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「アモイ旅情10」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。南普陀寺の大悲殿の脇を抜けて裏側の方へ向かうと、地殻変動により自然に岩が組み合わされた下を潜った。少し進むと、自然ではなく人工的に作られた浅い、池風の水槽があり、その中に石灯篭が置かれていた。そして向い側の岩肌には文字が彫られていた。その近くには中国の硬貨が祈りの為投げ込まれていた。参拝者や観光客が硬貨を投げ入れ祈りを捧げる姿も、見られたが、岩に彫られている文字は、南無阿・・・。日本で石燈籠といえば、神社の参道に立っていたり、仏閣や庭園の添景として置くものなどいろいろある。今では日本の伝統的な風景に融け込み癒してくれる。石灯篭のルーツを求めると、中国で仏前の献灯に使われ、朝鮮王朝から奈良時代に日本に伝わって来たものである。形は八角や六角が多く、四角や稀に三角の灯篭もある。 石燈籠は今でこそ、観賞用として置かれているが、室町時代頃には火を灯し照明としても利用されていた。元々、仏教寺院の仏像を安置する仏堂であった。仏教の経典には、仏に燈火を供えると功徳があると説かれ、石燈籠には、仏への礼拝や供養の意味が込められていた。 飛鳥時代、石燈籠は当時仏教盛んな朝鮮半島の百済から、仏教美術品として日本に伝わった。当時の飛鳥朝廷は百済と、交流が盛んで、日本最初の仏教寺院の飛鳥寺を造営した。飛鳥寺の正面入口両脇に安置されたのが石灯篭の始まりであり、現代の電気の光のような明るさでは無いにしろ、小さな仏像を、照らすには菜種油に浸した心で十分すぎる明るさだった。 中国から朝鮮王朝、そして日本へと伝わった石灯篭は、日本にて独自の美術品として変化を遂げていった。写真は、岩に掘られた「洗心」の文字であるが、日本人なら、「心を洗う」と読むのではないだろうか?「洗心」の意味は、「改心し、過ちを改めて更生する」とほぼ同じ意味である。
2010.09.30
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「アモイ旅情9」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。南普陀寺は福建省の四大禅林の一つで、中国の寺院の中で僧侶の数も多い方である。日本寺院との交流も多く、戦前の交流も多い。現存している南普陀寺は清の時代に再建された。境内では線香を手にした人で溢れていた。共産国の中国にあり人の信仰心は日本以上だと思った。写真の大悲殿は1925年中華民国の時代に再建された。三重の屋根がカーブを描き、そり返った造りである。南普陀寺は観音菩薩を供養する由緒ある古い寺である。だが、若者の多いことに新鮮さを感じた。南普陀寺3万平方mとの説明を受けたが、3万平方mは、東京ドームのグラウンドが1万3千mなので2倍以上ある。南普陀寺には1925年に仏教大学が設立され、1991年に、大学院が設立され、在校生徒は500人程が勉学に励んでいる。また卒業生は中国の大きなお寺の管理職をしている。今中国で話題になっている事柄のひとつは今回の、尖閣諸島問題だ。しかし、以前の靖国神社の、参拝問題ほど騒いではいない。今回の船長解放を、いとも簡単にしてしまった日本側の、不甲斐無さを、せせら笑う人々の数が増えている。今の中国は日本なんて怖くない。中国が優位に立っていると、自慢げに話す中国人が多く、メールでも伺える。私の不安は、日本が中国の要求通りに、謝罪・賠償したら、海上保安庁が不法行為を犯したことになって、職員を、処罰するような事になれば、日本は国際社会から孤立し、北朝鮮は、更に拉致問題以外でもなめて掛って来るだろう。
2010.09.29
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「アモイ旅情8」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイにある南普陀寺という寺の名称は、観音菩薩の、道場として有名な浙江省の普陀山の南方向にある関係で、アモイの観音菩薩を供養する名前を南普陀寺と名付けた。明代より南普陀寺があるが、現在のような大伽藍が、置かれたのは、清の康煕年間であるとされる。厦門から多数の華僑が海外に渡った歴史から、多くの在外華僑の信仰を集めていた南普陀寺である。華僑とは、中国大陸・台湾・香港・マカオ以外の国家や、地域に移住しながらも、中国の国籍を持つ漢民族のこと。広東省で一緒に仕事をしていた中国人はシンガポールに、住みながら、時々中国まで来ていたが、パスポートは、中国籍でシンガポールの居住許可証を持っていた。シンガポールへ行った折、その人の家に行ったが、目を見張るような豪華な邸宅であった。写真は、仏を背にして祈る人たちを撮影したが、厳密に言えば、祈りを捧げる姿は撮影禁止である。中国の人たちが皆一同に長いカラフルな線香を、両手で捧げ持ち、願いを込め祈る心は皆同じだ。私は5年ほど前、ある施設を撮影して職務質問を、受けたことがある。今回、日本人4人が施設を撮影し、逮捕され拘留中だが、撮影の時期が、ずれていたなら、私も祈りの最中を盗み撮りした罪で拘留されていたかも。インドから中国へ伝わった仏教は最近の200年の間衰退して、儒教の教えを根本に、道教や民間宗教が主流であった。1954年、中国の新憲法に信教の自由を規定している。だが、文化大革命の10年間は仏教が破壊され続けた。現在の仏教を信奉する人たちは、年とともに増え続け、中には、法輪講という国家から弾圧された組織もあった。中国は、布教活動で人々を洗脳させる行動には厳しい。
2010.09.28
