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2013.12.31
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大屋根の下で雨宿り。 (2013/12/22 14:05)元鍛冶丁公園の野外ステージ。(2013/12/22 14:15) 家を出たとたん雨足が強くなって、慌てて引き返し折畳み傘を大きな傘に変えた。雪が交じっている。この季節に濡れながらのデモは嫌なので、登山用レインウエアで武装しようと思ったほどの降りだった。 しかし、雲の具合からどう見ても長続きしそうもない雨の気配だったので、そのまま元鍛冶丁公園に向かった。 集会場の公園に着いても 雨は降っていて、集まった人たちはみんな野外ステージの傘の下である。雨も上がって集会が始まる。(2013/12/22 14:20) 雨が小止みになるのを待って集会が始まる。いつもの夜デモくらいの人の集まり具合だと思っていたが、その後、急に参加者が増え出した。最後には150人近くまで増えた。後につぎつぎ人が。(2013/12/22 14:31) 今日、東京では「12・22 再稼働反対★国会大包囲」がある。そのことをフェイスブックで知ったのはだいぶ前で、何度目かの東京のデモに参加してみたいと思ったのだったが、12月初めに東京に4日ほど出かけ、その後も何かとやることが続いてすっかり忘れていた。 あるブロ友さんからの「あす22日東京では、国会を包囲する集会を予定しています。デモをテロなどと言われてひるんでいられませんね。国民の意思を見せつけないと・・・。」というコメントに大いに煽られたものの、このコメントに気がついたのは今日の昼頃で、「今日は仙台で頑張ります」と返事をして家を出てきたのだった。 目の前に経産省や国会や首相官邸を見ながらの集会、デモは、やはり緊張感があって、そういう気分をときおり経験しておきたいと思いながら仙台に帰ってくるのだが、そうそう気軽には東京には出かけられないのだ。おなじみの一番町。(2013/12/22 14:57)青葉通りの欅はすっかり冬姿。(2013/12/22 15:15) デモはいつものコースで、暮れの日曜日で賑わう一番町を抜けて、青葉通りへ向かう。青葉通りの欅の木は葉を振るい落してすっかり冬姿になっている。こうしてみると、デモは仙台市街の季節変化の定期観測でもあるようだ。 裸木となった樹木を眺めていると、いつも思い出す俳句がある。特別秘密保護法が強行採決されたこの冬には、特別の思いが生まれそうな句である。歳月の獄忘れめや冬木の瘤 秋本不死男 [1] 秋本不死男は昭和16(1941)年、治安維持法違反の嫌疑で検挙され、昭和18年2月まで獄に拘束されていた経験を持つ俳人である。劇作家の秋本松代は不死男の妹である。 [1] 「季語別 秋本不死男全句集」鷹羽狩行編(角川書店平成13年) p. 270。
2013.12.22
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こんなに寒いのにデモに出て来る人たちは元気なものだ。もちろん、できるだけ大きな声で元気よくコールしていると、なんとなく体が温まるのも事実だが。元鍛冶丁公園。始まりはこの程度。 (2013/12/13 18:03)次のスピーカー?。 (2013/12/13 18:26) 集会の時間に間に合うように元鍛冶丁公園に着くと、人はパラパラで心許ないが、デモのときは110人にふくれあがっていた。ほとんどの人は仕事帰りを調整してやってくるので、デモの出発時間を目安にしているらしい。 私のような時間に拘束されない人間でもしょっちゅう遅刻していて、その時の言い訳が「デモに間に合いさえすれば」なのだ。 出発。 (2013/12/13 18:34)一番町を行く。 (2013/12/13 18:43) 町はもう歳末のイルミネーション真っ盛りである。定禅寺通りの「光のページェント」も先週から始まった。先週も今週も定禅寺通りがデモコースに入っていないのは、光のページェントによる交通混雑を避けているためなのかもしれない。 金曜の宵が始まったばかりのこの時間帯の一番町は、待ち合わせの若者で溢れている。なぜか、一番町と広瀬通りの付近が待ち合わせの場所になっている。彼(彼女)らとフクシマ、彼(彼女)らと特別秘密保護法案、どんな相関をイメージできるのだろう。 長い間、若い人たち(大学生)と同じ場所で仕事をしてきたが、自己決定や自己構築(つまり、主体の再帰性)を行なうのに、政治や社会制度への批判を取り込むことは少なく、いわば権力が日常的に押しつけている「自己責任論」の論理に捕らわれてしまい、眼差しが内側にばかり向いている若者が多かったように思う。 若者ばかりではなく私たち大人も、なかなか社会変革へ向かうことが難しいのだが、それはバウマンが言うように [1]、国家は主権を維持しながらも権力はグローバル資本に移ってしまった「リキッド・モダン」社会で、権力(資本)は消費と自己責任という這い上がれない蟻地獄を私たちに強制しているためだろう。リキッド・モダン社会とは、国家(バウマン流に言えば社会国家)や社会の理念が失われてしまって、制度的再帰性(資本権力が社会を変えていく機構)の暴走が生じているような社会である。 とはいえ、はなやかなイルミネーションの光を浴びて「消費と自己責任」の若者たちは楽しそうなのである。どんな時代でも若者は楽しそうに時代を乗り切る術を心得ているように見える。少し期待感もあって、楽しげに振る舞っている若い人たちを眺めているのはそれなりに気分がいい。広瀬通り角の人混み。 (2013/12/13 18:45)イルミネーションの下を。 (2013/12/13 18:47) ここ数日、安倍自民党政権が原発を基盤的なエネルギーと位置づけて、民主党政権の原発ゼロ政策を放棄したというニュースが流れている。原発の新規建設には触れていないらしいが、フクシマ以降、新規の原発立地に同意する自治体や住民はおそらく国内にはないだろう。 自民党政権はそれは覚悟していて、安倍政権が原発輸出に躍起になっているのは原子力利権を外国に求めざるを得なくなったためだ。 今読みかけている本 [2] で、樫村愛子さんは2007年に成立した第1次安倍政権を「原理主義」だと断定している。つまり、「原理主義者とは、伝統を擁護する正当性が薄れてきた現代でも、伝統を従来のように無前提に擁護しようとする人たち」で「伝統だから無前提に擁護するのだと、彼らは語るのである」として、「現在の伝統主義とは原理主義であり(すなわち安倍政権は原理主義である)、今日における必然的な病理である」と述べている。 