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大内義弘は南北朝・室町時代の守護大名で、妙見信仰を重んじ、自らのルーツを朝鮮半島に求めて一族の結束を高めましたが、応永の乱を引き起こし滅亡しました。 妙見信仰は仏教でいう北辰妙見菩薩に対する信仰をいい、原姿は道教における星辰信仰、特に北極星・北斗七星に対する信仰です。 ”大内義弘 - 天命を奉り暴乱を討つ”(2017年3月 ミネルヴァ書房刊 平瀬 直樹著)を読みました。 室町幕府を支えて大内氏の礎を築いた大内義弘がなぜ滅亡したのか、領国の統治や一族の争いなどからその生涯に迫っています。 平瀬直樹さんは1957年大阪府生まれ、1986年京都大学文学研究科国史学卒業、1986年同大学大学院文学研究科博士後期課程国史学専攻研究指導退学しました。 山口県文書館勤務を経て、金沢大学人間社会研究域歴史言語文化学系教授を務めています。 大内義弘は1356年生まれ、大内家の第25代当主で、第24代当主の大内弘世の嫡子です。 弟に満弘、盛見(第26代当主)、弘茂など、子に持世(第27代当主)、持盛、教祐がいます。 幼名は孫太郎、のち元服して室町幕府第2代将軍・足利義詮より偏諱を受け義弘と名乗りました。 南北朝時代から室町時代の武将・守護大名で、周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊守護を行いました。 室町幕府に従って多くの功績を立てた名将で、大内家の守護領国を6か国にまで増加させて大内家最初の全盛期を築きました。 1371年に、九州探題を務めていた今川貞世に協力して九州へ渡りました。 九州における南朝の勢力追討に功績を挙げ、1372年に大宰府を攻略し、父と共に帰国しました。 1374年に長門国と豊前国の守護職に任命され、幕府から今川貞世の救援を命じられました。 しかし、父が命令を拒否したものの、義弘は父に従わず、翌年に自ら九州に出陣して各地を転戦し、懐良親王を奉じる菊池武朝に大勝しました。 1375年に筑前世振山の合戦で一時劣勢を強いられましたが、義弘が士卒を励まし力を尽くして戦い、菊池・松浦・千葉連合軍を打ち破りました。 1377年の肥前蜷打の戦いや肥後臼間白木原の戦いにも、弟満弘とともに参戦し活躍しました。 1380年に父が死去し弟の満弘との間で長門・安芸・石見などで家督をめぐる内紛が起こり、翌年に将軍・足利義満の支持を得て勝利しました。 その後、満弘と和解し、義弘は家督と周防・長門・豊前の守護職を、満弘が石見を保つことになりました。 室町幕府は有力守護大名の寄合所帯で、将軍の権力は弱かったのです。 そのため、第3代将軍・足利義満は権力の強化を目指して、花の御所を造営、直轄軍である奉公衆を増強しました。 義弘は義満の家臣として忠実に働き、1389年に義満が厳島詣のために西下すると、周防都濃郡降松浦で迎え以後随行することとなりました。 義弘は幕政の中枢に参加し、在京することが多くなりました。 1379年に高麗からの要請を受けて倭寇勢力と戦い、慶尚道まで追跡したものの、現地の高麗軍の非協力によって敗退し、高麗側より謝意の使者が送られました。 1385年に満弘から石見国を没収し、代替として豊前国が与えられ、以後の満弘は大内氏の九州拡大の中核として活躍しました。 義満は危険と判断した有力守護大名の弱体化を図り、1379年に細川氏と斯波氏の対立を利用して、管領・細川頼之を失脚させました。 1389年に土岐康行を挑発して挙兵に追い込み、追討軍を派遣して康行を降伏させました。 1391年に11カ国の守護を兼ねた大勢力の山名氏の分裂を画策し、山名時熙と従兄の氏之を山名一族の氏清と満幸に討たせて没落させました。 さらに、氏清と満幸を挑発して挙兵に追い込んで討伐し、山名氏3カ国を残すのみとなりました。 