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「アモイ旅情7」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイは1841年アヘン戦争でイギリス軍により占領され、また1937年日中戦争では、旧日本海軍がアモイを占領した。日本軍は国民政府の首都南京を攻略し、中国軍は首都を、内陸部の四川省の重慶に移し徹底抗戦を貫いた。旧日本軍は1938年から湖北省武漢方面に大軍を集中し、陸と海から軍需物資を輸送開始。旧日本海軍の、支那方面艦隊は、それまでも海上の封鎖を実施。大本営は武漢攻略作戦の政策や計画を決定した。旧日本海軍はアモイを占領し、また陸軍も、広東攻略を実施する拠点の港がアモイ港だった。今、尖閣諸島沖での中国漁船と海上保安庁巡視船との、衝突事件で、日本政府が中国漁船の船長を釈放した。中国では、日本の弱腰がここまでとは思わなかった。少し強い要求をすれば、すぐに要求に応じたと書かれる。中国はこれを機会に、日本を懲らしめるべきだと語る。中国の強硬姿勢は、これからも拍車を架けるのだろうか。中国の船長は英雄扱いになり、日本では各県知事が、政府は何と情けない措置を取ったのかと不信感を抱く。民社党内からも、なぜ釈放したのか、説明責任を掲げた。野党は菅内閣の責任を追及し、解散へ追い込もうとしている。中国側は、日中戦争の責任賠償を放棄し日本から賠償金を、取っていないが、今回は謝罪と賠償を求めて来ている。写真は、南普陀寺の境内で長い線香を火を点けている所。
2010.09.27
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「アモイ旅情6」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。今回の旅は、アモイのガイドが用意してくれたツアーに、参加したが、8日間なのでツアーと単独行を混ぜた。現地ガイドよりアモイ大学(厦門大学)の説明を受け、程なくして、アモイの禅寺南普陀寺へ着いた。ガイドよりアモイの歴史などを聞いたのでまずは紹介。アモイは福建省南部に位置しており広東省に近い。また台湾海峡を隔て台湾と向かい合う港町で、現在問題の尖閣諸島までには相当の距離があるがいちばん近い。マルコ・ポーロがアジア諸国で見聞した内容口述を、記録した「東方見聞録」には第二のベネチアとある。アモイの名は明代の1400年頃が起源とされ、中国の歴史からみると610年の歴史と古くはない。またアモイの北の泉州の港は、宋から元代に、海のシルクロードの出発点として栄えた。 唐代中期800年頃に、アモイは新しい街の意味の、「新城」と呼ばれていたが、明代1400年頃に、初代皇帝「朱元璋」により「厦門城」が創建され、以降「厦門(アモイ)」と呼ばれている。写真は、アモイの禅寺南普陀寺の門の前に、建つ石塔と、南普陀寺への入り口の様子である。
2010.09.27
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「アモイ旅情5」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。今回の福建省への旅の前に、ネットで調べた優秀ガイドへ、メールを送り、自分自身の希望旅先をリクエストした。メールを送っても、中々返事が来なかったが、3回目の、メールに返事が来た。その返事の内容は、貴方は、どのように私の存在を知り、メールアドレスを知ったか。中国人女性ガイドの高飛車な質問内容も理解出来たので、福建省ガイド協会へアクセスして、優秀なガイドで検索。貴女がヒットしましたと送信したところ、どこのネットで、そのネットのアドレスを教えてほしいと再質問メール。半ば嫌気がさすほどであったが、相手にとっては、それ以上に、不安材料だったことだろうと思う。なぜならば、ある日突然1通のメールが舞い込んで来て、そのメールには、福建省の中で6か所ほどの観光地を、ピックアップし、その全てに事前に連絡を取って頂き、すべての費用を知らせて下さいとの内容だった。そして、費用はネット銀行から、口座へ振り込むので、口座名、口座番号等、教えてほしい旨のメール内容だった。その女性ガイドとは、現地で1回会ったが、年のころ、25歳ほどの女性で、ガイドの管理をしていた。何度もメールを送り付けたが、日本人で不案内である事を、告げてより、親切に状況説明のメールが何度も来た。だが、福建省近くで起こった尖閣漁船衝突事件の渦中での、メール問答なら、上手く事が運ばなかったような気がする。写真は、アモイのホテルの屋上から、早朝撮影した。
2010.09.26
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「アモイ旅情4」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイ空港は福建省にあり、上海虹橋空港から、1時間半のフライト時間で行けるが、自分の部屋から、また空港での待ち時間等入れると、4時間ほど掛かる。2002年頃までは、上海虹橋空港から帰国していた。だが、上海浦東空港からの入国や出国には時間が掛り、何とも虹橋空港が慣れた感じで不満を抱いていた。人間とは不思議なもので、浦東空港からの出入国に、慣れてしまうと、虹橋空港へ行くのにも面倒に感じた。中国国内旅行では、ほとんど虹橋空港から出発する。だが、敦煌や新疆ウイグル方面は浦東空港からが多い。その昔、旅立つ時が浦東空港からで帰りが虹橋空港と、その事を迎えの運転手に浦東と伝えていた。私の思い込みにより、夜遅く虹橋空港へ着いてより、運転手に電話するが、意味不明な事ばかり言うので困った。運転手は浦東空港に車を停めており、私は虹橋空港の、駐車場から電話をしているので全く通じなかった。浦東空港からは1時間以上掛かるので、結局、運転手を、帰らせ、私はタクシーで家まで帰るという運転手にとって、悪夢に近い、まるで私が嫌がらせをしているようであった。写真は、上海虹橋空港の待合室とその夜アモイの、ホテル屋上より、夜景を撮影した画像である。
2010.09.25
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「アモイ旅情3」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイからコロンス島まで船に乗り渡って来た。「海天堂構」の人形劇を見ている間に京劇の人形を、撮影しただが、上の画像は三国志の武将の関羽である。三国志の中で人気があるのは諸葛孔明・劉備玄徳。次に人気なのは、武将の関羽であろう。京劇での関羽役は、生(ション)と呼ぶ男役で武人や、英雄は武生(ウーション)呼ばれ、その中でも紅生と呼ぶ。また紅生(ホンション)と呼び専門の役者が演じる。関羽を演じる役者はその顔に黒子(付けひげ)をつける。生(ション)は男役で、老生と呼ぶ善良な中高年の男役。付けひげを着けるが、ひげの色(黒、灰色、白)で年齢を表す。武生は武人や英雄の男役だが、立ち回りを専門とする男役。小生は若い色男役。ひげは着けない。