現在の第2次安倍政権は、現代病を病む政治家の復活だったわけである。 世界を眺めれば、原理主義の多くがテロリズムと同等と見なされる活動を行なっていることは明瞭である。原理主義者に支配されつつある自民党は、おそらく原理主義=テロリズムの図式をよく知っていて、国民がそのことに気付く前に、国民の目くらましとして、私たちが非暴力的に行なっているデモを「テロだ」と言いだしているのではないか。 「特別秘密保護法」というのは、「俺たちが原理主義テロリストだということを隠しておくのだ」という意図だったようにすら思えてくる。 「特別秘密保護法」ではなく、「原理主義テロリズム監視法」が必要なのではないか。いや、原理主義者だからといってそれを監視するというのも、あきらかに反民主主義的ではある。 監視しあう社会がろくでもないことは、歴史が十分に教えてくれている(だからこそ、日本の原理主義者は歴史修正主義者でもあるのだろうけれども)。 [1] ジグムント・バウマン(伊藤茂訳)『コラテラル・ダメージ --グローバル時代の巻き添え被害』(青土社、2011年)。[2] 樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析』(光文社、2007年)。
2013.12.13
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特別秘密保護法案が衆議院で強行採決され、参議院も国家安全保障特別委員会で十分な審議を行なわないまま採決されて、今夜にも本会議で可決成立するだろうという気配の中での集会とデモである。肴町公園で。 (2013/12/6 18:04) 差し迫った状況なので、急遽、「脱原発みやぎ金曜デモ」と「STOP!秘密保護法ネットワーク宮城」の共催ということになり、いつもは100人前後の集まりが今日は500人ほどにふくれあがっていた。 集会では次々と発言する人が続いて、最後方に立っている私にはよく聞き取れなかったものの、どれもが熱のこもった発言であることだけは声の調子からよく理解できた。緊急事態をとても心配し、かつ怒っているのだ。人が多くてスピーカーがまったく見えない。 (2013/12/6 18:32) 「人間が抱える不確実性と脆弱性はあらゆる政治権力の基盤である」 [1] といったのはジグムント・バウマンである。自由主義的な保守(私にはそうとしか思えない)のバウマンにしてからが社会学者としては権力の本質を見抜いているのである。 自分の将来を考えるための情報が与えられない、自らの安全を守る手立てがない、そして外国(人)や犯罪者に安全が脅かされていると煽られる、国民をそんな状態に貶めておけば、政治権力は安泰なのである。 そうした点から言えば、安倍自民党は権力の本質をさらけ出しているだけなのだが、近代西洋の諸外国の政治権力と違って民主主義への配慮や逡巡がないのである。たぶん、彼らが日本国憲法を理解できないのも、民主主義の本質が理解できていないからである。そして民主主義を知らないために、近代国家の多くが示すことができた知性の匂いすらしないのだ。 常々、日本は「未完の近代」のまま現代に至ったと私は考えてはいたのだが、オモチャをねだる子供のように絶対支配権力をこれほどあからさまに欲しがるとは想像できなかった。 いかに自民党とはいえ、日本の戦後教育を受けたのだから多少の社会性とそれにかかわる程度の知性はあるものと、愚かにも私は思っていたのである。戦後民主主義教育は、この点では失敗したのだ(右翼政治家が教育に口出ししたがるのは自らの失敗を恨んでいるためか?)。デモへの出発準備にも時間が。 (2013/12/6 18:32) スピーチも終わり、デモに出発したのだが、これだけの人数になると全員で同じコールに声を合せることは難しい。デモの列の中頃にいた私は、前からのコールに合せたり、後からのコールに合せたり、そしてときどきはどちらにも合せられなかったり、そんなふうにデモは進んだ。一番町を行く先頭が見えない。 (2013/12/6 18:43) さて、デモが終って帰宅した夜半、ネルソン・マンデラの死亡のニュースに続いて、参議院本会議における強行採決、「特別秘密保護法」の可決成立のニュースが報じられた。 アメリカ大陸における奴隷制度、ヨーロッパ大陸におけるナチスによるユダヤ人ジェノサイド、アフリカ大陸におけるアパルトヘイトは、近代における三大「人種差別」である(と私は思っている)。「自由と平等」のために、その南アフリカ連邦のアパルトヘイトと闘い続け、勝ち取ったアフリカ大陸の巨人が亡くなった。 同じ頃、日本ではビューロクラットの手の平で踊らされている小悪党風の政治家によって国民から「自由と平等」を奪い取ろうとする悪法が成立した。「脳味噌が江戸時代のまま」に「壮大な勘違い」によって遂行された「あの戦争」と、太平洋戦争の本質を喝破したのは与那覇潤 [2] であるが、現代の日本の政治権力は、「脳味噌が明治時代のまま」に「猥雑な思い上がり」によって「これからの戦争」に走り出そうとしている。 しかし、マンデラのような巨人はいなくても、私たちの「自由と平等」のために闘い続ける普通の人々は日本にはたくさんいるのである。 [1] ジグムント・バウマン(伊藤茂訳)『コラテラル・ダメージ ――グローバル時代の巻き添え被害』(青土社、2011年) p. 90。[2] 与那覇潤『中国化する日本――日中「文明の衝突」一千年』 (文藝春秋、2011年)。
2013.12.06
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【続き】 Photo K 武芳稲荷神社。(2013/12/5 10:08)Photo L 鬼子母神堂。(2013/12/5 10:09) 鬼子母神堂へ行く途中、武芳稲荷という併祀されている神社の赤い鳥居の連なりが目を引いた。鬼子母神の地主の神が祀られているというが、大鳥神社のように分祀されずに残っているという神仏分離の基準がよく分らない。 「鬼子母神」というのは、ある寺に祀られた鬼子母神が信仰の対象として有名になったために、寺名の代りの通り名となったものと考えていたが、最初から鬼子母神を本尊として祀った「鬼子母神堂」だという。 本堂から戻り、先ほど前を通り過ぎただけの武芳稲荷の鳥居をくぐっていくと、紳士然とした初老の男性が参っている。じっと頭を垂れてお祈りを続けているので、邪魔をしないように脇に逸れて鬼子母神堂を出た。Photo M1(左) 鬼子母神脇の道。(2013/12/5 10:13)Photo M2(右) 明治通り手前の商店街。