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徳川忠長は江戸時代初期の大名で、1606年に秀忠の3男としてて江戸城西の丸に生まれ、母は浅井氏、幼名は国松、通称は駿河大納言と言われました。 ”徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇”(2021年7月 吉川弘文館刊 小池 進著)を読みました。 徳川2代将軍秀忠の3男、3代将軍家光の弟で、駿河・遠江・甲斐・信濃など55万石を領し駿府城を居城として、駿河大納言と呼ばれた徳川忠長の生涯を紹介しています。 誕生日は5月7日説(徳川幕府家譜)、6月1日説(慶長見聞録案紙)、12月3日説(幕府祚胤伝)など、諸説があります。 徳川家康の孫にあたり、父の秀忠や母の江は、病弱で吃音があった兄・竹千代(家光)よりも、容姿端麗・才気煥発な国千代(国松)を寵愛していたといいます。 竹千代擁立派と国千代擁立派による次期将軍の座を巡る争いがありましたが、この争いはのち、春日局による家康への直訴により、竹千代の後継指名で決着しました。 父母の寵愛を一身に集め,兄の家光をさしおいて世子に擬せられましたが、実現しませんでした。 秀忠より庶子扱いされ、松平姓を与えられ松平を称しました。 徳川姓が許されていた叔父の徳川義直や徳川頼宣には、宗家に後継が絶えた際には将軍職を継承することが定められていましたが、この時点の忠長にはまだそれがありませんでした。 小池進さんは1960年千葉県我孫子町生まれ、1985年に東洋大学大学院文学研究科修士課程を修了し、東洋大学文学部助手となりました。 2000年に同大学大学院文学研究科博士後期課程を修了し、博士(文学)の学位を取得しました。 現在、東洋大学非常勤講師・聖徳大学兼任講師などを務めています。 徳川忠長は1616年(あるいは1618年)に甲府23万8000石を拝領して甲府藩主となり、のち信濃の小諸藩も併合されて領地に加えられました。 藩主就任に際し、朝倉宣正や郡内地方を治めていた鳥居成次ら附家老を中心とした家臣団が編成され、のちに武田遺臣や大久保長安配下の代官衆らがこれに加えられました。 しかし、元服前で幼少の国千代が実際に入府することはなく、藩の運営はこれら家臣団や代官衆により行われました。 1620年に元服し、金地院崇伝の選定により諱を忠長としました。 1623年に家光の将軍宣下に際し権中納言に任官し、織田信良の娘の昌子と婚姻しました。 1624年に駿河国と遠江国の一部を加増され、駿遠甲の計55万石を知行し、この頃より隣国の諸大名等からは、駿河大納言という名称で呼ばれるようになりました。 忠長は自分が将軍の実弟であることを理由に満足せず、大御所である父の秀忠に、100万石を賜るか自分を大坂城の城主にして欲しいという嘆願書を送ったといいます。 しかし、呆れた秀忠から要求を無視され、この頃より忠長は父に愛想を尽かされ始めようになりました。 忠長の要求を知った家光からも、かつて敵対した豊臣家が所有した大坂城を欲しようとしている忠長に、謀反の意思があるのではないかと疑われるようになりました。 1626年に権大納言となり、後水尾天皇の二条城行幸の上洛にも随行しました。 これと前後して忠長は弟で後の会津松平家開祖となる保科正之に葵紋の入った家康の遺品を与えたり、正之に松平への復姓を薦めたりしたといいます。 しかし、最大の庇護者と言える存在であった母の江が死去したのを機に、忠長は深酒に耽るなどの問題行動が目立ち始め、自身が気付かぬ内に家光との確執を深めていくことになりました。 1626年に家光の上洛が決まった際に、大井川に船橋を掛ける際に、大井川に無許可で施工したことが問題視され、家光の不興を買ってしまうこととなりました。 さらに駿府では、武家屋敷造成のために寺社を郊外に移そうとして反対され、家光との関係にさらに大きな摩擦を生じました。 1630年の浅間神社付近の賎機山の猿狩りでは、禁止されている神社付近で殺生を行ないました。 