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老子は中国文化の中心を為す人物のひとりで、多くの反権威主義的な業績を残した中国春秋時代における哲学者で、道家・道教の始祖としての知られています。 ”現代語訳 老子”(2018年8月 筑摩書房刊 保立 道久著)を読みました。 人の生死を確かな目で見つめ、宇宙と神話の悠遠な世界を語り世のために、恐れずに直言する老子の内容を整理し明快に解きほぐしています。 「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられ、道教のほとんどの宗派で老子は神格として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持っています。 書物『老子』を書いたとされますがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり生きた時代について激しい議論が行われています。 保立道久さんは1948年東京生まれ、国際基督教大学卒業、東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了、1976年に東京大学史料編纂所助手、同助教授、同教授、2005年から所長をつとめました。 歴史資料の電子化・データベース化に早くから取り組み、成果は東京大学史料編纂所で古文書フルテキストデータベースとして公開されています。 これまで、老子は中国の春秋時代、孔子(前552~479)とほぼ同時代の人物とされてきました。 司馬遷の『史記』には、老子が孔子に礼を教えたとか、老子が中国の衰えたのを見限って西の関所を出るとき、関守の尹喜に頼まれて、一気に5000字の『老子』を書き下ろしたなどとあります。 しかし、最近では、『史記』の記載のほとんどが伝説にすぎないとされています。 また学界では、そもそも老子は、「道家」と呼ばれる系列の思想家たちが作り出した虚構の人物であるという意見も多いです。 そうでないとしても、書籍としての『老子』には多数の人々の手が入っているという意見が圧倒的です。 しかし著者は、『老子』を虚心に読んでいると、それが全休として緊密にまとまった思想的な統一性、一体性をもっていることを、誰しも感じるのではないかといいます。 『荘子』は長い時間をかけて集団的に書き継がれたものですが、『老子』はやはり一人の人物が執筆したと考える方がよいといいます。 『老子』の成立は、中国の南、揚子江流域の「楚国」に深い関係があることは一般に認められています。 1993年に、中国湖北省荊門市の郭店という町の古墓から、竹簡本の「楚簡」と呼ばれる『老子』が出土したためです。 「楚簡老子」と呼ばれるこの竹簡本は、郭店の古墓に埋葬されていた王族または貴族の所持品で、そのために墓に納められたものです。 この竹簡本は甲・乙・丙の三本が出土し、甲本は39枚、乙本は18枚、丙本は14枚の竹簡からなっています。 甲・乙・丙三本あわせても総字数は2046字ほどで、これは現在の完本『老子』の5分の2ほどに過ぎません。 それでも、ここに『老子』の基本部分が発見されたことは画期的なことでした。 この墓は中国の考古学者の見解では、紀元前300年から270年頃の造営とされます。 しかし、墓の造営が少し遅れる可能性があり、この墓の造営を紀元前255年とし、埋葬された人物が50歳で死去したという見解もあります。 その20年前くらいから順次に竹簡を人手したと仮定すれば、この竹簡は紀元前275年頃に作成されたことになります。 もし楚簡の本になる原稿を書いた紀元前280年に老子が40歳であったとすると、老子の生まれたのは紀元前320年頃ということになります。 長寿であったとされることから、たとえば90歳まで生きたとすると、その死没は紀元前230年になります。 この年代観を取ると、老子の活動期は、孟子(前372?~289?)の生存時代の最後に重なります。 『老子』の中には明らかに孟子に対する批判を意図した文章がありますので、うまく話が合います。 なお、全体で約5000字からなるという現在の『老子』の形が確認できるのは、もっと遅れます。 それは、1973年に湖南省長沙市の馬王堆の墳墓から発見された『老子』です。 「楚簡老子」は哲学や人生訓を中心としたやや素撲な内容であるのに対して、帛書に反映した加筆された『老子』は政治と社会についての洞察や華麗な比喩が付け加えられて複雑な構成となっています。 