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暑中見舞いの季節だが、相変わらず「ファミリー写真」をプリントしたものを送ってよこす人がいる。 いったい、何を考えているのだろう。 友人・知人が少ない人に限って、家族写真の賀状や暑中見舞いを送りつけてくる。その人が公私にわたって幅広くよしみを通ずる人なら、もっと別な作り方をするだろう。 と、見透かされるだけだから、どんなに親しい人でも、少なくとも仕事関係にそれはやめた方がいいだろう。 たしかに、あえて家族を見せる営業方法がないわけではない。営業活動は自分を売り込むわけだから、自分の家族を通して自分を知って貰いたい、という意図は無意味ではない。 だが、ライターやDTPの営業にその手法は有効ではないと思う。別に家族に仕事を発注しているわけではないし、発注者は普通、その人の家庭に興味もないだろう。 発注者が知りたいのは、ひっきょう、その人が頼んでいる仕事を好きかどうか、だと思う。 兼職か専業か、経験はあるのか、子どもに手はかかるのかなど、主婦SOHOにはそれぞれ能力と立場と事情と価値観がある。発注者は、それらで可能な仕事をお願いできればと考えている。 能力の見極めは発注者が行えるが、意欲やこだわりまではわからない。それをいかにして表現できるかを考えてみたらどうだろう。
2004年07月10日
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暫く日記をお休みしていたが、実はパソコン自体に触れていなかった。日記だけでなく仕事も休業中である。先頃、1ヶ月ばかり入院し、現在は高額医療還付を心待ちにしている身だ。ただし入院と言っても、病気でもけがでもない……とだけ書いておこう。 さて、私が入院中の代役を頼んだSOHOは、しっかりネタを提供してくれていたようである。 月刊オープンシリーズのムックで、私のかわりにDTPができる人を探していた。信頼できる人に頼みたかったので、付き合いのある編プロに頼んだのだが、こいつが食わせ物だった。イニシャル書きは本来好まないが、とりあえずAとしよう。 まず、Aは別の自称デザイナーBに振った。それは別に構わない。発注先が、さらに別の外注に頼むことはめずらしいことではない。 ただ、たとえそうだとしても、あくまでこちらが仕事をお願いしているのはAであってBではない。便宜上、こちらがBと直接連絡を取る事もないとはいいきれないが、仕事の責任は当然Aにある。 ところが、AはBに丸投げした。Bがいきなり、「私が仕事を受けました」という「ご挨拶」メールを送りつけてきたのだ。AやBの意図や自覚がどうあれ、通常、こういうことはあってはならない。これでは、Aはただのブローカーではないか。 もちろん、元の発注者がそれを求めれば話は別だし、CMやペイドハプのような代理店やコピーライターなど多くのスタッフが入るプロジェクトは、元請け代理店と孫請けのコピーライターが名刺交換をして会議で同席することはある。が、それらは今回の例とは意味も事情も違う。 まあ、これはどちらかというとAの誤りであり、Bの責任ではない。だが、BはBで、肝心の職能に問題があった。 今回の仕事は4色で64頁。使うソフトはクォークだができるか、とBに尋ねると、「ぼくはイラストレーターが得意だ」などと返事をしてきた。「別にあなたの得意なものなど聞いていない。今回の仕事は64頁でクォークで4色だから、ペラものではなくページものを作れるのかどうか。そして、クォークが扱えて分版処理の知識があるかどうか、ということを聞いているのだ」「わかりました。やってみます」 こいつは、決して「できる」とは言わなかった。テキスト中心の64頁のものをイラストレーターで作ろうなどと酔狂なことを抜かしている時点で、「できる」という返事を期待してはならなかったのだろう。 怪しいと感じたので、試しにトライアルを作らせたら、案の定、イラストレーターで作ってきた。こいつの頭は鶏か。「一昨日、クォークで、とあれほど約束したはずですが?」 するとBは、居丈高にこう反論する。「割付を指示されたデータの中に、テキスト本文だけでなく表やグラフもありましたよね。表やグラフなどはイラストレーターで作るものです。ぼくは13年のキャリアでいろいろな仕事をしてきたプロですが、いつもそうやってきているのです」「表やグラフなどはイラストレーターで作るもの」とは限らない。クォークだけで処理できることもある。もちろん、表やグラフをイラストレーターで作ることはある。しかし、ページ全体を作ることはレアケースだ。 だいたい、クォークで作るという話をしているわけだから、イラストレーターで作ってくることがすでにアウトだろう。 そしてだめ押しは「キャリア13年」うんぬんかんぬん。このテの自己防御や居直りで自分の不作為と向き合おうとしないSOHOが、私が知っているだけでもどれだけいたことだろう。 プロレスラーのギミックじゃあるまいし、その「キャリア」とやらは口ではなく作品で見せてもらいたい。 だが、そういうことを言っている手合いに限って「作品」もひどいものなのだ。こいつの場合も例外ではなかった。何より、提出してきたデータが「CMYK」でなかったのは弁解の余地なしだった。 要するに、「イラストレーターが得意」なのではなく、「イラストレーターしかいじったことがない(しかも出来も悪い)」ということなのだろう。 このホラ吹きSOHOのために、先方への提出が遅れてしまい、結局入院中だった私が慌てて外泊許可をもらい、何とか間に合わせて事なきを得た。 私はもはや怒りを通りこし、こんなデタラメで「DTP」の看板で食っていけるのだろうかと、この自称デザイナーの生活を心配し、同情までしてしまった。 それにしてもAもバカだよね。欲をかいてできもしない仕事を引き受けたために、その仕事をしくじっただけでなく、これまでシコシコ築いてきた信用をも失う事になったのだから…… いいかい、Aよ、Bよ。できないものは引き受けない。その勇気は相手のためだけでなく、自分のためでもあるのだ。長く真面目に仕事を続けたかったら、目先の欲得にとらわれず、潔く辞退すべし!
2004年05月31日
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一部の方が指摘されているように、昨年後半の私の日記は、低次元のミスリードに対する反論や批判に使われることがあった。 時間と手間を考えれば、実にもったいないことだと思う。読む人にとっても、いい思いはしなかったかもしれない。 しかし、それらを無原則に放置していると、その寛容さが誤解され、いつしか「黙殺」が「黙認」と解釈されてしまわないとも限らない。それはさらなるミスリードにつながりかねないので、ときにはコメントしておきたいと思ったわけだ。 やはり書くべきときは書かなければ伝わらない。 で、相変わらず誤読で目立つのが、この日記を「専業主婦VSキャリアウーマンの対立」ととらえているパターンだ。 その人に言わせると、自分はそういう枠組みや対立がノーサンキューだから、この日記を認めないという。「なんちゃってSOHO」の仕事上の誤りを指摘することが、どうしてそういう解釈になるのか、私にはわからない。 私は、そう考えるその人自身が、実は「専業主婦VSキャリアウーマンの対立」なる呪縛から自由でないのだろうと考えている。 そして、自由になれない自分の苛立ちが、この日記に対する八つ当たりとしてあらわれるのだと思う。 前回も書いたが、「なんちゃって」というのは誰もがいつ陥るかもしれない可能性がある。 仕事を甘く見てはならないのは、独身であろうがパラサイト何とかであろうが専業主婦であろうが、キャリアウーマンであろうが同じ。もちろん、性別も年齢も関係ない。 現象として、現役から遠ざかっていた主婦は間違いを犯しやすいし、家庭におさまっている気楽さが仕事に取り組む姿勢を甘くすることもある。だから、「主婦SOHO」という表現を私はしばしば使ってきた。だが、その本質は決して「主婦だけの問題」ではない。 そんなこと、いちいち解説しないとわからないのだろうか。 そうかと思えば、専業主婦=家庭が幸福、キャリアウーマン=不幸、という紋切り型のレッテルを貼り、私が不幸の部類に入るから怨念の日記を書いているとのギミック作りに熱中している人もいる。 私は、何が何でも不幸な人でないといけないらしい。 これを実際に書いているのが女という証拠はどこにもないし、書き手が複数かもしれませんよ、と親切にバーチャルな場の曖昧さを教えてやっているのに、「いいえ、女に違いない」と必死に頑張っている(笑) 女に違いないと頑張るのも、男だと決めつけるのもナンセンスだといってるのに、なぜわからないのだろう。 だいたい、専業主婦でありさえすれば幸福になれるわけではないし、家庭が嫌だから働くというのものでもあるまい。面識もない他人に向かって「お前は幸せ(不幸せ)」などとお節介な評価をくだすことに何の意味がある。 ひっきょう、その人自身が満たされないから、そんなレッテルと固定観念で他人を貶してオノレの黒い心を慰めるしかないのかもしれない。
2004年01月16日
