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土曜日の朝、農園に向かうと一面の白に驚く。今年初めて?霜が降りていたのであった。 そして畑の地面が盛り上がっている場所も。 3~5cmの霜柱が。そして富士山の姿。裾野付近まで真っ白に変身。 青空を背景に『真白き富士の嶺』 頂上付近はかなりの積雪なのであろう。 斜面は強風で雪が飛ばされている模様。 さらに下部も同様。 再び富士山の勇姿。
2015.11.30
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大崎駅東口の大崎ニューシティ大崎3階広場のファーストフードの前のイルミネーション。広場の隅に設けてある小さな池と噴水。クリスマスイルミネーションのトナカイの姿も。白きトナカイ。こちらは黄色のトナカイ。トナカイが全部で3頭。そして階段を下り目黒川沿いに。「目黒川みんなのイルミネーション2015」が開催中。目黒川沿いの桜をLEDライトで装飾し、冬に咲き光る桜の並木道を作っています。しかも、その電力のエネルギーは地産地消によるもの。100%自家発電での点灯を実現していると。イルミネーションを点灯させるために、電力の代わりに利用するエネルギーが、この地域の家庭や飲食店で使い終わった廃食油。地域の方々に協力いただき、廃食油を回収。それをバイオディーゼル燃料にリサイクル。川面にもピンクの輝きが。対岸も同様に。ピンクの冬の桜のトンネルを歩く。ビルの灯りも水面に映り美しかった。御成橋の橋の下から突然水が噴き出した。放水は目黒川の水質改善とイメージアップを兼ねて、芝浦水再生センターから下水処理された再生水を使用しているのです。ピンクの照明が赤の欄干とともに輝いていました。青の鈴懸歩道橋とその先に大崎ブライトタワーと大崎ニューシティーの間の目黒川歩行者デッキ。大崎ニューシティービル入り口のクリスマスリース。店の前のクリスマス飾り。西口オフィスビル群
2015.11.29
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JR大崎駅前にある「シンクパーク」では、ホワイトとブルーの電飾が使われ、樹木のイルミネーションが美しいのです。線路側から。そしてフットサルコート側から。葉の落ちたケヤキの木々もLEDの電球でお色直し。枝の所々に大きな星の輝きが。青とピンクが仲良く。青と白の幻想の世界。ビル入り口のガラスにも青のイルミネーションが映っていました。青の下に緑の輝きも。5色が輝きを競い合っていました。ピンクもすらっと。幻想の林。見る場所が異なると輝きの色合いも微妙に変化。青の木々が白の輝きに繋がれて。青と緑の輝きの下の水の流れも輝いていたのでした。
2015.11.28
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釜山タワーからの帰路はエスカレーターで鶏龍山を降りる。 ズングリした仏像に出会う。 色とりどりの提灯のようにぶら下がったものが。道の脇にはキムチ用の白菜が大量に積まれていた。 釜山市中区光復洞にある光復路(광복로 : カンボクロ)一帯は文化芸術とファッションの中心地。イルミネーションの準備が行われていた。 T字路には躍動する若者の像が。 南浦洞、大覚寺(テガクサ)の大雄殿。大雄殿の前には大きな黄金の涅槃仏が。基本的には、頭は北向き、顔は西向きとされる。これが後に、一般の俗人が亡くなった時に「北枕」とされる由縁となったのだ。大雄殿の内部には多くの仏像が。 釜山近代歴史館も月曜日のこの日は休館日であった。 地下鉄に乗り梵魚寺(ポモサ 범어사)駅まで行くが時間的に難しそうなので寺観光は諦め、再び地下鉄に乗り釜山駅へ戻る。ホテルに立ち寄り荷物を受け取り、釜山港国際旅客ターミナルに徒歩で向かう。ターミナル内のレストランで昼食。 そして出国手続きを完了しビートル号に乗船し定刻に出港。釜山南港大橋の下を。 蓬莱山の裾野に拡がる街並み。 裾野に貼り付く高層ビル群。 外海に出るとイカ釣り船?が。 船内はほぼ満席。 そして福岡港に定刻に到着し、タクシーと地下鉄で福岡空港に到着。ターミナルビルの鐘にはクリスマスのイルミネーションが。 数十万球のLEDを使った大型イルミネーションをロビーのガラス一面に施していた。 そして羽田空港からバスを利用し、今回の旅を振り返りながら帰宅したのであった。
2015.11.27
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3日目の朝は、朝食後にホテルをチェックアウトし、荷物を預け市内観光に徒歩で向かう。途中右手にコモドホテル釜山(Hotel Commodore Busan)が。釜山の中心南浦洞にある外観が特徴ある高級ホテル。 この日の最初の観光目的地に20分ほどで到着。周辺は「40階段文化観光テーマ通り」と名づけられ、当時の暮らしを表したオブジェ類や街路樹が並ぶ道に整備されていた。40階段は、1950年に起きた朝鮮戦争(韓国では6.25戦争)の避難当時多くの避難民がバラック小屋を建てて暮らし、釜山港から入ってくる物資を売買していた場所。また避難中に離れ離れになった家族との出会いの場所として人々の記憶に残っている場所。「40階段」 付近は、「40階段テーマストリート」 として整備されていた。路面電車の列車のオブジェには 「釜山停車場ストリート」 という表示が。実際、釜山でも昔はかなり広い範囲で路面電車が走っていたのだと。 釜山市内いたるところに葉ボタンが植えられていた。 「休憩するお父さん」 という銅像 「水がめを運ぶ子供」 という銅像 『ポン菓子職人と子供』の銅像。ド~ンと言う大きな音が聞こえてきそう。朝鮮戦争(1950~53)当時、釜山へと押し寄せてきた避難民たちがこの階段周辺でも暮らしていた。言うまでもなく石段の数が40あるので 「40階段」。避難民たちは日々どんな思いでこの階段を上り下りしていたのであろうか。 案内板中央には当時の写真が。階段の真ん中には「四十階段記念碑」とアコーディオンを弾く人の銅像が。 階段を上がってすぐのところには 「40階段文化会館」があったが、この日は月曜日で残念ながら休館日。 釜山タワーに裏側から坂道を登り到着。釜山タワー横の八角形の建物。内部は土産物売り場。 ハートの鍵だらけ。 釜山人はハートが大好き!!。 ピアノ型のミニべンチとハートマークのモニュメント。釜山の顔とも言える龍頭山公園(ヨンドサンゴンウォン)に立つ釜山タワー。高さ約120mとのこと。 展望台からは360度のパノラマが。釜山タワーから東側の眺め。釜山港が目の前に拡がりました。そして釜山南港大橋も。釜山港の沖には多くの船舶が停留中。 蓬莱山(395m)と、手前にはロッテデパートが。まだまだ開発が進みそうな地域も。 跳ね橋として知られる影島大橋。 釜山タワー前の広場を展望台から。月曜日でもありまだ閑散としていた。 龍頭山公園というだけあってか、龍の像が。李舜臣将軍は、腐敗が跋扈して正しき政治が行われ辛かった当時の李氏朝鮮の体制の中、ただ国を守るという初志貫徹を貫き大乱戦の中、命を落とす。1592年の壬辰倭乱、1597年の丁酉倭乱で、秀吉軍を打ち破った韓国の英雄で知られる人物。 鐘楼。
2015.11.26
