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2020年07月04日
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カテゴリ: 政治・政治家
ブログリンクしているMilkywayさんのブログ
「女性が参政権を得るまで:世界各国での物語」 は、
世界各国の女性たちの参政権を獲得するまでの苦難の闘いの歴史を簡潔にまとめてくださっている。
私たちが当たり前の権利のように感じている参政権は、あだやおろそかにしてはいけないものだと自覚しなくてはならないと思う。
ということで、全文をコピーさせていただく。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このところ、国政選挙でも地方選挙でも、投票率の低さが話題になる。
今週末は、東京都知事選挙の投票日だ。一人でも多くの人が選挙に参加して、
自分の考えを選挙で反映してほしい。

投票率が少しでも高いことを願い、この記事を書く。

選挙権をもっているというのは、ごく当たり前のことのように我々は思っている。
だが、実は選挙権は、命がけで得てきたものなのだ。その歴史を見ると、参政権を
得るまでには、命がけで困難を乗り越えなければならなかったことがわかる。

特に、女性が参政権を得るまでには、侮辱、拒絶、差別、暴力、弾圧、逮捕されて
監獄に入れられるようなことまで経験した。それだけではない。家を襲撃され、
生活の全てを失ったり、殺されたり、家族を失った人たちまで出た。

参政権は、こうした命をかけた闘いを乗り越えて、ようやく手にしたものなのだ。

こうした女性参政権獲得までの世界各地での歴史を、分かりやすく簡潔に著した
本があるので、紹介する。

これは、大人にも、特に女性たちに、そして将来投票権を持つことになる
小学生高学年以上の子どもたちに、ぜひとも読んでもらいたい本だ。
書名 Rebel Voices
作者 Louise Kay Stewart
出版社 Hachette Children’s Books

日本では翻訳がないので、内容をかいつまんで紹介しつつ、自分の思いも記す。

【前書き】

この本は、
“私たちはだれかの娘というだけじゃない。だれかの妻だけでもない。
私は人間。命を持った一人の人間“

という2016年、アメリカの大統領選挙中に女性たちの間で歌われた歌で始まる。
2016年になっても、こうした歌が歌われていること自体、まだまだ平等も、
公平も行き渡っていないのだと改めて思わされる。

何百年もの間、女性たちは選挙権をもっていなかった。

女性たちに認められていたのは、家にいて洗濯と掃除と子育て、あるいは畑仕事、でなければ工場で働くだけだった。自分たちに関係する規則も法律も、何もかも全て男性たちが決めていた。女性にはそれに関わる権利が認められていなかった。
自分たちの意見を反映させる選挙権がなかったからだ。

【女性が参政権を求める動きの始まり】

19世紀の終わりになって、ようやく女性たちは声をあげ始めた。世界中のあちこちで、投票権を求める署名活動や、嘆願書、集会や、行進が始まり、暴動まで起きるようになった。だが、それは、運動によって女性たちが受けた苦難の始まりでもあった。
そうした世界各地で繰り広げられた女性の参政権を求める運動には、
その国らしさが滲み出ているし、多様な作戦も見てとれる。

いくつかの国を紹介しよう。
まずは、

【ニュージーランド1893年 世界で初めて女性が参政権を得た国】
ニュージーランドは、最近とみに、その民主性が注目を浴びている。
まず、2013年。同性婚を認めようと、熱意とユーモアを込めたスピーチが議会で
なされ、その名演説は全世界を駆け巡った。
   https://www.youtube.com/watch?v=S1gca7hAwIM

コロナ対策では、世界で最初に感染封じ込めを果たしたのは、38歳の女性首相。
彼女は任期中に出産。産休・育休をとった世界初の政治家となった。

こうした民主的国家の模範とも見えるニュージーランドでも、女性が選挙権を
得られるまでの道のりは過酷だった。

その苦闘が実って、ニュージーランド原住民のマオリ族の女性と、ヨーロッパ
からの移民の女性の二人が、投票権を手に入れたのは1893年。
これが、世界で初めて、女性が選挙の投票権を手に入れた年 だった。