孔子のいう「礼」と老子のいう「徳」には、趣旨として相似するところがあります。 老子の段階においては、国家的・文明的な知識体系がすでに形成されており、それを批判するなかから東洋における初めての本格的な哲学が立ち上がってきたのです。序 老子と『老子』について/老子は実在したか?/『老子』は老子の書いたものか?/『老子』の初稿は紀元前280年頃?/『老子』の生存年代は紀元前320年頃から230年頃?/老子と孔子、『老子』と『論語』第1部 「運・鈍・根」で生きる第1課 じょうぶな頭とかしこい体になるために/1講 象に乗って悠々と道を行く/2講 作為と拘りは破綻をまねく/3講 勉強では人間は成長しない/4講 大木に成長する毛先はどの芽に注意を注ぐ/5講 自分にこだわる人の姿を「道」から見る/6講 丈夫な頭とかしこい身体/7講 自分を知る「明」と「運・鈍・根」の人生訓/コラム①「明」の定義第2課 「善」と「信」の哲学/8講 無為をなし、不言の教えを行う/コラム② 不言の教の定義/9講 上善は水の若し/コラム③ 「善」の定義/10講 「信・善・知」の哲学/11講 「善・不善≒信・不信」を虚心に受けとめる/12講 民の利と孝慈のために聖智・仁義を絶する/コラム④ 「孝慈」の定義/13講 「言葉の知」は「文明の病」第3課 女と男が身体を知り、身体を守る/14講 女と男で身体の「信」をつないでいく/15講 女が男を知り、男が女を守り、子供が生まれる/コラム⑤ 易・陰陽道・神仙思想と日本の天皇/16講 家族への愛を守り、壊れ物としての人間を守る/17講 赤ん坊の「徳」は男女の精の和から生ずる/18講 母親は生んだ子を私せず、見返りを求めない/19講 男がよく打ち建て、女がよく抱く、これが世界の根本/20講 柔らかい水のようなものが世界を動かしている第4課老年と人生の諦観/21講 力あるあまり死の影の地に迷う/22講 私を知るものは希だが、それは運命だ/23講 老子、内気で柔らかな性格を語る/24講 学問などやめて、故郷で懐かしい乳母と過ごしていたい/25講 人には器量の限度がある、無事に身を退くのが第一だ/26講 老子の処世は「狡い」か第2部 星空と神話と「士」の実践哲学第1課 宇宙の生成と「道」/27講 混沌が星雲のように周行して天地が生まれる/28講 私は和光同塵の宇宙に天帝よりも前からいた/29講 私の内面にある和光同塵の世界/30講 知とは五感を超えるものを見る力である/31講 道は左右に揺れて変化し、万物はそれにつれて生まれる/32講 天の網は大きくて目が粗いが、人間の決断をみている/33講 老子はギリシャのソフィスト、ゼノンにあたるか?第2課女神と鬼神の神話、その行方/34講 星々を産む宇宙の女神の衆妙の門/35講 谷の神の女陰は天地の根源である/36講 世に「道」があれば鬼神も人を傷つけない/37講 天下は壷の形をした神器である。慎重に扱わねばならない/コラム⑥ 「物」の定義/38講 胸に陽を抱き、背/に陰を負い、声をあわせて生きる/39講 一なる矛盾を胸に抱いて進め第3課 「士」の衿持と道と徳の哲学/コラム⑦ 「徳」の定義/コラム⑧ 老子の「徳」と孔子の「礼」/40講 希くの声をしるべにして道を行く/コラム⑨ 「聖人」の定義/41講 士の「徳」は「道」を実践すること/42講 実践の指針、無為・無事・無味の「徳」/43講 「仁・義・礼」などと声高にいうのは愚の骨頂だ/44講 玄徳は女の徳との合一を理想とする/45講 契約の信は求めるが、書類を突きつけて人を責めることはしない/46講 戸を出でずして世界を知ることが夢第4課 「士」と民衆、その周辺/47講 士たる者は故郷の山河を守る/48講 人々の代表への信任は個人に対するものではない/49講 士は民衆に押れ押れしく近づくものではない/50講 士と百姓の間には激しい風が吹く/51講 民の前に出るときはあくまで控えめに/52講 器「善」と「不善」をめぐる老子と親鸞/53講 赦しの思想における老子とイエス・キリスト第3部 王と平和と世直しと第1課 王権を補佐する/54講 我から祖となれ、王となれ/55講 無為の人こそ王にふさわしい/856講 正道を進んで、無為・無事・無欲に天下を取る/57講 王の地位は落ちていた石にすぎない/258講 知はどうでもいい。