そもそも賎機山では、野猿が神獣として崇められ殺すこと自体が禁止され、また浅間神社は祖父家康が14歳の時に元服した、徳川将軍家にとって神聖な場所でした。 そのような場所で猿狩りを行うのは、将軍家の血を引く者といえども許されないことでした。 止めるよう懇願する神主に対し、忠長は反対を押し切って狩りを続け、1240匹もの猿を殺したとされています。 さらに、その帰途の際に乗っていた駕籠の担ぎ手の尻を脇差で刺し、驚いて逃げ出したところを殺害する乱行にびました。 これらを聞いた家光を激怒させ、咎められています。 1631年に鷹狩りに出かけた際に雪が降り、忠長が寺で休息した際、小姓が雪で濡れていた薪に火を付けられなかったことに癇癪を起こし、手打ちにしてしまったといいます。 事態を知って悲憤に駆られた小姓の父親が幕府に訴え出て、忠長の一連の行動を知った秀忠は即座に忠長を勘当し、処分を家光に一任しています。 家光は酒井忠世・土井利勝等を再三遣わし、2人しかいない兄弟と更生を促して忠長もこれに同意し、一時平静を取り戻しましたが、結局は回復しませんでした。 これまでの乱行の数々もあって、遂に家光の堪忍袋の尾が切れてしまい、忠長は甲府への蟄居を命じられました。 その際に秀忠側近の崇伝らを介して赦免を乞いましたが、許されませんでした。 1632年の秀忠の危篤に際して江戸入りを乞いましたが、これも許されませんでした。 一説では、秀忠本人からも面会を拒絶されたとしています。 秀忠死後、甲府に台徳院殿(秀忠)供養の寺院建立や、加藤忠広改易の際に風説を流布したとして改易となり、領国全てを没収されました。 同年10月20日に、安藤重長に預けられる形で上野国高崎へ逼塞の処分が下されました。 その際に、朝倉宣正、鳥居成次も連座して改易されました。 1633年12月6日に、幕命により高崎の大信寺において切腹し、享年28歳で亡くなりました。 墓は43回忌にあたる1675年になって大信寺に建立され、2021年現在、高崎市指定史跡となっており、硯箱、切腹に用いた短刀、自筆の手紙などが位牌とともに保存されています。 忠長は将軍家に連なる兄弟であったにもかかわらず、自害に追い込まれたのはなぜでしょうか。 世継の地位が決まらぬまま兄と同等に育てられた幼少期、兄弟の蜜月関係が保たれた駿府藩主時代、乱行から改易・自害に至るその全生涯を追い、幕藩政治史のなかに位置づけています。 これまで、徳川忠長を真正面にすえた研究はほとんどないといってよかったです。 多くは江戸幕府政治の展開過程のなかで、とくに家光政権の成立との関わりのなかで間接的にふれられているにすぎません。 そのなかでは、忠長が改易された理由に関することが多く言及されてきました。 忠長が改易されたのは、その粗暴な行動が武家諸法度に抵触したもので、幕府にすれば、将軍の弟でも厳正な処分を下すことを天下に明示するねらいがあったとしたなどです。 また、元和・寛永期は幕府の大名強圧時代で、大名にとっての恐怖時代であり、大名を改易するために、罪状が明瞭を欠くものや軽微なものでも、それを口実とした疑獄性の強い改易が行われました。 忠長の改易は幕府の法度に触れたもの、さもなくば嫌疑に触れたるものとされました。 その後、社会経済史研究が主な対象となり、幕府政治史や制度史の研究は後景に退いていました。 そうしたなかで、家光のライバル忠長という図式が定着されてきました。 家光にとって忠長はライバルであり、怖い存在だけに前からの予定行動であったにちがいないといいます。 家光の親政開始にあたり幕府権力強化のために、生まれながらの将軍権力を行使して改易したものとします。 また、寛永段階では国主の資格を問題にする必要はなく、忠長はその思想的基盤をととのえるための、きわめて重要で、しかもなくてはならない無法者にされたのであり、デッチあげられたという考え方もあります。 「兄弟は他人の始まり」という、今日でもそれまで仲のよかった兄弟が親の遺産をめぐって泥沼の裁判を繰り広げるといった話はそれほど珍しいものではありません。 