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国立慶州博物館(クンニッキョンジュパンムルグァン)は慶州の観光を語る上で、絶対に欠かせない場所のひとつ。古都新羅の絢爛なる文化遺産を現代に保存する目的で設立。慶州地域の発掘調査によって出土した多くの文化財を保存展示。現在の国立慶州博物館は2万余坪の敷地に約10万点の文化財を所蔵し、そのうちの約2500点を広く一般に公開していると。入り口の門には真っ赤に紅葉したツタが這い美しかった。 1945年に国立博物館として開館し、1975年に現在の位置に移転したここ国立慶州博物館は、先史時代から朝鮮時代に到る遺物21万点あまりを所蔵してあり、その中で3000点あまりを展示していた。展示館は考古館、美術館、雁鴨地館、特別展示館、子供博物館などがあり、博物館の野外庭園にも多くの遺物が展示。展示館には先史時代の青銅器、銅鏡から5~6世紀の新羅焼、金銀装飾品、新羅瓦、宝剣、8世紀頃の土器、南山の石仏など見どころは多いのであった。特に古墳公園の天馬塚から出土された金冠と帯は必見で、きらびやかな装飾と天地五行を表したというデザインは目を見張らせたのであった。 正面に考古館が。今回は訪ねることが出来なかったが金春秋・武烈大王のお墓から発掘。崇福寺址(慶州市外東邑馬房里)にあった統一新羅時代(9~10世紀ごろ)の亀趺(碑文の台座)であると。 こういう亀が石碑を支えていて、石碑はなくなってしまったが、亀から彼の墓だと判明したと。韓国最古で最大の聖徳大王神鐘。 悲しい伝説に包まれ、博物館を訪れる人の涙を誘うのが、門の近くに建つエミレー鐘。最初に鐘を鋳造した際、どうしても音が響かないため、幼い女の子を人柱として作り直したのだと。出来上がった鐘は美しい音色を響かせたが、その音は「エミレー、エミレー(お母さんの古語)」と叫ぶ子供の音のようだったと。別名エミレの鐘、又は奉徳寺鐘として知らされたこの鐘は、統一新羅時代第35代景徳王(742~765在位)が亡なった父王聖徳大王(702~737在位)の冥福を祈るために、銅12万斤を入れて造ったが失敗に終り、その子である惠恭王7年(771年)に完成した大鐘。 考古館に入る。入り口には新羅歴史館の文字が。 こちらは1921年に民家を建てようとして偶然掘り出された金冠。 コンピューターグラッフィクで装飾具を身につけた王の姿。 天馬塚出土の金製冠帽。三国時代新羅5~6世紀の遺物とのこと。 大陵苑(テヌンウォン)の天馬塚(チョンマチョン)から出土した金冠と金帯。新羅時代の古墳から発掘された美しいこの宝剣は、黒海や中央アジアで作られたと。カザフスタンのある遺跡からも同様の剣が発掘されており、新羅が中央アジアの北方遊牧民と交流していたことを物語るのだと。 これはなんだったのであろうか?王が被った帽子の鍔? 新羅時代の慶州の様子を再現した模型。 首飾り?それとも耳飾りか?先端に勾玉も。厳しいお顔の仏像か? 兵士の如き姿も。こちらも金の王冠。 金製の高坏。 李舜臣将軍?の肖像画。 こちらは誰? 野外庭園にある多寶塔が手前に。そして右手に高山寺跡三層石塔:この塔のあった高山寺跡は徳洞ダムの建設により水没地域になったため、この塔を1975年に国立慶州博物館に移されたと。二段からなる基壇、三層の塔身、そして覆鉢と仰花で構成された相輪部を持つ石塔。雁鴨池館(アンナッジクァン/안압지관)にも慌ただしく。雁鴨池館は月池(雁鴨池)から出土した遺物を展示。新羅円瓦の様々な文様。 雁鴨池のパノラマ模型。小さな仏像様が列んでいた。仏像2体。仏様の後光を表した光背が。 巨大な壺。 再び考古館を横から。 そしてこの日の世界遺産 慶州の1日観光を終了し釜山への帰路へ。途中、若き頃納入業務を担当した下水処理場の消化槽を発見し懐かしさで感激。この日の夜は焼き肉を楽しむ。釜山駅前の広場は美しくライトアップしていたのであった。WELCOM TO BUSAN の文字が。
2015.11.25
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世界遺産 慶州歴史遺跡地区 の石碑が車窓に。韓国の南東部、慶尚北道(キョンサンプット)に位置するここ慶州(キョンジュ) は、約1000年(紀元前57年~935年)の栄華を極めた新羅(シルラ)王朝の都があった都市。街のあちこちに数多くの歴史遺産が現存しているため、慶州は「屋根のない博物館」とも表されている。遺跡の種類により、南山(ナムサン)・月城(ウォルソン)・大陵苑(テヌンウォン)・皇龍寺(ファリョンサ)山城(サンソン)の5地区に分かれており、歴史遺跡地区内には計52の指定文化財が含まれている。2000年にはユネスコ世界遺産にも登録された。大陵苑は慶州の皇南洞にある古墳群の中でも最も大きい規模の古墳群。大陵苑には約400,000m2を越える巨大な敷地に味鄒王陵など23基の古墳が。また大陵苑には、味鄒王陵や天馬塚がある。およそ12万5,400坪の敷地に23基の古墳が保存されているのです。大陵苑古墳群の全体を示す案内図。 慶州は韓国を代表する文化都市である。約千年の間、新羅と統一新羅の都として大きく発展し慶州は、誰でも認める巨大な宝物庫。巨大な野外博物館として知られて南山を中心に都市複数の場所に様々な文化財が散在している。その理由は、新羅が長い歳月の間、都を一度も移動しなかったからであると。チケット売り場。 大陵苑の入口(門)。 大陵苑 扁額の文字も見事。 大陸苑内配置図。紅葉の中を進む。 紅葉の木下で写真を撮る韓国人の姿も。いずこも同じ光景。 韓国の国鳥 カササギであるとガイドから。 古墳群の中で被葬者がわかっているのは新羅第13代味鄒王陵(在位262年~284年)の古墳だけ。古墳はどれも大きく、新羅時代の王あるいは王族のもの見られているが、古墳の中には夫婦で合葬された双子山型の古墳もあるのだと。 黄色の絨毯が一面に。 山茱萸(さんしゅゆ)の赤い実が美しかった。早春に黄色の花が咲き、宮崎県の民謡「稗搗節(ひえつきぶし)」に「庭のサンシュの木・・・」と謡われている・・・とガイドから。宮崎県の民謡と驚くほど博識のガイドに脱帽。紅葉のトンネルを更に進む。 カササギの巣とその上には主の姿も。樹木に木の枝・わらなどを用いた球状の巣を作る習性があると。緑、赤、黄色の絨毯。 最奥の天馬塚が見えて来た。 大陵苑の中でもっとも有名な古墳がこの天馬塚。天馬塚という名前はこの古墳から天馬を描いた馬の泥よけが出土したことに由来。被葬者は不明だと。天馬図と呼ばれるこの泥よけは白樺の皮で作られており、翼の生えた白馬がたてがみを風になびかせて空を翔ける姿が描かれている。この天馬塚からはそのほかにも金冠や腰帯など1万1500点余りが発掘。天馬塚から発掘された金冠と天馬。【http://www.reallre.jp/tour/detail/detailType4.do?subcont_id=1983&ctgry_1dpth_cd=10600&url=%2Fkorinfo%2Flist%2Flist.do】より転載国立博物館でその現物が見られたが、いくつかは精巧な模造品が天馬塚内部でも公開されていた。また天馬塚の内部に入って突き当たりの壁は古墳の断面がわかるように作られており、新羅時代の古墳がどのようにできているかを学ぶことができたのであった。天馬塚の内部は残念ながら写真撮影、ビデオ撮影などは禁じられていた。 行けども行けども紅葉の連続。 皇南大塚は慶州市内でも最大規模の古墳。通常の古墳が円形であるのに対し、この古墳はふたつの古墳がくっついた瓢箪形をしているのが特徴。瓢箪形の古墳は夫婦がいっしょに埋葬されていることを意味。紅葉していない緑の柳も存在感を表していた。 落ち葉を片づける係員の姿も。 慶州歴史博物館への途中に瞻星台が車窓に。7世紀頃に建造され星の動きや月の満ち欠けの観察に使われたという東洋最古の天文台。この日に陵を訪ねた善徳女王の治世下に建造されたとの説があると。
2015.11.24
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昼食前に善徳女王(ぜんとくじょおう、ソンドンニョワン)稜に立ち寄る。車窓から小さな善徳女王稜の石碑を発見し慌ててカメラを構えシャッターを押したがややピンぼけ。ツアーガイドの説明によると『善徳女王』は、韓国にて2009年5月~12月2まで韓国MBCでテレビドラマとして放送され大人気を得たとのこと。 日本でもBSフジで『善徳女王 -The Great Queen Seondeok-』(-ザ・グレート・クイーン・ソンドク-)として、2009年10月から2011年1月で全62話で放送されオバチャンに大人気のドラマとなったと。 【http://www.bsfuji.tv/seondeok/】より転載。田園の中の駐車場に車を停め徒歩で陵に向かう。途中小川で貝を洗うオジサンの姿が。この小川で採れたタニシで食べるのだと。タニシは日本ではほとんど食べないが、韓国では食用に栽培されるほど人気がある食材であるとガイドから。それにしても大漁。そして案内板を見ながら松林の中に進む。 선덕여왕릉 ソンドッヨワンヌン(善徳女王陵)のハングル語が。善徳女王は、日本の飛鳥時代に新羅の第27代の王(在位:632年 - 647年)。韓国5千年歴史上初めての新羅の女王。善徳女王は息子のいない真平王の長女として生まれ、新羅最初の女王となった。在位16年の間に、瞻星台や芬皇寺を創建し、新羅最大の皇龍寺九層木塔を建立するなど新羅建築の金字塔を打ち建てた人物。【https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%BE%B3%E5%A5%B3%E7%8E%8B】より転載。目の前に比較的小さい陵が姿を現した。