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つづきです。安倍 代世襲の果てに第3部・3 最終回恩師が首相へ涙の諌言「集団的自衛権の行使容認は間違っている」。安倍晋三首相を大学時代に指導した母校の元トップは、そう言って声をつまらせた。この国の「かたち」を変えようとしている政治家はどう生まれたのか。その核心に迫る。 1979年の春、安倍晋三は米国留学-ーそれは語学留学に毛の生えた程度のものだったがーーから帰国すると、神戸製鋼所に。政略入社‘する。背後には父・晋太郎が選挙地盤とした旧山口I区の事情があった。 選挙区内の最大都市・下関は、晋太郎のライバルとして長く選挙戦を戦った林義郎の一族が名家として君臨し、運輸事業を傘下に収めるサンデン交通などの有力企業を牛耳っていた。他方、日本海沿いの寒村・油谷町(現・長門市)の出身だった祖父・寛も、そして晋太郎も、下関では新参者。そんななか、神戸製鋼は戦前から下関に広大な製造所を擁し、多数の従業員を抱える大企業だった。同社の元役員が言う。 「神戸製鋼にとって門司(北九州市)と長府(下関市)の事業所は、歴史的にマザーファクトリーー(中心的工場)ですからね。(晋三の就職)当時、長府では下請けまで入れれば千人以上が働いていたでしょう」 林一族に対抗し、懸命に票田を耕してきた晋太郎の選挙地盤をさらに固める晋三の神戸製鋼入りには、そんな思惑があったと考えて間違いない。 ◆ 晋三が最初に赴任したのは米ニューヨーク事務所。「各部門の精鋭が集まるニューヨークに、新人が配置されるのは異例中の異例」(前出の元役員)という駐在生活を約1年勤め、80年5月には兵庫県加古川市の同社加古川製鉄所に転勤した。 担当は工程管理。数千度に達する高炉から吐き出される鉄鋼生産の工程管理は、製鉄会社にとって現場の最前線である。しかし、職人的な社員が多い”飯場”でもあり、晋三には負担が大きすぎたらしく、わずか1年弱で東京本社の鋼板輸出課に再び異動となる。 のちに同社の副社長となる矢野信治(73)は、このころ鋼板輸出課の課長を務めていた。部下は7、8人。その最年少課員として名門政治家のサラブレッドを抱えることになったのである。矢野の証言。 「(加古川製鉄所の)工程管理では苦労したんでしょう。しんどかったのか相当くたびれていました」ーーー晋三氏を部下に迎えるのをどう感じたんですか。 「そりゃ、イヤでしたよ、面倒くさいし(笑)。ただ、上から『普通に扱ってくれればいいから』と言われて、まったく普通に扱いました。彼もそれを喜んだみたいで、朝なんかは一番早く来ていましたね」ーーーどんな部下でしたか。 「まったく普通の子。エバるわけでもないし、腰は軽いし」 スポーツ好きだという矢野は、70歳過ぎだというのに胸板が厚く、少しベランメエ調で、それが人に不快感を与えない。古き良き時代の日本企業の、一種理想的な上司像のような人物である。その矢野が、こんなこともあったと大笑いした。 「こっちは仕事で毎晩酒を飲んで、胃の調子がいつも悪くてね。医者からは『夕方に牛乳を飲みなさい』と言われて、彼に買いにいかせていたんです」会社を辞め政治の道へ「運命だと思っています」 晋三は嫌な顔もせず命令に従った。そのうちに矢野が小銭を手にチャラチャラと音をたてるだけでサッと駆け寄り、いそいそと牛乳を買いにいくようになった。続けて矢野の話。 「あとで上にバレて僕はコテンパンに怒られましたけどね(笑)。でも、それくらい腰が軽かった。悪い意味じゃなくて、要領がいいっていうのが一番適切な評価でしょう。人づきあいの勘が良くて、真面目で、敵をつくらないから、みんなに好かれていました。まるで子犬みたいだったな……」 真面目で要領のいい子犬-そんな印象を上司に残した会社員生活はしかし、わずか3年で終止符を打つ。父・晋太郎が82年、中曽根内閣の外相に就任すると、秘書官になるよう命じたからである。のちの晋三の著書『美しい国へ』(文春新書)によれば、ある日突然に「明日から秘書官になれ」と告げられ、こう言ってかすかに抵抗したらしい。 「わたしにも会社があります。これでも年間数十億ぐらいの仕事はしているんです」 だが、。政略入社”で晋三を。一時預かり”していた会社は晋太郎の意向を優先する。上司の矢野にも晋太郎の秘書から連絡が入った。 「(晋三が)なんだか生気がなくて、どうしたんだと聞いたら、相前後して秘書から連絡がありましてね。(会社から)お前が説得しろということになって」ーーーそれで説得を?「喫茶店などで話をしました。彼は『(こんなに急だと)迷惑じゃないですか』 つて言うから、『もともと迷惑だったんだから』って言って(笑)。それに『どっちみち(政治の道に)行くんだろ』と聞いたら、『はい』つて。『運命だと思っています』って言うから、『だったら早く辞めたほうがいい』ってね」ーーー運命、ですか。 「お兄さん(寛信)がやらないなら、彼しかいない。だから『運命』と言ったんでしょう。本当に(政治家に)なりたかったかは知りませんが」ーーー上司だった間、政治的な話は? 「一切ありません。酒席やプライベートも含め、政治談議なんて一度もない。政治家になるっていう印象もなかったし、彼が筋金入りのライト(右派)だなんて、まったく感じなかった。普通のいい子。あれは間違いなく後天的なものだと思います」ーーー今の政治スタンスは後天的なものだと? 「ずっとインキュベート(培養)していたかは知りませんが、(政界入り後に)周りに感化されたんでしょう。子犬が狼の子と群れてるうち、ああなってしまった。僕はそう思います」 この矢野の言葉に、私も深く頷く。思索重ね知性鍛えたか核が見えない空虚さ 本連載で記してきたように、少なくとも父の後を継ぐまでの晋三から、現在の政治スタンスにつながるにおいを嗅ぎとることはできない。せいぜいあるとすれば、溺愛してくれた母方の祖父・岸信介への敬慕。だが、そんなものは所詮、幼き日の郷愁にすぎない。青年期までの晋三には、岸の政治思想を深く突きつめて思索を重ねた気配はなく、そうした思想を下支えする知性を鍛えあげた様子もない。むしろ浮かび上がるのは、名門政治家の家系に生まれた「運命」を受け入れ、敷かれたレールの上を走り、真面目で普通で、と同時に、仲間内では優しく要領のいいおぼっちゃまの姿。【写真(略)】成蹊大学で学長まで務めた国際政治学者の宇野重昭は、安倍政権による日本のかじ取りを案じた。「ナショナリズムに訴えるのではなく、健全な保守主義を発見してほしい」。時にうっすらと涙を浮かべ、インタビューに応じた 本連載の番外編として妻・昭恵が語った言葉も思い出される。「政治家には、すごく努力している人もいるし、天才的な人もいる。主人はそのどちらでもないのかな、とは思います。