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承前文禄慶長の役(=朝鮮出兵)は負け戦だった。1698年8月の秀吉の死を名分にして、その年の11月にはほとんどの部隊が帰国している。だが、負け戦とは言わなかった。昭和の大日本帝国不敗神話が、第二次世界大戦で潰えるまで、日清、日露のみならず、神宮皇后三韓征伐、元寇と、日本は負けたことがないことになっていた。今でも第二次世界大戦以外日本は負けたことがないと思っている方もいらっしゃる。最近の人は、そもそもそういう発想がない。良いことだ。しかし、第二次大戦でも日本は、再び敗戦と言わず、終戦と言った。文禄慶長の役を、今日の僕らも、そこに負け戦があったという認識はない。せいぜい引き分け。時の支配者秀吉が一人出兵を言いだし、その秀吉が死んだから、兵を引いた。勝手にこちらが兵を引いたのだから敗戦ではない...だが、出征した諸大名家中にあっては、犠牲者、負傷者、行方不明続出。負け戦でもないのに、財政はひっ迫し、恩賞なく、不満が鬱積する。そこに関ヶ原の戦い。より大きな、目に見えるイベントに、文禄慶長の役のことは陰に隠れ、過去のこととして、当事者以外の世間一般は、もはや見向くことをしない。勝者?朝鮮政府はまず日本の内情探索のため1604年に探賊使として惟政を対馬に派遣したが、征夷大将軍徳川家康は宗義智に命じて京まで呼び寄せ、翌1605年上洛して伏見城で会見した。惟政は日本側の実権が徳川に移ったことと家康の和平の意向を確認し、その後朝鮮より正式な使節である回答兼刷還使が派遣されて和平が果たされたのは、1607年二代将軍徳川秀忠に対してであった。(Wikipedia)関ヶ原戦の勝者家康が、力でもって豊臣氏から政権を簒奪した。だが、実際は違うかもしれない。織田信長は右大臣。秀吉は、関白、太政大臣、太閤。幕府=武家から見ると、織豊政権は王政復古という面がある。信長は平氏、秀吉は雑兵の出で将軍にはなれないと、我々は教えられてきた。政権を取れるならば、王政復古だろうが、幕府だろうが、かまわない?しかし、源頼朝は、平氏を破ると鎌倉に新政権を樹立し、朝廷とは距離を置いた。朝廷は、その後、承久の乱、建武の中興と、たびたび政権奪還を目指し、実は、織豊政権において奪還に成功したという見方もできる。幕府将軍、関白、太政大臣、いづれも、朝廷(天皇)が与える官職であり、秀吉をして朝廷から独立し得る存在たる征夷大将軍を不可とし、内大臣を与え朝廷内に組み込んだは、朝廷の意思でもありただろう(秀吉が将軍職を不可としたとの説あり)源氏に滅ぼされた平氏は日宋交易を手掛けていた。明との交易のため、自身を日本国王と称した足利義満は不興を買ったという。その実態は、明が日本に朝貢を要求し、それを義満が甘受して交易の利を得たと看做されたからであろう。中国歴代王朝は冊封制度を敷き、属国に朝貢を強いた。古来、日本は中国中央王朝から距離を置く人たちの国である。朝廷とその家臣団にも、半島からの渡来者が記録に残るところあり。その日本に、中国は朝鮮半島を通じ圧力をかけ続けた。その一つが元寇。明国からの朝貢要求は、義満の時代に終わったものではなく、その後も折あるごとに、諸大名など接点を通じ、交易の利を説き、朝貢を要求したであろう。朝鮮出兵は、信長、秀吉個人の意思のみに拠るものではない。朝廷という官僚機構は、朝貢拒否をもって日本の原点ととらえ、上洛し覇をとなえる者には、朝貢要求に対し毅然たる態度をとることを要求する。それが、文禄慶長の役の大きな背景にあるやに思う。文禄慶長の役は、戦いそのものは負けないし五分五分としても、戦の目的が、明からの朝貢要求拒否にあったならば、結果、十分その意味を果たしたともいえよう。このようにみれば、負け戦の責を誰も追わず、責を問うこともなかったことが合理的に説明できる。戦後処理は、新たに建てられた幕府が仕切り、その面で旧政権の責任は問われることがなかった。頼朝は平氏を打ったが、京に拠らず、鎌倉に政権を置いた。家康も幕府を、京都でも伏見でも大阪でもなく、江戸に開いた。言うまでもなく江戸は徳川領であり、関東という点でいえば、頼朝の鎌倉にもちなむ。今の我々は、江戸から東京と日本の実質首都であり続けた都市に幕府を開いたは当たり前と思う。しかし、徳川の江戸、関東支配は、1603年という時点でみれば、わずか13年。都市インフラ面からみても、京都、大阪はおろか、伏見にもかなわぬ一寒村に過ぎない。実際、家康自身、江戸にはほとんど居たことがない。それでも、家康は幕府を江戸に開いた。朝廷と宗教勢力から、行政機能を遠ざけたのである。関ヶ原戦から、大坂冬の陣、大坂夏の陣、大名改易を見ていくと、西軍系、或いは、豊臣系諸大名の多くが、滅ぼされ、隠居を命ぜられ、或いは領地を没収されている。中で、外様とはいえ、東軍方に参加し、奮戦した福島正則家、加藤清正家は、豊臣家滅亡後の1624年、1634年にそれぞれ改易となるが、伝わる改易理由は無理筋のように思える。これら諸大名の経歴を良くみていくと、多くに共通するのは、文禄慶長の役に際し、朝鮮半島で奮戦が伝えられた家系であることに気づく。(福島、加藤清正両家と似た経歴の加藤嘉明家も1641年に改易、但し、各家とも、のちに旗本に加えられるなど、死罪を伴う処分ではない)朝鮮通信使の歴史は、1604年の「探賊吏」に始まり、その後、1607年、1617年、1624年は、「回答刷還使」、1636年以降「朝鮮通信使」となった。つまり、朝鮮側の認識として、少なくとも1624年までの使節は戦後処理交渉を目的とし、名称変更は、交渉終了を朝鮮側が認識したことを示す。これと重ね合わせると、関ヶ原戦から江戸初期に至る諸大名消長には、朝鮮側からの要求による「文禄慶長の役」戦後処理の側面がありたことを感じる。文禄慶長の役は、秀吉=王政復古政権主導に始まり、戦後処理は、ふたたび武家政権である徳川が仕切った。ほどなく明は滅び、朝鮮は極度の疲弊にあった。勢いをかって、明、朝鮮が日本を攻める恐れはなかった。もし攻められる危惧があるならば、内乱などやっている場合ではない。しかし、朝鮮が明らかに日本の非を問い、戦後処理を要求する「探賊吏」、「回答兼刷還使」の派遣に対し、家康以下幕閣はそれを受けた。なぜ家康は、文禄慶長の役を終息に導き、朝鮮から屈辱的な名を冠する使節を受け入れ、その要求に応えていったのか?徳川幕府は武家の政権である。武士は、戦闘を本文とするが、戦うことのみを職能とするものではなく、合わせて教養と人格を要求される。武家が朝廷官僚を嫌うことは、朝廷とは別に、幕府という機構を武家主導で設けてきたことから明らかである。古来、官僚は知識、制度の運用に優れるが、過去の経験、形式に囚われ、現実を忘れ原理主義に陥り易い。その対局が、現実の戦いに自らの命をかける武士である。1467年応仁の乱に始まる乱世が100余年続き、その果てが朝鮮出兵。何を目的とし、いづれが着地とわからぬ戦乱の中で、肉親、朋輩が命を落とし、家が滅び、民衆は困窮、疲弊する。然るに、公家=朝廷官僚は荒唐無稽な過去の先例、形式の踏襲に明け暮れ、期待した太閤秀吉も、反対勢力の武器を奪い重税を課すのみ(刀狩、検地)。あげく他国へ派兵し、さらに犠牲と出費を強いた。これ以上の戦をやめ、国内体制の再整備を行う新政権は必須だった。新政権は、既得権をふりかざし、ありとあらゆる手段を使って折あらば影響力を及ぼさんとする旧勢力とは切り離しておかねばならない。半島に侵攻しても、犠牲多くして得るものは少ない。ことあらば対外強硬に走り、国に新たな犠牲を強いる者たちは、説得し、考えを改めさせ、それでも従わぬも者は排除する。徳川家康が金地院崇伝に命じて起草させた禁中並公家諸法度は、慶長20年7月17日(1615年9月9日)、二条城において大御所徳川家康、将軍徳川秀忠、前関白二条昭実3名の連署をもって公布された。第一条に曰く「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」(朝廷におかれましては、学問を第一になさりませ)=朝廷は政治に口を出すなである。また、第7条には、「武家ノ官位ハ、公家当官ノ外タルベキ事」(公家の官位は、武家の官位とは別のものとする )とあり、武家が朝廷から与えらる官位は、あくまでも名目に過ぎず、武家は朝廷に従属するものではないと言っている。これは、当時において、朝廷の官位を与えることがまだ武士を従わせるに有効だったことを示している。家康は、豊臣家(=秀吉、秀頼)は、関白、太政大臣の位を与えられる代わりに、朝廷勢力の自己実現に利用され、武士に犠牲を強いたと認識したのだ。大阪夏の陣で豊臣が滅亡。その直後に出された法度を見れば、秀吉以来の諸政策の背後に朝廷=公家勢力が介在したは明らかであり、このとき、表にあらわれた徳川vs豊臣だけでなく、陰に隠れて武家vs公家の政争にも決着があったことが知れる。明治新政権は、尊王攘夷をとなえ、倒幕を実現した。攘夷は朱子学に準拠した水戸学から派生したと言われるが、僕は、そもそも朝廷勢力=官僚そのものが保守排他的、排外主義なのであり、元来、尊王すなわち攘夷と観る。排外主義そのものは、必ずしも頑迷固陋と否定されるべきものでもない。今日TPPにおける農業問題がまさにそれであり、要するに、我々は現状維持がかなわぬところで、賛否両論ある中、何らかの解決を見出さねばならぬのだし、当時の状況もまさにそうだったのである。鎌倉、室町、江戸、幕府と朝廷との間には、それぞれ時代なりの緊張があった。盤石に思えた鎌倉幕府を、朝廷は元寇により生じた武家間の乖離に乗じて分断、倒幕に成功する。しかし、尊氏は逆に朝廷を分断、改めて幕府を開く。しかし、京都におかれた幕府は自壊、若しくは、朝廷側の画策か、基盤弱く、国内に長期の混乱を招く。朝廷が、元寇において、得ることなき外征が、武家の弱体を招く先例を学んだものか、或いは、武家そのものの自壊なのか?再び、統一に達した武家は、得ることなき文禄慶長の役にまい進し、その後も武家間抗争の内乱が続く。この項続く
