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経堂西通り「天ん洋」は、ここのところ連日トップニュースで報道されている中国製冷凍ギョーザによる中毒問題の製造元「天洋食品」(河北省)とは一切関係ございませんので、安心してお越しください。 小田急線経堂駅 徒歩3分 西通り沿い左側の白い看板が目印です。 電話 xxx-xxx-xxxxx とはいえ、 天洋食品が有機リン系薬物=メタミドホスの混入責任があると判明したわけでなし、 中国側が原因なのか、日本側の管理、或いは、何者かの悪意が存在したのか まだ一切は分からない。 天洋食品或いは中国側に何らかの問題があった可能性は50%以上と思うが、 日本の食品メーカーが作った商品が、米国で食中毒を引き起こしたからって、日本政府が何かコメントする問題なのかしら? しかも、まだ中国に問題があるって判明したわけですらないのに 中国、中国、オリンピックに影響必至とか、言いすぎだよな。
January 31, 2008
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一月往ぬる 二月逃げる 三月去る早いもので今年の一月が終わる。二月の東京は寒い日から始まるらしい。...「誰でも言いそうなこと書いてないで、早く風呂入って寝なさい!」「はーい」
January 31, 2008
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6階でエレベーターを待っていると、旅行鞄をもった先輩が一緒に並んだ。「お出かけですか」「うん。ちょっと大阪まで。帰りは明日の夜だな。」7階まで行った箱が下りてきて、先客が一人居るところへ、私達も乗り込む。エレベーターが止まり、7階で乗ってきたのであろう若いのが降りて、私達もあとに続いた。ところが、想像していたのと景色がどうも違う。気がつくと、そこは2階でまだ1階ではない。慌てて2人エレベーターにとって返して一息つくと、先輩が「つられるよなぁ。日本人は習い(並び?)百姓で...」とこちらを見て微笑まれた。その言葉を私は知らないが、おっしゃるところは分かった。私が事情あって会社を辞めると云ったとき、「ぬるま湯もいいもんでっせ」とめがねの奥で目が光った先輩。「それでは」エレベーターを降りて、お別れを告げた。習い(並び)サラリーマンたることを潔しとせず、今日でこの会社ともお別れだ。次の仕事は、まだ分からない。とりあえず、会社はしばらく嘱託扱いにしてくれる。落ち着いたら、先輩にお尋ねしよう。「習い百姓」か「並び百姓」か赤信号で、誰かが信号が変わらないのに渡り始めると、皆釣られて渡り始めるみたいなもの。ともすると、差別用語とか言われかねないこのごろだが、味わいのある表現だと感じた。
January 30, 2008
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経堂は、烏山川(用水)の南北それぞれの法面に発達した町だ。古い地図を見ると、経堂が世田谷の真中に突き刺さっているようだ。(北の宮坂も、南の桜、桜丘も、元の町名は世田谷)北の境が瀧坂道の新道(すずらん通りー本町通り)南の境が六郷田無道経堂駅は、経堂全体からみれば、かなり東側にある。古い地名が載った地図(江戸時代中期)を見ると、ほぼ経堂一、三、四、五丁目烏山川沿いが豊後田一丁目と二丁目1-8までが経堂本村二丁目の残りが山谷三丁目の北西が鍛治山三丁目の鍛治山、豊後田以外の真中を東西に走るのが石仏耕地四丁目の豊後田以外、南側が菅刈谷戸五丁目の豊後田以外、南側が向原となっている。1927年に駅がつくられたとき、中央部石仏公園あたりではなく、町の東側になったのは、村の中心部がその場所だったからだろう。瀧坂道の新道と、旧道の間。福昌寺の門前町が、今の農大通りあたり。町(村)内で、烏山川を渡る橋が何箇所か。一番大きな橋は、農大通りにかかっていた「大橋」以前、城山通りの交差点は経堂大橋と言っていたと記憶があるが、今は経堂駅入口烏山川が暗渠になり橋がなくなってからもかなりの間経堂大橋だった。次の橋が中村橋。地理的に村の中心部ということか?このあたり中村さんという姓の方が多い少し時代が下ると、村内の地名も変化してきた(江戸後期ー明治ー大正)。地名が細かく分かれたのは、人が増えたことでもある。