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健康診断で便に潜血があり、内視鏡検査をしてもらったところ、かなりの数ポリープがあることが分かった。放置したままにすることも考えたが、「”将来がん化する可能性あるものが多数ある状態”を放置するのも個人の自由ではある」と、行きつけの医者に言われ、渋々3日ばかり入院していた。 手術で、何個かは除去したものの、数が多いこと、一部に10ミリを超える大きなものがあること、それぞれの位置関係から一時に除去した場合、腸壁を傷つける可能性があること、などから、まだ半分くらいは残って、後日、再手術ということになった。とりあえず無事退院。病院は、たまたま昔から定期健康診断に使っていたところで、以前にも入院したことがある。もう十年以上前のことだ。今回、入院して気がついたことは、10年前と病院の佇まいはほとんど変わらないが、スタッフはほとんど入れ替わり、知った顔はいない(副院長は面識があるが、今回、直接の関係はない)。さらに、言葉使いが、10年前に比べて、圧倒的にカジュアル。看護士さんもお医者さんも、以前なら「大丈夫ですか?」「よろしいですか?」「かしこまりました」とでも言うところを、いかにも気軽に「OKです」「OKですか?」などと聞いてくる。最初は違和感を覚えたものの、病院の役割を考えるに、なるほど、この方が率直でいいかもしれないと感じた。家庭で、学校で、職場で、敬語を日本語の美しさのひとつの現れと教わり、習い、指導され、理解し、年長者、上席者、取引先との会話などに使ってきた。元来は関西と東京周辺で多く発達し、それ以外は城下町など限られた範囲で使われていたもののようである。つまり、人間関係の複雑さが言葉遣いに反映することが敬語発達の背景にありそうだ。敬語は、日本語以外にも存在し、日本語では言葉の形に敬いが表れ、ヨーロッパ言語では形に表れるのは一部に限られる。ドイツ語では、二人称の敬称がSie、親称がdu、ihr、フランス語では二人称単数において敬称がvous、親称がtu(二人称複数はどちらもvous)。英語にも文末にsirをつけるなどあるが、ある程度の親しさになるとsophisticationが過ぎて逆にはばかられるのが一般。他の言語では、日本語ほど敬語にこだわることは少ない。考えてみると、敬語が発展するのは平和な時代ということができそうである。平和であるからこそ、京、江戸といった大都市が発達し、そこに多様なコミュニケーションが生まれ、人と人との関係に細やかさが育まれ、それが言葉遣いに反映していく。平和であるからこそ、それが地方にまで伝播していく。ヨーロッパのように、あるいは、中国のように外部勢力とのせめぎ合い、戦乱が続き、支配者が頻繁に変わる世界では、コミュニケーションに要求されるものは、細やかな心配りではなく、率直だ、明瞭さであろう。そこいらに彼我言語の違いが生ずるひとつの拝啓があるやに思う。西欧、中国における王侯における言葉の違いは、敬語というよりは、王侯の使う言葉、王侯に使う言葉の違いであって、それは、支配者がしばしば他民族であった反映かもしれない。天皇陛下がお使いになった朕などの特殊な言葉は、そういった中国の文化を輸入ないし、模様したものにすぎず、日本語本来のものではない。敬語には、会話における細やかな心遣いが反映されるのではあるが、反面、事実を率直に伝えることには支障を生ずる部分があるやに思う。特に、組織における上下関係が言葉に反映されるとき、ただでさえ、中枢(上)伝わりにくい現場(下)の意見、情報を、さらに、心理的な部分を含め、伝わりにくくすることが多いのではあるまいか。自分には、少なくとも、思いあたる部分がある。上席に対して、言いにくいことを伝えるに、日本人との日本語のコミュニケーションでは言いよどむことも多いのだが、これが外人となると、言葉のハンディがあっても、率直に話しができる。