でも、天のはかりで、使命を負っているというか、天命であるとしか言えないと思っていて。理由や資質といったものを超えたところで、岸信介の力かもしれないし、安倍寛や安倍晋太郎(の力)なのかもしれない」 そしてこうも。 「主人は、政治家にならなければ、映画監督になりたかったという人なんです。映像のなかの主人公をイメージして、自分だったらこうするっていうのを、いつも考えているんです。だから私は、主人は安倍晋三という日本国の総理大臣を、ある意味で演じているとろがあるのかなと思っています」 だとするならば晋三は、こう振る舞えば祖父・岸信介や周囲の”狼”たちに喜ばれるだろうーーーそう考える程度の核しか持たない空虚な中心にすぎないのではないか。 しかし、現実にそんな男が政権の中心に座り、この国の「かたち」を変えようとしている。それを肯定するにせよ、否定するにせよ、私たちがそうした宰相を戴くことになった構造的要因は、いくらでも挙げることはできる。「運」にも恵まれた世襲政治の劣化を促す 世界的に見れば、冷戦体制が崩壊してイデオロギー対立の時代が去り、日本周辺では中国や韓国が飛躍的な経済発展を果たした。それに反比例して日本の存在感は相対的に低下し、国内では少子高齢化が進行するなか、格差も拡大している。眼前に広がる不安。漠たる焦燥。社会に蔓延する空気は、排他と不寛容の風潮すら生み出し、「美しい国」の幻影に浸りたい層はおそらく増えている。 また、この十数年ほどを見れば、政界は短命政権が続き、「強い政権」や「決められる政治」を求める声は強まっていた。何よりも戦後初の本格的政権交代を果たした民主党の失敗への失望が、現政権を延命させる大きな要因になっている。 そうした意味でいうと、晋三は「運命」に加えて「運」にも恵まれている。だが、本連載で「安倍家三代」の実像を追ってきた私は、「運命」や「天のはかり」なるものだけを駆動力としてしまっている「世襲の弊害」を感じずにはいられない。 晋三が岸を敬慕しているにせよ、率直に言って、実態は相当に質の低いコピーである。父方の祖父・寛や父・晋太郎と比べても、地に足のついた政治経験でも、それを支える知性の面でも、はるか遠く及ばない。 そんな現政権を、前回の本連載で「二つのムチ」ーーlgnorantの意味での「無知」とshamelessの意味での「無恥」に支配されていると痛烈批判したのは、晋三の母校・成蹊大学名誉教授の加藤節(71)=政治学=だった。 加藤は、憲法学の権威だった芦部信喜の名すら知らずに改憲を訴える晋三についてこうも語っている。 「明らかに世襲のなせるわざでしょう。地盤があって看板とカバンがあれば、未熟な者でも政治家になっていく。だから政治がどんどん劣化している。致命的です」 ◆ 小学校から大学まで16年も籍を置いた成蹊学園に、晋三は深い愛着を抱いていると同級生たちは語った。ところがその成蹊学園に現政権への憤懣が募っていることも前回記した。私がそれを痛感したのは、成蹊を代表する知性から話を聞いた時のことだ。 宇野重昭。今年で86歳になる宇野は、東京大学を卒業後、外交官を経て60年代に成蹊大法学部の教授に就いた。専門は中国政治史を軸とする国際政治学。以後長きにわたって教鞭を執り、法学部長から学長、そして成蹊学園専務理事まで務めた。つまり学園を代表する教育者、最高碩学といえる。もちろん晋三も教え子の一人である。「安保法制は間違っている忠告の手紙を書こうかと」 私たちが宇野に会ったのは横浜市内にある自宅マンションだった。迎え入れてくれた応接室には資料類が山積みにされ、テーブルには茶器や菓子類がたくさん並んでいた。 「いまも教え子たちがやってきて意見交換するんです。ここにあるお茶やお菓子を飲んだり食べたりしながらね」 そう言って穏やかに笑う宇野は、足腰こそ弱っているものの、椅子に座ると背筋をまっすぐ伸ばし、2時間近くも取材につきあってくれた。以下、宇野の話である。 「彼(晋三)が入学した当時、私は国際政治学とアジア研究を担当していました。たくさんの学生の一人として彼を見て、成績をつけたのは覚えています。政界入り後も食事をしたり、ゆっくり話をしたこともあるので、ある程度は人柄も知っているつもりです」ーーー大学時代の成績はどうでしたか。 「まあ……それは秘密にすべきでしょう。少なくともトップクラスには入っていません」ーーーかといって悪くもない。「答案などはごく普通で、特別に何ということもない真面目なものでした」ーーー授業中や後などに質問を受けたことはやはり……。「記憶にないです。私か教えた中で積極的な学生は、私のゼミに入りましたが、彼はあまり鍛えられなかったのかもしれません」 ここまでは他の恩師らの証言と同じで、いまさら驚きはない。ただ、慎重に、そして思慮深げに語る宇野の話に耳を傾けるうち、その口から憤りと悲しみが噴き出しはじめたのである。 「私はどちらかというとリベラリストですが、決して右でも左でもない。中国の要人や知識人に会うと、彼(晋三)をすごく批判し、極右だと言わんばかりだから、『そんなことはありません』とも言ってきたんです」ーーーしかし、欧米でも歴史修正主義者という見方があります。そんな政治スタンスは後天的なものだとおっしゃる方もいました。 「私もそう思います。保守政党の中に入り、右寄りの友人や側近、ブレーンがどんどんできてきたことが大きかったんでしょう」ーーーそれをどうお考えですか。「彼の場合、気の合った仲間をつくり、その仲間内では親しくするけれど、仲間内でまとまってしまう。情念の同じ人とは通じ合うけれど、その結果、ある意味で孤立しています」ーーー今の最大目標は改憲です。 「憲法そのものについては、占領時の制定経緯などに疑義はあります。不磨の大典でもなく、時局に合わせて修正することはあってもいい。ただ、現行憲法は国際社会で最も優れた思想を先取りした面もある。彼はそうしたことが分かってない。もっと勉強してもらいたいと思います」ーーー昨年の安保法制はどうですか。「間違っている、と思います。正直言いますと、忠告したい気持ちもあった。よっぽど、手紙を書こうかと思ったんです……」 そう言った瞬間、宇野の目にうっすらと涙がにじんでいるのに気づいて、私はうろたえた。しかし宇野は姿勢を崩さず、椅子の背もたれに身を預けることもなく、両手を膝の上にきっちり置いて話を続けた。その姿は、現政権や周辺者たちが言う「美しい日本人」がいるとするなら、まさに宇野のことではないかと思わせるほどだった。「彼は首相として、ここ2、3年に大変なことをしてしまったと思います。平和国家としての日本のありようを変え、危険な道に引っ張り込んでしまった。国民も、いつかそう感じる時がくるかもしれません」「安倍さんを全否定しない数%の可能性を信じる」 ーーーやはり危険だとお考えですか。