経堂の村が、世田谷村の中に突き刺さった形になっていることは、経堂が世田谷に飲み込まれなかったことを示す。その理由は、おそらく瀧坂道と烏山川の流れ。瀧坂道は、甲州街道開通後も、江戸と府中、八王子、甲府を結ぶ交通の要路。烏山川は、ときに氾濫もあるけれど、玉川上水から取水し田を潤す。水の無い台地上は農耕に適さず、烏山川流域の農業生産性は高い。台地の上は世田谷村だが、耕作に適した土地に人々は集まり、一つの村を形成した。それが経堂の始まり。福昌寺は松原氏が興したと伝わる。室町から戦国時代にかけての世田谷領主吉良家遺臣であろう。経堂村、江戸期最後の名主は長島氏。歴代には世田谷区長も。世田谷区の中央部に位置し、南北に主要街道を持つ、農業生産性の高い農村。それが経堂の原風景だった。
January 28, 2008
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宮坂から経堂にかけて、豪徳寺、常徳院、福昌寺と曹洞宗寺院が並び、旧世田谷村、経堂在家村は、曹洞宗の村ということができそうだ。もしやと思い調べてみると、このあたりで一番古い建武二年(1335年)世田谷領主吉良治家開基と伝わる吉良氏の菩提寺「桜」の勝光院が曹洞宗。もっとも創建当初は臨済宗で、1573年吉良氏朝が中興し興善山勝光院と改称、このとき曹洞宗に改宗したと伝わる。吉良氏が時の鎌倉公方から世田谷を拝領したのが1366年だが、吉良氏は北朝方にあって、南朝についた新田氏を滅ぼしたとあるから、正式拝領以前からこの地を実質支配していたものであろう。豪徳寺も吉良氏の開基(1480年)。こちらも当初は臨済宗、後曹洞宗に転じ(1584年)、その後伊井家菩提寺として整備された。目黒区の八雲に、同じく吉良家菩提寺とされる曹洞宗東光寺がある。1365年にこちらも臨済宗の寺院として吉良氏により建立(建立時は東岡寺)され、後に曹洞宗に転じている。臨済宗は、鎌倉時代、幕府の庇護の下、勢力を拡大した。別格南禅寺を含め、鎌倉、京都の五山に数えられる寺院は、全て臨済宗である。従って臨済宗の布教基盤は、守護大名を初めとした中央集権的なものであったのではなかろうか。応仁の乱を経て室町後期になると、それまでの守護大名に代わり、地方の土豪など有力者が戦国大名として台頭。守護大名など政権側の支持を受ける臨済宗に対し、曹洞宗はこれら地方の有力者、大衆の中に布教の基盤を置いていた。その中で、当時世田谷地域を支配していた吉良氏は、足利氏=源氏の流れをくむ名門。八代二百数十年に渡る支配が続いた吉良氏の世田谷所有は、南北朝時代に始まり、永和2年(1376)に吉良治家が世田谷の一部を自分の領地として鶴岡八幡宮に寄進した書状が残されている。世田谷所在の曹洞宗諸古寺が開基当初、臨済宗であったことは、吉良氏そのものが当時、中央集権体制の側にあったことを示す。臨済宗は、江戸中期の白隠慧鶴(はくいんえかく)禅師(1685~1768)を中興の祖と仰ぎ、それ以前に低迷期のあったことが伺われる。おそらくは、応仁の乱以後、足利幕府の中央集権体制が揺らぎ、体制とともにあった臨済宗は、中央集権体制の破綻とともに布教基盤を失い、低迷したものであろう。吉良氏設立の臨済宗諸寺院が曹洞宗へと変遷していったことは、このような社会情勢の中、吉良氏が足利幕府体制派から、世田谷を中心とする土豪勢力へと変化していったことと表裏をなす。小田原を本拠地とする北条氏(後北条氏、或いは、小田原北条氏)は、幕府体制下の一勢力たる古河公方とは敵対関係にあり、吉良氏は、世田谷土着後、2代にわたり北条氏から正室を迎え、実質その傘下に加わる。吉良氏の菩提寺勝光院は、川崎小机の雲松院から天永琳達禅師を招聘して再興したとあり、雲松院の開基は北条氏配下の笠原信為であるから、禅師招聘は、北条氏傘下土豪間の縁が関係している。1500年代後半、吉良氏は、同じ足利の流れをくむ駿河今川氏の分家である堀越氏から養子「氏朝」を迎え、当主とする。世田谷の諸寺が臨済宗から曹洞宗に改宗したのは、まさにこの時期。静岡県というところは曹洞宗の寺院が極めて多い土地だが、堀越氏の領地であった静岡県袋井市堀越にも、今川了俊の開基と伝わる古刹曹洞宗海蔵寺があり、今川=>堀越=>吉良の流れの中で、氏朝が吉良後継となる以前の段階で曹洞宗に帰依していた可能性がある。なお、弦巻の実相院も勝光院の末寺であり、天永琳達禅師の開基。