逆に部下に対しても、、日本語、日本人のコミュニケーションでは、些細な相手の言葉に抵抗を感じるときがあるに、英語においては、それがない。ただでさえ、いいにくい失敗とか、うまくいかない現状を上席者に報告するに、下が言葉を選び、上が下の言葉を咎める。そんなことで、率直に情報が伝わるものか。敬語はコミュニケーションの率直さを奪っているのではないか。一部企業では、社内コミュニケーションに英語を使うようになってきている、国際化対応ということなのだろうが、これを、馬鹿にし、あるいは、冷ややかに見る人は存外に多い。しかし、日本語のもつ上下関係への配慮が反映された敬語、これがコミュニケーションを阻害していると、今の僕のように思う人がいれば、それは、存外、国際化というだけでなく、情報伝達の円滑という意味でも、言語の差を超えて意味があることなのかもしれない。数年前、知人の社長さんとの酒席で、「最近、社内コミュニケーションが極めて悪くなっていて、困った」ということを聞いた。会話の中で、その会社が、そのしばらく前に、地方から東京に本社を移していることが分かり、同席した先輩が、「社内コミュニケーションに使う言葉が、方言から標準語になっていませんか?」と聞いたら、そうだという。先輩は、「ならば、社内コミュニケーション言語に方言を取り戻したらどうでしょう」と提案したのだが....答えは一理ある、思いあたるところあり、だったのだが、「東京へ本社を移転したことで、新しく優秀な人材もできた。僕らは方言で構わないが、もとからいる連中が方言で、新しい連中が標準語だと、これまた、あつれきを生ずる可能性大」なかなかに難しい。敬語は平和な時代に育まれるのではないか と書いた。率直さを必要とする有事には向かない?旧軍とか銀行など、言葉遣いにうるさい組織は、えてして、組織内コミュニケーションが悪い。箇条書きにして方向せよ、とか、簡単なことには強いが、細かい事実のニュアンスを急いで伝えるのに、これらの組織は適していないような気がする。だから、日清日露には勝てても、率直でコミュニケーションに優れた米国相手の戦争には負けた。国力だけではない。コミュニケーション力の差が結果に現れた。最近の銀行が衰退してきているのも、そういう部分があるのではないか。細かい箸の上げ下ろしには細やかな心遣いに熟達しても、大枠で一番大事なお客さまとの本質的なコミュニケーションに弱い。日曜日オヤジのところへ行った。どうもコミュニケーションがうまくいかない。ひと月前の選挙の話しにこだわり、話しが次にいかない。(原因は、実は分かっているのだが、ここには書かない)それはともかく、まだボケていない時代のオヤジが言っていた。オヤジは士官学校出の旧陸軍大尉。偕行社にも元気な時期、最期まで関係し、軍隊関係には精通している。「アメリカに国力で負けた?馬鹿言っちゃいけない。戦争は国力でやるもんじゃない。国力だけなら中国にも、ロシアにも勝てたわけがない。国力で負けたは、負けたわれわれの負け惜しみだ。アメリカには頭とチームワークで負けたんだ。それを国力のせいにするとは、日本も落ちたもんだ」オヤジに言わせると、陸軍も海軍も、士官学校、海兵での体育は、剣道、柔道、水泳など個人競技が主。団体戦といっても、棒倒し、ボートまでで、野球はもちろん、ラグビー、サッカー、フットボールといった複雑な団体競技はやったことがなかったという。戦後、会社でアメリカンフットボール部の顧問を引き受けたときに、これが戦争に負けた原因と思ったそうだ。「ありゃあ模擬戦争そのもの。こっちは個人で戦おうってのに、あっちは団体戦の練習毎日やってるんだから、チームワークが違う。陸軍と海軍の間にはろくなコミュニケーションもなければ、チームワークもなかった。勝てるわけがない」考えてみれば、第二次大戦前から戦中にかけての、日本語はおかしくなっていた。用語についていえば、大東亜共栄圏は優れたキャンペーンだと思うが、八紘一宇は、「世界は一家、人類は皆兄弟」ということだろうが、どこまで分かって使っていたか、国体の精華?