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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク圓明寺を後にし、御朱印を頂ける時間の17時までに間に合いそうなので四国88箇所霊場 第52番札所 太山寺(たいさんじ)に向かう。太山寺は、愛媛県松山市にある真言宗智山派の寺院。瀧雲山(りゅううんざん)、護持院(ごじいん)と号す。本尊は十一面観世音菩薩。仁王門の脇を車で通過。本堂と同じく鎌倉時代の再建。仁王門前の石段の下には、伊予鉄道三津駅からのバスが来る停留所があった。 3間8脚門、入母屋造り本瓦葺き。国重要文化財。太山寺の草創については、以下のような「一夜建立の御堂」伝説が伝えられている。飛鳥時代の用明2年(586年)、豊後国臼杵の真野の長者という者が難波に船で向かう途中、高浜の沖で大嵐に遭遇した。長者が平素から信仰する観音に念じると山頂から光が差し嵐が静まり無事着岸した。その光の差した頂上に行ってみると一寸八分の十一面観音を祀った小さな草堂(現在の奥の院)があった。長者は感謝し一宇建立の大願を起する。早速、豊後に引き返し工匠を集め木組みを整え、1日で高浜の港に着き夜を徹して、一夜にして建立したと。中門近くに車を停め、納経所に向かう。途中、塀の上には布袋様?が迎えてくれた。 中門を潜ると新築の方丈・庫裏が目の前に。 客殿か。 枯山水の庭。 第52番札所 太山寺を描いた切り絵。文化庁が4月24日に初認定した「日本遺産」に「四国遍路」が選ばれたと言う新聞記事。 四国の産学官は2020年までの世界遺産登録に向けて16年度の暫定リスト入りを目指し、さまざまな取り組みを始めていると。御朱印をいただく。そして再び中門を潜り車に戻ったのであったが・・・・。 実は国宝の本堂や大師堂等ここ太山寺の主要建築物は上の写真の突き当たりを右に曲がって進むのであった。「本堂」。「聖徳太子堂」。「鐘楼」。やはり予習不足を実感したのであった。この太山寺は何時の日か、もう一度ゆっくり訪ねなければなるまいと感じているのである。
2015.09.30
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンクこの日は、早朝からホテルの奥道後温泉を楽しむ。屋上に設けられた露天風呂を独り占め。 朝焼けが露天風呂に映る。 そして我が部屋からの日の出。 この日の最初の訪問地は圓明寺(えんみょうじ)。圓明寺は、愛媛県松山市にある真言宗智山派の寺。須賀山(すがざん)、正智院(しょうちいん)と号す。本尊は阿弥陀如来。四国八十八箇所霊場の第五十三番札所。近年は円明寺と表記されることが多いとのこと。山門(仁王門)。本瓦葺の八脚門(やつあしもん)であり、室町時代作といわれ頭貫(かしらぬき)先端の木鼻の彫刻文様や造りにはその特長があるとのこと。天平勝宝元年(749年)聖武天皇の勅願を受けて行基菩薩が、本尊阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像・勢至菩薩像を刻んで開基。創建時は和気海浜坂浪西山にあり七堂伽藍を備えた大寺。後に弘法大師がこの地を巡錫した際、荒廃した諸堂を整備し四国第53番霊場に。しかし鎌倉時代に幾度か兵火により荒廃、元和年間(1615〜24)に須賀専斉重久がその私財をもって現在地に再興。須賀専斉重久の名前をとり、須賀山 圓明寺と称したと。境内には、手水舎、鐘楼・門珠堂・閻魔堂・宮殿・観音堂・弁財天・納経所が整然と。仁王門をくぐって右手に 弁天堂とその右に巨大石灯籠 本堂。本堂右上・鴨居にある5mほどの彫り物「左甚五郎作の龍」は、行ないの悪い人が見ると目が光ると言われているが、幸い私には光らなかった。そして本尊阿弥陀三尊仏像の両脇に侍立する観音・勢至の両菩薩像は鎌倉時代の作で、県指定有形文化財。太子堂。 中門。 閻魔堂の前に水子子育て地蔵堂。 弘法大師像。鐘楼。圓明寺は、寛永年間のキリシタン灯籠があることでも知られているのだと。大師堂左の塀際にあり高さ約40cm、聖母マリア像を浮き彫りにしていた。愛媛県内に「キリシタン碑」らしい存在は多く確認されており、隠れキリシタンがいたことは事実とのこと。 納経所の前の碑。『朱印帳 ひらく 蝋梅 匂いけり 喜和子』 納経所への案内。 新築の庫裏 納経所。 御朱印をいただきました。再び太子堂。
2015.09.29
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク45番札所の岩屋寺から車で20分ほどで四国88箇所霊場 第44番札所 大寶寺(だいほうじ)に到着。御朱印締め切り時間の17時には何とか間に合う。 大寶寺はちょうど88ヶ所の半分にあたり、中札所と言われていると。こちらの寺も縁起が非常に古く、大和朝廷時代に百済から来朝した僧侶が、携えてきた十一面観音像を、山中に安置したと。飛鳥時代になり、広島からやってきたという、明神右京&隼人という兄弟の猟師がこの像を発見し、庵を建てて祀ったところ、その話を聞きつけた文武天皇の勅命により、寺院が建立され、当時の元号にちなんで、大寶寺(大宝寺と書くことも)と名付けられたのだ。手水舎。四方転び(柱が中心に向かってそれぞれ傾斜する)が用いられ、四方吹き放しとなっており、その中に水盤が据え付けられていた。第44番札所 菅生山(すごうさん) 大寶寺(だいほうじ)。四国八十八箇所のなかで唯一年号を寺名としている寺とのこと。まずはお参り。本堂への階段を登る。本堂。 鐘楼の手前には赤いよだれかけをした地蔵様が並んでいた。地蔵様は「地蔵菩薩」といって、子供を守ってくれる仏様。よだれかけは、子供の使っていたものをお地蔵様につける事によって、子供の匂いを覚えてもらい守ってもらうということをしていたのだと。赤は赤子(赤ちゃん)の赤という説や、赤色には魔除けの意味があるという説や、長生きを願ったという説も。 鐘楼。総檜造りの大師堂。 太師像。 本尊 十一面観世音菩薩と刻まれていた。 御朱印。 階段を下り山門へ。山門には2対の金剛力士像が。左右に巨細な草鞋が。帰路の林道には夕日が美しく射し込んでいた。 道後温泉近くのホテルに向かう。遠くに松山城の姿が見えた。 愛媛県庁舎を本館を車の中からシャッターを押す。ドームの屋根が印象的な建物。 松山市内を走る路面電車。松山の地で市内電車と郊外電車を運営しているのは伊予鉄道。設立されてから120年の歴史がある私鉄。様々な種類の電車が歴史を感じさせた。 この夜は何故か二人でホテルの近くの広島焼きを楽しむ。
2015.09.28
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク湯築城から 国道33号、県道12号を久万高原方面へ車で38km、旅友の運転で突っ走り岩屋寺(いわやじ)駐車場に到着。岩屋寺は、愛媛県上浮穴郡久万高原町にある真言宗豊山派の寺院。山号は海岸山(かいがんざん)。本尊は不動明王。四国八十八箇所霊場の第45番札所。今回の旅行では、出発前には四国八十八箇所霊場の第1番札所と88番札所のみ訪ねるはずであったが、段々欲が出てそして時間も出来たのでその中間札所のこの45番札所・岩屋寺を訪ねたのであった。車を降り坂道を慌ただしく登る。岩屋寺への上り口には数軒の店が並び、「まだヽヽこれからじゃ 岩屋の坂と人生は」の看板が。この後のタフな長い急坂そして階段が予想できたのであったが。標高700m。奇峰が天を突き、巨岩の中腹に埋め込まれるように堂宇がたたずむ典型的な山岳霊場である岩屋寺。寺伝によれば、弘仁6年(815年)霊地を探して山に入った空海(弘法大師)は、山中で神通力を備えた法華仙人という女性と出会う。仙人は空海に帰依して山を献上した。空海は不動明王の木像と石像を刻み、木像は堂宇を建立して本尊として安置、石像は奥の院の岩窟に祀って秘仏とし、岩山全体を本尊とした。坂道の両側に立つ石柱の上に 小さな仁王像が立っていた。石柱には 「如実知自心(実の如く自心を知る)」。本当の自分の姿をそして自分自身の仏の姿を知りなさいという教えの言葉。「方便爲究竟(方便を究竟となす)」と書かれていた。具体的な実践をすることが人間の果たすべき最高の行いであるとの意。更に苔むした急な階段をぜいぜいしながら先を急ぐ。 そして漸く山門に到着。 昭和9年の再建。空海の詠んだ歌にちなんだ「海岸山」の額が掲げられていた。山号の「海岸山」は空海の作とされる「山高き 谷の朝霧 海に似て 松吹く風を 波にたとえむ」の歌によるとの説明。 さらに坂道を進むと 右手に大師像が。岩の上に小さく不動明王が。参道に架かる紅い欄干の極楽橋。 弘法大師に見守られているたくさんの石仏が並んでいた。さらに坂道を上り曲がり角には虚空蔵堂が。 虚空蔵堂からさらに上る参道右手には、観音様や地蔵様に見守られて整然と並らんだ無数の石仏群が。息切れの中、「南無大聖不動明王」の上り幟、石仏群に癒されながら 奇岩が覆いかぶさるような庫裏、納経所が見えてきた。本堂への石段の左手に水子地蔵尊が。 何はともあれ納経所で御朱印を頂く。 四国88箇所霊場 第45番札所 岩屋寺 御朱印。本堂。御本尊は不動明王。昭和2年の再建と。本堂に向かって 右手のこの梯子を登ると 法華仙人の行場跡の洞窟があり10帖程の広さがあるとのこと。疲労困憊で登る気力無し。境内にある太子堂は補修中。 重文指定されている大師堂の特色ある向拝柱の上部。柱には薔薇?が刻まれていた。鐘楼。 庫裏、納経所。 そして帰路へ、今度はひたすら階段そして坂道を下る。再び石仏群に見送られる。坂道の脇にはシュウカイドウの可憐なピンクの花が、疲れた体を癒してくれた。
2015.09.27