1590年の豊臣秀吉による北条攻めの中で、世田谷城は北から攻め寄せた前田利家の前に開城。当主吉良氏朝はいったん逃れた後、世田谷に戻り江戸期にこの実相院に蟄居。墓もそこにある。 実相院豪徳寺から瀧坂道=経堂本通を西へ向い、常徳院は、1486年に室町幕府将軍足利義尚の開基(伝)。足利は当然に吉良つながりだ。福昌寺は玄甫和尚により17世紀初頭に開かれた。開基の松原弥右衛門は中国から帰化した医師で、世田谷吉良氏の遺臣ともいう。吉良氏による世田谷領有終了後の開基ではあるが、こちらも吉良との関係が深いようだ。塚戸十字路からやってくる千歳船橋の駅前通り=古道「六郷田無道」は、桜小学校南側から代官屋敷前の通りへ抜けて、世田谷通り円光院からきた道に突き当たる。桜小学校の南には、先に述べた曹洞宗実相院が置かれている。六郷田無道は、この突き当たりを南へ曲がり、向天神橋へ至る。向天神の南で蛇崩川を渡り、そこで蛇崩川南岸で道は左右(東西へ分かれる)。この分岐点にも、かつて曹洞宗寺院が置かれていた。その名を長徳寺。なぜかこの長徳寺。1559年に、吉良氏により、この場所から芝へ移転している。移転先の芝も当時吉良氏の領地。なお、長徳寺は、後に浄土真宗本願寺派へ改宗。1966年芝から再び世田谷に戻り、今は上北沢1-3-17にある。上北沢も同じく吉良領の一部であり、そのご縁だろう。長徳寺のあった分岐点を、すなわち、西へ向えば、桜新町。桜新町には、曹洞宗寺院善養寺がある。桜新町から南行すれば、深沢、等々力から多摩川べりへ。向天神南の分岐を六郷田無道で蛇崩川南法面を東に向かい(この部分は今でも道筋が辿れる)、上馬交差点の南側宗円寺ででふたたび南に転じる。宗円寺、これまた曹洞宗寺院。 宗円寺南行を続けた先は、上にご紹介の目黒区八雲「東光寺」。昔、この地は衾村といい、吉良氏の領地であった。実相院、勝光院、豪徳寺、常徳院、福昌寺と並ぶ曹洞宗寺院は、世田谷村から経堂在家村一帯が、吉良家の本拠地であったことの名残なのだ。
January 23, 2008
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経堂赤堤団地南のセブンイレブンのならびに、東京電力上北沢変電所がある。今の住所は、宮坂三丁目。江下山堀(上北沢自動車教習所から東風寮、経堂小などを流れる用水堀)など北沢川の支流が三本このあたりで合流し、さらに変電所の南側で北沢川本流に合流する。昭和40年代初頭の住所改訂前は上北沢一丁目だったのだろう。(桜上水は新しい地名で、以前は上北沢の一部)今は無人化で運用されているが、かつては、保守管理のため、担当者2家族が駐在していた。この変電所。何故この場所に、と思う人は少ないが、実は、京王電鉄、或いは、小田急電鉄と関係があるようだ。戦前のある時期まで、東京電力というのはなくて、電気は電気鉄道会社が配電していた。このあたりで一番最初に電灯がついたのは、今は桜上水団地となっている三井牧場。大正3年(1914年)のこと。電気は京王電鉄から供給された。小田急線の開通は昭和2年(1927年)。経堂の分譲地は、最初から電気が供給される街だった。経堂、世田谷(宮坂)は、無論小田急が、上北沢(一部桜上水)は、南側を小田急、北側を京王が電気を供給する分担となっていた。さて、その境はどこらだったのか?そして、東京電力上北沢変電所は、京王、小田急どちらの管轄だったのか?なんとなく、経堂の街はずれという感覚があるので小田急か?或いは、上北沢という地名からして京王だったのか?最近同じようなことがケーブルテレビで起こった小田急グループのケーブルテレビOCVは、経堂、宮坂など小田急沿線と、桜上水一丁目までが守備範囲、それ以外の桜上水は、調布CATVから伸びてきたJCOMが、ようやくカバーするようになったが、近年小田急のケーブルテレビもJCOMの統一ブランドに加わった。歴史は繰り返す。
January 22, 2008