「現段階で集団的自衛権の行使容認に踏み切るのは大変危険な選択です。いくら彼が『危険性は変わらない』と言っても、自衛隊に犠牲者が出た時、政治的にはともかく、人間的にどう受け止めるのか。それに彼の保守主義は、本当の保守主義ではない」ーーーというと?「彼らの保守は『なんとなく保守』で、 ナショナリズムばかりを押し出しますが、現代日本にあるべき保守とは何か。 民衆は、生活のことを第一に考える穏健な保守を望んでいるのが大半でしょう。私は彼を……安倍さんを、100 %否定する立場ではありません。数%の可能性を、いまも信じています。自己を見つめ直し、反省してほしい。もっとまともな保守、健全な意味での保守になってほしい。心からそう願っています」 資料が山積みにされ、いまも教え子が集うという応接室には、新聞の切り抜きが大切そうに置かれていた。作家・桐野夏生の新作『バラカ』(集英社)の出版広告だった。 聞けば、桐野は成蹊大法学部出身で、宇野のゼミ生だったという。安倍よりも3年先輩にあたる桐野の新作は、東日本大震災と福島原発の凄惨な事故に想を得たディストピア小説だ。作品中には、登場人物がこんな悲痛な叫びを発する場面がある。 「頭に来る。おめえらが安全だからって、浮かれるんじゃねえよ。フクシマの復興を後回しにして、スタジアムかよ。資材も何もかも持って行きやがって。あたしたちは棄民かよ」 文学と政治。分野は異なるが、自身がトップを務めた学び舎から巣立った2人の教え子を語る時、宇野の表情はあまりに対照的だった。 「彼女は女性を解放するだけではなく、女性をつくり直すっていう強烈な使命感を学生時代から持っていて、推理小説から社会小説のほうにどんどん行きましたね」 そう言って宇野は少し自慢げに微笑んだ。対する晋三はどうか。後付けの皮相な思想に憑かれ、国を誤った方向に向かわせないでほしい母校の最高碩学が涙を浮かべて発した諌言を、凡庸だが心優しき3代目は、どう受け止めるのだろうか。 (文中敬称略、完)以上引用(ある意味つまらない話にお付き合いいただきお礼もうしあげます)さて、私は思うのです、こんなのが最高権力のトップに据えられた日本国民は、近い将来、とてつもなく大きなかつ多くのものを失わせられる時が来るであろうと・・・。世界の深層(真相)を理解できないものが、CONSPIRACYを抱えた海千山千のつわもの達に巧みに操られ、しかもその自覚もないような、「昭和の妖怪」の粗悪なコピーでしかない者が、とんでもないコースを駆けているさま、1億2千万人が気にもかけていないさまは、異様としか言えない・・・再度言いたいのは、上の風刺画(caricature)は真実を突いたものであるということです。CSISの腕には"US"と書かれ、ハットは星条旗が表されています。それに対して、CFRには顔が隠されています。腕には「六芒星」が・・・「六芒星」はイスラエルの国旗でもあり、イスラエル建国を政治的・経済的にバックアップしたのはロスチャイルドでした。当ブログのこのシリーズの((1/3) 8月16日付)で書きましたように、1921年でのCFR創設メンバーは、はっきりとゆだや金融資本家達だったのです。シフやポール・ワールブルグはロスチャイルドがアメリカ支配のために派遣した側近中の側近だったわけです。この風刺画の作者は誰なのかわかりませんが、これらのことを熟知したうえでの精巧なる関係が表現されています。最後に、「日本人が知らない最先端の世界史」(福井義高著)p.211から引用。「デモクラシーが意味するのは、自分たちを支配する者を受け入れるか、それとも拒否するか、国民に決めるチャンスがあることに尽きる」(経済学者 ヨーゼフ・シュンペータ)おわり
August 27, 2016
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かなりバカバカシイ気分になってきましたが続きです。安倍家三代世襲の果てに第3部=・一父を怒らせた国際電話武蔵野の自然に抱かれた学舎で子ども時代を過ごした安倍晋三首相。大学生や社会人になっても、祖父や父のように「大物」の片鱗を見せ名ことはなかった。恩師や上司たちが見た晋三とは・・・。 小学校と中学校、そして高校までを一貫して成蹊学園ですごした安倍晋三は、1973年4月、内部進学で成蹊大学法学部の学生となった。晋三自身、のちに雑誌のインタビューで「受験を経験していない」ことを「コンプレックス」と振り返っているのは前回記したが、将来なども見すえて外部の大学にチャレンジする選択肢は考慮されなかったのだろうか。 高校時代の同級生で、いまも晋三と交流があるという金融コンサルタントの金子浩之はこう語る。 「私は外部の大学に行きましたが、彼(晋三)にそういう雰囲気はありませんでした。兄貴(寛信)も成蹊大に行ったし、彼もごく自然にそうなった感じです。結局は小学校から16年も成蹊で過ごし、当時の知り合いを今も本当に大事にしていますから、成蹊学園が好きで好きで仕方ないんじゃないかと思いますよ」 一方、小学校から高校まで晋三と同級生だった都内の会社役員はこう振り返った。 「彼は別に成績が悪かったわけじゃありません。でも、決して優秀でもありませんでしたからね……」「中途半端な大学より成蹊大に行ったほうが」 あらためて記すまでもないが、学歴など本来はどうでもいい話である。それが人を規定するとも私は思わない。ただ、晋三が敬愛する祖父・岸信介は戦前、東京帝国大学の法学部に学び、のちに東京大学教授として民法学の権威になる我妻栄と首席を争うほどの超秀才だった。本連載が描いてきた父方の祖父・寛も同じく東京帝大政治学科を、そして父・晋太郎も東大法学部を卒業しているのだから、同じ道を歩もうという意思と意欲があったとしても不思議ではない。 しかし、この会社役員の同級生は、こう言って苦笑するのである。 「いやあ、彼は(学力面で)東大は無理。早稲田や慶応も無理だったんじゃないかなあ」 I-大学への進学について、晋三さんのこだわりを感じることはなかったんですか。 「ありませんでしたね。仲間うちで雑談していると、やっぱり進路の話になりますよね。たしか高校2年のころだったと思いますが、彼から『お父さん(晋太郎)と相談して、中途半端なところに行くぐらいなら成蹊大に行ったほうがいいっていうことになったんだ』と聞かされました」 そうして内部進学した成蹊大。とはいえ晋三は法学部政治学科に在籍し、成蹊大は伝統伯に良質な教授陣を擁していたから、将来の政治活動の土台となる知を吸収するには格好の場であるはずだった。なのに、小学校から高校までの同級生らが口を揃えて「可もなく不可もなく、凡庸で何の変哲もない。いい子心だった」と評した晋三は、大学時代もその印象をほとんど変えることがなかったのである。 ◆ 成蹊大時代、晋三は体育会のアーチェリー部に所属し、4年次には体育会本部の役員を務めた。中学、高校時代に地理研究部という地味な部活動だったことを考えればかなり活動的であり、イタリアの高級車アルファロメオを駆って通学する姿も見られたようである。 だが、アーチェリーで際立った成績を残したわけではなく、名門政治家の子息として派手な生活で名をとどろかせたわけでもない。大学から成蹊に入った同級生が言う。 「彼が岸信介の孫で、大臣経験のある政治家(晋太郎)の息子なのはみんな知っていましたが、どこにでもいる学生っていう感じでしたよ。真面目な学生生活を、それなりに楽しくやっているという印象です」 --真面目でそれなりに? 「ええ。大学生なら、サボつて遊びに行くなんてこともあるじゃないですか。(晋三は)そういうこともなかったと思う。授業もきちんと出ていましたし、羽目をはずさず、優しくて清潔感もあって……。彼女はいなかったようだし、アルファロメオも兄貴(寛信)と共有で乗ってたんじゃなかったかな。まあ、平凡とまでは言わないけれど、どこにでもいるお坊っちゃまですよ」ゼミの議論でも発言なし卒論は薄っぺらだった 学業の面でも晋三は、周囲にほとんど印象を残していない。成蹊大法学部で長く教鞭を執り、現在は同大名誉教授となっている加藤節(71)の証言。 「私か成蹊大に着任したのは74年の4月です。その半年後から法学部の必修科目だった政治学史を担当しましたから、安倍君も私の授業を受けているはずなんですが、まったく記憶にないんです」 ‐-まったく、ですか。 「成蹊大は比較的小規模で、法学部の学生は百数十人ぐらいですから、成績が『優』とか『不可』なら、少なからず記憶に残るんです。でも、安倍君はまったく覚えていない。授業の後、質問に来た記憶もない。平凡な学生だったんでしょう。(晋三が政界で知られるようになってから)先輩や同僚にも聞いてみたんですが、ほとんど覚えていないと言うんです」 そんな晋三の大学生活は、大学3年次になると入るゼミでも変わらない。 所属ゼミの指導教授は佐藤竺。東大法学部を卒業後、60年代に成蹊大の法学部教授となった佐藤u、地方行政や地方自治制度の泰斗として知られ、日本行政学会の理事長なども歴任した成蹊大の看板教授の一人だった。政治を志すなら、まさに吸収すべき知の宝庫ともいえる指導者である。ゼミでの晋三を知る成蹊大の元教員が振り返る。 「当時、佐藤ゼミ生は20人ぐらいでした。合宿などにはみんな参加して、それぞれの研究テーマについて議論を交わすんですが、そういうゼミの場で彼(晋三)が発言しているのを聞いたことがない」 FIゼミの議論で発言しないというのは少し異様ですね。 「ええ。佐藤先生はスキーが得意で、一緒にスキーをやったことなどはあったようですが、ゼミで彼が熱心に自分の主張を口にしたとか、リーダーシップを発揮して議論をリードしたっていう記憶は皆無です。彼が卒業論文に何を書いたのかも『覚えてない』つて佐藤先生がおっしやっていました。『立派な卒論はいまも大切に保存してあるが、薄っぺらな卒論は成蹊を辞める時にすべて処分した。彼の卒論は、保存してある中に含まれていない』 つて」 ◆ こうした証言を、どのように受け止めればいいのだろうか。のちに宰相となり、この国の「かたち」を変えようと猛進する男なのに、その土台を形づくる青年期、周辺者の心に何の轍も残していない三代目。辛辣に評するなら、まるで空疎な小皇帝。 繰り返すが、学歴が人を規定するわけでは断じてない。むしろ、そこで何を学ぶかが大事なのだと私は思う。だが、大学時代の晋三は、16年も籍を置いた学び舎で何かを深く学んだ形跡がない。少なくとも、何かを学んだと教員らには認識されていない。かといって、悪童やボンボンとして勇名を馳せたわけでもない。 だからというわけではないのだろうが、こんな痛烈な批判までもが母校の恩師から公然と飛び出すのである。前出の加藤節の話である。 「大学の4年間などを通じて、安倍君は自分自身を知的に鍛えることがなかったんでしょう。いまの政権の最大の問題点は、二つの意味の『ムチ』に集約されていると私は思っています」二つの「ムチ」ですか? 「ええ。一つは、Ignorantという意味の『無知』。つまり、基本的な知識が欠如しているということです。もう一つは、shamelessという意味での『無恥』。芦部信喜を知らないなんて、よくもあんな恥ずかしいことを平然と言えるものだと思います」留学中のコレクトコール晋太郎「破産させる気か」99年6月に世を去った東大名誉教授の故・芦部信喜は、憲法学を少しでもかじったことがあるならば、その を知らぬ者はいない憲法学の最高権威だった。ところが晋三は2013年3月29日の参院予算委員会で、野党議員から「芦部信喜をご存じか」と問われ、「存じ上げません」と答弁したことが波紋を広げた。加藤の話を続ける。 「(晋三は)政治学科ですし、憲法もしっかり勉強しなかったんでしょうね。しかし、改憲を訴えているのに(芦部を)『知らない』なんて言うべきでは’ない。まさに無知であることをまったく恥じていない」 ここで明記しておかねばならないが、加藤は憲法9条の擁護を訴える「九条科学者の会」の呼びかけ大に名を連ねていて、晋三や現政権とは政治的に真逆の立ち位置にある。昨年に安倍政権が強行成立させた安全保障関連法制についても、加藤は成蹊学園の教員らでつくる「安全保障関連法案に反対する成蹊学園有志の会」の呼びかけ人代表となり、いまも同法制の「廃棄」を訴えつづけている。 したがって晋三に辛辣な批判を浴びせるのも当然ではあるのだが、加藤は晋三の母校・成蹊学園の雰囲気についてこんなふうに語った。 「主観も含みますが、(成蹊の)教員に限って言えば、9割近くが(安保関連法制に)反対だと思います。成蹊から出た初の首相だから賛成する、なんて人はまずいない。私たちの呼びかけに学内の批判もまったくありませ。むしろ『よくやってくれた』という声が多く寄せられています」 加藤が語るとおり、これは多分に「主観」的なものではあろう。ただ、晋三が小中高、そして大学と計16年も過ごした成蹊学園にも現政権への憤懣がたしかに鬱積していて、それは決して加藤らだけにとどまらない。そのことについては本連載の最後となる次回、現首相へのメッセージとして記すことにし、大学卒業後の晋三の姿を振り返ってしまおう。 ◆ 前述した成蹊大時代の同級生は、晋三自身の口から「政治への志」をうっすらと告げられたことがある。しかし、決して自らの強い決意を感じさせるものではなかったという。 「友人同士で将来のことを話すことってあるでしょう。そんな時『お前は政治家になるんだろう?』 つて聞いたら、『うん、政治家になる』って。ただ、『普通は兄貴(寛信)がなるんじゃないの?』