(2013/12/5 10:15) 鬼子母神脇の道を行くと、鬼子母神と背中合わせに妙見菩薩が祀られている妙見堂がある。その妙見堂を過ぎると道は広くなって商店街となる。まっすぐ進めば明治通りである。Photo N 明治通り。 (2013/12/5 10:16) 明治通りというのは、早稲田界隈を歩き回ったときや、大塚から王子まで歩いたとき、渋谷、青山、原宿と歩いたときなど、何度も利用した幹線道路である、と分っているように書いてみるが、これは、後になってゆっくり地図を見てから思い出したことで、じつのところ、この道に出ても明治通りであることを確認しただけで、かつて歩いた道とどんな風に繋がっているか、実感としては分らないのである。暮らしもしない土地の空間認識とはこの程度のものだろう。Photo O 蓮光院脇の道へ。 (2013/12/5 10:20) 明治通りを北に歩き、歩道橋を過ぎて細道に右折する。その道はすぐに丁字路になり、また右に折れると蓮光院という寺の前に出る。このあたりは寺町らしく、地図ではたくさんの寺がある。 蓮光院の脇に通り抜けられそうな道があって、そこを道なりに辿ると法名寺の山門前に出て来る。Photo P1(上) 法名寺山門。 (2013/12/5 10:22)Photo P2(下) 法名寺山門前の道。 (2013/12/5 10:29) 法名寺の前は広い参道になっていて、ここをたくさんの若い男女が横切っていく。山門の左手、法名寺の脇の道を抜けてきて、参道を斜めに横切り、細い道にぞろぞろと列をなして入っていくのである。 法名寺の山門脇の石に腰掛けて、地図を見ながらどの道を思案していたのだが、若い人の列の後を追う道を行くことにした。Photo Q 東京音楽大学。左手に東池袋小学校。 (2013/12/5 10:30) 法名寺参道からの横道を抜けると東京音楽大学が見えてくる。若い男女は音大生だったのだ。音大と東池袋小学校の間の道を通り、右手に曲る。そろそろ帰り足で、荒川線鬼子母神前停留所への方角を取ったのだ。Photo R1(左) 音大から本納寺への細道。 (2013/12/5 10:33)Photo R2(右) 突き当たりが本納寺。 (2013/12/5 10:34) 細道を2ブロックほど歩くと本納寺に突きあたり、道は丁字路になっている。この道は、さっき大鳥神社から鬼子母神へ向かうときに歩いた道である。もう一度、鬼子母神の方向に歩く。Photo S1(左) 鬼子母神参道(鬼子母神側から)。 (2013/12/5 10:38)Photo S2(右) 鬼子母神参道入口。 (2013/12/5 10:41) 鬼子母神の手前で左の参道に入る。「鬼子母神欅並木通り」という文字通りの欅が道脇に植えられている雰囲気のよい参道である。 賛同上に掲げられた看板に寄れば、さっき山門前で休んだ法名寺と鬼子母神堂の建物は都指定の有形文化財となっている。また、この欅並木と境内の銀杏の木は天然記念物ということだ。残念ながら、銀杏の木は見てこなかった(見たのかもしれないが記憶にない)。Photo T 「鬼子母神前」停留所前の踏切。(2013/12/5 9:28) 参道を抜けると、すぐに都電鬼子母神前の停留所である。都電に乗って今日の街歩きはおしまい。荒川線で王子へ、常磐線、京浜東北線で王子から東京駅へ、東北新幹線で東京駅から仙台駅へ。仙台駅から仙台市営バスで自宅へ。それで4日間の美術館巡りと東京街歩きはすべて終了である。次回はいつのことやら。雑司ヶ谷Map。A~Tは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。
2013.12.05
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Photo A 東京都雑司ヶ谷霊園。 (2013/12/5 9:28) 都電荒川線を雑司ヶ谷「駅」で降りる。市電、トラムでは停留所と呼ぶのが普通だと思うが、荒川線ではホームがあり、屋根がある。市電、トラムとの共通点は改札口がない(車内で運賃を支払う)ことぐらいだが、実際にはなんと呼ばれているのだろうか。 つまらないことを考えながらホームを出ると、もう雑司ヶ谷霊園の入口である(Photo A)。霊園の中を歩いてみたいのだが、道は墓石を縫うように見えて、出だしから道迷いしそうだし、あまり墓石に接するように歩くのはどうかと思い、写真の左手、交番の前を通って、広い道を選んで入った。その道にはタクシーが走っていて、霊園の中を走る一般道らしい。 Photo B 雑司ヶ谷霊園内の幹線道。 (2013/12/5 9:34) まっすぐな道の脇に木製の看板があって、このあたりには江戸時代にお鷹部屋があって鷹の飼育や鷹狩りの訓練をしていたという案内がある。松の木が当時を忍ばせるとあったが、その場所からは当の松が紅葉するモミジの木に隠れていてよく見えないのだった。 道はY字路になっていて、ジョギングの集団がやってきた左手の広い道を取る(Photo B)。普通の人家のような建物もあるが、そこから花を持って墓所に入っていくご婦人がいたので、墓参客相手の店なのかもしれない。Photo C1(左) 霊園内から出口をみる。 (2013/12/5 9:37)Photo C2(中) 霊園を出たばかりの細道。 (2013/12/5 9:38)Photo C3(右) 同じご婦人の後をいく。 (2013/12/5 9:39) 右手のまっすぐな道の向こうに出口が見える。そこから霊園を抜けでる。墓所というのは、それなりの雰囲気があって嫌いではないが、墓石をしみじみ眺めるのは気が引ける。墓の一つ一つにはそれぞれの死者のプライバシーが刻みこまれているような気がするのだ。Photo D 旧宣教師館通り。(2013/12/5 9:40) 道なりに歩いていると、左手の路地の入口に「旧宣教師館通り」と大きく表記した掲示板があった。入ってみると、旧宣教師館らしい建物が、今は何かの会館になっているようだ。左手は工事中の建築現場らしく、旧宣教師館通りらしい雰囲気(どんなか、よくわからないが)はとくに感じないのだった。Photo E 小さな公園の脇を下って行く道。 (2013/12/5 9:43) 旧宣教師館通りから右に折れると、変則的な四つ辻で角に小さな公園がある。霊園から続く元の道に戻ろうと考えていたのだが、公園脇を通る道はずっと下り坂になっていたので、そっちへ行ってみることにした。 Photo F1(左) 丁字路を右へ。(2013/12/5 9:45)Photo F2(中) 車は通れない?(2013/12/5 9:50)Photo F3(右) それぞれの家には自家用車が。