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朝8時「寒いねぇ。会社行くの嫌だなぁ。もう一枚」「そんなに着たら、電車の中で茹っちゃうよ!」9時「あれー?そのロッカー、コートとマフラー入れたらもういっぱいじゃないですかぁ」「うっせぇ。寒いんだ。寒いの!」18時「一杯飲んで帰りません?」「いいよ。だけど、駅前ね」「寒いっすもんねぇ」直後「さぶいーッ。そこだ、そこ入ろう」「駅までなんて歩いてられないすよね」「次にオフィス移転するときは、絶対駅の北口にしよう」「どうしてですか?」「北風が顔にあたらない」「私、耳が寒いんですけど」19時「帰るよ。帰りますよー」「私も帰る」「僕も」「まだ飲んでいけばいいじゃない?」「だってぇ」「どうしたの?」「風除け」「....」10時半「なんでみんな帰ってくるの遅いんだよー?」「だって、最初に帰ると家が寒いんだもん」「...」以上18日のお話し今日も寒い14時で5度ないらしいこの冬一番の寒さ
January 18, 2008
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正月が明けて恵方巻き予約の札が店頭に下がる時期一年中で一番寒いのが一月下旬だろう午前中、別の場所で予定があり、病院に寄っていくことにして歩いていると、近くに住む小学校同級の連れ合いのコウさんがお孫さんを抱いてこっちに来る。「おはよう。今日はどうしたの?」「うん。病院まで」「あ、そうか」お孫さんが近くの工事現場を「巡回」するのが日課だそうで、しばらく立ち話。平日午前の見舞いは初めて。病院の待合など、普段とは違う風情。先週末から高熱を出し、三連休で主治医が不在だったり、心配したが、おかげさまで、抗生物質も使わずじまいで、厳しい時期は乗り越えたようだ。つきそいの看護士さんに「おはようございます」と声をかける。「さっき、おはようと言ったら、応えてくれました」だそうで、私も母に声をかけてみたが、話しかければ目が追って反応するが、言葉は出なかった。顔色、反応もよく熱もない。寒い時期、このまま続けばよいのだが。
January 17, 2008
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昭和初期の経堂駅構内の写真を拝見した。写真の中に蒸気機関車が見える。戦前の小田急は、利光鶴松が経営した電力資本・鬼怒川水力電気を親会社としており、小田急線は1927年4月1日の開業時から全線電車で運行されていたので、この機関車は建設工事に従事させたものだろう。架線の建設前、或いは、通電前に、建設工事の資材、作業員輸送車両を蒸気機関車で牽引させたものと推測する。では蒸気機関車は、どうやって入線させたか?分解して入れることは、無論あり得る。しかし、鉄道省等他線から入線させるほうが現実的ではなかったか。さすればどこから?鉄道省から新宿駅の南側で登戸/向ケ丘遊園で南武線から新原町田(原町田)で横浜線から厚木(海老名)で相模線から新松田(松田)で御殿場線(当時は東海道線)から小田原で東海道線(当時は熱海線)から(既に以上の各線は、小田急線開通の時点で開通済み。もっとも南武線開通は小田急開通のわずか1月足らず前)とあり、一番ありそうなのは、新宿駅南側からだが...小田急小田原線は、着工から1年ほどで新宿ー小田原間全線一斉開業という非常に短期間で建設されている。おそらく、そこには、単なる鉄道事業(貨物=主として砂利、客の運搬)というだけでなく、東海道線の代替輸送機関として軍事的な要請があったと筆者は推測している。さもなくば、沿線に代々木錬兵場、駒場から三宿にかけての航空研究所及び陸軍駐屯地(東北沢利用)、経堂の陸軍自動車学校(現東京農業大学)、陸軍登戸研究所(現明治大学生田校舎)、町田の弾薬庫(現こどもの国)相模原の諸軍事施設、相模大野の通信学校、病院、相武台の陸軍士官学校と軒並みの軍関係施設があり、松田から御殿場線に入れば、東富士は本州最大の演習場(現在でも自衛隊が使用)。海軍厚木航空隊最寄駅は小田急江ノ島線大和駅。藤沢からは、東海道線に連絡するほか、大船、または、江ノ島/鎌倉経由で海軍横須賀鎮守府。これだけの軍事施設を結び、しかも東海道線の代替輸送機関でもある。この路線を極めて短期間に建設するには、軍関係関与の可能性が高い。さすれば鉄道省などから建設物資、人員運搬のために蒸気機関車を入線させることも十分可能。しかも、入線のための連絡線は一箇所ではなかったかもしれない。新宿ー和泉多摩川の建設には新宿駅南側から多摩川で区切られる登戸ー厚木間は南武線、或いは/及び相模線から相模川で区切られる本厚木ー新松田は、御殿場線(東海道線)から開成ー小田原間は、小田原からこれらの全部、もしくは、一部で複数箇所いっぺんに、というのは十分あり得る。