京劇でよく見かけるのは、背中に旗を挿しているが、1旗で4騎の軍勢を表している。旦(ダン)は女役で、老旦と呼ぶ老女役。青衣と呼ぶ女役。花旦と呼ぶ若い女役。また立ち回りをする女役を武旦と呼ぶ。浄(ジン)は凶暴な性格の男役で「花瞼」と呼ぶ瞼譜を使う。瞼譜とは歌舞伎で言うところの隈取の事をいう。正浄は男役で豪傑な性格の男役。副浄は地位が高く、性格が凶暴な男性の役で黒色系の隈取りを見てわかる。京劇の三国志で言うならば曹操や張飛が副浄にあたる。丑(チョウ)と呼ぶのは道化役で、顔の中央を白く塗っている。道化役は基本的に劇団長が演じる事が多いが、歌や踊りを、主に行う文丑、戦いが主の武丑、老女の彩丑の3つの役に分かれる。歌舞伎のことは、その昔凝ったことがあるが、中国へ来た当時は、京劇に関しても仕事に追われ、なかなか学習できなかった。だが、中国語の学習を始めて5年ほど過ぎた頃、京劇に関する本を、学習したものの大まかにしか学習できなかったので後悔している。
2010.09.24
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「アモイ旅情2」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。「海天堂構」の人形博物館内の京劇人形の写真を、撮影したが、現地ツアーのガイドさんへ断りを、入れてより人形が保管してある部屋で撮影をした。だが、30分ほど保管部屋に居ても誰一人来ないので、不思議には思っていたが、どうやらガイドは係員より、勝手に入っては、駄目だと注意されていた。更新画像は、京劇の人形であるが、京劇の歴史を、聞いてみたところ、220年ほど前からとの事だった。日本の歌舞伎は既に400年以上なので、歌舞伎に比べれば、それほど古い歴史ではないと思ったが、それでも220年。清朝の乾隆皇帝60歳の誕生祝いの折に、四川や上海、湖南や安徽、河南の地方劇を集めて、彼らの地方劇を、競わせ、その後人気のある地方劇を融合させ京劇を作った。道光帝の頃には、皇族の中にもアヘンが蔓延し出しはじめ、その頃に湖北劇団が北京に進出、安徽省発祥の劇団も、北京を目指し、その他の劇団にも大きく影響を与えた。アヘンにより世の風紀が乱れ治安も悪くなって来たころ、北京以外の劇団が濁った世を少しでも明るくしようと、北京に集まり、地方劇は京劇として次第に人気を得出した。時代は、太平天国の乱などが勃発すると南方の政情が、不安になり、何とか南方に留まっていた劇団も北京に結集。また西太后の援助を受け北京独自の演劇として発展した。清朝末期から中華民国の頃になると「四大名女形」と、呼ばれた4人の俳優が京劇に革命をもたらした。
2010.09.23
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「アモイ旅情1」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。今日からの旅の写真の更新は、厦門(アモイ)を、拠点にして、コロンス島や武夷山また客家円楼、そして胡里山砲台やアモイ貿易会議館など更新予定。アモイへは仕事で行ったことがあったが、旅行としては、初めてである。出張の合間に、観光地へ行ったことがあっても、心が落ち着かず、旅行は、やはり心を落ち着かせてゆっくりしたい。、写真の人形劇は、昔の「チロリン村風」で、人が上手に操り、迫真な人形劇を披露していた。あやつり人形劇も盛んに行われており、地元の中学生たちが、皆一同に練習に励んでいた。アモイからコロンス島へ船で渡り「海天堂構」で、開催されていた人形劇を撮影したが、私は抜け出し、「海天堂構」の人形博物館内のガラス張りの中に、保管されている京劇の人形も撮影したので、次にその写真画像を公開したいと思う。
2010.09.22
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「蘇州旅情65」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。写真は、通貴橋から見た運河で、船着場方向を撮った。運河沿いにはレストランが並び、夜ともなると、提灯に明かりが灯り、その明りが水面に映り奇麗だ。船着場から船に乗り観光をする外国人の姿が多かった。「山塘街」は最近になりガイドブックにも掲載され、静かなブームになり足を延ばす人も増えてきた。私も蘇州4回目にして、やっと訪問できた。蘇州の町並みは、白壁の家と黒い瓦がマッチし、まるで、いにしえの日本へ迷い込んだようだ。蘇州一帯は水路の街としても、東洋のベニスとして、日本の旅行会社では紹介され、実際に蘇州の水路を、見ていると手漕ぎ船の往来で、どの水路を見ても、歩いても、情緒ある風情が味わえる。 蘇州5日目は最後の夜になってしまい、その夜は、ホテルへ戻った後、シャワーを浴び、蘇州繁華街へ。翌日、午後の列車で上海へ向け乗ったが、その蘇州駅ホームの雰囲気を撮影した。また列車がホームに入ってより、列車のボディに、貼られた始発と終点駅名を撮影した。南京から杭州まで往復している列車で、蘇州から1時間で上海駅に着くことができる。「蘇州の旅」は、これで終わりで、次の旅は、650キロ離れた福建省7日間の旅を公開する予定。
2010.09.21
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「蘇州旅情64」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。山塘街をさらに進むと、魔術と看板が出ていた。中国語で魔術の読み方は「moshuモースー」で、意味は日本語の漢字から受ける感覚と同じ。マジックの意味であり、店に展示されている物は、ほとんどが簡単に手品ができるものである。トランプやサイコロなどが並べられ、種明かしの、本なども並べられていたが、麻雀牌も売られ、マジックとあまり関係ないのではと思った。この辺りの店の雰囲気は1930年代の中華民国時代の、魔都と呼ばれた雰囲気のある店が並んでいた。蘇州の一人旅も終わりに近づき、明日には蘇州駅から、列車で上海まで帰らなければならなかった。旅の計画を練っている時の時間も早く過ぎ去るが、実際に旅に出ると、過ぎ去る時間が早いように思えた。下の写真は山塘芸術商場と書かれてあったが、中は陶器で出来た置物や絵皿類が所狭しと置かれていた。山塘街の通りは、生活空間の匂いが漂っていた。特に、午後4時ごろになると、ランドセルを背負った、小学生が友達と連れ立って家路を急ぐ光景など、中国各地の観光地とは違う雰囲気を味わった。
