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「永定土楼探訪14」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。客家土楼を探索中に遊んでいる子供に、出会って、彼女たちと会話した。初めは警戒心たっぷりの表情で、「あかんべえ」をされたが何度も、レンズを向けても恥ずかしいのか、表情は硬いまま、心を開いてくれなかった。観光客は、こんな中まで入って来ないのか、私がいる間、誰も入っては来なかった。子供たちにレンズを向けると目をとじたり、白目をむいたりするので、おかしくもあった。私のカメラの液晶モニターに映し出した画像を、見せると目を丸くして見つめていた。そして彼女たちの目をとじた写真や白目の、写真の画像を見せると声を上げて笑った。その後に撮影した彼女たちの写真だが、閉ざしていた心を開いてくれたように感じた。カメラバッグからチョコレートを出し彼女達へ、手渡したが、あまり良い事ではないような、感じがして少し後悔をしていると携帯が鳴った。 「永定土楼探訪15」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。福建省の永定土楼にて撮影を続けていたが携帯電話が、私を呼んでいるのに気付き電話に出るとガイドから、「今どこにいるのですか」とあわてた様子の声。「予定より30分早く出発する事になったから出来るだけ、早くバスまで戻るよう」との内容電話だったが、時計を確認すると集合時間までには、まだ1時間ほどあった。私は「まだ3分の1ほど見ていないから予定通りの時間にバスへ戻ります」と伝え電話を切ったが、少し心配だった。地元の人に入り口まで歩いてどれ程か聞いてみたところ、早歩きで20分程との事で今自分自身が立っている位置がどの辺りか聞くべきだったと思いながらも奥へと歩いた。歩いていると、また携帯電話が私を呼ぶので出てみると、ガイドだった。日本語の話せる中国人に替わるからと、携帯を持ち替える雑音の後「もしもし」と女の声。「出発するので早く帰って来て下さい」と話す。私はわざと早口の日本語で話すと、もう少しゆっくりと、話して下さいと言うので、中国語で話しましょうと、中国語を話しだすと、「あなた一人のために皆さんが、迷惑するので、できるだけ早く帰って来て下さい」と、話した後ガイドに替わった。私はどうして予定通りの行動をさせてくれないのかと、ガイドに文句を言った後、引き返す事にしたものの、あちらこちらへと行ったので帰り道が分からなかった。客家地元の青年に10元でバス駐車場まで乗せもらい、バス駐車場に辿り着いたが、中国人は35人中7人ほどしか集まっていなかったので更にガイドに文句を言うと、こんなに早く戻って来るとは思わなかったと、馬鹿正直な私を申し訳なさそうに笑った。結局、予定時間を30分過ぎた頃にバスは出発し、私が慌ててバスへ戻ってから1時間15分あとだった。ガイドは、中国人は約束の時間を守りませんから、あなたも同じだろうと思って電話で催促したとの事。それを聞いてより余計に腹が立ったが、4時間の帰り道がアモイへ着く頃には気分も晴れていた。今日は12月31日大晦日、よいお年をお迎え下さい。
2010.12.31
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「永定土楼探訪13」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。土楼にも当然ではあるが大小があり大きな、土楼では、四重の囲屋に囲まれた土楼がある。土楼は4階建てで高さが13メートルある。円楼の1階部分だけで70部屋ほどあり、4階あわせて部屋数は280室ある。二階建ての円楼でも各階44部屋で88部屋となる。平屋の小さな円楼でも部屋数は36室ある。客家(はっか)が使う言葉は、他の方言に比べ、客家語には、中華文化の発祥地である中原の、河南省一帯古語の方言が多く残っている。中国語方言も大きく分けて八方言ある。北京語、上海語、呉語、?南語、潮州語と、湘語、客家語、広東語の8方言だ。細かく言えば56民族それぞれに方言があり、更には20キロ離れると聞き取り難い言葉になる。日本においても方言はあり何を言っているのか、分からない場合があるが、中国の場合は、日本の比ではなく、全く通じない。中国では20年ほど前から、少数民族や広東語を、使う香港などでも、学校の授業では普通語を、使い休憩時間でも共通語で話している。だが年配の人達は、テレビで普通語が多いとはいえ、普通語を聞くことは出来るが話せない人も多い。普通語とは、共通語であり現代中国語の標準語の事。
2010.12.30
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「永定土楼探訪12」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。アモイを朝8時に出発し昼ごろに、福建土楼に着いたので4時間ほどの道のり。客家土楼駐車場には2時間半後に集合して、午後3時に出発する予定を聞き、土楼文化村の中へ入って行った。永定土楼からアモイまでの帰り道も、4時間掛かったとして夕方7時頃に着く予定。アモイからの現地日帰りツアーで参加したが、日本人専用ツアーも多く組まれているとの事。日本からのパッケージツアーならば、初めから組まれているので問題はないようだ。写真は円楼ではないが、3階まで上がってより、2階の生活空間や中庭の風景を撮影した。土楼には水道が通っていなく、井戸のみである。だがモーターを使って汲み上げ鉄管を通り、中庭の壁を鉄管が伝い蛇口を捻れば水が出る。各土楼には2・3つの井戸が彫ってあり井戸の、周りでは話しに花が咲き、異部族の侵入により、移動を繰り返すような運命であったが、各土楼を、見て来て一族が暮らして来た空間が見えたようだった。
2010.12.30
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「永定土楼探訪11」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。福建省永定土楼の中の見学をしている。アモイ地元の中国人ツアーに混じって、ツアーに参加したが、撮影をしている間に、自分のツアーガイドたちとはぐれてしまった。やっとアモイからのツアーの小旗を持ったガイドを、見つけついて行ったが、私のバスのガイドと違い、観光をしている中国人たちの顔も見たことがない。待ち合わせ時間は聞いており、心配する事をやめ、土楼の中の庭へ入り込み撮影を続けた。庭の真ん中には井戸があり、その横では、女性がひとりで洗い物をしていた。片隅に置かれた台の上に花が置かれていた。植物が鉢植えされていたが、名前がわからない。ただ、南天の実という事だけは分かった。だが、上の花は何という名前か分からない。ネット友人の雪桃さんやさなちゃんなら、何の花の名前かがすぐに分かるだろうと思った。下の写真の両手首から広げた手のひらの置物。中には直径3センチほどの筒が置いてあった。花瓶のようでもあったが、中は乾ききっており、花を生けたような跡はなかった。そんな折、アモイから同じバスで来たという人に声を、掛けられたが、その二人の女性たちもガイドから、はぐれてしまっているとのことだった。