となると、素晴らしい日本の国体の実態はなんだろうか。翼賛=天子の政治を補佐すること、転じて、みんなで渡ればこわくないと、形容詞ばかりが多く、中身のない表現の羅列が目につく。息子が言っていた「北朝鮮のアナウンサーと、政治家の演説、戦前、戦中のラジオ放送。聞いたとたんに、真実を言っていないとわかる。威勢の良い形容詞ばかりで、中身が空虚だから」言語明瞭意味不明古人曰く、巧言令色鮮仁(こうげんれいしょくじんすくなし)言葉(だけ)が丁寧なことを良いとするのがいいことなのかどうか。プロトコルにばかりうるさい組織は敗退する僕はそう思う。「馬鹿なこと考えてないで、早く寝なさい」率直さの権化のごときカミサン(敬語は確かに不得意である)の怒声がひびく。
January 20, 2015
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犠牲者の方々に心よりお悔やみ申し上げます。20年かぁ。あの日は、ちょうど飛行機乗ってシンガポールへ出張したんだ。朝早く起きてテレビをつけたら、神戸で大地震とニュースをやってた。それから一週間ぐらい東南アジアにいたから、その間の詳しい経緯は知らない。向こう何年間で大地震が来る可能性は30%だそうだその後の東日本大震災を経て、いろんな経験をしたんだけど、我が家の防災対策となると何か変わったかなぁ?どうにかなるだろうっておもってるけど、せめて転倒防止ぐらいは、もう少しどうにかしといたほうがいいね。そう言いながら、明日、明後日、何かやるのかなぁ。地震が起こってからでは遅いんだけどね。
January 16, 2015
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「事件の犠牲となった多くの市民の方々に、心からの哀悼を捧げます」フランス人Jと久しぶりに話しをした。 フランス わが内なるイスラムで書いたが、Jはイスラム教徒である。顔つきはアラブ系っぽい。そのことはJ自身も認めているが、彼の家系は移民ではなく、古くから、フランスに居住してきた。今日、フランス国内にイスラム教徒は国民の約1割。必ずしも移民の急増が原因ではなく、フランスは古くから多民族、多宗教国家であり、その中にイスラム教徒があるということだそうだ。「感謝します。事件が起こったことは、とても悲しい。私たちのフランスとイスラム教を切り裂く行為に激しい怒りを感じます」「Jは、イスラム教と国家、国民のあり方について、勉強したいということを言っていたと思うけれど、イスラム教徒であるフランス人として、事件の背景をどのように考えるの?」「テロリストがイスラム教徒を自称しているだけで、事件を宗教と結びつけて考えるのは、少なくとも今の段階では間違い。フランス人としても、イスラム教徒としても、どちらの立場からも、言論の自由、心の自由への重大な挑戦であり、許すことはできない」「だが、フランスという国が、イスラム教の戒律であるベール着用を法律で禁止したり、イスラム教を弾圧しているこいとは間違いないところではないの?」「その指摘は違う。僕の母はイスラム教徒で、ヒジャブ=ベールを着用するけれど他人にそれを強要することはしない。フランスでフランス人として暮らすco-habitation。異なる民族、異なる宗教、異なる性、異なる主義主張.....さまざまな人たちが長い時間と犠牲をかけて、co-habitationの知恵と決まりを作り出してきた。フランスがベール着用を禁じたのは、子供であれ、誰であれ、フランス国民である限り、宗教の自由、心の自由は保証されているのであって、そのことは、特に義務教育において徹底しなければならない。だから、公立学校でのベール着用が、まず、禁じられた。それはイスラムだからではない。もし学校がカトリックの教会へ行くことを強制すれば、それは同じように排除されるし、カトリックがベール着用を強制すれば、それも同じく排除される。