(2013/12/5 9:51) 住宅地の細い坂道を快適に下っていくと丁字路に出た。都電からあまり離れないようにここは右に道を取る。ここからはできるだけまっすぐに西に進むように細道の分岐を選ぶようにする。 とても狭い箇所もある道で、「この先、車は通れません」という意味の看板も目に付く。これじゃとても車は通れないなと思っていると、すぐそばの家に車が置かれていたりする。私の運転ではとても通り抜けられないと思うが、都会では運転技術もまた研がれていなければならないようだ。Photo G1(左) 緩やかな上り坂。 (2013/12/5 9:53)Photo G2(中) 住宅地の中を。 (2013/12/5 9:55)Photo G3(右) 大鳥神社の緑が見える。 (2013/12/5 9:57) さっき下った分の標高を部分的に取り戻すように、緩やかな坂道がときどき出て来る。複雑に分岐する道をどう曲っても、そこは狭い住宅地の道である。 少し見通しのきく道に出ると、ずっと向こうに緑の木立が見える。大鳥神社あたりだ。 Photo H 大鳥神社の前を行く都電。(2013/12/5 10:00) 道はやっと都電荒川線に出る。真向かいは大鳥神社で、ちょうどそこに都電の電車がやってきた。電車が通っていったばかりの右手の踏切を渡り、大鳥神社に行く。Photo I 大鳥神社。(2013/12/5 10:02) 大鳥神社はもともと鬼子母神堂境内に鳳明神として祀られていて、明治の神仏分離でここに移ったのだという。祭神は日本武尊。 神社境内から右に抜け、鬼子母神に向かう。Photo J1(左) 大鳥神社脇の道(2013/12/5 10:03)Photo J2(中) 鬼子母神の木立が見え出す。(2013/12/5 10:04)Photo J3(右) 参道の向こうに鬼子母神堂。(2013/12/5 10:05) 道は左に右にゆったりとカーブしながら続く。左手にある本納寺というお寺を過ぎると、向こうに鬼子母神の社林が見え出す。みちはまっすぐ鬼子母神境内に続いている。雑司ヶ谷Map。A~Tは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。【続く】
2013.12.05
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【続き】 Photo N 世田谷区役所前(左手)の道。 (2013/12/4 13:46) 欅並木の道から右折して坂道を上がる。坂を登り切ると世田谷区役所前の道に出る。区役所を過ぎると丁字路で、道の向こうは国士舘大学の敷地である。Photo O 道の向こうは若林公園。 (2013/12/4 13:50) 区役所を回るように左折する。すぐに「世田谷区役所前」交差点があって、斜め向かいは若林公園である。若林公園の隣は松陰神社なのだが、ここに来るまで地図上でも気付いていなかった。一度、東急田園都市線三軒茶屋駅から太子堂を経て松陰神社まで歩いたことがあった。今日は松陰神社には寄らない。Photo P 若林公園内の楓の紅(黄)葉。 (2013/12/4 13:53) 若林公園内にとても美しい紅葉があった。楓の大木である。黄色から紅色への絶妙なグラデーションで、楓にはよく見られる濁った色を含まない。ほわっと温かみのある美しさなのだが、このような秋にもイメージする世界の鮮烈さには厳しいときもあるのだ。この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 三橋鷹女 [2]秋風に吾を誑かすもののあれや 三橋鷹女 [3]石の上秋の鬼いて火を焚けり 富沢赤黄男 [4] 三橋鷹女の句には女性の情念の激しさが溢れていて、目にするたびに驚かされる。Photo Q 鳥山川緑道の終端らしい場所。 (2013/12/4 13:58) 若林公園を北に抜け、公園出口から左折すると、地図上では鳥山川緑道の終端らしい場所に出る。単なる偶然に過ぎないが、緑道の始めと終わりだけを少しは歩いたらしいのであった。Photo R 小さな地蔵堂のある角。 (2013/12/4 14:09) 鳥山川緑道の終端らしい場所から、国士舘大学キャンパスや円光院幼稚園などの横を通り、交差点をいくつか越えながら道なりに西に進むと、小さな地蔵堂のある四つ辻に出る。Photo S 道はまっすぐ。住宅地の道。 (2013/12/4 14:12)Photo T 小田急線の高架下から。 (2013/12/4 14:22) 地蔵堂の四つ辻を北に向かい、しばらくは直進である。住宅地の道だ。塀際に色とりどりの小菊が咲き乱れている家があったりする。子供のころから菊の花は墓前や仏前の花のイメージだったが、このごろ、庭の花として小菊の花を見直している。 しばらくして小田急線の高架が見えてくる。高架下を抜けると道は4方向に分かれていて、左斜めに進む道に入る。Photo U 豪徳寺山下商店街。 (2013/12/4 13:26)Photo V 豪徳寺山下商店街。向こうに豪徳寺駅。 (2013/12/4 14:29) 道はすぐ豪徳寺山下商店街の道に出る。じつは、この道を歩いているときには、この商店街を豪徳寺駅南の「豪徳寺商店街」の延長だとばかり思っていた。ところが、「豪徳寺界隈」ブログの前半(「その1」)をアップした後、twitterでブログ更新を発信していたら、「ごうとくじ★やました新聞」の知らせのツイートが届いて、この通りは「山下商店街」ということを知ったのである。 駅の北側の山下商店街も少しばかりカーブしている狭い道である。私は初めて訪れた通りがかりに過ぎないが、この通りの狭さは商店街を利用する人に気持ちのいい親密感を与えているのではないかと思えるのだった。 商店街の街並みをのんびり眺めながら、一度駅のすぐ近くまでぶらぶら歩いて、少し戻り、目をつけていた日本蕎麦屋さんで昼食とした。 全国の地酒をたくさん置いている蕎麦屋さんで、つい福井の酒を頼んでしまった。冷やで1合の酒を飲み終えた後の天ぷら蕎麦は、エビと野菜の天ぷらがたっぷりで大満足だった。いつも思うのだが、東京の蕎麦の平均点はとても高いのだ。 お酒で少し上気して、今日の街歩きは終るのである。豪徳寺駅で小田急線に乗る前に、隣の東急世田谷線の山下駅を見に行った。豪徳寺Map。A~Vは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。 [1] 『佐藤佐太郎秀歌』(角川書店平成9年)p. 128。[2] 『わが愛する俳人 第一集』(有斐閣 1978年)p.109。[3] 『現代日本文學大系95「現代句集」』(筑摩書房 昭和48年)p. 216。[4] 『わが愛する俳人 第一集』(有斐閣 1978年)p.212。
