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「杭州宋城の旅1」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州宋城の写真を公開しています。杭州宋城は西湖の西南方向に位置している。杭州の宋城は中国最大の宋代文化テーマパーク。宋代(960年~1279年)は北宋、南宋に分かれ、南宋の首都が杭州であったために、杭州に宋城が、建設されていた事は言うまでもない。宋城の中には、現在上海万博中国舘で人気を博する、清明上河図が置かれている事でも知られる。清明上河図を再現した所では宋代の著名な画家の、張択端の「清明上河図」の絵画の巻き物をもとにし、宋の町のにぎやかな光景を再現したものである。実際の清明上河図は縦35cmほどで長さは11mと長い。中国の宋代の都・開封の都城内外の栄えた様子を、描いた画巻であり、本物は北京故宮に保存してある。上海万博中国舘会場では、縦3mで横は開館内の、横いっぱいに清明上河図が描かれ、中の人々は、電子制御で動くようにしてあるから面白い。宋城の景観は優雅な味わいがあり、歴史の重厚感の、中にスペースが造り出されている。宋城の建築物は、中国の伝統的山水庭園芸術の手法を踏まえたもので、古来の重視する芸術手法も吸収されて造られている。九竜広場、城楼広場、宋塊広場に観光客の流れがあり、中に入る前に目にした景観はインパクトを感じる。自然の山河の美、園林建築の美、民俗風情の美、また、人文社会の美、文化芸術の美を集めて一体化されている。宋城の建築物や記念館をはじめとする展示物は、時間と空間の隔たりを小さくし、中国古代文化を、楽しみながら見て回れる歴史の城かも知れない。だが、それも一人旅でじっくり回ってこそ味わえる。
2010.05.31
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「杭州近郊の旅2」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭近郊の写真を公開しています。蚕が写真のような繭を作ると3週間前後で、成虫になるので、その前に繭を熱風で乾燥し、中の、さなぎを殺して長期の保存しておく。また何故蚕の繭を煮るのか意味が分かった。繭の糸を紡ぎやすいように煮るとの事だった。糸を操作する機械へ繭の糸をたぐりよせる。繭を手にとってみたが、外側の糸が絡まり、セロテープの取り出しを探すより大変と思った。だが、慣れた人達は簡単に糸口を取り出し、何本かの繭の糸を合わせ、1本の糸にしていた。繭の糸がなくなったり、切れた場合、また糸口を、探す作業や新しい繭から糸を繋いでいた。繭の糸を紡ぐ作業の所では、3つの団体ツアーが、通り抜けて行ったが、それでも私は繭を見ていた。糸によりをかける作業も別の機械でしていた。その後、1本の糸は交差させながら巻き取られ、まだ湿っている糸を乾燥する作業もあるそうだが、この日は、乾燥させる作業はしていなかった。捲きとった糸の聴力が一定ではないため再度、捲き直す作業をするとの事で、何回も作業をし、シルクの糸が出来上がると思った。私は蚕から繭が出来、その繭から糸を紡ぎ、その糸で絹の反物を織るという事は、古来より、当たり前の事のように受け継がれてきている。私は、実際に見て、カイコの成虫から糸が出来、それがシルクに生まれ変わる事を新鮮に受け止めた。
2010.05.30
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「杭州近郊の旅1」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州近郊の写真を公開しています。杭州は古来よりシルク織りが盛んで、春秋戦国時代からシルクがあり栄えた。杭州中国絲綢城に来てシルクが出来るまでを、見学したが、一階は蚕の繭から糸を紡ぎ撚り集め、機織り機で布を織ったり、綿を作ったりしていた。上の写真は、江沢民とブッシュ大統領だが、お二人ともにシルクのチャイナ服が似合っている。私は、日本でも野麦峠の映画でしか、蚕を紡ぐ所を、見た事がなかったので、長い間立ち止まり見ていた。中国では4000年もの昔からシルク文化が栄えている。初めは博物館なのかと思って歩いていたら、色々な商品が売られており、商売にしていると分かり、旅行先では、必ず付きものの、土産物売り場で、少し気落ちした気分だったが、蚕の繭は感激だった。
2010.05.29
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「杭州円縁の旅8(完)」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州近郊の写真を公開しています。中国では、深紅(赤)と言えば慶事(結婚式)の色。旧正月などには門や入り口に貼る春聯も深紅の札。紅(赤色)は吉という意味があり、結婚式などの、祝いの時に、紅い服を着るが、肩に掛けるタスキや、胸の大きなリボンも赤であり、深紅の服装の上に、花婿が肩から掛けて、花嫁を迎える。吉祥文化は「福・禄・寿・喜・財」の「五福」で、人生における幸せの追求で、中国の民間には、「五福和合」という吉祥図があり、5匹のコウモリが、蓋付きの丸い器の外側で飛ぶ様子が描かれている。家庭が円満であるという意味が込められている。「吉祥喜図」は「喜び」に関係するイメージを、描いた図であるが、知られているものに「喜在眼前」。2羽のカササギが古銭を共に見ている図が描かれている。「喜在眼前」の意味は、喜びは身近な所にありとの意。カササギは中国語で「喜鵲 Xi3 que シーチュエ」といい、カササギの鳴き声は、喜び事の前兆といわれた。伝説的な架空の動物を元にした吉祥文化もある。龍や鳳凰、麒麟は神話や伝説に現れるイメージで、獅子像などは一般的な庶民の吉祥文化である。中国の広く豊かな文化の中で、吉祥文化は、色々なスタイルを持ち、人々の生活に大きな影響を、与え続け、これからも与え続ける事だろう。