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パーキングに戻り、車で次の目的地の湯築城跡に向かう。この旅行で利用したレンタカー。 頑張ってくれました。途中、『坊ちゃん列車』 とすれ違う。坊ちゃん列車は、道後温泉を起点に市内を走りながら観光客の目を楽しませている路面電車。かつて夏目漱石の小説「坊ちゃん」で主人公が使用していた列車のモデルが、松山市内を走る蒸気機関車。時代を経てこの列車は一度姿を消したが、市民の希望から復活。蒸気機関車の形はしているが、実際にはディーゼルエンジンで走っているのだと。そして10分ほどで湯築城址に到着。湯築城跡案内図(現地案内板より)。堀が二重になっていることが解る。この城址を訪ねるのは2回目。この湯築城跡は松山市の中心部にあり道後温泉すぐ近くで現在は道後公園となっている。中央の丘の周囲に二重の堀と土塁をめぐらせた平山城。外堀を含めて南北約350m、東西300mで中央の丘陵部が比高30m。丘陵部に本拠を構え守りを固めていたと思われるが、詳細は不明とのこと。国史跡でよく整備されており、内堀、外堀に加え土塁そして武家屋敷が外観復元されていてなかなか見ごたえがあるのであった。旗の上部には河野氏の家紋『折敷に三文字』が。湯築城は、伊予国守護・河野氏の居城。鎌倉幕府の有力御家人だった河野氏は、南北朝期にここに城を建て居城とした。近隣の有力大名である大内氏・大友氏・毛利氏などと同盟を結び伊予支配を維持していたが、1585年の秀吉の四国攻めで小早川隆景に包囲され、河野軍は降伏・開城。その後、福島正則が湯築城に入るもすぐに国府城へと移り、湯築城は廃城となったとのこと。 城址の中に入った旅友の話によると、鎌倉時代に時宗を興した一遍上人は、河野氏の一族であるとのこと。 私の住む藤沢市には遊行寺の俗称でしられている藤沢山無量光院清浄光寺があるのです。この寺は浄土念仏門の一流である時宗総本山。一遍上人がこの河野氏からの出であるとは驚き。城址入り口。道後公園としては松山城側が正面にあたるのですが、昔は、こちら側は搦手(裏口)にあたる場所になると。搦手から山上の城に直接登られないように、(写真からは見えませんが)内堀が。左右には土塁が続いていた。 国史跡 湯築城跡。資料館。資料館では発掘資料の概要、出土遺物や河野氏の歴史などの映像も見せてもらえるのだ。歴史館の奥には武家屋敷を当時の技術で再現されている。 旅友は、ここで四国6番目の日本百名城スタンプをGETしたのであった。
2015.09.26
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松山城へのロープウェイ乗り場近くのパーキングに車を停め松山城に向かう。 松山城は、海抜132mの山頂に本丸を置き、中腹に二之丸・山麓に三之丸を置く広大な規模を持つ、姫路城・和歌山城と並ぶ典型的な連立式平山城。 ロープウェイ乗り場に着くと可愛らしいマスコットキャラクターが迎えてくれた。松山城築城400年祭を盛大に祝福すべく誕生した、松山城のマスコットキャラクター。 名前の「よしあきくん」は松山城の初代城主 加藤嘉明(よしあき)にちなんで名付けられた。リフトに乗り松山城へ。乗っている時間はほんのちょっとですが、松山城まで歩いて登るのは覚悟が必要。登りはロープウェイかリフトを使うことをオススメします。 晴れていて気持ちが良いが、かなり地面からの高さがあった。松山城案内地図を2分割。1595年加藤嘉明が6万石にて入封。その後20万石に加増され、松山城を築城。しかし、完成直前の1627年に会津へと移封となり、蒲生氏が入る。蒲生氏のあとは、松平(久松)定行が15万石で入封し、明治まで至る。リフトを降り松山城本丸に歩を進める。石垣の上には巽櫓が。 見事な高さと曲線美の石垣。 大手門跡。 大手門は尾谷二ノ門、待合御門、待合一ノ門などとも称されていた。慶長の築城時に建てられ、本丸大手の入り口をかためる重要な拠点であったが、明治時代にその東の揚木戸門とともに取り壊された。太鼓櫓。二重の櫓で、1971(昭和46)年の復元。戸無門。この門は、本丸の大手入口の最初に現存する高麗門。登城道U字屈折の終点に位置に。昔から門扉がないので戸無門と呼ばれ、鏡柱にも扉を取り付けた痕跡が無いのだと。重要な門なのに扉が無いとは…不思議。手前は小天守の石垣、そしてその先に南隅櫓。 筒井門。 元は慶長年間(1596~1615年)に伊予松前城から移築された櫓門で松山城最大の門。三之丸・二之丸から本丸へ向かう、大手(正面)の固めを構成する重要な櫓門で、城中で最も重要かつ堅固な所。1949(昭和24)年に放火によって焼失し、1971(昭和46)年に復元。隠門。 この門は筒井門の奥の石垣の陰に隠された、埋門(うずみもん)形式の櫓門で、戸無門から筒井門に迫る敵の背後を急襲する構えとなっていると。確かに表から見ると隠れて見えない。太鼓門は、本丸大手の正門に位置づけられていた。扉には脇戸がついていて、扉を覆うようにしてある太鼓櫓や、登り方向で太鼓門の手前右手石垣の上にある巽櫓とともに、頑丈な防衛線を構築。昭和10年には国宝にまで指定されたが、昭和20年(1945)7月に戦争でこれらの建造物は全部焼失。現在ある太鼓門は、昭和47年(1972)に再構築されたもので、太鼓門は欅(けやき)櫓は栂(つが)で復元されていると。そして本丸に入ると井戸が。南北2つの峰を埋め立てて本丸の敷地を作った際、谷底にあった泉を井戸として残したと。井戸の直径2m深さ44.2mで当時の技術では、通常、掘ることができない深さと。本丸へ到着。現存天守が見えてきた。三重三階地下一階の大天守と二重二階の小天守。 馬具櫓。鉄筋コンクリート製で、スピーカも付いておりちょっと浮いていました。松山城唯一の鉄筋コンクリート製の復元櫓。戦災で焼失するまでは国宝だったと。 松山城は、完成まで日本築城史上、最長の歳月(四半世紀)を要したのだと。 本丸は長細い形をしており太鼓門から見て奥に天主群が。天主群が立っている石垣の上を本壇と呼ぶと。写真右から天守閣、中央の二階櫓が小天主、木に隠れていますが、左の二階櫓が南隅櫓が。小天主と南隅櫓以外は全て重要文化財。松山城の建物の多くは屋根が直線で造られていることが特徴とのこと。伊予松山城天守。天守の造りが日本3大連立式天守の一つで、城郭も姫路城・和歌山城と共に日本3大平山城の一つ。標高132mの勝山山頂に本丸を、山麓に二之丸を、平坦部に三之丸を構えている四国最大の城。紫竹門 乾櫓 野原櫓と書かれた案内板。 二ノ門南櫓の石垣南面の積み石にはかなりの隙間が出来ていた。これを梯子に載り点検する職人さん。 左に小天守、右に一の門南櫓。 二ノ門南櫓。 チケット売り場。旅友はここで日本百名城スタンプをGET。 天守入り口。松山城を訪ねるのは3回目であったがこの日は天守には入らず。何故か旅友も私以上にこの城を訪ねていたが、天守に入ったことはないとのこと。この日も日本百名城スタンプのみ。 屋根の上の鯱。 見事に手入れされた松の老木。 下城もリフトを利用。 リフトから松山の街並みの光景を楽しむ。 横を走るロープウェイには乗客は少なかった。土産物屋に陳列されたちゅうちゅうゼリー。ご当地の人気スイーツとのこと。はるみ・甘夏・伊予柑などたくさんの柑橘系を材料としたゼリー。キャップを開けてちゅうちゅうと食べられます。妻へのお土産に購入し送る。ロープウェイ乗り場を振り返る。
2015.09.25
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56号線・大洲街道を走り、内子の街へ。内子町立内子中学校入り口道路横に車を停め散策開始。車を降り振り返ると正面に、上芳我家住宅主屋( かみはがけじゅうたく しゅおく )が現れた。芳我家は内子木蝋(もくろう)生産の基礎を築き、その発展の中心となった家で、本家を「本芳我」、街道筋上手にある分家を「上芳我」と呼びならわしていると。木蝋とはハゼノキの果皮から圧搾によって得る油脂。内子町の町並み保存の目的は、そこにあるものを生かすまちづくりにあるのだと。都会を目指すのではなく、歴史・風土に培われてきた伝統や文化に価値を見出し、街に誇りを持って人々が暮らすまちづくりを目指していると。 壁はこの地方でよく見られる、浅黄色の漆喰で塗られていた。 虫籠窓(むしこまど)は、伝統的な民家の壁にみられる明り窓で、漆喰で塗った連子を入れてあり、虫籠のように見えるためこの名が付いた。 古い街並みを二人占め。 八日市・護国の町並みの特徴は、浅黄色と白漆喰で塗りごめられた重厚な外壁を持つ、棟を街路と平行に通した平入造りで、街路に面した壁面が通っている。町並みには隣家との間に道路や水路を配した路地空間があり、他所では見られない独特の造形美を醸し出していた。 歴史ある家の前には、樹木が炭になり束ねられていたが、その上に竹細工のトノサマバッタ?が2匹。 本芳我家住宅土蔵 ( ほんはがけじゅうたく どぞう )。明治22年(1889)に建てられた豪商本芳我家の屋敷。本芳我家は、江戸後期から木蝋生産を始めたとされ、明治期には「旭鶴」の商標で海外にも製品を輸出するほど隆盛を極めた。上芳我家を筆頭に分家や分家の分家が相次ぎ、下芳我家や中芳我家などと呼ばれる分家が13家できたのだと。本芳我家は街道の西に面して主屋と土蔵が建ち、主屋の背後に炊事場、北に庭園がとられている。主屋と土蔵の道路に面する部分は漆喰彫刻などを用いて凝った意匠が。 土蔵壁はこの地方でよく見られる、浅黄色の漆喰で塗られていた。 主屋の懸魚(けぎょ)。懸魚とは屋根の破風 (はふ) の中央および左右に下げて、棟木や桁 の先端を隠す装飾板。鏝絵(こてえ)は漆喰による浮彫。土蔵造りや大壁造りの装飾用として外壁にしばしば行われているとのこと。 鶴の鏝絵。亀の鏝絵。 土産物屋 民芸 つちのこ。 中央は旧町章。その周りを4分割し町の花サツキを配し、周りには「エコロジータウンうちこ」と「おすい」の文字が。2階の城壁と1階の木製格子窓が美しかった。内子は、木蝋で栄えた街。木蝋は、びんつけ、膏薬などの医薬品、化粧品など用途が広いのだが、もともとの目的の中心は蝋燭。その伝統の和ろうそくを今に伝えるのが、大森和ろうそく屋。美しい絵柄の絵ろうそくが陳列されていた。 八日市地区から坂町地区の境にある枡形。 坂町地区への入り口に『旧街道 へんろみちこんぴら街道』 の文字が。坂町地区の街並み。 大量のとうもろこしが行儀よく並んで吊されていた。 こちらは懐かしき竹とんぼ。 そしてゴム鉄砲も。 美しいなまこ壁。本来は外壁の瓦の目地(ジョイント)を漆喰で詰めたもの。 盛り上がっている形が なまこのようなので、なまこ壁とよばれているのです。本芳我家。八日市・護国の町並みのなかでひときわ豪華な邸宅。国の重要文化財に指定された本芳我家住宅。本芳我家は、江戸時代に内子の木蝋生産の基礎を築き、大規模に経営した豪商で、明治22年(1889)に建てられたと。分家のひとつに上芳我邸が。邸内は非公開ですが、建物の外観、後の時代に整備された庭園や随所に施された漆喰細工などは見学可能。 ポストも瓦屋根。 水準点も大切に守られていた。 そして消火器も。 旧内子銀行頭取別邸・庭園入口。その昔、内子の町で力を持っていたのは、木蝋生産と輸出で財をなした芳賀氏。その芳賀氏の分家の一つ、中芳我家の二代目当主は内子銀行の頭取を務めた。彼が建てた別邸がこちら。白そして浅黄色の壁が続く。そして人数の少ない歴史ある街並みを楽しんだのであった。上芳賀家の鬼瓦鳥衾(とりぶすま)。 内子町立内子中学校入り口に戻る。
