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「みやぎ脱原発金曜デモ」は昨年の7月から続いていて、そのための専用の街宣車「宮城脱原発カー」が今年の3月くらいから計画、準備されていたらしい。今日は、月一回だけ月末にある脱原発日曜昼デモを「No Nukes Day in Sendai」と銘打って、そのお披露目を兼ねてのイベントが午前11時から始まっている。 「みやぎ脱原発カー」。 (2013/7/28 13:45) 午前は妻が教会に出かけていて、109才の義母を見ていなければならないので私は家を空けられない。妻も月の最終日曜日のパイプオルガン演奏担当なので教会はさぼれないのだ。 昼頃にはめずらしく陽が差してきて、「暑くなってきたわよ」と言いながら12時40分くらいに妻が帰ってきた。妻の帰宅に合せて昼食を作りはじめるのだが、今日はできるだけ時間がかからないものということで、茄子のトマトソース・スパゲッティにする。たくさん作りおいたトマトソースを冷凍にしているので、スパゲッティの茹で時間プラス4,5分で昼食が用意できるのである。 昼食を作るのは私だが後片付けは妻に任せて、午後1時過ぎに自宅を出る。すでに日は翳っていて、何となくあやしい。ザックに折畳み傘も入れる。 野音前全景。 (2013/7/28 13:47) 県庁前の勾当台公園野外音楽堂前には当の「みやぎ脱原発カー」といくつかのテントが並んでいて、ステージでは、ミュージシャンの演奏が続いている。私が着く以前にも、何人もの演奏や歌があったらしい。 最近の金曜デモの倍くらいの人が演奏を聴いている。 ミュージシャンの歌と演奏が続く。 (2013/7/28 13:48~14:30) 3時からのデモだが、そのまえのスピーチでは山形市や盛岡市で反原発デモを続けている人たちの挨拶があった。 「みやぎ脱原発カー」を先頭にデモに出発する。デモ前のイベントで演奏したミュージシャンたちが打楽器を持ってデモに加わっているのでとても賑やかなデモになった。 先頭の「みやぎ脱原発カー」から流れるコールも良く通る。デモの列が信号で分断されても、後方に取り残された私たちにもコールが良く聞こえる。 「みやぎ脱原発カー」を先頭に一番町へ(でも、一番町は歩行者だけ)。(2013/7/28 15:17) 一番町は歩行者専用なので、「みやぎ脱原発カー」は迂回して青葉通りで待つことになる。一番町には「すずめ踊り」の1団がいて、その脇をすり抜けるようにデモは進む。沢山の人がコールに合せてくれたり拍手をしてくれたりしている。 なかでも、おそろいのシックな浴衣を着た7人ほどの年配のご婦人たちがそろって手拍子をしながら声を合わせてコールに応えていたのが印象的だった。なにしろ、とても品の良いご婦人たちだったのだ。 青葉通りでふたたび「みやぎ脱原発カー」が先頭に。 (2013/7/28 15:45) 青葉通りに出て、ふたたび「みやぎ脱原発カー」からのコールが始まる。この頃から小雨がぱらつきだした。デモの列の中にポツポツと傘が開き出す。それでも、雨脚は強くなることはなく、ほとんどの人は傘なしで歩き通した。私の折畳み傘もザックの中に収まったままである。 仙都会館前に到着し、流れ解散となる頃にやや雨脚が強まったので、ここで傘を取り出し、バス停に急ぐ。 仙都会館前。ここで解散、ご苦労様。 (2013/7/28 15:57)
2013.07.28
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それなりに長いこと生きてきたが、選挙というものに楽しい思い出はない。すべての選挙で投票してきたが、私が投票した人物が当選したという経験はほとんどない。いまさらのことだが、ほとんどの場面でマイノリティの側として生きてきた、ということである。 原発ゼロを望むのは国民のマジョリティの意見である。憲法改正反対もマジョリティの意見である。少なくともマスコミの調査ではそのような結果が出ている。つまり、その2点に関して言えば、私はマジョリティの側に属している。 今までだってそのようなことはあった。最大の争点と思われることがらでマジョリティの側として投票したのに、それが結果に反映されないのだ。日本のマジョリティは、政治的争点ということを考慮して投票しているわけではないらしい。 そのことを自民党は知悉していて、今回の選挙での最大の争点のはずの「憲法改悪」、「原発」、「TPP」、「嘉手納基地」を完全に隠してしまった。