実際、学校ではクロスの首飾りは禁止されてる。ところが、残念なことだけれど、ベール着用を悪用する人が出てきた。どこの誰だか分からない、男か女かも分からない人がベールを着用して犯罪を犯すことを、どのように未然に防止するか。特にテロってそうだよね。だから、公共の場ではベールが禁止されてしまった。人々にベールに対する恐怖感を与え、イスラムを冒涜した犯罪者に僕らは怒りを感じている。」「国家と宗教が対立した場合、君はどちらの立場をとるの?」「僕は僕のEthicに基づいて行動する。神の教えを伝えるのは人間であり、言葉である。言葉も人間も間違うことがある。僕のEthicが間違うこともあるけれど、どの場合も行動の結果への責任は僕自身のものだ」「アラーの教え、ムハンマドは絶対ではないのか?アラーの教え、ムハンマドを揶揄し、冒涜することは許されないのではないか?」「僕はイスラムを信じるけれど、同時にフランス国民でもある。僕は、イスラムの全部、フランスの全部を知っているわけじゃあない。僕だけじゃなく、誰でも同じだよね。限られた命しかない人間同士で、限られたことしか伝えられない言葉を使って、全部の教えを伝えることはできない。教わらなかったこと、わからなかったことは、誰かに教えてもらう。でも、何が分からないのかちゃんと伝えることができなければ、ちゃんと教わることは難しい。教えへの理解の不足が冒涜を生むことはある。理解の不足が原因でムハンマドが冒涜されたならば、それは悲しいこと。イスラム教は、個人の心の自由を束縛することはしない。分からないこと、知らないことはEthicで考えるしかないんだ」:::::::::::::::フランス全土で、犠牲者の追悼とテロに抗議するデモが開かれ、160万人が参加した。フランスのオランド大統領、イギリスのキャメロン首相、ドイツのメルケル首相、ヨルダンのアブドラ首相、パレスティナ暫定自治政府のアッバース議長、イスラエルのネタニヤフ首相といった人たちもデモに加わった。日本からは駐仏大使が参加したけれど、残念ながら安倍さんは参加できなかった。せっかく16日からエジプトを皮切りに中東諸国を歴訪するのに。距離が違うからね。しょうがないんだろうけど、ちょっと象徴的かもしれない。でもね、果たして、僕らの日本がフランスと同じ土俵で、言論の自由を語ることが適切なのか....アメリカ、フランスのとなえる言論の自由は、果たして誰の自由なのだろう?別に安倍批判でも擁護でもなく、日本は言論の自由がもたらすリスクに向き合う覚悟があるだろうか?それは、つまり、僕自身のことなのだ。
January 16, 2015
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出版社(その日は出版社と書いたが、報道では新聞社と言っている)襲撃事件から数日。フランスのパリでは、銃乱射立て篭りコルトドバンセンヌではユダヤ人食料品店に、ダマルタアンゴエルでは新聞社襲撃事件犯兄弟と思われる二人組が、それぞれ立て篭り、それぞれの現場で警察特殊部隊との銃撃戦から、犯人3名が殺害され人質数名が犠牲になるなど、騒然とした状態が続いている。出版社がイスラム教のムハンマドを揶揄してきたこと、その他から、イスラム移民と事件の関係が言われている。フランスとイスラムとの関係は、最近の移民のみならず、旧植民地(アルジェリアなど)関係もあるが、さらに古い時代にさかのぼるらしい。数年前こんなことを書いている。⇒フランス わが内なるイスラム今、そこでおこっていることを考えると、なかなか示唆的である。
January 10, 2015
