全5件 (5件中 1-5件目)
1

ひとつの短歌を、以前のブログで引用した。原発事故から半年経ったころに「朝日歌壇」に投稿された短歌である。とても惹かれた歌だ。目に見えぬ放射能ありひたひたと黒揚羽飛ぶ生の輪郭 (熊谷市)内野修 (2011/7/18 高野公彦選) 舞い飛ぶクロアゲハの美しさを「生の輪郭」という言葉に籠めた短歌だが、その美しい姿形は、その輪郭の内部に被爆によって損傷した命を抱いている。現在の蝶の輪郭がいかに美しくても、傷ついた遺伝子を内包した命は、健康な種を伝えることができない恐怖に震えている。 「命」は自らを生きる命ばかりでなく、子どもたちに伝え継ぐべき種としての命をも生きている。だが、今や、残されているのはこの瞬間を飛ぶ「輪郭」の命だけかもしれないのだ。 「生の輪郭」の短歌を引用したブログをアップしてから、若い時分に読んだ詩集の読み直しをしていたら、次のような詩を見つけた。かなりニュアンスがちがうが、これも「生の輪郭」である。 ぼくの通らなかった道はなかったし道が傾いているらしいとおもえば道はかならず傾いていたし傾いているらしいとおもっただけだとおもえば道はかならず水平に身をもちなおした。ぼくの落ちない井戸はなかったしぼくの跳ばない崖はなかった。笹の根は常にぼくの足をとり太陽は常に中空にとどまってぼくの背中をしっかり焼いた。考えてみるとそうだぼくはぼくの輪廓だけは残らず生きていたのだ。 安永稔和「やってくる者」部分 [1] 私たちは、道を歩くこと、井戸に落ちること、草に足を取られて転ぶこと、崖から転げること、夏休みに真っ黒に日焼けすること、こんな幼年の様々な経験で、私たちの存在の輪郭を形作ってきた。そして、まちがいなく「私の輪郭」を作る一つ一つの素材を「残らず生きていたのだ」。 それなのに今、大人になって私たちは……。ここから「輪郭の内側」が問い直されることになり、大人たちは悔いや悲しみや絶望や諦めに立ち向おうとするのか、あるいは、その前に立ちすくむだけなのか。いや、だからこそ逆に、大人たちはきちんと残らず生きた少年期の「ぼくの輪郭」を懐かしんでいるだけなのか。 人間として生きるということは、今を生きる命としてだけでも、なかなかに難しい。シベリヤ抑留から生還した詩人、石原吉郎の精神を読み解こうとした勢古浩爾は、その著書『石原吉郎』の中で、「存在」と「存在性」という概念をこう述べている。「存在」とは存在そのもの(在ること)のことであり、「存在性」とは存在のしかた(在りかた)のことである。それぞれを、存在の事実と存在の意味といいかえてもいい。前者は肉体であるが、後者は箸の揚げおろしから、ひととの関係のしかた、考えかたの一切を意味する。 勢古浩爾『石原吉郎』 [2] つまり、「存在性」は「生の輪郭」と考えていい。崖を飛ぶことや遊びほうけた夏休みを通して張り付けられた輪郭(=存在性)、重労働25年という判決と8年のシベリヤ拘留中の様々な困難がもたらした輪郭(=存在性)。 輪郭を形成するそれぞれの経験素材の意味や価値に軽重はないと考えるべきだろう。しかし、人は(おそらく)それぞれに軽重を仮託することで「存在」を守ろうとするだろうし、今を生きる意味、未来へ歩き出す意味を見い出そうとするのだろう。 黒揚羽の「生の輪郭」から、連想ゲームのように本を辿ってしまった。この連想ゲームは枝分かれしてまだまだ続く。 『石原吉郎』の中で著者は、シベリヤ抑留体験を「シベリヤシリーズ」として描いた画家、香月泰男を取りあげている。それを読んだ私は、香月泰男の絵に対して「私の知るシベリアはこれではない」と言って自らのシベリア体験を描いた画家、久永強のことを考えるのだ。 画家としての香月泰男と久永強の異なったシベリヤ、それに石原吉郎のシベリヤも含めたそれぞれの「シベリヤ体験」、それぞれの「生の輪郭」。これに興味が湧かないわけがない。こうしてわたしは、香月泰男の画集をネット検索で探すことから次の連想ゲームを始めるのだ。 