このような義満の権力強化策に義弘は協力して出陣し、陣を構えて戦い武功を立てました。 1392年に山名家の旧領である和泉や紀伊の守護職を与えられ、弟の満弘や自らの守護領国を合わせて6か国の太守となりました。 1392年に南朝との仲介・和睦斡旋を行って南北朝合一にも尽力し、義満はこれら一連の功績・忠節を認めて義弘に足利将軍家に準じることを認める御内書を発している。 しかし、1397年に義満が北山第の造営を始め、諸大名に人数の供出を求めた際、諸大ますの中で義弘のみは、武人としての信念を貫いて従わず、義満の不興を買いました。 同年末に義満に少弐貞頼討伐を命じられ、2人の弟である満弘と盛見に5千騎あまりを付けて派遣しましたが苦戦が続き、筑前で満弘が討死を遂げました。 にもかかわらず満弘の遺児への恩賞が無く、実は義満が少弐貞頼らに大内氏討伐をけしかけていたとの噂も流れ、義弘は不満を募らせていきました。 1398年に満弘を討たれた報復として九州に出陣して、少弐家を討ちました。 しかし功を立てすぎ、さらに領国を増やしすぎたことが有力守護大名を危険視する足利義満に目をつけられ、応永の乱を起こすも敗死しました。 あまり世間に知られていない大内義弘ですが、明徳の乱や南北朝合体など、幕府政治の節目に重要な役割を果たしています。 室町幕府は、彼の功績なくして統一政権となることはできなかったでしょう。 幕府を支えていたにもかかわらず、最後に義弘は反乱を起こしたのです。 この反乱は、弘世・義弘の二代にわたって築き上げた大内氏の、幕府内での地位や獲得した支配領域を、元も子もなくしてしまうような危険な賭けでした。 ところが、乱ののち義弘の子孫は、謀反人という汚名を背負ったような様子はありません。 それどころか、義弘の後継者たちはより強力な大名になり、ますます幕府からも頼られる存在になりました。 義弘自身が滅んでも、大内氏の歴史が終わったわけではありません。 大内氏には、後の世でさらに成長する芽が残されていました。 義弘は、挙兵に当たり、天命を奉り暴乱を討つ、まさに国を鎮めて民を安んぜんとす、というスローガンを掲げています。 義弘の政治的・軍事的な動向は、第1~3、6、7章で扱っており、義弘が足利義満への忠節から反逆に転ずる経緯について述べています。 第4・5章では、義弘が支配した地域の特性に焦点を当てています。 第8章は義弘亡き後の時代を概観しています。 義弘は、忠節を尽くしたにもかかわらず、義満が自分を裏切ったことが許せなかったのです。 理不尽な仕打ちに対抗するために義弘が取った行動は、現代の我々も共感できる点があるのではないでしょうか。 現代でも、自分の置かれた環境を変えることができなくても、納得できる仕事や作品を残したりできます。 そして、自分の死後、子孫が社会を進歩させたり、自分の考えが世の中を変える一助となる希望を抱くことができるのだと思うことができます。序 章 室町幕府と朝鮮王朝のはざまで第1章 大名への成長/多々良氏から大内氏へ/父弘世の時代第2章 在京以前/幕府体制内へ/康暦の政変と大内氏の内紛/足利義満の瀬戸内海遊覧第3章 幕府への貢献/明徳の乱/南北朝合体交渉第4章 周防・長門の支配/大内氏の本拠地/都市の発展/交通の発展第5章 支配領域の拡大/石見国への進出/安芸国への進出/豊前国への進出/海賊と倭寇第6章 義弘の自己認識/在京中の意識/自己認識の形成第7章 反 乱/反乱への道程/堺籠城/戦いの始まり/義弘の最期/反乱の真相第8章 義弘亡き後/乱の余波/その後の大内氏/義弘の記憶終 章 大内義弘という人物参考文献大内義弘略年譜
2017.10.31