2015.09.24
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大洲城(おおずじょう)を訪ねる。大洲城は伊予国喜多郡大洲(四国・愛媛県大洲市大洲)にある日本百名城。肱川(ひじかわ)の河畔に望む大洲城は、元弘元年(1331年)鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房によって築城されたといわれ、その後、藤堂高虎等によって大規模に修築がなされ、伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄して来たと。大洲市役所駐車場に車を停め天守に向かう。松根 東洋城(まつね とうようじょう)旧居。夏目漱石の門下生の大正時代の俳人。 天守に向かって大洲城への登城道を上る。明治維新後は、城内のほとんどの建築物が破却されたものの、地元住民の活動によって本丸の天守・櫓は一部保存されたが、明治21年(1888年)老朽化により、惜しくも天守は解体された。その後、大洲城を愛する地元住民の城郭への保護活動と、市民による寄付等によって平成16年(2004年)に復元されたのだ。 この坂は当時は石段?大洲城の案内図。 ズームして。二の丸御殿跡には中江藤樹の像が。大洲は、中江藤樹が10歳から27歳まで過ごした立志・感恩・勉学の地。中江藤樹漢詩碑「忍の字に題す」。『忍字に題す 中江藤樹 一たび忍べば七情 皆中和す再び忍べば五福 皆並び臻(いた)る忍んで百忍に到れば 満腔の春 熙熙たる宇宙 総べて眞境』 意味をネットで調べてみると「人間の感情には、喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲の七つの動きがある。その感情をもろに出してしまうと、誤解や摩擦が起こる恐れがあり、コントロールすることが大切。そうすることで、七つの感情が程良く穏やかに治まる。更に更に勉強し修行し忍ぶことができるようになれば、五福が集まり得られると。五福は四書五経の書経に、人間が求める幸せとして長寿・財が豊か・無病・徳を好む・天命とのこと。更に努力を重ね自然に感情を抑えきれるようになれば、心の中ではいつも暖かい春に包まれるような、穏やかで明るい気持ちに成れる」と。このような境地に成れる日は何時のことか。天守と高欄櫓。 前田伍健句碑。彼は「野球拳」の創始者でもあるのだそうだ。「歓ずるに みな佛性よ 狩供養」「供養して 心山河の 霧はるる」大洲城の本丸は上下二段に分かれ、井戸のある下段を井戸丸と呼ぶと。かつての井戸丸には、直径3.8mの国内最大級の本丸井戸があったと。本丸の天守と連立する台所櫓。現在の台所櫓は安政6年(1859)、高覧櫓は万延元年(1860)に再建されたもの。ともに国の重要文化財に指定天守はじめ各櫓の棟には瓦製のシャチが乗っていた。のぼり旗は下に蛇の目紋。藤堂高虎の後、慶長14年(1609年)には淡路の洲本から脇坂安治が入城し、この2人の時代に天守をはじめとする建造物が造営された。また脇坂安治の時代に従来の「大津」から現在の「大洲」に城名が変更(異説あり)された。元和3年(1617年)に伯耆米子から6万石で加藤貞泰が入り、以後加藤氏が12代に亘り大洲藩主として治め明治維新を迎えた。よって加藤家の家紋が蛇の目紋。 天守閣。平成14年から16年にかけて復元された4層4重の天守閣。初重と二重屋根には「千鳥破風」、三重屋根には「唐破風」を載せていた。見えにくいが二重部分の窓は「火灯窓」になっていた。大洲城天守閣の外観上の特徴として、この二階部分の火灯窓が挙げられると。火灯窓は鎌倉時代に中国から取り入れられた建築意匠で、通常天守の最上階の窓など意匠的に重要な部分に用いられる装飾的要素の強いもので、大洲城のように最上階でなく二階に連続して配置されている例は大変珍しいと。天守閣に入ると玄関口には天守雛形が展示されていた。しかし2回目の私は、この日は天守閣内部には入らず。そして初めての登城の旅友も何故か百名城スタンプのみ。二の丸御殿跡には天守閣礎石が。 二の丸御殿跡は上下の曲輪に、それぞれ城主の生活空間である奥御殿、政務の場である表御殿が分かれて存在していたのだと。二の丸と下台所(左) 御門番長屋。門番が詰めていた建物で曲輪の仕切り塀の門に付属する長屋。平成のときに再建されたもの。二の丸上の石垣。 大洲城下台所(おおずじょうしもだいどころ)。大洲城跡に残る国の重要文化財の4櫓ととともに数少ない大洲城の遺構で、二の丸大手曲輪に所在。この建物は、大洲城内の賄所、食糧庫としての機能を果たした。建築年代は不詳であるが、元禄5(1692)年に描かれた大洲城絵図には既に記されており、それ以前に建築されたものと推定できると。木造一部2階建、切妻造、本瓦葺である。桁行19.82m、梁間7.90m、平面積156.58平方メートルで土蔵風の造り。柱と柱の間に1本あての間柱を建て、整然とした点は他の櫓にみられないもの。明治以後は、監獄所、製糸工場の倉庫などに利用されたとのこと。下台所入口にある石垣と有形文化財 大洲城下台所と刻まれた石碑。大洲市の下水道マンホール。鵜飼と市花:ツツジが描かれていた。駐車場から臨む肱川と肱川橋、冨士山。苧綿(おわた)櫓は、天保14(1843)年に再建されたもので、二の丸の東隅に位置し、肱川に一番近い独立した櫓。二重二階櫓、本瓦葺で規模は小さい。雪見塚 松尾芭蕉句碑。「いざさらば 雪見に転ぶ ところまで」と木製説明碑が。
2015.09.23
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大隆寺の近くにある等覚寺(とうがくじ)を訪ねる。等覚寺の山号は龍華山(りゅうげさん)。宗派は臨済宗妙心寺派。 本尊は釈迦如来。大隆寺と並んで宇和島藩主伊達家のもう一つの菩提寺。 階段を上がると山門が。現在の山門は1894年に再建されたのだと。両側にある紋は、伊達家の家紋の一つ「竪三つ引両」伊達氏と言えば仙台笹を連想するが、この家紋は始祖である源頼朝より下賜されたものであるとされていると。伊達氏は戦国大名のなかでも、もっとも家紋の数が多い家。このように紋が多いのは、それだけ歴史が長く、伝統がある家であることの証か。境内の水子地蔵尊。 伊達家墓所略図。 伊達家墓所は本堂に向かって左側にある西墓所と、本堂裏側を通り右側にある東墓所に別れていた。また、西墓所の隣には家臣団の墓地があった。まずは西墓所へ。初代藩主秀宗(政宗の長男)の墓所。 宇和島伊達家の初代、伊達秀宗の墓。秀宗は伊達政宗の庶長子であり、仙台本家を継いだ忠宗の兄。庶子(しょし)であり、また豊臣秀吉に偏諱(へんき)を受けたことなどから徳川の世で生きて行くには辛い立場で、大坂の陣の恩賞で政宗が得た宇和島に別家を構えることになったのであった。 「庶子」は、正式な婚姻関係にない両親から生まれた子供を指す語。9代夫人孝順院殿(右)と9代夫人温徳院殿(左)。9代といえば伊予国宇和島藩最後の藩主 宗徳の夫人。9代藩主 宗徳は、金剛山に墓所あるが、9代夫人はここ竜華山と何故か別れ別れ。宗徳の正室の毛利斉元の娘・考の墓が(右)孝順院殿。そして左の墓が、 継室の佳(佐竹義厚の娘)温徳院殿。4代藩主村年の墓。伊達村年は、第3代藩主伊達宗贇(むねよし)の3男で母は中里氏(側室で宇和島藩士の娘)。正室は仙台藩主で従兄弟にあたる伊達吉村の娘・富子。 桑折宗臣(こおりむねしげ)の墓は 市指定記念物(史跡)初代秀宗墓所のある西墓所の片隅に。秀宗の四男で、宇和島藩家老だった人で、江戸時代の俳人としても有名とのこと。そしてやや判り難かったが東墓所へ。10代当主 宗陳(むねのぶ)。9代藩主宗徳(宇和島藩知事)の長男伊達宗陳は、藩主ではなく宇和島伊達家十代当主。 8代藩主伊達宗城そして夫人猶子の墓。 6代藩主 伊達村寿(むらなが)夫妻の五輪塔。村寿は第5代藩主・伊達村候の4男。4代藩主 伊達村年。第3代藩主伊達宗贇の3男。3代藩主 伊達宗贇(むねよし)。陸奥仙台藩第3代藩主・伊達綱宗の3男。長子ではなく、3男、4男が藩主となっている時代もかなりあるのだと知る。そして帰路に等覚寺からの宇和島城を望遠で。
2015.09.22