2010.09.20
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「蘇州旅情63」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。双塔で会話した年配の息子より山塘街まで、車で送ってもらったが、50元を要求された。バスで来れば2元で、タクシーを使っても、20元足らずで来れる距離であった。しかし、これが中国の白タクの事情であり庶民である。山塘街は蘇州の北西部にあり「石路歩行街」から、「虎丘」への水路沿岸の通りで昔は5キロの、道のりだったが、現在では400mほどだ。山塘街は15年ほど前から観光用に開発され始めた。山塘街は虎丘までの水路であったため、水郷の、雰囲気が十分に味わえるため、多くの観光客で賑わう。山塘街から「虎丘」まで車で10分ほどで行けるとの事。一人旅の多い私は、無駄が多過ぎるが致し方ない。団体ツアーを利用すれば、慌てて観光しなければならない。しかし、金銭面や時間面でも、お決まりのコースだが、5日間掛けての一人旅が、2日間で事足りると思う。だが、そのような無駄な一人旅が何ともいえず面白い。また色々な人との触れ合いもまた旅の醍醐味である。山塘街の道の両側には店が並んでいるが、新しい店も、多く、その新しさが、いにしえの古風さを消している。山塘街の中ほどに、上の写真のような戯台があった。戯台は中国で一般に言うところの京劇が行われる。また山塘賓館と看板が出ている通り、ホテルである。暫しの間、待っていたが誰も出て来ないので、近くの、商店主に宿泊客の事を聞くと外国人が多いとの事だった。
2010.09.19
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「蘇州旅情62」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。双塔を見終えてより、暫く年配の人たちの誘いで、お茶を飲みながら楽しい会話して過ごした。殆どの人は、あんたは何処から来たの?と、お決まりの質問だったが、上海から来たんですと、言ったものの、一人が、あなたの話し方が福建省か、台湾の方のような感じの話し方だよと言った。私は雰囲気がおかしくなって来たと思い、つい、日本から来た事を話すと、今まで黙っていた人まで、口を挟んで来て、あんた日本人だったのか・・と、なんとも不満そうな表情で言ったので嫌な気がした。案の定、日中戦争の事を執拗に言われ続けた。最終その人は、南京へ侵攻する道すがら、蘇州でも、多くの人が虐殺されたと恨めしそうに話すので、私が殺したわけでもないし、第一生まれていないと、少し語気を強めて、大人げなく話してしまった。すると他の人が麻雀をやめてこちらへ歩いて来て、大きな声で、あんたがその頃虐殺に加わっていたら、話だけでは済まず、皆であんたを袋叩きにすると、腕まくりをしながら、話すので可笑しくもあった。やはり年配の人と言えども、うかつに日本人と、言うすべきではないと思った。特に辺鄙な裏通りの、中国人だけが集まっている所では要注意と思った。そんな人たちも、言うことだけ言ってしまうと、あんた、これから何所へ行くんだと聞いてきたので、思わず山塘街までと言うと、他の年配者が、そこへの、行き方は分かっているのかと尋ねられた。私は行き方までは分からないと言うと、おもむろに、携帯電話を出し、何やら話していたと思うと、それほど時間も掛からずに、その人の息子と言う人が、山塘街まで乗せて行くから、料金を払えばよいと・・。メーターも付いていない怪しい車に乗ってから、息子に、何か面白い人たちばかりと話すと、皆、することがないからね~と笑った。15分ほどで山塘街へ着き、写真のところで降りた。上の写真は器用に金属の箸に細工をしていた。この箸は、これから仕上げ工程に出すと言う事だった。
2010.09.18
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「蘇州旅情61」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。「解脱」という名が書かれた洞門を潜り、双塔へ向かい歩くこと6分ほどで着いた。双塔の中は年配の人たちの憩いの場になり、1か月の通し入場券とお茶券を持っており、毎日多くの人が麻雀をして楽しんでいる。双塔は950年に建てられたが、中央の正殿は、基礎の部分のみ残っており、建物はなかった。その基礎部分には、花が転々と咲いていた。私が正殿の跡地から双塔を撮影していた所、一人の80歳ほどの恰幅の好い老人が、私の方へ近寄ってきて、手招きをしていた。私は、また何か悪い事でもしてしまったのかと、思いながら、老人の方へ歩いて向かった。あんたはどっから来たのか?と、やはり注意を、受けるものと思ったものの、上海から来たと、伝えると、その事には触れずに、向こうから、撮影すると双塔の全景がきれいに撮れると言われた。私はどの辺だろうと、ゆっくり歩いて行くと、私の後について来てくれ、建物の隅を指差して、ここからと撮影する格好まで見せてくれた。双塔は8角7層の塔で、高さは約34mあり、二つの塔は形状は同じだが、建てられた年代が、風化の進み具合を見て、違うように思った。
2010.09.17
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「蘇州旅情60」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。滄浪亭を見終えて出口の方へ向かった。ポケットより予定を書いた手帳を出した。出口に居た女性に次の「双塔」への、行き方を聞いたところ、タクシーで、行った方が確実に行けれますと言われた。タクシーで行くなら聞く必要もなかったと、思いながらも表通りへ出てタクシーに乗った。運転手に「双塔」へ行きたいと伝えると、何度も「双塔?」と言い、何処にあります?と、訪ねてくるのでカメラバッグの後ろ側の、ポケットからガイドブックのコピーを出した。運転手はメガネを外して見ていたが鳳凰街かと、言うと車を方向転換させ目的地へ向かった。そして、着いたのが写真の定慧寺という禅寺で、中に入り、双塔が何所に建っているのか探した。私の探していた目的の塔は二つ並んでいるが、探しても見つからなかった。寺の名前をもう一度、見直すと「定慧寺」とあり「双塔」はこの寺の、敷地内のどこかに建っているのかと思った。だが、いくら探しても双塔が見つからず、すれ違った僧侶を呼び止めて「双塔」が何処に、建っているのかを聞いたところ、ここから、300mほど行った所にあると教えてくれた。どうやら私が来た所は双塔ではなく定慧寺という、禅寺であった。この寺のルーツは修道院で、1800年の歴史があり、寺の中にある天王殿の、四天王の姿も坐像で派手な色使いであった。タクシーの運転手が「双塔?」と考えた意味が、分かったようだったが、私も定慧寺の案内コピーを、持って来ていなかったので、致し方なかった。私は定慧寺の全てを見ることもなく、外へ出て、僧侶の教えて頂いた方向へ歩いて行き古びた門を、見つけ中に入ろうとしたが、入場チケットを、買うようにと年配の人に呼び止められた。