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前回も書いた、私の正体を知っているある同業者が、 この日記が始まってしばらくしてから、自らのホームページ(楽天日記)に、次のような「批判」を認めた。「外注を使って仕事をするのはムシがよすぎる。社員を雇用して育てればいい」 フリーランスの力を借りて仕事をすることを否定したら、編プロは成り立たない。ブローカーになりかねない微妙な問題も含んでいるが、編プロは人材派遣業的側面を自らの業務のうちに必然的にもっている。固定費のかさむマンパワーの常時維持を最小限に抑えることで、コスト的メリットをクライアントに提案できることこそがその真骨頂だからだ。 それとも、「なんちゃってSOHO」は、社員として採用すれば人が変わったようにいい仕事をするとでもいうのか。 ふふ。その理屈は、小学生にたくさんの小遣いを与えたら、大学生になれると言っているようなものではないか。 女性(とくに主婦)にチャンスを与えたい、という弊社の方針自体が気にくわないというのなら、それはもう、外注だの正社員だのといった、採用の仕方の問題ではないだろう。 何よりも、その同業者は、かつてフリーランス時代の弊社の社長を外注で使ってきた事実をどう考えているのだろうか。 話を戻そう。 私の日記を読み、「なんちゃってSOHO」なんか使うからだ、という感想を持たれること自体は、その限りで間違っていない。 問題を起こすのは、たしかに「なんちゃって」ということなのだろう。 ただ、ではどこからが被害を与える「なんちゃって」で、どこからがそうでないのか、その「しきい値」というのを考えると、実は案外難しい。 私がこの日記を始めた頃に書いたような一部の例は文句なしの「なんちゃって」だが、そういうわかりやすい人は、さすがに弊社でも門前払いをさせていただいている。 なにがしかの経歴や実績をもって仕事をしている「プロ」を名乗る人でも、いざ使ってみると「なんちゃって」になってしまう場合があるから厄介なのだ。 そう。今、これを読んでいる「売れっこ」で自信満々のアナタも、いつ「なんちゃって」に転落してしまうかもしれない可能性がある。(もちろん私も含めて……) 人間は間違いうるものだからだ。「なんちゃってSOHO」というのは、きわめて演繹的な概念であり、これからもその定義は「進化」する。その意味で、私たちは、つねに「なんちゃって」になりうる危うさを抱えながら仕事をしているのではないだろうか。結論 これをやったら「なんちゃってSOHO」になるという指摘はできるが、「なんちゃってではないSOHO」という定義は不可能である。 よって、「『なんちゃって』でないSOHOを使うべし」という指摘は、論理的でない。 今年はこのへんで……。 来年もよろしくお願いします。
2003年12月31日
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「身近な人をモデルにものを書くと傷つく人がいることもある」 私の正体を知っているある同業者が、ホームページでそう書いている。「なんちゃってSOHO」ばかりでなく、理不尽な版元やプロダクションも叩くことを怖がらない私に対して、牽制やあてつけでそう書いているかどうかの詮索は、この際、措くとしよう。 どちらであろうが、私の意見が揺らぐことはないからだ。 私は、「身近な人をモデルにものを書」くことを悪いと思っていない。むしろ、その勇気を持てるかどうかが、いい書き屋になれるかどうかの分かれ目だと思っている。 弊社の社長とは多少なりとも関わりのある人で、萩原遼さんという朝鮮問題研究家がいる。“ハギさん”は、文藝春秋社から上梓した「朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀」という本の中で、「書くことは暴露することである」と明言している。 これ、一見過激だが、至極当たり前のことを言っていると思う。 永年勤めた新聞記者としての退職金をつぎ込んでアメリカに滞在し、図書館に通い詰めて探し当てた資料をもとに、朝鮮戦争の真実を書き上げたジャーナリストの鏡であるハギさんならではの至言だ。 もちろん、どんな「暴露」でもいいとは言わない。その基準は、・公益性ある主張であること・名誉毀損に該当しないこと この2点にある。言い方をかえれば、これらを満たしたものなら、暴露は法的にも道義的にも論理的にも責められるべきものではない、と私は考える。「傷つく」人がいたとしても、上記の点さえ守られたものなら、外部的名誉を傷つけたものにはなっていないはずだ。たんに「感じ方の問題」である。だから書くかどうかは、言論の自由というやつだ。それに対して、書かれた者は反論するなり、シカトするなりしていればいい。 いずれにしても、「言論の自由」というのは、お題目として唱えるのはたやすいが、実際の運用についてはそうした厳しい本質を持っている。 少なくとも書くことを生業とする人なら、この厳しさを認識すべきではないか。受け止められないのなら、表現活動は諦めた方がいい。 ところが、悪口を言わない人がいい人、などという日本的な評価方法を口実に、他者批判・相互批判から逃げるばかりでなく、それを行う人を悪者にするムキもある。それはいかがなものか。 卑屈なまでに「いい人」でいたい人は、書き屋としての基本的な資質に欠けるばかりでなく、他人との(適度な緊張を含んだ)距離をうまくとれない弱い人ではないかと私などは勘ぐってしまう。 筋を通し、人を裏切らない生き方をしていれば、口うるさいとは思われても、人間としての信頼を失うことはないだろう。それだけで十分ではないか。他者に期待し、利用しようという腹黒い野心があるから、「いい人」でいなければならないのではないか。 なお、たぶん、こんな誤解はないだろうとは思うが、バイブル本は、そうした覚悟も責任感も必要ない世界なので、この稿の指す「書く」ことの対象にははじめっから入っていない。 そういう仕事しかしていない人が、その体験の範囲を全てと思いこみ、「私はあなたに賛成しない」などと言われても、次元が違い話が噛み合わないだろうからたぶん無視するので、その点はご容赦を。
2003年12月30日
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前回、インテリ気取りの自爆をご紹介したが、残念ながらこういうケースは、特別なものではない。似たような迷言はほかにもあるのでご紹介しよう。【その1】(原稿を注意されて)「(私が)何を書いたかではなく、何を書きたかったのかをわかって欲しい」 いやぁ、これにはマイッタ。 ちょっと考えて欲しい。 たとえば、ラーメン屋が客に「うまくないラーメンだ」と言われて、「私は美味しいラーメンを作りたいと思ったことをわかって欲しい」などと居直りの弁解をするだろうか。するようなら、そのラーメン屋はすぐに店をたたんだ方がいい。 出した(まずい)ラーメンが全てではないか。料理人が客の好みを忖度することはあっても、客が料理人の脳内を忖度しなければならない義理はどこにもない。 そもそも、忖度して貰おうということ自体、その人には仕事を請け負った者としてのプライドはないのか、と私なら考える。 甘えちゃだめだよ。仕事だろう?【その2】(原稿に朱をいれて戻すと)「版元の編集方針がおかしいから、私の調子が狂ってしまったんです」 ケースにもよるが、原稿そのものが読み物として完成度が高ければ、原稿にそう朱は入らない。具体的に原稿を直すというのは、おおもとの問題ではなく、原稿の書き方それ自体が奇妙なのだ。 私が見たところ、原稿がうまく書けない「なんちゃってSOHO」は、まず、「私だったらここはこうするのに……」などと、自分の原稿の出来は棚に上げて、聞いてもいないのに編集方針に口を挟みだす。 自分がその方針で仕事を請け負っている、という前提を図々しくも忘れ、というより、まるっきりひっくり返して、自分が請けてやってもいい仕事はこういう方針だ、と自分の能力の都合でクライアントの方針を変えてしまいたくなるらしい。あんた何様(笑) 私は、この時点で、「この人は危ない」と判断し、諦める。 そういう人はまもなく、エスカレートしてつまらないことから責任転嫁を始めるからだ。「このときにこう言ってくれれば私はこうしたのだ」 そこで言われることは、たいがいどうでもいい些末なことで、いずれにしても原稿の出来にはあまり影響がないか、もしくは、結果論としての「れば・たら」話である場合が多く、要するに、原稿ができない醜態に対する自己正当化や八つ当たり以上の意味を持たない。 もちろんここまできたら、もうアウトだ。この人は使えない。【その3】(原稿を直されて)「見解の相違ですね。私は自分の原稿でいいと思います」 ライティングの仕事には2通りある。大きく分けて、著作権が自分に残る場合とそうでない場合(業務委託)だ。 前者は、自分の名前で本を出版(企画出版)したり、署名で新聞や雑誌で連載したりする場合を指す。著作権が明確に自分にあるから、当然、書いたものについて責任を負わなければならない。この場合、表記や寄稿規定・要項など、その版元が定めていること以外は、自分の裁量で書ける。 後者は、版元なり制作会社なりが著作者となる仕事を手伝うもので、その法的な是否判断は措くとして、ライターは書いた原稿について、著作権自体を著作者に売り渡すという形になっている。単行本執筆でも、ムックなどはそうした契約形態の場合がある。 主婦SOHOは、おそらくページ建てで後者の仕事を請け負うことが多いだろう。その場合は、最終的にその原稿の権利を持つ人の意向で仕事をしなければならないのは当然である。 そういうときは、一人前にポリシーなど開陳しなくていいから、言われたとおりに原稿を書けばいいのである。その場合、それが仕事なのだから。