2010.05.28
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「杭州円縁の旅7」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州近郊の写真を公開しています。写真の「月老祠」の月老は日本語「仲人」の意味。月老祠の「月老」である「仲人」を祭っている。月老祠で線香を立て願うと、良縁に恵まれ、よい嫁または婿を見つけられると言われている。月老祠の反対側には、「財神」が祭られている。財神おは日本でいう「恵比寿」にあたる神である。財神を拝めば商売繁盛し、裕福になるという。月老祠は、仏教と道教の特徴を融合した建物。縁を中心とし、越劇(京劇)を特色とする観光地。黄龍洞の中には滝や洞窟、竹林などがある園林である。下の写真は、花轎(花嫁の輿)で、中は結構狭い。歴史の観点から書くならば、南宋(1200年頃)時代、江南である浙江省黄竜山の南宋の臨済宗の僧彗開が、護国仁王寺院をつくり、その後、清末(1900年頃)、道教の道教寺院である道観を建設した。浙江省では歴史的観点から1983年頃に黄龍倣古園にし、1985年に西湖新十景の一つに指定とし、1995年に、「円縁民俗園」と改名した事は有名な話である。道教の中の喜神は、吉祥の神であり、吉を招き、凶を避けて喜びや楽しみを追求したい人々の願いから、「喜神」がつくり上げられた事も道教の中の一つ。だが、喜神には具体的な廟もなく、抽象的な存在で、中には、祖先の絵を喜神として祭る人もいる。また「喜神」を祭る儀式は、婚礼に多く使われている。
2010.05.27
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「杭州円縁の旅6」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州付近の写真を公開しています。月下祠横にある「積翠僊舘」と名が付けられている。中には、記念館のように花嫁を乗せる花轎と呼ぶ神輿や、その他の結婚式に使用される道具なども展示されていた。下の絵は唐・宋代から近代中国にかけ花嫁が頭に、被った赤い布で「紅蓋頭」と呼び、現在でも、富裕層の結婚式などでも見られる。花嫁は赤をベースにした花嫁衣裳を身にまとい、頭には赤い正方形の大きな布を披露宴から新婚夫婦の、部屋に入るまで顔を覆わなければならなかった。日本の花嫁は角隠しを被る習慣があるが、これは、花嫁の純潔さを意味し、白は新たな生活を始める事を、意味する。新婦はもう親の娘ではなく夫の家族になる。中国の花嫁が頭に赤の布を被る風習は、この風習によって吉を招き凶を避け、花嫁を、無事に嫁入りさせるためであると考えられている。下の写真の「たすき」と花は花婿が肩から掛けるもの。唐代の「紅蓋頭」は130cm四方の赤い絹で作られ、四隅に銅銭などの飾りが付けられ重しとされていた。花嫁は花轎(輿)に乗る前に「紅蓋頭」をかぶり、顔全体を覆うシーンは多くの中国歴史ドラマで見た。天地の神への礼拝を済ませ、新婚夫婦の部屋に入ると、上の2番目の絵のように、新郎が竿を使って、覆い布を上にめくりあげ、花嫁の顔が見れるようになる。テレビドラマのシーンでは、花嫁が挿げ替えられ、元々、花嫁の顔を知らない花婿が「紅蓋頭」を取り除き、そのまま朝を迎へたというシーンを見て驚いた事がある。
2010.05.26
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「杭州円縁の旅5」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州近郊の写真を公開しています。中国の「縁」文化をテーマにした観光地。杭州黄龍洞円縁民俗園庭園には、伝統的婚礼用具なども展示されている。縁結びの神である「月下老人」を、祀った月老祠は人気があり、赤いテープに、願いを書き木の枝に結ぶ観光客も多い。その昔、月下老人が夫婦になるであろう男女の、足首を結び合わせるために使う赤いテープでもある。月下老人が赤い糸で結び付ける二人は、その二人が仇同士、貧富の差が大きい二人でも、赤い糸で結び合わされただけで、二人の縁は、夫婦となり添わなければならないと言い伝えがある。道教の教えでは、男女の縁組は、天意であり、天意には背けないとある。それゆえ、男女の縁組みは、月下老人により、赤い糸に繋がれた男女が、この縁を大事にし、幸せな生活を送ったと伝わる。だが、中国での人口は世界一多く、その離婚数も多い。日本は22番目、中国は44番目の離婚率からも、道教の教えからの道徳観が高いのかもしれない。
2010.05.25
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「杭州円縁の旅4」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州近郊の写真を公開しています。日本での婚礼衣装の色と言えば、白であるが、中国では紅色がベースである。最近でこそ、ウエディングドレスは白が多くなった。では、婚礼出席者の衣装はどうだろうか。日本では、親族はほとんど黒であり、一昔前は、ブラックフォーマルウェアー姿だった。中国では、現在でも平服で出席する事が多い。また中国での白は、葬儀のイメージで、日本の、白無垢の衣裳を着て、結婚式に出る花嫁はない。壁絵には描かれていないが、中国の花婿は、紅色の帯を、たすきがけにして胸には、布で出来た大きな赤い花を飾って花嫁を迎える。花嫁は頭に紅色のベールを掛け、顔は見えない。日本では、白のレースで顔は透けて見える。文化の違いだが、見慣れれば違和感は感じあい。祝儀袋の色も日本と中国では違うので初めは驚く。中国で初めて結婚式に出席した折に、私が出した、祝儀袋が白だったので、受け取った花嫁は、驚いた表情をしていて、後で聞くと不吉と言われた。中国での生活に慣れると、白の祝儀袋に名前を、書くことさえ不吉と思うようになるから不思議だ。郷に入らば郷に従えという観点以前の問題である。今でこそ、中国の結婚式も日本より派手になり、結婚式に掛ける費用も、日本と変わらないくらいだ。それだけ、中国人の億万長者が増えて来たのだろう。日本の世帯で1%の世帯が億万長者でも40万世帯。中国なら500万世帯ほどになるだろうか。だが、その日暮らしの世帯も500万世帯以上と格差は激しい。