2010.09.16
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「蘇州旅情59」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。滄浪亭の回廊に限らず蘇州の庭園や上海の、庭園でも回廊の壁に色々な形の窓が開けてある。その回廊の窓にはガラスなどは入っておらず窓の形も、瓢箪や扇や台形また菱形などの形で窓が付けられている。その窓越しに景色を見て楽しむのもまた面白い。また庭園には壁に穴を開けた入口をよく見かける。壁に開けた入口を洞門と呼び、仕切られた庭園の、出入り口であり、庭園を分けた壁を通り抜け、庭園を訪れた大切なお客様をもてなしたとのこと。写真のように、池の周りに建物が立ち並び、回廊を歩いて庭園内を歩き、その途中に洞門を潜り、次の庭園がどのようになっているか期待を膨らませる。私が訪れた日は、観光客が少なく、庭園内の静寂さを、余計に深まらせ、世俗から隔離された世界からは、いつまでも庭園内に身を置いておきたいと思うほどだった。写真でも、提灯が掛けられているところが写っているが、中国の到る所の庭園や観光地には提灯が下げられている。提灯が無かったならば、逆に殺風景と感じるかも知れない。被写体のとらえ方によって、同じ景色であっても、色々な空間を作り出すことができるが、人それぞれの、価値観や撮影の度合いにより、変わってくると思う。上の写真と下の写真とは撮影場所が全く正反対の場所より、撮影しているが分るだろうか。上の写真に提灯が写り、下の写真は、上の庵まで行き、提灯をアップで建物を撮影。
2010.09.15
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「蘇州旅情58」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。滄浪亭園内の構造は太湖周辺の丘陵から、切り出した穴の多い複雑な形の奇石で、築山を造り、その周囲に建物が配置される。園内の山林と園外の疎水は回廊によって、仕切られており、静かで自然の趣きに富び、その心和む、のどかな景観を観賞できる。楼閣の中に入り天井から吊るされた灯篭や、重厚な椅子またテーブルを見ていると、ホッとするような安心感が宿った。庭に出て鉢植えを見ていると、私が中学時代に、家の庭に近所の大工さんに頂いた平木で雛段を、作って、その上に鉢植えを並べ世話をしていた。近所のおばさん達が遊びに来ては、あなたは、中学生にしては変わった子供とよく言われた。同じ年頃の子供たちと野球などもしたが、鉢植えの植物が育っていくのを見ていると、心が和み、勉強もはかどったような気がした。そんなことを思い出しながら、庭園の鉢植えの、植物に太陽の陽が差し、その影と戯れて撮影した。
2010.09.14
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「蘇州旅情57」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。滄浪亭は蘇州の他の3つの庭園と趣が異なる。他の3つとは拙政園、獅子林、留園の事である。この3つの庭園は高い外壁に囲まれ中が見えない。だが滄浪亭は灌漑ために切り開いた水路の、疎水越しに美しい園を眺めることができる。写真は明道堂から竹林を見たところで、滄浪亭では、竹林も随所に作られている。最も見事な竹林は、やはり明道堂の前と思う。明道堂は昔から学問を講義していた所で、ここから有名な文人や書家などが育っていった。滄浪亭は蘇州の庭園の中で四大庭園の一つ。庭園の中を散策し出すと竹を植えた庭に出た。滄浪亭はもともと五代十国時代呉軍の軍を、指揮する役目の節度使だった孫承右の、私邸池館だったが、死後荒れ果ててしまった。その150年後詩人であった蘇舜欽が官職を、失って蘇州に移り住み、荒れ果てていたが、清々しい庭園に魅かれ、個人で買い取った。築造したあと、滄浪の水の魚歌から、滄浪亭と名づけたとの話だった。
2010.09.13
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「蘇州旅情56」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。孔子の大成殿のあと徒歩にて「滄浪亭」へ行った。蘇州には9か所の庭園が文化遺産に登録されている。拙政園・留園と獅子林はすでに見て回った。滄浪亭へは今日入ったが網師園へも行った。私は、蘇州四大名園とされる拙政園・獅子林また、留園と滄浪亭の4か所を見て回れば十分と思い、環秀山荘・退思園・芸圃・藕園へは行っていない。滄浪亭の入り口の両脇は堀になっており、石橋を渡り滄浪亭の門を潜り抜け中へ入る。滄浪亭は1100年ほど前の五代十国時代に、個人亭として造園され、蘇州四代庭園のの一つ。滄浪亭の中へ入ると回廊を伝い池の周りを歩き、見て回った印象は落ち着き歴史ある庭園。この日の観光客は少なく数えるほどだった。孔子の大成殿ほど観光客は少なくないが、庭園ののどかな雰囲気を満喫できた。
2010.09.12