民衆は腹を満たし、骨を強くすればよい/59講 知をもって国を治めるものは国賊だ/60講 政治の本道は寛容と保守にある第2課 「世直し」の思想/61講 王権の根拠と土地均分の思想/コラム⑩ 老子の土地均分思想と分田論/62講 王が私欲をあらわにした場合は「さようなら」/63講 「無用の用」の経済学/コラム⑪ 「器」の定義/64講 有り余りて有るを、取りで以て天に奉ぜん/65講 倫理に欠陥のある人々が倫理を説教する/66講 朝廷は着飾った盗人で一杯で、田は荒れ、倉庫は空っぽ/67講 民衆が餓えるのは税を貪るもののせいだ第3課 平和主義と「やむを得ざる」戦争/68講 固くこわばったものは死の影の下にある/69講 戦争の惨禍の原因は架空の欲望を作り出すことにある/70講 士大夫の職分は武ではない/71講 軍隊は不吉な職というほかなど/72講 老子の権謀術数/73講 自衛戦争はゲリラ戦法でいく/74講 首切り役に「死の世界」をゆだねない第4課 帝国と連邦制の理想/75講 理想の王はすべてに耐えぬかねばならない/76講 理想の王は雑巾役として国の垢にまみれる/77講 万乗の主でありながら世界を軽がるしく扱う/78講 肥大した都市文明は人を狂わせる/79講 平和で柔軟な外交で王を補佐する/80講 大国と小国の連邦においては大国が遜らねばならない/81講 小国寡民。人はそんなに多くの人と群れなくてもよい
2019.01.26
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一国の統治は過ぎても不足でも適わない中庸こそが大切として、3代将軍徳川家光のとき大老となって大名統制を断行した土井利勝は、徳川の世の礎を築きました。 古河藩は、信任厚き譜代が城主の関東平野枢要地で、雪の殿様や桃まつりにみられる小江戸の優美が煌めく街です。 ”古河藩”(2011年2月 現代書林社刊 早川 和見著)を読みました。 古河の街には、藩主と共に学問振興を図った家老・鷹見泉石の勉学の精神が今なお脈々と連なっています。 早川和見さんは1953年古河市生まれ、故・千賀忠夫氏に師事し、郷土史全般、古文書解読法等を学んだ千賀史学の継承者です。 1993年に第18回郷土史研究賞特別優秀賞を受賞し、現在、古河の文化と歴史を護る会会員、古河郷土史研究会会員で、日本歴史学会、山形県地域史研究協議会、東亜天文学会等に所属しています。 古河は関東平野のほぼ中央部に位置する内陸性気候の地で、夏は湿度を伴った猛暑となり、冬は北西からの強烈な”からっ風”によって厳寒となることが多いです。 古河の地名は大変古く、古来より河岸があり、河川交通が盛んで人々の往来が多く栄えていたことが『万葉集』からも知られています。 古河城は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての御家人である下河辺行平により築城されました。 室町時代になると、足利尊氏は関東統治のために鎌倉府を設置しました。 初代鎌倉公方(関東公方)は尊氏の子基氏でした。 鎌倉公方は基氏の曾孫で第4代持氏の時、京都の第6代将軍で尊氏の曾孫義教と対立しました。 永享の乱を引き起こして持氏は自害させられ、鎌倉府は滅亡しました。 義教の没後、持氏の遺児成氏は罪を許され、1449年に鎌倉に戻って第5代鎌倉公方となりました。 1454年に成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺したことを端緒として、享徳の乱が引き起こされました。 山内上杉家は憲忠の後継者に実弟の房顕を立てて体制を立て直し、室町幕府の第8代将軍足利義政に支援を要請しました。 成氏は房顕を武蔵分倍河原で破りましたが、房顕の支援を決定した義政が駿河の今川範忠を動かし、1455年に後花園天皇より成氏追討の綸旨と御旗を賜って成氏を朝敵としました。 そのため、成氏は鎌倉を放棄して古河を本拠としました。 以後、成氏の系統は古河公方と呼ばれました。 成氏は、1457年に修復が完了した古河城に正式に入城しました。 当時の古河公方は下総・下野・常陸に及ぶ強大な勢力圏を誇りました。 成氏は幕府の派遣した堀越公方の足利政知や上杉家と抗争を続けましたが、1477年に成氏は和睦を申し出て、5年後に幕府と古河公方家は和睦しました。 成氏は1497年に病死し、息子の政氏が第2代古河公方となりました。 政氏は外交方針をめぐって嫡子の高基と対立し、父子が不和になって内紛を起こし、最終的に高基が勝利して政氏は追われ、高基が第3代古河公方となりました。 高基の実弟の義明が還俗し、上総守護代の武田氏の勢力を背景にして小弓公方として独立するなど、次第に古河公方の衰退は明らかになっていきました。 