こんなことをしながら、私は私の「生の輪郭」(存在性)に何か1枚貼り足すことができるのだろうか。 以前のブログを読み直したことから、話がずっと遠くへ行ってしまった。とまれ、脱原発デモである。緩やかな坂(定禅寺通り)を下って来るデモ。(2013/10/27 15:15) 大遅刻である。昼食の準備に時間が掛かりすぎた。そのうえ、昼食の余韻に浸りすぎた。きのこのパスタソースの煮込みに1時間ほど必要だった。それで作った きのこのリングィーネは、しばらくぶりということもあって、たまらなくおいしかったのである。 機嫌良くなって白ワインを1杯余分に飲んでしまった。まったりと食後の時間を楽しんでいて、我に返ったのが2時34分である(2時30分錦町公園集合、3時にデモ出発だというのに)。 一番町に着いてからデモコースを逆行する。三越前辺りで出合うだろう、シュプレッヒコールが聞こえてくるだろうと耳を澄ますが、街の雑音ばかり。 定禅寺通りに出て、錦町公園に向かうがいっこうにデモの気配がなない。また、集合場所を間違えたかもしれないと不安になりながら勾当台公園通りを渡ると、もう一つ向こうの交差点に「脱原発カー」が止まっている。その後にデモの列が見えるが、シュプレッヒコールはない。静かだ。ここの列に入れてもらう。(2013/10/27 15:16) 集会に出られなかったので知らなかったのだが、今日はサイレントデモだったらしい。コーラーの声が聞こえないので黙々と歩くが、これはこれでいいな、と思った。 無言でデモをするというのは、示威をするのは歩く姿しかない、歩く姿勢、歩き方、表情で示威をするということだ(プラカードや旗もあるが)。私の場合、姿や顔かたち、つまり容姿というのは大いなる弱点だけれども、それしかないのだ。なんかよく分らないけれども、我が身について、とても内省的というか、自省的というか、そんな気分になるデモである。脱原発犬の後を歩く。(2013/10/27 15:16)大通り(勾当台通り)を急ぎ足で。(2013/10/27 15:21)欅並木も色づいて(定禅寺通り)。(2013/10/27 15:23) 無言で一番町を半ばまで進んだころ、シュプレッヒコールが始まった。やはり手慣れた方法が落ち着くのだろう。一番町のアーケードに響くシュプレッヒコールは、それまでサイレントだった分だけ、とても大きく聞こえるのだった。ビル風を受けながら(青葉通り)。(2013/10/27 15:43) 青葉通りを歩いていると、ビルの高さが目につく。とくに高いのは銀行系のビルだ。消費税増税、企業は減税、こんな時代にこの私の国では99%のプレカリアートの叛乱は起きないのだろうか。 1%のプルトノミーの象徴である銀行ビル群(この辺は銀行が集まっている)を見上げながら、オキュパイ運動として占拠するならどこなんだろうと少しばかり(ほんの少しだけど)物騒なことを想像してみる。 妄想のうちにデモは終る。 [1] 『安永稔和詩集(現代詩文庫21)』(思潮社、1969年) p. 96。[2] 勢古浩爾『石原吉郎--寂滅の人』(言視舎、2013年) p. 22-3。
2013.10.27
コメント(2)

寸断された戦線がみえてくる。そして核爆発がテレビのむこうがわでつづいている。われわれは一瞬のさけめから認識へおちる。われわれはなんども死んだり、詩人みたいにまたもや生きてゆく。神話をつめたくしているのだ。 堀川正美「われら365」部分 [1] これは1970年出版の詩集のなかのフレーズである。読むべき本、読みたい本が途絶えてしまって、やむなく納戸の奥から引っ張り出してきた43年前の本のなかにあった。ここには、予言された「フクシマ」が見える。そんなふうに思えた。 原爆や水爆へのイメージには違いない。しかし、大地震でメルトダウンした核燃料が今も地中のどこかで緩やかな核爆発を続けている、というイメージに繋がる。