実際、終戦後まで新宿駅甲州街道南側には、省社連絡線といわれる小田急/省線(国鉄、現JR)の連絡線があった。戦時中、登戸では、向ケ丘遊園ー宿河原間に、宿河原連絡線が建設された。厚木駅では、1937年に相模線/小田急線連絡線が作られ、1955年には松田で小田急/御殿場線の直通運転が開始されている。藤沢から江ノ島線経由というのも考えられるが、江ノ島線の着工が1928年、開業が1929年なので、これは無理。戦時中の宿河原連絡線の航空写真をご覧いただきたい。写真、中央やや左寄りから左下に走るのが、小田急線。写真左下が向ケ丘遊園駅。右下が宿河原駅である。写真中央やや左よりに円弧状に見えるのが宿河原連絡線。左さらに上方にさらに大きな円弧が見えるが、これは道路。写真右端やや下方に、やはり円弧状のものが見える。これは多摩川の採取場と宿河原駅を結ぶ砂利運搬線の跡。今は道路として残る。いづれにしても、経堂の構内で蒸気機関車が写真に収まるためには、経堂まで蒸気機関車が来なくてはいけない。そして、新宿から、或いは、登戸、厚木、新松田、小田原といった、既に鉄道が敷設されていた接点から入線させることが可能だったことが分かった。この経堂の蒸気機関車は、大正末年から昭和の初期にかけての写真だろうが、小田急線の完成後も蒸気機関車が小田急本線を走ったことがある。それは戦時中のことだった。その頃軍部は、海岸沿いを走る東海道線が、砲爆撃により寸断された場合の代替輸送機関として小田急線を利用することを考えたらしい。実際に貨車、客車を牽引して走ったかどうかは、分からぬ。小田急線のホーム、或いは、車両が通る狭隘な部分は、機関車を含む鉄道省(当時)の車両の走行を可能とする幅員にまで拡幅され、それが、戦後の復興期、不足する車両をやりくりする中で、小田急は国鉄と同一規格だったため、そのまま入線させることが出来たと聞く。このことは、後に小田急線が幅広の車両を投入できたことにもつながるらしい。なお、小田急の初代ロマンスカーも、国鉄の線路を使って試験を行った(当時狭軌鉄道の世界最高速度を記録)あと、新宿の連絡線を使って小田急に入線したと読んだことがある。1945年5月の空襲で、小田急線も世田谷中原駅(現 世田谷代田)全焼など、甚大な被害を受けたが、当時小田急と同系列だった帝都線(現 井の頭線、当時は小田急も帝都も両者東急に合併していた)は、永福町の車庫が空襲され、神泉のトンネル内に避難していた2編成を除く他の車両が使用不能となった。この時、小田急線の世田谷中原駅と帝都線の代田駅を結ぶ連絡線を突貫工事で完成させ、小田急線経由で帝都線に車両を投入した。この連絡線には架線が敷設されなかったため、電車車両の移動に蒸気機関車の利用が検討され、実際に試走したことがあるようだ。しかし、機関車は重すぎたのか、手押し車で移動したと記録にはあるようだ。写真は左上が井の頭線新代田、左下が世田谷代田(共に現在の駅名)円弧状に見えるのが連絡線。***完成間もない経堂駅の写真というのも見つけた。新宿駅側には構内踏み切りがあったはずだから、この写真が経堂駅ならば、経堂西通側から反対側の福昌寺方面に向って撮影されたものと思う。
January 17, 2008
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「この角は昔、薬屋さんだったんだ。コルゲンコーワのかえるが置いてあった」「はいはい、知ってますよ」「あれ、結婚してからもあったっけ?」「ありました。紙に肥後ずいきありますって書いてあって、貴方面白がって何に使うんだ?って聞いたじゃない」「そうだっけ?なんで薬屋さんで肥後ずいき売ってたのかな?何かに効くのかなぁ?」「知りません!」***最近全く聞いたことがな(昔も面白がっていただけで、実際に見たことも聞いたこともない)が、肥後ずいきは熊本のお土産として普通に売られている商品で、お湯又は水に浸すと柔らかくなり、大人の為の手工芸品(おもちゃ)として、昔から大変重宝がられたとある。要するに張り形?一方、肥後ずいきときゅうりのしらす酢和え とかあるから、食べられるものではあるらしい。辞書によれば「ずいき」は、「サトイモの葉柄。ふつう、赤茎のものを酢の物・煮物などにして食べる。干しずいきは、いもがらという」だそうだ。「肥後ずいき」は、辞書には載っていないようだ。街角の薬屋さんで売っていた肥後ずいきはどんなもので、用途は何だったのだろう?
