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梅雨が明けて、数日は猛暑が続いている。梅雨明けのちょうどその頃に3日ほど寝込んだ。私としてはしばらくぶりの風邪だが、喉が痛くなってから熱が出るという珍しいパターンだった。 梅雨明けの猛暑に発熱が同期するというなんとも間の悪い数日を過ごして、カンカン照りの日中に自宅から錦町公園まで歩いて行くのである。いくぶんうんざりとした気分で歩き出して5分ほどで携帯電話を忘れたことに気付く。うんざりが少し強まって、家まで戻った。 出直して3分ほど、汗を拭こうとしたらハンカチがない。暑い日なのでタオル地のハンカチにしようと用意して、最初に使った洗面所に忘れていた。家の近所をうろうろしただけで、なにか疲労困憊の趣である。集会@錦町公園。(2016/7/31 14:10~14:26) 集会に間に合うように家を出たつもりが、近所を行ったり来たりで時間を浪費したので遅刻である。木陰に集まって集会が始まっていた。こんなに暑いのに、いつものように集まっている。 主催者挨拶はすでに終わっていて、女性ネットみやぎが7月24日に開いた「 4周年のつどい」の報告からスピーチを聞いた。独協医科大学准教授・木村真三さんの放射線被ばくに関する貴重なお話について語られていた。 毎週の金デモでは、「1mSv/y以下の環境で教育を!」と訴える『ふくしま子ども脱被ばく裁判』の横断幕が掲げられているが、その話題のスピーチが続いた。 この秋に200回目の「脱原発みやぎ金曜デモ」を迎えるが、その記念デモでレ・ミゼラブルで歌われた「民衆の歌」を参加者全員で歌いませんかという提案がなされた。 昨年の8月30日、安保法制に反対する「8・30国会10万人・全国100万人大行動」があって、私も国会議事堂前に行った。憲政記念館入り口の路上で、自由の森学園の高校生たちが「民衆の歌」を合唱していた。カメラの列が取り囲んでいてあまり近くによることができなかったが、その場の気分に合っていてとてもいい歌だと私にも思えた記憶がある。機動隊の規制線が決壊して、国会前の広い車道が広大な集会場になった日のことである。 最後に、戦後70年の私たちの政治への発言や主張の不足が現在の政治状況を作り出していること、マスコミジャーナリズムのあり方への批判などのスピーチがあった。 錦町公園を出発。(2016/7/31 14:32~14:34) 定禅寺通り。(2016/7/31 14:40~14:45) 錦町公園の木陰を辿り、ケヤキ並木が日陰をつくる定禅寺通りに出る。とはいうものの、交差点では強い陽射しの中に出ていくしかない。 定禅寺通りと国道4号(大通り)の交差点でデモを待っている間、ペットボトルのお茶を大量に飲んだ。いつもザックにはペットボトルが入っているのだがめったに飲むことはない。今日はさすがに水分を補給しないとまずいと思いながらお茶を飲むのだが、冷たいビールのことばかり考えていた。一番町に入って。(2016/7/31 14:49~14:52) 夏休みの日曜日、一番町は「人でごった返している」と言いたいほどだった。一番町を通り過ぎながら、ビールを一杯だけ飲める店を探している自分に気が付いた。ところが適当な店が見つからないのである。 40歳で胃を切除した私はそれから10年近く炭酸飲料を飲まなかった。ある年の夏のウイーンで、国際会議をさぼってぶらついていた真昼にレストランで飲んだ一杯からふたたび私の暮らしの中にビールが復活したのだが、しかし、仙台の真昼、ビールを一杯だけ飲むために立ち寄れる店を私は知らない。真昼に開いている飲み屋は少ない。日本のレストランや料理店でビールだけ注文するのは理論的には可能だろうが実践的には私にはとてもできない。 「ビール200円」という看板を見つけたが、「ラーメンを注文した人」という条件が付いていた。広瀬通りから青葉通りへ。(2016/7/31 14:56~14:59)青葉通り。(2016/7/31 15:07~15:10) けっして冷たいビールのことばかり考えてデモを歩いていたばかりではないと言いたいところだが、喉のあたりを中心に体がそれを止めないのだ。 ペットボトルのお茶では決して癒されない渇きというものがある、などと大きな声で言ってみたい(何日後かにこのブログを読む妻からの反撃は必至だが)。 家に帰り着いて飲む一杯の冷たいビールのために渇きを我慢するという若さはもうないので、また、ぬるいペットボトルのお茶を飲んで今日のデモの終わりとなった。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2016.07.31