【その4】(お粗末原稿しか書けなかったとき)「コミュニケーションが足りなかったからうまくできませんでした」 掲示板にも、こんなこと書いている人がいたようだが、脱力してしまった。 少しはちゃんと頭を使って欲しい。【その1】でも書いたが、客は業者を忖度する必要はないが、業者は客のニーズを忖度するのも仕事のうちである。 そう。クライアントが何を喜ぶのか、それを探るのは本来、請け負った側の仕事である。根本的にそこを勘違いしているのではないか。 もちろん、客が、「こんなものを作って欲しい」というオーダーをきちんと行うのは当然だ。 しかし、この日記で書いているのは、そういうことではない。 田貫さんが書かれているように、「その人(SOHO)に能力がなけりゃ、どうしようもない」問題というのがある。私はこの日記で、主にその部分、つまり「その人(SOHO)」の能力に依拠する問題を書いている。 さらに言えば、間抜けな「なんちゃってSOHO」を雇ってしまった後悔やグチを書きたいわけでもない。そういうことなら、最初から主婦SOHOにチャンスなど与えなければいいだけの話だ。 それにしても、白黒を曖昧にした「どっちもどっち」論で片づけないと、気に入らないという、良くない意味での判官贔屓の書き込みが後を絶たないが、これも平和ボケのひとつなのだろうか。 それでは結局、「その人(SOHO)」の側がいつまでたっても現実の課題に気がつかず、よってそこから合理的な進歩や改善の道筋を見いだすこともできないだろう。 それなのにきちんと批判せずに、曖昧な両成敗論を求めることが、責任と道理ある見解といえるのだろうか。「『弱者』の味方」の方々は、そのへんまで考えて書き込んでいるのか、ぜひ伺いたい。
2003年12月27日
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以前、東京近郊にある国立大学を出た女性の「ダブルブッキング」を例に出した(2月18日の日記)。そのときに書いたのは、 いくら名門大学や大会社に入ったことがあるといっても、それだけでスキルは保証できない。 ということだ。 これは、採用する側だけでなく、採用される側(つまり本人)もきちんと認識しておいてほしいことである。 根拠のない世間知らずの自信や自負が、仕事を進める上でマイナスになる場合があるからだ。 過日、ある「有名」大卒ライターの女性が、お願いした原稿に、「パラダイム」なる言葉を使っていた。 私は、2つの理由から、別の言葉に置き換えるように命じた。 ひとつは、「言葉の成金」原稿を認めないという私の方針による。 必然性のないカタカナ言葉や独りよがりの新造語を並べた、もっともらしいが中身のない原稿は表現者にとって恥である。「言葉の成金」とは、萩本欽一さんが教えてくれた戒め的な表現である。けだし至言だ。 もうひとつの理由は、(このときはこれがより問題なのだが)「パラダイム」という言葉自体が問題だったからである。 トーマス・S・クーン初出のこの言葉は、科学史上の「一定期間の規範」という意味で使われたが、そもそも科学的な用語として認知されているわけではない。 ところが、それが一人歩きして、今では「物の考え方」「概念」「計画」「潮流」「段落」等々、様々な意味合いで安易に使われ、もはやクーンの意図すら大きく逸脱してしまった正体不明の便利言葉に成り下がっているのだ。 おそらく、この大卒ライターは、「パラダイム」についてそこまで知っていたわけではなく、たんに、「格好いい言葉でまとめたい」という安直な気持ちで使っただけだと思う。 残念ながら、そういう見せかけを私は許さない。そんな「成金」ではなく、もっと地道な原稿を書いて欲しいのだ。 ところが、私の指示に彼女はこう答えてきた。「パラダイムという言葉を知らない読者たちの水準を合わせるという意味で、直すことにします」 負けず嫌いは勝手だが、こちらはそういうことを言ってるんじゃないだろう。 安易に、問題のある言葉を使っているという反省をしようとせず滑稽に突っ張っている彼女に、私は失笑を禁じ得なかった。 また、同じ原稿だったが、ある事実について、認識不足としかいいようのない間違いも見つかった。 そこで、そちらについても、正確な事実関係を説明した上で直すように指示すると、今度はこんな回答が返ってきた。「そのこと(正確な事実関係)は知っていました。ただ、もしもそうじゃなければ、という展開で書いてみても面白いと思ったんです」 さすがにこれには、開いた口がふさがらなかった。 誰も「ドリフのコント(もし……なら)」を書いてくれと頼んではいないのだ。 もちろん、これまたデマカセの言い訳であるろう。要するに、自分が無知であるという理由で突きつけられた直しは、ご自分のプライドが許さないらしい。 しかし、そんな「プライド」にいったい何の意味や説得力があるのか。 少なくとも使う方は、そんな自称インテリとは面倒くさくて金輪際お付き合いはゴメンだ、と思うだけである。 何より本当のインテリになりたかったら、間違いが発覚したところからが大事ではないのかな?「なんちゃってSOHO」は、男社会で勘違いした女性という生き物の象徴かもしれない。無知を恥じずに開き直って甘えるか、もしくは無知を強引に糊塗してつんのめっているのか……。 自分の能力は他人にも自分にもごまかせるものではないし、また何の努力もなく思い通りになれるわけでもない。 ありのままの自分を冷徹にとらえ、そこから地道に頑張るということを考えてみたらどうなんだろうか。学問がそうであるように、仕事にも王道などはないのだ。あったら誰も苦労などしない。
2003年12月23日
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以前も書いたように、弊社は何でも屋としていろいろなジャンルの仕事を引き受けている。政治家、財界人、技術者、学者や弁護士・医師などのスペシャリスト、さらには芸能人を含めた有名人へのインタビューもある。もう何百人会ったかわからない。 ある同業者によれば、インタビューという仕事は、ヨイショ仕事だから30過ぎたらやるものではないというが、私はその意見に賛成していない。 それはさておき、これからの日記は、私がインタビューした貴重な体験の一部もご紹介していこう。皮切りは、初期の青春ドラマと、某製薬会社のCMで、60年代後半から70年代まで青春スターとして活躍した岡田可愛さんだ。40代以上なら、いわゆる“カワイスト”だった人も少なくないだろう。 80年代以降は、結婚・出産で一時期芸能界をお休みし、復帰後はコメンテーターやレポーターを「副業」にして、夢一杯のアパレルメーカーを立ち上げた。曰く「幼稚園に子どもを送り迎えするお母さんたちに、廉価でおしゃれな服を作りたい。子育て中はおしゃれに無頓着でも仕方ない、という先入観を変えたい」 芸能人の事業といっても、岡田さんの場合、知名度を利用した名前貸しではない。自宅を担保に資本金を作り、名刺を持って自ら営業するところからはじめている。 岡田さんは言う。「自分の置かれている環境をデメリットと思わないこと。子供がいるからとか、夫の協力がないからとか、人のせいにしていたら自立はできない」 もちろん、女性だから不遇だとも思わない。「男社会を逆手にとる。女だからこそ入り込める部分もあるから」逆転の発想であるが、理にかなっている。そして「勝ち組を羨んでいる暇があったら、自分が勝ち組になれるよう頑張ればいい」とあっけらかんと笑う。 現状を嘆いたり、成功している人を妬んでも何もならない。自分の手にしたいものに向かって努力するしかないということだ。 といっても、子役出身の芸能界育ちだった「一介の主婦」にとっては、子育てとの両立も含めていろいろ辛いこともあったようだ。「失敗なんて怖くない」(ケイエスエス)という岡田さんの本に、具体的な苦労が書かれている。 中身は、夢をもったものの、世の中は厳しく、それだけではだめだった。挫折の中から、合理的な解決法を見いだしてここまでこれた、というような内容である。 ここにリンクされている只野一生氏も紹介されていたが、「失敗なんて……」には、いろいろな名言が出ており、中でも圧巻なのは、「何とかしなければ何ともならない」という一言だ。 その一言にこそ、岡田さんの世界観があらわれている。 岡田さんの話は、一見、夢に向けての精神論に見えるし、事実それは含まれているが、女性にありがちな、「願っていれば夢は叶う」式の待機主義をはっきり否定している。かといって、ただたんに「がんばれ、がんばれ」と発破をかけるだけの根性主義者でもない。精神的な欲求を大事にしながらも、合理的に解決するという立場をとっている。 そう、岡田さんはクリスチャンだが、人生の考え方は合理的な思考を貫く唯物論者である。「世の中には輪廻転生を信じている人もいますが、それを信じる人も信じない人も、今の自分の人生が1度きりという点では同じ事。1度しかない人生を悔いのないように過ごしましょう」という岡田さんの物言いには、「輪廻転生を信じている人」も反論はあるまい。 岡田さんのこうした考え方は、哲学的にも学ぶところが多い。 物知らずは、合理主義的な考え方と精神論、つまり、理性と感性を区別する。そして、理性的考えを冷たいもの、一方で、観念的な思考を崇高なもののようにとらえがちだが、そうやって理性と感性をバラバラにとらえ、対立するもののように位置づけることは、人間の思考や行動を現実的にとらえていないナンセンスな考え方だ。 人間は夢や希望があるから幸せに生きられる。しかし、脳内に描くだけでそれは獲得できない。実現に向けての課題に噛み合う努力から逃げてはならない。自己実現には、理性・感性、どちらも連関した形で必要なのである。 いずれにしても、私も子持ちの女性労働者という立場から、岡田さんには教わることが少なくなかった。 嫉妬とコンプレックスと猜疑心と他掲示板でのヲチスレ作り(笑)に血道を上げる一部「なんちゃってSOHO」も、消化試合人生に陥らずに少しは岡田さんを見習って欲しい……、といっても無理だろうなあ。ふふ。 ちなみに岡田さんは達筆である。事務所移転の直筆通知を頂いて、ビックリした。文字も、相手に与える印象としては重要なファクターであることを改めて教えていただいた。