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「蘇州旅情55」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。大成殿の敷居を跨ぐと正面に孔子の絵が、掲げられているが、縦7.5m×横5mの大きさ。説明書きには清の第4代康熙帝が描いたものとある。孔子は春秋時代の紀元前551年に山東省曲阜で誕生。孔子が祭られている大成殿の事を、タクシー運転手は、あまり面白くないよと言った意味が分かったような。なぜならば、私が参観する50分ほどの間、誰も、入って来ず私一人だったことにより中国人には儒教の、創始者のことなど関心や影響など無いのかとも思った。孔子は偉大な教育者であり、教育に階級を問わないと、階級や貧富を問わず、皆平等に教えていた。孔子に学んだ弟子は3000人以上に上り、このうち、72人が著名人となって後の世に影響を及ぼしている。私が孔子の教えの中で好きな言葉は「温故知新」「習ったものを復習して新しいことを知る」という言葉。後世になり、孔子の弟子たちが孔子の思想と言行を、書き取り「論語」にまとめ上げ、後の儒教の経典になった。中国の後の封建社会では孔子の思想が正統教義とされたが、1968年に始まった文化大革命では孔子の思想は反革命と、子供たちに孔子の像を作らせ破壊をさせていた時代もある。
2010.09.11
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「蘇州旅情54」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。昨夜少し飲み過ぎたので朝食のバイキングは、テーブルに運んで来ても食が進まなかった。ロールパンをペーパーナプキンで包み込み、リュックの脇にすべり込ませホテルを出た、ホテルから碑刻博物館へ直接タクシーで来た。タクシーの運転手に孔子像が立つところへ、行きたいと伝えたところ、面白くないよと、言われたものの、やはり行ってみたかった。中に入ると石碑とか石の拓本が展示されており、展示物は回廊の壁に埋め込んであった。写真は孔子を祭る大成殿への門で大成門と呼ぶ。門越しに正面を見ると孔子像と奥に大成殿が見える。孔子を祭る廟は中国各地にあるが、やはり大きいのは、孔子が生まれた山東省の曲阜の孔廟が最も有名。蘇州の孔子を祭る大成殿は北宋時代に創建されたが、何度も破壊され、特に文化大革命ではひどく、破壊されたが、再建され修復をされてきた。北宋の1035年に儒教の祖の孔子を祭る廟として、崇められていたが、封建思想の孔子の教えを、封建主義の象徴であるとして破壊の対象とされた。
2010.09.10
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「蘇州旅情53」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。盤門三景で盤門側から中へ入り、広大な、盤門風景名勝区を見て回り瑞光塔が、建つ所まで着き、7階の上まで上がろうとした。時計を見ると午後5時を指しているのと、足が棒のようで疲れ果て、瑞光塔の中へ、入るのは断念して近くを撮影して外に出た。瑞光塔は蘇州に住んでいる人々は知っているが、私はガイドブックのコピーを見て知った程度。三国時代に呉の孫謙によって建てられた瑞光塔は、13階建てであったが、宋代に再建し7階になった。三国時代の高さは1階ずつの高さが低かったため、62mだったが、宋代になり再建した7階建ては43m。瑞光寺は瑞光塔の西側に建ち、鐘楼の中に、吊るされている鐘を見ると寒山寺を思い出した。江蘇省の文化財保護の部門の管轄になったのは、1956年で1988年中国の重要文化保護財となる。私は外へ出るとタクシーを拾い、ホテルまで帰り、その晩も蘇州の夜の街へ繰り出した。
2010.09.09
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「蘇州旅情52」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。盤門・瑞光塔と呉門橋の三つが盤門三景だが、上の写真は呉門橋であるが、杭州西湖に、架かる断橋にも似た所がある。実際には遠くから呉門橋を見ただけであるが、杭州西湖の断橋よりスケールが大きいように見えた。上の橋はまた違った雰囲気の橋である。中国語で「碧波」と彫られているが、意味は、青い波ということである。橋の下に手漕ぎボートが置かれ橋と合っている。橋を渡ってから見る角度を変え、柳越しに撮影。盤門三景の中で知られる水運である。その昔、軍事物資の運搬にも使われていた。現在では水路は観光や生活にも使われているため、やや汚染されゴミが浮いているのが残念だ。
2010.09.08
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「蘇州旅情51」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。盤門三景へは時間があれば来てみようと、今回の旅のリストには最後のほうに、盤門を書いていた。だが、虎丘で知り合った人と一緒に食事を、することになり、そこで蘇州へ来たのでしたら、盤門へ行ってみるとよいと言われた。その地元の人は眼を輝かせて話すものだから、私の旅リストを見せると、盤門の下に線を引いた。その線に矢印を引き、虎丘の後に持ってきた。私は、その人の言うとおりに予定を変更した。 上の写真は錦鯉が元気よく泳ぎ餌に群がっている。後方に見えるのが三国時代に呉の孫権によって、建てられた七重の塔である。八角七層の塔を瑞光塔と呼ぶが、内戦により、何度となく破壊と再建が行われて北宋時代に、再建され、その後各時代に修復が行われてきた。虎丘からのバス乗り場を違え、盤門へ来るのが、予定より1時間ほど遅れてしまった。そのため、少し急ぎ足で見て回ったが、盤門三景へは来てみて良かったと思った。盤門から入り、一人のため、また見て回る順序は、自分の気の向く方向へ歩きながら観光を続けた。
2010.09.07
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「蘇州旅情50」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。当初(秦)蘇州城の城門は8か所にあったが、現在に至っては写真の盤門一つのみ残る。秦代に建てられた城壁は、三国時代に破壊され、宋代になり改修されたが、元のモンゴル時代に、破壊され、明代に入りすぐに再建されている。破壊と再建を繰り返してきた盤門だが、現在では、写真の城門一つだけになってしまった。文化大革命時代にも城壁が破壊されたが、戦争のない今、盤門三景の中心的存在になっている。盤門三景は、古城遺跡公園としても知られる。公園内は、きれいに整備されゴミ一つたりとも、落ちてはいないほど、観光客の意識も向上。盤門は陸門と水門に別れており、写真の錆びた、鎖を巻きあげる道具は敵の侵入に対する工夫の、一端であるが、古代の戦略が随所に見える。下の写真は、ウェーディングドレス姿の花嫁の、写真撮影であるが、中国では結婚式前に、花嫁花婿の撮影にお金をかけている。