首相は選挙を福島から始めながら「原発」に触れようともしない。そんな卑怯な方法も、経験的には有効であることを自民党はよく知っているらしい。 何よりも不思議なのは、争点を隠されたら国民から見えなくなるらしいということで、ほんとうに理解するのが難しい。たかだか2週間ちょっとの間、政治家が口にしなかったら、原発やTPPの問題はないものだと考えるらしいということが理解できない。 一番気になるのは、「政治は大所・高所から判断するべきだ。原発だけが日本の問題ではない。憲法以外にも緊急の政治課題があるのだ。全体を勘案して投票すべきである」としたり顔で語る「高所・大所シンドローム」患者が意外に多いことである。そんな言説で政治的争点がグズグズにされてしまう。 そんな患者は、町会議員や市会議員、その取り巻きでいっぱしの政治家気取りの人間、あるいは職場や町内の政治通らしき人間に多いように思う。たぶん、新聞、雑誌、本、ネットなどのマルチメディアから政治問題を積極的に集めようとしないマジョリティは、そんなクズな言説にしてやられるのかも知れない。 ましてや、テレビだけが情報源だということになったら最悪である。テレビに出てくる解説者、評論家などというのは、純正な高所・大所シンドローム患者そのものなのだから。 くどくど言ってもしょうがないが、今度の参議院選挙の投票は誰に投票するかは悩みようがない。朝食をたべながら家族で選挙の話題が出たが、考えていることは同じで1分もかからず話題が尽きた。我が家の家族は全員、マイノリティになる確率が高い、ということらしい。 スピーチは選挙のこと。 (2013/7/19 18:18) デモ前のスピーチも選挙の話題が多い。私たちは去年の総選挙の結果にがっかりしている。最悪のその結果は、厳密に言えば、マジョリティの考えを反映する政党がなかったということだ。 それぞれの政治イッシュウごとにマジョリティが分断され、漁夫の利を自民党がかすめ取ったという結果に過ぎないのに、自民党が手にした権力はあまりにも大きすぎた。今度も同じことが起きそうな予感に、私たちの危機意識は強まってしまうようだ。 後から続く人たちが90人。 (2013/7/19 18:42) それでも、みんな元気にデモに出発する。たまたま、先頭で横断幕を持って歩いたが、振り返ると、後ろに続く90人のデモは大きな集団に見えて、なにか心強い。 勾当台通りで信号待ち。前はパトカーだけ。 (2013/7/19 16:44) 一番町を歩いている(昔はそれを「番ブラ」と言っていたが、今の若い人は何というのだろう)人の中に拍手をする人がいる。シュプレッヒコールに合せる人がいる。写真を撮る人はさらにたくさんいる。 先頭を歩くとそういうことがよく見える。マイノリティとして孤立しているわけではないことが実感できる。 ここで解散です。ご苦労様でした。 (2013/7/19 19:16) デモが流れ解散になり、そのまま仙台駅に行って切符を買う。来週早々、京都に行って、姉の手術に立ち会う予定だ。帰って来る日は未定である。
2013.07.19
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ここ1ヶ月ほど「停滞感」があって心のどこか端っこの方に鬱々とした固まりがある。 愛犬と山に何度も登ったし、好きで育てている花も順調に咲いているし、アユ釣りにも行ったし、デモにも出かけた。さらに、在職中に書いた教科書のゲラ校正も済んでこの秋には出版される予定で、私としてはうまい具合に暮らしが回っているのだが。 停滞感の理由ははっきりしている。退職後、夢中になって本を読んでいる。職業人だったときに読めなかった分を取り返すのだ。仙台市図書館、宮城県図書館からは週1くらいのペースで本を借りまくった。 読みっぱなしはよくないと、読書メモを取ることにした。それだけでは心許ないので、書評のようなものを載せるブログを始めた。 そのようなペースの読書がずっと順調だったのに、2ヶ月ほど前に読んだ本がいけなかった。ジュディス・バトラーの『権力の心的な生』を本屋で見つけて、バトラーならと、買って帰ったのだ。 『ジェンダー・トラブル』、『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』、『触発する言葉』、『生の危うさ』、『戦争の枠組』、『国歌を歌うのは誰か?』と読み継いできて、バトラーはアメリカ人としては珍しい私のお気に入りの思想家である(ハンナ・アーレントもお気に入りだが、彼女をアメリカ人と呼んでいいのかどうか)。 