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赤星鉄馬は1883年東京生まれ、海軍への物資調達で巨万の富を築いた赤星弥之助の息子(六男六女の長男)で、莫大な遺産を相続した実業家です。 ”赤星鉄馬 消えた富豪”(2019年11月 中央公論新社刊 与那原 恵著)を読みました。 赤星鉄馬は、武器商人として日清戦争の頃に巨万の富を築いた父親から巨万の富を継ぎ、日本初の学術団体を設立しブラックバスを芦ノ湖へ移入し日本ゴルフ界の草創期を牽引しました。 にもかかわらず、何も書き残さず静かに姿を消したその生涯を紹介しています。 赤星家の財産は弥之助が築いたもので、弥之助は1853年生まれ、磯長孫四郎の子で赤星家の養子となり、東京に出て金貸し業その他の事業に関係して財をなしました。 鉄馬は1901年に東京で中学を卒業後渡米し、ローレンスビル・スクールに入学しました。 留学中にペンシルベニア大学卒業後、1910年に27歳で帰国し、大阪の開業医の娘と結婚しました。 政府関係者に随行して、夫婦で世界一周の新婚旅行をしました。 父親の死去にともない、家業を継ぎました。 与那原恵さんは1958年東京都生まれ、1996年に雑誌『諸君!』掲載のルポで、編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞を受賞しました。 2014年に第2回河合隼雄学芸賞、第14回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受賞しました。 赤星鉄馬は知る人ぞ知る戦前の富豪ですが、名前を聞いてすぐに分かる人は多くありません。 鉄馬の存在は、これまで日本の近現代史の中でほとんど知られてきませんでした。 鉄馬は、趣味から派生したブラックバスの研究書を除いて、日記や回想録といった文章を一切書き残さず、インタビューにも応じなかったからです。 著者が鉄馬の名前を知ったのは、前著”首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像”を執筆中のことだったといいます。 鎌倉芳太郎は大正末期から昭和にかけて琉球芸術の調査を行い、琉球文化全般の膨大な史料を残した人物です。 カメラとガラス乾板を携えて大正期から沖縄本島・離島、奄美大島各地を巡り、風景や建造物、工芸品など千数百点の写真を撮影しました。 それはいまも当時の沖縄を記録した貴重な画像となっています。 芳太郎が登場した時期の沖縄では、のちに沖縄学と名付けられる研究が始まっていましたが、本土では注目されていませんでした。 2019年10月末に火事で焼失した首里城は、大正末、取り壊しが決定していましたが、それを阻止できたのは芳太郎の働きかけもあったからです。 国宝指定されたものの沖縄戦で失われ、戦後は琉球大学の建設によって、城壁などの一部がかろうじて残されているだけでした。 その首里城は、1992年に復元され、以後、首里城は四半世紀をかけて沖縄を象徴する文化遺産として受け入れられていきました。 芳太郎の足跡を取材していた著者は、1923年に芳太郎が啓明会という学術財団から多額の資金提供を受けている資料を発見しました。 その頃の芳太郎は全くの無名の青年で、まだ実績のない在野の研究者にすぎませんでした。 啓明会は、芳太郎が行おうしていた琉球芸術調査に対して、今のお金に換算して3回にわたり総額約2000万円もの調査費を支給していました。 そのような時代に、無名の在野の研究者に2000万円を出した富豪がいたということがすごく不思議だったといいます。 啓明会は基礎的な文献や資料の収集、研究に重きを置いて助成活動を行っていました。 学術界の重鎮のほか、無名の研究者や女性研究者も支援するなど、当時においてかなり先進的な取り組みをしていました。 記録を調べてたどり着いたのは、啓明会は鉄馬から100万円(現在の約20億円に相当)の提供を受けて設立された財団という事実でした。 啓明会は近代日本の学術研究の基礎を築き、設立当時は国内の全研究助成費の5分の1を占めるほど大きな存在感を示しました。 ですが、鉄馬は財団の名に赤星の名を使用させず、運営にも親族を一切かかわらせなかったため、すぐには名前が出てきませんでした。 資金を提供した赤星鉄馬という人物は謎のままで、資料には具体的なことが何も書かれていません。 いったいこの人は何者なんだろう、とがぜん興味が湧いてきたといいます。 鉄馬は1917年に父・弥之助死去に伴い、保有していた美術コレクションを売却しました。 後に国宝となった物件が多数含まれていたことから、赤星家売立と呼ばれました。 総額510万円以上にのぼる高額の落札額を記録し、当時の最大規模の売立となったそうです。 1918年に、文部省管轄としては日本で初めての学術財団となる財団法人啓明会を設立し、美術品売却益の5分の1に相当する金額を奨学資金として投資しました。 資金は出しましたが、赤星自身はこの財団の運営に一切関わらず、親族にも関わらせませんでした。 