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豊洲市場土盛らず建設費大盛り!!
September 27, 2016
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当ブログ2016年7月4日の尖閣記事(下記URL)を読んで、下記の新聞記事を読めば、http://plaza.rakuten.co.jp/historeview/diary/201607040000/この醜い男を抹消しなければならない、と考えるのが普通の考えである。 「天才」なる書で、かって自らが田中角栄貶めに一役買った男が、その田中をだしにして臆面もなく巨額の印税を稼いでいる。(買って読むバカがいるのが日本! こんなものに金を使うくらいなら、角栄の秘書、朝賀昭著「角栄の遺言」に目を通してみるのが本当の角栄の一面がうかがえるのだが。立花隆と共に、石原が当時、角栄貶めに一役かっていたことが触れられている) ここには良心・義勇心のひとかけらもない、小心でその場繕いしかない、小さい自分を数倍にもみせたくて、(超)大物をこき下ろしてみせ意に介さない、聞く方はその馬鹿さ加減に気づいても気が付かないふりをしている・・・小さく醜い男の姿しかない。豊洲新市場“盛り土案潰し” 真犯人は石原元都知事だった2016年9月15日 日刊ゲンダイ 信じられないデタラメが次々と発覚する豊洲新市場騒動で、新事実が浮上した。「私はだまされた」と被害者面していた石原慎太郎元都知事が、実は盛り土案潰しの“真犯人”だったというのだ。 石原氏は13日のBSテレビ(BSフジ、プライムニュース)で、豊洲新市場の建物下に盛り土がされず、コンクリートで固めた地下空間がつくられていた問題について、「私はだまされた。手を抜いて、していない仕事をしたことにして、予算措置をした。都の役人は腐敗している」とまくし立てていた。 ところが、在任中の2008年、敷地全体に盛り土するとの専門家会議の提言に難癖をつけ、地下にコンクリートの箱を埋め込む工法を都庁幹部に強く推していたことが分かったのだ。 15日の東京新聞によると、石原氏は08年5月10日の定例会見で、豊洲の土壌汚染対策について「(盛り土案より)もっと費用のかからない、しかし効果の高い技術を模索したい」と語っていた。さらに同月30日の会見では「担当の局長にも言ったんですがね。もっと違う発想でものを考えたらどうだと。どこかに土を全部持っていって(略)3メートル、2メートル、1メートルとか、そういうコンクリートの箱を埋め込むことで、その上に市場としてのインフラを支える。その方がずっと安くて早く終わるんじゃないか」と語っていた。 このとき石原氏が得意げに語った工法こそ、いま大問題になっている豊洲新市場の姿だ。 一連の石原発言は、専門家会議が盛り土案を提言して解散した08年7月の直前だった。都庁の役人がすぐに消えてなくなる専門家会議の意向より、超ワンマンの石原知事の指示に従った可能性が高い。 これまで、なぜ都庁の役人が盛り土案をハナから無視して作業を進めてきたのか謎だったが、石原知事の発言に従ったとしたら納得がいく。 豊洲新市場のデタラメ工事の真犯人は「石原慎太郎元東京都知事」だった可能性が高くなってきた。 <豊洲市場>石原元知事、地下コン箱案言及 08年定例会見毎日新聞 9月15日(木)11時38分配信 東京都の築地市場(中央区)からの移転が延期された豊洲市場(江東区)の主要建物下に土壌汚染対策の盛り土がされなかった問題で、石原慎太郎元知事が2008年5月30日の定例記者会見で、土壌汚染対策として地下にコンクリートの箱を埋める案に言及していた。会見では、当時の担当局長にこの案を検討するよう伝えたことも明らかにしていた。 石原氏は会見で、インターネット上で海洋工学の専門家が「(土壌汚染対策は)違う発想で考えたらどうか」と発言していたことに触れた。その上で「(豊洲市場予定地の)土を全部さらっちゃった後、地下2階ぐらいですかね、3メートル、2メートル、1メートルか、コンクリートの箱を埋め込むことで、その上に市場としてのインフラを支える。その方がずっと安くて早く終わるんじゃないかということでしたね」と案を紹介した。 08年5月19日には土壌汚染対策を検討する外部有識者の「専門家会議」が、土を入れ替え盛り土をする案を示していた。一方で当時、670億円と見込まれていた汚染対策費が1000億円を超えるとの見方も出ており、石原氏は同月16日の会見で「もっと費用のかからない効果が高い技術があるかもしれない」と述べていた。 石原氏は13日に出演したテレビ番組(BSフジで石井一と出演し、主に石井の著書『冤罪 田中角栄とロッキード・・・』の話題で、居心地の悪そうな表情で、したり顔で喋っていた。)