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昨年の暮れ、SONY Pictures Entertainmentが配給する米国映画 The Interviewが、映画館へのテロ攻撃の可能性などから劇場公開を中止するとの報道を目にした。そのとき思ったことは、1.韓国でも、朴大統領のスキャンダルに触れた産経新聞支局長が在宅起訴されていて、朝鮮半島では南北それぞれに言論の自由がない 2.しかし、報道ないし映画製作する側も、人の国の最高指導者をパロディ化、あるいは、その人格を貶めることが、果たして、まっとうな政権批判であり、守るべき報道、表現の自由なのか は甚だ疑問。報道、表現の自由を標榜する場合には、それなりの節度があるべき3.もし、The Interviewの配給会社がSONYでなく、他の米国系企業であった場合、劇場公開中止という判断に至ったであろうか?日本企業SONYとしての「配慮」がそこに影響していたのではないか:::::::::::::::::::::::::::::::::そんな中、ドイツ、フランス、中華人民共和国共同製作の映画、John Rabeについて、多少のことを目にした。この映画、日本では香川照之、柄本明と、それなりの日本人俳優が出演しているにもかかわらず公開されていない。ことは、南京大虐殺に関係する。極右勢力を恐れてというのが考えられるが、真の事情は、困難が予想される割に興業採算がそろばんに合わないという判断があったものと思う。もし公開を阻止ないし妨害せんとするものがあったとすれば、その阻止ないし妨害は間違いと思う具体的な動きがないにもかかわらず、自主規制なりの理由で公開せぬことがあったならば、それも誤りと思うなぜなら、この映画の主題は、南京大虐殺でも反日でもないのだろうが、かなり重要なプロットとしてそこに描かれた日本人のありようは、それが、我らの本質ならば、我々はそれに率直に向き合うことを怖れてはならず、あるいは、それが程度を超える悪意の捏造であるならば、その是正を考えねばならぬからである。いかなる主義主張の方であろうと真実に目をつぶる者は、やがてその真実に復讐されるのである。昨年、日本語字幕が完成したらしく、自主上映の形で一部で公開されている。しかし、現段階でこの映画を日本で見ることは、まだ容易ではない。話しを聞いて、なんとか目にすることができたのだが、僕の場合、日本語字幕はなく、おそらく英語版と思う。おそらく、というのは、英語、ドイツ語、日本語、中国語が入れ替わり出てくる映画を字幕なしで見る能力が残念ながら、僕にないからである。なぜ、英語版と思うかといえば、ドイツ映画は通常ドイツ国内で公開される場合は、全編吹き替えが通常であること、また、英語版とドイツ語版で一部異なる配役となっているものが、英語版の配役と思われる、この二つの理由による。この映画の論評は、配役の部分を含めて、実はかなり難しい。と いうのは、少なくとも中国のほかドイツ、フランスをはじめとしたヨーロッパ諸国の一部で公開されているのであるが、上記配役の違いを含めて、どの国で公開されたバージョンを見るかによって、ニュアンスが異なる可能性が強いからである。例えば、僕の見たバージョンには、蒋介石が出てくるが中国公開バージョンではその部分は存在しない。中国で言えば、南京大虐殺の当事者は蒋介石率いる国民党中国であるが、その事実は今日、虐殺キャンペーンを展開する共産党中国には不都合。逆にナチスに関する表現では、ドイツ公開バージョンでは、ラーべがナチス党員であったことはともかく、ラーべのヒトラーに対する信頼意識は中国公開バージョンより抑制的である可能性が高い。商業映画のご都合主義と非難することは簡単だが、製作者ないし監督の考える主題が、それらのところには無く、ラーべというその時代のドイツ人を描くことにあって、その他には拘泥しない態度と解釈することもできよう。戦後70年、いまの若い世代は、今更無批判に、南京大虐殺を事実として受け入れることも、あるいは、まったくの捏造と見ることはない。彼らには彼らなりの見方があり、それはわれわれと違う部分がある。時代は否応無しに次の段階へと移っていく。