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午前3時半ごろ目覚めて、床に入ったままスマホで高江のニュースを見る。高江の人びとに振るわれる機動隊の暴力が生々しく映し出される。マスコミのニュースサイトではない。SNSを通じて流れてくる映像だ。 小さなスマホの画面から憤りが伝わってくる。高江から遠く隔たった仙台のまだ暗い部屋の中で横たわっている私の胃の腑がぎゅっと縮こまって行くようだ。どうしたものかと思ってはみるが、さしあたって何もできない。 今日一日は、犬と30分ほどの散歩をして、それから1時間ほど一人で歩く。カメラを持って出かけるが、たぶん今日も写したいと思うものは見つからないだろう。 朝食を終えたら、入院中の義母に付き添っている妻の三食分の食事を用意して、病院に出かける。急いで帰宅して、息子との二人分の昼食を作り終えれば少し休息できる。夕方まで本でも読もうか。 犬の夕方の散歩をすまして金デモに出かける。家を出るとき、家に帰りついてから夕食を作るのが嫌だなあ、と思ったりするだろう。 朝、床のなかで想像したそのままの時間を過ごして、元鍛冶丁公園にたどり着く。金デモの常連の一人が3ヶ月ほど前に辺野古に行ったのだが、そのとき高江にも行ったという。 高江は「牡鹿半島の先の方の集落のような小さな村ですよ」と説明してくれて、それに頷いたものの、宮城県で70年生きてきた私は、じつのところ、牡鹿半島の先の方にはまだ行ったことがないのだった。 集会@元鍛冶丁公園。(2016/7/22 18:40~18:59) 何も考えず、半そでシャツのままデモに出かけてきたが、少しならず寒い。見渡せば、半そでの人は少ない。ほとんどが長袖シャツである。私と違って、たいていの人は気温に合わせて服装を選んでいるのがよくわかる。何を着ていいのかわからなくなってひとしきり妻に嘲笑されるのが、季節の変わり目の恒例になっている私とは大違いのようだ。 遠く県北からしばらくぶりで参加された方が、原発慎重派の候補者が勝った鹿児島の県知事選挙に触れて、宮城県でも選挙で脱原発へと動かしていけたら、と挨拶された。 また、先週に続いて、「女性ネットみやぎ 4周年のつどい」が7月24日(日)13:30~16:00、仙台弁護士会館4Fホールで開催する『原発事故、チェルノブイリ30年、福島5年の真実』(独協医科大学准教授・木村真三さん)の講演会の案内があった。 「大MAGROCK vol.9」に参加された二人の報告もあった。7月16、17日の両日にわたってロック・フェスティバルと大間原発反対現地集会が開催された。北海道から多く参加されていたのが印象的だったという。 函館市は津軽海峡を挟んでいても大間原発から30km圏内に位置していて、市が自治体として大間原発建設差し止めの訴訟を起こしている。現在は、自治体に訴訟資格があるかどうか入り口で争われている段階だと報告された。函館市としての参加はなかったものの、市民ばかりではなく市議会議員も参加されていて、ほかに泊原発の反対運動に関わっている人たちも参加されていたということだった。 大間原発の建設に反対して立ち退きを拒否している「あさこはうす」を訪問した報告もあった。そこには伊方原発反対運動に関わっている人たちも訪れていて、大間は全国的な脱原発の交流の場となっていた様子がうかがわれた。 今日も最後に司会者から私への質問の時間があった。集会の時間が余りそうになった時の時間稼ぎである。 福島第一原発をチェルノブイリ原発のように石棺で覆うという報道があったがどう思うかというものだった。地下で汚染水がダダ漏れなのに地上を密閉しても意味がないだろう。それに、石棺化はあの地に核燃料と放射化した原子炉がそのままそっくり残ることを意味しており、復興を願っている福島県民としては精神的に耐え難いだろう。かといって、メルトダウンした原発を解体処理して更地にする技術はいまの日本には存在しない。石棺化も解体廃炉も当面は無理だろうと答えた。 司会者は、暗い結論になりましたねと締めくくったが、だから脱原発しかないのだと答えた(これは心の中で)。 元鍛冶丁公園からから一番町へ。(2016/7/22 19:01~19:03) 元鍛冶丁公園から一番町まで出る道はそんなに長くはないけれども、国分町や稲荷小路を横切る狭い道なので、大勢の通行人はデモの列のすぐ間近を歩くので、いやでもデモの注目度は高くなる。 デモには悪くない道なのだが、通行人が大写しになるので写真選びが難しい。 一番町(広瀬通りへ)。(2016/7/22 19:06~19:10) デモの列に前後して写真を撮りながら、一枚の写真を思い浮かべていた。ジル・キャロンの《サン=ジャック通りで舗石を投げる人、1968年5月6日》 [1] と題する写真である。 6月の末に東京都美術館で開かれている『ポンピドゥー・センター傑作展』で見た一枚だ。その美術展では、1906年から1977年まで1年に1作品だけを当てて選んだ作品が展示されていて、その写真はタイトル通り1968年の作品として展示されていた。 1968年のカルチェ・ラタンの一シーンで、砕いた敷石を投げる一人の青年の後ろ姿が写っている。空中に浮かぶように写しとられた石礫の先に壁のように並ぶ黒ずくめの警官が立っている。弾圧する国家権力への激しくも切ない一投の瞬間である。 機動隊に押しつぶされ、暴力をもって排除されている沖縄・高江の人びとの一投はいったい何だろうと考えてみる。言葉だろうか、眼差しだろうか。あるいは生身の身体そのものだろうか。 才能があれば、その場でこのような一枚を撮ってみたい。ジル・キャロンの写真を見た一瞬、そんなことを思ったのだが、いったい石を投げる人間になりたいのか、それを写しとる人間になりたいのか、この年になるまで分かっていないことに気づくばかりだった。 一番町(青葉通りへ)。