主要建物下に盛り土がされていなかったことを知らなかったとして「だまされた。現場の人間にしか分からないことだ」と話していた。 小池百合子知事は15日、リオデジャネイロへの出発前に報道陣の取材に応じ、問題の経緯や実態について、自身が帰国するまでに取りまとめるよう都幹部に指示したことを明らかにした。【柳澤一男】豊洲市場「爆発」の恐れも 地下空洞に引火性ガスの危険性2016年9月15日 日刊ゲンダイ 何から何まで全てがデタラメだ。東京・築地市場の移転予定地である豊洲市場の建物下で土壌汚染対策の盛り土がされず、空洞になっていた問題。「青果棟」の地下ではコンクリートすら敷かれておらず、砕石層がムキ出しだったというから唖然呆然だ。 恐ろしいのは、この空間の視察を求めた共産党都議に対し、都の担当者が「酸欠」を理由に断ったという話だ。この説明通りなら、移転中止は必至。大惨事を招く危険性が現実味を帯びてくるからだ。 そもそも、外部識者の専門家会議がなぜ、盛り土を提言したのかというと、汚染土壌から発がん性の高いベンゼンなどの有害物質が揮発し、建物に拡散するのを防ぐためだ。それが汚染土壌の上を砕石層で覆っただけなんて、シロートが考えても揮発したベンゼンが空気中に広がっていることが容易に想像できる。 ベンゼンは発がん性以外に「引火性」も高い化学物資だ。工業会などの資料によると、〈揮発性が高くかつ引火性の強い液体であり、空気との揮発性混合ガスを形成〉〈屋内、屋外または下水溝で爆発の危険がある〉と注意喚起されている。ここで都担当者の「酸欠」という表現を額面通り受け取れば、「青果棟」地下の空洞には排気口などの設備が一切ないと言っているに等しい。ということは、「引火性の高いガス」が密閉空間にたまり続けていることになる。つまり、一歩間違えれば「大爆発」の可能性もゼロじゃないのだ。 都はあらためてコンクリートを敷く方針のようだが、「酸欠」や「がん」に加え、「爆発」の危険性がある場所の工事を誰が引き受けるのか。福島原発の廃炉作業じゃあるまいし、全面マスクをかぶって作業――なんて事態になれば最悪だ。そんな場所に「都民の台所」を設置していいはずがない。豊洲移転の計画当初から、土壌汚染対策の重要性を訴えてきた日本環境学会の坂巻幸雄・元副会長はこう言う。 「今、起きている問題は、我々がどんなに都に対策を求めても応じず、最初から移転ありきで突っ走ってきたツケが出ていると言っていい。都は豊洲市場の建物内外のベンゼンの大気濃度を測って公表していますが、青果棟は他の測定場所と比べて数値が高いのです。爆発するかはともかく、揮発したベンゼンが地下空間にたまり続けている可能性はあると思います」 だ。 もはや小手先の対策でどうにかできる問題じゃない。まずは、強引に移転計画を進めた石原慎太郎元知事や歴代の担当職員の責任を徹底追及し、これまで整備に費やしたカネを請求するべき
September 15, 2016
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つづきp113 (河本の孫娘である)冨美子さんが付け加えて語ってくれた内容でさらに興味深い点が一点ある。 『実は祖父は早くから諜報機関に憧れていました。ロシアに入り込んでそうした活動をやりたいと本気で考えていたようです。 陸軍省で戦史の研究をやっていたのですが、その時ロシアの研究をしたはずです。いざというときのために、北海道で耐寒訓練を熱心にやったり、ロシア人の友人もいたはずです。』 河本がロシア戦史の研究を命じられたのは、大正7年(1918)であり、参謀本部勤務時代に上原勇作参謀総長から直々に指示を受けてのことだった。彼が日露戦争に出征し、重傷を負った経験もあることは冒頭に紹介した。そんな河本がロシア研究と称して「露探」つまり、ソ連側スパイとの接触を持った可能性は排除できない。満州通の河本が、それより早くロシア通でもあった事実は重要な視点となるだろう。 (ブログ注;上原はフランスに留学経験あり、その後の挙動には注意してみる価値ありと考える)第二章「コミンテルン説」「張学良説」の根拠p194 ・・・日付が三日に変わるころ、張学良、楊宇理は張作霖を見送る駅頭へ向かっていた。イギリス情報部 推定と断わりながらも、貴賓車両の天井裏に爆薬が装置されたいきさつをここまで述べたのは、次のようなイギリス情報部による報告書が実在するからである。 今回、私がイギリス公文書館で新たに入手した文書には、「爆発は車両の上方で」起きた、という衝撃的な事実が何力所にもわたって報告されていた。 まず問題を整理する意味も込めて、イギリス公文書館で開示されたファイルにある「この実行行為に責任が持てる組織」という条件を見ておこう。条件は以下のように記されている。 