の苦痛や犠牲の上にあっては
全く片手落ちではないでしょうか?
今、専業農家の時給は、250円換算になります。
労働基準法違反です。
子どもに 継がせたくないのも、当然です。
もし、食が命の薬なら、私たちは、どうすればいいのでしょう。
市場原理に任せていいのでしょうか?
東北各地では、
かけ離れた食の作り手と食べ手の距離を縮めるべく、
農業者と食品流通加工業者の必死の努力が続いています。
同様に、今、心ある教師や学校でも、
かけ離れた、教える側と、教わる側の距離を縮めるべく、
必死の努力が続いています。
いずれも子どもや保護者に寄り添い、努力を重ね、
地味ですが、その領域を少しずつ広げようとしています。
食と同様に、宝である私たちの子どもの教育のありようを、
不信をかこつだけの
わがままな「消費者」でいることは
もう許されないのではないか、と感じたところです。
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