2010.05.24
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「杭州円縁の旅3」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州西湖の写真を公開しています。西湖の北、栖霞嶺北麓に建つ月老閣。南宋時代に江西黄龍山の高僧・慧開が、説法を行ったことで、黄龍洞と呼ばれた。写真は、「月下老人」と呼ばる縁結びの神。中国の多くの地域に「月老」の祠があり、幸せな縁談を求めて多くの人々が訪れる。白雲庵の右隣にある「月老閣」内にある。「月下老人」は民間伝承の中で婚姻を司る神。紅喜神と言われ、「月老」とも呼ばれる。道教の神の一人で、祭祀日は8月15日。「月老」の願いは人々の願いでもあり、この世のどこかには、添い遂げる人がいて、必ず結ばれるとあり、前世で定められている。だが、その縁は悪縁もあるのかもしれない。いつ頃に描かれたのかは、祠が出来た頃ではなく、1995年当時に描かれたのかは分からない。だが、顔料の具合からして20年以内に、描かれた絵ではないかと思いながら撮影した。このあとも、壁に描かれた絵を張り付けたい。
2010.05.23
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「杭州円縁の旅2」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州近郊の写真を公開しています。杭州円縁民俗園は1995年に造園された。公園の中は、緑が茂り、その中を、歩けるように散策歩道が造られていた。黄龍洞と呼ばれるだけあって、龍を模った塑像も多く目につく。縁をテーマとした洞縁民俗園である。円縁民俗園は道教の建物である。故事に則り、雨乞いをしていたら、岩が裂け水が湧き出し、その口が、龍の口のようだったという伝説がある。写真は、座った子供たちが円陣を組み、その中央の穴に古銭が入れば、縁がつかめる。古銭を台の中央目がけて投げる所は、「情」と書かれた台の上に乗る。多くの旅行客が声を挙げながら投げていた。私は、再度縁談が来ても困るので、傍観していたに過ぎなかった。
2010.05.22
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「杭州円縁の旅1」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州近郊の写真を公開しています。北宋の名将であった岳飛を祀る岳王廟から、北北東2キロ行った所に円縁民俗園はある。円縁民俗園は黄龍洞と共に公園となっている。南宋の時代に、江西省の黄龍山の高僧が庵を建て、この地で説法をしたことから、黄龍洞の名がある。また黄龍が現れたとの言い伝えが残る場所でもある。現在は、歴史テーマパークとなっている。その公園の一角に円縁民俗園がある。円縁民俗園は縁結びの寺としても知られる。円内に入ると「縁」の文字が至る所に、書かれてあり、簡単明瞭であった。 縁とは婚姻に関する事柄が一番で、運命的な出会いを祈る中国人女性の姿も、見受けられると話していた。また願いが叶ってからも、夫婦でこの地を、訪れ報告をして帰る律義なカップルもあるとか。縁の文字は、大きな岩にも描かれ、旅人たちの、記念撮影する姿が後を絶たなかった。
2010.05.21
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「民族英雄の赤い文字」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州西湖の写真を公開しています。杭州西湖十景の平湖秋月から程なく行ったところに、岳飛を祀る岳王廟がある。岳飛は現代でも中国の、歴史上の英雄として名前が挙がるほどである。北宋の名将・岳飛を祀る岳王廟にも多くの旅行客が、観光に訪れていた。とりわけ中国の旅行客は、岳飛が生きた時代背景や人物や功労、また、なぜ抹殺されたかなど熟知する人が多かった。詳細な歴史背景に無知な私は、一人旅のゆえに、中国人の後ろに、こっそりと付き彼らの会話の、内容を、聞こえは悪いが盗み聞きしながら、岳王廟に祀られている岳飛の事を知った。北宋の名将であった岳飛を祀る廟は1221年に、創建された。岳飛は17世紀に満洲となった金に、奪われた江南の地を奪回しようと戦略を練った。だが、敵に投降した秦桧らの主導により無実の罪で、投獄され、志半ばにして抹殺されてしまった。岳飛の死後、冤罪が晴らされ、国民的英雄として、杭州西湖の畔の岳王廟に祀られた。岳王廟敷地内には、岳飛と彼の息子の墓石があるが、それを取り囲む塀には「民族英雄」と書かれていた。
2010.05.20