2003年12月01日
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11月27日付の日記について、補足というか、質問への回答をしておきたい。 そうなるだろうと予想しながら書いてはいるが、やはりああいう刺激的な書き方をすると、必ずムキになって反論する方々がいる。>「バイブル本」は科学的じゃないと批判しているが、科学や法律だけで人間の>価値は決められない。喜ぶ人がいるなら、そういう本も「あり」じゃないのか。誰も、「なし」だとは書いていない。私(弊社)が、非合理なものは書く気がしない、と述べただけである。ちょっと考えて欲しい。たとえば、タバコが、あなたにとって必要な気分転換であり、個人的価値観としては「あり」だったとしても、「科学的」に見て、発ガン性を否定することはできない。個々人にとって価値のあるものでも、科学的にどうかという問題はまた別だ。私は後者の次元の話を書いている。どうか、そのくらいの読解力と理性は持って欲しい。>お前だって、ライターで食っているのだろう。>「バイブル本」だって儲かればそれでいいじゃないか。>もっと素直になれよ これも価値観の問題だろう。「儲かればそれでいい」という価値観をもつのかどうかだ。持つこと自体をとやかくいうつもりはないが、私の考えでは、そういう了見なら、物書きではなく、金貸しや土地ころがしをすべきだと思う。原稿を書くというのは、本来、市場原理に見合わない労働であり、その売り上げの期待度についていえば、博打をうつようなものといっていい。しかし、取材・執筆・編集などは、どう端折っても一定の労働力と労働時間が費やされるものである。つまり、労働は地味な生産活動なのに、利益は博打なのである。こんな割の合わない仕事はないだろう。本当にお金持ちになりたいのなら、お金でお金を稼ぐべきであり、労働で稼ぐうちは、本当の金持ちにはなれないと思うが?資本主義というのはそういうものだろう。私は、どうせ、そんな割の合わない仕事をしているのなら、その仕事の醍醐味を楽しむ方向に活路を求めることこそがナチュラルな価値観だと思っている。自分の仕事の出来で原稿料より1円でも多く版元に返そう。書籍代より1円でも多く読者に返そう。そんな仕事ができたら、すばらしいじゃないか。その「結果」として、「お金持ち」になれるのなら、そのときは喜んでならせていただきたい。そうした決意も努力もなしに、はじめから、「お金持ち」ありきというのは、思考の逆立ちした、非合理な欲ボケにしか私には見えないのだ。
2003年11月30日
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1年が回るのははやいもので、もう書店には、パソコンで年賀状を作る素材集が平積みになる季節である。最近では、デジカメとインクジェットプリンタによって、業者に出さなくても、写真付きのカラフルな年賀状が作れるようになった。それもあってか、家族や子どもの写真をデーンと大きく載せた年賀状が年々ふえてきている。だが、私は個人的に、そういう年賀状が好きになれない。もっとはっきり言えば、押しつけがましく、非礼ですらあると思う。こちらは、年賀状の差出人と付き合っているのであって、その家族と付き合いがあるわけではない。そんな写真を載せるぐらいなら、自分の近況を書くスペースをもっとゆったりとったらどうなんだ、と思うことは、決しておかしな感想ではないだろう。本人が写っているものならまだマシで、中には子どもだけの写真を載せているものもある。そうなるといよいよ興ざめである。だから私は、自分だけはそういう年賀状は作るまいと気をつけ、自分のことを書くように心がけてきた。しかし、それはそれで気にくわない御仁がいるようだ。全く厄介な話である。つい最近の話だ。それまでシンプルな年賀状を作ってきた私が、取材でお会いした有名人とのツーショットの写真と、その年に上梓した書籍の表紙の画像を入れた年賀状を作った。別に自慢するつもりではないが、1年の仕事報告といったところだ。ところが、それを出したら、かつて、エディタースクールでともに学んだ仲間からの年賀状が来なくなってしまったのだ。それまで10年以上も欠かさず近況をやりとりしていた仲なのに、だ。彼女の場合、子供も持たずに仕事に励んできただけに、一旗揚げたいという気持ちは私よりも強かっただろう。それだけに、子育てに明け暮れていた私がいつの間にか自著を出すようになっていたことに対して、嫉妬を抑えきれず、関係そのものを絶つという露骨な反応を示したとしか思えない。嫉妬する前にオノレの仕事と向き合えと言いたいところだが、男社会の中にあって、自分の頑張りだけではどうしようもない部分があるのかもしれない。しかし、だからといって自分のできない(しようとしない?)ことをやっている人を遠ざけるというのでは、イジケ人生になってしまう。彼女には、内心では嫉妬していても、涼しい顔で今まで通りのつきあいを続けてほしかった。そしていつの日か、今度は私を嫉妬させるような近況報告が欲しかったなあと思っている。ところで、同じ年賀状でも、専業主婦で3人の子供を持つ友達からは「活躍しててうらやましいわ」という返信が届いた。そこには続けてこう書かれていた。「私も働きたいけれど子供の世話で忙しいから」。こうしてみると、子供主体の年賀状は、仕事をしない、あるいはできないことの口実に使われている部分もあるのではないか。仕事を通して自己実現を果たしている人に対して、円満な家庭を自慢しつつ、内心の焦りや嫉妬を覆い隠すことができる。それに、少子化とはいっても、女性が結婚して子供を産むのは珍しいことではないから、家庭自慢は仕事自慢に比べて、相手の感情を逆撫ですることはまずない。ほどほどの関係を保ちながら、自分の立場も確保できる、子供年賀状は便利な手法なのかもしれない。
2003年11月29日
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書き屋生活は、もはや「駆け出し」とはいえない年数に達してしまったが、まだまだ未経験のことはたくさんある。 たとえば今年、はじめて「ビジネス書」なる分類の書籍執筆を経験した。「はじめて」と書いたが、正確には、原稿買い取りで一部分の分担執筆の経験はある。が、まるごと1冊の本を書いたことはこれまでなかった。 ある会社と、別の企画の話が進んでいたのだが、それが流れてしまったため、“埋め合わせ”のような意味合いで、先方から依頼されたものだった。「○○さんの方でも悪いと思って、せっかく話を持ってきてくれたんだし……」 弊社の社長もそう言うので、断るのが悪いような感じでその仕事は引き受けてしまったのだが、弊社がこれまで「ビジネス書」を手がけてこなかったのは、それなりの理由があった。 率直に言って、「ビジネス書」ぐらいくだらない仕事はない、というのが、弊社のスタッフの統一見解なのである。 誤解のないように、定義を書いておくが、ここでいう「ビジネス書」とは、経済動向分析や社会政策解説ものではなく、日常的思考や経験則からある事実判断を説く啓蒙書でもなく、いわゆる「お金持ちになれる」だの「できるビジネスマンになれる」だのという「バイブル本」のたぐいをさす。 啓蒙書と「バイブル本」の線引きは難しいが、ないわけではない。たとえば、「なれる」「できる」というたぐいの文句のついたものは「バイブル本」と思って間違いない。パソコンの図解本とは訳が違うのだ。 科学や論理学をちょっと知っていれば、それらが「非合理」であることは縷説は要しないだろうから、ここでは解説はしない。ただいえることは、それらの本は、いわば社会科学分野の疑似科学ともいえるシロモノということだ。 自然科学分野の疑似科学本は、トンデモ本としての認定が比較的しやすいが、(読者の)価値判断という“イチジクの葉”をまとう「ビジネス書」なる「バイブル本」は、その意味でオカルト本以上に始末が悪いと私は思う。 しかし、閉塞感で未来を明るく展望できない現代では、「手っ取り早く答えを欲しがる」風潮があるようだ。書き手、読者ともに、こうしたまがいものに安易に手を出す傾向がある。まあ、「ビジネス書」を何十冊買っても、競馬や競輪をやるよりは、少なくとも「読書」なんだからいいじゃないかと思うかもしれない。 しかし、そうしたものの愛読者になることで、“理性が傷害される”後遺症は、誰も考えていないのではないか。「ビジネス書」なる「バイブル本」の著者たちは、書き屋魂に賭けて、オノレの原稿に対してそうした問題はないと言い切れるのか? 冒頭の「ビジネス書」の仕事に話を戻そう。 私は、手持ちのネタを使いテキトーにまとめて、1ヶ月ほどで200ページを書き上げた。「こんな(つまらない)仕事」と思っているからさして力も入らなかった。売れなかったとしても別にいいや、とすら思っていた。 それが出版されたのが6月(初版9000部)。翌月にははやくも6000部の増刷を決めていた。 嬉しいかって? いや、アホか、と思った。 