全4件 (4件中 1-4件目)
1
転んでもただでは起きないとは、転んでも必ずそこで何かを拾って起きるという意味で、どんな場合も何か得になることを見つけ出す者のことをいいます。 日清食品の創業者で、父でもある安藤百福氏の人生は波瀾万丈で、成功と失敗をくりかえしたそうです。 ”転んでもただでは起きるな!”(2013年3月 中央公論新社刊 安藤百福発明記念館編)を読みました。 無一文になっても、失ったのは財産だけではないか、その分だけ経験が血や肉となって身についたと、再起をかけて立ち上がりました。 苦難の末に、発明で世界の食文化を変えた男の生き方を紹介しています。 安藤百福さんの発明したインスタントラーメンは、わずか半世紀の間に世界で年間1000億食も食べられる地球食に成長しました。 安藤百福さんは1910年台湾嘉義県生れで、両親を幼少期に亡くし、繊維問屋を経営する祖父母のもとに預けられ、台南市で育ちました。 この年、76年周期で地球に最接近するハレー彗星が近づいていて、地球にぶつかるのではないかと大騒ぎでした。 このため、安藤百福さんはハレー彗星の落とし子と言われたそうです。 1932年に父の遺産を元手に、繊維商社東洋莫大小を設立しました。 事業は成功し、翌年、大阪市に日東商会を設立し、日本で仕入れた製品を台湾に輸出して売る貿易業務を始めました。 ほかにも、光学機器や精密機械の製造、飛行機エンジンの部品製造などにも事業を拡大する一方、立命館大学専門学部経済科に学びましだ。 戦前戦後には、時代の波に翻弄されて数々の苦労と辛酸をなめ、波乱の人生を過ごすこととなりました。 第二次世界大戦下で、大阪大空襲によって全ての事務所や工場を焼失しました。 戦後すぐ、大阪で百貨店経営を手始めに事業を再開しました。 1946年に大阪府南部の泉大津市で製塩事業を始め、その後、泉大津市に病人用の栄養食品を開発する国民栄養科学研究所、名古屋市に中華交通技術専門学院を設立しました。 当時、所得税法違反に問われて逮捕され、巣鴨プリズンに収監されたこともありましたが、税務当局との和解により無罪釈放となりました。 そして、1948年に株式会社中交総社を設立、その後、約10年間の休眠状態を経て、1958年にチキンラーメンの発明に伴い日清食品株式会社に商号を変更しました。 チキンラーメンは袋入りインスタントラーメンで、調理方法はお湯をかけて密閉するだけです。 ただ、容器を別に用意する必要がありました。 そして、1971年に世界初のカップ麺、カップヌードルを国内で発売しました。 1973年に、カップヌードルはアメリカ合衆国で発売され、世界中にカップめん市場を広げる契機となりました。 その後、日清食品代表取締役社長、代表取締役会長、創業者会長を歴任しました。 日本即席食品工業協会会長、安藤スポーツ・食文化振興財団理事長、漢方医薬研究振興財団会長、世界ラーメン協会WINA会長、いけだ市民文化振興財団会長など、多くの公職を務めました。 1996年立命館大学名誉経営学博士、池田市名誉市民、叙位叙勲は正四位勲二等旭日重光章を授与されました。 2007年に、急性心筋梗塞のため大阪府池田市の市立池田病院で96歳で他界し、波乱万丈の実業家人生を終えました。 3日前には幹部社員とゴルフをし、18ホールを回ったといいます。 前日には仕事始めで立ったまま約30分の訓辞を行い、昼休みには社員と餅入りのチキンラーメンを食べたということです。 大好きな発明・発見ともの作りに生涯を捧げ、元気に生きて現役のまま亡くなりました。 本書は、2008年刊”日清食品50年史”第1分冊と、2007年刊”インスタントラーメン発明王安藤百福かく語りき”を合本したものとのことです。第1部 安藤百福伝(起業/不屈/発明/独創/聖職/散華)第2部 安藤百福かく語りき(逆境/創業/発明/商売/商品/経営者/組織/仕事/賢食/健康/最後の年賀状)第3部 安藤百福年頭所感
2015.01.26
コメント(0)