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オホーツク海は本格的な流氷域としては北半球の南限であり、沿岸地域では独特の古代文化であるオホーツク文化が拡がっていました。 この文化の担い手は海での生業を基盤とする海洋民であると同時に、大陸と日本列島を北回りのルートで仲介する交易民でもありました。 ”オホーツクの古代史 ”(2009年10月 平凡社刊 菊池 俊彦著)を読みました。 環オホーツク海地域の3世紀から13世紀ころまでのさまざまな人々が存在した、謎に満ちた古代文化の輪郭を紹介しています。 菊池俊彦さんは1943年群馬県生まれ、1967年北海道大学文学部史学科卒業、4月から北海道大学文学部附属北方文化研究施設考古学部門助手となり、 1978年から同大学文学部助教授、1986年から同大学文学部助教授、1991年から同大学文学部教授、2000年から大学院文学研究科歴史地域文化学専攻東洋史学講座教授を務めました。 2006年に北海道大学を停年退官し、同名誉教授に就任しました。 1997年に北方文化の研究で濱田青陵賞を受賞しました。 日本列島は、太平洋、日本海、東シナ海、オホーツク海によって囲まれています。 この4つの海のなかで、最北に位置するのがオホーツク海であり、この海に接している北海道の東北部沿岸は、冬期に流氷が漂着することで知られています。 オホーツク海は北海道の北部と東部の沿岸が面するだけで、日本の歴史に登場することはほとんどありませんでした。 そのため、これまでオホーツク海沿岸の古代史か語られる機会はなかったと言ってよいでしょう。 オホーツク文化の遺跡はオホーツク海沿岸のほか、日本海沿岸にもいくつか分布していますが、太平洋沿岸にはまったくありません。 また、オホーツク文化の遺跡はもっぱら沿岸にあるだけで、内陸部にはまったく見出されません。 オホーツク文化の遺跡からは、アザラシ、トド、オットセイのような海獣、クジラやさまざまな魚の骨が大量に出土しています。 それは、オホーツク文化の人たちが海に依存して生活していたことを示しています。 沿海の生活者であるにもかかわらず、オホーツク文化の人たちは家畜としてブタとイヌを飼い、その肉を食べていました。 そのような習慣と伝統は大陸の諸民族のところにあります。 また、オホーツク文化の遺跡からは大陸製の青銅製品や鉄製品か出土しています。 それはオホーツク文化の人たちが大陸の人たちと交流し、交易していたことを示しています。 オホーツク文化の年代は3世紀から13世紀と推定されていますが、そのころの大陸、特にアムール河流域やオホーツク海北岸にはどのような古代文化があったのでしょうか。 オホーツク文化の遺跡のうちではサハリンの遺跡が古く、オホーツク文化の人たちはサハリンから北海道に南下して来たことが知られています。 最盛期には千島列島を東に進出して、カムチャツカ半島の近くまで居住していました。 沿海の生活者、海獣狩猟、クジラ猟、ブタやイヌの家畜飼育、大陸との交易、このような特徴を待ったオホーツク文化の人たちはどのような人たちだったのでしょうか。 20世紀初めに、オホーツク文化の遺物の類例として、エスキモー民族の彫刻品や鈷先が指摘されて話題をよびました。 それ以来、オホーツク文化の人たちはどんな民族だったのか、という問題をめぐる議論には、 エスキモー民族説、アリュート民族説、サハリンのアイヌ民族説、大陸からの移住者説、大陸の黒水靺鞨=こくすいまつかつ渡来説、サハリンのニヴフ民族説と、さまざまな見解が発表されています。 靺鞨は、中国の隋唐時代に中国の北方に存在した集団です。 中国の史料によれば、7世紀に、長安を去ること1万5000里にある流鬼国から朝貢の使節がやって来たといいます。 流鬼国はどこにあったのか、という問題はすでに19世紀中ごろに中国の学者によって、カムチャツカ半島であろうという見解が発表されました。 19世紀末には、フランスの学者が同じくカムチャツカ半島説を発表しました。 そして、20世紀初めに、日本の学者によって流鬼国はサハリンにあったという見解が発表されました。 