2010.09.06
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「蘇州旅情49」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。当初の予定では虎丘から蘇州游2線バスで、1回乗り継ぎ、目的地である盤門の予定だった。だが、私が虎丘にて虎丘塔を見た後で、直ぐに、引き返さず、反対方向へ歩いて行ったため、バスの本数が少ない上、目的地へ行くには、2回の乗り継ぎをしなければならなかった。虎丘から游2線バスに乗り、游5線に乗り換えれば、盤門テーマパークへ着く筈が、バス路線も、分らず、地元の人の案内で、心配いらないと、言われたものの、その人は先にバスを降りてしまい、この先6つ目か7つ目のバス停を降りて、そこで、もう一度聞いた方がいいよなどと言われ、着くのかという心配から不安に変わった。横に座っていたご婦人が、何処へ行きたいのと、聞いて来たので、盤門を告げると、友人に聞いていた。 蘇州語で話をしているので詳細は分らないが、あなた、モス少し行った所で降りてタクシーに、乗った方が間違いないなどと言われた。予定では虎丘から50分ほどで着く筈が、1時間半、経ってもまだ目的地へ着かなかった。その時、ここで降りてタクシーに乗りなさいと言われた。タクシーに乗ってものの8分足らずで目的地へ、着き、料金を支払うとき、何となくホッとして、笑顔になっていたのか、運転手から、何か良い事が、あったのですかと言われるほどであった。
2010.09.05
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「蘇州旅情48」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。蘇州市内バスの游1線と游2線共に、蘇州駅から直通で虎丘まで行ってくれる。タクシーに乗る必要は、あまりないと思う。私の場合は、バスを利用して土地感覚を、養いたい思いで利用している。確かにタクシーを利用した方が例え寝ていても、確実に目的地まで行ってくれる。だが、バスの次は何駅と言うアナウンスを、聞きながら目的地までワクワク向かうのも、また一人旅の醍醐味である。上の写真は、虎丘塔に登ってみようと、列を成し待っている旅行客たちである。だが、登れるのは2階までで、それ以上は、階段に鉄格子が置かれ鍵が掛けられている。虎丘塔の近くまで寄ってみると新しいレンガや、色褪せたレンガがまた時代を感じさせていた。私は虎丘公園を横切るように、反対側の、虎丘入場入口まで歩いて来た。虎丘塔もかなり遠くに見えるが写真でわかる。外に出てバス停まで来たもののバス路線の時刻表も、設置してなく、車で来ている人に聞いてみた。私の次の目的地である盤門風景地へは、どのバスに、乗ればよいかと聞いたところ、バスを3度乗換して、行かなければならないと言われ、それに従った。
2010.09.04
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「蘇州旅情47」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。 春秋時代に呉の最後の国王であった夫差が、虎丘に埋葬されたが、埋葬された3日後に、白虎が埋葬した周りに出没していた。白虎の虎にちなんで、虎丘と呼ぶようになった。下の写真には「入解脱門」と書かれたゲートを、潜りしばらく進むと虎丘塔が見上げるほどに、目の前に広がり、そのスケール圧倒される。 解脱に入るとは、煩悩の縛られた苦痛から、解放され、安らかで自由な悟りの境地に、達することであるが、煩悩から離脱しても、一瞬であり、次の煩悩が待ち受けている。 下の写真は虎丘塔で、別名「雲岩寺塔」と呼ぶ。造りは八角形で七層になっている。虎丘塔は、レンガで建てられたが風化が進み、中国国務院や江蘇省また蘇州市の歴史建物の、文化保存会では、宋代960年に建てられた塔の、美観を損ねないように修復作業に当たっている。虎丘塔の高さは48mほどあり15階建てビルの、高さがあるが、地盤沈下のために、およそ、400年程前から傾き始めたと説明にはある。現在は禁止されているが、数年前までは、2階までの見学は許可されていたという事だ。だが、登る人数を制限して、一度に多くの人が、登らないように係りの人がチェックしていた。
2010.09.04
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「蘇州旅情46」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。 宿泊している北寺塔の近くのホテルから、徒歩にて北寺塔バス停まで行った。ホテルからバス停までの道のりは10分ほど、その道のりの歩道には、個人個人の朝市が出ていた。もぎたてのトウモロコシや果物、マントウから、健康食品まで、色々な物が並べて売られていた。朝市の様子を見ながらバス停まで歩いたが、思いのほか早くに着いた感じがした。 蘇州游2線バスに乗り、最終駅の虎丘へ着いた。私は虎丘の入口がバス停の近くにあると思い、言われた方向へ歩いて行くと10分以上して、呉中第一山と書かれたゲートへ着いた。「東洋のピサの斜塔」と呼ばれる八角七層の、「雲岩禅寺」がある「虎丘景区」の参道を歩いた。中に入り少し行くと回廊の壁に虎丘の資料が、ガラス張りの中に展示されていた。 更に歩いて行くと、広場があり女子中学生達が、ダンスをレオタード姿で練習していた。広場から虎丘への登り道になる所に「虎丘剱池」と、彫られた中を赤く塗料で塗られた岩を撮影した。この付近に呉王の遺体が葬られ、副葬品として、剱が3000本埋められたと伝えられている。 呉王の墓の建設に携わった千人以上の人が皆殺しに、その血で石を赤く染めたという言い伝えがある。
2010.09.03