January 31, 2011
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金曜日夜の会食で、メンバーの一人が、戦争体験者の方々から伺ったお話を披露してくれた。第二次大戦の真珠湾攻撃に加わった人がいて(ご存命の模様)、海兵60期あたりと思いますが、航空母艦加賀の分隊長。真珠湾攻撃で、自分の隊の部下を失い「おもやり予算だか、日米友好だか...それが本当ならば、部下の遺骨を返してほしい。真珠湾攻撃で死んだ仲間の遺骨は、誰も戻ってきていない」とおっしゃる。悔やむのは、「くせが出て練習通りにやってしまい、部下を失った」こと。真珠湾攻撃前、海軍が猛訓練に明け暮れたのはよく知られている。その成果で攻撃は成功したのだが...「我々加賀の攻撃隊は第二陣でした。第一陣は奇襲成功。第二陣となると相手も反撃するようになっているところへ、我々は先頭に続いて次々と急降下。爆撃のあと、練習通り右に反転するのだけれど、それはちょうど敵の機銃掃射に腹をさらすことになる。最初に自分が右旋回すると、後続機も次々と同じコースへ右旋回。結局五機編隊のうち三機が撃墜されることになりました。つい練習の癖が出て、右旋回したのですが、左へ行っていたら部下を死なせることはなかったのに、と悔やまれます」真珠湾攻撃で、よく"無能な南雲長官は軍艦だけを目標にして、弾薬庫、工場などは爆撃せず、そのまま帰投した。あのとき第三次攻撃をしておけば、その後の戦局は大きく変わっていた"ということを言ったり書いたりする人がいます。しかし、実際は少し違うと実際の攻撃に参加した方は言います。「そもそも真珠湾攻撃そのものが、世界戦史に例をみない大規模艦隊による渡洋攻撃でした。あとからは、航空燃料も、弾薬も、余裕があったのに帰ってきて、第三次攻撃も十分可能だったように見えますけれど、実際は、全部を使い切って、帰りの途中で敵の追撃を受ければ、防御の術がありません。攻撃だけでなく、帰りのことまで考えなければ作戦は成立しません。真珠湾攻撃はあれが本当にせいいっぱいだったと思います」「お守りには、やはり何か特別なものがあると思います。航空兵でもお守りがないと言っていた奴に限って、よくやられてしまう。遺品を整理していると、なにもなかったように、中からお守りが落ちてくる。私も、飛行機が撃墜されて水中に投げ出されたことがあります。上も下もわかりません。たまたまお守りが向いていく方向を見て、あああちらが上だとわかり、水上に泳ぐことができて助かりました。お守りは大事にしなければならないと思いました」「海軍と陸軍は仲が悪かったといいますけれど、前線ではそうでもなかったです。ガダルカナル戦の頃、撃墜されたパイロット途中の陸軍基地の助けで、ラバウルに帰ってこれるということもありました」「1943年4月18日、連合艦隊山本五十六司令長官が、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空で、乗機一式陸上攻撃機をアメリカ陸軍航空隊P-38戦闘機に攻撃・撃墜され戦死されるという事件がありました。P-38は、太平洋戦争初期から中盤にかけての米軍主力機のひとつで、簡単に撃墜できるというので、日本側ではぺロハチと呼んで馬鹿にしていました。海軍中央では、ブーゲンビル島上空はまだ日本が制空権を持っていると思っていたのですが、実際はかなり米軍が押し気味でした。長官機が撃墜された当日は、長官の視察があるとは一部の人間しか知らず、パイロットたちは今日はやたらp-38が多いなと話しをしていると、ゼロ戦が一機着陸してきて、山本長官機が撃墜されたと言い、皆驚きました。暗号が解読され、待ち伏せされたといいますけれど、撃墜されたのは、中央が現場の実態を知らず、6機の護衛だけで出掛けるような計画を立てたことが原因ではないでしょうか」「エースパイロットと言われた坂井三郎の"大空のサムライ"には、アメリカがウケを狙って脚色した部分があります。戦闘中に敵の撃墜を確認することは、目の前で敵が空中分解でもすれば別ですが、煙をはいたぐらいでは撃墜かどうかわかりません。また、一機の敵を何機かで攻撃することもあり、本に書かれた基準でよければ、撃墜数はもっと多かったはずです。僕でも200機以上になるでしょう」「1944年10月23日から同25日にかけて、日米両海軍が、フィリピン周辺海域で、史上最大規模の海戦を戦いました。いわゆるレイテ沖海戦です。日本側は、米軍のフィリピン進行を阻むことを目的に、海軍の全戦力を挙げて、一つの艦隊(栗田艦隊)を囮に、米航空部隊を引きつけ、その隙に日本の航空部隊が手薄になった空母群を襲うことを企図した、壮大な作戦でした。これほど大規模な海戦は、この前にもこのあとにもありません。ところが、囮になった栗田艦隊は、作戦の途中で不可解な反転を行い、日本は決定的な戦機を逃し、致命的な大敗を喫します。このとき、栗田艦隊では、下の連中は方角が違う、方角が違うと叫びましたが、新たに発見した敵艦隊の攻撃に向かうと言って上層部は聞く耳をもちませんでした。本当のところは、栗田長官は怖気づいたのだと思います。戦後、栗田長官は、不眠不休で疲れていましたから ポツリと漏らしたことがあるそうです」「レイテ沖海戦で日本は初めて特攻を行います。特攻を計画したのは大西瀧次郎中将と言われていますが、実際は少し違うようです。大西中将は特攻出撃者たちを握手で送り出しましたが、握手した人(事情で途中で引き返した)は、それこそ人生観が変わるような感動だったと言います。中将の副官であった門司さんという方は、中将は、御上(天皇陛下)に、日本はもはやここ(自殺攻撃)までやらねば戦いを続けることができないということをお知らせする、そのことを出撃者に託されていた。ところが、その意思は、間に入った人たちの思惑の中でゆがめられ、ついに天皇陛下に届くことはなかった...」どれも、驚くべきお話し。特に、特攻が「ここまでやらねば、もはや戦えぬ」ということを、天皇陛下にお知らせするためにはじめられたとは...詭弁ではあるまい。これは、大西中将が、戦争をやめることができるのは、もはや天皇陛下(昭和天皇)だけと認識していたことを示している。今も昔も、前線部隊は上層部の命令に従って行動することが求められる。勝手に戦うことがご法度であるだけでなく、自分だけの意思で戦うを放棄すれば、栗田に見られるごとく作戦が成り立たず、大変な犠牲を生じる。大西の立場(第一航空艦隊司令官)は、参謀本部から特攻が命令されれば拒否できる立場にない。部下を犠牲にすることに葛藤があったことは当然であろうし、さすれば、せめて天皇陛下にこの実態が届けば、無謀な戦争をやめることができるとの考えに至ったこともやむなき道理。戦争を始めることも、やめることも、或いは、続けることも、現場を預かる軍人の意思で決められることではない。戦争を始めるのも、続けるのも、辞めるのも、軍人(だけで)はない。軍を含む官僚、ひいては、国民(軍人を含む)=人間である。太平洋戦争の戦争責任を、軍人だけにおしつけ、官僚、国民は口をぬぐい、自分に向き合うことをしてこなかった。日本の借金の実態は、太平洋戦争後の状態に近づきつつある。人々が苦しんだのは、米軍空襲だけではない。わずか数十年前、私たちの先祖は、苦しく屈辱的な戦後を生きなければならなかった。それは、軍人(のみ)の責任にあらず、現場を戦う人たちでなく、中央にある(軍を含む)官僚根性の責任であり、尻馬に乗って考えることをしなかった私たち国民の責任なのである。これら伝わることの裏側を観るに、翻って今日、菅直人氏は、果たして戦争をやめる決断の出来る人だろうか?