制御できない核分裂反応は、反応の遅速や反応の密度の問題はあっても、本質的に核爆発となんの相違があろう。 原子炉が爆発してしまってから、愚かといえども日本人は現実の悲惨な裂け目から否定しようのない「認識」へ落ち込んだはずだ。そう考えるのが詩人のイメージというものだ。いまだに、原発を続けたい、外国にも売りつけたいという意図をあからさまにする人間が存在しうるなどと思いもしないだろう。 原爆、水爆、原発の爆発、この一連の事象こそ、人類が地球上に生まれてから語り継いできた「神話」ですら凍りつくような悲惨だったはずだ。始まりはパラパラッと。(2013/10/18 18:00) デモの集会はいつものように始まり、いつものように進行する。青森からの参加者、気仙沼からの参加者などのスピ-チがあり、チェルノブイリの視察報告会や映画「朝日のあたる家」の上映運動の告知がある。 私には知らない人ばかりだけれども、スピーチをする人はどなたも顔見知りらしい雰囲気である。次々と人影が。(2013/10/18 18:17) 集会が始まったばかりのとき(今日は珍しく遅刻をしていない)は、ほんとにパラパラの人なのだが、次々に集まってくる。公園は暗くて人びとの表情は分らないが、暗闇の中でスピーチに集中できるようだ。デモの出発直前。(2013/10/18 18:34) ほぼ、時間通りにデモは出発して定禅寺通りを西へ。仙台はすっかり涼しくなって(涼しいというより寒いというべきか)、歩くには最適な気温である。国道4号の大通りでは、信号の時間内では渡りきれず、お巡りさんの車制止のなか、かなり時間をかけて交差点を渡りきる。 そして、これもいつものように一番町の明るさの中にデモは入っていく。定禅寺通りから一番町へ曲っていく。(2013/10/18 18:49)デモの最後尾から。(2013/10/18 18:54) 堀川正美の詩集には、もうひとつ凄いイメージの詩があった。武器はかぞえるだろう、ほぼ同数の兵士たちを。製品はかぞえるだろう、ほぼ同数の労働者の時間を。ヴィタミン剤は、トランジスタラジオは、映画館の入場券はわれわれの青春を。オレンジジュースはこいびとたちを。操縦装置のちっちゃなボタンにふれる指のふるえは一〇〇年きみが生きてもとりかえしがつかない一瞬を――一〇〇万人の三万フィートも上で。戦争の死者たちをかぞえることができぬ。ひとりの兄弟ぐらいは生きのびたもののうちにいるかもしれぬ。 堀川正美「書物の教訓」部分 [2] 人間の手によって作られた物は、作られたその瞬間において、そのものが未来に関与するであろう人間と人間の出来事を用意している、という逆説のイメージだ。原発と爆撃機が作られたとき、100万人の広島市民の上空で「ちっちゃなボタン」が押される瞬間が準備されていた、という恐ろしいイメージだ。 福島県大熊町に東京電力福島第一原子力発電所の建設が始まったとき、15万人を超える人びとの故郷が失われることが定っていた。詩人の逆説のイメージはそう教えている。だとしたら、たとえば大間で、たとえば女川で、たとえば美浜で、たとえば上関で未来に準備されているのは何か。 その恐ろしいイメージに対抗するには、すべての原発を廃炉にするという現実的手段しかないのだ。[1]『堀川正美詩集(現代詩文庫29)』(思潮社、1970年)p. 69。[2] 同上、p. 81。
2013.10.18
コメント(2)

