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昨日、従来言われていた見方は人間的な見方だと言いましたが、では私自身はどう考えているのかを少しお話ししたいと思います。
今まで私がかかわってきたへミシンクの世界で言われてきたことに近づけて考えてみます。
いわゆる銀河系コアから地球生命系に向かってエネルギーが流れ込んでいるという話ですが、私はそれは「我々自身の姿」として見ていて、「ひとつなるもの」とのつながりを見ているのだというような認識にどちらかというと立っています。
どういうことかというと、我々の常識からすれば考えられないことですが、古い言い方で「上の如く下もあり」といったような言葉があります。
確か私の記憶では、トート(トス)という古(いにしえ)の賢者が伝えたものであったと思います。
(このトートにも様々な憶測(ネガティブな憶測)がありますが、それについてはここではふれません。ただ私もこの存在とかつて関わったことがあったということだけは触れておきます。)
「上の如く下もあり」というのは、もちろん様々な意味があるのでしょうけれども、簡単に述べると、最近私がよく言う「すべては『自分』」なのだという多次元的な見方につながってくるように思います。
単純にそれは、上(の意識レベル)で起こりうることは、下(の意識レベル)でも起こるとか、そういった相似象的な物事の道理だけではなくて。
もちろん、そういった側面はあるにはあります。
たとえば、向こうの世界で繰り広げられている善と悪(光と闇、ポジティブとネガティブ)との攻防ですとか。
そういったものが実際にあって、それが現実世界に転写されてきているという側面は確かにあるように思います。
私の感覚では、それはつい最近(2009年春頃)、まではポジティブとネガティブの勢力の違いはわずかであって(ほんのわずかネガティブが優勢)、それが今ここの地球では、ポジティブが優勢になっています。
ですが、「上の如く下もあり」という言葉の真意はむしろ、「内の如く外もあり」というニュアンスに近い気がします。
つまり、外側の事象(外宇宙)というのは、内側の内的精神(内宇宙)が反転しているだけなのであり、外宇宙と内宇宙とは本来一体なのだといったニュアンスです。
ですから、我々が銀河系コアから地球圏に生命エネルギーが流れ込んできている様子を見るというのは、見方を変えれば、我々自身の様子を見ているに等しいわけです。
もっと言うと、変化というのは常に「内側」からきます。
外側(外的要因)の何かではなく。
極論すると、自分が変わろうと思うから変わる(変われる)のです。
今、目に見えないところで、世界規模で内側から変わろうという衝動が起きてきていると感じます。
それは、東北大震災から一年経とうとしている今、芸能人の何気ない言葉にも事象として現れてきています。
震災当時もそうでしたよね?
あの未曾有の出来事を契機に、このままではだめだ、何か始めなくてはという思いや行動がいたるところで起こってきたように思います。
それは、被害を受けた日本はもちろん、世界のいたるところで起きて来たように思います。
私は、それを突き動かしているのは他でもない、その人の内面だと見ます。
「内の如く外もあり」によって、逆に外面から内面が変化してきていると感じます。
相変わらず他者を責めるという分離意識が見受けられても、それも含めて進化の一過程なのだ、そんな風に私はみています。
その背後には、ある一定の、人類の集合意識、あるいはもっと究極的な計画性、方向性があるように感じます。
その方向性を知ってか知らずか、多くの人が今のこの時期を「選んで」生まれてきて、内面から変わり始めています。
これが私が考えるところなんです。
変化の要因が外にあるか内にあるか、外からくる要因だけで変われるのか、それとも内からくる「衝動」こそが必要なのか。
変わるとしてどう変わるのか、物質的に変わるのか、それとも精神的に変わるのか。
精神的といっても、いわゆる振動数の変化やそれに伴う次元の変化はあるのか、あったとしてそれは地球だけなのか、それとも宇宙規模で起きるのか。
そしてそれは観察できるのか。
そして変わるのはいつか、今ここだけのイベントなのか、それとも今ここからはじまるのか。
そういったもろもろのことが関係してきて、確かに変化を伴いつつあり、それが「アセンション」と呼ばれるものだと私は考えています。
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