買ってもらった読者に悪いが、何となく日本人の水準が窺い知れた気がした。 謙遜でも偉ぶっているわけでもない。私の「ビジネス書」の仕事は、やはり「バイブル本」なんだなあという確認から一瞬脱力し、そして複雑な思いがこみあげてきたのだ。 読者は、私の筆力にお金を出したわけではない。もちろん、論理構成に納得してくれたわけでもない。 自分の価値観を自分で磨き、自分の人生を演出するといったことが一切できず、しようともしない人間が、自身を説得し、納得させてくれる対象として「バイブル本」が欲しいのだけなのである。 そう、「バイブル本」は存在自体が読者のニーズであり、読者自身が私の本で「脳内プレゼン」を勝手にやって、自身の脳内で本の価値を勝手に高めてくれているのである。「バイブル本」の客観的実体はどうでもいいのだ。 こうなると、もう「バイブル本」というより、「オナニー本」だ。 私にそれがあるかどうかは別としても、一般に、「バイブル本」は、書き手のカリスマ性と読者の“オナニー”で成り立っているのではないかと思う。 だから私は、アホか、と思ったのだ。 もちろん、「バイブル本」でも売れないものもあるだろう。しかし、売り部数の多い少ないにかかわらず、「バイブル本」が、そうした宗教的な価値観によって成り立っている面は否定できないのではないか。しょせん、「バイブル本」は「非合理」なのだから、そこに帰結するのは全くの必然なのだが……。 青臭く気取るつもりはないが、仕事は、やはりお金よりも充足感と誇りをもてるものにしたいなあ、と心底思った。
2003年11月27日
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弊社の社長は、某学術団体の大幹部である。その中で年齢は若い方だが、このたび、最長老を、事実上、ある役職から更迭した。どこかの首相とは違い、まわりくどい嫌がらせも、大向こう受けのパフォーマンスも一切ない、団体の現状と将来を慮って、自ら恨まれ役を買って出た直通告だった。人間関係その他を案じて、婉曲にくすぐるしかできなかった最高責任者にかわって、相手に対する理路整然とした主張は、たとえるなら、まさに「直球勝負」といえた。かけひき・腹芸当たり前の日本社会では、さぞや、勇気と理論武装が求められることだろうと思った。当日記の掲示板を見ると、「直球勝負」なる評価が書かれているが、これは、決して誉め言葉ではないと私は謙虚に、冷徹に受け取めている。ある同業者も、自分の日記の中で、「変化球」的構成の文章に高い評価を与えている。私は、それを、当日記へのあてつけも含まれていると解釈している。どのような書き物にいかなる評価を与えるかは、その人の価値観であるからとやかくいうものではないが、その人達に一言だけ、言い分がある。「直球」自体をちゃかすアナタ、まずは自分できれいな「直球」を書いてご覧なさい。きっと書けないだろう。書けないから、ジェラシーとコンプレックスで「直球」を矮小化しているのではないかな?野球選手の直球は、年齢とともに減速する。しかし、著述における「直球」は、磨きを掛けることで、より速く、より重く、より深いものになる。私は、そんな豊かな「直球」を放れる書き屋になりたいと思っている。
2003年11月15日
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前回募集したテープ起こし。さっそくご応募いただきましたが、選考の上、あるプロの方にお願いすることになりました。他の方にはお返事差し上げませんが、この書き込みで通知にかえさせてください。応募してくださった方々、ありがとうございました。心の真っ黒な人にチャンスを差し上げようと、あえて挑発的に書いてお待ちいたしておりましたが、案の定、また正々堂々とこれなくて場外で力んでいたようですね。でも、誰にも相手にされなかったと。いや、面白かった。
2003年11月14日
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本日は求人。学術団体のテープ起こし。宇宙物理学関係の講演&シンポジウム。合計2時間半やれそうな人は私書箱に立候補を。定期刊行物のレギュラー記事なので、ちゃんとできればまた発注します。ただし、非常識なことをしたらここで紹介させていただきます。(内心それを望んでたりして)私が何者かもわからないのに「人徳」云々を意見する馬鹿論は措くとして、そんなに人材に困っているなら自分に発注すればいいのに、と歯がみをしている人は多いらしいので(笑)そのうぬぼれを、とりあえず信用してあげます。できると思う人はどしどしご応募ください。
2003年10月29日
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10月12日の日記で誹謗・中傷者について触れたが、おせっかいか、はたまた親切心か、別のホームページで私の駄文に釣られたおっちょこちょいの自称SOHOがいるとの情報をくれた人がいる。どこかのWeb掲示板で、当サイトの定点観測がかなり長く続いているらしい。けだし、「ゲスト」のログが多かったわけだ(笑)私の参加していないところでコソコソ悪口なんて、気が弱くて暇なんだなあ。私本人と直接やり合わなければ、本当のことは何も見えてこないだろうに。そのときにも書いたが、誹謗・中傷なら哀れな人間と捨て置ける。ただ、ミスリードについては一応、きちんと答えて抗議の意を公然としておこうと思う。中身の方だが、要は、もはや手垢にまみれた感のある「騙されるお前も悪い」論のようだ。この「批判」は、以前からメールなどで入ってきていた。たぶん同一人物か、その人間と同水準のノウミソの自称SOHOの主張なのだろう。今回の「悪い」根拠は、レディたぬきには「人徳」がないんだそうだ。だから、「あるべきSOHO論をぶち上げたところで」「出会う人々(SOHO)の質は変わらない」と書き殴っている。書き手の意図とは別の意味で「面白い」主張だ。その論法では、強盗殺人も通り魔も、被害者の人徳に原因があるということで加害者は免罪されることになる。警察も裁判所も要らない、実に便利な思考だ(笑)いくら何でも、Webの日記で「私」の「人徳」はわからないだろう。実在する受注者の問題を、観念論で発注者の「人徳」へ無根拠に還元するオカリティは、論理的評価に値しないので文字通り論外として、そもそもこの日記を貫くテーマは、「あるべきSOHO論」などという話ではない。その程度の構想なら、初めからありふれた「SOHO支援サイト」でも立ち上げている。論理的思考力に難のある自称SOHOを哀れんで、もうすこし端的に書こう。自称SOHOのことを批判的例に挙げているが、書きたいのはSOHOについてではない、ということだ。SOHOなる定義自体が無意味とはいわないが、それが少なくとも零細企業や主婦にとって社会政策的にいかなる役割で使われているか、ということを考えると、私は、そのへんに転がっている「SOHO支援サイト」のように、「SOHO」と限定して何かを語るという立場はとれない。主婦を駆り立てる「SOHO」という釣り文句は、しょせん、産業構造の再編の中で労働者の賃金切り下げを達成するためにうまれた耳障りのいい「零細企業や主婦の無権利的労働」の美辞的表現の憾みを否定しきれないからだ。美辞的表現は、総じてその本質を隠すねらいと効果がある。(たとえば、売春を「援助交際」と呼ぶとか)そうした認識をもってすれば、「SOHOは弱者」と特称命題でがなることがいかに無意味かわかるだろう。産業構造全体をみなければ、労働的「弱者」がなぜ存在するかという構造をきちんとつきとめることはできない。ところが、既存の「SOHO支援サイト」はどうか。そうした認識には全く及ばず、それどころか働く者としての自覚すら啓蒙できているとはいえない。SOHOなる立場は、主婦が気軽にできる、あたかも「労働特区」であるような勘違いをしている者すら「育成」している。それは、その管理者達が不勉強というだけでなく、そもそも「SOHO」という枠内で何かを語ろうとすることへの限界でもあると思う。だから、はたらくこと、もしくは商行為とは何かいう、原理原則に立った話が必要なのだ。「SOHO」なる主語にこだわる必要はない。むしろ、お気楽主婦に妙な誤解をさせるだけである。それにしても、「弱者」を気取る自称SOHOの夜郎自大を指摘することが、「あるべきSOHO論」としてしか読めないというのは、どういうドタマの構造をしているのだろう。論理を無視し、文章から書き手の本意を斟酌することもなく字面から“見たまま”の興奮をする単細胞な書きっぷりからは、理性の欠落した皮膚感覚の人格しか想像できない。ましてや、ここ数回前からは、ご覧の通り、個別的な自称SOHOの非常識をすでに昇華した次元の話にうつっている。そんなことも読み取れない読解力では、このページを閲覧することはもはや時間の無駄。ただちに定点観測は降りた方がいい。いずれにしても、本人の知らないところでの悪意むき出しのミスリードばらまきは迷惑千万だ。まあ、“陰口遊び”自体が、そもそもしょぼいたわむれであると私は思う。そんなことに人生の貴重な時間を費やせるユニークな生き方もその人の価値観だから、同情して止めやしないが、せめてもっと自分の水準にあったサイトを対象にした方が、多少なりとも“書き甲斐”らしきものを実感できるだろうとアドバイスしておく。
2003年10月21日