全周74mの円墳で、高さ6.8m、直径24mになるこの陵の外形は土を丸く積み上げた形態をなし、下部には陵を保護するために2~3段からなる自然石の石築が。説明板によると、太宗武烈王となった金春秋と、名将の金庾信といった人物を率いて三国統一の基盤を築いた。「三国遺事」には、‘私はこの日に死ぬので、その時は忉利天に葬るように命じたが、群臣たちはそれがどこなのか分らず尋ねると、女王は狼山の南側だと言ったた。その後に王が亡くなると、群臣たちは王を狼山南側の日当たりのいい場所に葬った。その後33年過ぎた文武大王19年(679年)、王陵の麓に四天王寺を創建し始めた。仏殿には四天王寺の上に忉利天があるといわれ、その当時に善徳女王の霊妙な神聖さが分った。’と記録が伝わっていると。特に装飾がなく、他の王陵に比べ規模が小さく質素そのもの。王陵の下の方には護国寺として知られている四天王寺址や神文王陵などがあった。 そして10分ほど走って昼食のレストランへ。 この日の昼食は「石焼きビビンバ」。そして昼食料金はツアー料金に含まれているのであった。 ビビンバは、朝鮮半島の混ぜご飯。専用容器にご飯とナムルや肉、卵等の具が載せてありこれを良くかき混ぜて食べたのであった。スープも美味。 そしてガイドの薦めもありチジミも追加オーダー。 イカ入りチヂミは薄く外側はパリっと、内側はもちっとした食感であり、タレにつけて食べたがこちらも美味しかったのであった。レストランには発見当時の石窟庵の写真が貼られていた。 仏国寺の古き写真も。 そして店先の布袋様?が笑顔で見送ってくれた。 我々のツアー車のナンバー。韓国の車のナンバープレートを見てみると、いろいろなタイプのものがあるこのでした。それは、最近10年もしない間に、3回も変わったとガイドから。昔は全て日本と同様に所属の地域名が記載されていた。しかし地域感情を刺激するということで、地域名をなくしたとのこと。それまでは緑地に白色文字であったがプレートの色が緑だと、番号が見にくいということで白に黒字へと変わったのだと。そしてレンタカー車の文字は『ㅎ』がついていると同じくガイドから。この車は호(ホ)であるが허(ホ)等『ㅎ』がついていることでレンタカーと解るとのこと。日本では『わ』がほとんどであるが。車は慶州の中心地に向かって進む。車窓からも見ても、このような古墳や遺跡が日常の生活に普通に馴染んでいてちょっと不思議な雰囲気な空間。 慶州の街は何となくホッとするものがあり、気持ちが落ち着けるのは、高層ビルや新興アパート群が無く、町を取り巻く自然と遺跡群のせいなのであろう。人の姿がない遺跡群の風景を楽しみながら車は進んだのであった。
2015.11.23
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石窟庵を後にし、坂を下り同じく仏国寺に到着。駐車場は既に満車状態で車を手前で降り徒歩で向かう。 1995年にはユネスコの世界遺産にも認定され、韓国が世界に誇る宝。仏国寺では6つの国宝を始めとして統一新羅時代に作られた貴重な文化財が多数あり、見所満載。 『佛國寺』と書かれた山門の扁額。 仏国寺案内図。 韓国仏教界の最大勢力である曹渓宗(大韓仏教曹渓宗)の寺。チケット売り場の裏の山の紅葉も見事であった。 山門から中に入ると左手に巨大な見事な松の老木が。 仏国寺本堂に向かって境内を歩く。左右は紅葉の真っ盛り。 天王門((チョンワンムン)。 天王門の左にある阿吽形相の仁王像。足下ではそれぞれ、悪魔を踏みつけていた。天王門の右にある阿吽形相の仁王像。 石橋の上から。 石垣で固めた盛土の上に伽藍が配置されていた。 大雄殿正面の紫霞門に掛かる石橋。751年の時から存在している遺構と考えられている。上段の16段が白雲橋、下段の17段が青雲橋。合わせて33段であるが、仏教で33は未だ仏の境地に達せずという意味であると。 横に廻り坂道を登る。道路脇は真っ赤なモミジの絨毯が。 大雄殿の脇の参道に出る。 左が木魚(もくぎょ)、右奥が雲版(うんぱん)。 大雄殿。彼岸世界を表す大雄殿の中には、仏国寺の本尊である釈迦牟尼像が安置されていた。大雄殿前から本尊である釈迦牟尼像のお顔を。多宝塔。高さ10.4m。新羅時代751年の作と推定されていると。四面に階段が設置されまた、塔下部は四本の柱で支えられている珍しい塔の形状。また塔の周りには石獅子が配置されていたが、現在では1体だけが残っていた。隣にある釈迦塔はこの日は修復工事中で仮設建屋の中。2匹の龍は大雄殿(テウジョン)の屋根の下に。1匹は魚を、口にくわえていた。もう1匹は如意珠を。隣の極楽殿。 極楽殿扁額。極楽殿と書いてある看板の裏側に、豚(猪)の彫刻が隠れていた。ガイドさんによると、この彫刻は観光客が発見したのだと。さらにもう1つ、極楽殿の正面に黄金の豚(猪)が鎮座。幸運をもたらす豚(猪)と呼ばれていて、観光客が次々に触っていた。もちろん、二人も丁寧に撫でて来たのであった。でもこの2週間前には大量の猪肉を楽しんだのであったが・・・・・・・。極楽殿の回廊の柱はエンタシス様式の柱。古代ギリシャ発祥でシルクロードの終着点である日本にも伝わり法隆寺回廊に見ることができる様式。 仏国寺は石組みが特徴的的で野面積みの石垣。礎石の黒い部分は1592年の文禄の役で、朝鮮に攻め入った豊臣秀吉軍によって全山の堂塔が焼失した時の跡だとの説明が。 仏国寺の境内の紅葉は見事の一言。京都のお寺にいるが如し。仏国寺写真のBEST SPOT。手前が安養門、その下に七宝橋と蓮華橋。 そして山門まで戻る途中も紅葉の林の中を。 緑から濃い紅色のBEST MIX。 以下 言葉は要りません。
2015.11.22
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翌朝は6時前に起床。韓国の紙幣は下の写真の4種類。【50000ウォン札の人物】は 申師任堂 신사임당 シンサイ(ム)ダン 詩、絵、書道に堪能な朝鮮時代の芸術家。韓国の賢母良妻の代名詞各で、 5000ウォン札に描かれている「李珥」の母親。【10000ウォン札の人物】は 世宗大王 세종대왕 セジョンデワン 朝鮮の4代国王。15世紀、学者達を集め、韓国固有の文字、ハングルを作ったことで有名。 科学の発展にも大きく貢献した人物。【5000ウォン札の人物】は 李珥 이이 イイ 朝鮮時代の学者、政治家。朝鮮時代の思想と政治改革に大きな影響を与えた人物。【1000ウォン札の人物】は 李滉 이황 イファン 16世紀朝鮮時代の哲学者で、韓国の思想と人格を象徴する代表的な君子。朝食は東横インスタイルの無料バイキング。 この日の慶州観光はネットで専用車による日本語ガイド付きの日帰りツアーを申し込み済み。9時にホテルに迎えに来ると前夜確認のTELあり。それまで釜山駅を二人で散策。 駅前広場の巨大な輪。空港を思わせる建物は釜山駅。在来線と韓国の新幹線が乗り入れている釜山最大の駅。 ロッカーは日本と同じコイン式。小型の物は日本円で200円。 新幹線KYX乗車券売り場には列が出来ていた。 新幹線ホームまではチケットなしで自由に入れるシステム。 釜山駅東側からは前夜美しくライトアップされていた釜山港大橋が正面に。 写真左の、山の裾野には釜山を一望できる大庁公園(テチョンコンウォン)が。1950年に起こった朝鮮戦争の際、戦死した国軍の位牌を祀る慰霊塔が見えた。そして時間通り、ツアー会社の車がホテルに到着し慶州ツアーへ出発。大きなワゴン車に男性ドライバー、女性ガイドそいて我々2人のみ。車窓からは釜山市民の高層アパートがいたる場所に。 ソウルまで繋がっている京釜高速道路(キョンブこうそくどうろ)(1号線)料金所。 車窓からは、稲刈りの終わった水田には白きロールベールラップサイロが多くの場所に。ロールベールラップサイロとは、円筒状(タイコ形)に梱包した牧草をラップして発酵させ飼料化する手段。 そして慶州ICに到着。世界遺産になっている慶州のゲートの建物は寺院風。 橋の欄干には大きな鴟尾が。 街路樹の銀杏は真っ黄色に染まっていた。 そして日光いろは坂の如き山道を登っていくと世界遺産 石窟庵(ソックラム)に到着。 石窟庵山門。 右から読んで、『吐含山石窟庵』の扁額が懸かった山門の光景。 山門横のモミジの紅葉は今が盛り。 石窟庵に向かって緩やかな山道を登る。 正面に世界遺産の石窟庵が見えて来た。 ツアーガイドの許さんが石窟庵の歴史を詳しく説明してくれた。1909年、郵便配達員が配達のため吐含山の峠を越えようとしたところ、突然豪雨に見舞われ山中の洞窟に逃げ込んだ。その洞窟の中に偶然仏像を発見。