(2016/7/22 19:12~19:17) 青葉通り。(2016/7/22 19:20~19:30) デモはいつものようにとても元気に進み、青葉通りに入る。国道4号の大通りを越えれば、もう解散地点である。沖縄・高江の映像がもたらす感情をうまく処理しきれないままに歩いていたが、コールをあげていると少しは気分が和らぐのだった。 どのような組織、セクトにも属していない私は、いつでもただの一人としてデモに参加している。そんな私でも、この社会で生きていくからには多くの組織、集団に帰属することになる。かといって、けっして私が帰属するものを無条件に愛するなどということはない。おそらくは、私はもともと帰属意識が希薄なのである。マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや 寺山修司 [2] 若いころからしばしば寺山修司のこの歌を思い浮かべて、「愛するに足る祖国であるか」、「愛するに足る〇〇であるか」という設問を立てていた。日本で生まれたという単純な事実のみで無媒介に祖国愛とか愛国心に突き進む心性がいかに歴史を誤ったかはあまりにも明白なので、寺山修司のこの歌でみずからが帰属するものから少し身を引き、踏みとどまるのはけっして悪いことではないと思ってきた。 しかし、日本の政治権力が警察という国家暴力装置を駆使して沖縄の辺野古や高江で行っている大衆意思の圧殺の時代を生きていると、寺山の歌をさらに突き詰めて考えざるを得ないだろう。 こんな歌がある。初夏愕然として心にはわが祖國すでに無し。このおびただしき蛾 塚本邦雄 [3] [1] 『ポンピドゥー・センター傑作展 ―ピカソ、マティス、デュシャンからクリストまで―』(朝日新聞社、2016年)p. 163。[2] 寺山修司短歌集(鵜沢梢選)『万華鏡』(北星堂書店 2008年) p. 72。[3] 『現代歌人文庫 塚本邦雄歌集』(国文社 1988年)p.45。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2016.07.22
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「すべての日本人が選挙前にそのことを理解することができれば、少なくとも福島事故をめぐる政治的問題は一挙に解決するのだが、ずっと目を閉じ、声を聴かないままでいたいと思っている人間も多いのだろう。状況の閉塞感(というよりも激しい後退感)に気づいていない人々が……。」 福島の放射能汚染と被曝のことを考えていて、先週のブログは上のような言葉で締めくくった。その参議院選挙が終わった。野党統一候補の擁立が成功して、大敗した先の参議院選挙に比べれば野党側が大きく盛り返したが、それでも与党は3分の2近い議席を占めることになった。先週の私の書いた言葉は、そのとおりに私の心に残ったままである。 事前予測もあって全体の選挙結果にはそんなに驚きも落胆もしなかったが、沖縄と福島で野党統一候補が勝利し、自公政権の現役大臣を倒したということはきわめて象徴的な〈事件〉だと受け止めた。 福島は、東電第一原発事故の放射能によって汚染された郷土や県民の被爆に対する政府の施策は「棄民政策」と呼ぶに等しいものであり、沖縄は日本の安全保障政策として強制された基地の犠牲者となるべくこちらは歴史的に「棄民政策」の対象であり続けた。 政府も自らの棄民政策の意味を自覚しているがゆえに、その無能さにもかかわらず沖縄、福島の改選議員を閣僚に任命し、優位に選挙戦を戦えるようにしたはずなのである。しかし、沖縄と福島の人びとには、そんな政権の意図を凌駕するように政府権力を拒否する以外の選択肢がなかったのだ。 新潟を含めて東北、北海道にかぎって選挙結果を見れば、10議席中8議席を野党が占めた。この結果もまた、歴史的にはアウタルキー(自給自足)経済のための植民地代わりの食糧生産地だけの〈辺境〉としてのみ中央政府から扱われてきた [1] にもかかわらず、政府の進めるTPPがその食糧生産地の意味をも奪い取ろうとしていることへの反抗として顕現したものだろう。 このように地域を限って選挙結果を見れば、全体の結果と大きく異なってしまうのは、文字通り、政治的・経済的地域格差そのものを直接的に象徴しているに違いない。こうした事態への選挙民の自覚がどのように変化して行くのか、私には予想しかねるが、まったく反対の結果となった西日本では地域格差、政治格差は東北・沖縄とは異なるだろうが、経済格差そのものはまったく同じように拡大しているはずだ。子どもの貧困、保育所問題(労働環境の性差)、高齢者の困窮化などから逃れられている地域はない。彼らは何を見、そしてどこへ行くのだろう。 集会@元鍛冶丁公園。(2016/7/15 18:36~19:05) 梅雨らしい日が続いているが、今日は何とか持ちこたえている。選挙が終わって人が戻ってきたせいか、元鍛冶丁公園への集まりは順調のように見える。 先週は公園入口の車止めのカギを借り忘れて、脱原発カーは公園の外で待機していたが、今日は無事に公園内に入っている。 フリー・スピーチ。(2016/7/15 18:36~19:05) 挨拶に立った主催者が鹿児島知事選挙の結果に触れたとたんに大拍手である。