January 17, 2008
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15日は小正月上町ではボロ市。経堂の南側を通っている六郷田無道。「下の道」だな。上町から千歳船橋駅前を通って、吉祥寺を抜けていく。千歳船橋でも、この道「ボロ市通り」と呼ぶらしい。今でも市が立つのかしら?
January 15, 2008
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長男が野球を始める前、ちょうど10年ぐらい前までだろう。いやがる彼を含めて、家族4人、よく自転車、散歩で出かけた先の一つが、北沢緑道探索の旅。もっとも遠くは、自転車ならば天王洲アイルまで往復したこともある。小学生には辛い距離だったろう。桜の季節など、風がなければ、マスクをして(当方花粉症)緑道を行き、根津山(羽根木公園)、さらに、代田、淡島まで往復して休日を過ごしたことも何度かある。そのとき、気が付いたのが、環七宮前橋交差点からちょっと入ったところにある「そばぼうろ」のお店「京都総本家河道屋」京の菓子なら麹町あたりで宮内庁御用達とくるのが相場と思いきや、河道屋さんは、こちらが東京出張所のご様子。なんでかなぁ?と思ったが、東京荏原都市物語資料館のきむらけんさんも、代田には和菓子屋さんが多いと書いているまでで、河道屋さんのことには触れていらっしゃらないようだ。ちょうど、今、このあたりは、北沢川緑道の改修工事が行われていて、淡島から2-3ブロック来ていた小川のせせらぎを思わせる流れ(実際に流れているのは再生処理済みの水で自然の流れではない)が、環七まで延長の工事中。その工事にあわせてだろう。最近、河道屋さんの東京出張所も、小さいながら「せせらぎ亭」なる茶席をおつくりになったご様子。再生なった北沢川の流れを愛でつつ、そばぼうろを茶菓子に一服ということでしょう。お時間があれば、一度ごゆるりと。
January 9, 2008
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6年3組の同級生「甲斐さん」が経堂へやってくるかもしれない。といっても、お引越しではなく、週1回程度。「朗読会」の講師のようなものらしい。しかし、自分は「朗読会」たるものが、どのようなものか、想像するだけで、実際には知らない。声に出して本を読むことは、ボケ防止に良いと聞く。戦後生まれの当方、まだそういう年ではないが、訓練は早いにこしたことはない。しかし、実際、会社で声に出して資料を読む上席者に仕えたことがあるけれど、決して心地良いものじゃない。=>ご自分でおやりになってみると、よく分かる。まして、部下たちにしてみれば、会社の中で、自分の作成した資料を声を出して読まれるというのは、やりにくいに決まっている。(20代の連中にやるのは、訓練の意味がある)結局、家で、家人の前、或いは、家族の居ないところを見計らって音読することになるのだが、声に出して本を読むのは、子供たちに本を読んでやって以来だから、10数年ぶりだろう。正直、意外と難しい。ボケが始まっている?滑舌が悪いのと、字の読み方が分からないのも多い。字面を追うスピードと、口が読むスピードがうまくあわず、野球でヒットを打った走者が、前の走者を追い越してしまうような気分といえばおわかりいただけるか?和文の場合、左脳、右脳の関係か?自分の場合、横書きは読みづらく、字面を追うだけでせいいっぱいだが、縦書きは、先の文章に目が行っても、口のほうは、どうにかちゃんと字面を読んでいる。英語は、縦に書いたものが無いので、縦横の比較は出来ないが、字面を追うだけでせいいっぱいなのは、横書きのせいではなく、実力の問題。もっとも、和文と異なり、英文は斜め読みが出来ないと聞いたことがあるので(速読法はあるし、訓練で早くすることは可能だが、もちろんこれは黙読の場合)、これは、言語構造の問題かもしれぬ。学校時代音読させられるのは、国語の縦書き教科書か、英語(または独仏露など)の横書きだから、同じ和文でも、横書きが読みにくいのは、横書き和文を読む訓練が足りぬところに起因する?ともあれ、家でやりづらければ、皆でそういう機会を設ければよい?皆で読みあう機会があれば、練習も励みになるし、そのうち、慣れてきて、うまく読めるようにもなると、考えたのが朗読会なのか?そう考えると、朗読会とは、人に読んでもらうだけでなく、自分で読むためということもあるのだろうか?いろんなこともし、本当に経堂にやってくるならば、甲斐さんに聞いてみよう。