新羅の景徳王と恵恭王の時代の宰相だった金大城(700年 - 774年)が自分の父母のために「石仏社」を建立した、と高麗時代の『三国遺事』に記されているのだと。石窟内は方形の前室と、円形の主室が扉道で繋がり、主室の真ん中に高さ3.4mの釈迦如来坐像が東を向いて安置されていると。蓮花の文様が浮き彫りされた台座に座す本尊。慈悲深い表情をしていると。ドーム型の天井は蓮華文様。これは釈迦如来坐像の天蓋に見立てていると。更に山を登り石窟庵に到着。横にある入り口より石窟庵内部へ。 本尊は、高さ3.4mの如来坐像である。如来坐像の額には、ガラスが埋め込まれていた。観光客はそこから釈迦如来坐像を拝むことに。写真撮影は禁止。金色の坐像が穏やかに鎮座していた。主室と前室を繋ぐ扉道は、俗世の地界と仏の天界を繋ぐ道。主室入口の両脇では、仁王像や四天王像が本尊を警護。よく見えなかったが、本尊の周囲には釈迦の弟子像が居並び、背後には十一面観音が浮き彫りされていると。柔和なお顔そして唇には薄いピンクの口紅が塗られているように見えたのであった。如来様にしばし合掌。 【http://blog-imgs-57.fc2.com/t/o/r/toriton/f0054032_18295823.jpg】より転載。 正面には台座のみが。説明を聞きましたが忘れてしまいました。 美しい色彩豊かな屋根。 ここが本来の入り口であったと。 再び石窟庵(左)を下から仰ぎ見る。右側は「壽光殿」。石窟庵の山門の手前左側にある「仏国大鐘閣」。 巨大な鐘。本尊である釈迦如来坐像の位置は、ちょうど夏至と冬至の朝日が当たるように設計されているのだとか。昔訪ねたエジプト・アブ・シンベル宮殿と同じ。額に埋め込まれた宝石が洞窟内に差し込んだ朝日に輝く様を思い浮かべるとあまりにも気高く、厳かな美しさに満ちていると感じるのであった。
2015.11.21
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富平市場、国際市場を梯子しBIFF広場(ビプクァンジャン)に到着。BIFFとは映画ファンにはお馴染みの釜山国際映画祭(Busan International Film Festival)の頭文字をとったもの。毎年秋にはこの通りにある映画館や特設会場でBIFF広場の名物で忘れてならないのが屋台フード。日本人観光客に大人気のホットク(シナモンのはちみつ入りパン)をはじめ、お馴染みのトッポッキ、キンパッ、おでん、するめ、フルーツ、たいやき、焼き栗などなど。この日も土曜日でもあり若者や観光客ででごったがえしていた。広場の一部は工事中であった。そしてジャカルチ市場入り口に到着。釜山で新鮮な海産物といえば、チャガルチ市場。韓国内きっての有名な海鮮市場であり釜山市民の海産物の台所。 イイダコ、エビ、カニ、巻き貝、大きな二枚貝がSETになって売られていた。いろいろな種類の巻き貝が山盛りで売られていた。 巨大な蛸が並べられていた。 光輝く太刀魚、水の流れの如し。 チャガルチ市場の近代的なビルの先には灯台のモニュメントが。 影島の中央にある蓬莱山(海抜395m)と手前の赤い箸は影島大橋(ヨンド大橋)。影島大橋は、釜山広域市中区と対岸の影島(影島区)を結ぶ、全長214.63m、幅18.3mの橋。韓国唯一の跳ね橋として1932年に着工し、1日7回20分間隔で開いていた橋は、地元市民に愛され、シンボル的存在な橋だったと。後に水道管の工事の関係で1966年に跳ね橋は廃止され、現在は開かない橋として南浦洞と影島を結ぶ交通の便として活躍。蓬莱山と写真右には近代的な装いのチャガルチ市場が。 チャガルチより南港(ナムハン)大橋が見えた。長さ1.9キロ、往復4車線のこの橋は、全体橋梁区間の中で海上に建設された1.2キロの内港に幅3メートルの歩行者の通行のできるプロムナードが設置されて魚市であるチャガルチ市場一帯と龍頭山公園に聳え立ている釜山のシンボルともいえる釜山タワー、影島などの南港全景を潮風を浴びながら橋の上で観ることもできるのだと。チャガルチ市場の屋上には釜山の海や釜山市内を一望できる展望台のようなハヌル(空)公園(ハヌルゴンウォン 하늘공원) があったのでエレベータにてそこに向かう。釜山タワーにも灯りが灯っていた。釜山タワーは韓国で初めて観光用灯台にも指定された。釜山タワーは韓国の灯台の中で最も高く、日没から22:40までまで灯りをともすとのこと。日没前で未だ灯台用の光は出ていなかった。 釜山の人々はハートマークがお好き!! ジャカルチ市場内で夕食を楽しむ。 巨大な茄子かと思ったが紫のコールラビもテーブルに。カリッと歯ごたえがよく、ほのかな甘味が。イカの刺身。しかし盛り方が美しくなかった。 こちらの鯛の刺身も巨大。 白菜、エゴマ、細ネギ?、紫レタス?もテーブルに。 生ビールの後は韓国焼酎C1を楽しむ。 そしてホテルへの帰路には先ほどの小型灯台がライトアップされていた。 光復路のLOTTE MALLもライトアップされていてキレイ であった。影島大橋も。 釜山港大橋もライトアップ中。LED照明が色とりどりに変化。 再び影島大橋のライトアップ。 海岸沿いを歩き、釜山駅横のホテルに到着。そして二人でツインの部屋に。再び釜山焼酎C1をコンビニで購入し、部屋でこの日の反省会を。そしていつのまにか爆睡。
2015.11.20
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臨時首都記念館を出て港の方に歩く。韓国国旗を発見。韓国の国旗は、「태극기, 太極旗、テグッキ」 といいます。白地の中央にある円で「太極」を表し、その中に赤と青の2色からなる「陰陽」があり、その周囲四隅に「卦」が配置されたデザイン。赤は陽、青は陰を表し、太陽と月、天と地、昼と夜、男と女、といったように、万物は相対するものが調和して統一されるという古くからの東洋思想に基づいた宇宙観を意味している。「卦」が意味するもの向かい合っているものが対応している。対立と調和、表裏一体の関係で、すなわち東西南北、父母兄妹などを表す。下の写真の左側の国旗で左上:乾(けん)といい天を表している。右下:坤(こん)といい地の無窮の精神を表している。右上:離(り)といい日の光明の精神を表している。左下:坎(かん)といい月を表している。臨時首都記念館前の階段上のモニュメント。「群像」 という像。円盤の中にさまざまな人間の顔の表情が刻まれていた。ここにはもともと、外套を着たイ・スンマン元大統領の銅像が建てられていて「指導者の階段」 と呼ばれていたが何者かにより銅像に赤いペンキがかけられ、撤去されたのだと。消防署の建物の壁には、避難生活時代、市場に品物を並べて売っていた風景が描かれていた。私が子供の頃よく遊んだ懐かしき馬乗り。そして銅版画。その下にはアイロンや電話機、タイプライターなども描かれ、その時代の風俗をうかがうことができた。『男の子の像』。『カルメ焼き』を作っている?それとも練炭で暖をとっている(?)少年の像。こちらも銅版画。この銅像は、朝鮮戦争の辛い時代にも、学ぶことを諦めなかった韓国の子供の青空学校で学ぶ様子をイメージした銅像。背後にある文字は 「훈민정음」(訓民正音)。訓民正音とは、李氏朝鮮の世宗が制定した文字体系ハングルの古称、あるいはそれについて解説した書物のことを言うとのこと。韓国版、二宮金次郎像といったところか。釜山永楽教会。 この通りの街路樹の銀杏は黄葉が始まったばかり。富市市場の富平(プピョン 부평)の文字が読めた。韓国で初の試みとして注目を集めているのが「夜市場」。南浦洞の国際市場の隣りにある富平市場(通称カントン市場とも)では夕方、日が落ちてくると夜限定の市場、夜市場が始まると。様々な野菜が店頭に。豊富な果物も。魚の店。太刀魚、鮑、蛸等魚介類のオンパレード。キムチの材料か。アーケード。 キムチを作っているオバチャン。売れ残った鮮魚はどうするのであろうか心配。携帯電話を片手にチジミを作るオバチャン。天ぷら屋さんも。調理済みの巨大な豚足も。しかしじっと我慢の見るだけ。何の幼虫であろうか。食べるの?こちらも不気味。粉にした漢方薬?돌담치(トルダムチ)という貝の剥き身。様々な色、形の梟(ふくろう)の置物。韓国では、フクロウが福を招く「吉鳥」と考えられているのです。『不苦労』、『福老(豊かに年を取る、不老長寿のお守り)』????読み方が違うから、これは私:日本人の発想なのですが。失礼いたしました。しかし日本の「招き猫」的な存在となっていること間違いなし。
2015.11.19