この行為を実行するにあたって責任を持てる組織は、以下の項目のすべてではないにしても大半を急な通告で提供する立場にあったに違いない。a.張作霖が乗って北京を出発した列車b.その列車における張作霖の車両の位置c.出発時刻とおおまかな通過時間d.相当量の爆発物e.爆薬の専門知識を有する人員 最初の三項目は張作霖の内輪のスタッフへの接近手段があることを示唆している。爆弾の場所は極めて重要であり、注意深く検討すべきだ。爆弾が客車の上方(the bombwas above the coach)にあった、つまり①陸橋に詰め込まれていた②車両の天井の上に置かれていた、のどちらかである。 ①の場合は陸橋の上で数人が数時間作業をしていたことを意味する。そのとき、上には日本の警備兵が、下の京奉線沿いには中国の警備兵がそれぞれいて、少なくとも日本の警備兵はよそ者を近づけないよう警戒していたのである。 したがって、①の場合だとすれば、日本兵と中国兵も内々に陰謀に関与していた可能性を証明するものであり、この状況下で日本兵が中国兵に買収されることはあり得ないので、日本の軍当局が関与していた決定的証拠となる。 爆発現場を検証した外国人の見方は①に傾きがちだったが、この見解はイギリス総領事に嘲笑された。したがって、爆薬が陸橋に取り付けられたとは決定できない。 爆薬が列車の天井に置かれていた②のヶースも十分あり得るのだ。 (WO106/5750) この報告書は事件の起きた翌年、一九二九(昭和四)年三月二十三日付で、駐日イギリス大使館付武官ヒル大佐から本国のチェンバレン外相宛に送られた極秘文書である。ヒル大佐が諜報部員だということはすでに触れた。 時間は事故からすでに九ヵ月過ぎており、十分な調査の結果の報告書だったと考えられる。 この三ヵ月前には、「張作霖の死に関するメモ」と題した中間報告の文書が本国外務省宛に送られていた。その内容はいっそう注目に値する。 調査で爆弾は張作霖の車両の上部または中に仕掛けられていたという結論に至った。ゆっくり作動する起爆装置、ないしは電気仕掛けで点火されたと推測される。 ソ連にこの犯罪の責任があり、犯行のために日本人エージェントを雇ったと思われる。決定的な判断に達することはできないにしても、現時点で入手できる証拠からみて、結局のところ日本人の共謀があったのは疑いのないところだ。 イギリス公文書館、一九二八年十二月十五日付外交文書) イギリス外交部は八年後の西安事件ごろになると対ソ戦略を宥和策に転換するような動きをみせるのだが、まだこの時点ではソ連を冷静に観察しようとしていたことがわかる。 時間が遡行するが、事件直後ならびに一、ニカ月後までの報告書を確認すると、さらに具体的な事実が判明する。 現場での直感や破壊された列車そのものの状態を見て作成された報告書ならではの臨場感が感じら昨る文書だ。在奉天総領事のB・G・ツアーズは、北京駐在公使サー・マイルズ・ランプソン宛に次のような電報を打っている。事件翌日の六月五日付である。 張作霖の特別列車は機関車二両と客車十八両を連結し、客車のうち三両(貴賓車〈プライペートカー〉、食堂車、寝台車)が張作霖の専用だった。 爆薬は食堂車の内部か上方で爆発して、食堂車を完全に破壊し、貴賓卓と寝台車を炎上させた。貴賓車と寝台車は落ちてきた陸橋の瓦礫によってひどく破損している。私見では鉄道の赤帽のふりをした共産党員が列車に爆弾を取り付けるか、置く機会はあったと思われる。 (F4127/7/10)同じくツアーズ奉天総領事からの、六月九日付報告書である。 奉天にいる多くの専門家(さまざまな外国人で、兵工廠の雇い人、殺傷兵器の専門家、有識者など)は、爆発が列車の上で起きたこと、すなわち日本の資産で、日本兵に警備された満鉄の架橋そのもので起きたという意見で一致した。そうした意見は、破壊された車両から得られた証拠や、破壊された欄干や橋脚から得た証拠に薬づいているものだ。 彼らはこれだけの損害を生むには、少なくとも百六十ポンド(引用者注・約七十ニキロ)が使用されたに違いないという。 (F4129/7/10) 前章で紹介した華字紙のデータでは二百ポント(約九十キロ)は必要、とあった。七十ニキロの爆薬というのは、関東軍「斎藤所見」で確認された数字にほぼ近い。六十キロから九十キロ、このあたりが専門家の一致した見解であろう。 以上から分かるように、破壊された車両からイギリスの諜報部員や外交官が判断したのは、爆破が間違いなく上方から起きたという事実であった。 現場写真(写真図)を確認すれば、屋根だけが見事に吹き飛んでいるようすがよく分かる。台座や車輪部分には損傷が見られないのが特徴だ。 奉天へ帰った楊宇寝は、何食わぬ顔で易幟に反対してみせ、学良とは距離があるかのように振る舞っていた。 常蔭槐は特別列車に先行する列車で奉天へ帰ったあと、事件後は黒竜江省主席の地位に就いた、 一九二九(昭和四)年一月十日夜、奉天まで彼らが祝い酒にやって来る機会を張学良はじっと待っていた。