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宇和島藩主伊達家墓所 大隆寺へ徒歩で向かう。道路のマンホール。愛媛県宇和島市は、闘牛で有名。JR宇和島駅から15分ほど歩いた場所には、市営闘牛場があって定期的に、白熱した牛の戦いを観戦することができるのだと。 そして宇和島地方ではお祭りの主役という、牛鬼のデザイン。そして15分ほどで大隆寺に到着。宇和島藩5代藩主・伊達村候が、自ら墓所と定めた歴代宇和島藩主の菩提寺。村候の戒名(大隆寺殿)が寺号になっているため、寺号で呼ぶことを非礼として、地元住民からは山号である「金剛山」と呼ばれ親しまれているとのこと。宇和島藩主伊達家墓所 案内板。歴代藩主・夫人の墓一覧表。慶長19年(1614年)12月28日、伊達秀宗が徳川秀忠より伊予宇和島藩10万石を与えられ、慶長20年(1615年)3月18日に板島丸串城(宇和島城)に入城したことから、宇和島藩が正式に成立。秀宗は戦国の世に「独眼龍」と称された仙台藩主伊達政宗の庶長子。庶子(しょし)は、正式な婚姻関係にない両親から生まれた子供を指す語。寺の横から山へ上がる道があり、少し進むと、初代夫人「亀」(井伊直政娘)の墓が。長男(宗実)、次男(宗利)と男子を出産したが、その子らが藩主の座に就くことはついになかったと。しかし亀の墓は、さすが初代夫人だけあって、大きなスペースを場所を確保。ここで気づいたのであるが、初代から4代までは藩主と夫人の墓は離れて建っていた。江戸時代の初中期の風習?。亀夫人の墓から、徒歩数分。歴代の伊達家墓所は、7代・宗紀(むねただ)を先頭に一直線状に並んでいた。何故最初に7代か?いやいや、勿論、実際には奥の方から前に向かって、建てられていたのであった。しかしここでは、訪れた墓所の順番に7代を最初に。7代・宗紀と夫人・観(鍋島治茂の娘)の墓。宗紀は、なかなか後継ぎに恵まれなかったので、名君と名高い宗城を養子にしその後生まれた実子・宗恵(むねえ)は宗城の養子となり、9代目藩主とした。非常な長寿で、一説によれば、100歳を超えていたとも言われていると。なかなかユーモアに富んだ藩主であり、長寿の秘訣はと尋ねられ、「女色を慎むこと」と答えた後、「自分も70を越えてから慎んでおる」と続けたという逸話が残っているのだと。しかし夫人と仲良く並んで葬られていた。10代宗陳公 生母。9代藩主 宗徳。華族令施行により9代藩主伊達 宗徳は伯爵に その後明治24年(1891年)4月に義父8代藩主伊達宗城の勲功により侯爵へ。 右には同じく9代藩主 宗徳墓碑。一番奥に5代・村候と正室・護(鍋島宗茂の娘)の墓が。初代から4代までは、この後に訪ねた等覚寺に葬られていたが、村候はかねてから自らの墓所を金剛山正眼寺と定めていたので、伊達家の菩提寺とし、没後に彼の法号である大隆寺に改めたのだと。大隆寺境内。境内のモミジは既に紅葉が始まっていた。寺院の西の谷には、初代藩主・秀宗の重臣であった山家公頼が祀られる和霊廟(われいびょう)があった。秀宗の父伊達政宗は、家臣の中より力量手腕の秀でた山家清兵衛公頼を総奉行として藩政を委託した。公頼は藩の財政の立て直し、民力の涵養に努めること五年間、大いにその治績を挙げたと。大隆寺手前の池のある庭園。
2015.09.21
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この日はまずはホテルから宇和島城へ徒歩で訪ねる。日本には明治時代以前より残る天守を持つ城郭は12城あるが,宇和島城はその内の一つ。国の史跡に指定され,日本100名城の一つにも選定されている。北側の入口は武家長屋門で家老桑折氏の屋敷に残されていたものを移築。宇和島城案内板。関ヶ原の戦いの後,元々板島城という城があったところに,築城名人の藤堂高虎が築城。隣の松野町にあった河後森城の天守を移築したという伝承もあると。その後,江戸時代の藩主である伊達氏の時代に現在の姿となったと。伊達氏と言えば,仙台の伊達政宗が有名だが,この宇和島伊達藩は政宗の長男である伊達秀宗を藩祖とする分家で,幕末の伊達宗城は四賢侯として,歴史上も知名度の高い君主。 現在、堀は全て埋められ、三之丸をはじめ総郭部分約28万平方メートルは失われてしまったが、本丸・二之丸などの郭を含む約10万平方メートルの城山は、国史跡(昭和12年)に、現存12天守の1つに数えられる天守は国重要文化財(昭和9年)、そして南側登城口城門の上り立ち門は市指定文化財(昭和38年)に指定。また城山には400種の草木がうっそうと生い茂り、苔むした石垣群と織り成す幽玄の美の世界は、一見の価値あり。階段ルートは避けて坂道を天守に向けて歩く。途中白い可愛いいキノコを発見。 長門丸は児童公園となっていた。そして宇和島城と刻んだ比較的新しい?石碑が。そして 石垣上は藤兵衛丸。歴史を感じさせてくれる階段をさらに上る。長門丸より,藤堂高虎の城に良くある高石垣が左手に。その上には,山里倉庫が見えた。 藤兵衛丸にある山里倉庫(左)は三之丸に現存していた武器庫を移築したもので,現在は城山郷土館となっていた。正面も移築門でして法学者として活躍した穂積陳重・八束兄弟の生家長屋門。 二の丸への階段。 二の丸北端「御算用櫓」跡。 二の丸石垣と天守。城を囲む五角形の堀は、高虎の後の大名にも代々受け継がれたが、現在は堀も海も埋め立てられている。明治以降は大半の建物が撤去されたが、天守、大手門などが残され、昭和の空襲により大手門を焼失して現在は、天守(国の重要文化財)と上り立ち門(市指定文化財)、石垣が現存する。 二の門を入ってすぐ左にUターンすると本丸への虎口「一の門(櫛形門)」が。 一の門(櫛形門)を上り振り替えると、下部に宇和島湾が。宇和島の街と宇和島道路が見えた。 宇和島城天守。 往時のままの姿を留め、美しい姿から別名を鶴島城。独立式の天守で、三重(層)三階、白壁の総塗り込め造り。土台から棟までの高さは15.8m。初層は六間四方、二層は五間四方、三層は四間四方と順次同じ比率で小さくなっており、塔風の形態。正面最上層の屋根には大きな唐破風、その下の二層の屋根には大きな千鳥破風、一層には二つの千鳥破風、更にその下に玄関の唐破風と変化をつけた屋根が白壁に映え、安定感があり、極めて優美な姿をみせていた。 天下太平になってからの天守らしく、石垣よりも壁が内側に収まっている。これでは石落としなど設置できるはずもない。天守の周りを一回りできてしまうというのも珍しい。ある意味ちょっとした御殿。少なくとも防衛の最終拠点ではないのであった。 天守入口。 天守の入り口には玄関があるが、これは非常にめずらしいこと。切込み接ぎの整然とした石垣。隅角の算木積が見事。再び二の丸跡。 二之門跡の表示板。宇和島城の石垣は、野面積みとしては当時最高の高さを誇っていた可能性があると。 帰路は急な階段を下り武家長屋門へ向かう。これが井戸丸跡。 この井戸は、現在の城山に残る三つの井戸のうち、最も重要視せられたもの。ここを井戸丸といい、井戸丸御門、井戸丸矢倉などがあって、有事の時のため、厳重に管理せられていたと。井戸の直径2.4メートル、周囲8.5メートル、深さ約11メートル。ここは城山の北側の谷の中腹、三の丸から登り道に当たり数少ない城山の遺構の一つ。登城時は避けた急な階段を下り宇和島城制覇は完了。
2015.09.20
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク宿毛市にある延光寺に向かう。延光寺は、高知県宿毛市にある寺院。宗派は真言宗智山派。赤亀山、寺山院と号す。本尊は薬師如来。四国八十八箇所霊場の第39番札所。延光寺の山門。両側には仁王像が。庭園が美しかった。 山門に上がる階段の袖にあった言葉。「たれもみな からだは母の形見なり きずをつけなよ おのがかたちにたれもみな 心は父の形見なり はずかしめなよ おのが心を」四国第三十九番霊場 赤亀山、寺山院 延光寺(しゃっきざん じさんいん えんこうじ)の石碑。延光寺の境内には海亀の置物が奉られていて、海や亀に縁起のある由緒ある古い寺。池の中に置かれた亀の置物の甲羅の上で本物の亀が休んでいる姿が微笑ましかった。本堂。竜宮に住んでいた赤亀が銅鐘を背負って帰ってきた言い伝えから、赤亀山延光寺といわれると。神亀元年(724年)聖武天皇の勅願により行基菩薩が薬師如来を刻んで本尊とし、一寺を開創したのがはじまり。後に弘法大師が巡錫の際、日光・月光菩薩を安置し、再興した。本堂屋根の見事な芸術品の龍瓦が黒く輝いていた。太子堂。周囲の地蔵様。 菩薩像。 水子地蔵。この書院で御朱印をいただく。赤い帽子、赤い涎掛けの地蔵様。修行太子像。竜宮城から持帰った梵鐘。赤い亀が竜宮城から持帰ったものと伝えられ、高知県最古のものと。境内には黒田杏子の句碑が二つあった。ひとつは『白砂の土佐の寒蘭の香なりけり』/杏子。梵鐘を背負った赤亀。五重石塔。山門の柱の彫刻も見事。 戴いた御朱印。そしてこの日の宿泊地、宇和島のホテルに到着。ホテル近くからはライトアップされた宇和島城が山の上に。そして宇和島の有名な「牛鬼モニュ メント」。この日は、焼肉店で夕食を。ホルモンも。
2015.09.19
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駐車場に車を停め、海岸に向かって歩く。「海のギャラリー(土佐清水市立竜串貝類展示館)」。真っ白な屋根と青壁が印象的なモダン建築の貝類展示館。土佐清水市在住の洋画家「黒原和男」が集めた、約3千種類5万点におよぶ貝類を展示。 土佐清水市にある竜串海岸は高知県西部の足摺岬近辺にある奇勝。対岸の漁港では何かのテレビ撮影が行われていた。 赤いカニが迎えてくれた。 蜂の巣の如き奇岩が至る所に。 「竜串海岸遊歩道案内図」。遊歩道は、全面舗装等というものではなく、滑りやすい岩の斜面や、歩きづらい部分を、コンクリートで埋めただけのものである。 竜串の一帯は砂岩と泥岩の層が互いになっており、その層が波食、風食を受け形成されたもの。中でも一直線上に、丸みを帯びた節理が見られる大竹小竹は竜串を象徴する代表的なもの。他にしぼり幕、欄間石、蛙の千匹連れ、千畳敷などの名所が。 竜串海岸は臥竜山に沿っている海岸で、竜が臥しているような小山と、大串に例えられる奇岩から「竜串」と呼ばれるようになったと。 円柱状の岩がポツンと取り残されたように転がっていた。 遠くに足摺海底館が見えた。その色使いといい外観といいまさに秘密基地の如し。「足摺」と名前にはつくものの、高知の観光名所「足摺岬(あしずりみさき)」とは微妙に離れた場所にあるのがややこしい。「大竹小竹」。「大竹小竹」は、「竜串海岸」を代表する岩で、「節理」と呼ばれる横方向の割目が竹の節を連想させることから。 欄間石と書かれた表示板。 一帯は砂岩と泥岩の層が互いになっており、その層が波食、風食を受け蜂の巣構造の岩肌が形成されたと。足摺サニーロードに沿って奇岩が続く海岸線。 天気も回復に向かい青い海に白い波が。 帰路の道端にはハマユウ(浜木綿)の白い花が。ハマユウの果実も。 そして再び足摺サンロードを宿毛市に向けて車を走らせたのであった。
2015.09.18