昨年の「蔵の陶器市」は、一日に3つの外出する用事が重なって、駆け足で見て回った。そのため、町歩きのいつもの連れであるイオは留守番だった。今年は、妻は妻で、私は私で、午後にもう一つの用事を抱えていたものの、いくぶん余裕があったので、イオ同伴である。 エンジンも掛かっていないのに、心はもう走っている。(2013/10/18 10:54) イオは人混みは嫌いなので、人出が多いところにを連れ出すのはいくぶん不安がある。駐車場を降りて、張り切って歩き出すものの、電柱ごと、曲がり角ごとに匂い検分に忙しく、なかなか前に進まない。 陶器市の会場の通りに入ったら、案の定、人出に驚いて尻尾が下がってしまった。人に驚いて尻尾が下がる。(2013/10/18 11:39) 義母と私の飯茶碗を探すのが、今日の目的である。普段使いの器の補充がこの陶器市に来る理由になってしまっている。昨年、私の飯茶碗として同じ器を二つ買ったのだが、あっという間に二つとも妻が壊してしまい、それを補充することが妻の使命のような雰囲気で、ゆっくり見て歩き、お気に入りの器を探す、などという優雅さはほとんどない。蔵造りの家が並ぶ町並み。(2013/10/18 11:39) 通りを歩き始めてすぐ、立派な門構えのお宅の柴犬の歓迎である。まだ1歳のお嬢さんということで座ったまま尻尾を振っているのだが、耳の動きにいくぶん緊張が見られる。 イオは、3mくらい離れたところから近付こうとしない。女の子には格段に厳しいので、自ら安全を心がけているかのようだ。この後も、沢山の犬にあったが、女の子には「そばによるんじゃない」と威嚇してみせるのだった。立派な門脇で歓迎してくれている柴のお嬢さん。(2013/10/18 11:39) 町並みに入ってすぐ昨年と同じ店があったので早々に私の飯茶碗を購入した。相馬焼きの「松永窯」で、福島県浪江町に窯を構えていたのだが、東電福島原発の放射能汚染で帰れなくなって、今は二本松の共同窯で焼いているのだという。 新しく窯を作りたいのだが、「友だちには、もう止めろと言うやつもいる」と笑いながら話してくれた。「頑張ってください」という言葉しかなかったのだが、私の今日のもう一つの用事というのは「脱原発みやぎ金曜デモ」に参加することなのだ。起きてしまった原発事故を元に戻すことはできないけれども、これからの原発事故を起こさせない、ということはできるはずだ。 松永窯の向かいの店で義母用のとても軽い小ぶりな茶碗を見つけて、今日の買い物の本分は終った。もうこれで妻はすっかりイオと街並み散歩と決め込み、私だけが「せめてもう少し何かを」と並んでいる出店を見て歩いた。待っているのに私に気付かないイオ。(2013/10/18 12:35) その後、パスタに使えそうな皿2枚、灰秞の小鉢5個組み(1個おまけしてもらって6個)、飯茶碗をもう1個買い足した。 イオは店の外で待っているのだが、人が多いせいか、戻ってくる私をなかなか見つけられない。犬は近視ということなので。動く人間が大勢いると見分けにくいのだろう。蔵造りの商家が続いている。(2013/10/18 12:38) イオと妻と私でのお出かけ散歩というのは2年越し、一昨年のこの陶器市以来である。妻は109歳になった義母の介護で外出が難しいし、出かけるときには私が留守番ということになる。ヘルパーさんや知人の応援がないと揃っての外出は無理なのである。匂い検分に夢中。(2013/10/18 12:41) イオは久しぶりに爺やと婆やを従えて意気揚々なのだ。来た時も帰る時も、張り切って調べる匂い探索はとても丁寧で、電柱にことごとく引っかかってなかなか前に進まないのだった。
2013.10.18
コメント(0)

放射能塗(まみ)れの土に父埋める (いわき市)馬目空 (2011/9/11 金子兜太選)夏草や一村去りし被爆の地 (東京都)橋本栄子 (20011/9/26 金子兜太選) 原発事故後5,6ヶ月ころの「福島」である。朝日歌壇・俳壇からの書き抜きから俳句を選んでみた。一般的な言い方をすれば、俳句という表現形式では社会事象を踏み込んで詠むのは難しいのではないかと思っていたのだが、むしろ短詩型であることで事象の切り取り方がいっそう厳しくなるようだ。逡巡が許されないなのだ。 福島のそのような現実は、それから2年経た現在もなにも変わっていない。集合時間ぎりぎり、東北大北門到着。(2013/10/11 18:30)暗いが、大勢集まっている。