原発推進派の現職知事を倒して、原発慎重派の三反園訓さんが当選した。「私は原発のない社会をつくろうと一貫して訴えている。(川内)原発をいったん停止して再検査し、活断層の調査をすべきだ」(7月11日付朝日新聞)と主張していて、期待をこめて見まもることにしよう。 「女性ネットみやぎ 4周年のつどい」の告知からフリー・スピーチは始まった。7月24日(日)13:30~16:00に、仙台弁護士会館4Fホールで『原発事故、チェルノブイリ30年、福島5年の真実』と題する独協医科大学准教授・木村真三さんの講演会が開催される。 福島原発事故に対する原発メーカー三社の製造者責任を求める訴訟の判決公判(7月13日)の傍聴報告もあった。国内外の3800人あまりの原告が「原発事故の賠償責任を電力会社のみに負わせている今の制度は原発のメーカーを不当に守るものだ」と東芝と日立、GEの3社に賠償を求める訴えに対して、東京地裁は「立法の裁量内のことで、電力会社のみに賠償責任を求める制度は合理的」として訴えを退けた。企業の社会的責任まったく問題視しない判決で、当然ながら原告側は控訴するとしている。 また、「脱原発」のカーステッカーを大いに利用しましょうという呼びかけもあった。 いつもより参加者が多いと感じていた(55人が集まっていた)が、なかには川越市から南三陸町へ漁業ボランティアに向かうご夫妻がたまたま公園前を通りかかって参加されたと挨拶に立たれた。川越の地元では数か月に一度という割合で脱原発デモが開かれているという。「帰ったら仙台では毎週デモをやっていると報告したい」と話をしめくくられた。 また、明日、明後日の二日間開催される「大MAGROCK vol.9」に参加されるため大阪から青森県大間に向かっているという二人の女性も挨拶された。 最後に「みやぎ脱原発・風の会」が主催する8回目の公開学習会の案内があった。 最近、集会の時間が余りそうになると司会者が放射能に関する質問を私に振るのでそれなりに答えていたら、それをまとめてやってほしいと先々週のデモの時に話があって、先週には日時が決まり、今週には内容が決まっているととんとんと進んでしまい、つまりは私が講師役である。 たしかに、私は原子核工学科に修士課程まで在籍していたし、放射線取扱主任者(第1種)の資格もあって一時は職場の放射線作業の安全管理業務を引き受けていたこともある。しかし、金デモに参加していていつも思っていたことは、参加者の多くが原発問題をとてもよく勉強されていて、今さら私が何か言わなければならないことなどまったくないなあ、ということだった。一生懸命デモに専念していればいいのだと、うかつにも安心しきっていたのだが、こういうことになってしまった。 さて、退職後ほとんど使うことのなかったノートパソコンを引っ張り出すことから始めなければならない。 最後の最後、また司会者に呼び出されて「ベクレル」の定義について話した。ついでだったので、放射性物質が飛散する際の形態、サイズなどの話をして、原発事故後にマスコミで流された「プルトニウムやウラニウムは重い原子なので遠くまで飛ばない」というのは科学的無知のなせる嘘っぱちであることまで話した(これはとくに聞かれなかったのだが)。 元鍛冶丁公園からから一番町へ。(2016/7/15 17:09~11) 元鍛冶丁公園から一番町へ向かう時はいつものことだが、国分町や稲荷小路の夜の飲食店街(歓楽街というほど淫靡ではない)の雰囲気とデモの雰囲気を重ね合わせた写真を撮りたいと思うのだが、いつも「思い」だけで終わる。 『深夜食堂』というテレビドラマがあって、そのタイトルバックはJR高架の下を通って新宿歌舞伎町の光り輝くようなネオンの街並みを流れるように車上から撮影しているのだが、その露出オーバー気味の歓楽街の風景がとても気に入っていた。 ところが、自分で撮った写真ではややアンダー気味の方がよく見えてしまって、混乱している。動画と静止画の違いがあるのかもしれない。 一番町に出て広瀬通りへ。(2016/7/15 19:12~14)広瀬通り交差点前後。(2016/7/15 19:18) 参院選の結果は、SNS上の多くの知人、友人を落胆させたようだが、多くの人はめげずに先を見ているようで「諦めない。未来は変えられる」というような意味のことを発信する人が多かった。 投票日の夜、テレビを消して開票速報は見ないで過ごした。台所の小さなワンセグテレビの情報を妻がときどき伝えてくれるが、私は本を読んで時間をやり過ごしていた。スラヴォイ・ジジェクの『事件!』 [2] を読み終えたばかりだったが、ラカン派のジジェクが歴史における〈事件〉をラカン流の精神分析を引き合いに出して論じている部分は少し面倒くさくて斜めに読み飛ばしていたのだが、正確に言えば、その部分の読み直しをしたのだ。 本は丁寧に読むべきである。その部分に「未来は変えられる」ではなく「過去の事件は変えられる」と主張されていた。そうだ。歴史とはそういうものだ。過去に起きた事実は変えられないけれど、それがどんな〈事件〉であったかは未来が決めるのだ。アルゼンチンの作家ホルへ・ルイス・ボルへスは、カフカとその先行者たち(古代中国の作家からロバート・ブラウニングまで)との関係について的確にこう述べている。「カフカの特異性は、程度の差はあれ、これらの著作すべてに見られる。