2013.12.04
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Photo A 駅近くの豪徳寺商店街。 (2013/12/4 12:57) 新宿から小田急小田原線で豪徳寺へ行く。今日は豪徳寺駅界隈を歩くのだが、小田急小田原線に乗ったことがなかったというのがその理由である。 豪徳寺駅を降り、小田急線にクロスするように南北に伸びる豪徳寺商店街の道を南に取る。狭い道の商店街で、駅から離れるとあっという間に人が少なくなる。 Photo B 東急世田谷線脇を。 (2013/12/4 13:02) 5、6分で道は線路に出合う。小田急線と思ったが、地図では東急世田谷線である。小田急線と東急線が豪徳寺駅でクロスしていることを、このとき地図上で初めて知った。駅で降りたときは気がつかなかったのである。Photo C(左) 東急世田谷線の踏切からの道。 (2013/12/4 13:03)Photo D(右) 右手の道の向こうに豪徳寺の墓地が。(2013/12/4 13:04) 東急線の踏切からの道へ左折してすぐ、右手の道の突き当たりに木立が見え、豪徳寺の墓地らしいので行ってみることにする。残念ながら塀に囲まれて、とくに物珍しい景色ではなかった。 豪徳寺の塀沿いに歩くことになった。「豪徳寺裏門」という石碑のある門があったが、閉じられていて入れない。Photo E 豪徳寺裏の道。 (2013/12/4 13:06) Photo F この道を豪徳寺山門に向かう。(2013/12/4 13:10) 豪徳寺の敷地沿いに半周して南の山門に行く道もあったが、右手がずっと塀ばかりではつまらないので、城山小学校の方へ1ブロック進んでから右折した(Photo F)。 3ブロックほど行くと、右手に細道があり、向こうに豪徳寺の塀が見えた。その道に入って、道なりに進むと豪徳寺の山門に出る。Photo G 豪徳寺山門。 (2013/12/4 13:15) 豪徳寺は、彦根藩井伊家が世田谷を所領としたときに菩提寺となった弘徳院が後に豪徳寺と改称した寺だという。井伊家の菩提寺ということで、桜田門外で暗殺された井伊直弼も葬られている。背後に直弼とともに凶刃に倒れた家臣たちの墓も祀られているのが印象深い。この井伊家の墓所は、国指定史跡だということである。 寺域には今を盛りと紅葉する木々があって、鐘楼を背景に紅葉のモミジを熱心に撮影しているご老人や、モミジの葉を接写しているご婦人もいた。本堂は改修作業らしく、すっかり覆われていて拝見することができなかった。ヘルメットをかぶったご老人と挨拶を交わしたが、その人品から豪徳寺の和尚さんではないかと思ったが定かではない。Photo H(左) 紅葉の紅葉と三重の塔。(2013/12/4 13:17)Photo I(右) 参道を振り返る。(2013/12/4 13:30) 横道から直接山門前に出る道から豪徳寺に入ったので、帰りは参道を通って世田谷城址公園前を通る道に出た。上下二車線の住宅地の道である。まっすぐの道の信号をひとつ越えると、左手に城址公園が見えてくる。Photo J(上) 世田谷城址公園の西からの眺め。(2013/12/4 13:35)Photo K(下) 東からの眺め。(2013/12/4 13:36) 公園に入って西側の築堤のようなところ(自然の丘かもしれない)へ上がってみるとすぐに行き止まりである。そこからは堀跡と思われる小さな谷の向こうに石垣が積まれた土塁が見える(Photo J)。その土塁の向こうに回ると、文字通り公園らしくベンチがあって、人が憩っている(Photo K)。Photo L 鳥山川緑道入口。(2013/12/4 13:39) 城址公園を出て、元の道を直進すると左手に車止めのある遊歩道がある。「鳥山川緑道」という川を埋め立てた人工の遊歩道らしい。そこに入って歩き出した。ご老人が二人ほどゆったりと散歩しているが、街歩きでは誂えられた散歩道というのは案外につまらないのである。 知らない町を歩いてみたいという欲求は、いわば私が見知らなかった土地で暮らす人々のその暮らしの匂いとか息吹とか、そういうものの脇を歩いて見たいということだと思う。そして、それは人々が長く暮らしを紡いできた街並みに強く残っているように思うのだ。 佐藤佐太郎もこんなふうに詠っているではないか。埋立てて成りたる広き舗装路のむかうに満つる虚しさは何 佐藤佐太郎 [1]Photo M 欅並木の道。(2013/12/4 13:43) というわけで、早々に鳥山川遊歩道を外れて右の道に出る。低層アパートの並ぶ住宅地の道を抜けると、欅並木の道に出る(Photo M)。欅は落葉を始めているが、驚いたのは、木肌といい、葉の形状といい、どう見ても欅なのに、葉が異様に大きいのである。長さで2倍ほど、面積でいえば4倍以上なのだ。拾って持って帰ろうか、などと考えているうちに通り過ぎてしまった。豪徳寺Map。A~Vは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。 [1] 『佐藤佐太郎秀歌』(角川書店平成9年)p. 128。[2] 『わが愛する俳人 第一集』(有斐閣 1978年)p.109。[3] 『現代日本文學大系95「現代句集」』(筑摩書房 昭和48年)p. 216。[4] 『わが愛する俳人 第一集』(有斐閣 1978年)p.212。【続く】
2013.12.04
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【続き】Photo L 変則八差路とその角に繁茂するルリマツリ。(2013/12/2 12:46) 千住神社からの道は、変則的な八差路に出る。いちばん細い斜め向こうの道に入ることにした。その道の角に緑の灌木が茂っている。寄ってみるとルリマツリにしてはとても大きく成長したものだった。仙台を出るとき、寒さが心配で、庭のルリマツリの鉢植えを無加温温室にしまい込んで来たというのに、東京ではこのような露地で元気で大きくなる。東京は温かいのだ。Photo M 東京の白樺(岳樺?)。(2013/12/2 12:49) 斜めに走る住宅地の細道を抜けると北千住駅に向かう大通りに出る。東京は仙台と較べたらとても温かい、などと思いながら歩いているとその細道の出口に白樺の木である。白樺は寒地の植物だというのに立派に育っている。道の入口に暖地育ちのルリマツリ、道の出口には寒地育ちのシラカバ、という見事な対照である。