January 30, 2011
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壊れた携帯が、ワンセグテレビとして使えた。惜しげがなくて、こいつは好都合。寝床の中で、ふとんを頭からかぶってサッカー観戦。ところが、始まる前に寝てしまい、気がつくと試合は既に後半も終了に近い。スコアが0-0で、まだ勝負はこれからと知り、そのままに。延長が始まった頃まで、起きていたのが、また眠りに落ち、気がつけば延長も後半。ゴールが決まり、1-0終了間際のファウルのフリーキックを切り抜け、アジアカップチャンピオン。苦手の中東勢、韓国、オーストラリアとの戦いを勝ち抜いた価値ある優勝。日本サッカーは勝つコツをつかみかけている。しかし、今後、日本の進化を目の当たりにした、他のアジア勢も変化してくる。アジアサッカーの将来は、競い合う中の進歩から生まれる。
January 30, 2011
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26日に鹿児島、宮崎県境にある霧島山系の新燃岳(しんもえだけ)(1421メートル)が噴火した。しばらく前に、東京の三宅島で、ようやく最後まで残っていた立入禁止区域の解放が決まったが、自然現象の前に、我々は未だ無力でしかない。三宅島出身の人があり、話をした。「島にはよく帰るの?」「あまり帰りません」「帰るときは調布から帰るの?」「ああ、調布からはヘリコプターですね」「ヘリコプター!?あまり乗れないんじゃない?」「えぇ。10人ぐらいですか」「あのYS11みたいのは飛んでないんだ」「飛行機は羽田からです」「調布からコミューターの飛行機は飛んでないの?」「あれって、体重聞かれるんですって?」「ああ。僕じゃあ間違いなく聞かれるだろう。少なく申告したりして」「いえ、重いからって乗れないわけじゃないんです。バランスをとる必要があるから、あれで座席決めるんです。でも、調布からはヘリコプターですね」「どれぐらいかかるの?」「1時間40分」「へっ?早いんだ」「えぇ。でもお金も高いんで、両親は会社の用事で往復しますから、別にお金かかってもいいんですけど、私は船で」「高速船?」「いえ。ふつうにのんびり行きます」「でも、あれって結構早いんだよね。一昼夜ぐらい?」「朝出て夕方には着きます。7時間」「もう噴火の影響はないの?」「そうですねぇ。結構まだ臭いはあるんじゃないですか」「えっ?まだ?」「えぇ。風向きによってはまだまだ」「雄山って結構すごいんだよね」「えぇ。山の形が変わりましたもの」「えっ!」「雄山って、もともとはきれいな円錐形の富士山みたいな山だったんですけど、今見ると頂上のあたりがだいぶん平たくなっていて、台形みたいに見えるんです」「...今度、立ち入り禁止区域が解除になったよね?」「えぇ。でも、あのあたりは、それこそ家も畑もダメになってしまうほどガスが濃かったので、立入禁止が解除になっても、さあこれからが本番だぞって感じですね」
January 30, 2011
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しばらく使っていた携帯電話ちょうつがいのところが壊れ、携帯ショップへ「修理できる」というが、多少費用がかかる。「では、新しいのに切り替えは?」と聞けば、なんと今までより安くなるという。「それでは」と、今はやりのスマートフォンに切り替えi-phoneもいいけど、ワンセグにこだわり(別にそれほど見るわけじゃないが)ガラパゴス「しまった」と思ったのは、しばらくしてから。操作がわからない...当たり前だが、今までの機械とまったく違うメールもままならない。使っていくうちにどうにかなるだろうけれど、しばらくは不自由。帰宅してカミさん(通常のに加えてi-phoneも持っている、仕事の関係でアンドロイドも使える)といろいろやってみて、「i-phoneより全然使いやすいよ。要はどこのメーカーであれ、後ろにあるのがi-phoneなのかgoogleなのかが違うだけ。いつかは乗り換えなきゃいけないんだから、早いうちがいいよ」O/Sみたいなもんか?何のこっちゃ?怖いと思ったのは、しばらくすると携帯の大部分はスマートフォン化する携帯の世界には、男女差があって、男の子は、ものすごい勢いでスマートフォンに切り替わりつつあるらしい確かに、ウチは、息子はグーグルフォンに切り替わり、携帯売ってるメーカー務めの娘はまだ在来携帯カミさんがi-phone(個人用、会社支給は在来品)僕がこれでガラパゴスだから、既に、3/4がスマートフォン系に切り替わっている。切り替えの最初、かなり億劫に思うお年寄り(僕は、自分はそうじゃないと思っている)は、もっと大変じゃなかろうか?なにげなく過ごしているが、世の中は、便利になった反面、弱者、新規参入者に対し、ものすごく敷居が高くなってしまっている。紙の新聞を読まなくなってだいぶになる。紙の新聞を毎日宅配してくれるのは、あと何年もないかもしれない。紙の新聞の手軽さは、PC抱えて読むよりすぐれている部分もある。PCなど機械を使わない人は、新聞も読めない社会とは、果たして健全なのだろうか?ガラパゴスをいじりすぎて、キーボードタッチがふだんと違う。嫌だな、歳を感じる。
January 29, 2011
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飲みに行った先の女の子が、山口の出身。面白い子で、酒と話しが進むうち、山口は田舎町で何もないという。「初めてお目にかかったお嬢さんのふるさとに、変な話じゃ申し訳ないか」と切り出すと、「そこまで言ったら、話し聞きたくなるじゃない」ならば と、旧知の設計会社社長から聞いた話を多少脚色する。「四半世紀ほど前、設計会社の社長に連れられて山口へ行ったんだ」「へーっ?」「夜はやることがないから、どこか面白いところへ行こうということになって、ストリップに行った」「湯田温泉かしら?」「そう。ひとつは温泉街だったが、あとの二つは別の場所だったような気がする」「一か所じゃないの?」「うん。三日居たから、一晩にひとつずつ」「まぁ...」「最初の晩で気に行った社長さんが、今日も行こうというから二晩目は別の店へ」「あらあら」「二晩目の店に出る人は、昨日の人と一緒だった」「そういうのは別の人がいいの?」「いや、気にいれば別に同じ人で全然かまわない。ところが、翌日、もう一軒別の店に行くと、また同じ人たち」「同じ人たちしかいないんだ!」「あなたがた、よほど気にいったんだねぇと、舞台のおねえさんに言われて、あとで聞いたら、店三軒を三組で回りもち。同じ店に生き続ければ、三組見れたものを、河岸を変えたところで、同じ人たちを三回観ることになった」山口で、三か所の劇場で、三日とも同じ踊り子さんたちを観ることになって、舞台から、好きねぇと言われたのは、ほんとに聞いた話。「山口は魚おいしいでしょ」「うーん。山の中だからね」「いや、下関はうまい」「そうなの!あそこはおいしい」「駅の裏に市場があって、そこで食べる。廉くてうまいんだ」「下関は、瀬戸内と日本海と、豊後水道と三つ海があるからね」一緒した友人は、土曜日の昼銀座で会社のOB会という。「歳とって酒飲めない人も多いからね。お昼でお開き。飲める人たちと僕は夜も飲むけれど、土曜の銀座じゃやってる店は少ない」「新宿、渋谷はともかく、銀座は億劫。帰りが遠くてひと仕事。金も車もないし」「でも、まだお客さんは多いでしょ」「昔に比べればまったくだ。それに俺たちの歳で銀座行くのは、偉い奴ばかりになって、数が少ない。客の主流は、30代、40代だから、女の子の話題も、そっちに合わせてるから、俺たちにはつまらない」「話しわかんないからね」「そこはそうでもないんだ。女の子は娘たちと同じ世代だから、30代、40代よりは、むしろ良くわかるところがある」「そうかもね」「だから、つまらないんだ。娘と話してるようなもんだろう?なんか、娘相手に馬鹿言ってる場合じゃないって感じになって」「...」***当の知人というか、大先輩の、設計会社社長さん齢80にして脳梗塞に倒れ、病床にある。たまたま、ふとノート(といってもPC上のだが)を見ると2008年の5月23日のメモに、「ご存じのふるあめりかに袖はぬらさじ」とだけあった。思い返すと、それはかの先輩と交わした会話。「ふるあめりかに袖はぬらさじ」は、有吉佐和子の原作で、昭和47年の文学座公演で初演されて以来、杉村春子によるお園が当たり役として繰り返し上演され、昭和63年からは坂東玉三郎に受け継がれてきた名作舞台。ご存じと言われても、こちとら有吉も玉三郎も知らない。調べようと思って、そのままになっていたことを思い出す。日付は、カーネルさんが、倒れられたとき。岩亀楼(実在した女郎屋)の写真とか絵図とか見ていたときのことだったと思う。尊皇攘夷、開国と国論を二分した幕末。横浜岩亀楼では、花魁の喜遊が病床にあったが、想いを寄せる通訳藤吉が持参する南蛮渡来の薬でようやく回復。ある日、岩亀楼に、薬屋の大種屋がアメリカ人「イルウス」を伴ってやって来る。通訳に籐吉がつく。遊女は日本口と唐人口に分けられ、唐人口にはなり手が少なく見栄えのしない遊女ばかり。イルウスは差別だと憤慨し、薬屋の主人にあてがわれた喜遊を寄越せと言う。想いを寄せる喜遊売り買いの通訳に、藤吉は悩む。しばらくして、イルウスが喜遊を買い取ることが決まり、藤吉との仲を知るお園が呼びに行くと、呼喉を突いて死んでいる喜遊を発見する。想い合っていても、遊女は病が癒えれば店に出ないわけにも行かず、藤吉には喜遊を身請けする金はない。悩んだ末だった...やがて、喜遊は、攘夷女郎として瓦版に取り上げられる。「異人を嫌い、懐剣で喉を突いた、あっぱれ烈婦!」喜遊辞世の句として「露をだに厭う大和の女郎花、ふるあめりかに袖はぬらさじ」が紹介される。しかし、実は喜遊は読み書きができなかった。お園は、以前にも同じ句を聞いたことがあるのを思い出し、話は攘夷党の創作と気付く。攘夷女郎「喜遊」の評判に、岩亀楼には客が詰め掛け、話を聞きたがる。お園は、初め本当のことを話すが、主人に言われ、話は真実とは違う方向に変わっていく。「異人嫌いの喜遊、本邦婦女烈伝の一」お園の話しに喜遊は、いよいよ名を馳せる。しかし、ある日ふとしたことからお園は、あれは攘夷党のつくり話しと暴露。怒った攘夷党に刃を向けられ、お園は、亀遊は淋しくて死んだのだと言うのであった。2008年の5月23日のメモに、カーネルさんが、「ご存じのふるあめりかに袖はぬらさじ」とおっしゃったとある。ご存じと言われても、こちとら有吉も玉三郎も知らない。調べようと思って、そのままになっていた。日付は、カーネルさんが、倒れられたとき。ストリップとか、そんな話ばかりで、今の若い人は、しないよなぁ。倒れる前夜も「女郎屋」の話そいつぁ自業自得だ。でも、我々とは違って、品と教養のある人だった。(死んでないって)