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楽天日記に限定しても、ライター・編集者・Webデザイナー・レイアウターなどクリエイティブとされている職業の人が開くサイトは少なくないようだ。いろいろ考え方はあろうかと思うが、やたら、「売れる」だの「儲ける」だのと、利益の話ばかりで、「自己実現」という視点が抜け落ちている人のサイトは興ざめする。誰も儲けたくないとは言わない。ただし我々の仕事は、あくまでも利益は「採算」であって「仕事の成果(自己実現)」の本質ではないだろう。「採算」と「自己実現」は、連関するが、イコールではない。もし、利益こそ、「採算」だけではなく唯一最大の「自己実現」だという人がいるのなら、その人は本作り(もしくはWeb作り)ではなく、投資家や金貸しでも始めた方がいいと私は思う。非難しているのではない。その方が理に叶っていると言っているのだ。儲けだけを考えていたら、もしくは儲け以外の価値観がないのならとてもじゃないが本作り(もしくはWeb作り)ほど不合理な商売はない。だが、不合理さに価値を求められなければ、この商売は続けられない。以前、夜中のあるテレビ番組で、今は芸能界を引退した上岡竜太郎氏がこんなことを言っていた。「何日もかけて、スタッフをどっさりつかって手を掛けた本を(自分が読者として)パラパラっと短時間で読みあげる。こんなに贅沢なことはない」至言である。ひっきょう、我々の仕事の客観的な基礎は、そうした「贅沢」への奉仕にある。市場原理では辻褄を合わせられない労働力や価値観を前提としているのだ。板前が独立して店を構えたとしよう。そりゃ、企画・宣伝やマーケティングは経営上、必要である。しかし、本当の自己実現は、客に喜んでもらえるうまい寿司を食べさせることにあるのではないか。そこへのこだわりが抜け落ちてしまったら、少なくとも板前が店を開く意義は半分以上失われたといってもいいだろう。編集・制作の現場の人間なら金勘定にまつわる話ばかりではなく、いい原稿を書くための話をもっと積極的に行ってもいいのではないのか。ライターはもちろん、Webデザイナーでもレイアウターでもその点は同じである。しかし、「楽天日記」を見る限り、そうしたサイトは少ないように思う。本稿の第3回で、「時給はいくらですか?」とのたまう自称SOHOのことを書いた。「請負仕事だろう。アンタ、この仕事わかってんの?」とののしるのは簡単だし、ふざけたトーシロに対しては必要な段取りでもある。しかし、たぶんそれだけで問題は解決しないのだろう。そのピンボケぶりは、その人固有のものというよりも、この業界全体が、自己実現という本質的価値にこだわることを困難としており、それが、自称SOHOをして、ゆがんだものに映っているのではないか、という危惧が私にはあるのだ。
2003年10月19日
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政党機関紙の連載漫画、オダ・シゲさんの「まんまる団地」が1万回を数え、話題になっている。 連載媒体では、東海林さだおさん、植田まさしさん、佃公彦さん、いしいひさいちさん、加藤芳郎さんといった新旧の新聞連載漫画家と連載回数を比較しながら紹介。椎名誠さんは、「とてもレベルの高いユーモアとアイロニーの精神を持っていて、ずっとファン」というメッセージを寄せている。 この項の主旨にこだわって見た場合、オダさんと、そうしたロングラン漫画家たちとの間には、決定的な違いがある。オダさんは漫画家専業ではなく、28年間にわたる連載期間の大半を、会社員と二足のわらじを履き続けていたということだ。 連載開始時には、まだ「日曜大工」という言葉が当たり前のように使われていたが、オダさんに言わせると、自分はそれをもじった「日曜漫画家」だったという。平日は会社の仕事に明け暮れ、休日にまとめてネタを考えるからだ。 しかし、日曜大工はしょせん趣味に過ぎない。オダさんの漫画は何といっても日刊紙の連載だ。絶対に原稿を落としてはならない。日曜も祭日もないのだ。ネタが浮かばないときや本業の仕事が忙しいときなど、逃げ出したいときも何度もあっただろうなあと思う。 それが、いまや、(一介の労働者が)漫画史に名を刻み込むまでになった。オダさんを信頼し、任せた編集者の桁外れの度量には驚くばかりだが、オダさんの仕事がその期待と信頼に応える結果を出してきたということだろう。「まんまる団地」の1万回達成は、編集者の慧眼とオダさんの誠実さによる合作といっていい。 オダさんの場合はいささか特殊な例かも知れないが、たとえ「二足のわらじ」「副業」でも、まじめに長く続けることで、いずれそれが注目されることもあるし、その継続性が評価されることもある、ということだ。その一点においても、オダさんの偉業は十分意義がある。私はそう考える。 で、ミエミエの結論になるが、「主婦」を逃げ道にしているそこのSOHOさん。あなたがくすぶっているのは、あなたの立場や環境のせいばかりとは限らない。そもそも評価される、自己実現できる機会自体を獲得すべくあなたは努力したことがあるのか。 ヘーゲルは「小論理学」の弁証法で、「偶然」と「必然」の関係について説いている。あなたが自己実現できる機会をいつ得られるかは「偶然」性に依存することを否定しきれない。しかし、その機会を獲得するための日常的努力は「必然」的なものであり、責任転嫁することなく、自分自身がその責を負うものである。 願っているだけでは「必然」は作れず、「偶然」に出会っても自分のものとすることはできない。現実に噛み合う諸課題を地道に処理する中でこそ、一足飛びにブレイクできるチャンスと、それを維持できる力量も備わる。オダさんが漫画の連載を任され、続けたのは「偶然」的要素とともに、オダさんのがんばりという「必然」があってこそである。「必然」も用意せずに「偶然」を待つのは、図々しいだけでなく不毛なのだ。
2003年10月14日
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色々な方の楽天日記を拝見していると、「荒らし」や誹謗・中傷の類に悩んでいる方が少なくないようだ。一口に「荒らし」といわれるが、中には本人にとって具合が悪いだけで、第三者として客観的に見ると、ただの異論・反論や辛口の意見に過ぎない場合があるので、一概に「被害者」のカタをもつ気になれないこともある。だが、誹謗・中傷は別だ。これは二つの意味でまずい。ひとつは、文言自体が法的にまずい場合。つまり、名誉棄損だ。引きこもりの在宅ワーカーは、この重大さがわかっていない。一度、訴えられて痛い目にあえばいいのに、と私は思っている。もうひとつは、かりに法的にはセーフでも、そもそもそんなことを書いている、その人達の“すさんだ心”が哀れでならない。そんなことして何になるのか? 惨めな人たちだ。誇りもなく矜持も自覚せず、情のおもむくままに書き殴るケダモノ根性。それが嘆かわしい。ここにリンクしてくださっている方々の日記によると、私書箱メールに匿名の罵倒を投げ込んだり、日記の著者が知らないところ(Web掲示板)で陰口を書いたりして悦に入っているチンケな手合いがいるという。私の経験で言うと、私書箱メールでは、私を誰か別の人間と勘違いして何か怨嗟らしきものをごちゃごちゃ書いたのが2通ほどきたことがある。本人でもないし、身に覚えもないので、すぐに消してしまった。まあ、匿名メールだから返事の出しようもないのだが。掲示板には、中傷というより、意味のない落書きをされたことが2度あった。そうした私の経験は、どちらかというと少ない方らしいが、いずれにしても、犯人は、日記で自分の欠点や恥を暴かれた本人か、もしくは似たような経験があるから、自分のことを書かれたような気がして過剰に反応している人なのだろう。どちらにしても、そんなことで憂さを晴らすとは、安っぽい人格と人生ではないか。「中傷は人をめいらせる あのマザーテレサでさえも、『もっとも困難な仕事は、中傷と闘うことだった』と述べている。 人は誰でも、妬みや僻みや恨む気持ちを心の底に宿している。聖人君子に言わせれば、それらは“卑しい感情”とでもなるのであろうが、それを持っていることを認めてなお自制するのが理性ある大人ではないだろうか」 こう書いているのは、「鬼平犯科帳の神髄」(文藝春秋社)という本を上梓した里中哲彦さんだ。里中さんによれば、長谷川平蔵も世間の中傷と闘った者であり、無言のうちに「己のやるべきことを自覚して、そのことにひたすら打ち込む」という答えを出しているという。同感だ。昨日発売の「噂の真相」で、拙著の広告が出稿されている。大仰なコピーだったが、個人的には私の今後の道筋が見えてきた、やりがいのある仕事だったので、それが表現されていた点が嬉しかった。クレームは来るかもしれないが、それだけに背負っているものが大きいなあと、心の中では武者震いしている。ま、そういうことなので、くだらない中傷者は、笑って無視できる心境だ。あなた(方)も世間に何かを問える大きな仕事をしてご覧なさい。そしたら相手をしてあげよう。自分の仕事で、明るく楽しく激しい議論をしようじゃないか。
2003年10月12日