われわれにせめてもできることは、多様な解釈、多様な立場を次の世代を信頼して委ねていくことであり、どのような人たちがどのようなことを言っているのかを、一様に阻止し、あるいは、強調することは、もはや無益なのである。それは、映画そのものへの批判ではないのだが、 この映画に描かれている日本のイメージが著しく、日本を貶めるものであるからである。理由は単純で、独仏中合作の中で、中国の意向が映画全体に影響していて、特に日本人が登場する部分にそれが強く反映されているということに過ぎない。映画市場の規模は中国が日本を圧倒する。日本市場を捨てても、中国に迎合すれば十分採算が採れる。だからこそ、問題は深刻である。もし、この映画に描かれていることが本当ならば、我々は、今まで以上に深く反省せねばならぬがそれが、真実でないならば、 これまで、このような事態にも寛容であった我々は、今後どのように向き合うか、これまた真剣に考えねばならない。John Rabeは、まだ、それでも独仏中合作である。巨大な資本、市場を擁する中国が、今後、米国での映画製作に強く影響して行くのは避けられない。さらに影響力を増した第二、第三のJohn Rabeが続出する可能性は十分にある。米国の言う表現の自由を旗印に、日本と日本人をあるべき節度を超えて貶める映画が出てくる時、日本での上映阻止は、意味がないどころか、強烈な非難を浴びることになる。The Interviewを向こう岸のことと、面白、おかしく見ていては、その深刻さに気づくことはできない。::::::::::::::::::::::::: ここまで長々と書いて、まとめていく前に、パリでの出版社襲撃のニュースに接した。国家にしろ、宗教にしろ、批判に寛容でない文化が片方にあり、他方に、表現の自由を至高の価値とする文化がある。その狭間にあって、我々は、そろそろ旗幟を鮮明にすることを求められているのではないか逃れられるか、ニッポン
January 8, 2015
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娘に子供が生まれて、僕は爺さんになった新宿駅の階段で、カミサンに、何て呼ばせるの と聞かれ、別になんでも構わんと答えたものの、「じいじい」とか言われ、一瞬、階段を踏み外しそうになったカミサンに言わせると、カミサンたち婆さんは二人いるので、区別のためバアバアとかおばあちゃんではない名前にいなるが、婿さんのオヤジさんは早世されていて、僕の場合、爺さんは一人しかいないので、ストレートにジジイ扱いでいいという。バカ言ってんじゃない。僕らは、娘の子供だろうが息子の子供だろうが孫は孫と思うが、一般には娘の子供の外孫は息子の子供の内孫とは区別して考えるらしい「最近は女の方が強いからね、慧〈息子)に子供ができても抱かせてもらえないかもしれない」とはカミサンの弁それでも、3日に娘のところへ行ったときは、婿さんに僕らばかり訪ねていて、お母さまに申し訳ない とお詫び出来た婿さんは、いえいえ助かります と言ってくれるお母さまは、お婆ちゃんの介護があるので、1月10日を過ぎないと、孫の顔を見れないなんか申し訳ない気がしていたのだが、ようやく、初めて、おそるおそる孫をだいてみる「軽いんだねぇ」「こんな小さいのは、今だけの期間限定だからね」と 娘「重さどれぐらいなの」「さっき計ったら3015(g)」「生まれたとき3040だったじゃん」「最初は少し減るんだよ、私から直接栄養採ってたのが、自分でとらなきゃいけない慣れるまで切り替えの時間があるんだ」「毎日、顔変わるんだよ」「お腹の中で折りたたまれてたのが、開いてくんですね」「なんか人工衛星の太陽光パネルみたいだね」「そうですね」::::::::::::::::::::::::::::::僕らの同級生でも、早い人は40代前半で爺さん婆さんになったそれに比べると僕らはゆっくりではあるけれど、晩婚化、少子化の現代においては、決して遅い方ではないまわりの事例をみていると、一般に男性に比べて女性のほうが孫育てに関心が深いようにみえる「それはそうでしょう。