1913年に設立された、赤星家の資産運用保管の目的の泰昌銀行の頭取でしたが、1920年に松方巌率いる十五銀行に経営権を譲渡しました。 1923年時点では、千代田火災保険の監査役だけが肩書きで、新聞では、一向に事業という様な事業をしてないと評されました。 1923年の関東大震災で麻布鳥居坂の邸宅が倒壊し、震災後は東京府北多摩郡武蔵野村、現在の武蔵野市に転居しました。 吉祥寺の一角で、成蹊大学前のカトリック・ナミュール・ノートルダム修道女会の敷地です。 当初は、アメリカから持ってきた住居を移築して住んでいました。 鳥居坂の邸宅跡には、国際文化会館が建てられています。 1925年に、公害や乱獲、ダム建設などでバランスの崩れた河川湖沼の回復を目的に、味がよく釣って面白い魚という触れ込みで芦ノ湖へオオクチバス(ブラックバス)を移入しました。 1934年に、アントニン・レイモンド設計の新居が完成しました。 外観は修道院の門から見ることができ、邸宅の敷地は3万坪で、一部は成蹊大学となっています。 鉄馬を追いかけるように旅をするうちに、親族や身近にいた人たち、交錯した人物など、思わぬ人びとがつぎつぎと姿をあらわしたそうです。 それとともに、幕末から明治、大正、そして昭和の時代が浮かびあがってきました。 本人は釣りに関することを除いて書きのこしていませんが、それでもさまざまな資料をあたるうちに、その生涯が見えてきました。 絶大な力を待った野心的な父弥之助に対して、複雑な思いも抱いたでしょう。 鉄馬は通算8年におよんだ米国留学の体験が、内面に大きな変化をもたらしたと思われます。 さらに、兄のような存在の樺山愛輔の尽力もあって、啓明会が誕生し、近代学術研究の蓄積という大きな遺産が今日にのこされました。 愛輔は伯爵樺山資紀の長男で、13歳でアメリカに留学し、1885年にコネチカット州ウェズリアン大学に入学、その後、1887年にアマースト大学に編入しました。 アマースト大学卒業後、ドイツ・ボン大学に学びました。 帰国後、国際通信、日英水力電気、蓬来生命保険相互などの取締役、千歳火災海上再保険、千代田火災保険、函館船渠、大井川鉄道各社の重役を務めました。 1922年襲爵、1925年貴族院議員、1930年ロンドン軍縮会議日本代表随員となりました。 太平洋戦争中、近衛文麿や原田熊雄、吉田茂などと連携して、終戦工作に従事しました。 1946年に枢密顧問官に就任し、翌年日本国憲法の施行により枢密院廃止、公職追放となりました。 その後、グルー元駐日米国大使から寄せられた基金を基に社会教育事業資金グルー基金創設に尽力しました。 鉄馬の趣味は馬の研究と釣りとバラの栽培で、新橋の花柳界では粋人として知られました。 朝鮮京城附近に広い牧場、成歓牧場を所有し、道楽として馬を飼養しました。 吉田茂や、白洲正子の父でもある実業家の樺山愛輔、三菱財閥の4代目・岩崎小弥太といった重鎮と深い親交を持ちました。 鉄馬は、莫大な資産を受け継いだゆえの苦悩もあったでしょう。 富がなくても不幸があるように、富があっても多くの不幸を避けることはできません。 鉄馬の資産は後世のために有意義に使われ、やがて赤星家の資産はあらかた失われ、自身は静かに消えていったのです。 鉄馬が人生を満喫したのは、米国留学時代に集中していたと思われます。 のちの時代状況も相まって心痛も多い日々を慰めたのは、釣り糸を垂れる時間であり、ときに水面を眺めながら、自身の人生を振り返ることもあったでしょう。 その人を記憶する人がいるかぎり、また没後であっても、その人とあらたに出会う人がいるかぎり、その人は時代を超えて生きるのです。第1章 父、弥之助/第2章 武器商人/第3章 米国留学/第4章 華麗なる人脈/第5章 啓明会/第6章 釣りと建築/第7章 恐慌と暗殺の時代/第8章 最期の日々[http://lifestyle.blogmura.com/comf rtlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし] 【中古】赤星鉄馬 消えた富豪 (単行本)/与那原 恵【中古】 釣りの世界 付赤星鉄馬遺稿 鯛釣りの要領 永田一脩 【古本・古書】
2021.01.30
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危機の時代には革新的な思想が誕生します。 ヤン・フスの宗教改革は、ルター、カルヴァンに先んじ、社会と教会が一体化した中世に教会の権威を否定し、近代的な民族・国家誕生の契機となりました。 ”ヤン・フスの宗教改革 中世の終わりと近代の始まり”(2020年7月 平凡社刊 佐藤 優著)を読みました。 人を時代を動かし大転換をもたらした思想はどのように生まれたのか、危機の時代のいまこそ学ぶべき宗教改革の真髄を、15世紀チェコのヤン・フスの宗教改革を通じて明らかにします。 フスはチェコ出身の宗教思想家、宗教改革者で、ジョン・ウィクリフの考えをもとに宗教運動に着手しました。 ボヘミア王の支持のもとで反教権的な言説を説き、贖宥状を批判しました。 聖書だけを信仰の根拠とし、プロテスタント運動の先駆者となりました。 