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「正座させられている像」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州西湖の写真を公開しています。岳飛は38歳、岳雲は22歳の歳に無実の罪を、着せられ抹殺されてしまったが、その後に、冤罪が証明され、死後に奉られ、生前の事績の、評価に基づく名を授けられた。鄂王(がくおう)に封じられ、関羽と並んで、祀られて、杭州の西湖のほとりには岳王廟が、建立され、岳飛・岳雲父子の墓も建立された。彼らを、おとしいれた秦檜夫婦や側近らが後ろ手に、縄で縛られた形で正座させられている像があった。岳飛の墓の前には縛られ膝まずかされ頭を、垂れた様子の秦檜夫婦の像が檻のような囲いの中に、置かれ、訪れる観光客は唾や汚水を掛けていた。私は初め訳が分からず、唖然としているだけだった。唾を掛ける事によって、自分の運勢が良くなるとの事。岳飛はその後の長い歴史にあって救国の英雄として、褒め称えられ、モンゴルの元による支配時には、一時消え去ったかのようだったが、岳飛の名前は、漢民族の中で語り継がれ今日に至っている。
2010.05.19
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「無実の罪を着せて誅殺」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州西湖の写真を公開しています。写真は壮絶な38年の生涯を送った南宋の武人の、岳飛の廟の中であるが、幼児の時に父を亡くし、母に育てられ、21歳の時、開封を防衛する義勇軍に、参加して南宋軍中最強の岳家軍を率いて功績を残した。岳飛は元々は豪農の出であったが、彼は武勇に優れ、その中で頭角を現し、節度使となり、南宋の中の、軍閥勢力となった。岳飛は高宗の信頼が絶大だった。だが、南宋の初代皇帝高宗は次第に和平に傾き出し、また学問も学んでいた岳飛に、他の将軍の嫉妬を、招くようになって行った。その後、北宋の金との、和平が進められたが、民衆の絶大な人気を持つ岳飛は、危険な存在であり、岳飛とその養子の岳雲、岳家軍の、幹部である張憲に対して、無実の罪を着せて誅殺した。この時、岳飛は38歳、岳雲は22歳だった。その背には母親によって彫られた入れ墨の、「精忠報国」の四文字があった(前頁の写真の如く)西湖の旅12「38歳の生涯だったが」
2010.05.18
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「38歳の生涯だったが」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州西湖の写真を公開しています。1127年~1279年の間中国で栄えた南宋時代。中国の王朝の一つの南宋の首都は杭州にあった。南宋の武人であった岳飛は38歳の生涯だったが、南宋軍中最強の岳家軍を率いて北の異民族軍の、金軍を破った大将軍だが、政治的な後ろ盾はなく、無実の罪で獄中毒殺された悲劇の英雄である。岳飛の死後、庶民が彼を深く敬愛する気運が高まり、南宋朝廷の死後約60年後に「王号」を追贈し、霊を祭る建物の廟を建てた。中国南宋の武将だった岳飛に王号の名が追贈され、岳鄂王と呼ばれたが、廟を造り名を掲げる時には、写真の如く岳王廟との額が掲げられている。岳飛は南宋を攻撃する金軍に対して幾度となく、勝利を収めたが、岳飛らの勢力が拡大することを、恐れた宰相・秦檜に計画して殺されてしまった。中国では三国志の関羽は絶対神のように崇められ、岳飛も関羽と同じように祀られている。
2010.05.17
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「夕陽に照らされた塔が美しい」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州西湖の写真を公開しています。南宋の武人で大将軍の岳飛の岳王廟の写真だが、杭州西湖十景の残り五景を紹介しよう。6番目の「雷峰夕照」について 西湖の南岸浄慈寺前の小さな山、夕照山上の雷峰塔は、呉越王が黄妃の子供を産んだことを祝って建てた。私がレンズを向けて構図を決めていた時、地元の人は、この景色は夕陽に照らされた塔が美しいよと言われた。雷峰は2002年に建て替えられたが、中の塔は壊されず、保存されていた。黄妃古塔とは雷峰の別名である。 7番目の「三潭印月」について 西湖の中央あたりに小瀛洲があり、副知事の蘇東坡は、杭州在任中に、西湖の底面をさらい土砂を取り去り、この場所に菱などを植える事を禁じるための標識として、石塔が3基建てられた。塔の中は空洞で中は、蝋燭が、灯されるようになっており、紙を貼った洞から、映ったろうそくの光は月のように見える。8番目の「花港観魚」について 西湖の南西の角にある庭園で、宋の時代の個人の庭園で、池を作り、鯉を養殖し「盧園」と名付けた。南宋の画家は、「花港観魚」と呼び、かつてここには小川が注ぎ込み、そのため「花港」といわれていた。 9番目の「断橋残雪」について この場所は、冬雪化粧した時に訪れると情緒溢れると、古来より賞賛を受けてきたが、「断橋残雪」の情緒は、広く知られている。断橋残雪の景観に対する見方は、影の部分には雪が残り、高いところからこれを望むと、まるで橋が途中で途切れているかに見える景観を指す。断橋は白蛇伝の許仙と白娘子が出会う場所として有名で、「情人橋」とも言われ、雪解けで橋表面が現れ出したとき、橋が途切れて見える事から「断橋残雪」といわれる。 10番目の「双峰挿雲」について 双峰とは南高峰と北高峰で西湖の西南と西北に位置し、南高峰は257mで、北高峰は355mの高さがある。二つの峰は、かつては霊隠路洪春橋のたもとに、「双峰挿雲亭」があり、二つの峰の上に立っていた仏塔が、雲に隠れる様をみて楽しんだと言う。二つの峰の間に、霧が漂う様は仙境を思わせる。杭州西湖十景を全部見て回ると、また面白い。