って聞くと、『いや、兄貴は政治にあんまり興味がないから』つていう程度でね。だからこそ、大学卒業後は留学もしたんでしょうけれど……」 晋三は大学を卒業後、米国への留学に旅立った。目的は判然としないが、後述するエピソードが示すように、将来に向けた”箔づけ”の意味合いが強かったのだろう。成蹊大を卒業した77年、晋三が生まれてはじめて親元と成蹊学園を離れ、単身向かったのは米国西部のカリフォルニア州だった。 その留学経歴について、晋三はある時期まで、後援会のバンプレッドやインタビュー時のプロフィルなどで次のように記していた。 〈1977(昭和52)年3月 成蹊大学法学部政治学科卒業、引き続いて南カリフォルニア大学政治学科に2年間留学〉 ロサンゼルスにある南カリフォルニア大学は、米西部で最古の歴史を持つ名門私大である。ところが04年2月、この経歴にケチがつく。当時、晋三は自民党幹事長に抜擢されて政界の階段を急速に駆けあかっていたのだが、同年2月13日号の「週刊ポスト」が「経歴詐称だ」と指摘、一大騒動に発展したのである。 南カリフォルニア大の広報担当者は、同誌の取材に当時こう回答したという。 「シンソウーアベは78年の春期、夏期、秋期のみ在籍した。その間は本学の正規の学生だったが、専攻はまだなかった。取得したコース(講座)は全部で6、そのうち3つは。外国人のための英語々で、政治学は入っていない」 つまり晋三が同大に留学していたのはわずか1年間。しかも「政治学科に留学」どころか、政治学すら学んでいない段階だったことになる。 対する晋三側は、「南カリフォルニア大には78年1月から79年3月まで在籍し、政治学は履修したが、途中でドロップアウトしたため記録が残っていないだけだ。留学の実態はあったと考えている」 と反論したが、これはいかにも苦しい論弁だろう。事実、他のメディアも追随して報じ、晋三は以後、公式のプロフィルから「南カリフォルニア大学政治学科留学」の経歴を消した。報道を事実上追認した形であり、実態はおそらく、語学留学に毛が生えた程度の渡米だったのだろう。前出の成蹊大の元教員は、こんな思い出話を聞かせてくれた。 「(晋三の兄の)寛信君から聞いたんですが、留学といっても最初の1年は語学留学で、その後もホームシックにかかってしまったのか、毎日のように東京の自宅にコレクトコールで電話をかけてきたそうです。その料金がすごい額になって、親父さん(晋太郎)が『あいつはウチを破産させるつもりか』つて怒って、それで帰国することになったということでしたよ(笑)」 ◆ ここまで書きつらねてきた本連載だが、しばし余談に脱線することをお許しいただきたい。私はノンフィクション作品の取材・執筆を生業とし、この業界では古くから「ノンフィクションの華は『事件』と『人物評伝』だ」といわれてきた。ご多分にもれず私もこれまで双方の作品を手がけ、「安倍家三代」の人びとの実像を追跡するという意味では、本連載も人物評伝に類するものといえる。就職でもレールに乗り神戸製鋼所へ”政略入社” その人物評伝に類する取材・執筆では、取材対象として狙いを定めた人物の突出した才覚とか生き様とか、逆に目を背けたくなるほどの悪辣さとか悲哀とか、あるいは時に暑苦しいほど過剰なエネルギーであるとか、そうしたものに惹きよせられたり反発したり、しかし離れがたい魅力に取り憑かれてのめり込んでしまうのが常だった。 本連載でいえば、晋三の祖父・寛にせよ、父・晋太郎にせよ、青年期から激しくエネルギーを発散する様に、私は魅力を感じた。取材すればするほど垣間見えてくるエピソードに、すべて賛同はしないまでも、強く惹きよせられた。俗っぽい物言いをすれば、ワクワクするような楽しさを覚えた。 しかし、晋三は違った。いくら取材を重ねても、特筆すべきエピソートらしいエピソードが出てこない。悲しいまでに凡庸でなんの変哲もなく、取材するほどに募るのは落胆ばかり。一ノンフィクションの華」とされる人物評伝にふさわしい取材対象ではまったくない。 しかし、それが同時に不気味さを際立たせる。どうしてこのような人物が為政者として君臨し、この国の「かたち」を変えようとしているのか。これほど空疎な人物が宰相となっている背後には、時代状況と政治システムとの間に大きな齟齬があるのではないか。そのことも次回、可能な限り総括してみたいと思う。 ◆ さて、晋三は79年春、米国から帰国後に神戸製鋼所に入社した。晋三の直属の上司として1年以上も机を並べ、のちに同社の副社長となった矢野信治(73)がこう回想した。 「彼は要領、が良くて、腰が軽かったから、職場にも馴染んだし、みんなに好かれていましたよ。ただ、率直に言って。政略入社”ですからね。あのころは多かったんです。うちに限らず、製鉄会社には政治関係の。政略入社”がね……」 受験を経験しないまま16年を成蹊学園で過ごした晋三は、普通なら人生の重大岐路となる就職時にも荒波にさらされず、敷かれたレールの上に乗って社会人となった。そうして置かれた場で見せたのもやはり、『凡庸だがみんなに好かれる。いい子』の姿のみだったのである。 (文中敬称略、以下次号)
August 24, 2016
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右でもない。左でもない。中庸でもない。悪でもない。善でもない。この奇妙な感覚は一体どこからくるのか?その理由はおそらく簡単なのかもしれない・・・。思想する主体がないからである。使嗾される者たちがいるだけだからであると思われる。上図に表れている「右腕の一部のみ見える”CFR”、上半身と右腕が見える”CSIS”」"Council on Foreign Relations" "Center for Strategic and International Studies"前者は「米の陰の政府」とまで言われる日本語訳で「外交問題評議会」。英のRIIA(王立国際問題研究所。1290年創設)とほぼ同時期の1921年創設。この時、英米の共通支配体制が出来上がったといってよい。創設者には、ヤコブ・シフ(日露戦争時、日本国債の殆どを引き受ける或いは引き受け斡旋してくれたユダヤ資本家)、エヴィリル・ハリマン(鉄道王ハリマンの息子)、ネルソン・オールドリッチ、バーナード・バルーク(ユダヤ人投機家、銀等のメタルトレーダーとして巨富を築いた、ウイルソン大統領のスポンサー兼操り人だった人でルーズベルトに対してもほぼ同様であった人、チャーチルが訪米する時は最初にこの男を訪ねた。)JPモルガン、ジョン・D・ロックフェラー他・・・ 陰の政府というより、米の永代政府である。 大統領選挙なるものは単なる「民主主義という名の幻影」を、嘘でもいいから信じたい民衆に与えられるうさばらしでしかないのであろう。