(2013/10/11 18:33) 東北大学北門前には、デモ出発時間の午後6時30分ちょうどに到着、もう大勢集まっている。数分後に出発した。南町通りの向こうに輝くような一番町商店街。(2013/10/11 18:41) 東北大北門から、北へまっすぐ一番町に向っていると、なんとなく明るい方向へ光を求めて歩いているような気分になる。「原発のない明るい未来」に向って歩いていると、比喩的に言えないこともないのだが。一番町、南町通りと青葉通りの間。(2013/10/11 18:44) 南町通りを越えて一番町商店街に入るととても明るい。アーケード天井に並ぶライトの光量が多いのだ。ところが、青葉通りを越えた付近からライトの光量が落されている。 どうしてかは分らないが、同じ一番町で同じ役目のライトの光量が違うのだ。どうでもいいような、今日のひとつの発見である。なんの役にも立たないが。青葉通りを渡って藤崎前へ。(2013/10/11 18:50)光量が少ない青葉通りと広瀬通りの間の一番町。(2013/10/11 18:50) 藤崎を過ぎて広瀬通りに近付くほど通行人が増えてくる。通行人の多寡と商店街の明るさが逆になっている。青葉通りより南では、明るくすれば人が集まる、という期待が働いているのだろうか。あるいはまた、青葉通りより北では、放っといても人が集まるので無駄な電気代は節約しようということなのだろうか。 なんの役にも立たないと言いながら、思考はどんどんつまらない方向へ走りそうだ。右手に夜の繁華街、国分町入口のイルミネーションが。(2013/10/11 19:00) 一番町から左折して、広瀬通りを西に進み、右手に連なっている国分町のイルミネーションを横切ると、街の明るさが急に減ってしまう。晩翠通りに左折すると人通りも少なくなる。 晩翠通りは、以前は「細横丁」と呼ばれていた「広い」通りである。「晩翠通り」などという観光用ネーミングがいつ始まったが知らないが、私にとっては今でも細横丁でのままだ。青葉通りは欅並木のトンネルの下。(2013/10/11 19:15) 青葉通りは道の中央と両脇に欅並みがあって、欅並木の切れ目に交差点の光が溢れている。欅のトンネルの下を歩いているのだが、暗くて欅は闇そのもののようだ。じっと透かして見ると、そこに欅が大きく枝を広げているのが分る。青葉通りは、闇、光、闇と通過していく道だ。 バスの時間まで2分というところで流れ解散。バス停まで走る。股関節まわりの痛みは感じない。 ずっと不思議に思っているのだが、階段や坂の上り下りや信号を走って渡るときなどには股関節まわりの筋肉は痛まないのだ。平地を普通に歩くときによく痛むのである。いずれにせよ、湿布とリハビリ・マッサージで回復に向っている(はずである)。
2013.10.11
コメント(2)

「福島を出ます」とおさな子を連れし背が去りゆく雨の向こうに (福島市)美原凍子 (2011/7/4 佐佐木幸綱選)日常の会話も悲し線量と逃げる逃げない堂々巡り (郡山市)渡辺良子 (2011/7/25 高野公彦選) 東電福島第一原発の事故から四ヶ月ほどたった頃、「朝日歌壇」に投稿、採用された短歌である。どれだけの日々の悩みがあり、故郷を離れざるを得ない悲しみがあり、哀切な別離と喪失があったのだろう。 このような不幸な出来事から人々を守るために、倫理・道徳が生れ、社会規範としての法が成立してきたはずなのに、原発事故の関連死が数千人に及ぶという現在に至るまで、誰一人として法によって裁かれようとしていない。 いかに資本主義社会といえども、一私企業の営利活動が多数の人命より優先するような立法精神というものはなかったはずだ。現状は、政治とその権力構造に取り込まれた司法によって恣意的な法の運用がなされていると考えざるを得ず、そこでは人倫などというものより経済的豊かさのみが追求されているのだ。