だがもしカフカが書かなかったら、われわれはそれに気づかないだろう。つまり、それは存在しなかっただろう。〔……〕すべての作家は先行者を創造する。彼の作品はわれわれの過去の概念を変え、同様に未来を変える」(ボルヘス『続審問』、中村健二訳、岩波文庫、二〇〇九、一九一~二頁)。 (pp. 151) つまり、こうだ。今日この日から先の未来に向けて、誰かが(あるいは大勢が)行動を起こし、ある政治的な事実を生み出すだろう。その未来の事実が、この参院選の結果の歴史的〈事件〉性を決定する。 沖縄と福島で自公政権を拒否しえたことが歴史の〈事件〉だったのか、東北、北海道の「辺境」で野党が8勝2敗だったことが〈事件〉だったのか、それとも安部政権が両院において3分の2の勢力を手に入れたことが歴史的〈事件〉だったのか。それは未来が決定するのだ。 もう少し七面倒くさい哲学風にこのようにも述べている。 しかし、この過去そのものを(再)構成する身ぶりの遡及性はどうだろうか。本物の行為とは何かについての最も簡潔な定義はこうだ――われわれは日常的な活動においては、自分のアイデンティティの(ヴァーチャルで幻想的な)座標に従っているだけだが、本来の行為は、現実の運動がヴァーチャルなものそれ自体、つまりその担い手の存在の「超越的な」座標を(遡及的に)変えるという逆説である。フロイトに従えば、それは世界の現実性を変えるだけでなく、「その地下をも動かす」。われわれはいわば反射的に、「条件を、それが条件であった所与の物に戻す」。純粋な過去はわれわれの行為の超越的条件であるが、われわれの行為は新たな現実を生み出すだけでなく、遡及的にこの条件それ自体を変える。弁証法的発展の中で事物は「それ自体になる」というヘーゲルの言葉はそのように解釈すべきだ。たんに時間的展開が、あらかじめ存在した前存在的・無時間的な概念構造を現実化するにすぎないというのではない。この無時間的な概念構造それ自体が、偶然的な時間的決定の結果なのである。 (pp. 153-4) だからこそ、次のようなイラン革命の不思議を理解できようというものだ。独裁政権がその最後の危機・崩壊を迎えようとしているとき、たいていは次のような二つの段階を辿る。実際の放下に先立って、不思議な分裂が起きる。突然、人びとはゲームが終わったことに気づく。彼らはもう恐れない。政権がその合法性を失っただけでなく、その権力行使そのものが狼狽した無能な反応に見えてくる。一九七九年のイラン革命の古典的な解説である『シャーの中のシャー』で、リュザルド・カプチンスキーはこの革命が起きた正確な瞬間を突き止めている。テヘランのある交差点で、ひとりでデモンストレーションをしていた男が、警官に立ち退けと怒鳴られたにもかかわらず、動こうとしなかったので、警官は黙って引き下がった。この話はほんの 一、二時間のうちにテヘラン全市に伝わり、その後数週間にわたって市街戦が続いたものの、すでに決着がついたことを誰もが知っていた。 (pp. 158-9) 福島と沖縄における自公政権の拒絶がテヘランの「一人でデモンストレーションをしていた男」の拒絶と同等の〈事件〉となるかどうかは、私たちの行動の未来が決定するのだ。 ジジェクを見直した。面白いけれども哲学的饒舌を持て余していたのだが、これからは歴史・政治・哲学をめぐる彼の論説をいくらかはわが身の行動と思考に重ね合わせて読むことできるかもしれない。そんなことを、投票日の日付が変わった頃に思っていた。 一番町を青葉通りへ。(2016/7/15 19:23、24) 青葉通り(一番町、国道4号、仙都会館前)。(2016/7/15 19:25~19:33) ここ数日、仙台の夕方は涼しい。半そでシャツではいくぶん寒いのではないかと思えるほどである。歩いていても汗をかくほどではなく、夜だけれども「デモ日和」と呼びたいほどである。もう少し湿度は低ければ完璧である。 40人のデモが55人になると、写真の「写しごたえ」がどっと上がる。どんな写真を撮っても、写しきれていないという余剰感がぐっと増えるのだ。楽しみが増えるといってもいい。 [1] 赤坂憲雄、小熊英二(編著)『辺境から始まる 東京/東北論』(明石書店、2012年)。[2] スラヴォイ・ジジェク(鈴木晶訳)『事件! ――哲学とは何か』(河出書房新社、2015年)。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2016.07.15
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「私らのような年寄りは良い。子どもだけでも、この値(年20mSv)から外して欲しい。子どもには選択権が無いんです。大人に従うしかない。自分で決めることが出来ないんですよ。人権侵害ですよ」 会場から拍手が起こる。原田さんの怒りは、国に反論できない町教委にも向けられた。 「なぜ教育者から反対意見が出なかったのか。情けない」 壇上には町役場の職員がずらりと並んだが、誰も反論することは出来なかった。馬場有町長は腕を組み、じっと聞き入っていた。 「民の声新聞(7月3日)」から抜粋 明後日に投票日を控えた参議院選挙のための激しい選挙運動のニュースが流れる中、7月1日に開かれた福島県浪江町の住民懇談会の様子が「民の声新聞」に掲載された。