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ここ数回、日記では、文章力にかかわることに触れてみた。それは、自分が今、「文章力」に悩んでいる、ということを白状するものでもある。それはともかくとして、ここ数回の日記に対して、ある人が、こう異を唱えてきた。「文章のうまい下手なんか関係ないよ。作品はネタが第一さ」うまい文章を書くことができない人ほど、そしてその充実感を経験したことがない人ほど、「うまい」ことを軽視し、「うまい」かどうかにこだわること自体を矮小化する。この人が、文章力に価値を感じないのは勝手だが、そこに合理的な根拠はない。では、逆に「ネタ」はどうでもいいのか。むろん、そんなことを言うつもりもない。「ネタ」は作品を創るおおもとである。要は、「文章力かネタか」という対立項で考えることが非合理なのである。考えてもみて欲しい。「ネタ」をどう表現するかは「文章力」だ。いくらネタが良くても、表現が粗末なら伝わらない。それだけではない。「ネタ」をどう判断するか(事実判断)、どう料理するか(分析)、という視点そのものが、実は「文章力」と不可分の関係にある。逆に、「文章力」(の向上)がネタの発掘センスに磨きをかける。つまり、「ネタ」と「文章力」は、別のものであるが、互いに分かつべからざる関係にあると考えた方が合理的であろう。「ヘーゲル」の「小論理学」に、「科学」についての定義が書かれている。現象から本質を抽出し、その本質で改めて諸現象を裏付ける。その絶え間のない営みから本質を発展させ、抽出すべき現象をより効率的に選別していくのが科学的思考の体系であると。「ネタ」と「文章力」の関係も、連関している点では同じことがいえないだろうか。
2003年09月28日
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以前、ご紹介した「困ったチャン主婦SOHO」の1人は、かなりの厚顔だった。単行本のレイアウトをお願いしたのだが、その人はレイアウトの基本知識もないまま仕事を受け、満足に何も作れないまま、結局、途中で自ら「降ろさせてください」と脱落していった。こちらにとっては、大変迷惑な話だった。その後、日程的に相当厳しい中、本は何とか仕上げたのだが、本ができてしばらくたってから、その人から「第三者を介して私の取り分を交渉に行く。払わないのならしかるべき措置も考える」というメールが来た。私が返事を出してもよかったのだが、不正や筋の通らないことは些細なことでも絶対に許さない弊社の社長が返答した。「今回の“たわむれ”は、見なかったことにしてあげます。本気なら、その言動に対する応分の責任は覚悟の上でいらっしゃい」その人は2度と連絡をよこさなかった。自分が脱落したいきさつを承知の上で、そういう請求自体が呆れる。まして「第三者を介して」だの「しかるべき措置」だのというのは、少なくともきちんと交渉をしようとする者の表現ではない。最近流行の、「ダメモト詐欺」の感覚だったのだろう。脅し言葉を含んだ架空の請求書を送りつけて、相手が払ったら儲けものという手法だ。もっとも、詐欺師は、最初から悪いことを承知でやっているが、この主婦SOHOは、そもそも無知で遊び半分だからそういう感覚すらないのだろう。「悪徳SOHO劣伝」というタイトルがお気に召さない主婦SOHOの方々もいらしたようだが、こういう手合いこそ、意図や自覚を問うまでもなく、悪徳以外の何ものでもない。さすがに、こんなことは後にも先にもその人だけだが、弊社では、こういうケースでいちいち神経を使わず紋切り型に対応できるよう、弁護士に以下の3点についての相談をしてある。1.何もできず途中で脱落した者に支払う必要はない2.不特定多数に会社の悪口を言いふらしていたら名誉棄損で訴えることができる3.できない仕事を引き受けた無責任者に発注したことは、民法上の「錯誤」にあたるから、受注者に損害賠償を請求できるそれぞれに注釈や留保はつくからすべての具体例に当てはまるわけではないが、おおざっぱな回答は次の通りだ。1.○2.○3.×3の×は、「無知で遊び半分」な人間に法的に立証できる悪意を問えないということだ。つまり、「騙すつもりではなく、仕事をなめただけの人」が責められるのは、モラルとしてであり、法律で取り締まることはできないということである。以前、あるSOHO「支援」サイトの掲示板で仕事のしくじりに、発注者から損害賠償をほのめかされたというSOHOの相談に対して、主宰者が、感情的に「そんなことはできない」と答えていたのを見たことがある。その限りではそうだが、本当に「SOHO支援サイト」なら、そういうことは、本人のためにももっと丁寧に回答すべきではなかったのだろうか。たしかに法的にはできない。しかし、それはそのSOHOが無謬だからではない。「しくじり」の原因をきちんと考えること。「しくじり」によってその仕事に関わっている多くの人が迷惑すること。さらに、そうしたことの積み重ねが、自分たちの立場を貶め、市場を狭くしてしまうこと。それらは法の解釈に関係なく自省すべきこと。そこまで、きちんとアドバイスすべきではなかったのか。男社会の中で、女性は、ただでさえ、社会人としての「ふるまい」や、社会のシステムについての理解が十分でない。机一つ、パソコン一つのSOHOでも事業者には違いないのだ。そうした面での「支援」を、なぜしてあげないのだろうか。
2003年09月27日
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来月、私個人が著者(ペンネーム含む)になっている12冊目の本が出る。テーマの関係で、今までのものとは比べものにならないほど緊張している。言論の意味と価値が問われるものになりそうだからだ。それはともかく……、社長個人の著書をのぞけば、会社として手がけた物を含めて、ISBN(国際標準図書番号)の一桁目に初めて0がつくものになる。まさに“何でも屋”としていろいろやってきたので、過去の仕事は、この「一桁目」がさまざまなのだ。そういう仕事ぶりに対して、業界で先輩面した人の中には専門性を感じない私(弊社)をとやかく言う向きもある。私は、そういう人の小言は、ひとつのことしかできない人の「ひがみ」と聞き流している。ひとつの分野に殉ずることで何かを表現したいという価値観もあれば、さまざまな分野の仕事を通して何かを表現したいという価値観もある。前者は、大学教授やその他該当する専門職あがりの人がやっていればいいことで、たかがインディ編プロ(のスタッフ)に、そもそも専門性もハチノアタマもあったものではなかろう。そんな私も、その昔、あるビジネス誌の専属ライターにならないかと、スカウトされかけたことがある。「繁栄によって平和と幸福を」という英語の頭文字をとった出版社の出す雑誌に書いたとき、そこの副編集長だった人がハンターだった。その人が、新たに発刊されるビジネス誌の編集長として他社に引き抜かれ、その際、自分が知っているスタッフを揃えたかったらしい。元副編集長は私をこう口説いた。「あなたは、文章は下手だ。しかし、まじめにやっている。私は、そういうあなたにチャンスを与えたいんだ」もともとさして気が進まなかった話だったが、その一言ではっきりお断りする決心が付いた。「下手」と見下げられたからではない。「下手」だという評価を待遇の駆け引きに使いたがっていた本音が見えたからだ。本来なら、アナタなんか使えないところで使ってあげるのだ、だから仕事に見合わないギャラでも勉強と思いなさい。そういう「言葉の裏」が解釈できたのだ。ちなみに、その待遇は、10年ぐらい前で週給8~9万ぐらいだったと思う。専属ライターとしては妥当なところか。ま、その後、いろいろあって、「週給8~9万ぐらい」が羨ましい時期も経験した。何より、そこで専属ライターをやっていれば、その分野の人脈もできたかもしれない。しかし、「やはり野におけ蓮華草」でよかったのだと思っている。正直、いろいろな分野の仕事をするというのは、ビジネスライクに考えれば合理的ではないかも知れないが、楽しい。下世話な雑誌でも、学術的雑誌でも違和感なく原稿を仕上げるというのは、それはそれでひとつのタレントだと思っている。もちろん、特定の分野だけを扱う「効率のよい」仕事も、選択肢として否定はしない。要は、自覚的な価値観であればいいということだ。で、このページの趣旨に話を戻すがライターとか編集者、イラストレーター、レイアウターも含めて主婦SOHOの人たちって、そもそもそういう価値観をもって仕事を考えているんだろうか。もっと端的に書くと、何のために、何をしたくてその仕事をしているのか言えますか?「納期は必ず守ります」「丁寧に仕事します」なんて当然の宣伝文句を改めてうたわれても、「そんなことしか言うことないの?」と、発注者としては逆に懐疑的になることもある。発注する側は、ビジネスというものをよくわかっていて、かつ良心的な人であればあるほど、受注者を消耗品のように使い捨てるのではなく、お互いがハッピーになれる関係を構築したいと思っているものだ。そうした関係を構築できるだけの深みが、SOHOのアナタにあるのかどうか。発注者の質(悪徳かどうか)は大事だが、受注者としての質の方もまじめに考えていただきたい。ビジネスのよい関係を築けるかどうかはその意味では対等なのだ。
2003年09月19日