January 6, 2008
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しばらく前までの景気の悪いときならば、いざ知らず、今日の世田谷が衰退しつつあるとは、多くの人は思うまい。二子玉川、三軒茶屋、下北沢といった主要商業集積は以前よりも集客力を増し、鉄道各線の乗降客数も過半の駅で増加している。京王小田急東急1月1日現在の人口は、1987年の355,750世帯、794,639人をいったんピークに減少傾向だったものが、1996年以降再び増加に転じ、2007年には、425,295世帯、820,920人と、2005年以降は、初めて800,000千人の大台に乗せた。しかし、細かく見ていくと、コミュニティの維持という面からすると、大きな問題が出てきていることが分かってきた。まず、鉄道の乗降客数。全体としては増加傾向しかし、一般的傾向として、増加しているのは乗降客の多い駅で、少ない駅は軒並みさらに人数を減らしている。京王線でいえば、下高井戸を例外として(小田急線高架計画の完成により、従来の世田谷線利用客の一部が豪徳寺に流れたと思われる)、乗降客を減らしたのは、代田橋、上北沢と、一日30,000人以下の利用客の駅。小田急でも同様。減少をみたのは、東北沢、世田谷代田と、こちらは10,000人以下の駅。東急についても、一般に利用客を減らしているのは、同様に乗降客の少ない駅である。このことは、かなり示唆的であり、このまま状況が推移していけば、すなわち二極分化そのものである。2005年と2007年の、各駅周辺の相続税路線価の最高価格を比較してみると、以下の通りとなる。(左の数字が2005年、右の数字が2007年、平米あたり相続税路線価、単位千円 %は値上がり率)東北沢 480 550 15%下北沢 1160 1600 38%世田谷代田 450 530 17%梅丘 550 670 20%豪徳寺 570 660 16%経堂 770 940 22%千歳船橋 570 680 19%祖師谷大蔵 600 730 22%成城学園 680 860 26%代田橋 480 550 15%明大前 680 830 22%下高井戸 590 710 20%桜上水 500 580 11%上北沢 430 490 14%八幡山 420 470 12%蘆花公園 410 540 32%烏山 800 970 21%不動産価格がバブル期に匹敵するほどの上昇を見せていた昨年段階で、土地の値段が上がることが良いことかどうかという問題はあるし、一概に土地の値段が高いことが良いことだと言うことも出来ない。また、今般の土地騰貴は、収益還元なる、一見の合理性に着目した結果、家賃のダイナミックな変動に乏しい住宅地より、商業地が買い込まれる傾向が顕著であったため、住宅地の色彩が強い場所より、商業地の色彩が強いところのほうが値上がり率が高い。そういったことはあるものの、この時期の土地値上がり率が15%以下の駅というのは、商店街=日常生活の利便性という面で不利があるということは見てとれそうだ。一般的に、商店街の発展しているところのほうが価格が高く(容積率、建蔽率など条件が異なるので一概に比較できない)、乗降客減少駅の上げ幅は緩やかである。定量的なデータが無いので客観的証明は出来ないものの、実際にお越しになればお分かりになる通り、乗降客数減少駅では、駅前商店街が壊滅状態である。代田橋には京王ストア、世田谷代田にはライフ、上北沢にはサミットと、それぞれGMSスーパーがあり、東北沢も下北沢まで一駅行けば、日用品の買物に事欠くことはない。だが、地元コミュニティを形成してきた駅前商店街は、特に東北沢、世田谷代田の一日あたり乗降客数10,000人以下の駅では、ほぼ壊滅状態。代田橋、桜上水も危ないところまで来ている。1991年には区内の事業所数は、29,761、従業員数が252,393人だったものが、2004年には25,750事業所 221,958人。人口が増えているのに、区内の事業所数は減少。よって駅を利用して外へ働きに行く人が増えるという単純計算。(この期間ほとんどの産業分類で事業所数、従業員数が減少しているのに対し、不動産業だけは、1,801事業所7,225人であったものが、2,021事業所、8,285人と増加。街中に不動産のカウンターが目立つわけだ)サービスを受ける側も、供給する側も世田谷の住民、だけれども、サービスを提供する場は世田谷区外といったケースも当然出てくる。