1902年、オーストラリア】 



選挙権を求める人々は、6ヶ月もの間で3万3千人もの署名を集め、その署名を
綿の布に貼り付けて、260メートルもの長さの署名布を、国会まで引きずる行進をした。

だが、女性たちが投票権を得る、そして、議員にもなれるという被選挙権の
両方を得ることはできなかった。本当の意味での参政権を得るには、
さらに10年もの月日を要したのだ。

民主国家といえば、北欧の国々。女性が参政権をえるための苦闘を紹介する。

【ノルウエー 1913年】

女性たちの選挙権獲得のために、立ち上がったのは一人の女。彼女は何年も
新聞や雑誌に記事を書き続け、さらにこの運動を展開するための組織を作り、
多くの困難の末、1913年、ついに彼女は願いを叶えた。

【デンマーク 1915年】

1887年、2万人もの女性たちが選挙権を求める嘆願書に署名。だが、実際に
選挙権を得られたのは、この署名運動から28年後の1915年。
この日、首都コペンハーゲンの大通りを、お祝いの
白いドレスを着た1万2千人の女性たちが埋め尽くした。

【アイスランド 1915年】

アイスランドでは、行進の代わりに馬にまたがって活動を続ける女性が。
彼女は、くる日もくる日も、馬にまたがり、投票権を得るための運動に
参加してほしいと、女性たちを説得して回った。

その運動が実って、彼女がようやく鞍から降りられたのは、1915年。

続いて、

【イギリス 1918年】

民主国家といえばイギリス。だが、奇妙なことに、1800年代のイギリスでの
女性参政権運動は、他の国々には影響を与えてはいたが、自国では大きな成果は
あげてはいなかった

ところが、1900年代に入ってから、サフラジストと呼ばれる女性参政権の活動家たちが、急に活発に動き始めた。
しかし、この運動は、旧体制派の人々から激しい抵抗を受けた。軍や警官による暴力で流血事件も起き、刑務所に入れられる人々も大勢出た。
だが、彼女たちは刑務所内で、ハンガーストライキを決行。
困った刑務所側は、無理やり食べ物を管で流し込んだ。この強制的な扱いで、多くの死者が出た。

その姿に国民は同情。「サフラジェット」とさげすんだ女性たちを応援し
始めた。こうした激しい運動の結果、ようやく女性の参政権が認められた。
この運動は、映画にもなっている。

【カナダ 1918年】

カナダの女性投票権を求める運動は、おもしろいエピソードに彩られている。
演劇が重要な役割 を果たしたのだ。

ウィニペグ市の議会をからかう劇なのだが、この劇では現実の男女を逆にして
演じられた。この劇の中の議会は、女性議員が男性の選挙権など断固として
認めない。

そうした議会に、一人の男性が、投票権を求める嘆願書を山と積んだ一輪車を
押して、登場した。首相を演じている女優は、その当時の首相のスピーチを
引用し、その内容をさんざんからかったあげく、思うぞんぶんこきおろした。
女優はさらに続けて、男たちが今まで投票権を無駄に使ってきたことや、
男たちの投票によって、家も家庭も不安定にされてきたことを、その劇で
聴衆にわからせた。聴衆は大喝采。そのショーは大成功を収め、
一大センセーションをまき起こした。

この劇は、議会の旧態依然とした古めかしさを、社会に見せつけた。
この劇の後、首相は次の選挙で落選。

その結果、カナダでも女性の投票権が認められ、男性と同じように、
女性の政治への参加が認められることになった。

演劇の持つ力 を、改めて思い知らさせる。

【アメリカ合衆国 1917年。だが実際は1965年】

女性の選挙権を求める大きな動きは1851年、オハイオ州から始まった。
奴隷制廃止と女性の選挙権獲得を訴えるスピーチの主ソジャーナ・トゥルースは、
奴隷から解放されて自由な身になった女性。