政府が2017年3月に避難指示を解除する方針であることを受けて、開かれたものだ。 政府側は、ICRP(国際防護委員会)の指針を盾に全く住民の意見に耳を貸さない頑なな姿勢を崩さない。そんな「懇談」の様子が詳細に報じられている。ICRPは、もともと原子力を利用したい国々によって設立された国際機関であって、その指針には原子力を推進したいという国家意思のバイアスがかかっている。 このように明らかに政治的バイアスがかかった機関の見解を全面的に施策の根拠とするのは、政府が再稼働をするとき原子力規制委員会の判断を根拠にすることとその構図はまったく同じである。規制委員会の委員は、政府の都合に合わせてくれる専門家を選んでいることは誰の目にも明らかで、政府の都合のいい結論を出すに決まっているのだ。 政治家も役人も自らの知見、見識によって政治的判断をする、行政的判断をするという形はけっして取らないのである。それは、それらの結果が大きな不始末となって終わっても全く責任を取らないことに繋がっていて、いつでもどこでも見られる日本社会の無責任な政治的構図にほかならない。 浪江町で住民の血を吐くような訴えが冷たい拒絶にあっているとき、世間で激しく争われている参議院選挙では、原発問題はほとんど争点になっていない。 河北新報(7月7日付) によれば、参院選宮城選挙区では「公示後の街頭演説や個人演説会では、両候補とも原発政策や女川原発再稼働についてほとんど触れず、選挙公報にも記述はない」のだ。記事には、上智大の中野晃一教授の「原発問題は国民の関心事なのに、接戦の1人区では立地地域や電力会社関係者などの反発を恐れて候補者は言及しなくなる。一種のカルテルのような状態だ。有権者の問題意識を候補者に直接伝えることが大切だ」という意見も紹介されている。 選挙投票日の直前の金デモのために、ある人が「原発も選挙の争点!」というプラカードを10枚ほど作ってきてくれた。脱原発を強く願う私たち有権者は、候補者ばかりではなく有権者としての市民に「原発も争点!」を直接伝えるために今日も街に出る。 集会@元鍛冶丁公園。(2016/7/8 18:39~18:56) 自宅を出て元鍛冶丁公園に着くまで折り畳み傘をザックから出そうかどうか迷う程度の小雨が降り続いていた。その雨も集会が始まるころにはすっかり上がった。 選挙で忙しくて金デモに参加できなくなっている人もいるというのに、しばらくぶりで参加する人が何人もいて、今日は45人が集まった。 主催者挨拶は、選挙がらみの内容は控えざるを得ないが、脱原発を標榜する候補者はだれなのか見極めてほしいというものだった。 続いて、脱原発市民会議の人から東北電力の大株主である仙台市の財務担当者との面談の報告があった。結論から言えば、門前払いに近い頑ななもので、自分が行っている業務が社会にもたらす意味に思いを及ぼすことのない役人の在り方に疑問が呈された。また、女川原発を再稼働させようと企む東北電力からの電力購入量を減らすためのさまざまな節電のアイデアが紹介された。 今年も「大MAGROCK」の季節になった。7月16~17日、大間原発敷地隣接共有地で「大MAGROCK vol.9」が開催されると案内があり、そのチラシも配られた。合わせて「第9回 大間原発反対現地集会」も開催される。 今年も参加されるという人から現地までのアクセスについての案内もあった。 元鍛冶丁公園からから一番町へ。(2016/7/8 19:00、02) ほぼ時間通りに45人のデモは元鍛冶丁公園を出発して、国分町や稲荷小路の飲食店街を横目に一番町に向かう。 元鍛冶丁公園を集会に使うことはけっこう多いので、脱原発デモはこの道を何度も通っている。それなのに、コールの声を聞きつけたのか、飲食店ビルから出てきて珍しそうにデモのコールを聴いている若い人が何人もいる。 飲食店の従業員なのか客なのかは見た目ではわからなかったが、このような街は当然ながら人の出入りは激しいのだろう。そうであれば、一番町と同じように繰り返し同じコースを歩いても、ここでも脱原発のコールを初めて聞く人はそこそこ多いに違いない。いいことだ。 一番町に出て広瀬通りへ。(2016/7/8 19:04~08) 気温は24、5度くらいだろうか。あまり高くはないのだが、湿度が高いせいか快適な夕間暮れというわけにはいかない。汗が流れ出るという実感がないけれども、下着がじっとりと湿ってくる。 そういえば、ここ1ヶ月ほど風邪をひいていない。季節に関係なく風邪をひいている私には珍しい。義母の入院や介護での忙しさが我が肉体の頽落を許さないということなのか。こんなことを書くと、いつもの風邪ひきは単に私がだらけているから、ということになってしまう(まあ、そうなのか)。 いつの間にか、汗をかいても気にしなくなる季節になっていた。自覚がないまま、世間は夏なのだった。 広瀬通り交差点前後。(2016/7/8 19:09~11) 福島事故から5年、10万人もの人が避難先で苦しみ、避難できなかった人も汚染の地で苦しんでいるとき、国の政策を争う選挙で事故原因の原発が争点にならない国とはどんな「美しい」国なのだろう。数十万人の人びとの暮らしや命を政治から除外する国とは……。 たしかに人々の苦しみを見ないことにすれば、「日本の風景」は美しいにちがいない。