Photo N 北千住駅に向う道は「大正通り」。 (2013/12/2 12:52) 駅に向う道は一直線で散歩向きというわけではないが、とにかく駅に向うことにする。長散歩の街歩きでは、生理的な問題を定期的に処理する必要があるのだ。北千住駅のトイレで用を足しておく算段なのである。 街歩きでは歩いている通りの名前が気になるが、いわゆる「通り名」(ダジャレではない)が多いせいか、地図には載っていない場合が多い。ヨーロッパの都市ではストラッセとかガッセとか細い路地にまで名前が付いているうえに道のどこかに必ず表示もあって、異国人にはとても便利なのだが。 この道は、街灯に「大正通り」と表示されているが、案の定、私が参照できる何種類かの地図には載っていない。Photo O 国道4号を越えるとアーケードの商店街(仮称「駅前通り」)。(2013/12/2 12:56) 大正通りがどこまでなのか分らないが、道は国道4号と交差する。そこからはアーケードのある商店街で人通りも多くなる。通りの名前を見つけられなかったので、仮に「駅前通り」としておく。Photo P 明治を思わせる眼科医院の建物。 (2013/12/2 12:59) 普通の商店街だが、並びに明治時代を思わせる建物あって目を引く。建築物の時代様式の見識がないので、もしかしたら大正時代かもしれないが、いずれにせよコンクリートで四角く作るだけの最近の建物に較べれば〈美〉の審級が比べものにならない。時代は悪くなっている、そう言わざるをえない文化の部分はあるのだ。 駅前通りは。途中で「宿場町通り」という大きな看板のある賑やかな商店街とクロスする。そのまま歩いて、いったん、駅に入ってからふたたび駅前通りの北側に向って歩き出す。Photo Q 北千住駅前。 (2013/12/2 13:03)Photo R この路地を抜けて。 (2013/12/2 13:16) JR常磐線に沿うように北へ歩き、私の地図には載っていない路地(Photo R)に入っていく。路地を抜けると少し道は広くなって、「サンロード」と表示のある商店街である。 サンロードを少し歩くと、左手に少し屈折した細道がある。やや通行人が多いのでそちらに入る。Photo S 本氷川神社。 (2013/12/2 13:20) 逆光で道の向こうが見にくいので、大きな常緑樹が作る日陰に入る。神社の境内木で、木漏れ日の向こうに本氷川神社がある。今日の歩きの中で四社目の神社だったので境内に入らないで失礼する。そういえば、歩いた道筋は神社ばかりで寺には一つも出合わなかった。Photo T 「宿場町通り」。(2013/12/2 13:24) 本氷川神社を過ぎてすぐ、左の路地に入って宿場町通りに抜ける。さっき駅前通りを歩いていて覗いたときよりも人出が少ない印象だが、たぶんこのあたりではいちばん賑わっている商店街だろう(と思う)。 宿場町通りをまっすぐ駅前通りを過ぎると、そこからは「千住ほんちょう商店街」の看板が揚がっている商店街である。この商店街で昼食とし、カレーうどんを食べた。正直に言えば、私が自分で作るカレーうどんの方がおいしいと思った。飲み屋街の路地を抜けて北千住駅へ。Photo U (2013/12/2 13:38)、Photo V (13:40)、Photo V (13:42) 昼食が終れば帰り足である。ほんちょう商店街をそのまま少し進んで、小さな飲食店(飲み屋さん)が並ぶ路地に入る。北千住駅を降りたサラリーマンはこの辺でいっぱい聞こし召してから帰宅するのだろう。 路地は左に折れ、常磐線に平行に飲み屋街は続く。そこを抜けると北千住駅である。Photo X 北千住駅のペデストリアンデッキから見る駅前通り(仮称)。(2013/12/2 13:39) 北千住駅のペデストリアンデッキにあがり、そこからひとしきり北千住の街並みを眺めてから、改札口に向う。北千住Map。A~Xは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。 [1] 松尾芭蕉「おくのほそ道」『日本の古典55「芭蕉文集 去来抄」』(小学館、昭和60年) p. 51。[2] 開高健「ずばり東京」『開高健全ノンフィクション 路上にて』(文藝春秋 1977年)p.61。[3] 「岡本眸読本(俳句研究別冊)」(富士見書房 平成11年)p. 121。
2013.12.03
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Photo A 千住大橋北詰。 (2013/12/3 12:13) 千住大橋から歩き始めようと決めたが、たいした理由はない。東京都美術館で『ターナー展』を見た後の街歩きをどこにするか考えていて、上野にターミナルがある京成本線に気がついた。一度も乗ったことがないので乗ってみることに決めて、沿線の駅の中に『千住大橋』を見つけたのだ。 京成本線「千住大橋」駅を降りて、国道4号(日光街道、奥州街道)を千住大橋まで行って、この橋の北詰を出発点として北千住を歩くのである。ここには「奥の細道 矢立初めの地」という立派な石碑があった。じつを言うと、ここに来るまで芭蕉のことはまったく思い浮かばなかったのだ。芭蕉に敬意を表して、「千住」の部分を抜き書きしてみる。千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。 行春や鳥啼魚の目は泪是を矢立の初として行道なほすすまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるベし。 松尾芭蕉「おくのほそ道」より [1] 北千住を歩くので、千住大橋は渡らない。開高健が人が渡る橋を褒め称えているのだが、せっかくの千住大橋を渡らないのである。それどころか、岡本眸には叱られそうである。 すべての橋は詩を発散する。小川の丸木橋から海峡を越える鉄橋にいたるまで、橋という橋は、すべてふしぎな魅力をもって私たちの心をひきつける。右岸から左岸へ人をわたすだけの、その機能のこの上ない明快さが私たちの複雑さに疲れた心をうつのだろうか。 開高健「ずばり東京」より [2] 冬川や渡りきらねば橋ならず 岡本眸 [3] 叱咤も軽蔑も無視して、背中を丸めて歩き出すのだ。コンクリート壁で隅田川は見えないのだが、川沿いの道を西に行く。道は黄葉の銀杏が目立つ「橋戸稲荷神社」に突き当たる。神殿に上がる石段の脇には二つの大きな自然石の上にそれぞれ一尾ずつ狐が鎮座している。 神社の左側を回り込んで進み、一メートルちょっとの幅の道をすり抜けていくと、さっき降り立った高架上の千住大橋駅が見える道(Photo B)に出る。Photo B 道の向こうに千住大橋駅が。 (2013/12/2 12:19)Photo C 4号線の向こうに「稲荷神社」。 (2013/12/2 12:24) 京成本線千住大橋駅をくぐり抜けて道なりに歩くと国道4号に出る。道の向こうに鳥居が見え、地図では「稲荷神社」という名前の神社である。国道をほんの数メートル歩いただけで左折して西に進む。Photo D 左手は「千住スポーツ公園」。(2013/12/2 12:27) 道は「千住スポーツ公園」に突き当たり、公園に入って道沿いの散歩道を北向きにコースを取る。道はすぐに「墨堤通り」に出て、通りの向こうは千寿小学校である(Photo E)。いわれを知るよしもないが、「千住」ではなくて「千寿」なのである。Photo E 千寿小学校脇の細道へ。 (2013/12/2 12:30)千寿小学校からの細道。Photo F(左)(2013/12/2 12:31)、Photo G(右)(2013/12/2 12:32) 千寿小学校脇に車止めのある細道があったので、その道を行くことにする。人と自転車だけの道である。道はすぐに変則的な十字路に出て、そこを右折する。地図によれば、その先には接するようにして平行に走る二本の道がある。新道と旧道なのか、理由は判然としないが、そこを見ようということである。Photo H 平行に走る道の西側の一本。(2013/12/2 12:35) 平行に走る二本の道の手前(西側)の道(Photo H)に入ると、ずっと向こうにパトカーの赤ランプが光っている。道なりに進むと、左手に千寿神社の鳥居が見えてくる(Photo I)。Photo I 千住神社。(2013/12/2 12:36)Photo J (上) 千住神社境内の富士山。(下)山麓の桜花。(2013/12/2 12:39) 千住神社は、伏見稲荷から分社した稲荷神社で始まり、後に氷川神社の分社も並立し、両社を合祀して西森神社となり、大正年間に千住神社と改称した旨の由来石碑がある。 千住神社境内には標高五メートルほどの富士山(富士塚と言うらしい)があって、登山口には「参拝登頂は7月1日の山開きの日のみ、滑るので注意」という趣旨の小さな登山禁止看板があった。その富士山の南山麓には季節はずれの桜が咲いていた。そういう種類なのか、返り咲きなのか分らないが、しばしの暮れの花見である。Photo K 平行に走る東の道 (2013/12/2 12:41) 千住神社から道に戻ると、家並みの間に平行に走る東側の道が覗いている。家の間をすり抜けてその道を覗いてみたが、西側よりちょっと狭い住宅地をまっすぐに連なる道だった。千住神社のある道の方がカーブがあったり、商店があったりと少しは変化に富むようなので引き返した。北千住Map。A~Xは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。 [1] 松尾芭蕉「おくのほそ道」『日本の古典55「芭蕉文集 去来抄」』(小学館、昭和60年) p. 51。[2] 開高健「ずばり東京」『開高健全ノンフィクション 路上にて』(文藝春秋 1977年)p.61。[3] 「岡本眸読本(俳句研究別冊)」(富士見書房 平成11年)p. 121。
2013.12.03
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【続き】 氷川神社から下る本氷川坂からの道。Photo I(左)(2013/12/2 12:49)、Photo J(中)(12:50)、Photo K(右)(12:51) 氷川神社横の細い道に出て「本氷川坂」という表示のある坂道を下り、角を3回ほど曲ると「赤坂五丁目交番前」交差点である。この十字路をどの道をとるか決めかねていたのだが、坂道が見えたので直進する道を選んだ。Photo L 赤坂五丁目交番前交差点から三分坂へ。(2013/12/2 12:55)Photo M 三分坂・報土寺の築地塀。(2013/12/2 12:58) 坂道は急になりながら右に折れている。この坂道は「三分坂」と言って、あまりに急なため車賃が三分(百円程度)余分に取られたことに由来すると書いてあった(Photo M)。急坂に沿ってお寺さんの築地塀が続いている。Photo N 三分坂を登りきって左へ。 (2013/12/2 12:59) 三分坂を登り切ると道は左に曲り、赤坂パークビルの前を通る。赤坂パークビルの敷地内は広場のようになっていたので通り抜けてみる。広場へ下り、脇の細い道を登り返す。広場そのものはコンクリート敷きだが周囲は大きな木も残されている植栽になっている。Photo O 赤坂パークビルから下り、また登れば赤坂通の向こうは赤坂御用地。 (2013/12/2 13:09) もとの道に戻ると、道は谷を越えるように下ってふたたび上り返し(Photo O)、「赤坂地区総合支所前」交差点で青山通りにぶつかる。青山通りの向こうは赤坂御所である。Photo P 赤坂署裏の三叉路。右手は山脇学園。 (2013/12/2 13:13) 青山通りを歩かずに右折できる道があったのでそこに入る。赤坂署の裏のみちで、山脇学園の脇を取っていく(Photo P)。しかし、この道はそのまま進むと「牛鳴坂」を下って青山通りに戻ってしまうので、坂を下る手前で右に折れることにした。Photo Q 赤坂通りへ下る牛鳴坂の手前を右折。 (2013/12/2 13:16) その道は、真っ正面に「赤坂Bizタワー」という大きなビルが見えるまっすぐな道だったので、すぐに左横の細道に入ることにした。突き当たりを曲りながら細道を辿ると行き止まりのように見えたが、門が開いていて通り抜けられそうである。Photo R 赤坂不動尊(威徳寺)を抜けて。 (2013/12/2 13:20) そこは寺の境内で、「赤坂不動尊」の大きな提灯の下がっているお堂の前を通る。右手に階段状の墓地を見ながら坂を下ると、そこは「一の木通り」である。店が建ち並んでいる通りで、ここで昼食を取ることにした。Photo S 一の木通り、ここで昼食。 (2013/12/2 13:21) 昼食が終れば、散歩も終わりである。一の木通りをちょっとだけ歩き、外苑通りに出るように左折する。向こうに外堀通りが見え、道の向こうは、日枝神社の裏門(だと思う)である。新橋からの散歩で、南のエスカレーターのある参道から日枝神社に行ったことがある。 Photo T 一の木通りから外堀通りへ。 (2013/12/2 13:39) 外堀通りを左折、赤坂見附で東京メトロ丸ノ内線に乗って今日の東京の街歩きは終了である。 赤坂町歩きMap。A~Tは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。 [1] 山口瞳『新東京百景』(新潮文庫平成5年) p.264。[2] ジグムント・バウマン(伊藤茂訳)『コラテラル・ダメージ --グローバル時代の巻き添え被害』(青土社、2011年) p. 109。[3] 同上、p. 110-1。