January 29, 2011
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斎藤さんは建具職人。僕らは親方と呼ぶ。函館のご出身で、同じく建具職人だった親御さんの三人兄弟末っ子。函館小町と呼ばれた母上似と自称。昭和30年、20歳のときに、青森に在る人から呼ばれ、函館から連絡船に乗る。知る人があり、料金を払う必要はなかった。ところが、案に相違して、青森に着いて知人の店を訪ねるとあいにくのお休み。ならばしょうがないと、駅のストーブで一晩過ごそうと青森駅へ。ちょうどそこへ、上野へ行く急行列車があり、ままよと、そのまま列車に乗って東京に。一昼夜かけて上野に着いたは翌日の深夜。そのまま稲荷町方面へ歩き、麻雀を打って夜を明かした。文京区に従姉の家がある。翌日そちらを訪ねると、あいにく従姉は外出中で、区役所に努めるというつれあいの人がいて、とりあえずそちらにお世話になった。縁あって、外神田の建具屋に徒弟として入る。驚いたのは、親方と徒弟の区別の厳しいこと。給料、食べるもの、寝るところ。何から何まで全く違う。さらに驚いたのは仕事の細かさ。函館では、雨戸の敷居と鴨居の「サル」穴は、機械で下まで抜いてそのままだが、東京では手仕事で、穴は途中で止める。止めるだけでなく、鬼くさびと言って、穴の入口がせまく、奥が広い。だから、使ううちにサルが穴になじみ、痛みが来ない。「東京の仕事は細かい。いい仕事をさせられた。材料は、青梅まで買いに行った。都内でも良い材木は手に入ったが、値段が高い。今でも東京の家は東京の材木を使うのが良い。南洋材など値段は安いが、土地の木を使わないと狂いが出る。土地の木は、季節と気候になじみ、持ちが良い」「便所の扉のつまみがあるだろ?あれは黒壇とか紫檀とか堅い木を使うんだが、値段が高い。材木屋へ行って、材料を見たてていると、親方が、おい、それちょっと傷つけとけという。店の亭主がおやおや誰が倒したんだとかにやにや笑いながら、傷ものということで値段を引いてくれる。こっちはそのまま使うわけじゃないから、キズものでも良いんだが、お互いわかってる同士のかけあいみたいなもの。そのまま値引いちゃお客さんみんなに引かなきゃいけねぇからな。うちの親方は大したもんで、あのつまみ一つでも同じものはつくらなかった。みんな微妙に変えるんだ」「雨戸の桟てあるだろ?今の連中は雨返しを外側につけるが、ありゃあ本来内側につけるもんだ。内側につけて、桟の底を外側に向かって少し斜めにつけてやる。そうすると水が中に入んないんだ。外側に雨返しつけると、強い雨だと中に水が入っちまう。そのひと仕事が職人なんだ。別に金余計にとろうってぇんじゃない。そういう仕事をやってると、次の仕事が来るんだな。だから、そういう仕事をしねぇ若い奴に言うんだ。おめぇサラリーマンじゃ職人はつとまんねぇぞってな」「建築屋にもしょっちゅう喧嘩売るから、皆に嫌われる。俺に言わせりゃ喧嘩ってぇのは、自己主張であって、乱闘じゃねぇ。自分が良いと思うことを主張して、おめぇの言ってるのは違うんじゃねぇかって、聞くんだ。」そいつはそうだが、言い方が穏当を欠いてる。「たとえば電気のスイッチがあるだろ?あれって、外開きならどこつけてもいいが、内開きの扉で、釣り手の奥にスイッチつけちまっちゃあ、困るじゃねぇか。コンセントは違うぜ。コードが邪魔になる。配線の都合かなんかしらねぇけど、そっちの都合で設計しちゃ使う人が困るんだよ。子供が居るかもしんないから、スイッチはあんまり高くしちゃあいけねぇ。大人は下でも困らねぇが、子供は届かないといけねぇからな」「建具屋が建築屋にうるさいのはあたりめぇだ。お客には建具しか見えねぇからな。建築の具合が悪い、大工が手ぇ抜いたって、施主が文句言うのは建具屋だからな」何度も、それこそ喧嘩して、ようやくお互い相手の言葉が自分と同じじゃないことに気がついた。だから、人が聞いてると、僕らは喧嘩してるように聞こえる。
January 25, 2011
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承前先祖は津山藩士である。本家から分かれたわが家は江戸にあり、同姓の親戚(というが、少なくとも明治以前の血縁である)は、津山、小豆島、京都。岡山、香川にも親戚があるが、同姓ではなく、いつの親戚かはさらに不明。若い頃当惑させられたのは、祖父にありた強い反朝鮮感情。祖父は、明治17年生まれ。その時代の人としては珍しく転勤族であった。東京の出であるが、関西の泊園書院に学んだあと関西に長くあり、岡山は玉島の女学校、大阪の天王寺師範、鹿児島の加治木中学校、東京の大東文化学院を経て、関西大学で教授を務めた。経歴からみて、特段韓国、朝鮮と強い軋轢があったとは思えない。中国にも渡り上海で教えたことがあると、後年祖父没後に上海時代の教え子という方がわが家へ訪れ、伺ったが、いつのことか、父も知らない。(父は陸軍幼年学校に進み、関西にあった祖父とは、10代の頃、まったく接点を持たなかったようだ)中国については、極めて親密、かつ、尊敬を口にする祖父が、子供心にも明らかに朝鮮ないし韓国への反感を表に出して憚らなかったのは、もしや津山以来のものではと思い当る。侮蔑でも差別でもない。怨念とも見える反感である。あまりの理不尽に、理由を聞くことすら憚られた。父も理由は知らないという。津山にどれほどの反朝鮮感情がありたかは定かでない。だが、確かにかの地には、朝鮮への思いに翳を投じるものがあった。1600年、関ヶ原の戦において西軍大将宇喜多秀家は、敗戦没落し、その所領に小早川秀明が入った。小早川家は、元来毛利家から分かれたところへ、秀吉縁戚の秀明が、養子として入った。前当主隆景は、文禄の役に遠征し、帰国後、家臣団を連れて三原に引退。秀明が跡を継ぐ。秀明も、朝鮮へ出陣(慶長の役)したが、不首尾を問われ、それまでの筑前から北ノ庄(越前)への転封が、石田三成らから言い渡される。この転封は実施されることはなかったが、その過程で小早川家は多くの家臣を失うことになる。関ヶ原の戦いで、秀明は当初西軍にあったものが、東軍に投じ、それが、戦の帰趨を決したと伝わる。不首尾となれば、戦功薄く被害も大きかったであろう。朋輩を多く失うことになった朝鮮の地に、小早川家中として忸怩たる思いがあったであろうことが想像される。その小早川家が、関ヶ原の結果、主を失った宇喜多領へ入る。宇喜多家においても、関ヶ原戦役直前に内紛があったことが知られている。調停者は家康である。原因としていくつかのことが挙がっているが、宇喜多家も朝鮮出兵組。かなりの戦功を挙げ、秀家自身帰国後五大老の一に任ぜられており、犠牲者の功労に鑑みて、家中に撤兵への異論ありたところと思う。しかも、この両家は、朝鮮出兵当事者秀吉の猶子、養子なのである。関ヶ原の戦いでは東西に別れ、一方が勝者、他方が敗者。戦の結果、勝者が敗者の領地に入った経過はあれど、いわば宗家の政策を180度転換し、家中の犠牲を無にする朝鮮からの撤兵に、両家中こぞって異論なしであったはずがない。他国へ侵攻し、得ることなき撤退に終わった文禄慶長の役。犠牲者も多く、半島には強い反日感情を植えた。秀吉の死からわずか3-4月での撤兵が行われたことから、厭戦気分の蔓延ありたことは疑いない。だが、何をもって、秀吉が朝鮮半島へ兵を進めたかは明らかでなく、その死は撤兵のきっかけであっても、背景を説明するものではない。しかし、日本史の流れの中で、文禄慶長の役は、秀吉の死を境に転変急に終息。やがて、関ヶ原、そして豊臣から徳川への転換のダイナミズムの背後に隠れ、何事もなかったかのごとく消えてしまう。後継政権である徳川幕府は、秀吉の業績を否定することすくなく、なかんずく明らかな失政と思われる文禄慶長の役について、表立って徳川幕府の見解が示されたとは聞かぬ。だが、秀吉政策の継承は、はばかられる事情があったと思われる。徳川が豊臣の政権をより容易に簒奪するには、徳川後継に家康次男、かつては秀吉の養子であった結城秀康を当て、或いは、秀康をして豊臣秀頼後見として関白職にでもあらしめればよかったものを、家康は敢て秀忠を後継とし、秀康は、将軍の兄として別格の扱いは受けたものの、ついに政権を担当することはなかった。今日の日本で、文禄慶長の役における朝鮮半島からの撤退に異議を唱える人は、まずあるまい。だが、1600年の関ヶ原の戦い時点の事態は異なる。事情を知る政権幹部たる大名レベルでは撤退が合意されても、大軍を半島に繰り出し、犠牲者を出しながら、何らの報酬なく撤退という事実に、それぞれの家中に撤退への不満、継戦論なきわけがない。出兵、或いは、撤退、それぞれの責任を問う声もそれぞれあったに違いない。宇喜多家に見る関ヶ原前夜の内紛は、撤兵潔しとせぬ勢力が家中にありたことの表れではなかろうか。ゆえに、宇喜多がごときご大家内紛には、撤兵を主導した家康自らが仲裁に乗り出さざるを得なかった...それが、すべて豊臣ー徳川の政権争いという内政問題にとってかわられ、矮小化されてしまった。家康が、秀吉政策のほとんどを表だって批判しなかったのは、家康が秀吉政策にコミットしていたことを示すものだろう。中には、当然文禄慶長の役も含まれる。慶長の役は、日本にとって負け戦だった。長い戦国を戦いぬいてきた経験豊富な武将たちは、負け戦とはどういうものか、勝てぬ戦を続ける愚を知っている。だが、秀吉は戦いにこだわった。ろくに負けたことのない秀吉には、引き際がわからなかった?