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足摺岬の散策を始める。足摺崎の読みは本来「あしずりざき」が正式呼称であったが、観光地化の進展に伴い論議を経て通称の「あしずりみさき」が正式呼称となったと。 足摺岬、ジョン万次郎の説明ボード。 足摺岬の駐車場と案内所の近くにたたずんでいるのが『中浜(ジョン)万次郎』像。 像の裏にはジョン万次郎の功績などが詳しく紹介されていた。ネットから。椿のトンネルを歩く。 足摺岬灯台は、四国の最南端にある足摺岬の突端に立つ白亜の大型灯台。周辺は、足摺宇和海国立公園に指定され、太平洋を望む風光明媚の地。また、「日本の灯台50選」にも選ばれている。 この灯台は、1914年(大正3)4月1日に設置、初点灯。その後、1960年(昭和35)7月29日に現在のロケット型のデザイン灯台に改築。 現在の灯塔高(地上から塔頂まで)は18.1m、標高(平均海面~灯火)は60.6mで、LB-90型灯器を使い、光度は、46万カンデラ(実効光度)、光達距離は20.5海里(約38km)。 足摺岬は、足摺半島の突端にあり、四国最南端に位置し、年間100万人ほどの人が訪れる観光地。周辺は、80mにも及ぶ断崖絶壁が続き、そこから望む太平洋は丸みをおび、地球が丸いことを実感できる。崖下には岩礁が発達し、釣りの好ポイントともなっているが、黒潮の打ち寄せる様はとてもダイナミックで、息を飲む光景。 灯台に行く途中にあった石碑はピンボケ。 歌碑?灯台まで断崖沿いに進む。時々開けて樹木がない場所で、下を見ると足摺の青い海と白い波、なによりその高さに息を呑んでしまったのです。 天狗の鼻方面。雨上がりの曇り空にもかかわらず青い海、真っ白な波が。青空であったならと・・・・・。 これぞ絶景かな絶景かな! 足摺岬の展望台。270℃の大パノラマで太平洋を眺めることができる足摺岬の展望台。その雄大な景色から、地球の丸さが実感できたのです。また、ここから見る白亜の足摺灯台や金剛福寺を取り囲むようにして生い茂る原生林の風衝樹形も格別。そしてさらに海岸線を進む。
2015.09.17
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク四国の最南端、国立公園の足摺岬を見下ろす丘の中腹にある蹉跎山(さだざん)補陀洛院(ふだらく) 38番札所 金剛福寺に到着。弘法大師はその岬突端に広がる太平洋の大海原に観世音菩薩の理想の聖地・補陀落の世界を感得した。ときの嵯峨天皇(在位809〜23)に奏上、勅願により伽藍を建立、開創したと伝えられる。弘仁13年、大師49歳のころといわれる。金剛福寺山門。前の37番札所から80余km、いまは車で約2時間余、歩いたら約30時間以上。 四国霊場の札所間では最長距離で、まさに「修行の道場」。 「補陀洛東門」と書かれた扁額は嵯峨天皇の手で書かれていると。 山門の真っ赤な開口の 阿形(あぎょう)像。 これも 真っ赤な 口を結んだ 吽形(うんぎょう)像。何故か両像の顔がやや漫画チックに感じたのであったが・・・・。手水(ちょうず)横の白い長い石は、鍾乳石?大師亀。弘法大師が海上の不動岩で修行した時に海亀の背中に乗って海を渡ったという伝説にちなんだもの。本堂。「補陀落」は、サンスクリット語(梵語)の「ポタラカ」、「ポータラカ」(Potalaka)の音訳。なお、チベットも観音信仰の地として知られるが、ラサにあるポタラ宮の名も、「補陀落」と同じく、サンスクリット語の「ポタラカ」に由来するのだと。右手手前に納経所があった。本堂の中。宗派は真言宗豊山派 。本尊は千手観世音菩薩。多宝塔。奈良時代から平安時代に観音信仰が強くひろがり、和泉式部も観音様を崇拝し、自ら黒髪を埋めて供養した逆修塔が、不動堂のそばの多宝塔の後ろに。不動堂。不動堂前の不動明王像。本堂前には美しい池が。様々な仏像が。数え切れない。十三重石塔と赤い巨石。佐渡の赤石?雨に濡れて赤い輝きを増していた。権現堂 太子堂 五鈷杵(ごこしょ)。その形は古代インドの武器(ぶき)をもとにしたもので、密教では行者(ぎょうじゃ)の身を護(まも)るという意味をもつ大切な道具とのこと。弘法大師が使ったものであろうか。美しい池の向こうには本堂が。 そして様々な大きさの、様々な形と色の石が池の周囲に。弁財天。巨大なそして不気味な鍾乳石が横たわっていました。何処から???。 弁財天を別の場所から。 弘法大師像。 本堂左手の池の畔を行くと愛染堂、権現堂、行者堂があって大師堂に至る。 仁王門への階段横には亜熱帯植物であろうか蘇鉄の巨大樹が生い茂り、南国の雰囲気。手水場。 戴いた御朱印。38番札所 金剛福寺。そして足摺岬の散策に向かう。
2015.09.16
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南矢狭間塀。土壁の上面寄りに一間幅で横長に横連子の武者窓を設けています。本丸東南面の物見を一手に引き受けていた軍学上重要な窓で、高知城のみに残っています。めずらしいこの物見窓は、狭間では見えづらい敵情を観察するもの。 本丸御殿内部の様子。手前が二ノ間、奥の1段高くなっている所が上段ノ間。上段の間には漢詩の掛け軸が。 第15代藩主 山内豊信の詩書とのこと。 高知城 天守閣外観図。外観は三層ですが内部は六階建て。高欄の下の層を重視して四層と見る専門家も。 天守閣 断面図。最上階は高欄をめぐらした望楼となっていて、望楼式あるいは開放式天守とよばれています。武者隠藩主を護衛した武者が隠れていたと。 透彫欄間。下段の間と次の間の境に、土佐の黒潮をかたどった欄間が。この欄間はうちわけ波の欄間といわれ、土佐の左甚五郎といわれた武市高朋の作と伝えられていると。 天主の鯱。 雨に濡れた美しい庭園が下に。 北側。手前が廊下橋門。空堀の右が二の丸で左が本丸。門の二階は廊下となっていて、左右の郭をつなぐ珍しい形式の門。もちろん有事の際は、壊され本丸が独立することを想定した造りであるとのこと。北西窓からの詰門・廊下門・東多聞。 西側。中央に西多聞櫓、左に鉄門。 下に鯱、黒いのが鉄門。 当時の足軽兵。 当時のクジラ漁の様子。岩の上には見張り役の男が2人。そういえば高知では、現在でもホエールウォッチングの名所。 巨大な鯨が口を開けて。 波や鯨、全てがリアル。 天主、御殿を後にし、詰門手前からの天主そして雨に濡れた石垣。追手門の南西の矢狭間塀。追手門南面の枡形を造る直角に折れる矢狭間塀で、石垣上に築造。外壁は黒の下見張に1間おきに大小の縦長長方形の矢狭間を配置。再び蓮の咲く内堀に戻る。 先ほどに比べて蓮の開花が盛ん。 雨に濡れた蓮の花も美しかった。 高知県立高知追手前高等学校。現代的なコンクリート製の建物に、伝統的な和風様式の時計台を載せた独特の外観がこの建物の特徴。そしてレンタカーに乗り、足摺岬に向かう。
2015.09.15
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JR高知駅からは徒歩にて高知公園内にある高知城に向かう。 高知県立文学館入口。 追手門。高知城の表門。石垣の上に渡櫓を載せた櫓門で、城の大手(正面)にふさわしい堂々たる構え。門前は門と矢狭間塀で囲まれた枡形状になっており、三方向から攻撃を加えることができるようになっている。 雨の中、やや霞んだ高知城天主。 山内一豊像。土佐藩の初代藩主山内一豊の銅像は、本体はブロンズ鍛造青銅色仕上げ、高さ4.32メートル、重さ3.6トン、台座5.08メートル、総高9.4メートルで、騎馬像としては、国内最大クラス。 蓮の咲く内堀、そして追手門。 追手門の屋根の上には天守閣が。 板垣退助の銅像と高知城天守。板垣退助は自由民権運動の父とされ、特に「板垣死すとも自由は死せず」の名言は明治時代の一大流行語。像の高さは2.2m、台座4.2m、全高6.4m。 杉ノ段への石段 を上る。杉の段は「井戸ノ段」とも呼ばれた。藩主のお国入りや出駕の際には、ここに一族が出迎えや見送りに出向いてきた。また、「長崎蔵」や「塗師部屋」などの建物があったと。 城の排水用の石樋。石樋は石垣の上部からかなり突出した設計になっていり、集められた排水が石垣にあたり土台にしみ込んで、地盤が緩んでしまわないようにするための工夫。 山内千代(見性院) 像。土佐国土佐藩初代藩主、山内一豊の正室。本名は「千代」とも「まつ」ともいわれるが、定かではないと。夫に馬を買わせるために大金を差し出した話や、笠の緒文などの様々な逸話で知られ、良妻賢母の見本。再び天守閣。 鉄門跡への石段。杉ノ段から右手の石段を上がると砂岩を使用した打ち込みの立派な石垣のある鉄門跡 詰門は、本丸と二の丸を隔てる空堀を分断するよう築かれた二重二階の櫓詰門は、城の東(三の丸)と西(梅の段)を仕切る門であるとともに、二の丸と本丸の間に架かる橋でもある。そのため、橋廊下とも呼ばれる。詰門一階の門をくぐっても本丸に近づくことはできず、ただ空堀を通り抜けるだけ。天守北面 二の丸入口から。詰門と天守。詰門内部(右側が詰所)。本丸の入口には廊下門があり、その上部に多聞櫓が建てられている。本丸御殿の玄関と天守。天守と御殿が一枚の写真に写る城は初めて?本丸からの天主。 大入母屋屋根の上に二重の望楼を載せた3層6階の望楼型天守で、大型の千鳥破風や最上階の廻縁や高欄など古式な美しさを見せているのです。裏手にある高知城の鉄門。柱、門扉に多数の小鉄板が打ちついてあるので黒鉄門と名付けられているのだと。もう一つの本丸へ入る西側の虎口。チケットを購入。そして100城目のスタンプを。これで日本100名城スタンプラリーは完遂。旅友にお願いして、スタンプ帳と共に、「功名が辻」の前で100城達成記念撮影。
2015.09.14