2013.12.02
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Photo A 国立新美術館。「印象派を超えて 点描の画家たち」展を観て。(2013/12/2 12:20) 国立新美術館で『印象派を超えて 点描の画家たち』展を見終えて、これからぶらぶらと赤坂見附の方に歩いて行く。東京の街並みを歩いて見るということをここ5年くらいやっているが、乃木坂周辺が意外と多い。それは、国立新美術館が他の美術館とは違って、月曜日もオープンしていることによる。仙台から新幹線でやってくる街歩きは、ことのついでとばかりに展覧会鑑賞とセットのケースが多いからだ。 まだ歩いたことがない方向としては、広尾へ向かう道も候補だったが、赤坂のまんなかを通って赤坂見附まで歩くことにした。ちょっとした仕事で、この半年ほどの間に立て続けに赤坂見附で地下鉄を降りたので、赤坂見附から東京駅までなら何も調べないで帰れそうだ、というだけの理由である(田舎者にはこんなことが重要なのだ)。Photo B 新美術館から外苑東通りに抜ける細道。 (2013/12/2 12:25) 先ずは六本木交差点に向かう。細道に入って外苑東通りに抜けようと歩き出すと、この道の逆コースを歩いて来て小さな店で日本蕎麦を食べたことを思い出した。とても安かったのだけれども、味も値段相応だった。どの店だったか、探し当てられないまま大通りに出た。Photo C 六本木交差点(外苑東通り×六本木通り(首都高速3号渋谷線))。 (2013/12/2 12:30) Photo C 六本木交差点(外苑東通り×六本木通り(首都高速3号渋谷線))。 (2013/12/2 12:30) 六本木交差点まで出てくると、雨の日曜日に地下鉄日比谷線の六本木駅で娘と別れたことを思い出す。その日は、深大寺あたりの散歩に娘が突き合ってくれるということになって東京駅で落ち合ったのだが、あいにくの雨で急遽変更して、国立新美術館で『大エルミタージュ美術館展』を見た後で六本木ヒルズでの食事をしたのだった。 六本木と言えば、山口瞳がこんなことを書いていた。十年くらい前、若い男に、こんど六本木をご案内しましょうと言われてショックを受けた。六本木は僕の育ったところである。しかし、まるっきり変わってしまっていて右も左もわからない。若い男の申し出は正しかったのである。 山口瞳「代官山は菓子の町」から [1] 私は東京をこんなものと思うしかないが、東京で育って変貌する町を見ている人はどんなだろうかと思う。田舎だって変わってしまうが、過激さにおいて質が違うだろう。Photo D 六本木通りから斜めの細道へ。(2013/12/2 12:34) 交差点を左折して、六本木通りを下って行く。ちょっとした公園があって、その前を斜めに細道(Photo D)が延びている。そこに入る。道はうねうねと曲るが、道なりに進むと、左手に緩い坂を登る道(Photo E)が見える。散歩には坂道と曲がり角が必須と思い込んでいるので、その坂道を選ぶ。Photo E ミツイタウンハウス西側の道を北進。 (2013/12/2 12:38) その道の右手は、地図によれば「ミツイタウンハウス」となっている。突き当たって右手には急坂(Photo F)が続いている。右は石垣と植木の道だが、この奥には「テンプルタウンハウス」というのがあるらしい。Photo F ミツイタウンハウスの北面の坂道。(2013/12/2 12:41) 右折した角には「ミツイタウンハウス」と「テンプルタウンハウス」から下ってくる道があって大きな鉄格子の門扉が建っていた。ちょうど一人の女性が自転車でその道を下ってくると二人いた守衛の一人が急いで門扉を開けるのだった。 どうもこの一画は頑丈な門扉と塀で囲まれ、ガードにも守られているいわゆる規模の小さい「ゲーテッド・コミュニティ」らしいのだ。アメリカで始まったゲーテッド・コミュニティ(ゲート付きコミュニティ)は「裕福な都市居住者が予測もできない、あらゆることが起こりうる密集する都市の一画を買い上げて作るもの」 [2] で、彼らの不安の要因として見なす周囲の犯罪者は、たいていは貧しい人々や外国人(いわゆるナショナル・マイノリティ)なのであって、いわゆる1%-99%の格差社会の象徴とも言える。 しかし、バウマンはこうも言っている。「ゲーデッド・コミュニティ」という言葉は誤称である。グラスゴー大学が刊行した二〇〇三年の調査報告書によると、「ゲー卜付きの壁に囲まれた区画の中には「コミュニティ」に加わろうとする明確な欲望など存在しない。ゲーテッド「コミュニティ」にはコミュニティ感覚が希薄である」。(......)彼らは、わずらわしい付き合いから解放されるために、すなわち、他人から干渉されないためにお金を払うだろう。壁とゲー卜の内側には、孤独を好む人々、つまりは、ほんのひとときの幻想としての「コミュニティ」だけしか許容しない人々が暮らすのである。 [3] 金持ちも寂しいのである。「コミュニケーションのないコミュニティ」というのは、いかにもポスト〈ポストモダン〉の東京らしいと言えばいいのか。Photo G(左) 氷川神社。 (2013/12/2 12:43)Photo H(右) 境内の大銀杏。(2013/12/2 12:44) 坂を登ると赤坂氷川神社である。境内に入ると銀杏の大木がある。この木は都指定の天然記念物で、港区内では国指定天然記念物である善福寺の「逆さ銀杏」に次ぐ大きさである趣旨の看板があった。 三年ほど前、やはり乃木坂から田町まで歩いたときにたまたま善福寺の「逆さ銀杏」を見ていた。確かにその大きさに驚いた記憶があるが、古い神社や寺には大きな銀杏がよくあるものだという程度の感想であったと思う。赤坂町歩きMap。A~Tは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。 [1] 山口瞳『新東京百景』(新潮文庫平成5年) p.264。[2] ジグムント・バウマン(伊藤茂訳)『コラテラル・ダメージ --グローバル時代の巻き添え被害』(青土社、2011年) p. 109。[3] 同上、p. 110-1。【続く】
2013.12.02
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