それまで学良は、眠れぬ夜を過ごしていたかもしれない。 あるいは楊宇言が秘密を握る立場を利用し、自分の配下を次々と要職に就けるよう要求するのに耐えられなかった側面もあろう。その場合、張作相が暗殺を後押しした可能性もある、とイギリス公文書「張作霖暗殺に関するメモ」の中で、C・J・デービッドソンは報告している(一九二九年三月十九日)。 張学良が親交の深かった楊宇逞と常蔭槐の二人を射殺しなければならなかった理由はもはや明らかである。 証拠を抹殺しなければ、学良の未来は約束されないからだ。 「ソ連にこの犯罪の責任があり、犯行のために日本人エージェントを雇った」と判断したイギリス諜報部の文書は(一九二八年十二月十五日付)、すべてのシナリオがグリーシカによって書かれたものだという説を補強するに十分足りる。 張学良は、二人が叛乱を企てたから粛正した、とNHKのインタビュー(『張学良の昭和史最後の証言』)で答えているが、叛乱の具体的証拠は見つかっていない。第三章 謎の解明「河本主謀説の絶対矛盾」p240~『GRU百科事典』 コルパキジとプロホロフ好共著『GRU帝国』(第一巻)によれば、「モスクワでは張作霖を処分すること、その際に日本軍に疑いが向けられるようにすることが決定された」「この作戦をサルヌインに知らせるために、エイチンゴンが指名された。指示された特殊任務は成功裡に終わった」という謀略が判明した。 加えて『マオ』がこうした内容を典拠にして、張作霖爆殺はスターリンの命に基づいて行われたものだとした事実は明らかになったが、決定的な第一次史料の発見にはまだ時間を待たねばならないのが実情でもある。 クレムリンから新史料が出ない限り、さらなる状況証拠の積み重ねが重要になってくるのだが、今回の史料発掘作業の中で私は新たな文献の発見に恵まれた。 それはモスクワの書店で見つけた『GRU百科事典』という大部の書で、著者名にはセーヅエルとコルパキジのふたりが並んでおり、さっそく主要部分を訳出してみた。 セーヴェエルには特殊部隊に関する著作が多数あるようだ。どのような経歴の持ち主なのか紹介はないが、GRUに関してこのような大著を著すほどの人物であれば諜報機関に携わった経験が過去にあって、現在はジャーナリストといったところではあるまいか。 その知識と彼なりの状況証拠を基にして組み立てられたのが以下のような記述である。 フリストフォル・サルヌイニの諜報機関におけるもっとも困難でリスクの高い作戦は、北京の事実上の支配者張作霖将軍を一九二八年に殺害したことである。 張作霖は一九二七年以降も明確に反ソ、親日政策を実行していた。ソ連官吏に対する絶え間ない挑発行為のため、東清鉄道の運営はおひやかされていた。 将軍の処分は日本軍に疑いがかかるように行われることが決定されたのである。 そのためにサルヌイニのもとにテロ作戦の偉大な専門家であるナウム・エイチンゴンが派遣された。 彼はまさに十二年後にレオンートロツキーの暗殺を指揮することになる。特殊任務は成功裡に終わった。 一九二八年六月四日、張作霖は北京-ハルビン(引用者注・正しくは奉天)間を行く特別列車で爆死した。そして張作霖殺害の罪は、当初の目論見どおり日本の特殊部隊に着せられた。 情報局内部ではリスクを回避すべくサルヌイニをモスクワにいったん呼び戻したが、それも短期間のことであった。 (『GRU百科事典』二二五頁) 内容的にはプロホロフの情報と大きな差異はないものと思われる。むしろセーヴェルの調査がプロホロフを補完した文献といえよう。 この「百科事典」は二〇〇八年にモスクワで刊行されたもので、最新の情報によって編纂された文献と考えていい。 それでも一連のコミンテルン(正確にはソ連軍諜報部)謀略説(張学良謀略説も含まれる)を最終的に確定するには、第一次史料に欠けるうらみは残る。今後のさらなる新史料発掘まで、最終結論は留保されなければならない。 だがたとえそうだとしても、河本大作首謀説、関東軍謀略説が昭和史の史実として確定していないことだけは明白である。以上、引用終わり興味・関心を抱かれたかたは是非一読を・・・
September 15, 2016