どんなに偉そうに政治や社会を語ろうが、所詮は「目先の金」がすべてなのである。勾当台公園野外音楽堂。(2013/10/4 18:10) 珍しく遅刻をしなかった今日の勾当台公園野音前の集会は、時間通りに午後6時から始まった。スピーチでは何人かの人が、小泉前首相の「脱原発」発言に触れていた。 小泉前首相は、従来の自民党政権の原発推進政策は過ちだったとまで認め、原発推進は政治家として無責任であり、今こそ脱原発のチャンスだと主張している。 脱原発発言自体は、それはそれで結構なことだと思うが、小泉前首相は郵政民営化に見られるように日本における新自由主義経済推進の象徴的政治家であり、いわばワーキング・プア、プレカリアートを生み出す政策に邁進した政治家である。ワーキング・プア、プレカリアートの生活や人生を踏みにじっても、資本が富むという意味での経済力や、国際競争力が大事だと信じている政治家であることは事実だ。。 さらに、ブッシュのお先棒を担ぎ、イラクへのアメリカ合州国の国際戦略という名の〈帝国〉的侵略に積極的に加担したのも小泉前首相だ。同じようにブッシュに同調したイギリスのブレア元首相はいまやその責任を問われて査問に付されているように、ブッシュのイラク侵略は厳しい批判にさらされている(新自由主義に基づくアメリカの国際戦略と称する経済的、軍事的侵略についてはノーム・チョムスキー [1] やナオミ・クライン [2] の著書に詳しい)。残念ながら、日本ではジャーナリズムにおいてすら小泉首相の責任を問う言説はほとんど見られない。 小泉前首相の発言については、その政治的意図をいろいろと詮索するような意見も見られるが、「脱原発」発言そのものは歓迎していいと思う。しかし、「元首相」の名や「影響力」やらを持ち出し、それに頼るような心性だけは拒否したい。暗い公園のデモ出発前。(2013/10/4 18:35)定禅寺通りの向こうは一番町。(2013/10/4 18:44) 暗い夜の公園からデモは出発して、市役所前まで進み、そこから定禅寺通りを横切って一番町に入る。 広瀬通りに差しかかったところで、デモから離脱する。ここが我が家に一番近いので、ここから歩いて帰るのである。 一ヶ月ほどずっと左足の付け根、股関節のまわりに痛みがあって、この三日ほどは朝の散歩が辛くなるほど痛むので、午前中に整形外科で診てもらった。股関節の骨には異常がなく、何らかの理由でバランスを欠いたための筋肉痛という診断だった。 湿布とリハビリ・マッサージで直すということで、「無理をして歩かないように」という医者の指示があった。それで、デモの途中リタイヤとなった。 じつのところ、自宅から勾当台公園まで、あるいは広瀬通りから自宅までの道のりはデモのコースより長く、そこをすべて徒歩で移動しているので、少々のデモコースのカットはたいして役に立たない。 しかし、これで、医者にも妻にも、「デモでは無理をして歩かないようにしました」と本当のことを報告できる。私は原則として嘘はつかないのである(多少のごまかしはしょっちゅうだが)。 早めの帰宅に、妻は満足そうだった。広瀬通りを渡るデモを見送る。(2013/10/4 18:55) 「朝日歌壇」には、被災者の苦しみや悲しさを直截に表現する感動的な歌が多いが、次のような「放射能」という無機的で情感の込めようのない言葉で始めながら「生の輪郭」という美しいイメージで受ける短歌もあった。被爆が意味する「生そのもの」の厳しさが詠われている。 目に見えぬ放射能ありひたひたと黒揚羽飛ぶ生の輪郭 (熊谷市)内野修 (2011/7/18 高野公彦選) [1] ノーム・チョムスキー(鈴木主税訳)『覇権か、生存か--アメリカの世界戦略と人類の未来』(集英社、2004年)。[2] ナオミ・クライン(幾島幸子、村上裕見子訳)『ショック・ドクトリン』(岩波書店、2011年)。
2013.10.04
コメント(4)
全5件 (5件中 1-5件目)
1