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「蘇州旅情41」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。 西園を出て西園の前を流れる川に架かる橋を、渡って広い道路へ出たが、次に向かう、「留園」の位置を地図を見ながら確認していた。気がつくと、オートバイの後に荷台を牽引した、3台の三輪車が私の周りを取り巻いていた。三輪車の事を中国では「サンルンche」と、呼んでいるが、いわゆる輪タクなどと呼ぶ。西園から留園まで2キロ足らずの道のりだが、歩いて行こうと考えていたものの、2元(30円)で、乗せて行ってくれると言う人の車に乗った。乗り心地はお世辞にも良いとは言えなかったが、便利な乗り物ではあると思った。しかし一般には、初乗り4元なので私は3人の中で一番安い賃金に乗った。だが、中国ではボッタクリも横行するから、一人旅の、場合は、やはり中国語だけは話せると良いかも。 もう少し話していたいと思うほどに早くに留園へ、着いたが、運転手には気の毒に思い3元を手渡した。初乗り4元からすると、1元安いが、私と交渉した賃金からすると1元多くなり、笑顔で3元を受け取ってくれた。留園の中に入ると、どこかで見たような風景に、今まで見てきた拙政園と獅子園を併せたような、そんな景色が目の前に広がっていた。留園は蘇州の西にあり、拙政園と並び、中国四大庭園のひとつに数えられ世界遺産である。明代に西園と東園と造られ、その後西園は寺院に、東園は園主の劉恕名の姓にちなんで劉園となった。留園は清代に大改修が行われたが、蘇州の各名園の、長所を取り入れられており私も何所かで見た庭園と、思ったのも納得ができると思った。 「蘇州旅情42」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。 今回の旅の重要な目的は世界遺産に指定の、滄浪亭、獅子林、拙政園、留園の四大名園を、見ることが最大の目的であった。蘇州の四大名園は上記の四庭園だが、中国の四大名園は、蘇州の拙政園と留園に、北京の?和園と華北省の避暑山荘を呼ぶ。留園は中国の国宝庭園で1997年に、世界遺産に登録されている。蘇州の四大名園の中で一番広いのは、拙政園であるが、二番目に留園が続く。 留園の入口から回廊を進んで行くと、それほど大きくない池に出る。どこからともなく中国琵琶を奏でる音色に、引かれ歩いて行くと草庵の中で、当時の姿をした女性が琵琶を弾いていた。彼女一人しか居なかったが、近くには、二胡も置いてあり、ここで琵琶や二胡で、演奏会が開かれるのだとも思った。下の写真は太湖の石を築山にした近くの庵で、留園の到る所に、庵が建てられており、庭園の中で緑と築山と池の青さによく似合っている。 「蘇州旅情43」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。 蘇州の庭園には東屋とか亭などと呼ぶ、休憩場所が造られている。日本でも森林公園やゴルフ場などで、東屋と呼ばれる休憩所を見かける。その東屋の天井から灯篭が吊下げられ、旅ゆく人たちの心を和ませてくれる。灯篭は主に人を迎え入れる応接間などや、回廊の天井から吊下げられている。イギリスよりの旅行客たちも灯篭を見ては、ビューティフルを連発していた。 上の写真や下の写真の塀の上の姿を見ると、龍を連想するのではと思うが如何だろうか。塀の上に作られた龍の胴体のように見える。龍と言えば、大蛇から想像されて作られたもので、架空の動物であるが、日本にも浸透している。横浜などの中華街で、龍を躍動的に操る祭りがある。龍の胴体に何本もの棒をつけ、それを大勢の人が、上手く操り、龍が宙を舞っているように見える。そのような躍動感を感じさせる龍の背を、回廊横の塀の上に模り庭園造りをしている。 「蘇州旅情44」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。留園の中を一人で自由気ままに、観て回っていると、同じ所に戻ったり、まだそんなに時間が経っていなくても、出口に出たりして、一体何処をどのように、観て回ったのかさえ分からなくなっていた。15人前後で行動をしガイドが着いていたが、やはりガイドと共に見て回った方が、良いとも思ったが、自由に観て回った。下の写真は池の対岸に建つ建物で明瑟楼と呼ぶ。留園は徐泰時が明代に造園した個人庭園。庭園の中ほどに造られた池や築山は殆ど、明代に造られた当時のまま残されている。明代や清朝と書いても西暦が分らないと思うが、北宋は960年~1127年 南宋は1127年~1279年元代は1271年~1368年 明代は1368年~1644年 清朝は1644年~1912年 中華民国 中国下の画像は徐泰時が留園を描いた絵である。徐泰時の死後、留園である「東園」も、荒廃の一途を辿ったが、清代末になり、劉恕の手によって改築され、東園から劉園へ。その後も時の流れと共に人から人へと、持ち主が入れ替わり、庭園もそのたびに、改築されたが自然は変わらぬまま人を和ませる。 「蘇州旅情45」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。留園の資料室を過ぎると土産物売り場へ着いた。外の土産物店とは違い、売られている品数は、さほど多くはなく、目についた絵皿に興味がいった。土産物屋で多く売られているのは、刺繍や書画、また掛け軸など、特に多いのは紹介DVDや本など。大きな陶器の皿に生き物の絵が描かれていた。鶏の絵やカエルから魚など色々な絵が描かれ、展示されていたが、清朝時代の陶器も沢山陳列。写真の白い器肌にコバルト一色で絵模様を、描き出したもので、白い器面によくうつる。店の人は、この器は清朝時代に絵付け職人が描き、これほどの筆遣いのものは、中々ないですよと、勧められたが、偽物が横行するなか写真だけにした。土産物店を出ると出口で、少し離れた所に、入口があったが、道に迷ったと言って、再度留園の中へ入ってみると建物の位置関係が、よく分かり苦笑いをしたものの、すぐに外へ出た。留園から、さほど遠くない所にバス停があり、留園から北寺塔まで行き、そこから15分ほどの、私が宿泊しているホテルまで歩いて帰った。時計を見ると、まだ4時前だったが、庭園周りには、中途半端な時間であるし、虎丘へは翌日にして、ホテルでシャワーを浴びた後、夕方の蘇州の街へ、繰り出し、お酒と食事を十分に堪能した。
2010.09.02
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