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つづきp120 クレムリンの極秘ファイルソ連の謀略一九九一年十二月に旧ソヴィエト連邦が崩壊するとともに、一時的ではあったが幾つかの重要な秘密文書が明らかになった。それに伴い、旧ソ連の諜報機関が実行したとされるさまざまな謀略も表面化した。 そのもっとも代表的な例が、二〇〇五年に出版された『MAO』(邦題『マオー誰も知らなかった毛沢東』上、下巻)という一書であろう。 ユンーチアン、ジョン・パリティ共著による『マオ』の出版は、諜報活動史料研究の重大性を知らしめる点でも大きな成果があったとみられている。 この中に書かれている内容のうち、張作霖事件に関連する文字数は極めて少ないのだが、少ながらぬインパクトを与えた。 「第十六章 西安事件」にある次のような記述が、読者の耳目を驚かせたことは記憶に新しい。 張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているがソ連情報機関の史料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという。 同書には未邦訳ながらダウンロードできる注釈があり、それによれば典拠は「(アレクサンドル・)コルパキジと、(ドミトリー・)プロホロフ共著による『GRU帝国』である」とされ、エイチンゴンとともに張作霖爆殺に「主要な役割を演じたのは、ゾルゲの前任者サルヌインだった」と説明されている。 ではその著者プロホロフとはどんな人物で、『GRU帝国』とはいかなる文献なのか。 さらに、登場する工作員はいったい事件とどう関わったのか、順次見ていきたい。旧ソヴィエト情報機関の実態が、少しずつではあるが浮かび上がってくる。 『マオ』発売以来、国内で急速に関心を集め始めたドミトリー・プロホロフを紹介したのは雑誌『正論』で、「『張作霖爆殺はソ連の謀略』と断言するこれだけの根拠」と題するインタビュー記事が掲載された。 プロホロフの略歴には一九六一年サンクトペテルブルグ(当時レニングラード)生まれ、ソ連崩壊後の一九八〇年代から特務機関をテーマに執筆を開始。現在は歴史家で、『GRU帝国』(共著)のほか、『スターリンからプーチンまでの諜報活動』など著作多数、と記されている。 アレクサンドル・コルパキジについては歴史ジャーナリストとだけ紹介されているが、おそらくコルパキジは同書においては執筆分担というよりはプロデューサーとしての役割を担ったものと思われる。 日本では前年の十一月に『マオ』が発売され、それを受けるかたちで論壇誌が事件に関わる特集を組んでいた。二〇〇六年三月号『諸君』、同四月号『正論』、同五月号『正論』、 同六月号『諸君』と立て続けである。いかに新情報のインパクトが強かったかがわかる。 プロホロフがインタビューに答えた。張作霖暗殺の真実”は、概略次のとおりである。 サルヌインは、一九二七年から上海で非合法工作員のとりまとめ役を務めていたが、満州において、諜報活動に当たる亡命ロシア人移民や中国人の間に多くの工作員を抱えていたことが決め手となった。そして、暗殺の疑惑が、日本に向けられるよう仕向けることが重要だった。 一九二八年六月四日夜(引用者注・正確には四日未明)、張作霖は、北京を出発して奉天に向かう特別列車の中にいた。列車が奉天郊外に差し掛かったとき、車両の下で大きな爆発が起き、その結果、張作霖は胸部に重傷を負い、数時間後に奉天市内の病院で息を引き取った。 一九九〇年代の初め、ソ連の機密度が高い公文書を閲覧できる立場にあった元特務機関幹部で、歴史家のドミトリー・ヴォルコゴノフ氏は、ロシアの新聞とのインタビューの中で、ロシア革命の指導者の一人、トロツキー(一八七九1一九四〇年)の死因を調べている際に、偶然、張作霖がソ連軍諜報局によって暗殺されたことを示す資料を見つけたのだという。 (トロツキーは)スターリンとの激しい権力闘争でメキシコに移住したが、スターリンの手先によって自宅書斎で暗殺された。その際に関与していたのが、張作霖の爆殺で暗躍したソ連特務機関要員のエイチンゴンだ。 (『正論』二〇〇六年四月号)プロホロフは「自らが行ったテロ行為を明らかにした特務機関はない。張作霖の暗殺につ いても、当局は、これまでもそうであったように最後までコメントせず黙殺することは間違いない」と言葉を慎重に選びながらも、「爆殺はソ連の特務機関が行ったのはほぼ間違いない」と断定した。 彼らが暗躍したGRUはソ連軍参謀本部情報総局の略称で、かつてはリヒャルト・ゾルゲもその管理下にいた巨大組織である。創設期にはレーニンやトロツキーの直轄下にあった。 名前は参謀本部だが、その主な任務は情報収集から謀略工作、暗殺実行に至るまで幅広く、コミンテルンを通じて網の目のような地下組織を統轄している。 その意味から本書ではコミンテルンを狭義な意味に限定することなく、GRUを包括する存在として述べることとしたい。暗殺指令 フリストフォル・サルヌイン一八八五年八月にラトビアの首都リガで生まれている。革命後の内戦終了後、彼はモスクワを中心にGRUの前身組織である労農赤軍諜報局で勤務していた。 そのサルヌインの姿が消えたのは、張作霖爆殺の五年前だった。彼は軍のイリーガル(非合法地下組織員)になっていた。 