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安いタクシーに味を占めて再びタクシーで移動。到着地は釜山・臨時首都記念館。臨時首都記念館 正門。入場料は無料!韓国の首都といえば、ソウルだが、釜山も一時期臨時の首都として機能していたのだと。それがいつかというと1950年に勃発した朝鮮戦争当時。1950年は私が生まれた年。戦争が起こり、韓国内が戦地と化すと、釜山には多くの避難民が集まり出したのだと。それと同時に、釜山が政治、社会、経済などすべての面で中心となり、臨時の首都にも指定され、韓国の初代大統領李承晩(イ・スンマン)大統領もここ釜山で執務を行うことになったのだと。そして、その際大統領官邸として使われていた建物、それが現在は記念館となっているこの「臨時首都記念館」。この建物は、もともと晋州にあった慶尚南道道庁が釜山に移転してくるにあたり1926年8月10日に竣工され、慶尚南道知事官舎として使用された。今でこそ人口350~360万人の釜山広域市だが、晋州が道庁だった当時は人口20万人ほどの小さな街で、道庁に見合うほどの規模ではなかったのだと。記念館前には当時の状況が写っているいろいろな写真が展示されていた。記念館入り口。記念館内は土足厳禁。入口で靴を脱いでスリッパに履き替える日本風システム。もともとは戦前の日本大使館公邸で、赤煉瓦の素晴らしい日本式の建造物。臨時首都記念館の案内板。玄関右手にある応接室。ここで、当時の政府関係者が会議を。その当時の大きな写真が展示されていた。大統領執務室には李承晩大統領の蝋人形が仕事をしている風景が作られており往時を偲ぶことができたのであった。李承晩大統領夫妻の寝室。ファーストレディは、オーストリア人のフランチェスカ・ドナー夫人。夫人もチマチョゴリを着ていたのであろう。韓国の伝統螺鈿細工の箪笥と並んで置いてある赤の箪笥はフランチェスカ女史の持ち物。ダイニングテーブル。椅子の背もたれの曲線美が印象的。まるで動き出しそうな女性。こちらは ”証言の部屋” 。当時は警備室として使われていた。朝鮮戦争の惨禍を伝えるために、当時特攻隊員として戦争に参加していた女性の証言(肉声)が流れていた。浴室には日本式の浴槽と懐かしき洗濯板が。男性トイレ。”回想の部屋” では資料映像を見ることができた。いろいろな生活用具が展示されていた。 官邸の裏には、映像室(知事官舎・旧高検長官舎跡)が。当時の白黒写真をカラー画像で。避難した人々の、当時のバラック住居?を再現。板きれを集めて建てた家。避難生活の厳しさがうかがえたのであった。多くの皿絵が展示されていた。そして釜山名物ミルミョン(蕎麦粉の冷麺)の文字も。10/15-12/15まで釜山を代表する料理・ミルミョンの「釜山ミルミョンの話特別企画展」が臨時首都記念館にて開催されていた。当時の臨時首都政府庁舎の写真。私の生まれた1950年当時の釜山地域の航空写真。記念館は主に、朝鮮戦争当時の釜山の写真、や当時大統領だった李承晩(イ・スマン)の写真や遺品などが展示されていた。また日本人が建てたというだけに、横開きの押入、ドア、電燈など至る所に日本的な要素も感じることのできる記念館なのであった。
2015.11.18
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ホテルへのチェックインは済ませたが、入室は15時以降とのことで荷物を預けて観光開始。最初はタクシーにて20分ほどの甘川洞文化村へ。釜山の初乗り料金は2800W(ウォン)そして到着時は7100W。日本円で1/10の700円。10000W紙幣を出し、おつりをもらう1000W紙幣3枚が、日本語は喋れなかったが親切な釜山のタクシードライバー。東京のタクシーの初乗り運賃が730円、ここでは20分ほど乗っても日本円で700円、とにかく釜山のタクシーは安いと感動。もう少しスピードを落としてくれれば更に感動であったが。最近ホットスポットで若者に人気ある甘川洞文化村、韓国語では「カムチョンドンムナマウル」。日本からのオジサン二人連れはやや大胆なそして不似合いの場所であることは承知の上。坂を登っていくとカラフルに描かれた矢印いや魚?のような板を張り付けた巨大鯨?が出現。巨大なハートも。甘川文化村案内図。そして散策コースも紹介されていた。甘川洞文化村の案内所。今ではすっかり見られなくなった、朝鮮戦争直後の貧しい避難民生活をしていたころの様子や当時の生活用品、昔の紙幣、歴史が簡単に紹介されていると。外壁は巨大なキャンバス。家屋を利用しアートを織り交ぜた町おこしを行い、いまでは甘川洞文化村と呼ばれるようになった街。山肌に立ち並ぶ家屋はカラフルにカラーリングされ、入り組んだ路地のあちこちにはアートオブジェが並び、ユニークで珍しい景色を楽しめるスポット。緑の家の屋上にはこれもカラフルな鳥たちのオブジェが。巨大アートの花?記念撮影するのは若い女性ばかり。我々おじさん二人はツーショットの記念撮影をぐっと我慢。(笑)元々は朝鮮戦争後に行き場をなくした人々が住み始めた街であったが、2009年と2010年の「マチュピチュプロジェクト」でカラフルでアートな街に生まれ変わったとのこと。こちらにも鳥達のオブジェが・・・しかしこちらの頭は様々な表情の人間。いろいろな建物の屋上に鳥が群がっていた。坂道を登る若者のズボンを履いた足。そしてその上には葉ボタンが置かれていた。これぞアートの街。今回の旅行でいたる場所で葉ボタンが街の道路脇の鉢に植えられていたのであった。カラフルな狭い路地には急勾配の石の階段が至る所に。釜山のマチュピチュと称されるわけ、それは入り組んだ路地が迷路のようにみえるためだと。しかし本物のマチュピチュを訪れた私には納得出来ない呼び名。本物のマチュピチュと同じく山の斜面に作られた街には違いないが。下には釜山の海も見える場所まで登ってきたオジサン二人。壁一面に白樺の林を泳ぐ鯉が2匹。山肌に沿って家屋が立ち並び、いくつもの歩道も入り組んだ街が形成されていた。この景色に惹かれた美術家や写真家などが村にアートギャラリーをつくり始め、2009年から始まったマチュピチュプロジェクトにより、甘川洞文化村という新しい観光名所に変身。この場所で記念撮影するカップルが次々と。その合間にシャッターを。木村拓哉主演の映画「HERO」のロケ地としても有名だと。『星の王子さま』。カラフルな街並みを眺める王子さまと一緒に。前からは撮影出来ない場所。人気の撮影スポットで・・・・・・・・多くの観光客が列をなして順番を待っていることを知らぬかのようにじっともたれかかって動かぬ女性。もちろん日本人ではないこと間違いなし。こちらも撮影スポット。アートな街並みが額縁の中に。難民たちが住居を求めてバラックの集落を作ったことが始まりの街も観光地に大変身。まるでレゴブロックの如し。ハングル文字が魚の形に。魚モチーフが多いのは、元々ここで暮らしていた住民に、港の魚市場で働く人が多かったことによるのであろうか。坂道を下っていくと曲線美のモニュメントが。「虹が咲く村」という作品。家々の屋上には水道の貯水タンクであろうか樹脂製のタンクが。このタンクだけはどこでも何故か青色。更に坂道を下っていくと色鮮やかな寺院の如き大きな建物が。高層住宅がほとんどないこの街ではこの建物がひときわ目立ったのであった。太極道本部の文字が。ネットで調べてみると、1910年代に趙哲濟(チョ・チョルセ)という人が作った太極道という民間信仰団体の名称であるようだ。 ここの街の名前は “太極道マウル” とも言うらしい。確かに目立つ色彩の建物。市民・コミュニティ・行政が一体となって町興しをし、明るくなった街、甘川洞文化村。実は我々は半分も周れなかった事間違いなし。しかし街全体が壁画と芸術に溢れていて、非常に楽しく、癒された、今回の韓国釜山の最初の観光地であったのだ。
2015.11.17