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この日は8時前にホテルを出て、生憎の雨の中、高知駅に徒歩で向かう。かなりの雨のため、高知 壱番街商店街アーケード内を歩く。人通りは少なかった。はりまや橋交差点に到着。真っ赤な橋、はりまや橋。車で通ると場所がわからず、通り過ぎてしまうのではないかと。白き像は、高知県出身の漫画家、横山隆一作の「純真お馬像」江戸時代に、高知の豪商である播磨屋と櫃屋(ひつや)は、互いに本店が堀で隔てられていた。この両者の往来の為に架けられた私設の橋が、「播磨屋橋」(はりまや橋)の名称の由来。「土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい」女性が髪を結う時に使う「かんざし」をお寺の僧が買っていたというこの『よさこい節』の歌詞は、江戸時代末期(安政)に起きた、竹林寺の僧・純信と美しい娘・お馬との道ならぬ恋の物語が元となっているのだ。平成10年(1998)に架けられたはりまや橋の下は人工水路が設置され、親水公園に。駅に向かって歩くと「リョーマの休日」の旗が。R(ロマン)、Y(やすらぎ)、O(美味しい)、M(学び)、A(アクティブ)と、その季節ならではの旅の魅力を紹介、そして高知の美味しい絶品グルメも。もちろん「ローマの休日」を意識しているのであろうが、やや無理がある??高知駅とはりまや橋の間を東西に流れる川、江の口川。そしてその上の高知橋からのヤシの木が美しかった。駅前交差点からのJR高知駅。 幕末の志士たちである坂本龍馬、武市半平太、中岡新太郎のいわゆる三志士像。 JR高知駅の南側に設置されている土佐の志士像は、発泡スチロールやウレタン製で造られているようで、雨の中すっくりと。高さが3mの台座に、等身大よりも大きな像が据えられ、JR高知駅に向かって、 左から武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎の順で並んでいた。 志士達は、土佐勤王党を結成した武市瑞山(武市半平太)、海援隊の坂本龍馬、陸援隊の中岡慎太郎。いずれも、土佐勤王党に属し、幕末の土佐藩で尊王攘夷を掲げていた。尊王攘夷とは、王様(日本では天皇)を尊び、外圧:外敵(この時代は鎖国していたため、欧米諸国を指す)を撃退しなければならないとする思想。そう言えば今年の私の誕生日の7月16日に高知県室戸市に上陸した台風11号の被害を防ぐ為に、前日の15日、台風での損傷を防ぐため、JR高知駅前のこの3志士像を一時的に撤去したというニュースを思い出したのであった。
2015.09.13
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「モネの庭」から車を進め、この日のホテルに到着。ホテルは高知城へ徒歩10分ほどの場所。チェックインしてこの日の宴に向かう。 店はホテルから数分の場所。居酒屋 うめ丸店内は木のぬくもりを充分に感じられるお座敷席とカウンター席のある店。大人の方がゆっくりと時間を堪能できる店“うめ丸”。地場で獲れた旬鮮魚から手間隙かけた和料理まで多彩なメニューあり。店で焼くカツオのワラ焼きは絶品とのこと。 まずはビールで喉を潤しこの日の疲れを取る。摘まみにまずは名物の鰹のワラ焼きをニンニクで。 四万十川エビのから揚げ 。四万十川青さのり天ぷら青さのりは、ロープに菌をしみこませ、四万十の流れの穏やかな汽水域で育てていると。 土佐の海産珍味として名高い「どろめ」。「どろめ」とは「生しらす」のことと。どろめの語源の由来は不明ですが、泥の中から大きな目だけをギョロと出している様子を見てどろめと名付けられたと言った説。ぷりぷり食感の極上モノ。 土佐地鶏団子? 忘れました。 南国土佐皿鉢祭りのポスター個性豊かな皿鉢が並ぶ、「南国土佐皿鉢祭り」。土佐の魅力が溢れる楽しいイベント。 南国土佐皿鉢祭りは、土佐の郷土料理・皿鉢料理が並ぶ食の祭典。 創作テーマに沿って、高知県内の料理人が工夫を凝らした個性豊かな皿鉢が並びます。その数なんと200点。 店内には様々な飾りが。 締めに徳島ラーメンにTRY。 この店のメニュー。 店内。客の数は少なかった。 こちらには阿波おどりのポスター。 トッピングには豚のバラ肉・ネギ・メンマなどスープの味は濃く、やや強めの甘味があるのが特徴。 写真を見て皿の古さにビックリ。坂本竜馬 等身大 立姿絵図。
2015.09.12
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55号線を右折し北川村「モネの庭」マルモッタンに立ち寄る。マルモッタンはパリにあるフランス印象派の画家クロード・モネの作品のコレクションで知られる美術館からの命名。チケットを購入し閉園までの30分の慌しい散策開始。園内マップ。展望デッキより花の庭を見るが、花は少なく季節の端境期?ジャスミンの白き香りのよい花。トレニア。真っ赤なカンナの花。ダリア。サルビア・ガラニチカ。こちらは濃いピンクのカンナ。蓮(ハス)によく似た花といえば、睡蓮。モネは晩年期、睡蓮の池を多く描いたのは、あまりにも有名。大きな鉢に様々な色の睡蓮が咲いていた。セイヨウミヤコグサ (西洋都草) 。ヴィアリー。プリムラとは思えないユニークな穂状の花。小さな花が無数に着き、蕾が赤色なので赤い花が咲いているように。ギャラリー2Fにはモネの絵画が展示されていた。そして「水の庭」に足早に移動。最初に出迎えてくれた滝。睡蓮の池を周遊。太鼓橋が見えた。モネの作品、マルモッタン・モネ美術館にある「睡蓮」も置かれていた。 太鼓橋。睡蓮の花もこの時期殆ど終わっていた。そして時間も夕方。モネが咲かせたいと願い続けた青い睡蓮。夕方のため、花を閉じていた。シカゴ美術館蔵クロード・モネ「睡蓮」。緑の浮き舟が池の片隅に。池を渡る橋とバラのアーチ。睡蓮の葉には大きな水玉が。白き花茗荷。池の周囲には「藤」や「柳」「桜」といった日本でもなじみ深い樹木を中心に、赤や黄色や青といった色鮮やかな草花たちが配されていたが、花の数は少なかった。太鼓橋とバラアーチといった日本文化と西欧文化の融合は、まさに印象派クロード・モネならではの感性の庭。西洋すすき(バンバスグラス)。赤と白の彼岸花(曼珠沙華)。オミナエシ(女郎花)駐車場横の屋外トイレのタイルも美しかった。トルコ イスタンブールのトプカプ宮殿を想い出したのであった。奈半利駅からのバスは1時間に1本。そして背中のテレビでは、9.19~12.13まで東京美術館にて『モネ展 ―「印象、日の出」から「睡蓮」まで―』が開催されていると。是非、訪ねてみたいと思っているのである。
2015.09.11
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室戸岬に車を走らせると突然白い巨大な仏像が前方に。 「室戸青年大師像」 とのこと。若き日の弘法大師(空海)は室戸岬を修行地として選び、難行苦行の末多くの悟りを開いたと言われていると。 この像は昭和59年11月、大師の徳を慕う信者や一般の方々の寄進によって建立されたもので、青年空海の力強い生き方がしっかりときざみ込まれているのだと。 高さ21m(台座5m含)。入口に立っていた2体の仁王像。 阿形の仁王像。 吽形の仁王像。 全長5・5mの金色の涅槃像も横たわっていたが後姿のみ。 悟りを求める弘法大師の表情を刻んだ巨大な像。 そして室戸岬に到着。 室戸岬周辺観光マップ。 室戸岬先端部にある中岡慎太郎像の横でひっそりと佇んでいる風見鯨。 白の土台は白御影石でできており、鯨は黒御影石。 風上に向かって振り向く仕掛けになっているとのことであったが・・・。中岡慎太郎像。中岡慎太郎は、海援隊長の坂本龍馬とともに活躍した明治維新の勤王の志士。 慶応3年11月15日(1867年)京都河原町の近江屋で刺客に襲われ、龍馬とともに落命。この時慎太郎は30才。 桂浜にある龍馬像と、室戸岬にある中岡慎太郎像は土佐湾を隔てて向かい合っていると、よくいわれる。実際は、慎太郎像がほぼ真南を向いていて、龍馬像が西にあるので向かい合っていないようだ。龍馬像は、東を向いていて慎太郎像の少し北(北川村の方)を見ている。このウワサの根源となったのは、両方の銅像を作った彫刻家の本山白雲が、作者の意図としては向かい合わせたかった。と語っていたからで、そのためか慎太郎像はやや右(西)向きに作られている。龍馬像と向かい合わせるように建てると、慎太郎が山の方を向いてしまうため、断念したのだと。 乱礁遊歩道を歩く。 コース内には、ダイナミックな地層や地形、南国特有の珍しい亜熱帯植物などを見ることが出来た。 室戸岬灯台を見上げる。 室戸岬のシンボルは、青い空と海のはざまに立つ白亜の灯台。明治32年以来、 航海者たちの安全を照らす水先案内人として活躍中。レンズの大きさは直径2m60cmと日本最大級。プレートに押されて水平に出来た砂岩泥岩互層が垂直になってしまったと。タービタイト層と言うと。 可憐なピンクの花。名前は? この蟹、大きい割には素早く、近くでカメラで撮ろうととすると、スッタタタと逃げていった。 見所も多く、地質学的にも、歴史的にも、自然的にも貴重な体験ができたのであった。 写真の真ん中が砂岩・斑レイ岩境界。海底に溜まった砂とそれに入り込んだマグマの境目、だと。 波も穏やかであった。 室戸岬を後にし、吉良川の町並みに立ち寄る。高知県で初めて、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された吉良川町。明治期に建てられた漆喰壁の商家や、水切 り瓦の蔵が立ち並び、日本の懐かしい町並みを今に残していた。庇(ひさし)のように突き出た「水切り瓦(5層)」が備えられた蔵。漆喰を守るため、早く水を切れるようにと「水切り」が備えられているのだと。腰壁の部分は、平板の瓦が漆喰で固定された「なまこ壁」になっているのであった。 この地は台風銀座、よって台風から家を守る、雨風から家を守るというので、しっかりした家が多いのも特徴。 3層の「水切り瓦」と「なまこ壁」の民家には井桁模様が。住友との関係は? 魚屋さんには赤い大きなカニが。旭カニと呼ばれているが一般的なカニの如く横には歩けず前進(ちょこっと)後退(得意)する珍しいカニであると。 55号線の道路に数字の文字が大きく書かれていた。 同じ地点に昔から設置してある距離標も。これがその距離標、ゆっくり走ってる人ならこの距離標でも読みとれるかも知れませんが、なかなか車の中から気付き難いので道路に大きく書き直したのでしょうか?それとも車や徒歩での四国巡礼者への配慮か?更に55号線を高知市に向かって走っていくと陽光が海面に反射し白く輝いていた。
2015.09.10
