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(2011/12/20「「今ここ」からすべては始まる」)
>今サイババの「神の詩」という本を読んでいるのですが、今日のお話と同じようなことが書いてあったのでびっくりしています。それによると広大な物質的な宇宙は心の宇宙の一部でしかなく、またそれは因果の宇宙の一部でしかなく、神=真実の自分=アートマはそれすらも超えた存在だというお話でした。
また真実のお話楽しみにしています。
私もサイババの本を20歳くらいの時に読んでいた記憶があります。
あまり内容は覚えていませんが、ごく当たり前のことを説いていたように思います。
もっとも、当時の私には難しくて理解できないことも多かったに違いありませんけどね。
サイババも一人の人間です。
そもそも高次元の存在であればあるほど、人間の世界には干渉することは許されませんから、人間界に生まれてきている時点で、まだ人間界に干渉できる程度の進化レベルであったということになります。
サイババについてはいろんな憶測がありますが、その人がどこにつながっているのかはたいして問題ではなく、その人物自体が問題であると私自身は常々考えています。
そしてもっと大事なのは、「自分は」どうするかだと思います。
これからは自分の中に「神」を見る時代ですから。
>はじめてメッセージを書かせていただきます。最近imimiさんのブログに添付される写真がとても綺麗で、心が爽やかになります。心が開かれすがすがしい風を感じます。いつもありがとうございます。
写真を選ぶ際には記事を書く以上に神経を使います(笑)。
多くの人が癒されるような写真の掲載を心掛けています。
(「変わろうと思った時に、人は変われる」)
>私もちょうど昨日から強い葛藤が始まりましたが、徐々に収まりつつあります。偶然とは思えませんでした。シンクロしているのでしょうかね。
何をするにおいても、自分が目にするものにはより大きな「自分」からのなんらかのメッセージ性があるように思います。
読者の皆様にとっての私のブログももしかしたらそうなのかもしれませんね。
>21日にあるワークショップに参加してから、自分の中に、凄く強い、とっても根深い葛藤があることに気付き、それに苛まれています。
そのワークショップに一緒に行った人は『自分にはもう葛藤はない』というような立場でアドバイスをしてくれているのですが(少なくともそんな風に受け取れるような感じで、本人にとってはそんなつもりではないのかも知れませんが・・・)『そんなの、嘘だろう?』と、その人に対して猜疑心の塊のような気持ちに陥ってしまっています。
人は、覚醒の寸前まで、葛藤を手放せないものなのでしょうか。私はそんな気がしているのですが、imimiさんはどう思っていらっしゃいますか?
もし、以前からこのことについてブログで書かれていらっしゃるようでしたら、申し訳ありません。
人間生きている限り、なんらかの葛藤はありますよ(笑)。
完全に浄化「しなければならない」、ということではありませんから。
もっと言うと、肉体というスーツを身にまとっている時点で、肉体の生存に関わる部分でのなんらかの葛藤からは、生きている間はのがれられないでしょう。
でも、それでいいんだと思いますよ。
ありのままの自分を見つめて、肩の力を抜いてみるのもいいかもしれませんね。
>imimiさん、こんばんは。
いつも深いメッセージありがとうございます(笑)
imimiさんの所に赤いケーキのマークがついてました。
明日、お誕生日ですね。おめでとうございます(笑)
>自分のほうが変わることによって、その変わった自分にふさわしいバージョンの相手が自動的に変化して自分の前に出現してきます。
確かにそうですね。
「過去と他人は変えられないけれど、未来と自分は変えられる」、
昔の人は、この深い意味を理解していたのかもしれません(笑)
他人に頼らず、自らのハート(真我)に従い、自らの道を切り開いていく。
以前、imimiさんの日記にもあった、ブッタの「自灯明」
「他者に頼らず、自己を拠りどころとし、法を拠りどころとして生きなさい」
と同じ・・・
>変わろうと「決めた」ときに「変われる」
私も心からそう思います。
頭だけではなく、心の底から、魂の叫びとして「変わりたい」と願えば、
人に出来ないことは何もないですね(笑)
そうですね。ブッダの説いたと伝えられる自灯明は、現代ではすっかり忘れ去られた感があります。苦しい者(私達)と、それを救ってくださる者(神・仏)という分離の中で多くの人は生きています。
しかし、そういった分離から目覚め、自分をよりどころとして生きなさいと説いたのがブッダなわけです。
前世占いやヒーリング、リーディング、超能力、その他なんでもいいですが、何かに対する依存心からそれを求めても、「何か物足りない」的な空虚感は決して満たされることはないように思います。
むしろ、求めるのを「やめて」、自分にあるものを振り返ってみます。たとえば命(いのち)です。命があるからこそ、さらなる可能性を探求できる、これほどすばらしいことはありません。
あたりまえに生きることを通して自分自身というものを見つめていくことは、前世を知ることよりもずっと「今ここ」に自分自身をフォーカスさせます。
「神」としての自分の生きざまがどこか遠くの世界に行かなければ得られるものではなく、まさに今自分が直面している現実から得られるというのは、本当に驚きです。