オーストリアのザルツブルクとチロルは、一度は訪れてみたい場所です。 ”ザルツブルグとチロル”(2013年3月 ダイヤモンド社刊 地球の歩き方編集室編著)を読みました。 ザルツブルク、ザルツカンマーグート、インスブルックを中心としたチロルの村々には、知られざる魅力や見どころがあふれているそうです。 実際に歩いてみつけた、懐かしいヨーロッパの街の素顔とアルプスの美しい自然が紹介されています。 ザルツブルク州は、オーストリア共和国を構成する9つの連邦州の一つで、州都はザルツブルク市です。 オーストリアの中央やや西よりに位置し、北東でオーバーエスターライヒ州と、東でシュタイアーマルク州と、南でケルンテン州と、チロル州の東チロルと、西でチロル州の北チロルと、北でドイツのバイエルン州と接しています。 南西ではかつてオーストリア領であったが今日ではイタリア領ボルツァーノ自治県となっている南チロルと接しています。 チロルはヨーロッパ中部にあり、オーストリアとイタリアにまたがるアルプス山脈東部の地域です。 本書では、ザルツブルク、インスブルック、ハルシュタットの3つの街を中心に、いくつものルートをたどって、それぞれの視点で見つけた街の素顔と歴史、街歩きの魅力が紹介されています。<ザルツブルク>Route01:塩の砦/Route02:大司教の街/Route03:看板の誘惑/Route04:修道院を結ぶ道/Route05:モーツァルトの影と光/Route06:右岸の活気/Route07:古道の石畳/Route08:眼下に広がる古都/Route09:大司教のいたずら<ザルツカンマーグート> ザンクト・ギルゲン 湖畔のきらめきザンクト・ヴォルフガング 登山電車に揺られてバート・イシュル 皇帝の温泉街ハルシュタットRoute01:湖畔の道/Route02:塩の道/Route03:画家の道/Route04:山から見下ろすホーエ・タウエルン クリムル アルムの道<チロル>インスブルックRoute01:旧市街の路地/Route02:ノルトケッテを歩く/Route03:路面電車で山登り/ル・イン・チロル 坂と路地の街シュヴァーツ 銀山の残り香ザンクト・アントン・アム・アールベルク チロルを体感するレッヒ 心豊かな山里ゼルデン 谷間のにぎわいオーバーグルグル 氷河をめざしてフェント 山の中の国境南チロル メラーン チロルの都だった街 ボーツェン 南チロルの商都<EXCURSION>「サウンド・オブ・ミュージック」をめぐる旅「塩の砦」の秘密を探るハルシュタット近郊の山へ牛の山おろし祭り狼渓谷を歩く<ホテル・レストランガイド>ザルツブルク 音楽を聞きながら、グルメなロングステイを古都で楽しむザルツカンマーグート アルプスに抱かれながら、湖畔のリゾートを満喫するチロル 山並みに囲まれながら、アルプスの気持ちよさを感じる
2015.01.18
コメント(0)
人口が100億人に達した場合、食料、水、エネルギー、気温などのいろいろな問題と直面することになる、これらの問題は、21世紀の終わりに訪れる、といいます。 ”世界がもし100億人になったら”(2013年8月 マガジンハウス社刊 スティーブン・エモット著/満園真木訳)を読みました。 70億人を突破した世界人口が100億人になることを想定して、世界がどのように変化するかを示しています。 スティーブン・エモットさんは、1960年生れ、ヨーク大学卒業、スターリング大学にて博士号取得、英マイクロソフト・リサーチ計算科学研究所所長、オックスフォード大学計算科学客員教授、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ計算生物学客員教授、英国国立科学・技術・芸術基金栄誉フェローです。 現在、英ケンブリッジで様々な分野の研究者からなる学際的チームを率いて幅広い科学研究を指揮し、科学の基本問題に取り組む先駆的アプローチを開発しています。 満園真木さんは、青山学院大学卒業青山学院大学卒業後、翻訳チェッカーを経て、現在、フリーランスの翻訳家です。 