カトリック教会は1411年にフスを破門し、コンスタンツ公会議によって有罪とされました。 その後、世俗の勢力に引き渡され、杭にかけられて火刑に処されました。 佐藤優さんは1960年東京都渋谷区生まれ埼玉県大宮市育ち、幼少時は日本キリスト教会大宮東伝道所に通っていたそうです。 1978年浦和高等学校を卒業、1年間の浪人を経て同志社大学神学部に進学しました。 その後、同大学大学院神学研究科博士前期課程を修了し、神学修士号を取得しました。 研究のテーマは、”チェコスロバキアの社会主義政権とプロテスタント神学の関係について”でした。 大学院修了後はチェコスロバキアのプラハのカレル大学留学と、本格的にフロマートカに関する研究をするという希望を持っていましたが断念したとのことです。 外交官専門職になればチェコスロバキアに行けると考え、1985年4月にノンキャリアの専門職員として外務省に入省しました。 しかし、外務省から指定された研修言語は希望していたチェコ語ではなくロシア語で、5月に欧亜局ソビエト連邦課に配属されました。 1986年夏に、イギリス・ロンドン郊外ベーコンズフィールドの英国陸軍語学学校で英語やロシア語を学びました。 1987年8月末に、モスクワ国立大学言語学部にロシア語を学ぶため留学しました。 1988年から1995年まで、在ソ連・在ロシア日本国大使館に勤務し、日本帰任後の1998年に、キャリア扱いに登用され、国際情報局分析第一課主任分析官となりました。 そして、2000年までの日露平和条約締結に向けて交渉を行いました。 外交官としての勤務のかたわら、モスクワ大学哲学部に新設された宗教史宗教哲学科の客員講師や、東京大学教養学部非常勤講師を務めました。 現在、同志社大学神学部客員教授、静岡文化芸術大学招聘客員教授を務めています。 本書は、2018年5月から19年2月まで、東京で行われた同志社講座”宗教改革とは何か?”の記録に、大幅な加除修正を加えることによってできたものです。 フスは、1369年にボヘミア地方のプラハの南南西75キロメートルにあるフシネツで生まれました。 両親はチェコ人で貧しい生活を送り、教会で奉公して生計を補いました。 ボヘミアは神聖ローマ皇帝カール4世の時代に文化的な隆盛を迎え、プラハは独立の大司教区となり、プラハ大学、後のプラハ・カレル大学が創設されました。 プラハ大司教や高位聖職者はカール4世の後ろ盾になり、宮廷で行政に携わりました。 1380年代半ば頃に、フスは勉強のためにプラハに赴き、1393年に学術学士号を、1394年に論理学士号を、1396年に学術修士号を取りました。 1400年に僧職者に任命され、1401年には哲学部長、翌年にはプラハ大学の学長に任命されました。 イギリスで教会を批判し、聖書による信仰を回復することを説いたウィクリフの教説を知ってその影響を受けました。 カトリック教会の世俗化を厳しく批判するようになり、1402年にプラハのベツレヘム礼拝堂の説教者にも指名され、チェコ語で説教を行いました。 大司教ズビニェク・ザイーツのもと、フスは1405年には組織の説教者となりました。 フスの説教は、ベーメンの貴族や民衆に広く受け容れられ、影響力を持つようになりました。 1412年にローマ教皇の贖宥状の発売を批判すると、ついに破門されました。 1414年に皇帝ジギスムントの召集したコンスタンツ公会議に召還されると、フスは自説を主張する機会と考えてそれに応じました。 公会議は、3人の教皇が並立するという教会大分裂を収束させ、教会を正常化するために召集されました。 ジギスムントがフスも招待しましたので、全ての議論を決したいと願い喜んでコンスタンツへの訪問を決めました。 審問では一切の弁明も許されず、一方的に危険な異端の扇動者であると断じられ、翌1415年7月6日に火刑に処せられました。 フスの思想は、教会の誤りを正し聖書に基づく信仰に戻ることに主眼があり、ローマ教皇の権威を否定したのでもありませんでした。 また、ウィクリフの聖餐の秘蹟を否定した化体説批判には同調していませんでしたので、急進的なものではありませんでしたが、コンスタンツ公会議では危険思想の烙印を押されました。 フスの思想はむしろその処刑後、封建領主としての教会に苦しめられていた民衆の抑圧からの解放と、ドイツ人に抑えられていたチェック人の自由を求める民族的自覚と結びつきました。 フス派は急進派のタボル派と穏健派に分裂し、皇帝が穏健派を取り込んで急進派と戦うという構図となり、フス戦争が1419年から1436年まで起こりました。 最終的には急進派が敗れ、皇帝と穏健派の勝利となり、フス派の穏健派はその後も信仰を認められました。 フス戦争後のチェコのベーメンでは、神聖ローマ皇帝によるカトリック教会保護に対して、ウトラキストというフス派穏健派もその信仰を認められて大きな勢力を保ちました。 またフス派急進派の流れをくむ人々はチェコ同胞団を結成し、たびたび弾圧を受けたましがなおも存続していました。 さらに、フスの火刑からほぼ100年経った1517年に、ルターによって宗教改革が始まると、ルター派のプロテスタントもチェコに進出してきました。 