停戦の大義名分が必要だったところへ当の秀吉が死んだ。死をきっかけに、突如戦が終了し日本が撤兵したことでそれが知れる。和してのちふたたび戦えばよいぐらいの気持ちだったかもしれない。ところが、外国との戦いは勝手が違う。朝鮮(明がどの程度関与していたか?)は、謝罪と責任者の処分、拉致された朝鮮人の原状復帰を要求した。なぜならば、のちに朝鮮通信使とかわる朝鮮からの使節団は、1600年代前半のみ回答兼刷還使であり、回答と原状復帰を要求したことが使節の名称から明らかだからである。責任者の処分。秀吉一人が、朝鮮への出兵を唱え、日本中がそれに従った?第二次世界大戦と同じである。朝鮮への出兵は秀吉が主導し、それに諸侯が従った。戦争の共同謀議の責任者(A級戦犯)が秀吉以下の政権中枢にあった諸大名。現地で、明、朝鮮半島に恨みを買うほど残酷な戦いを行った者はいわばB級戦犯。有力諸候すべてが出兵に加担。厳しくA級戦犯を問えば、時の指導者全員連帯責任で体制がもたない。関ヶ原の戦いで決着がついている以上、関白、太政大臣の摂関制度であろうが、幕府であろうが、家康、徳川の主導に変わりは無い。幕府を開いたは、文禄慶長の役は太閤秀吉以下の政権の戦、新政権たる幕府の責任に非ずとの対明、対朝鮮の対外向け。国内向けには、表立った秀吉政権批判は避けなければならない。批判は自分たち自身に降りかかってくるからである。かくして、国内のカタルシス無きまま文禄慶長の役は収拾され、怨念だけが半島に出兵した諸家中に残った。津山は特に悩ましい。宇喜多秀家は文禄の役では大将、慶長の役では監軍にあり、戦功の一番。すなわち、朝鮮から見ればA級、B級両面での筆頭戦犯で、関ヶ原戦敗者。そこへ入ったが、関ヶ原戦勝者の小早川秀明。文禄の役では、義父隆景が奮闘=すなわち戦犯、慶長の役の秀明は不首尾=犠牲、残留者大元来義兄弟の家中に、それだけ矛盾、対立がある中、当主秀明が早世。そして改易。ただなかへ、さらに新領主森忠政が赴任するのであるから、混乱が生じないわけがない。忠政入作は1602年。安定から一転。1600年から1602年の間に、宇喜多ー小早川ー森と領主が変わる。森は徳川の意向を受け、戦犯処分、半島から拉致した技術者、持ち帰った宝物の返還を追及し、当然、対朝鮮主戦論には傾かぬ。一揆は、そういう中で起こった。幕府方針は対朝鮮融和であるから、忠政は、対朝鮮強硬派が多くかつ関ヶ原戦では敵対した宇喜多系を頼るわけにはいかない。頼ったは、旧小早川家臣、菅一党の有元氏。とはいえ、宇喜多にせよ、小早川にせよ、かつての朋輩の半島での犠牲に対朝鮮強硬論の出やすい環境の中に津山はありた。しかし、怨念は江戸時代を通じて実現することなく明治に至る。祖父の中にあったあれほど強い反朝鮮感情の源泉は津山藩にあると思うのはそういうことである。この項続く
January 24, 2011
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承前津山は美作である。元来が宇喜多秀家領。秀家は、鷹を100羽飼う鷹狩り好き。世話のための家臣を300名抱え、餌のため領民に飼い犬を差し出させたという。文禄慶長の役で半島に出兵し、関ヶ原の戦いでは西軍に与し没落。代わって旧宇喜多領に入ったは、文禄慶長の役で秀家とともに戦い、関ヶ原では西軍にあったものが東軍に投じ、戦の帰趨を決した小早川秀秋。備前、美作の二国55万石を所領としたが早世。小早川家は無嗣断絶により改易され、そのあとに森忠政が入った。その森家第四代長成が、中野犬屋敷の建設を請け負ったのである。ところが森長成は早世し、後継に指名された森衆利は、江戸に赴く途中桑名で幕政批判を行い、森家津山藩は改易になってしまう。その後、津山はしばらく天領となったあと、越前松平家から、松平宣富が入り、幕末まで津山は松平家の支配にあった。宇喜多秀家、小早川秀明には共通点がある。秀家は1572年生まれで秀吉の猶子、秀明は1582年生まれの養子。言わば、秀明は東軍に投じることで、義兄秀家領を入手したことになる。さらに、森氏のあとに津山に入った越前松平初代は結城秀康。1574年生まれの徳川家康次男、かつ、秀吉の養子でもあった。つまり、秀家、秀明と秀康は秀吉を介して兄弟関係。当時の大名縁戚関係は、そのように複雑なものとはいえ、秀吉一代の親子縁組がそれほどあるわけもなく、かつ、秀明父隆景、秀家自身、秀康父家康は、それぞれが五大老であることからみても、津山が秀吉ゆかりの大名たちの支配下にあったことは、偶然ではないと観る。森忠政も、秀吉から羽柴姓と桐紋の使用を認められ、「羽柴右近大夫忠政」と称したものであるから、津山藩は江戸時代を通じ、秀吉由来の家系が治める土地で在り続けた。津山を治めることは難しい。宇喜多家には関ヶ原直前に内紛があり、或いは、宇喜多、小早川両家の旧家臣が、森氏の美作入りに反発して一揆を起こす。越前松平家が入ったあともたびたび一揆がおこり、歴代領主と領民の間に、江戸時代を通じて軋轢があったことを伺わせる。もっとも、森家支配の時代の藩財政は、かなり豊かであったとも言われる。森氏系譜によれば、津山藩はたびたび幕府から賦役を命ぜられ、それを果たしている。賦役とは幕府が大名家、特に外様大名の体力を弱めるため、課された工事と理解してきた。国替えも同様である。しかし、実際は必ずしもそうではない。初代藩主忠政は、最初に所領した信濃川中島藩から、わずか3年の1603年に津山入り、1611年から28年の18年間に、名古屋城普請、京都御所造営普請、江戸城石垣普請、二度にわたる大阪城石垣普請の賦役を果たし、さらに、晩年、出雲・石見・隠岐の3ヶ国への加増転封を言われたものの急逝。転封は中止となる。森氏の場合、賦役のために津山を拝領し、その財力を投じたのではないかとさえ思える。徳川政権下で、大名は任国の徴税権は持つが、それ以外の任国の運営は、地侍、国人などに由来する地域有力者によるいわば住民自治。大名は、領国を与えられ、そこから上がる収入で家臣団を維持し賦役を負担した。賦役が重税をもたらし、もって民衆が窮乏すれば、それは一揆となり、賦役に影響する。津山藩森氏第四代長成が請け負った中野犬屋敷造営(とその維持)は、伝わる限り、今日的にみればいかにも合理性を欠く。しかし、津山の領民は、その負担に耐えた。賦役は必ずしも、負担ばかりとは限らない。賦役を通じ用水整備、河川改修など土木ノウハウが大名の間に共有され、領国経営に資するものとなっていく。賦役はまた雇用を生む。中野犬屋敷造営には、延べ14万人が動員されたという。今日においても、当時においても、公共事業への投資は、賃金として支払われ、それが市民に還元されるのである。津山藩森氏第3代長武は、賦役の負担に批判的だったと伝わる。それを4代長成は元に復し、犬屋敷造営を担当した。森氏改易後に津山に入った越前松平氏の重税に対し、1698年に一揆が起こったことからみると、必ずしも犬屋敷造営が津山に重税をもたらしたものではない。森衆利の幕政批判は、中野犬屋敷に関わることと伝わる。津山藩は、中野犬屋敷の建設に四万両という大金を支出した。決して楽な金額であるわけがない。しかし、早世した長成はあえて、その建設に取り組み、後継衆利は幕政を批判して、改易となる。1695年から1697年のことである。中野犬屋敷は、徳川綱吉の死亡とともに廃されたと伝わるが、1695年に同じく建設された、大久保と四谷の犬屋敷が1697年に閉鎖されていること、森家改易が同じく1697年であることを考えると、中野の犬屋敷は、1697年以降、誰が支えたものか...1698年に犬屋敷増設のため高円寺村の6万坪(今の高円寺北1丁目全域、同2丁目と高円寺南5丁目の一部)が収用されたというから、さらに規模が拡大したわけだ。森衆利は何を批判したのだろう?この項続く
January 23, 2011
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中野へ行った。日本史で中野というと、江戸時代五代将軍綱吉の悪名高き生類憐みの令を思い出す。明治新政府は、徳川幕府を倒して成立した政権である故、前政権の政策一般について否定的ないし批判的であり、それゆえ、生類憐みの令を含めて悪評の類が誇張して今日に伝わる一つの背景。幕府の犬といったり、警察を犬呼ばわりするのも、生類憐みの令の悪評と、中野の犬屋敷あとに警察学校があったことによるのではないかと勘ぐってみたくなる。しかし、徳川幕府一般に悪政の伝承は少なく、260年にわたる長期の治世が続いたことからも、かなりの合理性をもった政権であったことがうかがえよう。綱吉の将軍在位は、延宝8年(1680年)から宝永6年(1709年)。関ヶ原の戦いから80年を経て空前絶後の好景気として今に伝わる元禄(1688年から1703年)を中心とする治世は、柳沢吉保、荻原重秀などの高級官僚が台頭、木下順庵、雨森芳洲、室鳩巣などの儒学者が登用され、武断から文治へと統治のありようが大きく転換する一方、元禄赤穂事件(赤穂浪士の討ち入り)、元禄大地震といった事件、大災害が発生した時代でもあった。我々は、かつて昭和元禄と言ったりして、元禄をバブル三昧の時代だったように捉えがちであるが、徳川幕府による統治が円熟期に差し掛かる中、幕府要職への小藩、外様大名の積極登用、江戸市中での寺院建立禁止、今日の日韓関係にもつながる鬱陵島領有にかかわる竹島一件など、内政、宗教、外交各方面において、統治者の力量を示すかじ取りが行われている。徳川幕府は、一向門徒への激しい迫害、叡山焼き打ちに見られるごとく既存宗教と激しく対峙した織田信長、信長が既存駆逐に利用したカトリックに冷淡に転じた豊臣秀吉のあとを受けた政権であるが、島原の乱の対応に見られるごとく、カトリックには非寛容に徹する一方、国内諸宗派については、宗教内部の対立を利用し、或いは、分裂を画策、さらには、幕府諸政策への協力を強要ないし奨励し、支配体制の一部に組み込んでいく。信長、秀吉に比べ、高度に洗練された政治的なものを感じる。横山にあった塔頭を明暦の大火で失った本願寺は、自らの手で埋め立てた築地に1679年再建を果たす。