国連の2011年版世界人口白書によると、2011年10月31日に世界人口が70億人に到達したと推計されています。 アメリカ国勢調査局の推計では、70億人の到達が2012年3月12日頃とされています。 18世紀の産業革命以降、世界人口の増加ペースが早くなってきました。 そして、20世紀に、人類は人口爆発と呼ばれる人類史上最大の人口増加を経験しました。 国連の推定では19世紀末の1900年におよそ16億人だった世界人口は、20世紀末にはおよそ60億人にまで急増、特に第二次世界大戦後の増加が著しいです。 日本では少子高齢化が進み、人口も減少しています。 先進国では人口は減少している傾向にありますが、新興国では人口は増加し続けています。 その結果、現在、世界の人口は70億人を超えています。 1万年前、地球の人口はわずか100万人しかいませんでした。 約200年前の1800年には10億人、約50年前の1960年には30億人、現在は70億人です。 そして、このままいくと、2050年には90億人、今世紀の終わりまでには、少なくとも100億人に達するといわれています。 文明の発達によって、私たち人間が地球のありとあらゆる部分を変え大きな影響を与えています。 環境問題、食料問題など、このまま人口が増え続けたら、どうなっていくのでしょうか。 スティーブン・エモットさんは、21世紀の終わりに訪れる危機を警告しています。---------- 地球には何百万という種の生物がすんでいます。それをたったひとつの種が支配しています。わたしたちです わたしたちの人口はどうやってこれだけ増えたのでしょう わたしたちが依存している、そしてわたしたちが急激に変えつつある、このすべてがつながりあったシステムに、今何が起きているのか、よりくわしく見ていく必要があるでしょう 食料の需要が増えていることはべつに意外ではありません。意外なのは、食料需要の増加のペースが、人口増加のペースを大きく上回っていることです 現在、10億人以上の人々が、深刻な水不足の状況のもとで暮らしています 1900年以降に製造された自動車の総数は、20億台を超えます 現在、気候変動は加速しています 人口が増え、人間の活動も増えた結果、わたしたちは今後、どのような困難に見舞われることになるのでしょうか 現在の農業のやり方で、そして現在の消費ペースで、100億人の人口を食べさせられる手段は、今のわたしたちにはありません 今世紀末までに、地球上のかなりの場所で、使える水が満足に手に入らなくなってしまいます 予想される需要をまかなうには、今世紀末までに、エネルギー生産を少なくとも3倍に増やさなければなりません わたしたちが今まさに直面しつつある気候問題は、まったくスケールが違います どの方向に目を向けても、人口100億人の地球は悪夢以外の何ものでもありません 科学技術の力で切り抜けられないとすれば、残された唯一の方法は、わたしたちの行動を変えることしかありません わたしたちはこれからどうなるのでしょう
2015.01.11
コメント(0)
第91シリーズのテレビ小説は、日本初のウイスキー造りへの夢と労苦と、それを支えた夫婦の信頼を描いています。 NHK大阪放送局制作で、2014年9月29日から2015年3月28日まで放送予定です。 ”竹鶴とリタの夢”(2014年9月 双葉社刊 千石 涼太郎著)を読みました。 NHK朝のテレビ小説主人公のモデルとなった、竹鶴政孝とリタ夫人の生涯を紹介しています。 千石涼太郎さんは1964年生れで、大学卒業後、出版社勤務を経て執筆活動に入り、フリーランスとして、アウトドア、4WD、洋酒などの分野の雑誌や各種書籍を手がけつつ、地方文化と県民性、そして北海道を主なテーマとして執筆しています。 また、2008年に長年の東京生活を終え、現在、札幌市東区在住し、小樽ふれあい観光大使などを務めています。 朝ドラでは、玉山鉄二さん演じる亀山政春と、シャーロット・ケイト・フォックスさん演じる亀山エリーが印象的です。 