世田谷というところは、時間とコストをかけて都心に出なければ、個人にとって生産性を実現する場を獲得し得ない、ということである。地元商店街が崩壊した各駅においては、場合によっては日用品の購入についてすら、時間とコストをかけて、都心、或いは、最寄の商業集積駅まで出かけなければ用がたりないという時代が、既にやってきている。1970年前後まで、世田谷の住民も、今のようなサラリーマンとその子弟ばかり、といったわけではなく、商家、農家もあったし、多少は町工場のようなものもあった。それが、今では、世田谷全体で農業従事者は500人を切り、一部を除き、商店街でどうにか生き残っているところは、クリーニング、豆腐屋、美容室、中華料理....金融機関は淘汰され、場合によっては、コンビニか、ATMだけという駅も出てくる。パン屋も一時に比べればだいぶ少なくなってしまった酒屋はコンビニを兼業し、薬局はチェーンとなった地元で雇用を創出できぬ自治体は、法人税収入が確保できず、個人からの所得税収入に依存する。このため、従前ホワイトカラーとして年収1千万円超だった人々が、高齢化していくに従い、世田谷税収の将来は、決して明るいものではない。しかも、高額所得層の消費は、地元でなく、都心その他へ、明らかに流出している。地元に魅力ある施設が不在であるためだ。その中で、最近経堂には再び飲食のお店が増えてきている。これは、単に景気の回復ということではなく、もう一つの動きとつながっている。それは、団塊の世代が地元へ回帰するとき、そこでの豊かな時間消費に応えられる、果たして経堂がそういう街たり得るのか?そういったお店が飲食から、さらに趣味の世界へと広がっていくかどうか。そこに経堂という街の中期的将来の姿が展望されるだろう。
January 4, 2008
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元旦、例年通り近くの神社へ初詣おみくじを引く末吉物事は相談して進めなさいということで、独善に陥らぬことと戒める3日は小学校同級の留さん、須藤君と後から、群馬のお孫さんのところへ行ってた真里ちゃん合流女性参加と決まったとたんに、回りをきれいにし始める現金な奴ら男同士で煮詰まっていたところへ連絡があり、助かった!そういう真里ちゃんも、年末乗ろうとしたバスが満席で、大宮乗り換えで新幹線で高崎まで行こうと、先にきた電車に乗ったところが間違ってノンストップの仙台行きだったとか...まあ旅は慣れないとね今年は、久しぶりに多数の参加を募り、クラス会開催と、留さんが提案そうだね、区切りの年だし先生のところへ行って、その土産話を持ち帰るでもいいし皆で会って、その話しを先生のところへもっていってもいいしどっちかだな4日、7時前から朝のニュースは原油1バレル100ドル突破!原油高というべきか、それとも...いや、これはドルの価値が下落していることの証明だろう。ドルの価値が下がり、原油価格が上がる原油が上がれば、またドルの価値は下がるドルの価値は負のスパイラルにあり、日本の円も実は、釣られて安いユーロでみれば、原油価格の上昇は、そこまでのものではない原油が1バレルあたり100ドル突破といっても、ドルの価値が下がればドル建て原油価格がそれに追随して上昇するのは本来折込済みのはず今更、ドル安、株安といって慌てるものではないが、仕事始め朝の第一報としては衝撃的な幕開け訃報が回り本日夕刻生井(なまい)さんのお通夜。以前の部下で、ひと月ばかり前、銀座で立ち話をしたのだけれど...文面からは、ご家族のどなたの訃報なのか分からない「これじゃまるで本人が亡くなったみたいじゃないか?」と文句を言ったところ「いや。本人なんです。お通夜は本日6時から中央区のセレモニーホール、勝鬨橋を渡ったところです」「...」聞けば、昨年12月30日に心不全で亡くなった由年齢は、まだ40に手が届くかどうかというところたばこは多少嗜むが、深酒はせず、特に持病ありと聞いたこともないサーフィンなどもこなす行動派航空会社勤務のカミさんとの生活も、我らと違い現代的最近、職場内で移動があり「新しい担当でこれから」と張り切っていたところなのに神さまも不公平なときがある末吉とはいえ、激動の一年を思わせる幕開け
January 4, 2008
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