ウトラキスト、チェコ同胞団、ルター派の非カトリック三派は、1575年にチェコ人の信仰告白を発表し、神聖ローマ皇帝となったハプスブルク家のルドルフ2世はそれを承認しました。 宗教改革には時代のハイブリッド性があり、宗教改革は中世の現象とも近代の現象とも言うことかできるといいます。 三十年戦争を終結させた1648年のウェストファリア条約は、プロテスタント、カトリックの争いを終結させました。 この条約締結には、神聖ローマ帝国内の各領邦国家もひとつの国として参加し、内政権と外交権を有する主権国家として認められました。 この結果、覇権を握っていたハプスブルク帝国は衰退したため、この条約を区分として中世と近代を分けるのです。 ただしこの時点ではまだ、国民、民族訳される近代的なネイションは生まれていません。 近代的なネイションは、1789年のフランス革命によって誕生し、ナポレオンに征服された国々では、国民が一体となりナショナリズムが発揚し、第一次世界大戦の背景となりました。 中世と近代の両方にかかってい宗教改革とは何だったのでしょうか。 当時のヨーロッパの秩序を壊して近代という新しい世界をつくった宗教改革の構造を知ることで、いまの混迷する時代への視座を身に付けることかできるといいます。 通常、宗教改革と聞くと、ドイツのマルティン・ルターを思い浮ヤン・フスとフス派の宗教改革を知るためのよい専門書がありませんでした。 1956年に、チェコの傑出したプロテスタント神学者ヨゼフ・ルクル・フロマートカがが編著者となった、論文集”宗教改革から明日へ-近代・民族の誕生とプロテスタンティズム”が刊行されました。 ルターの宗教改革から500年にあたる2017年に、筆者は監訳という形でこの論文集の日本語版を出しました。 2017年は新書から専門書まで宗教改革を扱った本が出ましたが、ボヘミアの宗教改革をテーマにした本はこれだけです。 フロマートカは、無神論を国是とする国で、教会に対する圧力が加えられている時代に、先祖から受け継いだ歴史的な遺産、フスの宗教改革の回復に取り組んだのです。 本書では、第一章で、フスとフス派の宗教改革運動を題材に近代とはどんな時代であったのかを見ています。 第二章は、特に終末に焦点を絞り、フス改革の神学的背景を見ています。同時に、キリスト教神学の基礎的な知識にも触れています。 第三章では、近代のチェコの歩みを振り返り、近代の終焉に我々か直面している課題を明らかにします。 第四章では、フロマート力の”宗教改革から明日へ”をテキストに、キリスト教神学の立場から、フスとフス派の宗教改革の内在論理を追い、21世紀に生きる日本人の我々か受け継ぐべき遺産を明らかにします。 現下の日本が直面する危機を克服するために、本書を活用して欲しいといいます。 この世で起きていることすべてを信仰心でしっかりと見れば、今日の困難と憂慮の責任を、他の誰にでもなく自分に課す気になるでしょう。序章 いま「宗教改革」を知ること/第1章 チェコの宗教改革者ヤン・フス/第2章 フス宗教改革の内在論理/第3章 近代チェコ史から見る民族、国家とキリスト教/第4章 フス宗教改革の遺産[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]ヤン・フスの宗教改革(947) 中世の終わりと近代の始まり (平凡社新書) [ 佐藤 優 ]ヤン・フス ジャンヌ・ダルクの霊言 信仰と神の正義を語る / 大川隆法 オオカワリュウホウ 【本】
2021.01.23
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最初にカナダを発見したのは、イギリスのヘンリー7世が派遣したイタリア人探検家ジョン・カボットと、セントローレンス川を探検したフランス人ジャック・カルティエです。 ”カナダ 歴史街道をゆく”(2017年5月 文藝春秋社刊 上原 善広著)を読みました。 2017年7月1日に建国150周年を迎え、誰もが笑顔になれる癒される国として注目を集める広大な国土を持つカナダの、歴史の道をたどりつつ横断・縦断したルポルタージュです。 当時、大西洋を西北に向かえばアジアに到達する通路があると信じられ、カボットはこの西北航路発見のためニューファンドランド島に到達し、この付近の海域が豊かな漁場であることを知りました。 この知らせを聞いて、フランスやポルトガルの漁師が大西洋を横断してニューファンドランド沖で漁をするようになりました。 17世紀初めにフランス人が、セントローレンス川流域に入植したのがカナダの始まりです。 1763年にイギリス領となり、フランス系住民と先住民がイギリス帝国の支配に組み込まれました。 1867年に英連邦内の自治領となり、1931年に事実上独立国家となりました。 上原善広さんは1973年大阪府松原市生まれのノンフィクション作家で、被差別部落出身である事をカミングアウトし、部落問題を中心に文筆活動を行っています。 羽曳野市立河原城中学校、大阪府立美原高等学校を卒業し、スポーツ推薦で大阪体育大学に入学しました。 在学中に20歳で学生結婚し、1996年に同大を卒業して中学校の体育非常勤教師となりました。 