綱吉政権は、しかして、奈良、京都にありたごとく、武力を伴った強力な宗教勢力を政権所在地近くに常駐させ、ことあるごとに政治に介入された先例をよしとはしなかった。綱吉政権下で、江戸市中への新たな寺院建立はご法度となる。多くの犠牲者、朝鮮半島残留者を出した朝鮮出兵。秀吉の死により全面撤退に方針転換する。しかし、今日本邦内での半島情勢論議に鑑みても、撤兵、領土交渉は生半可なものではなかったであろう。徳川幕府成立には朝鮮出兵善後処理の側面があると思う。その集大成ともいうべきものが100年後の竹島一件ではないかという気がしている。さて、中野と生類憐みの令の関連は、御囲=犬屋敷である。中野通りと北側の早稲田通り、西の環七に囲まれる区域。戦前は陸軍、戦後は警察大学校などがあった場所に犬屋敷はあった。当時、中野の中心は新中野=鍋屋横丁周辺であるから、その西北。犬屋敷が作られたのは1695年。建設を担当したのは津山藩である。藩主の森家は、犬屋敷完成後間もなくの1697年当主が急逝、縁者を後継にたてるが、幕政批判がたたり改易。代わりに越前松平家から、宣富(長矩)が藩主に入る。越前松平家は、家康次男の結城秀康(菩提寺は、世田谷の淡島森巌寺)を初代とする名門。わが家のご先祖さまは津山藩士だが、元来は森家でなく松平家家臣。犬屋敷にかかわったかどうかは不明。生類憐みの令というは、名を冠した法令があるわけでなく、いくつかのお触れを総称してこのように呼ぶ。それが今日まで悪法として伝わるは、本来、動物愛護令的なものが、それを金科玉条のごとく運用した者があったか、あるいは、後世誇張されて伝わったか?犬屋敷についても、はたして、それが生類憐みの令に関連したものか、あるいは、別であったものが、犬好きの綱吉に結びつけられた?中野の犬屋敷、一時は十万匹の犬を飼っていたが、綱吉死後に犬屋敷が廃止となったあと犬がどのように処分されたかは不明という。十万匹の犬とは尋常でない。食糧をあたえていた記録はあるので、中野の犬屋敷に犬を飼っていたことは、間違いあるまい。しかし、元禄8年(1695年)江戸の人口は85万人。すでに世界最大規模の都市であったとはいえ、十万匹もの犬(中野に収容されたは飼い犬は含まず、大方は野犬の類であっただろう)が市中に居たとも、考えにくい。いかに動物愛護であっても、犬10万頭は、日本の支配者のスケールからみて、異様な数字。実は、犬屋敷、野犬保護を目的としたのではなく、野犬を集めることに目的があったのではないか?犬屋敷は、中野だけにあったものではない。四谷・大久保・中野に『犬御用屋敷』が設置されたは、元禄8年(1695年)。飼い主のいない犬を収容するためといい、元禄10年(1697年)には手狭となり、四谷、大久保は閉鎖。 大久保の『犬御用屋敷』は、総面積2万3000坪、約10万匹の犬を収容したという。かつて陸軍のあった戸山ヶ原一帯。四谷犬小屋は、今の新宿駅南口一帯(JRの線路から高島屋あたり)で敷地面積2万坪。それに対し、中野の犬屋敷は敷地16万坪(一説には30万坪とも)と圧倒的。わずか二年で閉鎖するはよいが、十万もの犬を中野にどうやって移動したか?しかも、二万坪がいかに広いとは言え、中野の十六万坪とは規模が違い、収容頭数がともに十万とは、納得がいかない。中野が最終目的地で、大久保、四谷が中継地だとすれば、つじつまは合う。少なくとも大久保の場合の十万は、収容していた頭数でなく、犬屋敷が置かれた期間に中野に送った累計頭数と見るが妥当か。大久保から中野は大久保通り、四谷から中野は青梅街道で、それぞれ結ばれていて、大久保、中野に犬を集め、それを中野に送ったは地理的には成立する。ならば、なぜ中野に犬を集めたか?僕は、それは、軍事的な必要からではと思っている。相手は李氏朝鮮である。上述の竹島一件は、1692年に端を発し、1696年幕府は、関係者に竹島渡航禁止を言い渡し、それに対し朝鮮は1698年(元禄11年)礼曹参議李善溥の名をもって幕閣の決定に謝意を表し、最終決着。秀吉が死ぬとすぐ、家康は朝鮮との間に和議を講じ半島から撤退したが、これも、私たちの多くは秀吉の死をきっかけに日本が一方的に兵を引いて戦争が終わったとだけ理解していた。江戸時代中盤、鎖国のさなかに、日本海(韓国は東海の呼称を主張)の孤島が、日韓いづれに帰属しようとさしたる影響あるまいと今日の私たちは思いがちである。しかし、1690年代は、文禄慶長の役から100年。徳川幕府は、ある面、文禄慶長の役戦後処理政権である。両戦役に、日本は、それぞれ十数万の兵力を朝鮮半島に出兵。多くの犠牲を出した。日本側の犠牲者は4割というから数万人に上る。初期の朝鮮通信使が回答兼刷還使として日本から連れ帰った半島からの拉致者の人数が6,100乃至7,500人とされるころから、相当数の人々が朝鮮半島から日本へ連れされれた事実が確認できるが、日本側にも戦没者以外に半島に残留を余儀なくされた人々があった。「朝鮮軍に投降し捕えられた日本の将兵(降倭)の多くは当初すぐに処刑されていたが、降倭を利用することを目的として1591年10月に降倭を勝手に殺す事を禁じる命令が出された。以後、降倭のうち砲術や剣術などの技能を有する者は訓練都監や軍器寺に配属され、降倭からの技能習得が図られた。これにより日本の火縄銃の技術が朝鮮に伝わることとなった。また特殊技能のない降倭は北方の国境警備兵や水軍の船の漕ぎ手とされた。降倭の中には朝鮮王朝に忠誠を誓って日本軍と戦うなどして、朝鮮姓を賜り優遇されて朝鮮に定着する者もいた。戦役以後、総じて朝鮮人の間では日本に対する敵意が生まれ、平和な貿易関係を望む対馬の宗氏も朝鮮王朝に強く警戒され、日本使節の上京は禁じられ、貿易に訪れた日本人も釜山に設けられた倭館に行動を制限された。また日本人捕虜(降倭)の多くは、鉄輪をはめられ逃げ出すことも出来ない状態にされたうえで、その身分を賎民とされた」-Wikipedia壬申倭乱(文禄慶長の役)は、朝鮮半島にある根強い反日感情の源泉の一である一方、日本においても、反朝鮮感情が残ったはずである。残留邦人の多くは西国大名家中の武士であり、家族、朋輩の多くが、現地で犠牲になり、或いは、現地に残留する中での撤退は、必ずしも、日本全体の意思であったとは限らず、関ヶ原は一面、朝鮮撤退に関わる対立が生んだ戦さではないかとすら思えてくる。明治初期のいかにも唐突に思える征韓論台頭は、朝鮮出兵、かつ、西軍に属した薩長などの諸藩各々の家中にありた先祖伝来の朝鮮半島への怨念が、政権を得て一気に表に現れた部分があるやもしれぬ。事実、韓国併合の際、長州出身の初代朝鮮総督寺内正毅は「小早川、加藤、小西が世にあれば、今宵の月をいかにみるらむ」と、半島に苦戦し、その後徳川により所領を失ったかれらへの思いを歌に詠んでいる。この項続く
January 23, 2011
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一橋大学准教授の小黒一正さんが 「事前積み立て」の導入で世代間格差の解消をと提言されているのを拝見した。先進諸国の中でも特に顕著に急速な少子高齢化は、我が国に高齢者の増加と労働人口の減少を同時にもたらし、一方、公的債務は先進国最悪の水準(対GDP)。毎年約1兆円ペースで膨らむ社会保障予算。近い将来、我が国財政が破たんするは避けること出来まい。小黒さんは、このままいけば、破たんまで、あと10年とおっしゃる。社会保障予算のピークは2055年頃とか。今より30兆円年間の負担が増加するそうだ。僕は生きてないな。現行予算からみて、もはや安定財源確保なき支出増はあり得ない。ところが、現役世代が老齢世代を支える「賦課方式」を採用している現在の社会保障。小黒さんは、「これは一種のねずみ講で、筆者の試算によると、いまや、将来世代と老齢世代(65歳以上)とのあいだで1億2,000万円にも及ぶ世代間格差が発生している」と指摘する。「社会保障の安定財源を確保する際、賦課方式を維持したままで増税すると、老齢世代=高福祉、現役世代=高負担となり、むしろ世代間格差は拡大してしまう可能性が高い。消費税による増税は、労働所得税と比較して、老齢世代にも一定の負担を課すことができるから現役世代に若干有利な政策だが、それでも効果はあまり変わらない」とのこと。しからばということで世代間格差の解消と財政再建を両立させる方法として、事前積立方式を採用せよ とご提言する。負担を徐々に増やすのではなく、2055年のピークを見こし、今から現行年間社会保障費用を上回る負担を課す。ありていに言えば、今は消費税10%で済むものを敢て15%に上げて、差の5%を将来に向けて貯蓄しておく ということ。事前積立に近い方法で、財政再建した成功例がある。それは何かといえば、上場を果たしたJR各社。累積赤字を清算事業団に寄せ、分割・民営化しても、国鉄時代の収支バランスそのままでは、赤字体質は変わらない。赤字補填のため、ずるずると料金を値上げしていくだけになってしまう。ならば、赤字体質を脱却するところまで、民営化する時点で料金を上げておこう と考えた。もう四半世紀前のこと。僕も、荒療治なし(といってもかなりの荒療治ではある)に財政再建と世代間格差解消を両立するには、事前積立方式が最善と思う。問題点は、何より消費税がいっきに(5年かけて徐々に上げるなどという朝三暮四はコストがかかるだけだ)15%、20%になると、「ただでさえ悪い景気がさらに悪化」が確実であること。個人的結論は、それで良いのである。それぐらいの負担増がなければ、今の高齢者は、現在彼らが享受している社会保障が、後代にどれほどの負担をかけるかを実感しない。役人の給料も下げねばならぬ。こちらがこれだけ負担増になるに、彼らがそのままというわけにはいかない。企業も、税率で優遇され、TPP参加のメリットを得んとするならば、一時の景気後退は甘んじて受けるべきだ。三方一両損と昔の人は言った。いづれは、いつか払わねばならぬツケなのだ。自分で払えるものは自分で払おう。本当の問題は、またぞろ、政治家と官僚が、積み立てた財源を流用してしまうことはないか?である。世界終末時計というのがあって、今は、あと6分だそうだ。それにならって、財政破たん時計を作ったら、日本財政破たんまで、あと何分だろう?切実感を皆が共有せねば財政再建など出来るもんか!