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日和佐道路を利用し、旧日和佐町に到着。2006年3月に町村合併により由岐町と合併し、現在は美波町となった町。 遠く山の上に日和佐城が見えて来た。しかし日和佐城は日本百名城には入っていない。室町時代に日和佐肥前守が築城したという説があるが、日和佐城についての史料があまり残っていない為、この城については不明な点が非常に多いとのこと。しかし室町から戦国時代にかけて、この城には日和佐肥前守が居城していたと。阿波の南部への進入を目指す土佐の長宗我部勢を防ぐためにこの地に城を築いたのだと。天守閣駐車場に到着。徳島岩吉翁像。水産で一旗上げ、旧日和佐町の役場と小学校の講堂を寄贈された方のようであった。駐車場から日和佐城を見上げる。 城山神社。模擬天守のある敷地の一角に小規模な祠が祀られていた。 屋根の大鯱と同じ大きさの木彫の鯱が展示されていた。 天守閣の中に入るが、まったく人影はなし。階段を上がり天守閣頂上へ。削平地と思われる所に建つ展望台からは、日和佐港、紀伊水道を見ることが出来た。現在、観光用の三層模擬天守が建てられているのであった。 遠く四国第23番霊場 薬王院の瑜祇(ゆぎ)塔が見えた。 入り江が街の中に入り込んでいることが解る。 紀伊水道入り口に突き出た城山の上に建つ日和佐城。 旧日和佐町 案内図。現在城跡とされる城山には、模擬天守が構築されており、日和佐勤労者野外活動施設として利用されているとのこと。もちろん、当時の建物を再現したものではない。石垣も当時の遺構を利用したものではなく、建造当時の遺構と言えるものはほとんど見当たらないと。 千羽海岸を望むみちコース 案内図。 再び日和佐城を車の中から。 道の駅から再び薬王寺 瑜祇(ゆぎ)塔。真言宗の経典である瑜祇経の教理を形に表わしたもの。高さ29mの塔。地下は真っ暗な戒壇めぐりに、書画を展示。1階は弘法大師の一生を著した高野大師行状図画を展示。2階は展望台に幸せを運ぶという金色の亀が展示されていると。室戸岬に向かい海岸線を車を走らせる。55号線からの海岸の奇岩を楽しむ。 遠く室戸岬の先端が見えて来た。 室戸海洋深層水(株)の工場棟。海洋深層水とは、深海すなわち陸棚外縁部より深いところ、およそ水深200~300メートル以深にある海水のこと。細菌学的にも化学的にも清浄、ミネラルが豊富な海洋深層水に着目した化粧品、飲料、食品業界などが、これを化粧品、バスグッズ、入浴剤、飲料水、アルコール類、水産加工食品などとして商品化しているのだ。
2015.09.09
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そして天守跡に向かおうと道を尋ねたところボランティアのオジサンが案内してくれた。 公園一番奥の西ルートの出入り口から階段を上る。 東二の丸跡へ。3重3階の天守が建っていた所。 天守跡。曲輪の中央には天守跡の石碑あり。特に礎石などの遺構は見当たらない。 徳島戦災犠牲者慰霊塔。 本丸跡。非常に広い。礎石など何も残っていないが、パンフによると往時は御座敷や御留守番所、角にはいくつかの櫓が建っていたとのこと。 本丸の西の端にあるのが弓などの武具が納められていた弓櫓跡 別のルートで下る。長い石段と、奥にそびえる石垣が本丸が近いことが解る。 徳島城の石垣に使われているのは阿波の青石と呼ばれる緑色片岩。少し離れてみると全体に青みがかっています。偏平な緑色片岩の乱積みで、隅は算木積みとなっていた。苔むした石垣が歴史を感じさせてくれた。西二の丸跡。本丸跡から一段下りたところが西二の丸跡。ここには鉄砲櫓、帳櫓などが設けられていた。帳櫓跡。西三の丸から西二の丸への屈曲した虎口を防衛する役目を担っていたと。西三の丸。この石碑の向こう側(柵の下)が西三の丸で、パンフによると番所や材木櫓などが建っていたと。今は平坦な広場となっており礎石などの遺構は見当たらない。 SLが展示されていた。この蒸気機関車は大正12年から徳島の町や野を走り、山や谷をめぐって「汽車ポッポ」の愛称で親しまれてきたが、昭和44年7月、徳島―小松島間の運行を最後に鉄道からその姿を消したと。 徳島城を築城した初代藩主蜂須賀家政の銅像。元は父親である家祖蜂須賀正勝(小六)の銅像だったが戦時中に供出され、代わって戦後に裃姿の本像が建立されたのだと。 太鼓櫓跡。太鼓櫓は大手門の西にあった三層三階の櫓で、中に太鼓が置かれ登城の時などを知らせたと。 そして残るところ1ヶ所となる99個目のスタンプをGETしたのであった。
2015.09.08
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徳島城に到着したが駐車場探しに一苦労。無料駐車場が見つからず、やむなく有料駐車場に入り徳島城址に向かう。 JRの高架橋を渡りる。徳島駅手前の車両待機所。右側線路脇には石垣が。 前方に枡形虎口が。城に入ってきた事を実感。ここを通過し鷲の門に向かう。 徳島城 鷲の門(わしのもん)。昭和20年の米軍無差別爆撃で焼失した「鷲の門」の再建されたものが建つ。 立派な脇戸付きの薬医門で、パンフによると将軍より賜った鷲を飼うための門だったと。徳島城の大手門。門があるあたりは三木曲輪。 鷲の門 説明板。この再建された門は、1989年の徳島市政100周年記念として、市内在住の個人から復元寄贈されたと。徳島城は阿波蜂須賀氏の居城。 近世城郭だけに阿波随一の規模を誇っている。四国には日本100名城に選定された城が9つもある。うち現存天守は4つ(丸亀・松山・宇和島・高知)。全国12棟ある現存天守の実に3分の1が四国にあるのだ。 2002年10月、本丸西端にあった弓櫓を縮小し模った時計塔「櫓型時計」。 奥に見える石橋を渡って城内へ入る。 この石橋は当時は木造の太鼓橋で、この橋の手前で馬を降りないといけなかったことから「下乗橋」と呼ばれる。この下乗橋を馬に乗ったまま渡ることが出来たのは、藩主と産婆さん(一刻を争うため) のみだったと。大手門の枡形虎口とこの城最大の櫓「太鼓櫓」の石垣が出迎えてくれた。内堀の外側から徳島城の石垣を見る。青いゴツゴツした重厚な印象の石垣だ。この角には月見櫓跡。 旧徳島城表御殿庭園への入場料は50円ですが、65才以上は無料とのことで、免許証を準備しているとどうぞお入りくださいと年齢確認もなく・・・・。チョット複雑な気分であったのです。 御殿跡に「徳島城博物館」があり、徳島城の復元模型等が展示されているがここはパス。旧徳島城表御殿庭園入り口から内部へ。 枯山水の庭と池泉回遊式の庭園で、江戸時代初期に武将で茶人の上田宗箇によって造られた豪壮な石組みによる桃山様式の庭。 日本の名勝に指定されているのです。 初代阿波藩主・蜂須賀至鎮(よししげ)踏割の伝説がある長さ10.6米の「自然石橋」(緑泥片岩)。 途中(向こうから1/3ぐらいの場所)が割れているのは、初代藩主が地団駄を踏んで割ったためという伝説があるらしい。 自然石橋の中央から徳島城博物館方向。 豪華な御影石(花崗岩)の「石切橋」で、桃山時代の代表的な作品。その形から別名琴橋とも。 庭園の奥には陰陽石。手前の陰石の穴は自然に水が滴り穿って出来たと。 昭和16年に国の名勝に指定された庭園で、桃山時代に蜂須賀公の表書院の庭として造られたもの。 阿波の青石といわれる緑色片岩が多く使われ、地下水路を造り内堀の海水を通していると。更に歩を進める。 池の中には飛び石が置いてあり、そこを通ることも出来たが我慢。 この写真のマンションの住人は毎日庭園を我が庭の如く羨ましい生活。 博物館の建物の外脇には石灯籠など徳島城ゆかりのものが幾つか展示されていた。こちらは徳島城のものと思われる鯱瓦。
2015.09.07
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク1番札所霊山寺から2番札所極楽寺まで1キロ余り、あっという間に第2番札所極楽寺に到着。ここ、2番札所極楽寺は、安産祈願子授祈願にご利益のあるお寺。日照山(にっしょうざん)無量寿院(むりょうじゅいん)と号する。寺伝によれば、奈良時代(710年 - 784年)、行基の開基という。弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がこの地での三七日(21日間)の修法で阿弥陀経を読誦したところ満願日に阿弥陀如来の姿を感得したため、その姿を刻んで本尊としたといい、この阿弥陀如来の後光は遠く鳴門まで達し、魚が採れなくなったため、困った漁民たちが本堂の前に小山を築いて光をさえぎったということから「日照山」と号するとされる。 三方を山に囲まれた閑静な境内で、朱塗りの仁王門が迎えてくれた。入母屋造楼門、金剛力士(仁王)像を安置 金剛力士像。 朱塗りの仁王門を入って先方には赤い旗で囲んだ願掛け地蔵堂が。お地蔵さんの真言を唱え、自分も精進努力すれば不思議なご利益があると。 早速納経所にて御朱印を戴く。 仁王門を境内から。朱塗りと白壁のBESTMIX。 日照山極楽寺 案内図。 境内には「雲海の浄土」と呼ばれる庭園が広がっていた。 平和観音像。 極楽寺の手水場は、激しく彫刻された石が。見上げると、極楽浄土のような絵が彫られていた。 柱にも龍の見事な彫刻が施されていた。子授招福大師。極楽寺は子授け祈願ができるお寺として四国の中でも有名。境内に祀られた子授招福大師は、子供を抱いている数少ないお大師様で、子授けの強いご利益があると。 阿弥陀如来像石仏。 鐘楼堂と観音堂観音堂には千手観音が祀られていると。 仏足石。釈迦が石の上で説法をすると、石に足形が残ったといわれるもので、本堂階段の上り口に。 本堂。44段ほどの石段をのぼった正面に本堂が。その右手奥が大師堂で、この大師像は「安産大師」とも呼ばれている。大師が流産ばかりする夫人に加持祈祷したところ、即座に子宝に恵まれたという由縁によるもの 本尊・阿弥陀如来像 は国重要文化財。「両界曼荼羅図」(二幅)と「地獄極楽図」はともに県指定文化財。 弘法大師像と聖観自在菩薩。弘法大師像。 聖観自在菩薩。 本堂から右奥の大師堂の途中に 抱き地蔵の「重かるさん、軽かるさん」が。 地蔵さんを抱いて 軽いと感じたら 願い事が叶い、重いと感じたら悩みが長引くと。 本堂下の階段を下りる。薬師堂。江戸時代末期建立。 四国霊場会 特認大先達 田渕義雄さんの像。四国八十八ヶ所霊場巡拝百回成満記念に建てられたと。100回も納札に巡るのは、大変な時間と努力と労力が。 長命杉。弘法大師お手植えとされる「長命杉」は、樹齢1200年あまり、高さが約31メートル周囲約6メートルもある霊木。触れれば家内安全ばかりか、病気平癒、長寿も授かるといわれる。鳴門市の天然記念物に指定 一願水掛不動尊水を掛けてお願いすると願いがかなうという不動尊。 ただし一回だけ。欲張ってはいけません。 供養観音。 そして極楽寺で戴いた御朱印。