彼女は自分に、ソジャーナ(たえず先へ進む人)・トゥルース(真実)という
意味を込めた名前を自らにつけ、この名前を誇りとして、メッセージを
合衆国中に届け続けたのである。

1866年、ソジャーナに共感した多くの女性たちは、自由の女神像の除幕式を
むかえた日、ニューヨーク港に集まって「自由の女神像は、女性の自由の姿
そのものではないか?それなのに現実は、女性に自由はない。選挙での投票権
さえも認められていない。これは矛盾ではないか?不正義ではないか?
それで良いのか?」と叫んだ。

1872年になって、フェミニスト運動の指導者のスーザン・アンソニーが、
大統領選挙に女性も投票することを認めてほしいと要求した。ところが、
彼女は逮捕され、裁判にかけられた。裁判では彼女の主張は認められなかった
ものの、女性も男性と同じように投票する権利があるという彼女の主張は、
連日、新聞の表紙を飾り、国民の賛同を得て、浸透していった。

ほぼ50年後。1917年、全国婦人党を中心にした女性たちが「女性への選挙権を」
という横断幕を持ってホワイトハウスへ無言の行進をした。この時、多くの
女性参政権活動者たちが刑務所に入れられ、ひどい暴力を受けた。

だが、こうした運動によって、国民はだんだんと男女が平等に選挙権が
与えられるべきだと気づいていき、ついに800万人の女性たちが、
アメリカ合衆国の歴史上初めて、大統領選挙に投票する日を迎えた。

だが、すべての国民に参政権が認められたわけではなかった。人種差別が
まだ残っていたのだ。

この問題が解決したのは、アメリカの国中で沸き起こった公民権運動に
よって、全ての国民に、平等に参政権を認めるための法律改正をする
1965年まで待たなければならなかった。

今、全米のみならず世界中に広がっている
Black Lives Matter(「黒人の命も大切」)運動。
いまだにこうした運動が大きなうねりをもって広がっているということは、
人種、男女を問わず、差別が解消されておらず、公平さ・正義が実現されて
いないことを表す。

【ロシア 1917年】

1917年サンクト・ペテルブルグの通りを、平等を求めるという同じ志しをもった
4万人もの人々が、国会を目指して行進。

この行進を率いたのは、本来は皇帝を守るはずの、女性護衛兵隊だった。
白い馬にまたがった彼女たちは、この行進に賛同して、行進の護衛隊を務めた。

【フランス 1944年】
フランスでは、女優が世間の目を引く、という作戦をとった。

1910年、マルガリート・ドュランという女優が、流行のファッションに
身を包み、ペットのめすライオンを連れて通りを闊歩した。彼女の
人目をひくこの行動は、新聞の表紙ページを飾り続けた。
そのことで彼女の名前も、彼女が訴える社会に巣食う不正義への批判も、
女性に投票権を与えるべきだという彼女の主張も、国民の間に広がっていった。
フランスの女性参政権活動家たちは、国民の耳目をひく方法を巧みに
使ったのである。

私は、昨年の参院選にれいわ新選組から立候補した、女性装の東大教授、
安冨歩さんを思い出す。この方は、女装をし、選挙運動に馬を連れ、音楽も
奏でながら選挙運動を展開した。その選挙運動はその主張とあいまって、
十分世間の耳目を集めたのだった。

【イタリア 1945年】
ナチスへの抵抗運動で、時には銃を持ち、命をかけて果敢にやり遂げた
女性たちが、男性と同等とみなされるようになり、選挙権が認められる基を作った。