しかし、その後もカムチャツカ半島説は支持されてきました。 いったい、流鬼国はどこにあったのでしょうか。 また、流鬼とはどんな民族だったのでしょうか。 流鬼国の朝貢使節の話によれば、流鬼国から北ヘ1か月行程のところに夜叉国があるといいます。 夜叉国はどこにあったのでしょうか。 また、夜叉とはどんな民族だったのでしょうか。 著者は、流鬼はサハリンのオホーツク文化の人たちで、夜叉はオホーツク海北岸の古コリャーク文化の人たちだったのではないか、と考えています。 そして、流鬼はニヴフ民族に相当し、夜叉はコリャーク民族に相当すると考えることができます。 環オホーツク海では、かつてニヴフ民族やコリャーク民族か活動して、大陸の諸民族と交流し、交易していました。 そのことを中国の史料は伝えていて、それは流鬼と夜叉の交易だったと考えられます。 本書は、このような環オホーツク海の知られざる諸民族の古代史を紹介しようとしています。第1章 流鬼国の朝貢使節/第2章 流鬼国はどこにあったのか/第3章 オホーツク文化の大陸起源説/第4章 オホーツク文化と流鬼/第5章 夜叉国と環オホーツク海交易
2017.10.23
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辺境とは、都から遠く離れた土地や国境を指します。 交通網の発達で、今や辺境・秘境と呼ばれる地域は地球上に少なくなっています。 しかし、まだ十分にわかっていない地域、行くのが困難な地域は残っています。 ”最後の辺境 - 極北の森林、アフリカの氷河 ”(2017年7月 中央公論新社刊 水越 武著)を読みました。 現在にも存在する、文明の侵食を許さない、隔絶された土地を写真と文章で紹介しています。 ヒマラヤの高山氷河、アマゾン源流の大瀑布、アフリカ最奥部の密林地帯などは、現在も存在する辺境です。 これらの地は、空白地帯が失われた現在では最後の辺境です。 水越 武さんは1938年愛知県豊橋市生まれで、1958年に東京農業大学林学科を中退後、写真出淵行男に師事し、山岳を中心とした自然写真を撮ってきました。 1999年に第18回土門拳賞、2009年に芸術選奨文部科学大臣賞を受賞するなど、高い評価を得ています。 3、4歳のころ、早朝に雨戸を開けると、空高くを隊列を組んだ雁か飛んでいたそうです。 そして、さまざまに形を変え、小さくなって遠くへ消えていきました。 著者がの夢や希望はこの時見た雁に強く影響されているようだ、といいます。 高くには山があり、遠くには地平線がありました。 早くから山に目覚め、動植物に惹かれ、遠い未知の大地に足を運びました。 写真と出会って多様な世界と向き合うようになっても変わりませんでした。 日本列島の旅だけでは窮屈で、海外に出て行きました。 まだ人間を拒絶している自然の聖地を好んで訪ね、レンズを向けて来ました。 好奇心の赴くまま、ひたすら自分の足で歩いてきました。 その目的地は高く遠くに飛んで行った雁と重なる、といいます。 第1章は、地図の空白部を歩くカラコルムの五大氷河(1979年)、 第2章は黄河源流の幻の山アムネマチン(1981年)、 第3章は極北の森林限界ブルックス山脈(1995年)、 第4章は世界最大の水量を誇るイグアスの滝(1998年)、 第5章は赤道直下の高山氷河アフリカ(1999年)、 第6章は豊かな水に恵まれた巨木の森北アメリカ西部沿岸(1999年)、 第7章は地上最後の秘境コンゴ川流域の熱帯雨林(2000年)、 第8章は聖なるバイカル湖(2003年)を取り上げています。 ヒマラヤの写真は、フランス国立図書館、イタリア国立トリノ山岳博物館、豊橋市美術博物館、東京都写真美術館に収蔵されています。 ここで取り上げた山行や旅は、ホテルや乗り物に頼って行動できるものではなく、それぞれ厳しい旅だった、といいます。 