極東ロシアを基点としながら上海やハルビンへも飛んだサルヌインは、数万人規模ともいわれていた反革命軍組織の情報をまとめるOGPU(統合国家政治局)の責任者となった。 旧ソヴィエト時代の秘密警察機構は時代によって、チェイカー、GPU、OGPU、NKVD、KGBと名称こそ変遷したが、やっていることの内実に変わりはない。 その当時、ソ連政府は張作霖との間で鉄道条約を結んでいたが、両者の間で激しい抗争が進むにつれて破局が訪れた。 反共産主義を前面に押し出す張作霖側は、ロシアが建設した中東鉄道(旧来清鉄道)を威嚇射撃したり、鉄道関係者を逮捕したりしたため、遂にOGPUは張作霖の暗殺計画を実行に移す決定を下した。 その指令は極東における破壊工作の実力者といわれていたサルヌインに降り、サルヌインは実行計画を立案する。 計画は、奉天にある張作霖の宮殿に地雷を設置し、爆殺するというものだった。一九二六(大正十五)年九月末日予定されていた音楽会の際ヽ音楽家に紛れ込んだサルヌインの工作員が時限爆弾を仕掛けるという計画だ。地下組織の者が巧みに鉄道員や郵便配達夫に変装することは珍しくない。 爆発物の運搬は、サルヌインの部下レオニード・ブルラコフが担当したが、国境に近い東清鉄道の終着駅ボグラニチナヤ(中国名・緩芥河)で爆発物を発見され、工作員のメドページェフともども逮捕された。第一次暗殺計画はこうして挫折した。 ブルラコフは一八九七年サラトフ州で生まれ、一九二四年以来ハルビンの地下工作員を経て、一九二六年夏サルヌインの配下に入ったとされるエージェントである。 ほとぼりが冷めたころサルヌインはあらためて上海に派遣され、グリーシカという暗号名を使い非合法活動に専念する。これが一般的に「グリーシカ機関」と呼ばれるものだ。 それは一九二七年の年末近くであった。蒋介石が同年四月に反共クーデターを上海で起こして南京政府を樹立、中ソ関係が悪化した時期に重なる。 サルヌインの次の任務は、地下組織を上海に立ち上げることだった。 このとき、サルヌインの補佐役として働いていたのが、イワン・ヴィナロフという工作員で、翌年の張作霖事件に一枚かんでいたとされている人物だ。 ヴィナロフはブルガリア人で、ロシア人の妻レベジェワがメッセンジャーとして働いていた。 サルヌインの組織が地下活勣をしていたところへ、再度、張作霖暗殺に関するモスクワからの指令をエイチンゴンが伝えた。一度張作霖暗殺に失敗した男に、再度、重要な使命を託したのである。 ナウム・エイチンゴン(一八九九-一九ハコはソヴィエト体制におけるもっとも重要な諜報員の一人であった。 一九二六年から在上海ソ連副領事を兼務しながら北京をカバーし、一九二七年からはハルビンも指揮下においている。 すなわち当時のエイチンゴンは中国・満州を一手に支配下においていた上級諜報員で、のちにスターリンの命によりトロツキー暗殺(一九四〇年八月)の指揮を執った。最終階級は国家保安少将である。エイチンゴンの経歴は『ナウム・エイチンゴンーーースターリン警備の盾』(二〇〇三年、未訳)による。 二度目の暗殺指令は、エイチンゴンが一九二三年にOGPU(統合国家政治保安部、のちにNKVD‥内務人民委員部として統一される)という上級特務機関に抜擢されたあとのことであり、ハルビンでイリーガルの総指揮を任された一九二八年初頭と思われる。暗殺の最終的な動機としては、一九二七年四月六日、張作霖の指示によって行われた北京のソ連大使館捜索と関係者の大量逮捕が挙げられている。その際、武器及び共産党の宣伝物などが多数押収されている。 この時期エイチンゴンは、サルヌインのほかにヴィナロフとも密会していたことが判明している。ウラジオストクから対馬海峡をぬって上海への航路が頻繁に通じていた。 組織は別々であったほうが都合はよかった。スターリンだけがすべてを承知しながら机上の電話から指令を発していたのだ。 端的にいえば、エイチンゴンは政治的地下組織、サルヌインは暴力装置としての地下組織を支配していた。 ついでながら、ゾルゲ事件の中心人物、尾崎秀実が大阪朝日新聞上海支局に異動するのは一九二七(昭和二)年十一月のことである。尾崎はコミンテルンや毛沢東と密接に連絡をとりあっていたアメリカ人ジャーナリスト、アグネス・スメドレーと上海で親密な交際をするようになり、やがて彼女からゾルゲを紹介される。 揚子江流域に広がったこの港湾都市は、中国の商工業の中心地であるとともにさまざまな情報活動の集積地でもあった。 一九一七(大正六)年のロシア革命以後、およそ二万五千人からの白系ロシア人が職人、商人、ダンスホールやレストランの経営者として働いていた。中国人に混じって日本人、アメリカ人、イギリス人、フランス人などが利権をめぐってめまぐるしく覇を競っていた時代でもある。 すべての列強諸国を相手に情報を取り、諜報活動を行うのがサルヌインやヴィナロフの使命だったが、今回は「日本をトラップに掛けろ」という謀略指令たった。 