2010.12.29
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「永定土楼探訪10」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。福建土楼の福裕楼は永定土楼の中でも、代表に、その名前を連ねている。1880年から建設が始まり3年の歳月を、費やし敷地面積は2100坪以上ある。写真は福裕楼の入り口付近だが、何かの祝い事があったのか爆竹の跡が残り、火薬の匂いがあたり一面漂っていた。中国では爆竹の使用は一時禁止されたが、庶民は我慢できず、いつの間にか、夜中でも朝方でも爆竹を鳴らしている。下の写真は、もうすぐ60歳を迎えると、話してくれ、生まれた時から土楼で育ち、二人の子供が授かったが、一人は村を飛出し、娘はこの村の青年に嫁いで、孫がいるとの事。初め許可を得ず、上の画像を撮影していたが、段々近づいて来て、レンズを指さすので、てっきり怒られるのかと思っていた。だが、どこから来たのかとか、カメラマンかとか、矢継ぎ早に質問攻めにあったが安心した。そして北京から来たと話すと北京へは一度だが、行ったことがあるよと、私はこれ以上話すと、言葉に詰まり、ばれてしまうとその場を去った。
2010.12.28
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「永定土楼探訪9」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。福建土楼の福興楼に来たが、この土楼は、円楼ではなく方楼の長方形の形をしている。1820年頃の清の時代に建てられた土楼で、門は1箇所にしかなく不便なようだが、攻め込まれた場合には返って、守り易いのかも知れない。福興楼は3階建てになっており階段は、4箇所にあったが上がらなかった。190年ほど経った古い土楼で壁が、ひび割れた個所が多く見受けられたものの、土を盛りあげ、手入れは行き届いている。写真は赤いテーブルを父親と共に、運んでいるところだろうが、子供が父親の、腰に手を当て、ヨイショ!ヨイショ!と、掛け声を掛けている光景は微笑ましかった。福興楼の売店の前に来たが、小売部と、書かれた奥にはジュース類や洗剤などが置かれ、手前には、お茶葉っぱで、ゆで卵を長時間ゆで、ゆで卵の中が茶色っぽくなった卵を売っていた。下の客桟と書かれた宿泊所の前に来た。食事が出来るほかに20元(280円)だせば、宿泊できる所謂、簡易ホテルである。夜露を避けるためには良いが、泊まろうと思えば、かなり勇気を振り絞らないとならないと思う。
2010.12.27
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「永定土楼探訪8」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。福建土楼では客家の部屋を見学できる。自由に部屋の中を見て、生活空間を、感じ取ることができる。部屋の中に入ると床は土間になっていたり、真新しい材木で床が敷かれている。各部屋にはベッドが置かれており、子供たちのランドセルがベッドの上に、無造作に置かれていた。さらに階段を上って上の階へ行こうと、思ったものの階段の上り口の壁には、「請注意防火」と木片に書かれていた。日本でいうところの「火の用心」だが、中国の人は見学をしながら平気で、タバコを吸う人も多く、また火のついたまま、至る所にポイ捨てする人も少なくはない。中国国内旅行であっても、旅をしている人は、中流階級と思っている人が多いが、その人達でさえマナーの悪い人も多い。注意が書かれた下には「立ち入り禁止」と、真新しい木片に書かれた注意事項があり、プライベート空間のために立ち入りを、禁止しているのか聞いてみた。建物の老朽化で、一度に大勢の人の重みで、事故が起きては困るので禁止にしているとの事。
2010.12.26
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「永定土楼探訪7」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。福建省の土楼の中には共同井戸が、掘ってあり生活用水として一族が使う。だが、飲み水として飲む場合は、現地の人でもお湯を飲んでいる。20年以上前日本人が中国へ行って、不注意に飲んでしまうのが水道水だった。井戸水も火を通さずに飲むと、おなかの調子を悪くしてしまう人もいた。25年ほど前、中国を旅行した折に、旅行社の人から、生水は飲まないようにと、何度も注意を受けたことを思い出す。注意を受けても、いい加減に受け答えしていたが中国へ行ってからは注意して市販されている、ミネラルウォーターを買っては飲んでいた。旅行ではなく中国へ居住するようになって、中国の人達から、中国の水道水を直接、飲んではいけないと何度も言われた。まだ一度も生水は飲んでいないが、夏などに、喫茶店で氷を入れてある場合は、注意をしないと、氷が水道の水で作られている可能性があり、それが原因で肝炎になった人もいる。日本は軟水で世界の中でも最もきれいな水が、飲めれる国として自慢できるが、他の国では、硬水なので、体の弱っているときなどに、生水を飲んでしまった場合、肝炎になり易い。
2010.12.25
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「永定土楼探訪6」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。アモイから直通バスで4時間西側へ、走ったところに永定土楼はある。永定土楼の中の土産物売り場では、木の根っ子を利用して顔を彫り、根はひげとしてそのまま利用していた。原木で、その土地にまつわる人形を彫って、土産物として販売しているのはよく見かけた。だが、写真のように器用に木の一部分を彫り、販売している土産物は少ない。確かに、雲南のシーサンバンナや江西省では、弥勒菩薩などを、木の根を利用して彫られ、販売されているのは見たことはある。だが、客家の人々が彫ったと聞かされ、工房には案内されなかったものの、その受け継がれた技法にシャッターを押した。
2010.12.24