2010.05.16
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「柳の枝葉がお辞儀してくれる」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州西湖の写真を公開しています。杭州西湖十景の話の続きをしていこう。2番目は、「平湖秋月」について、 中唐の詩人の白居易が造った西湖北側の、最も古い堤防で、白堤と呼び白居易に由来する。その白堤の西に突き出た形で八角亭があり、三面を湖に囲まれたこの場所は、中秋の月見には、絶好の場所と言われ、湖に映る秋の月も美しい。 3番目の「曲院風荷」について 曲院とは南宋の朝廷が開設した醸造所のことで、当時の西湖湖岸に臨み、岸に近い湖面では蓮の花が、人工的に植えられ、夏のめぐって来るたびに、暖かい風がゆったりと吹くと、蓮の花の香りと、酒の香りが四方に広がり、酔った気分になる。現在でも100種以上の蓮が植えられている。 4番目の「南屏晩鐘」について 西湖南岸に南屏山が連なっており、標高は、100mに満たないが、山には奇岩がそびえ、木々の緑が目にまぶしく、晴れの日であれば、晴天白雲に引き立てられ美しく、雨天の日は、雲が覆い隠してしまい、神秘的な様相を見せる。南屏山のふもとに仏教寺院の慧日永明院を建て、後に霊隠寺と並んで西湖の浄慈寺となった。毎晩僧侶が鐘を鳴らし、鐘の音は夕霧に霞む、山々に響き、人々を感動させたと言う。 5番目の「柳浪聞鶯」について 柳浪聞鶯は、杭州に都を置いた南宋の皇室の庭園、聚景園だったが、中国解放後に整備されて、大型公園となった。この公園には柳が植えられ、鴬がさえずり心を休ませてくれる所である。春の庭園には柳の枝葉がお辞儀し、風が吹く度に、ゆらゆらと揺れている。緑深い柳と鴬のさえずりに、時間を忘れて佇んでいられる所で、私が泊った、ホテルは、柳浪聞鶯から5分ほどの所だった。
2010.05.15
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「情緒を味わいながら歩くべき」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州西湖の写真を公開しています。西湖十景の中で「蘇堤春暁」を紹介していこう。蘇堤は蘇東坡がつくった堤防であるが、蘇東坡は、蘇軾(そしょく)と呼び、1057年に進士になった。蘇軾は詩文で政治を誹謗したして投獄された後に、左遷され、15年後復帰したが、更に政治を誹謗し、左遷されるという波乱の人生を送った。蘇軾は当初、西施湖と名付けたが、西施は、呉越春秋の美女と言われ、西施湖から西湖となった。蘇軾が造った蘇堤の入口には、蘇軾の像が立っており、彼は有名な詩人で北宋の時代、杭州の副知事を歴任。杭州へ行くと杭州を発展させた第一人者として有名。蘇堤春暁の蘇堤に沿って貸自転車でゆっくり走った。ふと堤防沿いの柳越しに見える景色に、立ち止まると、おもむろに軽やかな風が吹き、さらに心清々しく、光り輝く湖面は、更にさわやかな気分にさせてくれる。自転車に乗り、すばやく過ぎゆく景色をながめながら、やはり、堤防はゆっくりと情緒を味わいながら歩くべきと、実感する瞬間だった。またこの蘇堤に沢山の船着き場があり、渡し船が行き交い、多くの観光客に思い出を提供していた。蘇堤は南山と北山を結んでおり、西湖に艶やかな風景線を、添え、また四季を通じて色とりどりの花が咲き乱れ、人びとに詩や絵画を見ているかのような錯覚を起こさせる。
2010.05.14
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「杭州西湖の旅」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州西湖の写真を公開しています。杭州西湖と言えば、西湖十景で世に知られる。西湖は天然の湖で、白堤、蘇堤の十文字堤と、湖のまわりで、美しい風景を西湖十景と呼ぶ。西湖へは四季折々の美しい姿が有名であり、中国の王朝の一つである南宋(1200年頃)では、首都は臨安(杭州)であり、宮廷画院の絵を、描いていた絵師たちが、山水画のテーマとして、西湖十景を描いたのが始まりと伝わる。初めて訪れる時に西湖十景の名を調べ、全てを、見て回ろうとしたが、ガイドなしでは時間切れで、結局、無駄な時間ばかりを過ごして見れなかった。その西湖十景とは、「蘇堤春暁」「曲院風荷」「平湖秋月」「柳浪聞鶯」「断橋残雪」「花港観魚」「双峰挿雲」「南屏晩鐘」「三潭印月」「雷峰夕照」清の第四代皇帝の康熙帝が杭州を訪れたときに、西湖十景に名を付け、それを石碑に刻んだとの事。十景の名は四字熟語で、文字を理解するために、辞書をひも解いても、なかなか難しいと思った。
2010.05.13
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「奥深く静かである」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州西湖の写真を公開しています。自転車に乗り、撮影を続けるが、素晴らしい景色に、自転車から離れて、気が付けば、800mほど離れ、鍵を掛けてない自転車の事が気になりだすと、急ぎ足になっており、初めゆったりとした気分が、行動の半分は、慌ててしまう行動に、しっくりこない。また観光スポットでは、自転車を中に入れられず、入口付近の自転車置き場へ置いて中に入り、1時間ほどして自転車置き場へ取りに行くものの、初めは同じような自転車に戸惑う場面もあった。私はレンタルサイクルはホテルにて借りた。観光スポットで自転車に乗る人に聞いたところ、どこからでも借りられ、電話一本で乗り捨ても、可能であるとの事。だが割高になってしまう。私の場合は、ホテルで借りて、必ずホテルまで、乗って帰らなければならなく、気が重かった。写真の「竹径通幽」は、唐代の詩人「常建」の、「破山寺の後の禅院に題す」という詩の熟語で、「竹径通幽」は、竹が茂った小道を通れば奥深く、静かで心の渇きを潤わせてくれるという意味を含む。