高基は勢力挽回のため、関東で台頭し始めていた北条早雲・氏綱に接近し、嫡子晴氏の正室に氏綱の娘を迎えて北条との連携を図り、1538年には小弓公方を滅ぼしました。 高基の跡を継いだ晴氏は関東管領上杉憲政に接近して氏綱の嫡子氏康と敵対し、1546年に武蔵河越で氏康と戦い兵力では圧倒的に優位ながら大敗しました。 以後、古河公方家は後北条家の影響下に置かれ、その勢力範囲内の各所を居所として転々としました。 晴氏は1560年に死去し、子で第5代の義氏は北条準一門として古河公方に立てられましたが、嗣子が無く天1582年に死去し、古河公方は断絶して後北条家より以後は古河に城番が置かれました。 1590年に関白豊臣秀吉により小田原征伐が行なわれ、7月に後北条氏が滅び、8月に秀吉の命令で、駿河など東海に5カ国を領有していた徳川家康は関東8カ国に国替えとなりました。 家康は古河を重要視し、嫡男松平信康の娘婿である小笠原秀政を3万石で入部させました。 秀政は荒廃していた古河城を修復・拡張し、隆岩寺を開基しました。 1601年に、信濃守護の末裔の秀政を家康は故郷に2万石加増の5万石で戻し、秀政は信濃飯田へ移封されました。 徳川家康は、古河城を江戸城の支城と位置付けて、北部防衛の拠点として極めて重視しました。 城主には、譜代大名の中でも特に信任の厚い者を人選しています。 こうしたことから、藩主においても老中等の要職者が多数輩出しました。 そして古河藩と江戸城との関係は、単に政治、軍事的な結び付きにとどまらず、水陸運の北関東枢要地として大消費地江戸との経済的、文化的等の関係を一層深め、古河における小江戸化が形成されました。 古河藩は江戸時代下総国葛飾郡 を領有した藩で、奥州街道の重要地点にあったため、藩主は譜代大名がほとんどです。 古河藩主は国替されることが多く、多くの譜代大名から任じられています。 小笠原氏の3万石に始り、松平 (戸田) 氏2万石、小笠原氏2万石、奥平氏 11万石、永井氏7万2000石、土井氏16万石、堀田氏9万石、松平 (藤井) 氏9万石、松平 (大河内) 氏7万石、 そして、本多氏5万石、松平 (松井) 氏5万8000石、土井氏7万石です。 その中の代表格が土井家であり、同家の入封は前期・後期の2回で、その期間は1世紀半を超えます。 古河城のシンボル御三階櫓は、藩祖の土井利勝によって創建されたものです。 土井家本家11代目当主土井利位=としつらは、筆頭老中まで昇進する一方で、日本で最初に蘭製顕微鏡で雪の結晶を観察したことで知られています。 その雪の殿様こと土井利位を補佐した家老が鷹見泉石です。 古河藩史に初めて正面から取り組んだ頃、著者は幕末の古河城内には、歴代大名家の在藩時の史料が、きちんと一貫して累積されているものだと思い込んでいたそうです。 しかし、大名家の交替の際、在藩史料については次に入部する大名には事務引き継ぎはされず、移封地へ持って行ってしまうようです。 古河には、江戸時代後期から明治時代に入るまでの土井家の藩政記録しかなく、他の10家にわたる大名家時代の記録は、残念ながら存在していません。 このため本書においては、古河藩大名家としては土井家を中心とせざるを得なかったといいます。第1章 古河藩成立以前と藩初の展開/第2章 土井家治政の初期/第3章 お家再興と移封、そして再封/第4章 古河藩再封後の財政問題/古河藩社会が直面した時代の動き
2019.01.19
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鳥居強右衛門=とりいすねえもんが歴史の表舞台に登場するのは1575年の長篠の戦いの時だけで、それまでの人生についてはほとんど知られていません。 強右衛門は奥平氏に仕えていた武士ですが、身分や、どの程度の禄をもらっていたのかなどははっきりとわかっていません。 ”鳥居強右衛門 語り継がれる武士の魂”(2018年9月 平凡社刊 金子 拓著)を読みました。 500の兵が立てこもる難攻不落の長篠城に攻め寄せる大群の勝頼軍を、「某にお任せ下され」と頭を垂れた名もなき侍の名が後世に伝わった理由を解き明かします。 資料によると、強右衛門は三河国宝飯郡内の生まれで、当初は奥平家の直臣ではなく陪臣であったとも言われ、長篠の戦いに参戦していた時の年齢は数えで36歳と伝わります。 奥平氏はもともと徳川氏に仕える国衆でしたが、元亀年間中は甲斐武田氏の侵攻を受けて、武田家の傘下に従属していました。 武田家の当主であった武田信玄が元亀4年4月に死亡し、その情報が奥平氏に伝わると、奥平氏は再び徳川家に寝返りました。 