1945年、終戦の年。イタリアでも女性の選挙権が確立された。

南半球に行こう。アフリカ大陸ではどうだったか。

【エクアドル 1929年】
アフリカ大陸で、女性の参政権を認めた最初の国はエクアドル。1929年。

この道を開いたのは、エクアドル初の女医で、女医を志す女子たちに道を
開いた女性。この人が、女性が選挙で投票するのは、違法ではないことを
発見し、どうどうと投票場に入っていったのが1924年。警備の人たちが制止
したが、彼女はひるまなかった。そして彼女が、南アメリカ全土で、総選挙で
投票した初の女性となった。

5年後の1929年、エクアドルではすべての女性たちに、選挙権が認めた。

【南アフリカ共和国 1956年】

1930年、南アフリカでは、議会の議員全員が白人男性だけという議会で、
投票権は白人の女性だけに限るという決議をした。

だが、その結果を恥ずかしく思う白人女性たちもいた。なぜ黒人たちに、
同じような投票権がないのかと、その不平等に怒ったのだ。同じように考えた
人々が、黒人にも平等に投票権を与えることを訴えてデモ行進をした。

その26年後、1956年8月9日、南アフリカの人種差別と人種隔離政策に抗議
して、黒人女性だけでなく、人種も、男女も超えて、2万人もの人々がデモ行進に参加。

不平等に抗議する人々は、殴られ、傷つけられ、逮捕された。こうしたことが
何十年も続いた。

不屈の戦いがやっと実を結んだのは、1994年になってからだった。この年、
ようやく黒人の男性にも女性にも、選挙権が認められた。

次は、西欧や日本からみれば、女性の権利が認められていないと映る
中東諸国に移る。

【近年 中東の国々】

女性が選挙権を得るという運動は今でも続いている。

最近では、中東の国々で、女性の参政権が認められた国が出てきた。


【カタール 2003年】

カタールの首都のドーハ。女性政治家の一人は、車の中から、フェイスブックや
ツイッターを通して、次々とニュースを発信する。彼女の支持者は、毎日、
彼女からのニュースを何通も受け取るのだ。議会で女性として初めて議席を得て
以来、以前にも増してSNSは彼女の強力な武器となった。シェイハや彼女の
仲間たちの顔が、どんどん国民に知られていくにつれ、カタールという国は、
国の将来にとって女性が重要だと気づいていった。

2003年、カタールは新しい憲法を制定。公式に女性の選挙権を認めた。

【クエート 2005年】
クエートの女性たちも、インターネットやソーシャルメディアを使って、
女性参政権を求める運動を展開した。この方法は非常に効果的で、情報は
国中に拡散して、サポーターがものすごい勢いで増えていった。

2005年、このSNSを駆使して、彼女は国会前での大規模なデモを成功させ、
ついに、女性の参政権が認められることになった。この運動を率いた女性は、
クエートで初めて女性の下院議員になった。

【サウジアラビア 2015年】

サウジアラビアでは、女性への選挙権を求める運動は、車の運転を認める
運動と重ねて行われた。女性が自由に外出できるように、女性の社会進出を
求める運動と重なったのだ。

47人の女性が運転する車が、1990年、首都リヤドの大通りを走った。女性の
運転を禁止しているこの国の法律に、抗議する走行だった。

彼女たちは、逮捕され、仕事を追われ、社会的な制裁を受けた。だが、
この女性たちの勇敢な行動は、サウジアラビアの女性たちの心に火をつけた。
これが、サウジアラビアでの、女性参政権運動の始まりだったのだ。
女性たちは選挙権を求めて声をあげた。

そしてついに、2015年、国は女性に参政権を与えた。すると1000人もの
女性たちが、議員として立候補した。

【中国 1949年】

上に書いたように、女性の参政権を得る運動は、各国それぞれ特報ある展開の仕方をした。
中国の活動家たちは、どうだったのだろう。

中国では、イギリスのような激しい方法を取り入れた。
だが、中国の独特な点は、女性が男性と同じように兵士や軍人として活躍して、
女性の地位を認めさせるという方法を使ったことだ。