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「永定土楼探訪5」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。福建省永定土楼の散策をしているが、ここに住む人々を客家と呼んでいる。私が広東省に5年ほど住んでいた時、客家の人とよく食事をしたものだった。彼の故郷は福建省だったが詳しい住所までは、聞いていたと思うが忘れて気にも留めなかった。彼はマレーシアに住み、よく中国へ来ていた。その16年前に客家とは中国国籍を持ち外国に、住んでいる中国人だと理解していた。だが、その思いはごく一部分の事であることと、中国国内に住む客家が断然多いことに気付いた。中国国内客家出身で有名な人は、中華民国の総統である孫中山で日本では孫文の名で知られる。また孫中山の妻であり後に中国の国母の、宋慶齢も客家の出身であり、蒋介石の妻の、宋美齢も当然だが客家出身である。後に国民党と共産党の戦争の狭間で宋慶齢と、宋美齢の姉妹は永遠に会う事はなかった。また新儒教である朱子学の創始者の朱子は、福建省で生まれ、晩年は福建省で没している。その他、中国共産党初代元帥の朱徳や中国の、改革開放政策で知られるトウ小平も客家である。中国の周恩来が養子にし首相までなった李鵬など、他にも沢山の歴史に残る人物を輩出している。よそ者の意味をもつのが客家だが戦争難民として、南下して来た名門の出身であり皇帝からの贈り物が、伝わってる客家の家も有ると言うから驚く。
2010.12.23
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「永定土楼探訪4」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。客家とは、中国の民族名で漢民族の一種で、客家の呼び方は、日本語でハッカと読む。紀元4世紀の初めから12世紀の初めにかけ、黄河流域から徐々に南方に移住した漢民族で、現在では広東省や福建省また広西省などの、地域に広く居住するようになり客家方言を話す。客家は何故、土楼という建物文化を築いたのか。客家は長年続く戦乱から逃れるため南方へ、民族大移動をしたが、王朝が変わるたびに、土地を追われ南下を繰り返した。 モンゴル王国の元が南方征伐で、南宋の皇帝が、浙江省から広東省まで避難した時代に客家も、皇帝に従い広東や福建の山奥に暮らすようになる。清朝の時代になると経済の発展につれて客家の人口が急増した事により移り住んだ土着民の間で、争いが繰り返され、さらに客家の一部は、湖南や、広西、四川などに移住することになる。移動したのは一部の客家だったが土着民との接触が、多い永定県の客家は、集団で暮らすようになった。集団で暮らすために住む家を繋げて集団住宅が誕生。写真は客家の生活の為のルールが書かれた祭壇。
2010.12.22
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「永定土楼探訪3」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。福建土楼の永定土楼の中でガイドが、中国人ツアー客達に土楼の説明をしていた。その時間に私は土楼内の土産物売り場に、積み上げられた土楼の土産物を撮影した。土楼とは、日本の土壁のように土にワラを混ぜ、補強した土壁を、杉の木を使い建てた円楼に、厚く塗って作った集合住宅で共同生活をする。私が今居る土楼は振成楼と呼ぶ丸い円楼だが、円楼以外にも方楼や多角楼など色々な形がある。土楼には多くの家族が共同生活し、その人数も、300にんから400人以上の人がおり、まるで小さな村といった感じである。昔は角楼も建てられたが、時代とともに、角楼より円楼の方が建築材料の節約になると、円楼を多く建てるようになったという。また円楼に変化したのは風の抵抗が少なく、台風などの強い風からも土楼を守ってくれる。円楼であると全ての部屋が同じ大きさで、共産主義の根本の平等を表しているという。だが共産主義が生み出したものは平等ではなく、貧富の差が広がり、ちょっとした切っ掛けで、暴動が共産主義政府に向くのではと全ての、都合の悪い情報に蓋をし庶民に知らせていない。
2010.12.21
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「永定土楼探訪2」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。1912年に建設された永定土楼民族文化村は、永定県湖坑郷洪坑村にあり、アモイから、西部方面へ直通バスで4時間ほどの道のり。写真は振成土楼は永定土楼文化村のゲートを、入りほどなく見えて来た水車を撮影したが、この水車は観光用だが、地元の人も水車の、回転動力を利用して脱穀や製粉をするとの事。永定土楼民族文化村の事はNHKのBS放送で、見たことがあり、アモイへ行ったときに、何としても行ってみたいところだった。テレビでは、世界建築模型展覧会での説明では、万里の長城や雍和宮に並び中国の三大建築として、有名になったとナレーターが話していた。旅行社のガイドが引率したが、私は撮影に夢中で、いつの間にかツアーの列から外れてしまった事を、知らずに、そのまま撮影を続けていた。写真の振成楼の内には224室の部屋があり、今でも4百人以上の人々が生活している。 振成楼は永定県でも最も優れた円形土楼の代表で、部屋に宿泊も可能とのことであった。私は、三角の旗を持つガイドが私たちのガイドと、思い込み、そのツアー客たちについて行った。だが、そのガイドやツアー客たちは、広東省からの、バスツアーで、勘違いしたことに気付くのは、まだまだ先の事になるが、言葉の違いも、分からないほど撮影に没頭していた。
2010.12.20
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n 「永定土楼探訪1」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。福建省アモイ市内のホテルフロントで、永定土楼への行き方について説明を受けた。フロントの女性はバスを利用したことがなく、ホテルの誰かに連絡を入れていた。暫くして年の頃40歳ほどの中国人男性が、私が待つロビーへ来て永定土楼ツアーの、パンフレットを差し出し説明をし出した。路線バスの場合にはアモイから龍岩まで行き、龍岩で土楼民族文化村行きバスに乗り換える。アモイから龍岩までは直通バスが30分毎に、運行しており3時間ほどで着くとのこと。龍岩から土楼民族文化村への直通小型バスが、出ており2時間丁度で着き、アモイから5時間程の、時間がかかりチケット代は往復150元とのこと。私よりアモイから土楼民族文化村までの直通で、行くバスがないか聞いてみたが直通はないとの事。面倒ですねと言うと日帰りツアーのパンフレットを、テーブルの上に置きバス料金と土楼民族文化村の、チケット代などすべて含んで350元との説明。バスも直通なので4時間ほどで着くので、往復、2時間以上の時間の節約ができる。ということで、350元(4900円)を支払いホテルを出て、アモイ市内の繁華街まで出掛け食事をした。中国人の日帰りツアーなので350元だが日本人の為の、日本語ガイド付なら1300元ほどだから安いのかも。写真は土楼民族文化村のゲート付近である。
2010.12.19
