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今回私が調べたのは、鳥見山周辺と、三輪山周辺です。
なぜこの地を選んだかというと、前々回にお話したジョーマクモニ―グルの卑弥呼の話の中で、卑弥呼にゆかりのある近畿地方は鳥見山と三輪山だとされていたからです。なので、この2つの場所を選びました。
ジョーマクモニ―グルによれば、鳥見山あたりは、卑弥呼の公的な祭祀場だったとのことです。
見えてきたのは、白装束を身にまとった集団でした。
山を登っているような映像と、おそらくは、山を登りきったところの広々としたところで何かをしているような印象が感じられました。
ですが、ジョーマクモニ―グルのいうような、公的な祭祀がなされていたかどうかは、よくわかりませんでした。
次に、三輪山周辺を見てみました。
見えてきたのは、草原のようなところに、なんというか、質素な服を身にまとった女性が立っていて、私に一緒についてくるようにと促していました。
女性は「ワカミヤ」と名乗り、このあたりは「イカルガ」と呼ばれる地域と深いかかわりがあること、「元伊勢」とも深いかかわりがあることなどと告げた後、私に「伊雑宮から参られたのですね。」などと告げました。
また、別の時に、卑弥呼にゆかりのあるところへと意図してみると、神社から三輪山の奥へと入って行きました。
その時見えたのは、卑弥呼と思われる女性が一人で祭祀をしている様子でした。
あるいは、三輪山で多数の集団が祭祀をしていると思われる様子は、私にはわかりませんでした。
地図の上から見てみると、鳥見山と三輪山を結ぶ直線上には他にも山が連なっていて、イヤシロチの視点からみると、「タカミ」にあります。
ですから、土地的には何ら問題はありませんし、古代の祭祀場だったという話も、まんざらでもないように思いました。
ですが、エネルギー的にはイマイチかなという印象が少しだけありました。
後ほどネット等で調べてみたところ、三輪山のふもとのあたりは、聖徳太子にゆかりのある古代の斑鳩地方にも近いですし、
また、三輪山のふもとにある大神神社の摂社には、元伊勢の一つと言われる檜原(ひばら)神社と呼ばれるところがありましたし、大神神社の摂社で「若宮社」というところもありました。
また「伊雑宮から参られたのですね。」という意味も、私個人にとっては明確でした。
つまり、この時期に、非物質的ではありますが鳥見山や三輪山地方を訪れる目的というのがあったように思いました。
それは、カタチとしては卑弥呼について調査するという目的でしたが、調査が目的というよりは、伊勢の神気を元伊勢に里帰りさせるという裏の目的があったのかもしれないと思いました。
なお、古代の祭祀場だったり元伊勢とされる場所がエネルギー的にはイマイチだった理由は、エネルギーもその時代とともに移り変わっていくものだからなのではないかと個人的には思っています。
つまり、現代においては、伊勢神宮が名実ともに最も神気に満ちた場所であるのだということです。
ただ、そうはいっても、古代の場所も役割を担っていることには変わりなく、アマテラスのエネルギーを里帰りさせることが、国土のさらなる安定につながるのではないかとも思いました。
実は公開できない部分も多く残念ですが、一応、今回をもって卑弥呼についてのリーディングを締めくくりたいと思います。
最後に、今回、三輪山周辺を探るにあたり、伊勢白山道さんのブログやコメントを参考にさせていただいたんですが(禁足地の話等)、それを調べている中で、とても興味深い話があったのでご紹介したいと思います。
それは、邪馬台国や卑弥呼にまつわる話なんですが、前々回から2回にわたってお話してきた邪馬台国や卑弥呼、そして以前お話したムー大陸についての私のリーディング内容と重なる部分があるのです。
以下、伊勢白山道さんのブログとコメント欄から引用させていただきます。
検索エンジンを利用させていただいたため、ブログの年月日が不明ですが、ご了承ください。
「この当時のヤマタイコクは、 白山の近辺に在りました。
今の福井県から石川県辺りが、中心になります。
山々に囲まれた大国=ヤマタイコク です。
白山王朝が外国の異民族に急襲された後、異民族が北陸を拠点にして、日本人の中に混ざっていったようです。