人の住めない土地の風景の美しさを日本人は誇っているのか? 日本の現実が見えないのか、見ようとしないのか、いずれにせよ見ることを欲しない日本人に「美しい日本」など見えるはずがないのである。いくら除染をしても放射能が高くては帰れない。ふるさとへ戻る。ふるさとへ戻らない。ふるさとへ帰るふるさとへ帰れない心は揺れる。ふるさとを捨てる。ふるさとに未練はある。ここで生まれここで育ったのだから。だが現実は甘くはない。〔中略〕望郷の唄が遠くから聴こえてくるあの唄は幻聴か?それとも涙唄か?幼い昔に聴いた唄だ。誰もいない野原に名もない花が咲いて。誰もいない野原に羽虫が飛んでいる。かつて町だった。かつて村だった。そこにその場所に。 根本昌幸「帰還断念」 [1] 一番町を青葉通りへ。(2016/7/8 19:12~16) 東二番町(国道4号)を渡る。(2016/7/8 19:22~23) 放射能をばらまいておいて「美しい日本」などとほざくのは、冗談どころかあまりにもたちの悪い言説である。誰がどの口で言っているのか? すべての日本人が選挙前にそのことを理解することができれば、少なくとも福島事故をめぐる政治的問題は一挙に解決するのだが、ずっと目を閉じ、声を聴かないままでいたいと思っている人間も多いのだろう。状況の閉塞感(というよりも激しい後退感)に気づいていない人々が……。 [1] 根本昌幸『詩集 荒野に立ちて ――わが浪江町』(コールサック社、2014年)pp. 78-81。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2016.07.08
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言葉が、日本語がとても貧しくなったと思うのは、単に私の言語の感受力が衰えたせいなのだとは思えない(思いたくないということなのだが)。 かつて、ある政治家が「警察は国家の暴力装置」と発言したら自民党が鬼の首を取ったかのように大騒ぎしたが、政治を志す者がごくごく一般的な政治学的用語を誤解している(知らない)ことはとくに気にならなかった。もともと、政治家にはそれほどの知性があるとは思っていなかったからだ。 それでも、ある時、日本の宰相が自分を批判する人間を「サヨク」と呼んでドヤ顔を見せたときには少しばかりあきれてしまった。その一言で批判し返したつもりなのだ。彼の中では、「サヨク」という言葉が「お前の母ちゃん、でべそ!」などという言葉と同レベルで整理されているらしいのだ。知性がどうのという以前の話だ。 いまは、参議院選挙の真っ最中だが、正しく政治の言葉を彼らと闘い合わせることは可能なのか。いや、論戦が不可能であっても、選挙には勝たねばならぬ、そうは思うのだ。そして、これが、こんなことがずっと若い時から私が政治家には絶対なりたくなかったと思っていた理由だと、いつもの選挙の時と同じように繰り返し思い出し、自己確認するばかりだ。 集会@勾当台公園野音。(2016/7/1 18:36~19:01) 先日の日曜昼デモも暑い日だったが、今日も暑い一日だった。まだ火照りが残る街を抜けて勾当台公園の野外音楽堂まで歩くことを思うとすこしばかりうんざりする気分だった。これからデモでたっぷりと街を歩くのに、その前段でうんざりしてしまうのはどういうことだ。デモを歩くことにはべつにうんざりしているわけではないのが変だ。 主催者挨拶は、熊本・大分大震災の震源地に連なる中央構造線のすぐそばにある伊方原発の再稼働の動きに触れ、熊本・大分大震災で観測された縦揺れの地震に対する原発の耐震性を規制委員会がまったく考慮していないのは極めて問題だと話された。また、7月10日の参議院選挙では原発問題が争点になっていないが、ぜひとも原発問題を考慮して投票してほしいという訴えもあった。 続いて、仙台市が行っている「伊達な節電所」というキャンペーンについての案内もあった。7月1日から来年の3月11日までの間、昨年より電気使用量の少ない月があったらメールや郵送で「電気使用量のお知らせ」のコピーを送れば抽選で景品がもらえるのだという。 東北電力の株主総会が6月28日に開かれ、その報告があった。脱原発東北電力株主の会が提案した「東北電力が所有する原発を再稼働させず、廃炉作業を開始する」、「原発で発生させた放射性物質を、原発の敷地内で厳重に管理する」、「核燃料再処理事業への投資を行なわない」、「高速増殖炉開発から撤退する」、「原発の事故に対して全責任を負う」という5項目は、残念ながらすべて否決された。そのうえ、「脱原発派に発言させるな」という主張までなされるようなきわめて悪意ある雰囲気の総会だったという。 東北電力の大株主である仙台市も、5項目提案に反対した。現在、大阪府や京都府などの自治体は電力会社の株主総会で将来的な脱原発依存を主張していることなどを考えると、福島の事故があっても市民や県民を原発事故の危険から守る意思を示さない宮城県や仙台市の態度は極めて問題があると強い批判がなされた。 また、原子力推進は右上がりの経済発展幻想に支えられているが、いまやいかなる経済先進国にあってもかつてのような経済発展はありえず、あっても現状維持、持続可能な経済を求めるしかない時代になっている。