January 17, 2011
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野茂以降米メジャーリーグで活躍する日本人野球選手もだいぶ増えてきている。日本人第一号メジャーリーガーとして名前を聞くことのあるのが、村上雅則選手。1964年から65年にかけてサンフランシスコジャイアンツに投手として在籍、54試合に登板。5勝1敗9セーブ。たいした成績でないように見えるが、1944年生の村上は当時20歳そこそこ。1964年後半にメジャー昇格して運よく1勝。翌年4勝を挙げ、さぁこれからというところで、事情あって日本に帰国。そのままメジャーを続けても成功の可能性はあったと思う。偶然、活躍が東京オリンピック前後。メジャー事情など知る人も少ない中、折から、日本プロ野球でもジャイアンツの長嶋、王が全盛期にさしかかるところで、多く注目を集めることにはならなかった。その村上、米国在住の日系人に非常に人気があったが、それは、彼が日本人であるだけではなく、ある出来事が、米国在住日系人の心をとらえ、それが日本より(日本でも18年選手生活を続け、103勝82敗であるから、かなりの成績といえる)米国での記憶が印象に残る背景。サンフランシスコジャイアンツでの2年目、彼は、ドジャースとの試合に敵地ロスアンゼルスで登板した。彼の投げ込んだ直球を主審の判定はボール。村上は思わずマウンドから降り、ホームに向かうが、主審が早口で言っている言葉が判らない。やむなく、そのまま引きさがり、足許のロージングバッグ(日本のものよりかなり大きいらしい)をポーンと空高く投げ上げ「しゃあなねぇなぁ」という感じで、気を取り直してホームベース方面に向き直ると、審判がそこまで来ていて、顔を真っ赤にして何かを言っている。それを味方のキャッチャーが押しとどめ「彼は日本から来て、まだアメリカのことを良くわからない。今回だけは勘弁してやってくれ」と言っている。主審は、侮辱されたと思って怒ったのだ。キャッチャーの懇請が受け容れられたか、審判は「今度やったら退場だぞ」と捨て台詞を残し、試合は続行。試合が終わり、サンフランシスコに戻った村上は、ダウンタウンのすき焼き店に食事に入ったところ、店に居た日系一世、二世から思わぬ歓待を受ける。「我々は戦時中、財産を没収され、キャンプに入れられるなど不当な扱いを受けた。戦争が終わっても、なかなか米国一般人に反駁するという機運もなく、鬱積していたものがたまっていたが、お前の行動で不満が一気に解消した」村上は、言葉がわからず、引きさがり、ロージングバッグを投げ上げただけなのだが、その中継を見ていた日系人たちは、米国の国技ベースボールの試合での彼のふるまいに、思いのたけを出せない自分たちの気持ちを託していた。しかし、村上はそのことを誇るでも、肩に力を入れるでもなく、今日言う。「僕は、あぁ戦争というのは、やってはならないことなのだなと思いました」1944年生まれの村上は、実質的に戦争を知らない。戦争をしてはならぬのは、人が死ぬからだけではない。人の心に壁を建て、恨みを残すからである。そんな話を聞いたので、メモを残しておく。
January 16, 2011
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University of California(UC)は、カリフォルニアの州立大学群である。カリフォルニア州には、大学が4種類あって、そのうちの一つがUCの大学群。ほかに、UC以外の州立大学、州立カレッジがあり、そして、そのほかに私立大学がある。そのUCのキャンパスが最初に建てられたのが、サンフランシスコ近くのオークランド(アスレチックスの本拠地ですね)にあるバークレー。それが、現在の、カリフォルニア大学バークレー校。教授であったオッペンハイマーはじめ米国の原爆開発にバークレーは多く人的に関与し、さらに、インテル、グーグル、アップルなどの創業グループにも多く人材を輩出して、シリコンバレーはいわばバークレーのおひざ元である。そのバークレーには、Center for Japanese Studiesが設けられていて、そちらが、2008年からBerkeley Japan Prizeを「世界の日本認知に大きく貢献のあった個人」に授与している。2008-2009が村上春樹。2009-2010が宮崎駿とClint Eastwoodである。受賞或いは、それらに関連してUCBerkeleyがYouTubeに動画を上梓しているので、時間があれば是非ご覧を。宮崎駿のインタビュー 秀逸 英語と日本語、言葉の壁があるからこういう対話が成り立つのだろう。海外の若い世代に、日本と日本人の考えと、考え方の構造を一番よく伝えるのは、宮崎さんみたいな人だと思う。Clint Eastwood授賞式インタビュー 英語だけで訳がないのが辛い。Clint Eastwoodは長くオークランドの住民。これらのインタビューを見ていると第四次産業の出現を感じる。人間の善良なる知性を育てていくことは、21世紀からさらに未来にかけての重要なテーマであり産業である。日本もそろそろ貢献できる段階にあるべき国家と思うが、英国、米国に比べるとまだ自覚がはるかに足りない。誇るべき、信じるべきは、日本のすばらしさではなく、私たち人間が過去の経験と想像作り上げていく創造なのであり、それは、まさしく21世紀の産業たるべきものと思う。
January 11, 2011
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年明け初めて会った知人と年賀状のやりとりに関連して話しをした。僕は、だいぶん前から年賀状、クリスマスカードの類をやりとりすることを極力少なくしようとしていて、皆さまに失礼をさせていただいている。だいたい取引先関係で、お歳暮に始まり年末、年始のご挨拶に、担当役員、部長、担当者まで年賀状をいただくところもあり、有難いことではあるものの、どうぞ、ほかのことにお力をと申し上げたくなる。そういう僕でも、母が死んだ年には、年末に欠礼のご挨拶だけはかなりの数を出した。そういうことも含めて、年賀状とは知人同士の家族の状況など、簡潔な消息確認の趣が相当にある。さて、知人と話しをする中で、彼は、いちばん当惑するのが、昔の友人のおつれあいから欠礼のお葉書をいただいたときという。文字通りの当惑で、悲しいというわけでもなく、悲しくないということでもない。そもそもおつれあいとは、会ったことの無いこともないことすらあるわけで、何かができるかといえば、何があるわけでなく、今後は、賀状のやりとりもなく、記憶も埋もれていくであろう。しかし、どこかに当惑するところがあることは間違いなく、しょせん己の心の在りようとは思えども、得心行かない、割り切れなさが残る。知人は、僕より少し年長であるが、我々の年齢でいえば、知人の死と言えば、先輩方のご不幸はあれども、同世代の友人の死は、まだ稀である。年末不例のはがきも、ご両親のご不幸のことがほとんど。或いは、この間まで机を並べていた先輩、同僚、部下、酒場の隣で飲んでいた友人が死ぬ場合には、いかない不条理な突然死であっても、深い悲しみなりに、気持ちの行きどころはあるものである。実は、同世代の友人の死とは、ありそうで、これまではあまりなかったことに気がつく。言いようのない当惑の向こう側は、彼なり、彼女なりと自分の関係の突然の断絶で、二度と会うことはない冷徹な事実が向こう側にある。彼なり、彼女なり、昔の友人が死ぬということは、そのことが自分に起こっても不思議ではないことのはじまりなのだ。行き場のない当惑は、「不条理ではなく、何より確実な条理」としての死が、自分と同世代に訪れつつあることへの当惑のはしくれなのかもしれない。
January 11, 2011
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9日夕方は経堂でミニ同窓会。昨年暮れ、小学校同級生の甲斐さんが経堂で朗読会を開いた。その時、会のついでに仲間内で近くの須藤君宅でお酒と食事。それでは、新年会をやろうということになった。最初3日といっていたのを、今年の正月は例年より短く3日では集まりにくいということで、三連休中日の9日に。同じく小学同級生のまっちゃんの家では、午後新年会兼誕生日会。さらに、もうひとつ午後に用事が入り錯綜気味。用事を終わらし、まっちゃんちに着いたのが4時20分。席についてビールを飲み始めたところで、同じく掛け持ち組の留さんに「4時半には出よう」と声をかけられ、挨拶もそこそこに辞去。千歳船橋駅へ行くか、経堂駅へ行くかという議論があって、千歳船橋駅の電車は、16時42分、48分(区間準急)、55分で、42分はたぶん間に合わない。「船橋のホームまで歩いて15分。電車は2分で経堂へ着くが、電車は10分に一本」ということで、経堂まで歩くことに。千歳丘高校の北側をぐるりと回りこむが、実はこれは遠回り。天祖神社北側を行くのが正解だったようだ(それでも距離1.9km)。途中で、留さんは会場の「華味屋」東京都世田谷区経堂2-27-18(03-3427-2832)を回っていくことになり、僕は先に集合場所の経堂駅へ。経堂駅には、16時55分過ぎに到着したが、どなたも未着。ほどなく留さんもやってきて、甲斐さん、小田切さんと、三々五々集合。華味屋で真里ちゃんと須藤君。手ごろなお値段に、もう一軒「和」東京都世田谷区経堂2-25-12 (03-3425-4441)でワイン、コーヒーなど。11時前に帰宅。いぶかしがるカミさんを横眼に足湯をやってみる。寒い夜に快適。あまりの良さに、風呂を遣わずそのまま就寝。