さて、「何故奇妙なのか」について、青木理氏の立場からレポートしているので、目を通してみましょう。以下引用、安倍家三代世襲の果てに第3部=・一Asahi Shimbun Weekly AERA 2016.4,18凡庸な「いい子」の3代目1次政権では改憲と戦後レジームからの脱却を目指すも、苦い挫折を味わった。首相の座に返り咲いた後は、アーベノミクスヘの期待を集め、手堅い政権運営が際立つ。そしていま再び憲法改正を視野に入れる安倍晋三首相。第3部ではその人間像を追う。ジャーナリスト 青木理 政治家・安倍晋三の政治志向を形づくる原点のようなものを語る際、必ずといっていいほど引き合いに出されるエピソードがある。まずはこれだ。 -‐‐-母方の祖父・岸信介が首相時代、東京・南平台の岸邸には日米安保条約改定に反対するデモ隊が押し寄せた。だが岸は泰然とし、孫と鬼ごっこなどに興じた。晋三はデモ隊を真似て「アンポ、ハンダイ」とはしゃぎ、父・晋太郎や母・洋子は「アンポ、サンセイと言いなさい」とたしなめたが、岸は愉快そうに眺めていた。 もう一つはこれだろう。 ーーー晋三が高校時代、教師が授業で日米安保条約を批判し、これに晋三は反論した。「新条約には経済条項もあり、日米の経済協力がうたわれている」。教師の顔色は変わり、「岸の孫だから下手なことはいえない」と思ったのか、不愉快そうに話題を変えてしまった。 いずれのエピソードも晋三周辺から発信されてきた。前者は、洋子が1992年に出版した『わたしの安倍晋太郎 岸信介の娘として』(ネスコ)に描かれ、晋三も最初に首相となる直前に発表した『美しい国へ』(文春新書)で言及している。後者のエピソードも『美しい国へ』の冒頭に紹介され、この経験をもとに晋三はここまで断じるのである。 〈中身も吟味せずに、何かというと、革新とか反権力を叫ぶ人たちを、どこかうさんくさいなあ、と感じていたから、この先生のうろたえぶりは、。わたしにとって決定的だった〉行儀よく優しい子受験のない成蹊で育つ この程度の出来事をもちだし、自身の政治志向に「決定的」な影響を与えたと言いきる薄っぺらさはひとまずおく。ただ、この二つのエピソードは晋三物語を語る際の定番であり、外交・安保分野におけるブレーンとされた故・岡崎久彦との共著『この国を守る決意』(扶桑社)でも、まったく同じ話が本人の口から繰り返されている。 逆にいうなら、これ以外のエピソードらしいエピソードが皆無に近いのである。特に感性が研ぎ澄まされ、良かれ悪しかれ既存秩序への懐疑と反発が強まる少年期から青年期にかけての逸話が、晋三にはほとんどない。それは本連載で描いてきた「安倍家三代」に連なる祖父や父とはあまりに対照的だ。山口県の寒村から東京帝国大学に進み、地元村民の信頼を得て村長から衆院議員になった祖父・寛。若くして両親を失い、特攻で散る寸前に敗戦を迎え、それでも亡父と同じ大学を経て政治の道を目指した父・晋太郎-ーー。 晋三が敬愛しているらしい岸にしても、その評価は分かれるにせよ、「昭和の妖怪」と評されるに十分な逸話を青年期から数々持つ怪人物であった。 そうしたものが晋三にはない。しかし、そんな男が安倍家の三代目を襲名し、あっという間に政界の階段を駆けあがって宰相の座を射止めた。I度目こそ手痛い挫折を味わったが、2度目は長期政権を維持し、戦後70年にわたって積み重ねてきたこの国の「かたち」を変貌させつつある。 この男は、果たして何者か。この男を、我々はどう捉えるべきか。何をエネルギーとし、あるいは何をルサンチマン(ブログ注;怨恨・憎悪・嫉妬などの感情が反復され内攻して心に積もっている状態。)として突き進んでいるのか。その生い立ちと精神形成史をあらためて追跡し、深層を探ることは、戦後70年を経て私たちがいったいなぜこの政権を戴くことになったのかを繙く鍵にもつながるはずだ。◆54年9月21日、晋三は晋太郎・洋子夫妻の次男として東京に生まれた。二つ年上に兄・寛信が、五つ年下に弟・信夫が生まれたものの、信夫は岸家に養子として迎えられ、晋三は寛信との2人兄弟として東京・代田にあった晋太郎宅で育った。 晋三の出生時、晋太郎は毎日新聞社の政治部記者だった。しかし、岸が石橋湛山内閣の外相に就くとその秘書官に転じ、石橋が病に倒れたことを受けて57年に岸が首相になると、そのまま首相秘書官に就く。そして翌58年の衆院選に山口I区(当時)から出馬し、初当選した。 晋太郎が東京からはるか遠い山口で選挙戦を戦うことになったため、洋子もたびたび現地入りし、晋三は両親不在の家でお手伝いさんらに面倒を見てもらうことが多かった。安倍家に長く仕えた現在83歳の老女は、子ども時代の晋三を私たちにこう懐かしんだ。 「子どもですから、わがままなところはありましたよ。奥さま(洋子)も『(言うことを)聞かないのよ』とおっしゃつてましたが、ケンカしたと聞いたことはないし、お行儀がよくて、優しくて、いい子でしたね、本当に」 お行儀がよく、優しく、いい子だったという晋三は61年春、成蹊小学校に入学した。東京・武蔵野の閑静な地にある成蹊学園は、良家の子女が集うことで知られ、晋三は以後、中学、高校、大学までの16年間をここで過ごす。受験競争などとは無縁、一般的にはかなり特異な生育環境だろう。晋三自身、かつて雑誌のインタビューで吐露したことがある。 「コンプレックスのない人間なんて、世の中にそういないですからね。一つは、小学校から大学までずっと成蹊学園忙いたので、受験を経験していないんです」(Yomiuri Weekly2004年2月22日号) このころの晋三を知ろうと、私たちは今回、成蹊学園で机を並べた多数の同級生や教師を訪ね歩いた。最初に結論を記してしまえば、返ってきたのは判で押したように同じ答えばかり。たとえば、次のようなものである。勉強もスポーツも性格も可もなく不可もなく 「ひとことで言って、強い印象がないんです。勉強が突出してできたわけでもなく、スポーツで活躍したわけでもない。でも、落ちこぼれでもなかった。自らが大将になってやっていくわけではなく、みんなの足を引っ張っていたわけでもない。ようするに、ごく普通の。いいヤツ趾(小学校から高校まで同級でナイガイ塩業社長の野崎泰彦) 「すごく(勉強が)できたっていう印象はないけど、すごくできなかった印象もない。将たる器っていう感じを受けたことは二度もなくて、(首相になつたのは)非常に不思議だと思っています」(小学校から高校まで同級で映像翻訳に携わる赤松立太) 可もなく不可もなく、どこまでも凡庸で何の変哲もないI-そう言ってしまうと失礼なら、ごく普通の「いい子」。極言すればそれに尽きるのだが、もう少し細かく証言を拾っていくと、少年期から青年期にかけての晋三の心象風景が見えてくる。 ◆ 両親が不在がちだったからだろう、寛信と晋三には幼い時期から家庭教師がつけられた。その一人が自民党衆院議員の平沢勝栄だったのはよく知られている。平沢が当時を語る。 「私は(東京大学の)駒場寮にいたんですが、大学の掲示板に家庭教師の募集があって、2人の子どもを週3回教えて9千円、食事つきと書かれていた。寮の食事はマズかったから、これはいいぞと思ってね」---では、安倍家とは知らずに? 「まったく偶然なんです。家に行ったら晋太郎さんが出てきたけど、当時はまだ若手政治家だったので、最初は誰だか分からなかった」---晋太郎さんは何と? 「洋子さんも含めて山口に帰っていることが多いし、電車通学で近所に友だちもいないから、遊びも含めてよろしく頼むって」---勉学の面は? 「当時は晋三さんが小学4年か5年くらいかな。一生懸命やるタイプじゃない。受験があるわけじゃないから、宿題をみる程度。成績も普通だった。あとは適当に遊んでくれと晋太郎さんに言われたから、キャッチボールしたり、休日は映画に連れてったり、駒場祭にも連れていきました」----どんな子でしたか。 「ごく普通で素直。お兄さん(寛信)に比べると負けず嫌いなとこはあったけれど、かわいらしかったから、親戚の女性たちに可愛がられていた々。特にお祖父さんがものすごく可愛がったようです」世は全共闘真っ盛りでも政治には関心なし 父とのふれあいが希薄で、祖父の岸に溺愛されたことについては、洋子も前掲著でこう回顧している〈父(引用者注・岸)は子煩悩でありましたが、それ以上に孫が可愛くてならず、時間が許せばいつまでも相手をしておりました。総理になったころは、多忙の間を縫って週末ごとに、箱根の奈良屋という旅館へ静養に訪れていましたが、しばしば父から『すぐに孫を連れてこい』と、せっかちな電話がかかってきたものです。(中略)旅館の瞰の池に鯉や金魚が泳いでいるのを見て、長男が『あれ、釣りたい』とだだをこねると、父は『そうか、そうか』と、いそいそと番頭さんに掛け合いに行くのでした〉(『わたしの安倍晋太郎』から) 父方の祖父・安倍寛は早くに逝き、晋太郎も選挙活動に追われるなか、溺愛してくれた岸に敬慕の情を募らせたとしても不思議ではない。これが晋三の原点といえば原点なのだろう。 とはいえ、当時の晋三に政治志向の気配は薄い。岸の孫であり、晋太郎の息子だということを周囲も十分認識していたが、私たちが訪ね歩いた同級生の中に、晋三から政治への意気込みを聞いた者もほとんどいない。ここでもそろって語られたのは、ごく普通で何の変哲もない良家の子女---つまりは凡庸なおぽっちゃまの姿である。 ◆ 前述した小学校から高校までの同級生・赤松立太は、晋三と同じ京王井の頭線沿いに自宅があり、小学校時代はしばしば一緒に帰宅した。下校時には学校の裏の林で缶けりをして遊んだ。駄菓子屋に寄ったり、自転車を乗り回したり、原宿にあった切手屋を訪れた記憶もある。お互いの家を行き来し、ゲームに興じたこともあった。 「安倍の家にはモノポリーつていうゲームがありましてね。当時、日本ではまだほとんどなかったんじゃないかな。安倍の兄貴(寛信)なんかと一緒にやりました。小学校の5、6年くらいのことです」 晋二が小学校の高学年のころといえば60年代の後半、世は全共闘運動が最盛期を迎えつつあった。少し遅れた世代だったが、赤松も高校のころはデモに参加した。しかし、そうした社会風潮への反発を含め、晋三に政治的な印象はまったくなかったという。続けて赤松の話。 「中学と高校はクラスが違ったし、どちらかというと(晋三は)目立たないタイプでしたからね」---政治的な話をしたことは? 「ないですね。僕は高校の時に生徒会をやっていたけど、。そういう目立つところに彼はいなかった。文系の地味なクラブにいましたから」父・晋太郎の落選を笑ってやり過ごす 小学校時代、晋三は剣道部。中学と高校は地理研究部。現在は会社役員を務める同級生は剣道部と地理研究部の双方で一緒にすごした。匿名を条件に取材に応じたこの同級生の回想。 「中学でも(晋三と) 一緒に剣道部に入ったんだけど、練習が大変なこともあって一緒に辞めて、地理研に入って。ちょっとオタクっぽいけど、あちこち旅行したいっていうことで。(晋三の)剣道の腕前? ごく普通でした」 ここでもまた「普通」と評される晋三だが、名門政治家の家系に生まれたことは、幼き身に悲哀を抱かせることもあったようだ。ある成蹊小の同級生は、こんな情景を記憶していた。63年11月の衆院選。晋太郎は3度目の当選を目指して出馬したが、落選の苦杯をなめる。晋太郎にとっては初めての、そして唯一の落選。ある日、このことが教室内で話題になった。 「お前の父さん、落選しちゃったな」 一人がそう言って笑うと、みんなも笑った。晋三もそれを笑ってやり過ごした。この同級生が語る。 「子どもだから悪気があったわけじゃないんですが、今から考えるとかわいそうなことをしました。彼は人当たりが優しかったから笑っていたけど、内心はつらかったでしょう」ーーー当時の晋三さんから岸さんの話を聞くことはありましたか。 「ええ。彼は岸さんのことが本当に好きだった。お祖父ちゃんの話は何回か聞いた覚えがあります」ーーーどんな話ですか。 「たわいもない話ですよ。(晋三が)持っているペンか何かを『それどうしたの?』 つて聞いたら『お祖父ちゃんが韓国に行ってお土産にもらったんだ』とか、そんな話を何回か。運動会に岸さんも姿を見せましたし」 そのせいなのか、高校時代になると岸内閣が退陣に追い込まれる要因になった日米安保条約について、晋三が周囲にこだわりを見せることは確かにあったらしい。高校時代の同級生で金融コンサルタントの金子浩之はこう語る。 「高校3年のころだったかな、決して熱弁を振るうわけではなかったけれど、安保(条約)は『50年経ったら必ず評価される』っていうようなことを言ってましたね」 日米安保条約をめぐって教師に食ってかかったという定番のエピソードも、それにつらなるものの一つであるのだろう。前述した会社役員の同級生はその場面をおぼろに記憶していたが、晋三が語る内容とは状況が少し違う。「近現代史を真剣に学んだと思えない」 「彼が『先生の言っていることは違う』と言ったのは間違いありませんが、先生に指されて答えたんじやなかったかな。いずれにせよ、そんなに大した話じゃありませんよ。総理になったから脚色されて都市伝説みたいになっちゃった(笑)」 この件については、当該の教師である青柳知義(77)にも話を聞いた。70年に成蹊高の教師となり、倫理社会を担当した青柳の記憶では、事実関係は次のようになる。 「あの時は安倍君が突然立ち上かって早口で言ったんです。『安保条約は日本防衛に必要で、経済協力協定もある』つて。私は『条約の柱は軍事協力協定で、経済協力はそれに付随するものだ。