その独特の手法を率いたのは、唐群英(Tang Qunying)。
彼女は、4世紀から5世紀に実在した伝説的な女性将軍の花木蓮(ファ・ムーラン。最近、
ファ・ムーランの映画もできた)に自らを重ね合わせ、ファ・ムーランの
国民的な知名度を活用した。

唐群英は、武人として女性部隊を率い、中国の独立戦争を戦い抜いて、
ついに1911年、皇帝をその座から追い落とした。

1912年、群英は同志とともに銃を携えて議会に入場。女性の参政権を主張した。
だが、議会はその要求を拒否。群英の隊は怒り、自分たちの要求を叫びながら
窓を壊し、警備隊をけり倒した。この騒ぎをおさえるために軍隊が出動する
ほどだった。

群英の過激な行動は、成功しなかった。しかしながら、女性参政権という
考えは、国内で広く知られるようになった。

だが、中国の女性参政権運動は、内戦や第二次世界大戦にじゃまされた。
そして、中華人民共和国という新しい国になった中国は、女性にも選挙権を
保障したのは、1949年になってからだった。

【日本 1945年】

さて、いよいよ日本。

1945年以前の日本の女性は、ヨーロッパの女性たちよりも、もっと不平等に
扱われていた。女性は家にいるものとされ、外出したとしても男性から3歩
後ろを歩かなくてはならなかった。だが、女優で女性解放運動の活動家、
木村駒子 は、そうした風潮には従わなかった。1917年、駒子は美しい着物姿で、
ニューヨークの5番街を2万人の人々と共に、女性の選挙権を求めて行進した。

駒子のこのニュースは、日本中に衝撃を与えた。駒子はアメリカの女性参政権
運動の活動家たちから知識を得て帰国。

駒子の活動に刺激されて雑誌「新真婦人」が発刊され、日本で女性の選挙権を
求める運動が急速に広まっていった。

駒子の名前が新聞紙上を飾ると同時に、もう一人、別の女性がさっそうと
登場した。 市川房枝 だ。

彼女の言葉は、日本中の村から村へと野火のように広がっていった。一方、
彼女への攻撃も起きた。男たちが、暴力を使って彼女を妨害するという
卑劣な事を続けた。だが、房江はひるまなかった。

続いて起きた第二次世界大戦中の政府の女性抑圧の政策の中で、女性の選挙権を
求める運動は、火が消えたかのようになった。だが、房江はけっしてあきらめ
なかった。地道に活動を続けていたのだ。

戦後、房江は、日本を占領した占領軍のトップ、マッカーサー元帥に面会。
そして、その素晴らしい説得力で彼を納得させ、日本の女性たちにも選挙権を
得させたのだ。

上記のように、女性が男性と同じように、公平に機会を求める運動を、
参政権の面から見てきた。この100年間で、それなりに成果は出たと思う。

その歴史は、それ自体で、皆で力を合わせれば、夢が達成できる証明にも
なった。世界中の女性参政権運動の活動家たちが、国を越えてお互いの考えを
分かち合ったり、支援しあったりしてきた。そして現在では、インターネット
やソーシャルメディアを使って、その協力関係を、より一層緊密で力強い
ものにした。

選挙権を持った女性たちは、声をあげる権利、意見を言う権利、選ぶ権利、
自らの生活を変える権利も同時に手にした。

だが、まだ十分とはいえない。現実は、教育の機会に恵まれない女性が多いし、
望んでも同じ仕事が与えられないことも多い。男性よりも給与も低い。
男性よりも能力が劣っているという間違った考え方がまだ残っているし、
男性と同じ権利や力が認められているとは言えない。

現状を少しでも改善し、のちに続く世代により良い社会をバトンタッチ
していくためにも、長い苦闘と多くの犠牲の上にの末に勝ち取った選挙権を
生かしきってほしい。



選挙に行こう!
自分たちの考えを反映させるには、投票することだ。
この大切な民主主義を守る権利を、放棄しないでほしい。

選挙に行こう!​

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最終更新日  2020年07月04日 15時26分22秒
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