冒険家を志して単身渡米し、米国で1年間ほどを過ごし、23歳の時にロサンゼルスの日系新聞でフリーライターとしてデビューしました。 2010年に第41回大宅壮一ノンフィクション賞、2010年に咲くやこの花賞文芸その他部門、2012年に新潮45編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞大賞、2016年にミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞しました。 1997年に当時23歳で、アラスカからメキシコまでを、ハンティング用のカートに荷物を積み込み、約1万キロを1年かけて踏破したといいます。 カナダのユーコン準州、ブリティッシュ・コロンビア州を3ヵ月ほどかけて縦断しました。 それはかつてのゴールドラッシュの道を、逆にたどるルートでもありました。 当初歩いたアラスカ・ハイウェイは、もともと第二次世界大戦のとき、対日本軍用に半年ほどで緊急に拓かれた軍事道路でした。 ハイウェイ沿いにある小さな町の博物館には日章旗が飾られていました。 第二次大戦後、日系人が開いた歴史あるロッジでは、同じ日本人ということで食事をご馳走になったりもしました。 そのときカナダに何か奇妙な縁を感じ、いつかこの地を再訪したいと思い続けてきたといいます。 2015年にカナダを旅することになったとき、かつて自分が歩いたルートはもちろんですが、今度はカナダの歴史が始まった東海岸から旅を始めることにしました。 カナダは先住民と移民によってできた国ですから、その歴史は移民の歴史であるといっても過言ではありません。 2017年はカナダ建国150周年に当たりますが、それは東海岸に上陸した移民たちが、北米大陸を横断して西部に至り、国を形づくった歴史の頂点でもあります。 そのルートを辿ることによって、カナダの移民史を肌で感じると共に、日本とも無関係でない移民について肌の温感で考えたかったといいます。 強烈な個性をもつ隣国アメリカと比べて、カナダは大自然以外あまり印象に残っていません。 しかし2015年に中道左派の自由党から、当時43歳のジャスティン・トルドーが首相に就いたことは、日本でも広く報道されました。 そしてアメリカで保守の権化、ドナルド・トランプが大統領になったことで、アメリカとの違いがより鮮明になりました。 2015年から2年かけて、実質6ヵ月、東西南北約1万キロを旅することになりました。 プリンス・エドワード島からトロントまでは自転車で、トランス・カナダ・トレイル=カナダの歴史街道を走り、その後はバス、鉄道、レンタカーなどあらゆる交通手段を駆使しました。 2015年5月に、日本からトロント経由でプリンス・エドワード島に着いたときには、深夜1時になっていました。 プリンス・エドワード島は、日本人にとって”赤毛のアン”で馴染みある島ですが、同時にカナダの歴史の中で重要な島でもあります。 人口は14万人ほどで、島がそのままプリンス・エドワード島州となっており、カナダの中ではもっとも人口が少ないです。 1526年以降、フランスのフランソワ1世が探検家ジャック・カルティエをしばしばカナダに派遣し、セントローレンス川流域を探検させました。 プリンス・エドワード島は、1543年にカルティエによって発見され、16世紀半ばにこの地はフランス領となりました。 1608年にフランスの探検家サミュエル・ド・シャンプランが、セントローレンス川中流域に永続的なケベック植民地を創設しました。 ルイ13世の宰相リシュリュー枢機卿は、1627年にヌーベルフランス会社を設立し、植民地経営を会社に委ねました。 1642年にはモントリオールにも植民拠点が創設されましたが、植民地経営はなかなか発展せず、ルイ14世のもとで植民地を王領としました。 1682年にド・ラ・サールがミシシッピ川流域をフランス領と宣言し、1712年にヌーベルフランスはメキシコ湾にいたるルイジアナ植民地にまで拡大しました。 しかし、この頃から世界各地で英仏の対立が激化し、英国のアメリカ植民地との間に一連の北米植民地戦争が開始されました。 この一連の抗争の最後の七年戦争が勃発すると、ニューイングランドの英軍はケベックを襲撃し、1759年に英仏両軍はアブラハム平原で激突しましたが、仏軍の大敗に終わりケベックは英軍の占領下に置かれました。 1763年のパリ条約でフランスはカナダの植民地を放棄し、ケベックは正式に英領となりました。 英国議会は1774年に、フランス民法典とカトリック教会の存続を容認するケベック法を制定しました。 これは今日までケベックにフランス色が残る決定的な役割を果たしました。 翌年アメリカ独立戦争が勃発し、アメリカ大陸議会がカナダ住民に革命への参加を呼びかけてきましたが、フランス系住民は応じませんでした。 モンゴメリー将軍率いるアメリカ革命軍はモントリオールを占領し、ケベック市に迫りましたが撃退されました。 1783年に戦争が終結し、アメリカ合衆国が成立すると、アメリカのロイヤリストは国内に残ることを嫌い、ノバスコシアやケベック東部に大挙して移住しました。 