また日本の歴史を振り返っても、たとえば皇室では穴穂部皇子と崇峻天皇、天智天皇と天武天皇、武家においても源頼朝と義経、足利尊氏と直義といった、兄弟による権力闘争の例は枚挙にいとまがありません。 江戸時代においても、これらにならんで仲のよくない兄弟として、真っ先に思い浮かぶのが徳川家光と忠長の兄弟ではないでしょうか。 家光はよく知られた人物ですが、いっぽうで弟の忠長については、それほどという向きもあるかも知れません。 この二人の確執ついては、忠長の自害からおよそ半世紀後には、早くも世上に流布していたようです。 新井白石は『藩翰譜』のなかで、まだ家光が竹千代、忠長が国千代といったころ、父の将軍秀忠は弟の国千代をふかく可愛がり跡継ぎにしようと考えていたとしています。 これを知った竹千代の乳母春日局が、家康の側室お勝の方を介して駿府の家康にその旨を訴えたところ、驚いた家康は急ぎ江戸に下り、何かにつけ兄の竹千代を優先し弟の国千代を押し下がらせました。 また秀忠に対しても、庶子を世継に立てることは天下が乱れる基であると教え諭しました。 すると秀忠の考えも改まり、竹千代が世継に決まりましたが、このゆえに兄弟の仲も険悪になり、ついには忠長は殺害されたと世人は伝え、書物にも記されています。 しかし、新井白石は家光と忠長の不仲・確執はまったくの虚構だったとしています。 そうだとすれば、じっさいに二人の関係はどのようなものだったのでしょうか。 いっぽうで、秀忠夫妻の兄弟に対する接し方はいかなるものだったのでしょうか。 そして、なぜ忠長は領地を没収され、ついには自害までしなければならなかったのでしょうか。 本書は、兄の家光との関係に留意しながらも、弟の忠長の方に視点をあてて、誕生から死去に至るまでの生涯を、二人の生きた時代の政治・社会状況を視野に入れながら明らかにしようとしています。 また、諸問題を再検討するとともに、忠長の改易から自害に至る事件を幕藩政治史のなかに位置づけてみようとしています。兄弟の確執?-プロローグ/「越前事」-元和八年の危機/確執の始まりと家臣への道/駿府徳川藩と蜜月時代/自滅への道/改易そして自害へ/「代替わり」の危機とその後の忠長-エピローグ[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【中古】 徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇 歴史文化ライブラリー527/小池進(著者) 【中古】afb【中古】 徳川家光 1 / 山岡 荘八 / 光文社 [文庫]【宅配便出荷】
2021.11.20
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蓑虫山人こと、土岐源吾は、14歳で生母なかを亡くし郷里を出奔して放浪の旅に出、長崎で鉄翁祖門にまなび、東に名所あると聞けば行って絵にし、西に遺跡あると聞けば行って掘り起こし、絵と書を好み縄文遺物の発掘まで手がけました。 ”蓑虫放浪 蓑虫山人放浪伝 ”(2020年10月 図書刊行会刊 望月 昭秀著)を読みました。 14歳のとき郷里の美濃を出て、北は青森から南は鹿児島まで全国津々浦々を自由に旅した、漂泊の画人・蓑虫山人の足跡を明らかにしています。 鉄翁祖門は1791年生まれ、幕末長崎で活躍した南画家で、木下逸雲・三浦梧門と共に長崎南画三筆とされます。 長崎銀屋町の桶職人日高勘右衛門の子で、11歳で父を亡くし華嶽山春徳寺13世玄翁和尚に養育されました。 幼少より画を好み、はじめ唐絵目利の石崎融思に漢画を、1804年からは来舶清人の江稼圃に師事して南画を学びました。 1820年に春徳寺14世住持となり、1827年に51歳の田能村竹田が春徳寺の鉄翁を訪問したことがあります。 蓑虫山人は21歳の時にミノムシを見て、あのような虫にも家があると感じ、天幕のような笈を自作し蓑虫を号としました。 ミノムシはチョウ目・ミノガ科のガの幼虫で、一般にはその中でもオオミノガ、チャミノガの幼虫を指します。 