子育ての段階から負担の多くは女親。男親は手をくださないもの。子供たちにしてみても、それがそのまま爺さんになった男親に口出しされても困るだけじゃない。何もやらなかったし、何も知らないのだから」なるほどそういうことか「昔からお婆ちゃんは、孫に甘いっていうじゃない。それはどういうことなのかな?」「甘いお婆ちゃんと、やたら子育てに口出すお婆ちゃんといて、両方って人も多いんじゃないかなぁ。原因のひとつは、自分の子育てのときに、時間とかお金とか、そういうリソースが十分じゃなかったって思いがあるんじゃない?ああいうふうに育てたかったのに、お金が足りなかった。時間がなかった。あと、お母さんとかお姑さんとかに、いろいろ言われて、自分の思い通りにならなかった。そういう、やりたかったことが出来なかった、やらずに終わったっていう思いが、お婆ちゃんの行動に表れる」「男親にはそういう部分はないの?」「日本の男は子育てに手をくださなかったからね。くださなかったのは、忙しいとかなんとか言ってるけど、とどのつまり、面倒だし、分からないからなのよね。手をくだしてないから、ああしたかった、こうしたかったっていう思いも薄い。だから、男親は孫にあまり関係しないんじゃない?」全面的ではないが、わかるような気がする。「でもね。お婆ちゃんて、えてして、あなたがよく言う設計主義に陥りやすい。私の言う通り育ててれば、子供はきちんと育ちますってね。半分は正しい。でも、あとの半分は、もはやお婆ちゃんに手だしはできない。私はたまたま社会の中で働き続けたけれど、私たちの年齢の女の人は、働いても、せいぜい子供が生まれるまでだったじゃない。彼女の人生経験は、その時点で、社会から家庭になっているのね。その時までの人生は、設計主義でいいのよ。お勉強して、いい学校に入って、いい会社に入り、いい人と結婚して、子供を作る。そこから先、社会で何が起きようと、自分はもはや当事者じゃない。でも、ほんとうは、人生ってそこからよね。本当に社会に接するようになったら、お婆ちゃんの設計じゃぁ、通用しないわよね。設計はベースにはなっても、ベースから先を自分で考える力、自分の考え方がなければ、生きてくのがたいへん。お母さん、お婆ちゃんが設計しただけの男の人は、面倒だから家庭から逃げちゃうし、もしかすると、人生からも逃げちゃってるんじゃない?」耳が痛い「しょうがないわよ。この歳になれば。半世紀前の設計思想で作られた男が、2015年にどの程度の価値があるか」「女だって一緒だろ?」「女は一般に社会では生きてないから、価値ということの意味が適用されないんだな」「...............」 「でも、お婆ちゃんの設計思想って、やっぱり問題あるわよね。半世紀前の設計思想で、これから80年、90年を生きてかなきゃならないお孫さんの育て方をどうのこうの言うって、私には、とても自信ないわ。だいいち、情報量からして薫(娘)にかなわないもの。お婆ちゃんの設計は、あくまでも補助の範囲で止めて、あとは次の世代に委ねるべきね。ネット社会は、子育てのあり方も確かに変えてると思うの」
January 8, 2015
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承前26日に出産した娘は31日退院予定朝8時すぎに電話「なんだって?」「ソファ9時すぎに来るって」「誰から?」「ヤマト」「あっち出たってことかな?」「かもね」娘宅が赤ちゃんを迎える準備のため、ソファーをこちらに預けて、スペースをつくるこちらはこちらで、ソファを収める準備をしなければならない到着したソファは存外に大きいまぁ、しゃあねぇなんとか、既存の応接に追加で収める「寒いねぇ」「もっと捨てないとダメだな。だけど、この寒さじゃ仕事にならない。今日は一日天気悪いから、作業は明日に回して、病院行って赤ちゃんの様子みて、IKEAでも行こうか」「生んだ日だけ行って、あと放って置いちゃァ、ひどい親だと思われるかもしれないしね。