1793年にアレグサンダー・マッケンジーがロッキー山脈を越えて大陸横断に成功し、英領カナダの領域は西方にも拡大していきました。 1812年の米英戦争が勃発すると、カナダは再び米国軍の占領の脅威を受けましたが、上カナダにおける米軍の侵攻は撃退されました。 南北戦争後のアメリカが産業革命によって急速に発展を始めると、再びアメリカによるカナダ併合の危機が高まりました。 英国議会はカナダを統一するため、1867年に英領北アメリカ法を制定し、両カナダやノバスコシア、ニューブラウンズウィックなどを併せた自治領カナダ政府を成立させました。 この立法によってカナダは英連邦の下で自治権を有する連邦となり、オタワに連邦首都が置かれましたが、外交権はまだ付与されませんでした。 ジョン・A・マクドナルドが初代連邦首相に就任し、通算19年間在任しました。 この時代のカナダは新興の意気に燃える発展期でした。 1871年にはブリティッシュ・コロンビアも自治領政府に参加し、1885年カナダ太平洋鉄道が完成しました。 大西洋岸と太平洋岸が結ばれた1905年までには、西部地域の発展によりノースウェスト準州からマニトバ州とサスカチュワン州が成立しました。 1926年にイギリスはカナダに外交権を付与し、英国議会は1931年に英連邦諸国は共通の国家元首に対する忠誠心で結びついているだけであると決議しました。 このウェストミンスター憲章によって、カナダは実質的には独立を達成したとされます。 プリンス・エドワード島はカナダが独立する際、カナダ建国会議が開かれたという由緒ある歴史の島です。 もともとは先住民ミクマック族が暮らしており、島はアビグウェイト=波間に浮かぶ揺りかごという、ロマンチックな名で呼ばれていました。 1864年に、ノバスコシア、ニューブランズウィック、プリンス・エドワード島の3植民地による沿海同盟が企画され、シヤーロツトタウン会議が開催されました。 そこにカナダ建国を目指すオンタリオとケベックの連合カナダが参加することになり、当初は沿海同盟の会議だったものが、カナダ連邦政府の設立を目指す会議になりました。 この記念すべき第一回会議がプリンス・エドワード島で聞かれたことから、後にプリンス・エドワード島は連邦結成の揺りかごと呼ばれるようになりました。 しかしプリンス・エドワード島政府は、連合カナダにオブザーバーとして参加を認めただけで、カナダ連邦への参加を頑なに拒んでいました。 プリンス・エドワード島は、カナダの中でもイギリス本国の伝統と文化を重視する島だったからです。 その後もケベックなどで引き続き会議は行われ、1867年7月1日に連邦政府が発足しましたが、それでもプリンス・エドワード島は参加しませんでした。 島内で強引に進められた鉄道建設で島の経済が破綻状態になって、カナダ連邦からの援助を受けるようになると、ようやく1873年にカナダ連邦に参加することになりました。 沿岸部ではニューファンドランドが参加に否定的で、ニューフアンドランドがカナダ連邦に参加したのは1949年と、つい最近のことです。 1年目はプリンス・エドワード島からウィニペグまで、2年目は東端の地ニューファンドランドを起点に、鉄道でトロントからバンクーバー、さらに北上して北極圏のタクトヤクタックまで踏破しました。 カナダ全土に張り巡らされたトランス・カナダ・トレイルという古い街道や、廃線になった線路跡などのトレイルを自転車でめぐりました。 また、建国の礎となった大陸横断鉄道に乗って西海岸に到達し、先住民と共にユーコンで狩りをしたりしました。 1万キロ以上6ヵ月に及ぶ、長いようで短い旅が終わりました。 旅を終えて思ったのは、カナダは多様性と共生する国であるということであるといいます。 同じく移民大国である隣国アメリカで、人種による分離と対立が深刻な社会問題となっていることを思えば、カナダは世界でもっとも移民政策が成功している国です。 医療費は無料で、高校までの授業料も免除されていますが、そのぶん税金が高く設定されています。 大富豪が生まれにくい代わりに、貧困層は手厚い福祉で保護されています。 資本主義にあって、社会主義の良さも取り入れた独特な政策です。 独立心旺盛なケベックや、先住民問題なども抱えていますが、それらを考慮しても、カナダという国の魅力に陰りは見えないといいます。 島国日本とはあまりに地理的・歴史的背景が違いますが、外国人労働者などの受け入れや、貧困などの社会問題の対処について、カナダから学ぶべき点は多いといいます。第一章 カナダ史の始まり/第二章 フランス語圏を旅する/第三章 トロントから大陸横断鉄道へ/第四章 ウィニペグからアルバータ/第五章 ロッキーを越えてバンクーバーへ/第六章 北極海への縦走[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【中古】カナダ歴史街道をゆく / 上原善広Let's Explore Canada (Most Famous Attractions in Canada)Canada Travel Guide【電子書籍】[ Baby Professor ]