幼虫が作る巣が藁で作った雨具の蓑に形が似ているため、日本ではミノムシと呼ばれるようになりました。 ミノムシは身の回りの繊維であれば、葉や枝でなくても蓑を作り上げます。 このため、毛糸くずや細かく切った色紙の中に蓑を取り去った幼虫を入れると、色鮮やかな蓑を作り上げます。 秋に蓑を作るため俳句では秋の季語となり、ミノムシ自体は発声器官を持たないのですが、季語では「蓑虫鳴く」と扱われています。 蓑虫山人は幕末から明治時代の絵師であり、考古学者でも造園家でもありました。 しかしホラ吹きであり、蓑虫山人の語ったことや残された逸話のすべてを信じるわけにはいかないといいます。 死後120年経っている人物ですから、いくら疑ったところで、すでにいくつかの真偽は不明です。 そこで本書では、可能な限り状況証拠を集め、蓑虫山人の行動を推測することにしたとのことです。 望月昭秀さんは1972年静岡市生まれ、現在、ニルソンデザイン事務所代表の傍ら、2015年からフリーペーパー「縄文ZINE」編集長をつとめています。 ニルソンデザイン事務所は、2004年に個人で設立され、2013年に株式会社に法人成りしました。 グラフィックデザイン全般を行い、主に書籍の装丁デザイを行っています。 「縄文ZINE」は、望月さんが作る縄文時代をテーマにしたフリーペーパーです。 2015年8月に創刊され、2018年12月現在第9号まで発行され、ユニークに縄文時代の紹介をしたり、縄文的視点でさまざまな物事をとらえ考えたりする内容となっています。 年に3回毎号3万部を発行し、日本全国300カ所以上で配布され、グッズの販売、合本の出版・販売を行い、楽しみにしてくれる読者も増えてきているといいます。 もともとは望月さんの個人的な企画から始まった雑誌ですが、号を重ねるごとに各地で新しい縄文ファンを発掘しているそうです。 この雑誌を作成しようとぼんやりと考え始めた2014年から2015年当時、世間では「縄文」というコンテンツは、「誤解」と「偏見」にまみれて語られることが多かったそうです。 一方で縄文好きは先鋭化し、好きな人とそうでない人の間には渓谷のように深くて広い断絶がひろがり、その両岸には大きな隔たりが存在していました。 「縄文ZINE」の発行の理由も実は孤独な魂の叫びの一種で、縄文の楽しさを共有したいという魂の叫びだといいます。 田附 勝さんは1974年富山県生まれ、埼玉県立和光国際高等学校を卒業後、写真を独学で学びました。 1995年から1996年にかけてスタジオFOBOSに勤務し、1998年にフリーランスとして活動を開始しました。 全国を走るデコトラとトラックドライバーを撮影し、初の写真集を2007年に発表し、2012年に第37回木村伊兵衛写真賞を受賞しました。 蓑虫山人こと、土岐源吾は1836年美濃国、現在の岐阜県安八郡結村生まれ、家は豪農で父は好事家でした。 本書は、幕末から明治初期にかけて日本という国を放浪し続けた、一人のホラ吹きの夢を追いかけたルポルターです。 蓑虫山人は各地を放浪しその地の名勝や民俗を記録しましたが、幕末期には九州に滞在していたようです。 その後約10年間足取りが一部を除いて途絶えた後、1878年に岩手県水沢、現・奥州市に水沢公園を造園し、その後、約10年間、東北地方に身を置きました。 水沢公園は岩手県奥州市水沢中上野町にある都市公園で、岩手県有数の桜の名所として知られています。 現在の水沢公園は500本以上の桜が咲き、樹齢300年のヒガンザクラの古木の群生は県の天然記念物に指定されています。 園内には後藤新平の銅像、斎藤実の銅像、高野長英の碑、正岡子規の句碑、松平悦子の墓、七重の塔、戊辰戦争の弔魂碑、水沢公園史碑、太宰先生之碑、国体記念碑などがあります。 蓑虫山人は1887年に、青森県つがる市にある縄文時代晩期の集落遺跡である亀ヶ岡遺跡の発掘調査を行いました。 遺跡は、1622年に津軽藩2代目藩主の津軽信枚がこの地に亀ヶ岡城を築こうとした際、土偶や土器が出土したことから発見されました。 