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【海外旅行 ブログリスト】👈リンク友人と韓国 釜山・慶州に2泊3日の旅程で行ってきました。JR九州高速船ビートル (Beetle) で博多港国際ターミナルから出発。インターネットで予約しておいたチケットを1階ロビーのカウンターにてGET。9:30発 JF109便。 併せて600円/日のWI-FIを3日間レンタル。2階出国ロビーには多くの日本人、韓国人、EU人?が。 この日のBEETLE号。博多~釜山間を3時間で結ぶジェットフォイル。 進行方向左側の窓際席を確保。 定刻の9:30に出港。博多港のシンボルとして親しまれている博多ポートタワー。地上70mの展望室からは360度の大パノラマを望むことができる。 そして博多-壱岐-対馬を結ぶ「フェリーきずな」が停泊中。1時間ほど進むと船窓から遠く対馬が見えて来た。対馬は、日本の九州の北方の玄界灘にある、意外にも長崎県に属する島。いまにも雨が降り出しそうな雨雲の下に対馬の山々が見えた。 そして対馬島の韓国側の最先端。そして3時間あまりで山の傾斜面にはりつく釜山の高層ビル群が視界に。 影島のクルーズターミナル横にある釜山国立海洋博物館が。 そして釜山港大橋下を通過。 釜山タワーが霞んでいたが視界に。 そして新しい釜山の海の玄関口『釜山港国際旅客ターミナル』に到着。今年の8月31日にオープンしたばかりの釜山駅向かいのターミナル。そして下船すると先ほど下を潜った釜山港大橋が後ろに。釜山市の南区戡蛮洞と影島区青鶴洞を結ぶ全長3331m、幅18.6~25.6m、主塔の高さが海面から190m、片側2~3車線の鋼合成斜張橋式吊り橋。そして韓国入国ゲートに向かう。 無事に入国して、ターミナルから荷物を転がしながら釜山駅横のホテルに徒歩で向かう。釜山港国際旅客ターミナルは地上5階。地下1階、延べ面積93000m2とサッカー場13個分のアジア最大級のターミナル。 そしてやや遠回りしたものの、釜山駅が見えて来た。 釜山駅構内2階コンコースを横断。2010年に改修工事が完了したとのこと。駅前広場。 そしてこれもネットで予約しておいた釜山駅横の東横イン釜山駅1に13時過ぎに無事到着。 ふと、「釜山港へ帰れ」の歌を想い出す。椿咲く春なのにあなたは帰らない佇む釜山港に涙の雨が降るあついその胸に 顔をうずめてもう一度幸せ 噛みしめたいのよトラワヨ プサンハンヘあいたい あなた行きたくてたまらないあなたのいる街へさまよう釜山港は霧笛が胸をさすきっと伝えてよカモメさん今も信じて耐えているあたしをトラワヨ プサンハンヘ逢いたいあなた以前テレビでこの歌は男女の仲を歌った歌ではなく『釜山港から日本に行ってしまって、帰ってこない、在日同胞を歌った歌』と知ったのであったが。
2015.11.16
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我が家の横の農園のカリフラワーも順調に成長しています。 中心の白きカリフラワーが日増しに大きくなって来ています。 葉に包まれるように白色の蕾が蕾一つの塊のように堅く結びついています。今年初めての収穫です。 この日はシンプルに茹でてマヨネーズで。花蕾のさっくりとした歯ざわりが深まり行く秋を感じさせてくれました。。
2015.11.15
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この日の仕事を終え阿蘇の宿へ。宿の壁には阿蘇の噴火している姿を表現した壁画が描かれていた。夕食を楽しむ。そして翌早朝はホテルの温泉へ。 早朝5時過ぎで静かな空間。 着替室。 宿泊者専用の内湯。緑白色のにごり湯を独り占め。風呂の後はバイキング方式の朝食。 ホテルロビーからの雨の庭園。 館内の土産物売り場も人影はなし。 ホテルの隣にあるどんどこ湯まで散策。ホテル本館。 紅葉も終わりに近づいていた。 どんどこ湯までの渡り廊下を進む。 ようやく入り口近くに。 どんどこ湯棟正面。広大な敷地に阿蘇の火山石をふんだんに使った庭園露天風呂が自慢。溶岩石と自然木を大胆に組み合わせたダイナミックな男性庭園露天風呂はお風呂が4つ、日本庭園をイメージし、溶岩石を美しく配置した女性庭園露天風呂はお風呂が3つ。木造彫刻の豚が迎えてくれた。 温泉につかっていい気分。 こちらは早朝は営業休止中。湯量豊富な源泉かけ流し。美人の湯と称される硫酸塩泉が湧出していると。渡り廊下の両側の落ち葉の絨毯が雨に濡れて美しかった。 ホテル本館と手前はホテルフロント棟。 カラフルな折り鶴も美しかった。 雨のホテル玄関。 そしてこの日も近くにある事業所へ。
2015.11.14
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この日は午後の便で熊本空港へ。 JAL631便。 離陸後は暫くは雲の上。そして雲が切れると伊勢湾上空手前。 伊勢湾内に浮かぶ中部国際空港。 伊勢湾岸自動車道の名港トリトン。 大阪上空からの大阪湾。左に関西国際空港、右に神戸空港。 関西国際空港と連絡橋。 大阪伊丹空港。 神戸空港が再奥に。 淡路島と明石海峡大橋。 明石海峡大橋の白き主塔が見えた。淡路市岩屋とを結ぶ、明石海峡を横断して架けられた世界最長の吊り橋小豆島。 瀬戸大橋。 塩飽諸島の5つの島の間に架かる6つの橋梁と、それらを結ぶ高架橋により構成。瀬戸内しまなみ海道の来島海峡大橋。今治上空。 松山空港。 四国電力(株)伊方原子力発電所。四国最西部、佐田岬半島付け根付近の北側斜面に位置し、瀬戸内海(伊予灘)に面している。四国電力および四国地方唯一の原子力発電所である。国内原発で唯一内海に面する。 佐多岬。四国と九州を結ぶ豊予海峡大橋、トンネルの完成はいつの日に?。 噴火中の阿蘇山は雲の下。そして熊本城の天守閣が見えた。 熊本県民総合運動公園。 そして阿蘇熊本空港へ到着。
2015.11.13
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今年も我が家の横の農園の隅の皇帝ダリアが開花を始めました。 強風で倒れてしまった幹にも多くの花を付けています。今年は例年に比べて花数が多い気がします。 別名は木立ダリア。成長すると3~4mにもなる事から皇帝と名付けられたようです。風に弱いので、幹をロープで縛っておきましたが不十分で倒れてしまいました。今朝は曇天。青空を背景にするとこのピンクの色が映えるのですが。 約1ヶ月間咲き続け、開花を楽しめますが、初霜とともに黒変してしまうのです。 八重咲きの種類も植えていますが、こちらは開花が遅いため、霜にやられて花を見られない年が多いのです。
2015.11.12
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10月31日(土)に種まきした空豆が発芽しました。 種まきして12日目です。最初に根っこが出来、その後に発芽するのです。 本葉が出揃って、3~4枚になるまでこのポットで育てます。種まきが早く、あまり苗が大きく育ってしまうと寒冷期に凍害を受けてしまうのです。 同時に播いたスナックエンドウも発芽しています。 1個のポットに3粒づつ播きましたがほぼそろって発芽してくれました。 こちらも本葉2~3枚程度の幼苗で越冬させ、4~6月頃に収穫をするのです。スナップエンドウも空豆と同様に幼苗の頃が最も耐寒性が強いので(大きくなると弱くなる)、越冬するときに苗が大きくなりすぎないように種まき時期に注意する必要があるのです。
2015.11.11
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福岡の仕事を終え、福岡空港から伊丹空港経由で新潟空港へ。バスにて新潟駅に到着。駅前通りをこの日のホテルに向かう。私の仲間?の布袋尊が迎えてくれた。大きな袋をたずさえ、太鼓腹で常に笑顔の和尚様。清廉潔白、大気度量の福徳を授けてくれる七福神。 そして道路沿いには七福神の銅像が列んでいた。新潟県を代表する工芸品のひとつ、三角だるまも迎えてくれた。ホテルにチェックインしこの夜は同僚と合流し新潟メディアシップに向かう。 1Fロビーにはハロウィンの展示が。 19Fにある廻船問屋 日本海に入る。一升瓶を用いたカラフルな照明が美しかった。 信濃川沿いの夜景も美しかった。 新鮮な魚を楽しむ。そして日本酒も。 萬代橋。萬代橋は、信濃川に架かる国道7号の道路橋。国の重要文化財に指定されている。 朱鷺メッセ 新潟コンベンションセンター。 そしてこの日の月は立待月(たちまちづき)。
2015.11.10