政春は広島県竹原の造り酒屋の次男として生まれ、大阪工業学校を卒業後、住吉酒造に就職しました。 20歳の時に初めて飲んだウイスキーの味に感動して以来、日本でウイスキーを造る夢を抱き、社長の援助でスコットランドに留学しました。 そのとき、スコットランドの医者の家に生まれ育ったエリーとクリスマスパーティーで、妹の大学の友人であった政春と出逢い交際しました。 2年間の修業を終え帰国を機に、両家の反対を押し切りエリーと結婚し、エリーからはマッサンと呼ばれました。 エリーはしたたかで前向きな性格で、政春と彼の夢を内助の功となり支えました。 朝ドラとして、純外国人のヒロインは初であり、男性俳優が主演をつとめる作品としては、1995年度下期の以来19年ぶりです。 シャーロット・ケイト・フォックスさんは、1985年ニューメキシコ州生れのアメリカ女優で、祖母がスコットランド出身、2014年現在ノースカロライナ州在住で既婚者です。 千石涼太郎さんは、十代のころから、憧れの存在であり、目標としてきた偉人は、本田宗一郎と竹鶴政孝であったといいます。 物書きになってサントリーの仕事をしたこともあり、竹鶴の物語はいつか書いてみたいと思っていたそうです。 竹鶴は1894年に広島県の造り酒屋の三男として生まれ、大阪高等工業学校醸造科を出て、大阪の摂津酒造に就職しました。 19世紀にウイスキーがアメリカから伝わって以来、日本では、欧米の模造品のウイスキーが作られていただけで、純国産のウイスキーは作られていませんでした。 そこで、ウイスキーの製法を学ぶため英国・スコットランドに派遣されました。 グラスゴー大学に籍を置いていた政孝は、柔道を教えるため、ある少年の家に招かれ、その姉の1896年生れのジェシー・ロバータ・カウン、通称リタと出会いました。 リタは第一次大戦で婚約者を亡くし、同大の経済学科に通っていました。 政孝はリタに求婚し、あなたが望むなら、日本に帰るのを断念して、この国で職を探してもいいと言いましたが、リタは、日本で本当のウイスキーを造る夢を手伝いたいと返しました。 1921年に帰国すると日本は不況で、摂津酒造に本格ウイスキー造りに取り組む余裕はなく、政孝は退社し、中学で化学を教え、リタも英語やピアノを教えました。 政孝は1923年、本格ウイスキー製造を目指す寿屋に請われて入社し、1924年に山崎に日本初のウイスキー蒸溜所を建てました。 1929年に竹鶴が製造した最初のウイスキーが発売されましたが、なかなか売れませんでした。 竹鶴は寿屋が買収した鶴見のビール工場の工場長兼任を命じられましたが、あまり乗り気ではありませんでした。 1933年に鶴見工場が売却されたのを機に、後続の技師が育ってきたこと、鳥井の長男・吉太郎に一通りの事を教え終わったこと、最初の約束である10年が経過したことから、竹鶴は寿屋を退社しました。 1934年に資本を集めて、大日本果汁を北海道・余市に設立しました。 ウイスキーは製造開始から出荷までに数年かかるため、出荷まではウイスキー製造による収益はありません。 そこで、当初はリンゴジュースなどの販売でしのぎ、ウイスキーの開発にあたりました。 竹鶴はニッカウイスキーの創業者であり、サントリーウイスキーの直接的始祖、マルスウイスキーの間接的始祖でもあります。 これらの業績から、日本のウイスキーの父と呼ばれ、あくまでも品質にこだわり続けた技術者として知られています。 酒量はウイスキー1日1本、ニッカウイスキーハイニッカを好んで飲んだ、といいます。 1961年1月17日に妻リタが没し、1979年8月29日に85歳で没しました。 墓は北海道余市町に存在し、妻のリタと共に埋葬されています。第1章 ウイスキーの父、広島の造り酒屋に生まれる第2章 本場スコットランドでリタと出会う第3章 鳥井信治郎と日本初のウイスキーづくり第4章 新たなる旅立ち、新天地余市へ第5章 ニッカの再出発、そして別れのとき付 章 リタが愛した町・余市ガイド 余市蒸溜所の歩き方
2015.01.05
コメント(0)
全4件 (4件中 1-4件目)
1