2010.05.12
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「西湖湖畔に浮かぶ小舟」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州西湖の写真を公開しています。杭州西湖の周囲は15キロほどあり、歩いて1周するためには、5時間ほど掛かる。ホテルを出て、またホテルへ戻って来る。だが、ただ歩くだけではなく、撮影をしながら、良い所があれば、20分でも立ち止まる事がある。そうなれば、夜までに帰りつく事は困難と考え、ホテルフロントに貸自転車を頼んだ。水とチョコレートをカメラバッグへ入れ、貸自転車に乗り出発をしたが、貸自転車の、レンタル料など聞くこともせずペダルを踏んだ。感じの良い景色が目に入れば、自転車から降り、しばらく歩き、シャッターを切ってはまた歩いた。だが、自分が自転車で来た事を、ふと忘れてしまい、また自転車を置いた所まで返ったが、その行動を、何度も繰り返し、自転車など借りずに徒歩で来た方が、まだマシだと思いながら、自転車をまた乗っていた。
2010.05.11
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「天地が滅びようとも」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州西湖の写真を公開しています。中国で有名な美女と言えば紀元前1世紀ごろ、前漢の元帝の時代に生きた王昭君と、208年の赤壁の戦いで、曹操軍の船を繋がせ、孫権・劉備軍を勝利に導いた貂蝉。719年~756年唐代の皇妃で、安史の乱を、引き起こした傾国の美女である楊貴妃。そして、紀元前5世紀ごろに生きた西施。出身地西村の施と西施と呼ばれ、西湖の名は、西施に由来して、西湖と付けられたようだ。王昭君、貂蝉、楊貴妃、西施を中国四大美人と呼ぶ。西湖は唐の代表的な詩人白居易(白楽天)が、西施の名に因んでつけたものであるとのこと。白居易は772年~846年の中唐の詩人だが、長恨歌を書いた事でも有名で、楊貴妃が玄宗と、西湖を訪れており、恋の恨みを歌っている。「天や地は滅び尽きることが有るだろう。だがこの恋の恨み、愛の裏にある別れの恨みは、天地が滅びようとも綿々と尽きることは無い」と、歌った長恨歌を私も研究したのが10年前・・・。
2010.05.10
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「湖面を吹く風」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州西湖の写真を公開しています。三潭印月島は、西湖三島の中で最も面積が大きく、豊かな景観を持ち、西湖最大の景勝地と言われている。南北に橋がかかり、東西に堤防の道が通り水面を、四つに分け、まるで田の字になっている。西湖の中に島があり、島の中にさらに湖がある。西湖十景の中の一つとして、水上庭園の経典の作である。下の画像は、中国の1元紙幣の図柄であるが、普段1元なんてあまり、真剣に見た事がなかった。1元を日本円に換算すると14円程度の交換レートだ。私が持っている小銭入れの中には1元札はなく、全てが1元硬貨だった。新疆など内陸部への旅行では、逆に1元硬貨は受け取らず、1元紙幣しか受け取らない。写真の湖面に見える塔は3つあり、3つは正三角形で、一辺の長さは62mあり、中秋の名月の時に、塔に明かりを灯し、空には月の光が照らし、水面に映る月と塔の灯りが織りなす光のショーは、見るものの心を打ち、秋の湖面を吹く風が心地よい。下の三潭印月と書かれた石碑の写真撮影では、大きな声で、中国人を制止させた僅かな時間で撮影。
2010.05.09
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「逆光に照らされる小舟の姿」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州西湖の写真を公開しています。北宋時代(970年頃)に銭塘江の高波を鎮めるために、作られた祈念塔の六和塔を対岸より撮影した。銭塘江とは、仙霞嶺山脈を源として杭州湾に注ぎこむ、河のことを呼ぶが、有名なのは銭塘江の海嘯(かいしょう)海嘯をは、一般には海鳴りと呼ばれているが、杭州の場合、満潮の際、河口に入る潮波の前面が垂直の高い壁状になり、砕けながら川上に進む現象で、河口が三角形状の川で発生。海嘯で有名なのは、ブラジルのアマゾン川のポロロッカ。アマゾン川を逆流する潮流で5mにも達する。世界的に有名な海嘯に中国の銭塘江が有名で、その海嘯を、鎮めるために建てられた記念塔の六和塔を望んだ。六和塔の中には、1000年以上前に建てられた記念塔があり、千年古塔の土で出来た六和塔は一部崩れおちている。その周りを囲むように、写真の六和塔がレンガで建つ。西湖では大きな遊覧船で見て回ることや、写真のように、6人乗り小舟で遊覧する事も出来るが、絵になるのは、やはり、逆光に照らされる小舟の姿ではないだろうか。この西湖へは3回目の旅であるが、まだ写真の整理ができず、パソコンHDDが壊れたが、バックアップしてあったので、画像データは無事に残っており時間を見て更新したい。
2010.05.08