金子 拓さんは1967年山形県生まれ、1990年東北大学文学部国史学科卒業、1997年東北大学大学院文学研究科博士課程後期修了、東北大学文学博士です。 1998年に東京大学史料編纂所助手、2007年に中世史料部門助教、2013年から准教授を務めています。 奥平家の当主であった奥平貞能の長男・貞昌、後の奥平信昌は、三河国の東端に位置する長篠城を徳川家康から託され、約500の城兵で守備していました。 天正3年5月、長篠城は勝頼が率いる1万5,000の武田軍に攻囲されました。 5月8日の開戦に始まり、11、12、13日にも攻撃を受けながらも、周囲を谷川に囲まれた長篠城は何とか防衛を続けていました。 しかし、13日に武田軍から放たれた火矢によって、城の北側に在った兵糧庫を焼失しました。 食糧を失った長篠城は長期籠城の構えから一転、このままではあと数日で落城という絶体絶命の状況に追い詰められました。 そのため、貞昌は最後の手段として、家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請しようと決断しました。 しかし、武田の大軍に取り囲まれている状況の下、城を抜け出して岡崎城まで赴き、援軍を要請することは不可能に近いと思われました。 この命がけの困難な役目を自ら志願したのが強右衛門でした。 14日の夜陰に乗じて城の下水口から出発、川を潜ることで武田軍の警戒の目をくらまし、無事に包囲網を突破しました。 翌15日の朝、長篠城からも見渡せる雁峰山から烽火を上げ、脱出の成功を連絡しました。 当日の午後に岡崎城にたどり着いて、援軍の派遣を要請しました。 この時、幸運にも家康からの要請を受けた信長が武田軍との決戦のために自ら3万の援軍を率いて岡崎城に到着していました。 そして、織田・徳川合わせて3万8,000の連合軍は翌日にも長篠へ向けて出発する手筈となっていました。 これを知って喜んだ強右衛門は、この朗報を一刻も早く味方に伝えようと、すぐに長篠城へ向かって引き返しました。 16日の早朝、往路と同じ山で烽火を掲げた後、さらに詳報を伝えるべく入城を試みました。 ところが、城の近くの有海村で武田軍の兵に見付かり、捕らえられました。 武田氏側は強右衛門に、城内にいる味方に対し、もう援軍は来ないから諦めて開城せよと伝えれば召し抱えてやろうと提案しました。 この提案を強右衛門は受諾したふりをし、いざ味方の前に出されたとき、まもなく援軍がやってくるのでもう少しの辛抱だと叫んだため、怒った武田軍によって殺害されてしまいました。 名のある戦国武将ではなく、一介の伝令にすぎない強右衛門のことを知っている人が、このようにいまの時代も少なからずいるらしいのは、よく考えれば不思議なことです。 理由のひとつは、武士としての自己犠牲の精神、忠義の心が人びとを感動させたことにあるのでしょうが、ほかにも大きな理由が存在すると思われます。 それは、強右衛門の姿を描いたとされる旗指物の図像です。 この絵は、強右衛門が、長篠城の味方に対し援軍が来ると叫んだあと、傑にされ殺害されたときの姿を描いたものとされています。 原本は東京大学史料編纂所が所蔵し、白地の絹に全身真っ赤に描かれた裸一丁の半裸の人物が傑柱に大の字に縛りつけられ、口をむすんで大きな目をかっと見開いています。 一度見たら忘れがたい、強烈な迫力に満ちた図像です。 なぜこのような図像が制作され、現代に至るまで受け継がれてきたのでしょうか。 本書では、このような疑問について考えながら、強右衛門の人物のことが述べられています。 第一部の各章では、鳥居強右衛門が使者として働いた長篠城の攻防戦とはどのようないくさであったのか、 このいくさが長篠の戦いにどのようにむすびつくのか、 このいくさのなかで、いかなる事情で強右衛門が使者として立てられることになったのか、 強右衛門の死を伝える史料にはどのようなものがあるのか、 彼の死は後世、江戸時代の記録においてどのように描かれ、その人物像はどのように変容してゆくのか、といったことがらを考えています。 第二部の各章では、強右衛門の姿を描いた旗指物に焦点を当てています。 この旗指物を制作した落合道次という人物について、 なぜこの図像をみずからの旗指物としたのか、 どのような立場の武士であったのか、 子孫たちは家祖道次が制作した旗指物をいかにして受け継いだのか、といったことがらを考えてみます。 第三部では、江戸時代において、文字によって語られてきたり、旗指物図像の流布によってつくりあげられたりしてきた虚像”としての強右衛門像について書かれています。 