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「アモイ旅情46」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイ植物園の出口付近に造られた噴水で、噴水の噴き出す水を止めた映し方や、流れるような映し方を画像にアップしている。同じ場面を2枚ずつ撮影し、上側の画像は、水の動きが止まった画像と下側の画像は、水が流れるような写真を撮影した。時間に余裕があるときなどの撮影では、マニュアル露出でシャッタースピードや、露出などを調整しながら撮影している。だが、普段の撮影は露出優先にしてあり、ピントを合わせる半押し状態にしたとき、自動でシャッタースピードが設定される。背景がボケる撮影は露出優先AEを使用するが、明るい大口径レンズを使い露出開放で撮影。大口径レンズは20万円ほどするので、よく考えて購入しないと後悔をしたりする。本題に戻ると水しぶきを止めた画像では、シャッター速度優先AEモードにして、速度調整だけで撮影する。シャッター速度優先AEで4000/1と早くすると、水しぶきが水玉のように止まった写真になる。逆にシャッタースピードを遅くすると、水が流れるような写真にすることができる。だが、シャッタースピードを遅くすると、露出がオーバー気味になり白トビをおこすので、ファインダーをのぞき適正なスピードを選ぶ。私は時間のあるときにはマニュアルで撮影するが、露出補正を設定しながら撮影できいい画像ができる。撮影対象に合わせてシャッター速度と露出を、任意に決定することができるので面白い。だがスローシャッターに設定すると手ブレが、起こり易く脇をしめてカメラブレを抑える事が大切。帰りは路線バスを乗り継ぎホテル近くまで行ったが、最終バス停からタクシーに乗りホテルまで帰った。
2010.12.18
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「アモイ旅情45」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。福建省厦門万石山公園はAAAAランクの公園で、山肌から岩がむき出しになったところが多い。岩に刻まれた「石林」の文字を見て雲南省の世界自然遺産「石林」が思い浮かんだ。石林は、海底が隆起し、剣のように尖った岩が、織り成す造形美で、その岩には中華民国のころ、多くの文字が刻まれていた。雲南省石林アモイ万石植物園の散策も終わりが近づいてきた。帰り道は、どんどん広くなり、一時はどうなるか、少し不安な思いも抱いたが、今はゆったりと歩いた。植物園の通りには、南国らしいシュロの木や、椰子の木がきれいに手入れされ、その幹は、まっすぐ育っており気持ちを和ませてくれた。肩に提げたカメラバッグが、ずっしりと重たかった。カメラバッグには、旅先で何かあってはと思い、予備のカメラを入れており、3本のレンズも、全体の重さを増していた。カメラバッグだけで2キロあり、初めはそれほど、重さを感じないが6キロほどだが辛く感じる。また首から提げたメインのカメラとレンズも、2.5キロほどあり、これに三脚を持って歩く時など、普段からの体力づくりが大切になってくる。最近はできるだけ身軽にして行動している。
2010.12.17
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「アモイ旅情44」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。写真はアモイ園林植物園にある万石蓮寺の中。中国内一般の禅寺より小さい万石蓮寺だが、大雄宝殿の中には仏像が安置してある。日本の仏像も同じなのだろうが、中国でも、仏像の撮影は1990年頃から撮影禁止の寺が増えた。何故仏像は撮影禁止にしている寺が多いのか?主な理由として何点か挙げられる。1)撮影の対象物ではなく信仰の対象物なので、撮影を禁止している寺が多い。だが、外国人は、撮影している人が多い。2)心から信じ手を合わせている人の迷惑になり、堂内は撮影禁止にしている。3)写真を多く撮られ、その写真が世に出回り、仏像のありがたみが薄れるために撮影禁止。4)脚立や三脚を持ち込んで撮影している人が、堂内の保存ガラスを割ったりしたこともあり、文化財保護の観点から禁止にしている。5)礼拝場所は、狭く撮影する人が立っていると、参拝に来た人が入れなく迷惑になるためと、寺にとっては回転が悪くなるため。6)寺の境内で仏像の絵葉書を販売しており、仏像の直接撮影を禁止している寺もある。7)堂内は薄暗いのでフラッシュ撮影する人も多く、参拝に来られた人の心を乱すから禁止している。以上のような理由が挙げられるが、敦煌などでは、入り口でカメラ持ち込み禁止と預けなければならず、コンデジを持ち込み撮影した場合、最悪罰金になる。撮影禁止の寺が多いが撮影許可を取れば、参拝客の、少なくなった時に素早く撮影して下さいと、堂内の、僧侶に撮影を許可た事を伝える所もある。堂内撮影は基本的に禁止になっており、外に出て、望遠レンズで撮影する場合には問題は少ない。世の中の宗教は仏教だけではなく色々な宗教があり、仏像を只の芸術品として理解する人も多いので、外国人にとって撮影禁止を理解できない人も多い。
2010.12.16
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「アモイ旅情43」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイ万石植物園のなかにある万石蓮寺は、小高い丘の上にあり石段を上ると見えてきた。万石蓮寺は、1984年に寄付を受け新しく、建て直した寺は規模こそ大きくないが、新しい禅寺の仏教寺院の姿を見せていた。私が着いたときに、この寺への観光客は、誰もいなく、私一人だけだった。寺には大雄宝殿もあり、中を撮影しているときに、後ろから大きな声で、撮影はダメと言われ驚くが、年配の中国人女性で、中の仏像は撮影しては、ダメだから、先に注意しときますよと歩いて行った。私は彼女を呼び止め、寺の外観の撮影は問題ないかと、聞くと、外観は何枚撮影しても良いですよと去った。私は彼女が去るのを待って石段を上がり本堂の中へ入ったところで被写体にレンズを向け撮影しようと、シャッターに指を掛けた瞬間、本堂の隅から、撮影してはダメだよと、おばさんがメガホンで、叫ぶので思わずシャッターを押してしまった。液晶モニターを開け撮影した画像を見ると、案の定、一瞬声に驚きシャッターを押したため、画像の両脇がブレていたので、その画像を、まだメガホンを持ったままの女性に見せた。苦笑いを浮かべながらも、ここは私の持ち場だから、撮影してもらっては困りますと早口で言った。私から、何故仏像の写真を撮ってはダメなのか、分かりますか?と聞くと何故だか分からないと言う。私から彼女に撮影禁止の訳を話すと身動きせず、真剣に聞き入っているので、おかしくもあった。私の説明は次のページで書くとして、大雄宝殿の裏側には功徳林や念仏堂もあり前の石段には、沢山の精巧に作られた龍の浮彫もあった。下の写真は釈迦三尊の釈迦と文殊菩薩、普賢菩薩。仏法の事は分からないが、釈迦の過去世と現在世、右側が未来世の姿と理解してもよいのでは・・?