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「日本人ですよ、大丈夫」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州西湖の写真を公開しています。昨夕杭州西湖の湖まで100mの地点に建つ宿に着き、直ぐに、フロントより旅行社へ電話をして頂き、現地ツアーの申し込みをした。フルネームを告げるため、パスポートを手渡した所、日本人ですよ、大丈夫・・?何となく、そのような会話が聞こえたが杭州の方言なので、詳しい内容までは分からなかったが、電話を代わった。中国普通語でツアーに参加されるのは、あなた一人?と、聞かれ、その質問に答え、私よりは宿まで出迎えを、お願い出来るか?何時に出迎え?などと質問した。ホテルの人に代わって下さいと言われ、受話器を渡すと、笑顔で会話をしていたが、流暢な中国語なので、問題なしとの事でしたと笑って見せた。宿に着いたその日の夕方は、食事をした後、西湖湖畔を、のんびりと散歩したが、5月のそよ風が疲れた心を、癒してくれるような、よい心持ちで、ゆったり歩いた。写真は西湖湖畔に咲きかけたハスの花を撮影した。
2010.05.07
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「上海から汽車で杭州まで」 「中国写真ライフ」では、浙江省の杭州西湖の写真を公開しています。今回旅をするのは、浙江省と言うところで、上海から、2時間ほどで、たどり着ける所にあり1泊でも旅ができる。私は3泊しゆっくりとしてきたが、杭州だけでは時間を、持て余すようであった。だが夜にはマッサージも堪能でき、有意義な旅になったと思う。浙江省は中国のどの辺りかと、言うならば、上海の南側に位置する省である。浙江省を平仮名では「せっこうしょう」と書き、中国語ピンインでは「zhe4jiang1 sheng3」と書く。中国華東地区中部に位置しており、省都は杭州市である。北に南京がある江蘇省と万博最中の上海市があり、西に安徽省と江西省、南に福建省と接している。朝6時過ぎに家を出発し、上海駅から汽車で杭州まで、杭州駅からバスを乗り継ぎ、予約してあった西湖湖畔の、宿に着いてより、休憩した後、貸自転車で西湖をブラブラ。
2010.05.06
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「僧侶の武術禁止時代」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。1644年から268年間中国を支配した統一王朝清の時代、皇族により北少林寺は守られ、南少林寺は全滅させられた。1978年香港映画「南少林寺VS北少林寺」でも如実に表現され、南少林寺の僧侶の歴史も清の朝廷一旦終息してしまった。中国での仏教も220年前に終息を迎え、現在では仏教を、信奉する人たちも多く、拳法でも信教の自由を有している。清の時代は、嵩山少林寺を表面では褒めていたものの、その反面、一方では圧力をかけていた。また少林寺の修繕をしたり書を贈ったりしてもいたが、僧侶の武術の訓練などは禁止しており、若い僧侶たちは、武術の訓練や経験もなく、外部から容易く責められた。南の少林寺は、福建省に建てられていたが、清の軍隊、3万人に囲まれ、寺に火をつけられ、多くの僧侶たちを、死なせてしまい、伝説では5人助かっただけだと伝わる。南の少林寺の建物は無くなり、農地のみになってしまった。だが、皇帝の軍隊は、嵩山少林寺にも火を放ち非常に、大きな損害となり、嵩山でも僧侶の武術は禁止されており、訓練していない若い僧侶は死んでしまった。この焼打ち事件のあと清の朝廷は次の皇帝の時代に、3年間かけて河南省の税金で少林寺を修復した。日本の歴史の中でも、寺院の焼打ち事件も多くあったが、その時代の頭首の思想によって悲惨な事件を巻き起こした。今回の嵩山少林寺への旅はこれで終わりです。次の旅は、浙江省杭州西湖の写真を紹介する予定。
2010.05.05
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「塔林は破壊されず残った」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。少林寺の僧侶は、侵略者や盗賊から身を守るために、厳格な訓練を受けた僧侶の武術は世界的にも有名になった。1966年に始まった文化大革命では、古い文化を破壊し、貴重な寺院、仏像や経典類を破壊し続けた。僧侶も、紅衛兵達には逆らう事が出来なかった。寺院は物色され、塔林の一部も破壊された。だが、少林拳は禁止されずに、1976年文化大革命が、終結するまでの間も修行は続けられ、1980年代に入り、古代の武術への関心が深まり、映画が作成されると、少林拳は多くの人が知るところとなり若者にも希望を与えた。少林拳はカンフーとして多くの映画の中でも使われ、多くの若者は、カンフー映画スターになることを熱望し、一時は2万5千人の少林拳を習う若者で、あふれたという。1930年ごろ少林寺寺院が火災に遭い、再構築したが、その後、文化大革命で破壊された建物は、新しく建てられた。写真の塔林の多くは破壊されずに、現在まで形を留める。当番制で僧侶が、その塔林を守るために立っていた。そして、塔林を触る者やよじ登ろうとする者に注意を与えていた。撮影している人にも注意を与えていたが、良く聞いてみると、撮影する側ではなく、撮影される側の人が墓に足を掛けたり、墓に登っている事に対して注意をしていたと分かり、私は僧侶の後方から頭を通して、情景を撮影した。
2010.05.04