2015.09.06
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンクレンタカーでこの日の最初の目的地、四国八十八箇所霊場第一番札所の霊山寺に到着。参拝をする前に境内外にある総合案内所へ行き、御朱印帳を購入。白衣、笠、杖等の購入も考えましたが次回以降に回し、四国八十八箇所参りの第一歩を曲りなりにも踏み出したのです。 総合案内所前にはお遍路フル装備のマネキン像が何故か・・・。 言い伝えでは空海が四国八十八ヶ所を定めたといわれますが、これは事実ではないようです。江戸時代に真念というお坊さんが『四国邊路道指南』というガイドブックを書いて八十八ヶ所と札所の順番を定めたのが事実と。 霊山寺入り口の発心の門。四国遍路では、徳島に始まり高知・愛媛・香川に至る霊場巡りをそれぞれ「発心・修行・菩提・涅槃」といい、人が悟りをひらいて心の平安を得るまでの4段階になぞらえているのだと。「発心」は悟りを求める心、これから始めますという決心。寺伝によれば霊山寺は奈良時代、天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により、行基によって開創。弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がここを訪れ21日間留まって修行したと。空海はこの地で衆生の88の煩悩を浄化し、また衆生と自らの厄難を攘はらって、心身の救済ができる霊場を開こうと修法をされた。その時、仏法を説く一老師をたくさんの僧侶が取り囲み、熱心に耳を傾けている霊感を得た。大師は、その光景が天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景と似ていると感じとり、インドの霊山を和国(日本)に移す意味で「竺和山・一乗院 ・霊山寺(じくわざん いちじょういん りょうぜんじ)」と名づけられたのだと。仁王門。 仁王門には口を結んだ 吽形(うんぎょう)像が。 阿形(あぎょう)像も。 縁結び観音。仁王門を入ってすぐの所にある縁結び観音は、恋愛はもちろん、仕事の縁や健康との縁、幸せの縁など様々な「縁結び」にご利益があると。水でお清めして心の底からお祈りすれば、さらに功徳があるとか。水屋の廻りにはカエルの置物と不動明王像が添えられていた。もう一つの水屋。 仁王門を境内側から。 水子地蔵の池。池(泉水池)の中には稚児像が沢山浮かんでいた。そして大きな鯉が悠々と泳いでいた。太子堂。 多宝塔。応永年間(1394〜1428)の建造で、五智如来像が祀られている。 組み物が見事。右下には1945年にアメリカ軍が広島に落とした原子爆弾で燃えた火が灯され続けているのだと。そして手前には赤子を抱く仏像が。弘法大師の姿か? 本堂への階段を上る。本堂。 本堂内の天井に下げられた沢山の灯篭が目を引いたのであった。 霊山寺の龍の天井画。本堂の右側にもお遍路フル装備のマネキン像が。顔は正しく外国人。 緑の苔の生えた板塀の前には、心静かな仏像が。 等身大の十三佛。 再び多宝塔。多宝塔は上層が円形、下層は方形で建立され600年近い歴史を持つ。 鐘楼。1505年に移された県下で4番目に古い梵鐘であり、県指定有形文化財に指定。 黄金小僧像。 再び仁王門を境内から。 そして戴いた御朱印。
2015.09.05
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9月2日から旅友と四国巡りの旅をして来ました。今回も旅友が我が家に4:30に愛車で迎えに来てくれました。そして5:30前に駐車場に到着。送迎者で空港まで送ってもらい、出発時間までカードラウンジで一休み。 軽い軽食が無料でとれるので良く利用させて頂いています。 出発はJAL徳島空港始発便7:10発。 平日の早朝便の為か内部はガラガラ。 羽田空港を離陸後は暫くは雲の上。そして雲が切れて伊勢湾上空へ。 そして有田川上空を通過。 東燃ゼネラル石油貯油所の巨大なタンクが並んでいた。 その南には巨大なメガソーラー設備が。東燃ゼネラル石油の約45haの遊休地を有効活用して太陽光パネルを取り付け、約30MW(3万kW)の出力で年間約3100万kWhの発電電力量。淡路島の南に浮かぶ沼島。 神戸淡路鳴門自動車道、大鳴門橋。 そして定刻に徳島空港に到着。 滑走路横では消防車が消化訓練中。乗ってきたJAL便。 予約しておいたレンタカー屋に向う。空港ロビーには既に秋祭りの巨大ポスターが。阿波踊りのポスター。「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ、踊る阿呆(あほう)に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々…」と唄われ、2拍子のリズムで知られる有名な祭り。そして空港からレンタカー屋の送迎者でレンタカーの手続きに向かう。
2015.09.04
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日本百名城のスタンプラリーで残っていた四国の徳島城、高知城制覇にいつもの旅友と行って来ました。まずは徳島城へ。吉野川河口付近の中洲に位置する標高61メートルの城山に築かれた山城。徳島城は残念ながら現在は復元された鷲の門のみでその他は石垣のみ。旧徳島城表御殿庭園は千秋閣庭園とも呼ばれている。枯山水の庭と池泉回遊式の庭園で、江戸時代初期に武将で茶人の上田宗箇によって造られた豪壮な石組みによる桃山様式の庭。65歳以上は入場無料との事で、申し出ましたが、免許証等の年齢確証の要求も無く「はいどうぞ」の言葉を重く受け止めたのでした。そして99番目の徳島城スタンプをGET。そして翌日は雨の高知城へ。そして遂に百名城達成の記念のスタンプ。3年前の春に養蜂の師匠に進められスタンプラリーをスタート。1番目に訪問したのは、先日天守閣が国宝に指定された松江城。そしてこの日、2015年9月3日で百名城を制覇したのです。期間は3年3ヶ月17日です。スタンプ帳もやや疲れた外観になりました。そして巡った百名城を北から地図とスタンプで紹介します。北海道、青森、岩手。東北地方南部。関東北部。関東。そして山梨、長野。 日本海沿いの新潟、富山、石川、福井。福井、岐阜、静岡。愛知、三重。琵琶湖周辺。そして大阪、兵庫、和歌山、奈良。山陰の鳥取、島根。瀬戸内海沿いの岡山、広島。山口、そして四国の徳島、香川。四国の愛媛、高知。北九州の福岡、佐賀、長崎。九州地区。沖縄3城。100名城のスタンプがそろったら「日本城郭協会」へスタンプ帳を送ると登録完了印と登録順位を記入して返送してくれ、ホームページにも名前を掲載してくれるようです。早速、発送しようと考えています。足かけ1205日・3年3ケ月17日をかけた時間・体力・汗の結晶です。百名城を訪れることにより、歴史に対する知識も次第に深まり達成への情熱も次第に高まってきたのです。養蜂の師匠のスタンプラリー進捗状況とも情報交換しそして旅友も私の後を追い、百名城にチャレンジ中ですがこれらが私の達成への意欲に拍車を掛けてくれたのです。そしてこの日に制覇完了し、次の目標は??。
2015.09.03
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先週末に養蜂場のある農園の片付けを行いました。この夏は、スイカ、カボチャを栽培していました。カボチャは未だ元気に蔓を伸ばし葉も青々と茂っていますが、冬野菜植え付けの準備の為、片付けました。スイカ畑の蔓はほぼ枯れてしまいましたが、一部の株はまだ元気ですが上記と同じ理由で片付けたのです。悪戦苦闘の2時間、雑草除去も行い、養蜂箱の前も綺麗になりました。黒い地面が姿を現すとかなり広い面積でスイカ、カボチャを栽培していたことを実感したのです。その後に、消石灰を蒔き片付けの完了。ミツバチ嬢達も、自宅前の一面の緑の世界から、白銀の世界への変化に驚いているのでしょうか?そして蔓類は腐葉土置き場の上に重ねました。併せて、ミツバチ嬢が花粉を求めて訪花していた向日葵も片付けたのです。この場所では、冬野菜や来年用のソラマメを栽培する予定です。既に自宅にて、これら野菜の種まきを行い順調に発芽し成長を続けています。そしてキャベツ、白菜、ブロッコリー、カリフラワー等々もポットの移植し上記畑への定植の準備も進んでいるのです。
2015.09.02
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土曜日の8月29日夜の私のブログです。ブログのアクセスカウンターが555,046回と切りのよい555,555回が近付いている事に気がついたのです。そして数字は刻々と変わり555,444を通過。 そして、8月30日(日) 昼頃でした。555,555を通過したのです。 残念ながらズーム写真は慌てた為にピンボケ。 そしてこの日の夜には555,999も通過して。そして556,000に到達。 2008/04/10のブログ開設以来2699日。日記記入率は93.4%との表示。 最近のアクセス回数は700~1000回と上記平均206アクセス/日 からは大きく増えているのです。これも「継続は力なり」の結果なのです。この格言の意味は■個々の成果は微々たるものであっても、地道に成果を積み重ねていけば、 やがて大きな目標を達成できる。■今は実力不足であっても、挫けずに修練を積んでいけば、いずれ大成できる。■物事を成し遂げるまで諦めずに取り組み続けるということは、それ自体、 優れた能力のひとつである。 これからも、肩肘張ることなく『つれづれなるままに、日くらし、パソコンにむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。』の気持ちで、日々の出来事を備忘録代わりにアップして行きたいと考えているのです。
2015.09.01
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