2021.01.16
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創業間もないスタートアップ企業にお金を投じるエンジェル投資がいま、空前のブームとなっていて、本田圭佑氏、田村淳氏、為末大氏など、有名人も続々参入しています。 ”エンジェル投資家とは何か”(2019年12月 新潮社刊 小川 悠介著)を読みました。 創業間もない企業に対し資金を供給し、投資の見返りとして株式や転換社債を受け取る富裕な個人としてのエンジェル投資家について、誕生から現在までと今後について紹介しています。 エンジェル投資家は、起業家のスタートアップを助ける個人投資家です。 通常、創業後まもない起業家は、資金調達の面で苦労を強いられます。 創業時は説明できる実績が無いため、銀行や金融機関、ベンチャーキャピタルの融資を受けにくいからです。 こうした資金調達の問題を解決してくれるのが、エンジェル投資家の役目です。 金融機関やベンチャーキャピタルに比べて扱う金額は少ないです。 しかし、起業家に必要な資金だけでなく、人脈を生かしたビジネス面でのバックアップ、精神的サポートなど、次世代起業家を応援する新しい投資の形を実践しています。 小川悠介さんは1983年生まれ、2008年早稲田大学を卒業し日本経済新聞社に入社、パナソニック勤務を経て、2017年から共同通信社記者を務め、現在、本社経済部にて民間企業や株式市場の取材を担当しています。 エンジェルという用語は、イギリスで演劇事業に資金供給する富裕な個人を表現した言葉に由来します。 1978年に、ニューハンプシャー大学教授、同大学ベンチャーリサーチセンター創設者のウィリアム・ウェッテルさんが、創業間もない企業に投資する個人を表現する言葉として使用し始めました。 自らが所有する資金を投資するという点で、他社が出資した資金を投資するベンチャーキャピタルとは異なります。 投資判断は個々人の判断に帰しますが、実際に投資対象となっているのは信託や有限責任会社、投資ファンドなどです。 2018年に早稲田大学が開いた「起業家養成講座」で、フリーマーケットアプリ大手、メルカリCEO山田進太郎さんは大学時代、創業初期の楽天にインターン生として入社、ネットビジネスのイロハを学びました。 2000年前後は、起業を支援する投資家は数えるほどしかおらず資金調達が難しかったため、すぐには起業せず、フリーランスのエンジニアの道を選びました。 日本は、戦後復興の成功体験ゆえに大企業主義から抜け出せず、起業後進国、起業不毛の国とも言われました。 しかしこの四半世紀で日本の起業家を取り巻く環境は様変わりし、投資家のすそ野が広がり、若者たちが気軽に起業に踏み切るようになりました。 特に近年は創業間もない企業にポケットマネーで積極的に投資するエンジェル投資家が登場し、米国に比べて遅れていたスタートアップ業界のエコシステムを大きく進化させました。 エンジェル投資家はスタートアップ企業を支援する個人の投資家で、その成り手は過去に起業して成功した富裕層が多いです。 ビジネスで培った目利き力を生かし、銀行などに代わって、会社の評価が定まらない成長初期の企業に自己資金を提供します。 投資する金額は数百万円から1000万円前後が大半で、自身の判断でリスクを負って投資します。 単に資金を提供するだけではなく、起業経験を基に経営を助けるコンサルタントとしての役割を担うのも特徴です。 資金を返還する期限もありませんので、じっくりと腰を据えて投資できるのも強みとされます。 そして、資金提供の見返りとして株式などを受け取ります。 投資後に会社の事業が順調に成長すれば、保有する持ち株の評価も上昇します。 イグジット(出口戦略の達成)は投資資金を無事に回収することで、会社が新規株式公開したり、ほかの企業に買収されたりした場合に株式を売却することによって現金化します。 エンジェル投資は長期保有が前提であり、一部の例外を除いて、イグジットまで、多くは10年以上の年月を要します。 エンジェル投資の醍醐味は、ホームラン級のリターンを期待できる点です。 現オラクル共同創業者でエンジェル投資家のアンディ・ベクトルシャイムさんは、1998年に偶然出会ったスタンフォード大学の学生二人から検索エンジンのデモを見せられました。 そして、瞬時に潜在的な可能性を見抜き、その場で10万ドルの小切手を切ったそうです。 学生はその資金を元手に友人宅のガレージでグーグルを創業し、その後、爆発的な成長を遂げ、2004年のIPO時には、保有株式の価値は3億ドルを超えたといいます。 最近では、ウーバー・テクノロジーズに投資したジェイソン・カラカニスさんのように、決して裕福とは言えない家庭の出身者もいます。 IT系メディアの記者を経て、ブログ関連会社を創業・売却し、エンジェル投資の世界に入りました。 2010年に2万5000ドルを投資し、2019年のIPO時には、保有株式の時価は1億ドルを上回ったといいます。 いまでは、一般企業で働く会社員や定年退職したシニアの姿も少なくなく、各地で投資家コミュニティができていて、リスクを分散させながら気軽に投資を楽しんでいるといいます。 