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羽田空港から飛行機で福岡に飛びました。機窓からの景色を楽しむことが出来たのです。東京ゲートブリッジ。 東京港第三航路を跨ぎ中央防波堤外側埋立地と江東区若洲を結ぶ橋.恐竜が向かい合っているような特異な形状をしている事から恐竜橋とも呼ばれる橋。レインボーブリッジ。港区芝浦地区と台場地区を結ぶ吊り橋。1987年(昭和62年)着工、1993年(平成5年)8月開通。 「レインボーブリッジ」の名前は一般公募により決められたもので、正式名称は「東京港連絡橋」。 味の素スタジアムと調布飛行場。2003年3月から味の素がネーミングライツを取得しており、「味の素スタジアム」(略称「味スタ」)の呼称を用いている。東京競馬場。東京都府中市にある中央競馬の競馬場。所在地から府中競馬場(ふちゅうけいばじょう)とも。陸上自衛隊立川駐屯地。東部方面航空隊等が駐屯する陸上自衛隊の駐屯地。正月の国内年中行事になっている箱根駅伝2016予選会はここを中心に行われたのだ。 私が若い頃通った大月にある光デバイス工場。甲府盆地上空へ。初冠雪の山。黒岳か?黒岳は、山梨県南都留郡富士河口湖町と山梨県笛吹市芦川町との境界に位置する標高1,792.7mの山。遠くに諏訪湖が。小渋湖。小渋ダムは、長野県下伊那郡松川町と上伊那郡中川村との境、天竜川水系小渋川に建設されたダム。木曽山脈は紅葉の真っ盛り。 長良川競技場、サッカー場そして岐阜メモリアルセンターで愛ドーム。 琵琶湖東岸 。 琵琶湖西岸 近江今津付近。 琵琶湖西岸安曇川付近。 そして雲の上に。気が付くと既に福岡上空へ。玄海島。「ベイサイドプレイス博多埠頭」より定期船が出ており約35分の船旅で到着する島。福岡タワーと高層ビル群。 福岡 ヤフオク!ドーム。大濠公園。福岡城の外濠で、入り江でもあった草香江をもとにした大きな池が特徴的な公園。池を貫くように島がいくつか存在し、それぞれが橋でつながっているのが見えた。平和台陸上競技場が眼下に。そしてしばらく博多の街上空を飛び旋回して福岡空港へ着陸。 地下鉄で中州川端駅で下車。大型複合商業施設 博多リバレイン。3棟の建物から成る。中核的施設は博多座、福岡アジア美術館、博多リバレインモールおよびホテルオークラ福岡となっている。 カラフルな柱に目を引かれた。上の写真のエスカレーターの屋根も川の流れを表現しているのであろうか? 鏡天満宮。 この鎮座地は菅原道真が博多に到着した時に鏡で姿を映した場所と伝えられ、そのときの鏡を神体とすることから「鏡天満宮」という社名になったと。ビルの連絡橋の手すりには多くの漢字の文字が。 作者:周興嗣(470~521)の千文字が。雲騰致雨 露結為霜 くもはのぼりてあめをいたし、つゆはむすびてしもとなる。雲は昇って雨となり、露がかたまって霜となる の意。 福岡営業所の車に乗りこの日のお客様の施設に向かう。昭和通り沿いにある福岡市文学館。建物は明治時代の建築家辰野金吾工学博士他の設計。ドームや小塔、屋根窓を配した銅板葺きの屋根や赤煉瓦と白い花崗岩の外壁は、19世紀末の英国様式を応用したもの。昭和44年(1969)に国の重要文化財に指定された。
2015.11.09
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今年も、我が農園で高校時代のクラス仲間で芋煮会を行いました。今年は総勢10名。クラスのマドンナ3名そして初老のオジサン6名。そして我が会社の若き同僚も1名参加して下さいました。初デビューはYさんそしてTさんの2名。茅ヶ崎からのYさんが、庭で実った柚の実をたくさん持ってきて下さいました。準備の先行隊は9:30に地元の駅に集まって下さいました。そして9:00からオープンしているスーパーで買い出し。我が農作業車で数回、農宴会場までピストン輸送。九州・伊万里の親友からご自分の農園近くで捕獲した猪の肉もタイミング良く送って下さいました。前処理がきちんとされており、臭みも全くなく美味。網で焼き、塩こしょうを振って楽しみました。そして。この日は残念ながら不参加となりました単身赴任中の上司のTさんが仙台にお住まいの奥様にお願いして、大量の生牡蠣を。参加された同僚のKさんが、殻剥きに大活躍。炭焼きで楽しむ方も、そして血液型B型の人間は生牡蠣に柚汁をかけて楽しませていただきました。牡蠣も猪肉もあっという間に完食。そして芋煮。材料の里芋、大根、ニンジン、ネギ等は全て我が農園から。マドンナ二人が里芋の皮を一つ一つ剥き奮闘して下さいました。我が農園の山芋の蔓に出来た零余子も収穫。茹でた零余子にスライスした我が農園のニンニクで炒めました。そしてこれを割り箸で一粒一粒挟んで楽しんだのです。まるで数年?後のリハビリを想定した事前訓練のごとし(笑)。そしてこれも我が農園から収穫した秋の味覚、食用菊も柚汁をかけて楽しんだのです。珍しさとシャキシャキとした食感が好評でした。何故か銘柄指定のアサヒビールそしてハイリキ、ワインを楽しみながら、サンマの塩焼きをこれも柚汁をかけて更に焼きそばも楽しんだのでした。この頃は私も酔っぱらい写真撮影はどこかにすっ飛んでいました。現役の大学教授、そして商社の米国支社長、海上自衛隊護衛艦艦長司令官等々凄いキャリアの『兵(つわもの)』が今年も参加してくれたのです。15:30頃まで、農宴を大いに楽しみ、年金の話や病気の話、そして同級生の近況、もちろん孫の話も、そして何故か私の同窓会すっぽかし事件の話等で盛り上がったのです。気がつくとお開きの予定時間があっという間に。そして来年もこの農宴の再開そして再会を約束して宴を閉じたのでした。最後に全員で記念の集合写真を撮りましたが個人情報ですので。この日は全員がすくっと立って、誰一人ととして支えられる初老のオジサンの姿は無かったのです。皆さん数年前のあの日のこと?がトラウマに?? マドンナの皆さんそして希望者には、里芋を掘りお土産に持って帰って頂きました。 そして翌早朝は小雨の降り始めた中、慌てて『奥の畑道』の『兵どもが夢の跡』の片付けを行ったのでした。『夢の跡』も、何時ものような静かな畑道に姿を取り戻したのでした。参加された皆さんから多くの無事帰宅の報告そしてお礼のメールを頂きました。『農園の元気な野菜をたくさん、新鮮な牡蠣や猪の肉など珍しい美味しい物をごちそうさまでした。あの場所で芋煮会を開き、炭火で秋刀魚を焼き、焼きそばを頬張り、とても楽しいです!あの場所がなんと言っても落ち着くのです。また次回、みなさんと元気で集まりたいです。』と。
2015.11.08
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先週、自治会組長として防災訓練に参加しました。我が町内会からも15人ほどが参加。防災訓練センターまでは自宅から徒歩20分ほどの場所。 市の消防隊も参加。 各自治体より総勢300人程度?が参加。 市長の挨拶。 そして防災訓練の開始。まずは消防隊による救助訓練披露。地上から16~17m、高層ビルの6~7からの人命救助。 地上では倒壊建物の下敷きになった人の救出訓練。倒壊した柱をジャッキアップして救出者を引き出します。 起震車乗車体験。心臓マッサージ訓練。 土嚢作製訓練。 仮説トイレの設営。 消火器使用訓練。炊き出し訓練。新聞紙を丸めてアルミ釜で。 新聞紙の丸め方で火力が異なることを体験。 そして我が町内会の醤油飯も見事に炊きあがりました。 おにぎりを造り配分。お焦げもほどよく。 最後に各町内会の消防分団の消火訓練の披露。見事な放水までの行動。それぞれ自分の職業を持っている方々の、テキパキとした動きに訓練の大変さに頭が下がります。災害時の迅速な避難と避難所の開設、市民の防災意識の高揚を目的とした地域合同総合防災訓練でしたが。多くの勉強になったのです。
2015.11.07
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今年も、我が農園の食用菊が開花を始めています。 山形産の紫の食用菊は『もって菊・もってのほか』と呼ばれています。この一風変わった名前の由来は、「天皇の御紋である菊の花を食べるとはもってのほか」「もってのほか(思っていたよりもずっと)おいしい」と言った事からと。 我が家の花は黄色。何もしていませんが、毎年この時期に律儀に咲いてくれるのです。菊そのものは、古代より中国で延命長寿の花として菊茶・菊花酒、漢方薬として飲まれていたそうです。江戸時代から民間で食されるようになり~松尾芭蕉は、菊を好んで食したとのこと。花を摘んで持ち帰りました。 そして花びらを1個、1個摘んで剥ぎ取りザルへ。きれいに洗って茹で立てを~ポン酢で。落花生と同様に季節の移ろいを感じながらビール片手に。
2015.11.06