2010.12.15
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「アモイ旅情42」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。太平岩寺から少し下ると道は段々広くなった。その道の両側の岩には文字が刻まれており、その刻まれた時代や意味を思い描くのも楽しい。広い通りには多くの観光客も歩いており、自分一人で旅する時には思い込みで行動し、今回の旅も逆行して不安になったものだ。安堵した気持ちで、広い道なりに歩いていると、道の右方向の小高い丘の上に寺が見えた。予備知識もなく、その寺の方へ歩いて行った。万石蓮寺と書かれた寺は唐代に建てられている。明末に増築され、修築を繰り返して来た。万石蓮寺の門を潜り、道なりに登るって行くと、大きな岩に「歩入雲宵」と刻まれた文字が目に入る。歩入雲宵の意味は、歩いて行くと天までとの意だが、そのまま歩いて石段を登って行くと寺は高台に、建てられており、そこから下の景色を見ると、それは例えると空から見るような絶景なのかも。
2010.12.14
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「アモイ旅情41」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。万石山と万石山植物園はアモイのグランユに、位置しており自然により出来た光景が見られる。写真は獅山の主峰に位置し岩奇と石怪で、旧8景に数えられる太平石笑を撮影した。写真からは見え難いが、石笑と彫られた岩に、斜めに二つの岩が寄りかかっている。一枚目の写真では状況が分かり辛いので、新しく写真をアップしたが分かるだろうか?二つの岩の下を潜り抜ける時に上を見ると、二つの岩の間が開いており、その光景は、石が口を開いて大笑いをしているように見える。後から分かった事だが、中国のガイドブックにも、詳しく掲載されておらず、私は表門から入らず、裏門から入ってしまったようだった。逆行しているとは思ってもいなかったが、表門から入っていれば、また違う印象を、受けたのかも知れない。植物園の裏から山を登り細い道を歩きながらも、シーズンオフとは言え観光客とは出会わなかった。太平岩寺の裏門を見た時は感じなかったが、後から思うと、裏門から細い道を通り植物園へ、抜ける人は、それほど多くはないと感じた。石笑の文字が刻まれている所で鄭成功が、時間のあるとき読書をしていたとのことだった。
2010.12.13
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「アモイ旅情40」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイ万石植物園の小高い丘を越えると、道教の寺へ出て来てシャッターを切った。どうやら私は正門から入らず裏門から、入って来てしまったようだった。ガイドも付けない一人旅ではよくある事。明代末から清朝の初期にかけて造られた寺で、中には天帝を祭っているが釈迦とは違う。生命の死や再生を通して命によって豊穣を、得られるという古代中国の祭祀の最高神が、天帝と言うことだったが難しい。道教の寺には、鄭成功も祀られている。太平岩寺の正殿の両脇で天帝の天壇を祭っている。清朝の嘉慶通宝の古銭でも知られる嘉慶年間に、太平岩寺の修理が行われたが、45年後の1862年、仏堂から出火し全焼してしまった。太平岩寺の仏堂の再修復のため募金を募った。だが貧困に喘いでいた当時では仮仏堂を建てるのが、やっとの事で中華民国に入ってからも仮堂だった。中華民国の1934年に、豪商や在家の信徒募金により、仮正殿を建てたが、消失以前の華やかさはなかった。抗日戦争も終結したが、中国内戦状態で貧困状態。資金も集めることが困難になっていった。共産党が勝利を収めたが、人民解放軍による駐屯地に、万石山が選ばれ、駐屯拠点に太平岩寺が使われた。1965年末、駐屯軍は防備を撤収して解放された。アモイ市の仏教協会に交渉し協会から生活物資などの、供給を受けるようになり落ち着きを見せ始めた。だが、文化大革命が始まると、寺に居住する人たちは、寺を追われ、太平岩寺は深刻な打撃を被ることになった。仏堂の天帝も破壊されるのではと隠すため地域の人達と、民家に安置して文化大革命を乗り切ったが中国各地の、状況は皆同じで、小さな仏像は壁の中に埋め込み守った。文化大革命も終結し正式に太平岩寺に対する使用権を回復。25年後に資金を集め、太平岩寺は今の姿になった。
2010.12.12
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「アモイ旅情39」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイ植物園の浅い人工池の周りには、所々コンクリートのベンチが置かれており、家族連れや若いカップルが腰かけていた。その中を通り抜け、小高い山道に入った。山道を上りながら、両脇や曲がり角に、置かれた岩に刻まれた人の名前や文字から、受ける意味を感じながら撮影した。上の写真は「鄭延平郡王」と彫られている。鄭延平とは鄭成功の別名であり、鄭成功の、功績を賛えアモイグランユに立っている。台湾を占領していたオランダ軍を駆逐した功績を、賛えられ高さ20mもある像が立っている。「長寿峡」や「寿」と彫られた岩の前では、シャッターを切ってからも暫く眺めていた。また岩に刻まれた年代が彫られていたが、30年前とまだ最近のことのようでもある。今や長寿国と言われる日本だが、中国にも、125歳の人たちも多く、貧困のため病院に、行くことも出来ず亡くなっていく人も多い。中国もこれから医学の普及と貧富の格差が、減るに従い、平均寿命も日本に追いつき、いつの日か追い越される時が来るだろう。だが閉鎖的な中国、言論の自由を束縛される中国、ノーベル平和賞の事柄の事実を知っている人は、一握りの中国人しかいないことにも憤りを感じる。
2010.12.11
