私たちの認識は、錯覚に上に立っているのに、
私たちは、善玉・悪玉を決めてしまうことが大好きです。
時代劇の水戸黄門をはじめ、洋画でも、
そのほとんどが、はじめから善玉・悪玉が決まっていて、
正義が勝つことになっています。
そして、これは、教育の中にも浸透していて、
熱血教師は、正義を貫き通す勇気と知恵だけが必要なのだと
強調していることに、気づいていません。
冷静に、<どちらが正義か?>なあんて、
のんびりしたことは、考えるまでもなく明らかだ、という前提で
指導をしてしまいます。
しかし、映画の中のヒーローだって、
本当に善だろうか?
と振り返ってみる思考力が、今こそ必要なのではないでしょうか?
水戸黄門だって、武士の世の中こそが、
人々を不幸にしてしると考えると、
副将軍こそが、悪の親玉だとも言えるわけです。
映画でなくても、
フセインが、完全な悪玉だったのか?
アメリカが、「無限の正義」と称したわけですが、
本当にそう言えたのか?
いろんな角度から、検証しなければならないわけです。
太平洋戦争だって、
日本人が総懺悔なのか?
それとも、欧米の横暴に立ち上がった正義の軍隊だったのか?
事実・真実は、人々の思いや願いとは、別のところにあります。
ですから、正義論では、真実は見えないのです。
自然科学もそうですが、
特に社会科学は、「正義と悪は自明」という
正義論を超えたところになければならないはずです。
ですから、教育現場でこそ、
何が正義で、何が悪かも、
仮説を立て、それを実験的に検証することによってのみ
決まることが少なくないということを
繰り返し教えていかなくてはなりません。
自然科学でも、今でこそ、
地動説を信じるのが正義で、
天動説を信じるのが悪だと、簡単に言いますが
これを議論していた当時は、
どちらが正しいのか、ということは、
学者でもなかなかわからなかったわけです。
だからこそ、いろんな立場から、いろんな考え方を
自由に述べる環境が必要なのです。
自由に討議できれば、
いろいろ検証された結果、
「ああ、こういうことだったのか!」と
初めてわかってくるのです。
科学では、言論に自由こそが決定的に大事で、
初めから、何が正しくて、何が間違っているかなんて、
わかりっこないのです。
自然科学でさえ、そうなんですから、
もっと複雑な社会科学の場合は、なおさら
自由な討議と、検証が必要なことは明白です。
よく、最初は、正義だと思っていたことが、
実は、そうでもなかったことがわかった時、
私たちは、「結果は違ったけれど、
あの時の私たちの思いは正しかった!」
と、自己弁護してしまいます。
でも、そこからは、何も学べません。
間違った結果を得たならば、
そこから、徹底的に研究と学習をすべきなのです。
そして、簡単に正義感で動いてはいけない、ということを
学んでいくのです。
自然科学の歴史も、
真理というのは、
人間の思い、
世界はこうあるはずだ、
こうあるべきだ、という思いとは、
違うところにあるという学習の歴史だったのですから。
教育は、正義を教えるのではなく、
真理の追究方法を教えるところだとの、
共通認識をもちたいものです。
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