日本でも、起業家兼エンジェル投資家の有安伸宏さんは2013年に家計簿アプリのマネーフォワードに投資し、これが大当たりしました。 2013年に行った初めての投資案件で、2017年のIPO時に200倍以上のリターンをたたき出しました。 2018年にスタートアップ企業としては稀にみる大型上場を果たしたメルカリは、2013年の創業から上場までに6回ほどの資金調達を実施し、累計170億円超を集めました。 手に入れた潤沢な資金を使って攻勢を強め、瞬く間にユニコーン企業に成長しました。 仮に創業時に100万円を投資していた場合、株式上場時に初値ベースで約100億円を獲得したと推測されます。 しかし、エンジェル投資は極めてリスクの高い投資でもあります。 約280万社が活動する日本では、毎年10万社が開業し、約1500社が投資家からの出資を受けます。 IPOまで辿り着けるのは約90社であり、会社の新設件数を母数として単純計算すると、約0.09%の確率となります。 M&Aによる第三者への売却の道もありますが、スタートアップ企業への投資は「千三つ」の世界と言われます。 新設された会社の大半は途中で厳しい現実に直面し、倒産に追い込まれます。 中小企業庁の調査によれば、新たに設立された会社のうち1年以内に約2割が廃業します。 株主の地位は債権者に劣後するため、大抵は保有する株式はただの紙切れとなって出資金は回収できません。 倒産という最悪の事態を避けられたとしても、スタートアップ企業はピボットと呼ばれる、事業転換が日常的に起きがちです。 投資家は自信満々で投資しても大半は失敗で終わり、そこそこの自信で投資した案件はほぼ失敗するといいます。 株式の流通性も極めて悪く、上場株のように購入した株式を途中で転売することは現実的にハードルが高いです。 配当など株主還元がない場合が多く、期間中に利息が生じるわけでもありません。 ただし、いくつかの投資に三振しようが、一つでもホームランを打てば、余り有るリターンを得られるベーブールース効果があります。 例えば1000万円の投資を10社にしたとして、9社が倒産しても1社が100倍になれば9億円のプラスになります。 このため、数10のスタートアップ企業に分散投資をし、その中から1つ、2つのホームランを狙うのが基本的な投資戦略になります。 欧米の動きが先行しており、アメリカでは約30万人のエンジェル投資家が活動しています。 担い手は年間収入20万ドルを超える高所得者が中心で、資産運用の一部をスタートアップ企業への投資に割り当てています。 エンジェル投資の総額は年間300億ドル規模に達するとみられ、全米のベンチャーキャピタルの投資額の約2割に相当します。 日本の場合は正確なデータはありませんが、スタートアップ投資に減税を適用するエンジェル税制の利用実績に基づく推定額は、約40億となっています。 日本の新規開業率は5%を割り込む水準なのに対し、米国は約10%に達します。 単に開業の件数が多いだけでなく、ウーバーやテスラなどの革新的な企業が、次から次へと生み出されています。 新興国が台頭する中、米国の株式市場の時価総額は約30兆ドルと、今なお1国で世界の過半を占めます。 エンジェル投資家は、ベンチャーキャピタルが二の足を踏むような型破りなアイデアにも、思い切って投資する傾向があり、果敢にリスクを取ることが産業競争力を下支えしています。 まず第1章では、エンジェル投資家の成り手の多くが20代から30代のミレニアル世代に属する起業家出身の若者であることを明らかにし、大胆にリスクを取って投資をする狙いや動機に迫っています。 第2章では、スポーツ選手やタレントなど様々な領域の有名人がエンジェル投資に乗り出し、ペンチャーキャピタルや大企業との間で有望案件の争奪戦が過熱している現状を取り上げています。 第3章では、インターネットを通じて一般の会社員がスタートアップ企業に手軽に投資できるサービスが相次いで登場していることを紹介しています。 第4章では投資マネーの流人でバブルとも指摘される足元のブームの行方について論じています。第1章 誕生(エンジェル投資家とは何か/日米の投資家の顔ぶれ/投資のプロセス/大金を投じる理由)/第2章 争奪(セレブ投資家の台頭/急拡大するプロの投資集団/「有望株」獲得へ火花)/第3章 革命(ネットでエンジェル投資/「株式型」に参入続々/起業家との「出会い」仲介/利用企業は「一石四鳥」)/第4章 狂宴(起業天国トーキョー/越境するエリート人材/ブームの行方)[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【中古】 エンジェル投資家とは何か 彼らがスタートアップ企業にお金を投じる理由とは。 新潮新書/小川悠介(著者) 【中古】afb【中古】エンジェル投資家 リスクを大胆に取り巨額のリターンを得る人は何を見抜くのか/ジェイソン・カラカニス、孫 泰蔵(序文)、滑川 海彦、高橋 信夫
2021.01.09
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