江戸時代にはここから発掘されたものは亀ヶ岡物と言われ、好事家に喜ばれ、遠くオランダまで売られたものもあります。 1万個を越える完形の土器が勝手に発掘されて持ち去られたといいます。 1889年に学術調査が行われ、1895年と昭和にも発掘調査が行われ、戦後も支谷の低湿地遺物包含層のみの調査が行われました。 現在、現地には遮光器土偶をかたどったモニュメントが建てられていますが、その背後にある谷間の湿地帯から数多くの遺物が出土しています。 この時期に神田孝平の知遇を得て、遺跡発掘についての報告を神田に手紙で送り、それが日本人類学会 が発行する「東京人類学雑誌」に掲載されました。 日本人類学会は、自然人類学に関連する諸分野の研究者を中心とした学術団体で、設立は1884にさかのぼり、日本で最も古い学会の一つです。 人類学上の事項を研究し、これに関する知識の交流をはかることを目的とし、学術集会の開催 、機関誌の刊行 、内外諸学会との交流、公開シンポジウムの開催などの活動を行っています。 神田孝平は1830年美濃国不破郡岩手村生まれ、江戸時代末期から明治時代にかけての日本の洋学者、政治家です。 兵庫県令、文部少輔、元老院議官、貴族院議員を歴任しました。 牧善輔・松崎慊堂らに漢学を、杉田成卿・伊東玄朴に蘭学を学び、幕府蕃書調所教授となり、1868年に同頭取に昇進しました。 江戸開城後の1868年に、明治政府に1等訳官として招聘されました。 蓑虫山人は、1887年に一度上京しその後は再び東北に戻り、1895年に秋田県滞在中に唯一の肖像写真を残しています。 1896年に帰郷するが居場所が見つからず、笠松で地元民から「竹をくれるなら絵を描く」という条件で竹を集めて庵を作りました。 1897年に完成して「籠庵」と名付けられた庵は、車に乗せられて約15km離れた志段見まで移動して据え付けられたといいます。 1899年には名古屋市の長母寺に身を寄せ、翌年2月に他の寺に出向き入浴した後に倒れて死去しました。 長母寺は愛知県名古屋市東区にある臨済宗東福寺派の寺院で、1179年にこの地の領主であった山田重忠の開基により創建されました。 当初は天台宗に属しており亀鐘山桃尾寺と号しましたが、1263年に無住一円が入寺して以降禅宗寺院となり、山号・寺号が現在のものに改められ、一時末寺93ヶ寺を数えるほど隆盛しました。 中世には代々武家の帰依を得て北条氏・足利氏・織田氏などから寺領を寄進されましたが、文禄年間の太閤検地によって寺領が没収され一時衰退した時期もあります。 江戸時代前期の1682年に、尾張藩二代目藩主徳川光友の命により禅僧・雪渓恵恭が再興しました。 長母寺付近を流れる矢田川は、1868年、1896年、1903年、1911年、1925年に、度々洪水を起こしました。 1891年の濃尾地震により、本堂が倒壊しましたが、その後再建されました。 蓑虫山人とはいったい何者だったのでしょうか。 折り畳みの家を背負って旅をしたアドレスホッパーだった、幕末に西郷隆盛を助けた、勝海舟、山岡鉄舟とも知り合いだった、青森・亀ヶ岡で、あの遮光器土偶を発掘したなどなどが伝わります。 蓑虫の名は、バックパッカーのように生活用具一式を背負い、時には折り畳み自在の寝幌に一夜を過ごす旅のスタイルから、蓑虫山人自身が名付けたものです。 奇想天外で独立独歩、そしてユーモアの達人。その人柄は多くの人々から愛され、各地にはいまも蓑虫山人が描き残した絵日記が残っています。 絵日記には、幕末から明治という、ウィズコロナ時代のいまよりもさらに激動の時代を、愉快に生きた蓑虫山人と人々の暮らしが生き生きと描かれています。 絵日記を眺めていると、自然と心が和み、また、蓑虫山人は人生を愉しくする天才だったと思えてきます。 閉塞的な世情にも響くものがあり、2020年のいま、あらためて蓑虫山人への注目が集まっています。 著者は東北地方へ足を運んだのが2006年で、それから15年近く通い続けているそうです。 ある時、青森県の浪岡町にある、蓑虫山人が描いた「土器図石器図絵屏風」の存在を知ることになりました。 