それだけにさまざまな思いが今も鮮明に蘇ってくるそうです。 なかには突然、夢にも思わなかった旅のチャンスを与えられ日本を離れることもありました。 体の中を風が吹くようにアイデアか生まれ、資料を集め、仲間を募り、資金調達など5年、10年とかけてやっと実現できたものもありました。 現地に行っても困難か待ち構えていました。 アフリカのウガンダではエボラ出血熱に脅かされ、孤立しましたが、パリから飛んできた国境なき医師団の帰りの便で危うく脱出しました。 またエクアドルの首都キトではクーデターか起き、反乱軍の銃砲に逃げ惑うこともありました。 しかし人間の生活圏から離れ、人を寄せつけない山平森の奥地に入ってしまえば素晴らしい自然の王国が待っていました。 今まで見たこともない多様な地形、珍しい生き物を目にしました。 時間を忘れ、幸福感に満たされました。 辺境とは厳しい自然環境が人間を寄せつけず、不毛の地として見捨てられていた所です。 また一方で、汚れのない自然が息づいていて、原始地球と出会える所でもあります。 地球を彩る多様な自然の王国は興味の尽きない所だった、といいます。 また、取り上げたかったのにここに収めることかできなかった地域があるそうです。 まず、南米の大河、アマゾン河源流域のマヌーとギアナ高地ですが、この地域を一生の仕事として取り組み、何冊も著書を遺した友人が近くにいました。 次に、ブータン王国とニューギュアは、7570mのガッケルプッズムと4884mのカールステンツピラミッドを登りに行って、両方ともアタックを前に撃退されました。 このように、収めることかできなかった地域がある一方、さまざまな困難と出会う中で撮影された写真は、どれも素晴らしいものばかりです。 本書は、山岳写真家としての著者の集大成の意味もあると思われます。
2017.10.15
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源義仲は源為義の孫で幼名駒王丸と言い、木曽山中で育ち木曽冠者と称されました。 後白河天皇の第三皇子以仁王=もちひとおうの平氏討伐の令旨を受けて、源頼朝・源行家に呼応して挙兵し、平維盛を倶利伽羅峠で破り、京都に入って朝日将軍とよばれました。 しかし後白河院と対立し、源範頼・源義経の追討を受け近江国粟津で戦死しました。 ”木曽義仲”(2016年11月 吉川弘文館刊 下出 積與著)を読みました。 読み直す日本史シリーズの1つで、木曽で育ち以仁王の令旨を得て木曽で挙兵し平氏を都から追い払うも頼朝の派遣軍に敗れた源義仲の悲劇の生涯を紹介しています。 下出積與さんは1919年石川県生まれ、1941年東京帝国大学文学部国史学科卒業、金沢大学教授、明治大学教授を歴任し、1989年定年退任し、名誉教授となりました。 1975年に東大文学博士、道教、神道などを研究した歴史学者です。 本書の原版は、金沢大学助教授時代の1966年に、日本の武将シリーズの1つとして、人物往来社から刊行されました。 源義仲は、河内源氏の一門で東宮帯刀先生を務めた源義賢の次男として生まれました。 義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は義賢が館を構えた武蔵国の大蔵館と伝えられています。 義賢はその兄義朝との対立により、大蔵合戦で義朝の長男義平に討たれました。 当時2歳の駒王丸は義平によって殺害の命が出されましたが、畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国へ逃れたといいます。 駒王丸は乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曽谷に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗りました。 1180年に以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発し、叔父・源行家が諸国の源氏に挙兵を呼びかけました。 八条院蔵人となっていた兄・仲家は、5月の以仁王の挙兵に参戦し、頼政と共に宇治で討死しました。 義仲は9月に兵を率いて北信の源氏方救援に向かい、そのまま父の旧領である多胡郡のある上野国へ向かいました。 2ヵ月後に信濃国に戻り、小県郡依田城にて挙兵しました。 1181年に小県郡の白鳥河原に3千騎を集結し、城助職を横田河原の戦いで破り、そのまま越後から北陸道へと進みました。 1182年に北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、以仁王挙兵を継承する立場を明示しました。 1183年に頼朝と敵対し敗れた志田義広と、頼朝から追い払われた行家が義仲を頼って身を寄せ、2人の叔父を庇護した事で頼朝と義仲の関係は悪化しました。 5月11日に倶利伽羅峠の戦いで平氏の北陸追討軍を破り、続く篠原の戦いにも勝利して、破竹の勢いで京都を目指して進軍しました。 6月10日に越前国、13日に近江国へ入り、6月末に都への最後の関門である延暦寺との交渉を始めました。 7月25日に都の防衛を断念した平氏は、安徳天皇とその異母弟・守貞親王を擁して西国へ逃れました。 後白河法皇は比叡山に登って身を隠し、都落ちをやりすごしました。 27日に後白河法皇は義仲に同心した山本義経の子、錦部冠者義高に守護されて都に戻りました。 28日に義仲が入京し行家と共に蓮華王院に参上し、平氏追討を命じられました。 30日に開かれた公卿議定において、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、それぞれに位階と任国が与えられることになりました。 京中の狼藉の取り締まりが義仲に委ねられることになり、義仲は入京した同盟軍の武将を周辺に配置して、自らは中心地である九重の守護を担当しました。 8月10日に勧賞の除目が行われ、義仲は従五位下・左馬頭・越後守、行家は従五位下・備後守に任ぜられました。 後白河法皇は天皇・神器の返還を平氏に求めましたが、交渉は不調に終わりました。 やむを得ず、都に残っている高倉上皇の二人の皇子、三之宮=惟明親王か四之宮=尊成親王のいずれかを擁立することに決めました。 ところが義仲は、以仁王の系統こそが正統な皇統として、北陸宮を即位させるよう朝廷に申し立てました。 朝廷では義仲を制するための御占が数度行なわれた末、8月20日に四之宮が践祚しました。 兄であるはずの三之宮が退けられたのは、法皇の寵妃・丹後局の夢想が大きく作用したといいます。 義仲は、伝統や格式を重んじる法皇や公卿達から、宮中の政治・文化・歴史への知識や教養がまるでない粗野な人物として疎まれる契機となりました。 後白河法皇は9月19日に義仲を呼び出し、平氏追討に向かうことを命じて出陣させました。 義仲は、腹心の樋口兼光を京都に残して播磨国へ下向しました。 義仲の出陣と入れ替わるように、朝廷に頼朝の申状が届き、10月9日に法皇は頼朝を本位に復して赦免し、14日に宣旨を下して東海・東山両道諸国の支配権を与えました。 一方、義仲は西国で苦戦を続け、水島の戦いでは平氏軍に惨敗し、戦線が膠着状態となりました。 まもなく、頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて上洛するという情報に接しました。 驚いた義仲は平氏との戦いを切り上げて、15日に少数の軍勢で帰京しました。 20日に義仲は君を怨み奉る事二ヶ条として、後白河院に激烈な抗議をしました。 義仲の敵は、すでに平氏ではなく頼朝に変わっていました。 19日の源氏一族の会合では法皇を奉じて関東に出陣するという案を出し、26日には興福寺の衆徒に頼朝討伐の命が下されました。 