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ある神社を訪れた時のことです。
そこは、熊野大社の系列の神社らしいのですが、境内には住み込みで修業をされている方々がいました。
ですが、本殿の裏側に、洗濯した衣服などを干していたりしていました。
そこもそうですが、とにかく掃除が行き届いていない感じでした。
エネルギー的にも、当然ながら神聖さはありませんでしたし、源とのつながりも希薄でした。
神社は、大きさは問題ではないんだと思います。
そこに使える神職が真面目に神祀りをし、地元の人たちが協力して援助することで、神社に生きたエネルギーが流れてきます。
神社がもし自分自身の神性を見つめる鏡だとすれば、その鏡を大切にしないのは、自分自身を大切にしないのと一緒です。
そういった場所では、神性の鏡もくすんでしまいます。
他方で、小さな神社でも、歴史がわりと浅くても、地球意識に直結している所もあります。
そういったところは、神様がなんだとか言うよりも、その場所自体が地球のエネルギーに直結している気がします。
私の知っている神社は、家から割と近いところにあるんですけど、境内のわきにある社には非物質的な龍がいます。
エネルギー体というより、わりとはっきりと龍であると知覚できます。
本殿ではなく、わきにある社なんです。
その神社も、本当にこじんまりとした神社なのですが、境内の清廉・清浄さはすばらしいものがあります。
たとえどんな神社であったとしても、自らがそこで光の柱を建てることで、自分と自分の宇宙との関係において、源とつなげられるのもまた事実です。
人間の役割というのがあるとすれば、自分と自分の宇宙との関係において、人に対してであっても、場所に対してであっても、そういった源との橋渡しをすること(自分自身が光の柱となること。源との間でパイプ役となること)ではないかなという気がします。