縄文時代というものに興味を持っていたけれど、幕末から明治に移り変わる激動の時代に、こんな温かな絵を残す絵師がいたのかといたく興味を持ったといいます。 2011年に東北地方で撮影したものを一冊の写真集にまとめ、ひと区切りがつくはずでしたが、震災がありそれから心の在り方が平穏を取り戻すまでに数年を要したそうです。 2013年になってから、蓑虫山人の屏風絵は、浪岡町中世の館の静かな館内でガラスケースに収められていました。 資料を見た時に感じていた以上に、現物を見てみれば土器や土偶への思い入れや優しさが惨んでいました。 そして、それを鑑賞する人に伝えたいと強く思って、縄文ZINEで編集長を務める望月昭秀さんに出会い、蓑虫山人の企画を雑誌に持ち込んだり、二人で取材の旅に出掛けたりして、最終的にはこの本を作るまでに至ったということです。序/年表/1、源吾/2、幕末/3、土偶/4、変人/5、放浪/6、美濃/笈の記2020/あとがき/参考文献[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]蓑虫放浪 国書刊行会 望月昭秀 /蓑虫放浪/望月昭秀/田附勝【1000円以上送料無料】
2021.11.13
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国際社会における日本の競争力低下が取り沙汰されて久しいです。 中でも科学技術力の弱体化はしばしば指摘されるところで、確かに日本の論文発表数や世界大学ランキングの順位などは近年停滞、ないしは下落傾向にあります。 ”「スパコン富岳」後の日本 科学技術立国は復活できるか”(2021年3月 中央公論新社刊 小林 雅一著)を読みました。 最新の性能ランキングで3期連続の4冠を達成して世界一に輝いた「富岳」によって、電子立国・日本は復活するのか、新技術はどんな未来社会をもたらすのか、などを解説しています。 加速する少子高齢化や人口減少なども相まって、今後日本が衰退の道を辿るのは必至と見る向きも多いですが、それは本当でしょうか。 そうした悲観論者に問いたいです。 日本の理化学研究所と富士通が共同開発した「富岳」は2020年、スパコンの計算速度などを競う世界ラッキングで2連続の王座に就きました。 巨額の開発資金、そして大規模な設計チームの並み外れた頭脳と集中力が求められるスパコン・プロジェクトは、その国の経済力や科学技術力など国力を反映すると言われます。 実際、過去四半世紀以上に及ぶ世界ランキングで首位に認定されたのは日本と米国、そして中国のスパコンだけです。 しかも直近では日本の富岳が1位です。 3期連続4冠達成 TOP500、HPCG、HPL-AI、Graph500にて世界第1位を獲得し、TOP500、HPCG、HPL-AIにおいて3期連続の世界第1位を獲得しました。 これを見る限り、日本の科学技術力は今なお健在で、世界でもトップクラスに位置していると見るのが妥当ではないでしょうか。 確かに往年の勢いはありませんが、だからと言って今後も衰退の一途を辿ると決めつけることもできないといいます。 小林雅一さんは1963年群馬県生まれ、東京大学理学部物理学科を卒業し、同大学院理学系研究科を修了後、雑誌記者などを経てボストン大学に留学しマスコミ論を専攻しました。 ニューヨークで新聞社勤務、慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所非常勤講師などを経て、2006年よりKDDI総研リサーチフェローとなり、情報セキュリティ大学院大学客員准教授も兼務しています。 「富岳」は理化学研究所の「京」の後継となる、日本のスーパーコンピュータです。 2014年に開発開始、2020年より試行運用、2021年に本格稼働しました。 名称については2019年2月から4月まで公募を行い、5月にポスト「京」ネーミング委員会により7案に絞られ、更に理化学研究所理事会議により「富岳」に決定されました。 