しかし、前者は行家、土岐光長の猛反対で潰れ、後者も衆徒が承引しませんでした。 また、義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態であり、義仲と行家の不和も公然のものでした。 11月4日、源義経の軍が布和の関にまで達したことで、義仲は頼朝の軍と雌雄を決する覚悟を固めました。 頼朝軍入京間近の報に力を得た後白河法皇は、義仲を京都から放逐するため対抗できる戦力の増強を図るようになりました。 数の上では義仲軍を凌いだ段階で、圧倒的優位に立ったと判断した法皇は、義仲に対して最後通牒を行ないました。 それは、ただちに平氏追討のため西下せよ、院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば宣旨によらず義仲一身の資格で行え、もし京都に逗留するのなら謀反と認めるというものでした。 18日に後鳥羽天皇、守覚法親王、円恵法親王、天台座主・明雲が御所に入り、義仲への武力攻撃の決意を固めたと思われます。 11月19日に、追い詰められた義仲は法住寺殿を襲撃しました。 院側は土岐光長・光経父子が奮戦しましたが、義仲軍の決死の猛攻の前に大敗しました。 御所から脱出しようとした後白河法皇は捕縛され、義仲は法皇を五条東洞院の摂政邸に幽閉しました。 20日に義仲は、五条河原に光長以下百余の首をさらしました。 21日に松殿基房と連携して毎事沙汰を致すべしと命じ、22日に基房の子・師家を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立しました。 28日に新摂政・松殿師家が下文を出し、前摂政・近衛基通の家領八十余所を義仲に与えることが決まり、中納言・藤原朝方以下43人が解官されました。 12月1日、義仲は院御厩別当となり、左馬頭を合わせて軍事の全権を掌握しました。 10日に源頼朝追討の院庁下文を発給させ、形式的には官軍の体裁を整えました。 1184年1月6日、鎌倉軍が墨俣を越えて美濃国へ入ったという噂を聞き、義仲は怖れ慄きました。 15日には自らを征東大将軍に任命させ、平氏との和睦工作や後白河法皇を伴っての北国下向を模索しました。 しかし、源範頼・義経率いる鎌倉軍が目前に迫り開戦を余儀なくされ、宇治川や瀬田での戦いに惨敗しました。 戦いに敗れた義仲は、今井兼平ら数名の部下と共に落ち延びましたが、20日に近江国粟津で討ち死にしました。 享年31歳でした。 本書は、義仲の生涯に沿って出来事の事実や意義・評価を叙述しています。 義仲と関わりのある様々な人物や地域について幅広く言及し、特に北陸の武士や地理について詳細な点が注目されます。 また、古文書・古記録が限られていることもあり、後世に成立した”平家物語”諸本への視線が注目されます。駒王丸 大倉館/薄幸の孤児/木曽へ隠れる/関東と信州/木曽次郎義仲/源仲家木曽谷の旗挙げ 義仲と中原一族/旗挙げ/市原の戦/上野進出/越後の城氏/義仲の陣営/横田河原の合戦/北陸武士の動向倶利伽羅の合戦 義仲、危機一髪/不和の背景/志水冠者義高/平家の北陸快進撃/般若野の衝突/義仲の作戦/倶利伽羅の合戦/勝利に蔭にひそむもの/敗軍の集結/篠原の挽歌/斎藤別当実盛/木曽武者と「かり武者」/平軍帰洛義仲上洛 大夫房覚明/山門工作/叡山の返牒/義仲と覚明/一門評定/法皇雲隠れ/後白河法皇/平家都落ち/哀愁の武者/義仲上洛旭将軍 義仲の栄進/自然児/義仲の栄進/自然児/義仲と行家/北陸宮/武士の洛中狼藉/十月宣旨/頼朝の手腕/水島の敗戦/法住寺殿の焼打ち/宇治川の戦い/旭将軍の末路/木曽殿最期/乳母子/木曽の家木曽義仲年譜
2017.10.07
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