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「アモイ旅情38」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイ植物園は1960年造園されたが他の都市の、植物園も1956年から1965年ほどである。中国の北から南までの植物園開園は1959年前後で、1949年10月中華民国から中華人民共和国になり、中国内が落ち着き、国民の心に余裕が出てきた頃に、花や観葉植物を観賞しようとの気運が高まったころ。アモイ植物園は、万石山植物園とも呼んでおり、人工の浅い池には低い橋がセメントで作られており、その上を歩きながら池の中や対岸の岩に詩が彫られ、その文字を写真に収めながら、のんびりと歩いた。春から秋にかけての時期には、四季折々の植物が、観光客を迎えてくれるとの事だが、冬が近づくと、木々の紅葉も枯れ落ち、岩肌が目立つようになる。岩に「天風難肆」と彫ってあるが、その意味は、何か分からない。何となく空吹く風さえも、勝手気ままに吹くことは難しいようだとの意?「天朗気清」と彫られた岩も見掛けたが、空が晴れわたり空気がすがすがしいとの意味かな。万石山植物園には岩が多く、文字が刻まれており、立ち止まり、その文字が語りかける意味を、考えながらの散策もまた楽しいものである。
2010.12.10
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「アモイ旅情37」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。 アモイの植物園を散策中に小鳥が休憩しており、慌ててバッグより望遠ズームを取出しカメラに、取り付け撮影をした一枚の画像。小鳥の名前はハッキリしないが、ヒヨドリ・・?ヒヨドリの体の色はグレー系なので写真の小鳥は、ヒヨドリとは違うのかも知れないけれど、ヘアースタイルが、それらしいと思った。アモイ植物園は1960年に造園され一般公開された。中国の植物園の歴史を紐解くとまだ浅い歴史だ。 私が訪れた植物園ばかりの話になってしまうが、雲南省シーサンパンナ熱帯植物園は、メコン川の、支流である羅梭江の中洲に位置しており、1959年に一般公開されており熱帯植物の栽培に恵まれた土地だ。北京植物園は1956年に作られ桃の花祭りが有名だが、日本からの旅行では、中国まで来て植物園でもないと、ツアーにも組み込んでいない旅行社も多い。 上海植物園は1954年に今の前身が出来、1974年に、上海植物園と改称して1978年正式に公開している。私は地元でもあり、休みの日はよく行っていた。 広東省華南植物園は広州市の東北郊外にあり、中国最大の南亜熱帯植物園である。1956年に造られ、1968年に一般に公開されているた。杭州植物園は西湖の北にあり、東は玉泉山森林公園に、接している。1956年に造られ、1961年に一般公開。アモイの植物園には、万石山の麓に造られており、自然の岩がむき出しになっており、岩には文字が彫られ、その中を一人で歩いていると道教の世界感が体を、包み込んでいるような錯覚を受ける。
2010.12.09
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「アモイ旅情36」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。 アモイ園林植物園は万石山植物園と呼ばれており、豊富な水があり、様々な植物が貯水池を取り囲み、植物園の案内では、園林には、松杉?、シュロ園、バラ園、薬用植物園など20数種類以上の、植物区が順繰りに配置されている。写真はブーゲンビリアの花だろうか?一面に咲き、下は香港行政特別区の花の紫荊花である。広東省を代表する花で、冬でも咲いている。香港の旗のデザインにもなっている。 植物園には熱帯植物や亜熱帯植物など、多くの種類が栽培され、スギや銀杏また、世界五大庭園樹木の中国金銭松や日本金松、面洋杉の他沢山植樹されており、サボテン類も、見ることができるが、私は行っていない。だが少しサボテン園の話をするとサボテン園には、養殖して28年になる「エキノカクタス」という名の、球サボテンがあり、そのサボテンは直径が72センチ、50年にただ一度だけ花を咲かせるという事だった。花が咲くまでにはまだ22年も待たなければとも思った。
2010.12.08
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「アモイ旅情35」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。福建省アモイの万石山植物園へ来ている。朝8時過ぎホテルを出発して、フロントで、教えてもらった通りに市バスを乗り継ぎ来た。植物園の入口でまわり方を聞いたところ、面倒くさそうに植物園の案内板を指差す方向へ、歩いて行き、案内板の内容を簡単にメモした。だが、案内板では道順を分かったように思っても、実際に中に入り夢中で写真などを撮りだすと、全く違う方向へ歩き出してしまっている。熟知した所ならば、少々道に迷っても、方向修正出来るが、初めて来た所では方向が、正しいのか間違っているのかすら分からなくなる。そんな時に「トウ小平」のクスノキの植樹の、記念碑の所へ出て、撮影をしたのち案内板を見つけ、メモと照らし合わせたが、1か所飛ばして来ていた。1984年2月にトウ小平はアモイなどの経済特別区の、視察を重点に置き行動をしていた。2月10日午前、長雨が降り続く中、万石山でクスノキの植樹をした。福建省の政府幹部は、予定していた植樹活動を、中止にするよう提案していたが、トウ小平は笑って、頭を横に振り、植樹は最大の活動であると、降りしきる雨を押して、植樹したとの事だった。トウ小平は三回失脚、一回目は江西ソビエト時代に、毛沢東派の一人として失脚。二回目は文化大革命で、三回目は第一次天安門事件で失脚したが、復活する。トウ小平は1997年7月の香港返還を見ることなく、パーキンソン病ににより、1997年2月に亡くなった。トウ小平は遺体の献体を望んだが、身内の反対で、角膜移植に寄付するに留まり、遺灰は親族により、中華人民共和国の領海にまかれた。
2010.12.07