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先日、少し時期が遅れましたが落花生(南京豆)の収穫を行いました。 スコップで掘り出してみると、予想以上に落花生が付いていました。近頃の多くの子供たちは、落花生は地上に実が付く物と思っているとのこと。 畑で、落花生をもぎ取り、自宅に持ち帰り洗いました。 落花生の原産地は南米アンデス山脈の東麓、ボリビアーブラジルーアルゼンチンの国境が接するあたりと言われています。ここから各地に伝えられ、日本には中国から伝わったようで、江戸時代の書物に南京豆の記述があるのだと。 来週の11月11日は『ピーナッツの日』であることは去年知りました。このピーナッツの日は昭和60年頃に、全国落花生協会の消費宣伝事業を進める中で生まれたものと。その日取りは11月がその年の新物が出回る時期であり、11月11日が殻に実が2つ入っている落花生のイメージに合い、またその名前は「落花生」よりも「ピーナッツ」のほうが親しみ易いと考えたもののようです。何度か洗った物をザルに入れ天日干しに。良く育った莢には2つの実が入っています。中には実が1つしか入っていない莢があります。これは2つの胚珠のうち1つしか受精しなかったか受精後の発育が不良であったことによるもの。 掘り取ったばかりの新鮮な落花生を、洗った莢をそのまま塩味で茹でて食べたのです。所謂『茹でピー』 です。新鮮な生の殻付き落花生はあまり販売されていない模様です。よって茹でピーが食べられるのは、生産者の特権。茹でピー二粒が仲良く列んでいました。季節を感じながら、ビールも進むのでした。
2015.11.05
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昨日は早朝に地元の寺で開かれている菊花展を見学に行ってきました。早朝のため、見学者はなく境内で開かれている菊花展を独り占め。 白、黄色、紫の厚物(あつもの)。花弁が鱗(うろこ)状に 、幾重にも重なって咲く種類。 丸く立派に盛り上がった白色の厚物。こちらは黄色。花弁が、花頂に向かって整然と半球状に咲いています。こちらは管物(くだもの)。花弁の全てが中空の管状になって放射状に拡がっているもの。 紫。中心が濃く花弁が放射状に拡がっています。 黄色も鮮やか細管(ほそくだ)咲き。 紫の大菊五本仕立ても。 こちらは福助作り。五号鉢を使用し、鉢底から花首までの高さが40cm以下に育てる大輪一本仕立てのもの。茎葉が大きく花を咲かせる姿が福助人形に似ていることからこの名がつけられました。ややピンぼけでしたが。正面から。風よけの為に緑の保護カーテンも設置されていました。 梵鐘の手前に設営された菊花展。 本堂を正面から。本堂の手前の階段の両脇にも展示されていました。 スプレー菊。 球状の可愛い黄色の菊が纏まって咲いていました。 山菊とも呼ばれる小輪の菊。 濃いピンク。 こちらも鮮やかな黄色の小菊。 斜め後ろから。100鉢以上はあるでしょうか。 そして境内の歴史を感じさせる石仏。 赤い帽子を被った石地蔵尊が行儀良く列んで見送ってくれました。 山門正面から。 寺の名は『曹洞宗 光輝山 雲昌禅寺』 。『光輝山』 と白字で書かれた扁額。そして『不許葷酒入山門』 の刻まれた石碑が。『くんしゅ さんもんに いるを ゆるさず』。くさいにおいのする野菜と、酒は、修行の妨げになるので、寺の中に持ち込んではならない、ということ。 この寺の歴史についてネットで調べてみると下記のごとき説明が。『相摸國風土記稿によれば当山は、建保年間(1213年~1219年)に鎌倉幕府二代執権 北条義時が唐より帰朝後、藤沢今田村の地に建立した瑞龍寺を起源とします。慶長元年(1596年)7月水害で罹災した後、鎌倉市植木の龍宝寺四世玖山宗順和尚を開山に迎え、現在地に移り寺号を曹洞宗光輝山雲昌寺と改めました。関東大震災で倒壊した後に、再建した本堂を昭和61年に増改築し、現在に至っています。』 私も以前からこの菊造りを近所の方から進められていますが、通年の繊細な菊造り作業であり私には向いていない?と思いますので・・・・・・。 そしてこの雲昌寺では御朱印を頂けるのでしょうか?
2015.11.04
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我が家の近くの大学内の道路から外にある一般道路に出る場所にある小田急線の踏切に下のような写真があるので撮影してみました。上部の標識は大型貨物自動車&大型乗用自動車等通行止めの標識。そして下は車両進入禁止の標識。問題は最下部の『大型等以外の車両(軽車両を除く)』の補助標識。『軽車両を除く』の軽車両とは、原動機を持たない車両の総称である事は理解している。二輪の自転車は軽車両なのでので通行可。老人の乗っている三輪自転車、側車付の二輪自転車も軽車両のはず。リヤカーや手押し車も通行可であろう。確か『車椅子』は軽車両ではないが『歩行者』扱いで車両ではないので通行できるはず。 よく理解できないのは最上部の大型貨物&乗用車の通行止め標識と補助標識の『大型等以外の車両』の必要な意味。自転車類以外は通行禁止であれば、車両進入禁止標識と『軽車両を除く』で良いのでは・・・・・・・・・? いや、このブログを書いているうちに気がつきました。実はこの道路の手前突き当たりはT字路。未確認ですがたぶん、このT字路の入り口に最上部の大型貨物&乗用車の通行止め標識が設置されているのでは?よって大型車はダメだが二輪車、自動車はこの道路には入ってこられる。しかし上記標識から、進入出来るのは、この踏切手前までで、この標識で踏み切りは通行不可となると言う理解で良いのであろうか。今度ここを通った時に手前の標識の内容を再確認してみようと思っているのですが。 しかし100%納得出来ていません。繰り返しになりますが、車両進入禁止標識と『軽車両を除く』で良いのでは、そしてその方がシンプルで運転者には解りやすいのでは・・・・・・・・・? 以前から車はこの踏切は一方通行で渡れるが、反対方向からは渡れない と道路標識に関係なく?理解していたので、違反してはいない自信はあったのですが。(笑) どなたか詳しい方、大型貨物&乗用車の通行止め標識と補助標識の『大型等以外の車両』の必要な意味をご指導賜りたく、書き込み頂ければ幸いです。
2015.11.03
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先日、日光旅行をご一緒させて頂いた岡山のSさんが我が家の大好物の日本酒を送って下さいました。 『まぼろしの米 赤盤雄町米 手造り純米吟醸』 の文字が。ネットで調べてみると「赤盤雄町米(あかいわおまちまい)」は大粒で心白が大きく軟質で日本酒に最適の米とのこと。雄町米が“まぼろしの米”と言われるようになったのは、草丈が1.8メートルほどにまで成長するため強い風に弱く、病害虫にも弱いため、栽培にた いへんな手間がかかり、戦後の機械化優先の農業には不向きとされていたが、「有機肥料・無農薬」で品種改良に成功した米とのこと。そして池田氏の家紋『揚羽蝶(備前蝶、池田蝶)』が大きく金色で。そして『池田侯』 のこれも大きな文字が。約300年に亘って備前岡山藩を治めた池田侯(池田輝政、池田恒興他)。1603(慶長8)年、徳川家康の命を受け始まった池田侯による備前岡山藩はは明治まで続いた名家。箱を開けてみると利守酒造(株)の純米吟醸酒 『池田侯』の一升瓶がどっしりと。気がつくと、既に妻が開栓し、切り子のコップに馴れた手つきで。日光旅行の写真も同封して下さいました。この日は香り豊かでスッキリとした酒を【酒一筋】に二人で楽しませていただきました。 Sさん、いつもながらのお心遣いありがとうございました。
2015.11.02
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今年も早11月になり、空豆の種まきを行いました。種は、昨年と同様に(株)トーホクの『一寸そら豆』をネットで購入。今年も直播きではなくポット播きとしました。殺菌処理のため緑に着色されていました。種をまく時におはぐろを斜め下の方向に向けて、浅く埋めていくのがポイント。 アタリヤ農園のものも種播きしました。 こちらの種は青い色をしていました。 併せて『スナップエンドウ』 の種播きを行いました。こちらはポットに3粒ずつ丁寧に間隔をおいて並べました。 早どりのものも。 いずれも種が軽く隠れる程度に薄く覆土を行いました。そしてフラワースタンドに載せ十分水やりしました。特に空豆は、種子の大きいものですので、その分、発芽する際に、多くの酸素と水分が必要となるのです。育苗中は、乾燥し過ぎないように適度に水やりを行いながら、発芽を待ちます。空豆は播種から5~7日後には発芽が始まるはずです。発芽は根の伸長から始まり、次いで芽が地上部に現れるのです。本葉2~3枚頃が植え替えのサインなのです。
2015.11.01
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