そして中国大陸からの人と文化の流れがあったようです。
オロチとは、中国大陸から来た民族の呼称です。
霊聴では、オルシェ族とも感じ取れます。
このヤマタイコクは、後に現在の奈良県あたりに存在した邪馬台国へと変わります。」
「天照太御神が、皇女である倭姫命の背中におぶさり、初めて伊勢の地へ辿り着いた時、皇女へ伝えました。
「この神風の伊勢の国は 常世(とこよ)の浪(なみ)の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり、傍国(かたくに)の美し(うまし)国なり、この国に居らまく欲し」 (日本書紀より)・・・
天照太御神が伝えたのは、
「太平洋からの風が吹き付ける、この伊勢の地域は、太古に太平洋上に存在した、常世(国常立太神)の国(ムー大陸)からの残存波動の風が、繰り返し浪の様に打ち寄せる地域です。国常立太神との美しい思い出に浸れる、この地域に居たい」 ・・・と、言う事でした。
天照太御神と国常立太神は、陰陽の夫婦の原点を構成させたエネルギー体でもあります。
地球創世記に白山で形成された、溶岩が冷え固まって出来る柱状摂理石の石柱の1本が、ムー大陸へ運ばれ、太陽信仰の寄り代石となり、太陽神=天照太御神が祭られていました。
その時代は、国常立太神が直接に現実界へ影響して治める平和な楽園の様な時代が長く続いていたようです。
ただ、何時まで経っても楽園のままで、変化成長が人類に起こらなかったのです。
それから時代が経ち、ムー大陸の沈下の前に太陽神の石柱は、現在の伊勢伊雑宮の地下に埋められています。
そして、伊勢神宮外宮には、国常立太神が鎮まっております。
そして近年、2千年ほど前に奈良の 三輪山から京都近辺を太古の因縁の為に、皇女の神巫女に霊線を張り巡らせて、最終的に元の居るべき場所、伊勢に天照太御神は戻り鎮まりました。」
「
・・・古代の伊勢の人口の大半は、外宮の前の地域にしか居なくて、内宮の辺りは森だったのです。
外宮のある山田地区には、縄文遺跡や竪穴式住居遺跡が出るはずです。
山田と言う地名は、「やまだ」←「やーまだ」←「やーまたい」←「やまたいの国」の「1つ」だったのです。
(邪馬台国の呼称の原型である。魏志倭人伝の指す時代の邪馬台国は、奈良 三輪山近辺を首都として、伊勢から熊野地方全域が邪馬台国であった)
天照太御神の分神(8段目)が、皇女倭姫命の背中におんぶされて現在の内宮に来られた時代から、内宮近辺が新しく造成されました。
奈良から来た特権階級の氏族が中心となり、現在の宇治地区が出来たのです。
氏=うじ=宇治だと感じます。
伊勢に古来から住んでいた土着の信仰を持つ山田地区と、貴族集団が住む宇治地区は、川を挟んで長い時代に渡り対立があったと感じます。
ここにも、国津神と天津神の対立の転写が有ったと言えます。
山田地区の古代人は、山を越えた海側の同じく白山の2本目の石柱を守る磯部地区(伊雑宮の信者)の住人とは交流していました。
神霊が今の時代に明かしてくれた太古の光景を観ながら、別宮である瀧原宮へと向かいました。」
「
九州との交流はありましたが、邪馬台国は奈良 三輪山のあたりです。
九州の地名は、後付けです。
卑弥呼は、役職階級名称であり何人も存在しました。
倭姫命も、卑弥呼の一人です。」
「
・・・大昔の神道系の文献や古神道の奥義書では、神様の事を「長物、ながもの」と表現する記述がかなり見られます。
伊勢神宮の内宮にも、毎夜のように五十鈴川から這い上がり体を引きずりながら内宮本殿に向かう長物の記述が文献に在ります。
自然界で長い物と言えば蛇です。
奈良 三輪山の信仰でも蛇は古来から尊重されています。
その理由は、長い物の象徴だったから、たまたま蛇も尊重されたと感じます。
神霊のエナジー体が起こり移動する時、大きな蛇の様にクネり渦巻ながら移動する様を霊視して、蛇をその象徴としたとも言えます。
リーデイングで読みますと、超太古の白山信仰が隠された後、次に古いのは 三輪山の信仰です。
現存する中では日本で最も古い信仰の場所が 三輪山です。
神官である女王、卑弥呼=日見子(ヒミコは神官の役職名です。五代ほど継続されました)も毎日の様に 三輪山に上り、日拝した様を感じます。」