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「アモイ旅情34」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。 広東省の省境を超え福建省アモイ近郊まで、戻って来たが230キロほどの道のりの殆どを、高速道路を走って来たので3時間ほどで着いた。アモイ市内に入り暫しの間ウトウトしていたが、バスは私の宿泊しているホテルまで着いた。ホテルへ着いたという事でバスを降りたが、道路を挟んで反対側へ降ろされたこともあり、近くの陸橋まで歩き大回りをしてホテルへ着いた。大ざっぱなところも中国かと思いながらホテルの、中へ入って行ったが、バスを降りてより20分ほど、過ぎていた。フロントで明日行きたいところの、道順を聞いて部屋に入った。 私が行きたかった所は、アモイ園林植物園だった。園林植物園は万石山植物園とも呼び、園内には、寺もあるとガイドブックに記述してあった。万石山植物園チケット売り場横の案内板には、高読琴洞、太平笑石、天界暁鐘、石蓮寺や、甘露寺など国家級の名勝と書かれてあった。アモイ園林植物園は、アモイ市の万石山にあり、園内には小高い山があり、岩肌には文字が、彫られており、彫られた溝に色が塗られていた。写真は、梅林園の中に咲いた梅の画像だが、よくよく見ると造花が梅林園を埋め尽くしていた。
2010.12.06
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「潮州旅情29」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。写真は、潮州市にある開元寺の大雄宝殿の中に、安置されている釈迦如来像の画像である。潮州は広東省東部に位置する地方行政市である。広東省の省都は広州で、香港に近くには深センや珠海、中山など知られる所も多い。また珠海からマカオまでも車で30分ほどの距離、私が広州に住んでいた頃に車を運転して香港やマカオの境界まで2時間ほどで行っていた。 話しが逸れたが、潮州は1800年のの古い歴史があり、今までにも多くの華僑を輩出している事でも知られる。中華民国時代は潮安県だったが、解放後1953年に、潮州市となり広東省の省轄市となった。開元寺と名のつく寺は河北省石家庄市、江蘇省蘇州市、浙江省台州市、福建省福州市、福建省泉州市と、広東省潮州市の6箇所にあり建立年も同じ時期である。台湾にも開元寺あるが、1680年建立の寺であり、殆ど同時期、中国内に建立された寺を対象に調べた。 調べると言っても中国内6か所の開元寺の面積を、語るならば、この潮州が一番広く12万平方mある。次に泉州の7万平方mで、一番狭かったのは福州だった。写真の大雄宝殿の本尊には大きな釈迦如来像が安置され、脇師は左脇侍が文殊菩薩、右脇侍が普賢菩薩が立つ。十大弟子の舎利弗・阿難・迦葉らの像が釈迦を見守り、釈迦如来像の裏側には、龍の子供の上に乗っている、観世音菩薩の素晴らしい魅了される彫り物がある。中国禅宗の大乗仏教寺院の造りは殆ど同じである。この日、潮州よりアモイ方面の万石山公園へ移動した。
2010.12.05
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「潮州旅情28」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。 写真は、開元寺大雄宝殿前にて長い線香を両手に、捧げ持ち祈る女性の姿は日本では見られない姿だ。中国は元々儒教の国であったが、仏教が伝わり、五世紀頃より道教の教えが浸透しはじめた。儒教・仏教・道教の三つの思想が庶民の間を、独り歩きし、中国は各時代に仏教と道教が対立。各時代の権力者は仏教と道教を儒教に取り込み、思想の統一を図ろうとしたが上手くは行かなかった。唐の時代は儒教と道教と仏教とが中国に存在していた。儒教と仏教とは、主張する内容に違いがあり、儒教か、仏教かの何れを信じるかが、人々の間で問題となった。 人々には儒教と仏教の両方取り入れ生活する事が困難で、儒教の人生を生きるか、仏教の人生を生きるかの選択を、迫られたが唐の時代は、仏教の勢力が盛大だった。儒教は父親家系の秩序を重視した俗世道徳であるのに、対して、仏教はこの世の本質を苦とし、その煩悩から、解脱することを目的とした教えである。道教は徳があれば教育しなくとも人は教化されるので、宇宙のあり方に従って自然のままであることを教えた。儒教は礼儀を重んじる道徳で、仏教は釈迦の教えを、修行し成仏を得る教えで、道教は自らの道を探求。中国は孔子の説いた儒教を重んじてきた国であり、礼儀に対しては何処の国より浸透自覚していた。だが儒教を否定し孔子を徹底的に破壊した文化大革命。古い文化を破壊し新しい文化を築き上げる思想が、中国内を駆け巡った10年間に仏教も道教も破壊された。人々の心にも、また礼儀や人に対しても壁を作った。現在の若者は礼儀を重んじる心が戻りつつある。中国13億人と戸籍のない中国人2億人の15億人もいる。礼儀作法のかけらもない人が居るのは当たり前である。中国は都合が悪くなると発展途上国と論点をはぐらかすが、意外と中国トップクラスの中に礼儀の無い人が居るのかも。だが一般庶民はあまり関心がなく政府間の問題と割り切る。
2010.12.04
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「潮州旅情27」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。 写真は、開元寺大雄宝殿の屋根に置いた魔除け。龍の絶妙な魔除けの飾りが施してあった。空海の話に戻ると空海は遣唐使船団と共に、目的地である蘇州には向かえず暴風雨により、船団を離脱し荒波の中、漂流していた。空海の乗った船は1か月間漂流したのち温州から、南へ50キロ離れた海岸へ辿り着いたが、元々の、目的地の蘇州からは850キロも離れていた。漂着した船には大使の藤原葛野麻呂が同船しており、220キロほど離れた福州の観察役所へ向かった。福州では、一行が国書や身分を証明するものがなく、罪人扱いのまま上陸を許されず、船も閉め出され、海岸の砂上にゴザを敷いた上に留め置かれる。この苦境を救ったのが、留学生の空海であった。大使に代わり書き上げた上申書の文章が取り上げられ、福州に上陸し、福州開元寺へ入る事が出来た。空海とは平安時代初期の僧で弘法大師の名で知られる。