両者は相容れない』と答えました。安倍君は不満そうでしたが、周囲の生徒とひそひそ話をはじめて、議論にはなりませんでした」 これもまた、晋三が語る状況とは異なる。質問を浴びた教師の顔色が変わり、不愉快そうに話題を変えたーー著書にはそう記されていると確認すると、青柳はうんざりした表情でこう辛辣に言うのだった。 「勝手にそう思っていればいいでしょう。安倍君は特別に優秀だったり、特別にズッコケていたわけではなく、真面目な生徒でしたが、近現代史を真剣に学んだと思えない。我々の教育が彼に伝わらなかった、そういう忸怩たる思いはあります」 当たり前の話だが、半世紀近くも前の、しかも記録を取っていたわけでもない出来事の真相は藪の中であり、いくら突き詰めても水掛け論になるだけだ。そもそもこのエピソード自体、敬愛する祖父を必死で擁護したという程度の話にすぎない。安倍自身、著書で「安保条約の条文を読んでいたわけではなかった」と明かしているのだから。 それよりむしろ、きわめて凡庸で、可もなく不可もなく、優しくて素直だけれども目立たないおぼっちゃまーーーそれが同級生たちに共通して残る晋三像だったことに私は目を引かれる。そんな姿は、内部進学で成蹊大学法学部に進んだ後も変わらない。いや、将来に直結する政治学科に学んだのに影の薄さが不変だったことは、その本質がなにやら空虚なものだったのではないかとすら疑わせるのである。(つづく)
August 16, 2016
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当ブログMAY 15,2016 で、2014年の都知事選の桝添氏の区市町村別得票率と、その前の選挙での猪瀬氏の同様の得票率のグラフを引用し、その怪についてふれました。 考えてみれば、どこかで何かの選挙が、ひきりなしに行われているのであり、選挙管理委員会の担当者即ち幾千幾万の投票用紙を仕分けし数える人たちには、たまらなく退屈で単調な作業を繰り返させられているということであろう。そこに開票機械なるもっともらしいものが導入されることになっているのが現実であることに、そこに大きな落とし穴があることに、一体どれほどの人が気についているのでしょうか。どういう訳かメデイアもそのことについて触れるのを避けているかのようですが・・・。 体裁のよい響きをもつ「民主主義」なるものが、民衆の脳皮細胞に単純なイメージを植えつけたうえでの「人気投票」に成り変わり、さらにそれが中身の不明な「開票機械ムサシ」なるものの「文字識別」「カウント」作業によって支えられている現実。 ある意味ゾンビの世界に私たちは生かされているのかもしれません・・・。 私たちは「パブロフの犬」とそう遠くない位置にいることは間違いないようである。 以下は、新聞ニュースに表れたゾンビの一面です。 有権者「投票した」…片山虎之助氏0票に疑問 2016年07月27日 08時50分 10日投開票の参院選比例選で、当選したおおさか維新の会の片山虎之助・共同代表が獲得した個人名票が、愛媛県西条市で0票だったことを疑問視する指摘が、県選管を通じて市選管にあったことがわかった。 市選管は記録を確認したが、「現時点でミスがあったともなかったとも言えない」としている。 片山氏は全国で19万4902票を得て当選。県内では1415票を獲得した。西条市の当日有権者数は9万3326人。県内20市町のうち、西条市以外では596~2票を得た。2010年の参院選比例選で、片山氏はたちあがれ日本から立候補し、西条市で32票を得ていた。 同市内の主婦(60)は読売新聞の取材に「『片山虎之助』と書いて投票した。夫や親類も入れており、開票ミスではないか」と首をかしげている。 市選管によると、開票作業では、自動読み取り機で政党名票や個人名票を分類し、別の台に置いて職員が目視で点検、計数器にかけていた。開票管理者と立会人も点検しており、不審な点はなかったという。 名字のみ記された票が4票あり、片山虎之助氏の票が別に1票でも入っていれば、自民党の片山さつき氏と案分することになる。しかし、なかったため4票は全て片山さつき氏が獲得したという。 西条市選管の秋月恭司事務局長は「開票作業には万全を期したが、投票したという人がいれば否定はできない。開票結果は確定しており、現段階で何か対応をすることは難しい」と話した。 2016年07月27日 08時50分 Copyright © The Yomiuri Shimbun 片山虎之助氏0票、再点検せず…抗議の電話数件 2016年07月28日 14時27分 10日投開票の参院選比例選で、おおさか維新の会の片山虎之助氏が獲得した個人名 票が、愛媛県西条市で0票だったことを疑問視する指摘が市選管などにあった問題で、市選管は27日、票の再点検は行わない方針を示した。 1996年に自治省(現総務省)が示した考えに従った対応だという。 片山氏は、県内の20市町のうち同市以外の19市町で596~2票を獲得。有権者数9万3326人の西条市と規模が近い新居浜市で139票、香川県丸亀市で166票を得ている。 西条市の主婦(75)は27日、読売新聞の取材に「片山とらのすけ」と書いて投票したとし、「せっかく投票したのに、行く意味がなかった。票をきちんと反映してほしい」と憤った。市選管にも同日、「片山氏に投票したのになぜ0なのか。ちゃんとせえ」などと抗議する電話が数件あったという。 公選法は、投票された用紙は確定後封印し、任期中、市町村選管が保管することを義務付けている。自治省は96年、選挙訴訟や警察などの捜査以外では、原則的に封印は解けないとの考えを示した。開封すれば、票の滅失などにつながる恐れがあるためだという。 市選管の秋月恭司事務局長は「投票したという市民の方がいる以上、ミスの可能性は否定できないが、選挙結果は確定しており、開封して再点検することはできない」と述べた。 開票事務に詳しい環太平洋大の林紀行准教授(政治学)は「片山氏の票がどこかに紛れこんでいる可能性が極めて高い」と指摘。「公選法に沿った手続きでは開封による再点検は難しい。ただ、放置しておくと、開票事務への信頼が損なわれるため、きちんと検証すべきだ」と強調した。 中村知事は27日の定例記者会見で「再点検は、市選管が諸事情を考慮して、その必要を認めた場合に決定されるべきであるので、県としてはコメントを差し控えたい」と述べた。 同日の記者会見で見解を問われた青野勝・西条市長は、「選管のことなので、市長が答えることではない」と話した。 2016年07月28日 14時27分
August 3, 2016
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