エイチンゴンやサルヌインらの諜報部員の活動が目立って活発化した背景には、レーニンが死を迎え(一九二四年一月)、代わってスターリンがすべての権力を掌握するという大きな変動があった。 スターリンは秘密警察と諜報機関の持つ権力を大幅に増大させ、コミンテルンを活用しながら主要国に諜報の網を張り巡らせる作戦に自信を深めていた。 スターリンがその成果を誇示する第一弾として張作霖爆殺第二次計画があった、ということになろうか。まだ混乱を続ける新体制を維持するための、国内向けプロパガンダ、という側面も見逃せない。もう一人、プロホロフが重要参考文献の著者として名を挙げたドミトリー・ヴォルコゴーノフは、一九二八年生まれのロシア人歴史家だが、博士号を持つ陸軍大将でもある。 邦訳されているだけでも、『勝利と悲劇 スターリンの政治的肖像』『トロツキー その政治的肖像』『七人の首領 レーニンからゴルバチョフまで』などの著作がある。 ‐ 旧ソヴィエト連邦解体直後の一時的な情報公開時に、彼がかつての機密資料を入手できる立場にいたことは十分うなずける。 そうした資料をもとに『GRU帝国』をまとめたのだとプロホロフは語っていたが、一方で、「実は、張作霖の件は『GRU帝国』には書いていないのです。(中略)二〇〇四年に出版した『KGBソヴィエト諜報部の特殊作戦』という本の中で、張作霖を殺しだのは誰かという一節を書いたのです」(アパグループ「アップルタウン」歴史作家ドミトリー・プロホロフXAPAグループ代表元谷外志雄特別対談、二〇〇九年十二月号)とも語っており、このままでは情報に差異が残る。 元谷外志雄氏は続いて中西輝政氏(京都大学大学院教授)と対談しており、プロホロフの発言を補足するかたちで次のように述べている。 私との対談でプロホロフ氏が「歴史家ドミトリー・ヅオルコゴノフ(特殊機関時代のプロホロフの上司)の資料の中で、ナウム・エイチンゴンという諜報員が張作霖事件に関係あったという記述を見つけたのが私の研究の出発点です」と述べたことは真実です。 (前掲書、二〇一〇年一月号) いずれにせよ実証として、ロシア語文献の原著に当たって確認する以外にははっきりしない。 『KGBソヴィエト諜報部の特殊作戦』(未訳)というプロホロフ(アレキサンドル・コルパキジとの共著)の著作をまず探したが、古書店でもロシアのオンライン書店「オゾン」でも発売されておらず、こちらはまだ未読である。 『GRU帝国』 プロホロフの主著と思われる『GRU帝国(第一巻)』(『ロシア語書名 GRU 』コルパキジ、プロホロフ共著、二〇〇〇年)は、モスクワの古書店で入手できた。 同書を幡くと、九四頁から九七頁にかけて次のような記述がある。やや長くなるが要点に (以下 中略)つづく
September 7, 2016
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謎解き「張作霖爆殺事件」(加藤康男著、2011)[1928(昭和3年)の事件] を読み衝撃を受ける。 日本の中国侵略の方向付けに、決定的な出来事となった事件。島国日本の義務教育教科書また学者の歴史通説としても、関東軍高級参謀河本大作が謀った事件として、常識となっていると感じます。 日本人がかって入手し得なかった、旧ソ連・英外務省他の機密文書(爆発直後の写真を含む)という重要なる状況証拠を入手し、今までの日本人が考えも及ばなかった事件の真相に迫る、極めて重大なる書です。。(福井義高著「日本人が知らない最先端の世界史」より・・・この書もお勧め) 何故重大かと言えば、この事件により、時の田中義一首相が昭和天皇により、責任を迫られ辞任、その後の日本はこの時から日中戦争という泥沼に引きづり込まれ、1931年9月18日 柳条湖事件(関東軍が奉天の満鉄線路爆破→張学良軍と主張→奉天占領→満州事変)、1932年3月1日 満州国政府「建国宣言」、1933年2月24日国際連盟脱退、1940年9月27日三国軍事同盟(日独伊)締結、1941年12月8日真珠湾攻撃、という破滅の入口へと誘われていくことになる発端となるのであるから・・・。 極東軍事裁判が戦犯対象としたのは、実にこの1928年6月4日の「張作霖爆殺事件」から1945年8月15日までの期間であるわけです。 英の生んだ名探偵シャーロック・ホームズ氏・・・残された些細に見える物証と状況証拠を広範な知識を駆使した推理によって、犯人を突き止めていく、という名探偵(MI6を生んだ英にこそ生まれえたホームズ氏)に共鳴の念を抱かれる方には是非お勧めの、重要なる歴史書き換えを迫る書です。この書のsummaryを掲載しますので、心惹かれた方は是非ご一読を・・・以下引用、まえがき 昭和三(一九二八)年六月三日深夜、北京・正陽門束駅のプラットホームに二十両連結の特別列車がすべり込んだ。 