近代以降いかなる経緯をたどって増幅、再生産され、現代のわたしたちが頭に描く彼の姿につながってくるのか、 どのような背景によって『国史大辞典』の項目や、『水曜どうでしょう』のようなテレビ番組に流れこむのか、といったことを眺めています。 鳥居強右衛門を通して、ある種の歴史認識の形成と展開・受容といった問題を考えてみます。第1部 鳥居強右衛門とは何者か(長篠の戦いに至るまで/長篠城攻防戦と鳥居強右衛門/鳥居強右衛門伝説の成立)第2部 落合左平次道次背旗は語る(目撃者・落合左平次道次/旗指物の伝来と鳥居強右衛門像の流布/指物としての「背旗」/よみがえる「落合左平次指物」)第3部 伝承される鳥居強右衛門像(近代の鳥居強右衛門/三河武士鳥居強右衛門)
2019.01.12
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藤田嗣治は1886年東京市牛込区新小川町生まれのフランスのエコール・ド・パリの代表的な画家で、第一次世界大戦前よりフランスのパリで活動しました。 1920年代のパリを拠点に活躍した最初の日本人美術家として知られる藤田嗣治の没後半世紀に際して、遺族の手元以外から見つかった多くの書きもの=日記や手紙を紹介しています。 “藤田嗣治 手紙の森へ”(2018年1月 集英社刊 林 洋子著)を読みました。 日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の乳白色の肌とよばれた裸婦像などが西洋画壇の絶賛を浴びました。 父の転勤に伴い7歳から11歳まで熊本市で過ごしました。 父・藤田嗣章は、大学東校で医学を学んだ後、軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監にまで昇進しました。 林 洋子さんは1965年京都府生まれ、1989年東京大学文学部美術史学科卒、1991年同大学院修士課程修了し、東京都現代美術館学芸員となりました。 その後、パリ第1大学博士課程修了、博士号取得、2001年京都造形芸術大学助教授、2007年准教授、2015年国際日本文化研究センター客員准教授を務めています。 近現代美術史、美術評論が専門で、文化庁 芸術文化調査官を務めました。 2008年にサントリー学芸賞、2009年に渋沢クローデル賞ルイ・ヴィトンジャパン特別賞、日本比較文学会賞を受賞しました。 著書に、『藤田嗣治 作品をひらく 旅・手仕事・日本』2008年、『藤田嗣治手しごとの家』2009年)、『藤田嗣治 本のしごと』2011年、『藤田嗣治 手紙の森へ』2018年などがあります。 藤田は熊本県師範学校附属小学校、高等師範附属小学校、高等師範附属中学校を卒業し、森鴎外の薦めもあって、1905年に東京美術学校西洋画科に入学しました。 当時の日本画壇は、フランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされていました。 1910年に同校を卒業。卒業に際して製作した自画像は、黒田が忌み嫌った黒を多用しており、挑発的な表情が描かれていました。 精力的に展覧会などに出品しましたが、当時黒田らの勢力が支配的であった文展などでは全て落選しました。 1911年に長野県の木曽へ旅行して作品を描き、また薮原の極楽寺の天井画を描きました。 この頃女学校の美術教師であった鴇田登美子と出会って、2年後の1912年に結婚し、新宿百人町にアトリエを構えました。 しかし、フランス行きを決意した藤田が妻を残し単身パリへ向かい、最初の結婚は1年余りで破綻しました。 1913年に渡仏し、パリのモンパルナスに居を構え、後に親友とよんだアメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンらと知り合いました。 彼らを通じて、後のエコール・ド・パリのジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、モイズ・キスリングらと交友を結びました。 1914年に第一次世界大戦が始まり、日本からの送金が途絶え生活は貧窮しました。 戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに、描いた絵を燃やして暖を取ったこともあったそうです。 