ハードウェアは、富士通が開発したCPUのA64FXを搭載し、京の約100倍の性能と、世界最高水準の実用性を目指しています。 ソフトウェアは、IHK/McKernelという名前の軽量マルチカーネルオペレーティングシステムを使用していて、LinuxとMcKernelの両方を使用し、同時に並行して動作します。 設置場所は兵庫県神戸市・ポートアイランドの理化学研究所計算科学研究センターで、主要ベンダーは富士通です。 日本の科学技術力についての問題は、競争力の低下に歯止めをかけ、再び上昇に転じさせるには、どうすればいいかということです。 単に人口が減少するという理由だけで、それができないと断じるのは早計に過ぎるでしょう。 本書は富岳のようなスパコンの中核をなす「半導体」、そしてその活用対象として今、最も期待されている「AI(人工知能)」という2つの分野に焦点を当て、日本が再び科学技術立国として歩み出すための道を探っています。 かつて1980年代、日本はDRAMと呼ばれる記憶用部品を中心に,世界の半導体市場を席巻しました。 半導体は産業の米と言われ、この分野を完全に掌握した日本は、便利で洒落た電気製品を世界市場に出荷して巨額の貿易黒字を稼ぎ出しました。 当時、日本はハイテク・ジャパンや電子立国などと世界から称賛されました。 しかし、その後の日米半導体協定などを境に、日の丸半導体、ひいては日本のエレクトロニクス産業は競争力を失っていきました。 その後、1990年代のインターネットーブームを境に、世界のハイテク産業を支配したのはGAFAに代表される米国の巨大IT企業でした。 今、米国の巨大IT企業があらためて半導体技術に力を注いでいます。 折からのAIブームに乗って、ディープラーニングと呼ばれる機械学習を高速にこなすAIチップの自主開発に乗り出したのです。 AIを使った製品やサービスを生み出すソフトウェア開発競争が飽和し、今後はむしろ半導体のようなハードウェア技術がこの分野における競争力の源泉になると見られるからです。 ここに日本の勝機が生まれようとしているのです。 日本の半導体産業には底力があり、その卓越した設計能力は今なお健在です。 理研と富士通が自主開発し、富岳に搭載した超高速プロセッサA64FXは、AI処理も得意としています。 これは世界的にも高い評価を受け、米国の主要スパコンーメーカーHPEクレイも、今後このプロセッサを自社製のマシンに搭載することを決めました。 A64FXには、1980年代から日本のエレクトロニクスーメーカーが技を磨き、その後も脈々と受け継いできたベクトル型プロセッサ、あるいはSIMDと呼ばれる技術が活かされています。 こうした日本の伝統的技術が今、AIチップのような最近の半導体製品がARMと呼ばれる標準アーキテクチヤに従って、装いも新たに蘇ろうとしています。 これは単にスパコン開発に止まらず、スマホやタブレットなどモバイル端末からウェアラブル端末、クラウド・サーバー、今後の自動運転車などからIoT製品まで、さまざまな分野に用途を広げています。 富岳に搭載されたA64FXもARMアーキテクチヤに準拠しているため、今後スパコンで培われた最高レベルの技術をコンシューマー製品からサーバーなど企業向けまで広範囲のビジネスに応用していくことができます。 ここに日本産業界の新たな可能性が拓かれようとしていますが、チャンスを日本が確実に掴み取るためには、技術開発の礎となる先端科学の研究者をしっかりサポートする体制が必要です。 世界最高の科学計算能力を誇る富岳は、本来そのために作られたようなもので、宇宙シミュレーションやがんゲノム医療など基礎研究から、新型コロナウイルス感染症対策に至るまでさまざまな領域で活用されています。 他方、科学技術立国の再興をめざす日本が世界市場での存在感を取り戻すには、国内だけを見ていてはだめです。 目を世界に向ければ、今、米国と中国は21世紀のハイテク覇権をめぐって激しい争いを繰り広げています。 進境著しい中国企業は、米国政府による部品・技術の輸出規制など一連の制裁によって、国際市場での成長が阻まれています。 