2010.12.03
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「楽天リンクス終了の後遺症」 11月30日で楽天リンクスのサービスが終了した。困っている人の質問内容と回答内容を見たが、このような人も少なからずあるのでは・・。質問内容(コピーペーストせず要点のみ)楽天リンクスでは、趣味のコミュニティや友人と、楽天リンクスメールを積極的に活用してきました。告知には気付いたものの11月は忙しくバックアップも、取れなく、せめてメールの部分だけでも復元したい。回答内容(要点のみ)サービスは既に終了し復元は不可能と思います。特に問い合わせ先も用意されてないので絶望的。無償サービスの宿命とあきらめて下さい。回答内容(要点のみ)メールだけでも復元との思いですが、リンクスメールを、取得できたとしても、楽天リンクスそのもの全てが、終了してしまっている現在、相手も受け取れない。楽天さんが困っている人からの苦情メッセージ受理し、期間限定でリンクスの復活させ、復元できたとしても、期限が過ぎれば、同じように見れなくなるので不可能。私は上記のやり取りを見て、質問者の焦っている心が、手に取るように分かり気の毒に思うほどであった。回答者の書かれている内容は、またごもっともであり、楽天リンクス終了のメッセージは1か月の期間告知していた。その間に相手のブログをお気に入りに入れるかなどして、後から、ゆっくりとメールの作業をすれば良かったかなと、思ったが、このような人は、かなりの数居るのでは?何事も後悔先に立たずですかね~。写真は、上海の公園にて撮影
2010.12.03
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「潮州旅情26」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。開元寺の大雄宝殿前の香炉付近にて撮影。この開元という名の由来は、日本で言う処の、昭和・平成ように中国唐代の開元に由来する。唐代の年号の開元は713年~741年の28年間を、開元と呼び、第6代皇帝玄宗の時代であった。第6代皇帝玄宗と言われてもピンと来なかったが、楊貴妃をこよなく愛した皇帝と聞かされ理解できた。玄宗皇帝の在位は712年~756年の44年間だが、なぜ713年~741年の28年間で残りの16年間は、何と呼ぶ年号なのかと疑問に思った。712年~713年までの年号を先天と呼び玄宗皇帝の、第5代皇帝の父の睿宗の時代で、742年~756年は、天宝と呼ぶ年号で玄宗の治世後半の年号を呼んだ。楊貴妃との出会いは天宝3年に始まり、楊貴妃に溺れ、反乱が起こり、楊貴妃は絞殺され、玄宗は退位した。第6代皇帝玄宗は開元年間の治世で混乱を平定し、政治家や役人の規律や風紀を正し農業の振興や、辺境の防備に努め、文化的にも唐の最盛期を成した。その開元年間に多くの開元寺の建立を指示した。楊貴妃と知り合う7年前の738年玄宗が勅により各州に、建立された寺で、その時の年号が開元という事である。政治家や役人の風紀を正した皇帝自ら、楊貴妃に出会い、自分自身が退位に追い込まれてしまった。
2010.12.02
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「潮州旅情25」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。潮州の開元寺へ着いたのが午後2時半過ぎだった。禅宗の僧侶の人たちによる托鉢が見たかったが、午前中にしか托鉢は行わず見れなかった。禅寺では規定や作法も厳しく決められており、托鉢は仏道修行の一端ではあるが、乞食とは違う。確かに在家から食などを受けるので、その姿は、首から托鉢セットを掛けて100人ほどの列で行動。私も蘇州で出会った事があり、首から提げた箱に、次から次へと赤い袋に入れた寸志を入れていく。僧侶はお経を唱えながら、在家の人が素早く投げ込む、寸志袋を受け取り、直ぐに次の僧侶が続いていく。観光客の人たちも入れていたが、何となく寸志袋を、入れる人は初めから決められた人のような感じだ。また托鉢は午前中に限ることとのルールがあるようだ。また托鉢は、生命を支えるに足るだけを受け、それ以上を乞食してはならないと決められている。当たり前の事ではあるが、在家に迷惑を掛けてはならない。托鉢は、午前中に行うとの取り決めは、僧侶の修行で、座禅などの修行に午後の時間を費やす為との事であった。托鉢は、手に持つ食器は寺で認められた私物とのこと。私が見たのは僧侶の衣装に合わせた色の箱を首から、提げて托鉢をしていたように覚えている。日本では、ご飯茶碗を手に持つシーンをドラマで見た事が、あるが実際の所は分からない。茶碗の材料は、木製の茶碗は、外道の持つものと禁じられ、また石の食器は仏陀の、持ち物に限られており持ってはならない。写真は、潮州開元寺の境内の香炉と線香と香炉の竜。
2010.12.01
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「楽天リンクス終了」 楽天ブログの「管理・設定」の画面をクリックして、更に「リンクスの管理」をクリックしてみた。11月30日から12月1日へと日付が変わった今、楽天リンクスは、2010年11月30日をもって終了との、メッセージが出るだけで、本当に消えてしまった。この様になることは予期していたが、実際目にすると、何とも言えない虚しさに襲われ、ブログにしたためたい。リンク友人数118名ほどで、このような思いを味わうのなら、3000名と増やしていた人やコミュニティを作成していた人に、とってはその虚しい思いは、ひとしおではないかと思った。だが、スッキリした一面もあり、これで良かったのかも。今までリンクして下さっていた人達に感謝致します。「お気に入りブログ」に登録して下さっている人の数は、830名ほどになっているものの、こちらよりのリンク数には、制限があり、リンクしたくともリンクできない人も多い。また時間のある限り立ち寄らせて頂きたいと思います。下の写真は、南京へ旅した折に撮影した回廊。
2010.12.01
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