どうせ明日(30日)は行かなきゃ段取りの打ち合わせもできないと思ってたんだ」家の整理は、段取りばかり手間取り、見た目には全然進まない。そんなことを言い出したのは、もうお昼ちょうどシチューの煮込みも終わりつつあり、娘の病院まででかける「寒い日に来てくれてありがとう」意外に歓待「旦那は?」「今日は寒いから来ないんだ。誰か来てくれると、赤ちゃん預かってくれるから、助かるんだ」出産すると、授乳などのこともあり、一日じゅう母子同室が最近の傾向らしい「赤ちゃんは、いまの時期夜行性だからね。夜中にお腹すいて泣くから、お母さんたちは寝不足になっちゃうんだ」「名前決めたのかい?」「まだ決まらない。最期二つに絞っているんだけど、意見が合わない」「旦那の言うとおりでいいじゃないか」「だけどなぁ、友だちといっしょの名前なんだよな」「いいじゃないか。名前なんてのは、よほどのことがなければ、誰かといっしょだぜ。変な友だちなの?」「いや。二人いて、二人ともいい子なんだけど、二人とも気が強いんだ」「いいじゃねぇか。ウチの博子さん(カミサン)も気が強いぜ」「こんなんじゃないんだよ。友だちにはいいけど、いっしょには暮らせない。でもね、名前決まらないと、お乳やってても、名前呼べないから不便なんだ」「なんて呼びかけてるの?」「あかっち.....」「.........」「退院したら、ウチ来るの?それとも、うちに帰るの?」「うーん。私はそっちへ行きたい気もするんだけど、旦那はそうでもないんだ」「ウチも準備は進めてるけどね。でもウチは寒いぜ」「うちだって寒いよ」「でも狭いから暖房費けちらなきゃいいじゃん」「そうもいかないんだよ。夜泣きがひどいから旦さんが気の毒(旦那は研究職で神経質というわけでもないが、娘は邪魔しないように相当に気をつかっているようだ)」「ウチだって一緒じゃない」「お宅は広いし、暖房コスト安い(確かにオール電化で光熱費は抜群に安い)。それに二人とも経験者じゃない。うちは賃貸だから、水道光熱費高いんだよ(娘宅のほうがはるかに高い)」「...............」小一時間病院にいてから港北のIKEAに「休みじゃないよね」「だいじょぶ。一年でも有数に混む日に休むヤツはいない」思った通り、四時にもかかわらず、けっこうな人出例によって、Outletから入り、カミサンがわけのわからないモノを買い漁る僕は僕で、ステンレスの流しを買おうとして、かろうじて思いとどまった「その引き出しみたいのはなんなんだい?」「見た通りの引き出しよ」「そんな一個だけ引き出し買ってどうするんだ?」「下に車輪がついてるんだよ。まぁ見てらっしゃい」帰宅して、応接のセンターテーブルの下に収めたら、なるほど だった「それはなに?」「本棚の間仕切り」「二個も?何するんだい?」「だから、本棚の間仕切り」意味不明「あなたこそ、それはなんなの?」「ゴミ箱に使えるかなと思って」我が家は、ゴミ箱というものがあまりない「そのカーテン、どこで使うの?」「どこかで使えるでしょ」目当てのものは一応ある。「だけどなぁ、こんな値段でこんなもん売られちゃあ、皆さん困っちゃうよ」「しょせんNorwegian Woodでちゃっちいんだけどね」「人間労働の付加価値が認められていないみたいで、嫌かも」「そうじゃあないんだよ。昔の僕らがいっぱい、Unnecessary intermediate layers(不必要な中間流通段階)に金を取られすぎてたのさ。それが付加価値サービスだったかどうかは、もはやわからないんだけど、その中間流通段階で食べてた人たちがいっぱいいたんだよ。それが排除されてきたのがこの四半世紀。それがデフレと言われているいまの状態のひとつの側面だと思うよ」なんと、IKEAから家まで17分で帰った。
January 8, 2015
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