January 10, 2011
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東京ディズニーランドは、年間25百万人の入場者があるそうだ。一日平均でも7万人弱。東京都内はもとより、国内、アジア各国からも泊りがけで来る人が絶えない。その余波もあり、かつ、土地価格が坪100万を超える場所で今更ということで、東京近郊の遊園地(テーマパーク)は次々と閉鎖。土地の転用を図ってきた。京成の谷津遊園三井の船橋ヘルスセンター未だ大型施設として健在?なのは豊島園ぐらいのもの。経堂からも、それほど遠くない範囲で、いくつかのテーマパークが存在した。京王多摩川の京王遊園二子玉川の二子玉川園或いは多摩川園中でも、小田急向ケ丘遊園地は、小田急線を使えば1時間もかけずに出かけることが出来、私たちにとっても、格好の行楽地であった。小田急線の駅から遊園地までは、1km余り。車の通行も多い通り(川崎街道)に沿って歩かねばならず、ついつい駅と遊園地前を結んでいたモノレールを利用してしまう。ところが、そのモノレール。二両連結の一編成が往復するだけだから、15分に一本。行楽日和の週末など、あまりの待ち時間に腹を立て、遊び疲れたところを、駅まで歩いたことが何度かある。向ケ丘遊園が閉鎖されたのは、2001年。同じ時期にモノレールの運行も中止。今はところどころに橋脚の跡が残るだけ。そのモノレールは、1965年に廃止となった同じ区間を結ぶ「豆電車」の後継として、向ケ丘遊園への交通手段のために建設されたものだった。経堂の地元ご出身で50半ばのご年配ならば、モノレールに置き換わる前の豆電車をご記憶の方も多いはず。豆電車は、1927年の小田急線、及び、小田急向ヶ丘遊園開業と同時に運行が開始されていたと記録にある。その後、戦時中一時休止されるが、戦後復活。確かに、小田急線には箱根、江ノ島など行楽の路線のイメージはあるが、玉川電気鉄道による二子玉川園の開業が1922年、東急の前身「田園都市会社」の多摩川園開業が1925年の暮で、遊園地の採算など誰も分からぬこの時代。しかも、新設の鉄道の、それも新設の駅から1km以上はなれたところへ、わざわざ豆電車を走らせ、遊園地を作るとは!自然遊園地としてオープンしたが、小田急線の稲田登戸駅前から遊園地の入り口まで「豆汽車」とよぶガソリンカーが走った。当時は向丘村だったところから名づけられたものだが、(「向」と「丘」の間に「ケ」が入ったのはこの「向ヶ丘遊園」が始まりとどこかに書いてあった。)向ヶ丘遊園駅(開業当初は稲田登戸の駅名)の開業年度の一日平均乗降客は1000人に満たず、1935年になってもあまり変りない(同時期成城学園前駅は、開業年度の2500人弱が1935年には3900人、経堂で1300人が4800人、本厚木で1200人が1000人)。向ケ丘遊園は入場無料だったという(遊具を充実し、有料となったのは、1952年)が、果たして採算ベースに乗っていたのだろうか?ましてや、豆電車など?(但し、豆電車そのものが有料のアトラクションであった可能性は考えられる)だが、わざわざ豆電車を走らせたのではなく、もともとあったとすればどうだろう?鉄道敷設は旅客輸送だけでなく、砂利運搬を目的としていた。多摩川からの砂利採取は、やがて最終期を迎えるが、昭和初期は震災復興で砂利採取の最盛期。南武線は浅野セメントにより建設され、まさに多摩川砂利採取鉄道。南武線と小田急線の間には、電車をやりとりする連絡線が設けられていた。今はほとんど残っていないその経路は小田急線線路の南側である。豆電車の走る経路は、世田谷側で次太夫堀を開いた小泉次太夫が、川崎側の対岸でも同様の事業を行い開削されたニヶ領用水沿い。遊園地から、府中街道北側を走り小田急の向ヶ丘遊園駅へ。平坦で、軽便鉄道で貨物を運ぶに適した経路。向ヶ丘遊園駅は、小田急が多摩川右岸の砂利の積み出し駅として作った駅だったと思われる。(本来登戸が適するはずだが、多摩川の堤防を越える橋梁を建設せねばならぬため、浅野側が建設した登戸駅と高架で交叉する必要があり、向ヶ丘遊園駅は高架が終了した場所に設けられている。多摩川べりでもないところで、なぜ砂利がと思うが、このあたり、多摩川はしじゅう流れを変えており、向ヶ丘遊園近辺も流路だったことがあるはずで、砂利の採取は可能だったであろう。推測はそうなのだが、さて、本当だろうか?
January 4, 2011
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「それにしても、年末、正月のテレビ番組というのは、普段にもまして酷い」「どのチャンネルを選んでも同じようなバラエティショーばかりなんでしょ?同じこと何度も言わないように努力しろって人には言うくせして、その話しもう何年も続けて言われて聞きあきた」「いや。それにしても、この冬は酷すぎる」「そうねぇ。確かに毎年どんどん酷くなっていくのは事実だわ。なぜなのかしら?」「うーん。ひとつはテレビ局に番組を作る力が無くなったということだな」「外注ばかりってことね」「うん。そうなんだけどね。なんでもそうなんだが、outsourceってのは、自分でやることができる力量があるからoutsourceできるんであって、自分で作ることをしなくなっては力量のつけようがない。本来ならば力量のある人間をスカウトして、outsourceさせるべきなのだが、実際の人事は本末転倒していて、テレビ局が制作会社に人を天下りさせて、そこに外注するんだなぁ」「そうなんだぁ」「それとね。景気が悪いでしょ。企業が広告宣伝費を節約してるから、テレビスポットの相場が下がる。収入が減るから経費削減で、外注費、製作費を減らす。そうすると出演者のスケジュール調整が大変で、拘束時間が長いドラマとか企画モノは、お金がかかるから、出演者をそろえれば視聴率がある程度読めるバラエティ番組がどうしても多くなる。それがふたつめ」「三つめもあるの?」「うん。地デジがあって、BSがあって、スターチャンネルとかWOWWOWもあるでしょ。広告宣伝の需要があると思って間口を広げたんだろうけど、チャンネルが増えすぎている。アメリカと違って日本は、中央志向が強いから、地方ローカル番組のマーケットがほとんど無い。映画産業もダメだからコンテンツ制作者が育ってないんだな。だから、もともと薄いコンテンツをさらに薄めて使ってるみたいなものなのさ」「だけど、私はテレビ見るからね」「ついに紅白見なくなっただけでも、大進歩だ」「だって、つまらないんだもん」「ようやく気付いたか」「NHKの大河ドラマはお江とかいうのなんだ。なんか、つまんなそうだ」「あなたはどうせ見ないじゃない。私も見ないし。だいたいNHK大阪制作の朝の連続ドラマと女が主人公の大河ドラマはつまらないって評判なの」「女が主人公だとつまらないのはなぜなの?」「だって、歴史ドラマは女の話として伝わってるのは、ほとんど無いじゃない」「そうかなぁ?」「そうよ。創作部分が多くなるから、どうしても話しが薄くなってしまうの。それとね、ウーマンリブの圧力団体があって、男の話しばかり放送するのはけしからんってのがだいぶん前にあったらしいのね。それで、ときどき女が主人公の大河ドラマってのをやるようになったらしいの」「今どきウーマンリブたぁ30年ぶりぐらいに聞く言葉だ。完全な死語だな」「今ならジェンダーフリーってとこかな」「そういう恣意的なことで番組作って一年見せちゃあつまらねぇよなぁ」「不自由なのよ。言論の自由がないからね」「男を元気にするような番組って作れんもんかねぇ」「さぁねぇ。放っといても女は強いからね。男はおだてないとダメだからねぇ。あなたもね」
January 4, 2011
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あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願い申し上げます。結婚以来、初詣は遠出せず、元旦午前中、地元の神社と決めている。お参りしたあと、おみくじを引き、家族で近くを1-2時間散策する。今年は、父の支度に時間がかかり、予定が圧して子供たちが出かけてしまい、夫婦二人の初詣。例年より幾分列が長く、鳥居の手前から参拝客が並んでいて、お参りまでしばらく時間がかかる。家族と自分の健康をよろしくお願いして、おみくじを引いた。「おっ!一番だ」「へぇ、珍しいじゃない。最近一番づいてるね。年末の銀行も一番だったし。私は三六番」「一番はさすがに吉だろう。凶ってことはない。もしかして大吉?」「うわっ!やっぱり大吉だよ」「君のは?」「吉」大吉は珍しい。酒と色に溺れれば運が変わるとある。慎みましょう。
January 2, 2011
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