基本的に米国政府が主導権を握る米中ハイテク覇権争いが、実は米国自身にもマイナスとなり、両国が次世代の技術開発で手間取る間に日本企業が世界市場で再び台頭するチャンスが生じているといいます。 詳細は第4章で取り上げており、これは一つの事実として受け止めるべきでしょう。 そして最後の第5章で、スパコンの次に来ると言われる夢の超高速マシン「量子コンピュータ」の現状を展望しています。 ここでも米中間の技術開発競争は熾烈を極め、両国を代表する巨大IT企業や主要大学などが、互いに量子超越性と呼ばれるブレークスルーを達成した、と主張し合っています。 しかし仮にそうだとしても、それを可能にした重要技術の多くは、実は日本の研究者が生み出したものです。 この豊かな科学的資産を最大限に活用し、日本は21世紀を切り拓く量子コンピュータの開発でも、世界をリードしていく決意としたたかさが求められています。 本書は月刊『中央公論』に連載された「スパコン世界一 『富岳』の正体」と題する記事を大幅に加筆・増強した内容となっているといいます。 富岳を生み出した日本のコンピュータ技術力の源流は「FUJIC」にあり、1956年当時の富士写真フイルムに勤務していた技術者、岡崎文次氏(1914~98年)がほぼ独力で作り上げたそうです。 FUJICの4ヵ月後に稼働し始めたETL MarkⅢ、あるいは東京大学や東芝の共同開発で1959年に完成したTACなどが最初期の日本製コンピュータとして知られています。 この頃、東京大学理学部物理学科の高橋秀俊研究室に所属していた大学院生、後藤英一氏(1931~2005年)は、真空管に代わり動作が安定して故障しにくいパラメトロンという日本独自の論理素子を発明したことで知られています。 この素子を使って、東大のみならず日立製作所、富士通、日本電気なども次々と国産計算機を開発していきました。 残念ながら、その後はより動作速度の高い素子トランジスタにとって代わられ、パラメトロン・コッピュータの時代は長く続きませんでした。 しかし1986年に、後藤博士はパラメトロン技術とジョセフソン素子を結合させた磁束量子パラメトロンを発明しました。 この新しい素子は現在、グーグルや1BM、マイクロソフトなどと競うように量子コンピュータを開発しているカナダのDウェイブが、基本的な要素技術として自社製のマシンに採用しています。 岡崎氏や後藤氏のような先駆者が切り拓いた豊かな土壌の上に、世界ナンバーワンのスパコン富岳が育まれたとすれば、伝統の力は今も生き続けていると見るべきでしょう。 後に続く科学者やエンジニアがそれを受け継ぎ、発展させてくれることを期待したいといいます。 日本の将来はそれにかかっていると言っても過言ではないでしょう。はじめに/日本の科学技術が世界を再びリードする日/第1章 富岳(Fugaku)世界No.1の衝撃(富岳のAI処理能力で、GAFAも追い越せる/スパコン開発に必須な「技術への投資感覚」)/第2章 AI半導体とハイテク・ジャパン復活の好機(富岳の「使いやすさ」は米中スパコンを圧倒ー性能ランキング「TOP500」創始者に訊く/逆転の発想から生まれた注目AI企業の自主開発スパコン)/第3章 富岳をどう活用して成果を出すかー新型コロナ対策、がんゲノム医療、宇宙シミュレーション(コロナ治療薬の候補を富岳で特定ー創薬シミュレーションの実力/がん患者の命を救う全ゲノム解析とAI-富岳で劇的スピードアップ/富岳を使えば銀河形成の過程を忠実に再現できる)/第4章 米中ハイテク覇権争いと日本ーエクサ・スケールをめぐる熾烈な国際競争/第5章 ネクスト・ステージ:量子コンピュータ 日本の実力/おわりにー先駆者が切り拓いた豊かな土壌 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【中古】絵でわかるスーパーコンピュータ / 姫野竜太郎
2021.11.06
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