『権力の心的な生』には「主体化=服従化に関する諸理論」という副題が付けられていて、ヘーゲル、ニーチェ、フロイト、フーコー、アルチュセールを引き合いに出しつつ、「人間はいつ、どのように主体となるのか」という主題を「主体化の心的機制」を明らかにすることで論じる、というのだ。およその論旨は理解できないこともない。だが、徹底的に哲学なのだ。話が細かい、くどい。 バトラーが哲学の徒であることを知らないわけではないが、『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』を除けば、現実の政治状況へ発言する思想家のイメージが強い。そのようなバトラーを私は気に入っていたのだ。 哲学とはそういうものだろうと思うものの、読了後の感想をどうまとめていいか、見当が付かないのだ。全体の理路はある程度まで理解できていると思う。しかし、力点、ポイントというのが見えてこない。まとめに取りかかりようがないのだ。他の本も読んでいるのだが、この本で引っかかって、ブログが更新できない。4日ほど前、別の本の書評を書けばよいと気づいてナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』を片付けたが、やはり気分は晴れない。やはり、何とかしたいと思っている。そして何よりも、その後に読んだ何冊ものまとめが残されているのだ。 さて、それでもデモはデモで、暮らしの時間割では読書とは別枠である。先々週の日曜デモは、出発前にリタイア、先週は遠出のため不参加。体調万全の今日は張り切って家を出た。歩いても十分に間に合うのだが、うまい具合にバスがやってきたので乗り込んだ。それが失敗の始まり。 渋滞でバスの中で午後6時が過ぎてしまった。6時15分にやっと辿り着いたが誰もいない。Twitterを検索したら、集会場所は錦町公園だった。勾当台公園に来てしまったのだ。そう言えば、出かける前に集会場所を確認した記憶がない。 錦町公園の夕暮れ。 (2013/7/12 18:19) 勾当台公園にほど近い錦町公園に着くと、宮城県もまた被爆地であって、そんな場所で子どもを育てるしかないことに憤っているスピーチの最中だった。そんな自分たちの子どもと同じように、ウラン採掘現場に近いアボリジニーの子どもたち、さまざまな危険にさらされている世界中の子どもたちへのシンパシーをベースにした闘いを、という名スピーチである。 勾当台通り(東二番丁通)を横断。 (2013/7/12 18:51) ときおり小雨がぱらついていたが、その雨も止んでいて、デモに出発する。錦町公園からは定禅寺通りを西に向かって歩く。顔上げて街を行くとも屈辱のごとく雲垂る西空が見ゆ 道浦母都子 [1] 同じ時代を見てきたが、私は道浦母都子のように激しく権力と闘ったわけではない。それでもやはり、デモの中にいると上の歌のような感情のフラッシュバックに驚くことがある。夕暮れ時の感傷には、そういう心性も含まれているのだろう。油断していて、感傷にずぶずぶになるのは嫌だ。そんなときには、金子兜太の句がふさわしい。ほこりつぽい抒情とか灯を積む彼方の街 金子兜太 [2] 雨の予報でアーケードの屋根が。 (2013/7/12 19:06) 一番町に入って写真を撮ってみると、何か雰囲気が違う。一番町に天井がある。雨天時に閉じる形式のアーケードになっているのだ。コーラーの声もシュプレッヒコールも反響していつもと違う。残響があって、いくぶん聞き取りにくい。 いつのまにか「三社まつり」なるものが。 (2013/7/12 19:11) 広瀬通を越えると、「和霊神社」という垂れ幕が沢山ぶら下がっている。和霊神社がどこにあるか知らないが、祭礼でもあるのだろう。もう少し進むと、「一番町三社まつり」なる横断幕がある。野中神社、和霊神社、えびす神社の祭礼ということだ。 野中神社だけは知っている。一番町にはほかにも小さな神社があることは知っているものの、名前との対応がつかない。なによりも、34回目という「一番町三社まつり」があることを初めて知った。こんな仙台市民もいるのである。 雨に降られず、デモは終った。来週も集会場所は錦町公園だというアナウンスを確認して、バス停に急いだ。[1] 『道浦母都子全歌集』(河出書房新社 2005年)p. 121。[2] 『金子兜太集 第一巻』(筑摩書房平成14年)p. 35。
2013.07.12
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