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「形状は六角、八角や円形など」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。少林寺から西側に歩いて行くと歴代の高僧の墓地が、見えてくる。レンガと石で作られた墓塔で、中国に現存する最大の墓塔群で231個の塔がある。墓地の中を歩くと、一つ一つの塔が林のように、感じるが、歴史も古くから一つずつ建てられてきた。塔の正面の石には、詩が彫られ、塔の形・段階や、塔の高さ・大きさは、その時代を象徴している。塔のも多種多様ではあるが、高さは15mほどで、塔の形状は正方形、長方形、六角形、八角形や円形など。塔は優美なデザインと浮き彫りが刻んであり、塔の正面には塔主の名前や号が書かれている。塔の前には石碑が立てあり、塔主の生涯の足跡や、また塔を立てた人や年代が詳細に書いてある。少林寺塔林は、書道、彫刻を研究する芸術宝庫であり、仏教歴史、少林寺歴史の研究資料でもある。 写真は、少林寺の塔林を見守る僧侶たちだが、疲れたのか、ひと時の間、眠っているところを撮った。シャッター音が聞こえたのか、目が覚めこちらを見た。
2010.05.03
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「少林寺と呼ばれる由縁」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。中国の五岳(五名山)は道教の聖地であり、陰陽五行説に基づいて「木行=東」「火行=南」「土行=中」「金行=西」「水行=北」の五つに、分けられており、聖山とされている。1)東岳泰山(山東省) 2)南岳衡山(湖南省)3)中岳嵩山(河南省) 4)西岳華山(陝西省)5)北岳恒山(山西省)の五つの山を五岳と呼ぶ。神話から来ているが、中国で有名な安徽省の黄山は、この五岳には含まれてはいない。少林寺は五岳の三番目の中岳嵩山にある寺院である。インドから中国に渡来した達磨により禅が伝えられた。達磨は初め、インドから南方へ渡来し、宋の皇帝と、問答をしたが、達磨の心と皇帝の考えが違い、当時、北にある国である北魏の皇帝と打ち解け、嵩山に禅を、広めていったので、嵩山は中国禅の名刹である。また少林武術の中心地としても世界的に有名。日本で知られる少林寺拳法は、現在の嵩山少林寺の、拳法とは違い、少林寺拳法と少林拳とは別物である。少林寺と呼ばれる由縁は、少室山の北麓の森林の中に、建てられている為、少林寺と呼ばれている。中国仏教の禅宗の発源地であり、少林寺拳法でも有名。写真の塔林は、少林寺の西側にある歴代高僧の墓地。
2010.05.02
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「第一日目は裕福な人達だったが」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。上海万博が昨夜開幕したが一日の入場者目標40万人弱、だが今日の入場者は20万人強だった。それも、大声で入場予約券を奪い合う姿に、驚いた日本の人もいたのではないだろうかと思う。だが、中国では日常茶飯事の出来事である。今でこそ、経済大国になり礼儀正しい人も増えてきた。20年ほど前は、病院の受付や薬局、駅のチケット売り場、我先にと前に向かい、受付などの窓口では何人かの手が、入り組んで入り込み、遅れる一方であった。まだ5年ほど前まで、我先にと割り込みはひどかった。最近になり、落ち着きを見せてきたが、道徳観念が低い。私は看護センターへ行き、責任者に何度もお願いした。婦長さんに、ここは中国だからね。皆に並びなさいと、言ってみたって、理解できないでしょうねとの返事。それでも、仕方ないなと渋々スキー場のリフト乗り場の、混雑ぶりに似たような所へ行き、大きな声で、ほらっ!日本人から、順番に並びなさい!って言われているわよ!そんな事を言っても、受付でつかみ合いの喧嘩をしている人には、全く効果はない。そればかりか、聞こえた人が振り向き、私を見て、日本人は中国を侵略に来て何を言っている!偉そうな事を言うな!と罵声を浴びた事もあり、今日の、第一日目は裕福な人達だが、混乱は当然の出来事と思った。
2010.05.01
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「家庭での道徳教育がおろそかに」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。中国では上海万博が開幕し庶民の盛り上がりや、期待も凄いものがあり、インタビューに、答えているほとんどの人が称賛をし、今や、中国は世界のトップになりそうな勢いを感じる。沿岸部の庶民の生活も以前とは大きく変わり、日本の東京オリンピック後、大阪万博時代よりも、スピードは早く、多くの人々が、今や、日本など怖くないと口にする。だが、それは中国沿岸部の裕福な人々であって、内陸部の暮らしは、日本の戦後10年ほど経った、時代のような生活で、電気もガスも水道もない。そんな貧しい生活を送る人々も多いが、不幸感はなく、みんな、明るく生きている。中国内を旅行している人たちは、裕福な部類に入る。だが、その裕福な人たちが、高僧の墓によじ登り、記念撮影をしようとしている姿に驚いた。中国は文化大革命時代、仏像や建物を、破壊した時代があり、その時代に生きた青年の、子供たちの時代が、現在の若者にあたる。文化大革命時代後、それまでの孔子の礼儀も、どこかへ消えてなくなり、子供たちへの、家庭での道徳教育がおろそかになってしまった・・。全てが、そうではないが、多くの中国の人々は、過去を悔み、将来を憂いている人も多い。だが、これから中国の若者の多くは高等教育を受け、世界の中国の名に恥じない行動を取ってくれるだろう。
2010.05.01
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