そんな生活が2年ほど続き、大戦が終局に向かいだした1917年3月にカフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエと2度目の結婚をしました。 このころ初めて藤田の絵が売れ、その後少しずつ絵は売れ始め、3か月後には初めての個展を開くまでになりました。 シェロン画廊で開催されたこの最初の個展でよい評価を受け、絵も高値で売れるようになりました。 面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃確立されました。 以後、サロンに出すたびに黒山の人だかりができ、サロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田の名声が高まりました。 2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、フランス人女性リュシー・バドゥと結婚しました。 リュシーは教養のある美しい女性でしたが、酒癖が悪く夫公認で詩人と愛人関係にありその後離婚しました。 1931年には、新しい愛人マドレーヌを連れて個展開催のため南北アメリカへ向かいました。 その後1933年に南アメリカから日本に帰国し、1935年に25歳年下の君代と出会い一目惚れして、翌年5度目の結婚をして終生連れ添いました。 1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として日中戦争中の中華民国に渡り、1939年に日本に帰国しました。 その後再びパリへ戻りましたが、1914年9月に第一次世界大戦が勃発し、翌年ドイツにパリが占領される直前にパリを離れ、再度日本に帰国することを余儀なくされました。 その後太平洋戦争に突入した日本において陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画の製作を手がけました。 終戦後の連合国軍の占領下において、戦争協力者と批判されることもあり、1949年に日本を去ることとなりました。 フランスに戻った時にはすでに多くの親友の画家たちがこの世を去るか亡命していましたが、その後もいくつもの作品を残しました。 1955年にフランス国籍を取得し、1957年フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られました。 藤田はヨーロッパで初めて本格的に勝負し、相応の成果をあげ、作品を現地で売ることで生活できた最初の日本人美術家、パイオニアであり、2018年は藤田が逝って50年にあたります。 太平洋戦争下の作戦記録画への前のめりな取り組みや振る舞い、そしてその後の離日、国籍変更、カトリックヘの改宗など、前半生の功績をかき消すほどのノイズが多い作家でもあります。 毀誉褒貶のはげしい、生々しい存在が、死後、時間が経過し、次第に歴史的存在へと、身体感覚が希薄になり、残した作品だけでなく、日記や手紙の存在が確認され、整理公開、復刻が進んでいます。 本書は、生前の画家が書いた手紙をテーマとしています。 藤田のもとに残っていた来信はそう多くありませんが、藤田から手紙をもらった人、もしくはその遺族や関係者の手元に残っていました。 それらは、家族あて、同業の美術家あて、コレクターなど支援者あてと三種類に大別できます。 航空郵便の全盛期、目方を軽減するための裏面が透けるような薄い便箋に、インクでぎっしり書かれた文字群には相手への思いのこもったイラストレーションが添えられることもしばしばでした。 こうした紙の上の手しごとをまとめることが、藤田の多面性のいっそうの理解につながると願います。 いくつかの手紙は、藤田の人生の転機の証言者となるはずです。 さあ、手紙の封を切りましょう。第一信 明治末の東京からはじまる/第二信 一九一〇年代の欧州から、日本の妻へ/第三信 一九二〇年代のパリで/第四信 一九三〇年代 中南米彷徨から母国へ/第五信 太平洋戦争下の日本で―後続世代へ/第六信 敗戦の影―パリに戻るまでの四年半/第七信 フランク・シャーマンへの手紙―GHQ民生官との交流/終 信 最晩年の手記、自らにあてた手紙としての*フランク・シャーマンは、元連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民政官で、藤田の戦後のアメリカ・ フランス行きを支援した人物。
2019.01.05
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