重連の大型蒸気機関車に続いて十七両の客車と貨車一両という編成である。二両目の機関車が真っ黒な鋼鉄版で覆われているのがひときわ人目を惹いていた。 ホームに立つ痩身の男は張作霖、中華民国陸海軍大元帥である。 奉天(遼寧)、吉林、黒竜江にわたる東三省全域(満州)を支配して中央へ進出、北京政府の大元帥を自ら宣言した男がいま故郷の奉天(現瀋陽)へ引き上げる瞬間だ。二年前の昭和元(一九二六)年七月、国民革命軍(南方派)総司令蒋介石によって広東を基点に北伐が開始された。 北伐軍は長江(揚子江)一帯に進出、南方各省を支配下に収めた。こうした蒋介石の動きに対して、張作霖は北方軍閥の連合軍ともいえる安国軍を組織して争ったが、北伐軍の進撃を食い止めることはできなかった。 張作霖が完全に敗北して満州に国民政府の影響力が及ぶのを警戒した日本政府は、この日までさまざまな手段によって張作霖の満州帰還を促してきた。ソ連に対する防波堤が破壊されるのを恐れたからである。 敗色濃厚となった張作霖は、ここにきてようやく北京を明け渡す覚悟を決めた。今日まで熾烈な軍閥闘争のいきさつがあるが、それについては他の先行研究書に譲って、本書では割愛したい。 鼠色の大元帥の通常礼装に身を包んだ張作霖の横顔には、憂いに満ちた影が射していた。 それにしても、およそ三十時間後に彼が爆死するとは、この場にいる誰が予測していたであろう。軍楽隊が奏でる荘重な曲に送られながらタラップに立った大元帥は、見送りの長男張学良はじめ楊宇霞、孫伝芳ら武将、高官、内外要人らとの別れを惜しみつつ貴賓車の中へ消えた。日本側からも北京駐在公使芳沢謙吉、坂西利八郎中将、北京公使館付武官建川美次少将(のち中将、駐ソ大使)らが、小柄な男の背中を見送っていた。 それより前、大元帥府の正門から四台の乗用車が密かに出立した。 黄色に塗られた鋼鉄製の専用車の横には、夜目にも「張」の文字がくっきりと浮かんで見える。右手車窓からは機関銃の銃座がものものしく突き出て、鈍色に光っている。この夜は満月であった。 黄色は清朝皇帝のみが使用を許されていた特別な色調だ。張作霖があえて禁色ともいえる黄色を使用していたのは、大陸覇権への強い意志の表れからと思えた。 すでに北京停車場からはこの夜、奉天軍の兵士を満載した列車が次々と発車していた。さらに、家具・家財類を積んだ列車、鉄道の保線材料と自動車八台を積んだ列車などがおよそ十五分おきに続く。 張作霖の第五夫人が乗り込んだ特別仕様の列車が発車したのが三日午前零時四十五分だった。いずれもが十八両から二十両ほどの編成で、傍目には張作霖がどの列車に乗車しているの か判明しかねるようにダイヤが組まれていた。 満州の軍閥頭領が暗殺を怖れて列車編成を目まぐるしく変化させるのは常套手段だった。 張作霖の乗用車が低いプラットホームに横付けされたのは午前零時十三分である。車は大元帥専用車両となる貴賓車のタラップ前でぴたりと止まった。 特別仕様の目立つ専用車両を使うのは再三躊躇された。編成責任者は何度目かの指示変更の末、二日夜になってこの貴賓車を連結するとの通達を受けた。そして、先行する各囮列車にも似たような貴賓車を必ず連結しておくようにとの通達が入った。 車室の前後には、着剣した哨兵がいかめしく警護に就いている。 大元帥が乗車したのを見届けると、国務総理瀋復、陸軍総長張景恵、山東省督軍張宗昌以下各閣僚や幕僚が乗車し、さらに下女を従えた第六夫人が続いた。 そのとき奇妙な光景に映るかもしれないが、二人の日本軍人が車内に消えた。 張作霖の軍事顧問町野武馬(予備役大佐)と関乗軍参謀として張作霖の軍事顧問を務める儀我誠也少佐(最終階級少将)である。 さらに警戒厳重な中、見送り人に紛れて二人の日本人が目を光らせていた。一 一人は後に東京裁判(極東国際軍事裁判)の法廷で、事件の首謀者は河本大作だと証言した北京公使館付武官補田中隆吉大尉(最終階級陸軍省兵務局長陸軍少将。戦後『太平洋戦争の敗因を衝く』を出版。)で、もう一人はハルビン駐在の関東軍参謀竹下義晴少佐である 竹下は数日前に満州から密かに北京入りし、支那服に変装して様子をうかがっていた。 奉天への帰還準備がすべて整った。 その夜の模様を「東京朝日新聞」はやや感傷的なペンで次のように報じている。支那統一の夢破れて 去り行く敗残の王者 北京脱出の張作霖氏支那統一の大望の夢も見果てぬうちに、こゝに敗残の身を包んで今北京を去らうとす る彼を眼のあたりに見ては、たれか感慨無き者があらう。・・・かくて列車は午前一時十五分といふに滅いるやうな汽笛の余ゐんを残して静かに発車した。(昭和三年六月四日付) つづく
September 4, 2016
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