このような時代に強引に経済発展を望めば、中国のような深刻な公害を引き起こすか、日本のような原発事故に結びつくような経済運営になってしまう危険を訴えるスピーチもあった。 福島県と県境を接している丸森町での甲状腺検査の結果についての報告もあった。福島事故当時18歳以下だった対象者2323人のうち1982人が受診した2012年3月~2013年1月の検診では甲状腺がんやその疑いと診断された子供は1人もいなかったのだが、2015年7月~2016年4月にかけておこなわれた2回目の甲状腺エコー検査では1564人の受診者のうち2人が甲状腺がん及び疑いと診断されたという。 甲状腺がんの発生割合から言えば、172人の甲状腺がんの発生をみた福島県の事例に匹敵するが、丸森町は「原発事故が原因かどうかははっきりしない。今後の動向を見たい」と結果を深刻にとらえているということだった。この検査は、丸森町が独自に行っている事業で、宮城県の他の自治体では行われていまい。全県で行う必要があるのでないかという報告だった。 表小路から一番町へ。(2016/7/1 19:12~18) 今年は7月に入ってから夏時間デモ(午後6時半集合、7時デモ出発)になったので、集会が終わるころからデモ終了くらいまでの間に仙台は次第に日暮れていくのである。 夕焼け空を期待したが、青空のまましだいに暮れていくばかりだった。 一番町(定禅寺通り~広瀬通り)。(2016/7/1 19:19~23) 広瀬通りを渡る。(2016/7/1 19:27、28) 今、エンツォ・トラヴェルソの『全体主義』という本を読んでいる。新書版の本を図書館の書架で見つけ、フランスで全体主義に関するアンソロジーが刊行されたときの序文で、全体主義に関する議論のまとめのような本らしいことで借り出した。 「全体主義」という言葉は、多くの場合、共産主義国家を批判する際に多用されて来て、アベ首相の「サヨク」という言葉と同様に、「全体主義」と批判することで共産主義国家の歴史的、政治学的問題には一切踏み込むことなく思考停止してしまう役割を担わされた言葉でもある。 全体主義と括られる政治システムには、イタリアのファシズム、ドイツのナチズム、ロシアのスターリニズムがあって、その特質は必ずしも同じではない。アベ自公政権の現在の日本が直面しているのはファシズムだという人もいれば、ナチズムのやり方にそっくりだという人もいる。私には、民主主義を経験したことのない極東アジアの後進国特有の独裁制のようにも見えて、全体主義の括りから外れている部分もあるように思う。宮台真司のいう「田吾作」、大塚英志の言う「土人」 [1] の国ということだ。 今度の参議院、続く解散総選挙で現在の政権に勝たせたら、いつかの将来、アビズム(あるいはエイビズム)の(abe-ism:abism)の全体主義における位置づけ」だとか「アビズムとナチズムの差異」などという論考が政治学や歴史学の主題としてもてはやされるかもしれない(日本国民の大いなる犠牲の上にだが)。 いや、冗談を言っているわけではない。 一番町(広瀬通りから青葉通りへ)。(2016/7/1 19:29~35) 選挙応援のボランティア活動が忙しくなって金デモに参加できない常連もいる。それでも40人が集まった。40人というのは毎回確保できるギリギリの参加人数である。 なにかブレークスルーがあって、デモ参加者がどっと増えないかなあと思うのだが、とくにアイデアがあるわけではない。こんな時こそ知恵が出せればいいのだが、年寄りに知恵がないからこそこんな状態なのである。 ブレークスルーは、いつでも若い人とやってくる。そう信じて、若い人たちに任せて、私はひたすらデモの後をついていくばかりである。 青葉通り。(2016/7/1 19:40、43) 青葉通りまで来るとすっかり夜である。明から暗へ遷移していく時間帯をたっぷり使うデモは、とても贅沢である。日暮れ時、人を思い、街を思い、国を思ってゆったりと過ごせればどんなにかいいだろう。そんな時間を許したくないらしいこの国の政治家たちにこんな詩句を。何も約束してくれないモラリストの方がよい信じやすく 騙されやすい善よりは 抜けめのない善の方が好き軍服だの制服だのはない国の方がよい侵略する国よりは 侵略された祖国の方が好き常に疑問を抱いていたい整然とした地獄よりは 混沌とした地獄の方がましと思っている新聞の第一面よりは グリム童話の方が好き葉のない花よりは 花のない葉の方を好む尻尾をちょん切られた犬よりも 尻尾のある犬を好む ヴィスヴァ・シンボルスカ「可能性」 部分 [1] 信じやすく、騙されやすい犬、尻尾を切られた犬にはなりたくない。あいつらに尻尾を振るのは嫌だが、尻尾を振ってあの人には親愛の情だけは伝えたい。尻尾を切られてたまるか。[1] 大塚英志、宮台真司 『愚民社会』 (太田出版、2012年)。[2] ヴィスヴァ・シンボルスカ(つかだみちこ編訳)「世界現代詩文庫29 シンボルスカ詩集」(土曜美術社出版販売1999年)p.93。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2016.07.01
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