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今春に出版された、私が筆者のあるパソコン関連の書籍は未契約のままの出版だった。 版元と契約に関する話し合いがなかったわけではない。ただ、制作の途中で向こうが一方的に作った契約書を渡され、「ドラフトだから検討しておいてくれ」と言われたままだった。 出版契約書はどの出版社ともかわすもので、会社によって多少文言は違うが、それほど大した違いはない。だから、一通り目は通したが、今回もそうだろうという先入観があった。 印税やおおよその発行部数については、発注の段階で口約束ではあったが決まっていたし、善し悪しは別として、契約書を「形だけ」のものとして軽視するというのは、この業界の因習のようなものだから、未契約状態で仕事をするのは、おかしな言い方だが業界的に非常識とは言い切れないのだ。 しかも、発注の段階で版元は出版日まで決めている。そこに間に合わなくなって迷惑はかけたくないし、まずは原稿を作ることが先決だと考えた。先方も、「検討しておいてくれ」と言いながら契約書の話をしてこなかったので、脱稿かそれに近い時点でするのだろうと解釈した。そういうことはよくあることなので、判断に決定的な落ち度はなかったと思う。 ところが、こちらには何の断りもないまま、つまり、契約書について話し合うこともなく本は出てしまった。そして、本が出てから間もなく、先方が、編集部によるコラムを入れたので、著作権を案分したいと通告してきた。 こいつらアホか、と私は我が耳を疑った。どうせいつかは出るものだから、なし崩しの出版はともかくとして、「案分」はないだろう。 本文に付随するものとしてしか成立しないコラムをたてに、その著作物の権利を案分などという話など聞いたことがない。そのコラムとやらも、私が先方の要求を拒否したり、応じられなかったりしたわけではなく、編集部が著者である私に無断で入れたものであった。法的な解釈としては編集権を超える疑いすらあり、そもそもそれ自体が問題だった。 権利が案分されれば、当然印税も案分される。先方は支払う金自体を少なくしたいようだ。 コラムの挿入箇所や、原稿の直し部分の全てに付箋をつけて、「私どもはここまでやりました」というアピールといえるものを先方は送りつけてきた。だが、その手間はなかなか大変だ。むしろ、案分されるであろう印税では見合わないぐらいだと私には考えられた。 私は、後出しジャンケンのような版元の「案分提案」が気に入らなかったので、未契約であることを抗議すると、「文句があるんだったら最初に言え」と言ってきた。 最初も何も、「ドラフト」状態で話し合いすらせずにそっちが出版してしまったのだろうが。 ふん。そうやって居直るのならそれでもいいだろう。それならこっちも本気を出そう。 私は、せこく著作権を案分したがる版元に、目先の金以外のねらいがあると直感的に考え、ドラフト契約書を改めて読み直してみた。 その書籍は、あるアプリケーションソフトの図解手順解説書だったのだが、契約書の第4条には、そのソフトに関する執筆を他社で行うことを禁じている。 これだけなら「排他条項」といって、パソコンに限らず一般の書籍でもある話(類似書禁忌)なのだが、その次の次(第6条)を見て驚いた。その会社の凄いところは、何と将来にわたっても(つまりそのソフトが改訂されても)それを禁じていたところだ。あまり非常識で考えられないことなので、読み流していたのだ(つまり見落としていた)。 たとえば、「Windows 3.1」の本をそこで書いたとしよう。すると、もう「95/98/Me/XP」などに関する本を他社では一切書いてはならないという契約である。 冗談ではない。著者は出版社の奴隷ではないのだ。そう。これはまるで無権利の奴隷契約だ。 考えてもみてほしい。ソフトは視点や使い方(つまりテーマ)によって適した出版社が異なる場合がある。そんな縛りをつけられていたら、いくら別の企画ができても、それを出すことができなくなる。また、ソフトのバージョンアップというのは、プログラムを全面的に書き換える場合があるから、改訂された時点で、もはや別のソフトと見なせる場合がある。さらに、上位バージョンが出たからといって、その出版社が私に発注する保証はないし、その会社が社内事情からパソコン関連の本を出さなくなるということもないとはいえない。 こうしたことを考えると、その会社の特異な「排他条項」はおよそ常識的とは言えなかった。 私は、参考までにその会社が出している他のパソコン関連の書籍を見た。そのとき、この出版社の異様な「排他条項」と、私の本に対する強引な「案分」の意味が確認できた。 その会社の本は、バージョンアップされた場合、新たに原稿を作るのではなく、下位バージョンの本の原稿をそのままイキにして、新しい機能の説明だけを付け足して上位バージョン用の「新しい本」として売っているのである。もちろん、著者は同じ人である。 この方法なら、「新しい本」であっても、著者には1冊分まるまるではなく、書き足し「差分」の印税だけを支払うというけちくさいことができるし、そのためには、著者と原稿を自社に抱えなければならないわけだ。 私は、この異様な排他条項を先方に抗議した。すると、「そんなことはどこでもやっている」という返事。私は自著は10冊以上出し、その中にはパソコン関連書籍もあるが、この出版社のような契約はしたことがないと再度抗議すると、またしても「文句があるんだったら最初に言え」という居丈高な回答をしてきた。 結局、ドラフト契約書をタテにしたいようだ。それなら、それを逆手にとってやろうじゃないか。 私は、未契約の状態で本が流通していることで強気に出た。「契約書にハンをついていないし、合意の事実もない以上、『未契約』の出版であることは間違いない。そちらに契約の合意を目指す気がないのなら、著者の権利として流通している分はすべて撤収していただく。できなければ著作権侵害で訴える」 先方は急に何も言ってこなくなり、2ヶ月後、最初の約束通りの印税を振り込んできた。弁護士と相談でもして、黙って支払った方がいいと判断したのだろう。 本は今でも売られているが、未だに契約していない。その状態で当初の約束通りの印税を支払っている以上、私の要求が通ったと判断できる。上位バージョンの本を私が他社で出しても、向こうが文句を言ってくることはないだろう。未契約だからこそ、相手のいいなりにならなかった好例(?)である。 もちろん、こうした例ばかりではないし、この場合、基本となる印税自体は決めていた上でのトラブルだったから、うまくいったという面はあるかも知れないが、いずれにしても、契約書は「あればいい」のではなく、その内容が大切ということである。多少でもSOHOの方々の参考になれば幸甚だ。
2003年09月15日
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休刊が「読売」のニュースにもなっている、「噂の真相」の岡留編集長と、先日、ある件でお会いした。校了日なのに、次々打ち合わせをこなしている。とても、半年後に終わってしまう雑誌とは思えない。「ぼくはジャーナリズムの原則を大事にしたい」岡留さんは言う。そこには、言論人として言論の自由を守ると同時に、「書き屋」として、言論の自由を楽しんでしまうという発想も含まれている。「~といっておこう」など記事中に見られる独自の技芸は、記事を、たんなる事実の羅列や自分の世界観の強引な押しつけではなく、「読み物」として仕上げるという、プロの書き屋の矜持といい意味での「遊び心」を感じるのだ。いま、ライターを名乗る人の中で、原稿を書くときに「『読み物』をこさえるぞ」と思っている人ってどのくらいいるのだろう。「情報さえ入っていればいいだろう」「文法に間違いさえなければいいだろう」という消極的な「合理主義」に陥ったつまらない原稿を書いている人が少なくないのではないか。しかし、それでは、「芸」を貫いた「読み物」をお作りして原稿料をいただく、というプロの「書き屋」としての前提にこだわる姿勢が希薄ではないのだろうか。私が「ウワシン」と出会って、20年にはなるだろう。その頃は、パソコンもワープロもインターネットもなく、ライターや編集者はみな、足と頭とペンだこのできた指を使って仕事をしていた。それが90年代に入り、鉛筆と原稿用紙からワープロ、そしてパソコンに「生産手段」を移行する中で、文章の質もかわってしまったのではないかと私は思う。コピー・カット・ペーストが自由にできるようになったことで、センテンスごとの文法に間違いはなくても、原稿全体のリズムが考慮されていない、文字通り継ぎ接ぎの原稿が増えている。そして、単語やことわざ、言い回しも間違った理解のまま使われてしまっていることも、安易なコピペの弊害の一つだと思う。かつて、名コラムニストだった青木雨彦さんは、私にこう教えてくれたことがある。「ぼくは原稿用紙に向かったら一発勝負ですよ。書き加えや書き直しは一切しません。全体から構想を練っていくから、何を書くかを決めたらあとは論旨と文章のリズムに気をつけるだけ。ひとつひとつの文に過剰にこだわることで逆に全体のリズムが崩れることの方が作品としてはよろしくない」この「リズム」というのは、文章作法の技芸だ。こいつを会得するのは、私のような不器用者にはなかなか大変だ。ハウツー本を読んでも身にはつかない。何度も何度も編集長やデスクに書き直しを命じられ、トイレで泣き、鉛筆を消耗し、ゴミ箱を蹴りつぶしながらオノレに覚え込ませたものだった。その点、デジタルデータは、「加筆修正」も、「引用」という名の「借用」または「盗用」も簡単にできるから、一見まとまった文章は誰でも書ける。(だから勘違いした自称ライターが後を絶たないのだが……)ただそれによって、全体と部分のバランスやリズムを考える緊張感が、原稿用紙時代に比べると明らかに散漫になっている、と原稿用紙時代を経験している私は感じる。もっとも、その時代を知らない人たちは、そういう緊張感とはそもそも無縁だから、原稿を書くというのは、継ぎ接ぎ・コピペで何が悪いと思っているのではないか。だが、デカルトの「方法序説」ではないが、「全体は部分の単純な総和ではない」という「要素還元主義」の憾みは文章作法にもいえることであると私は思っている。今でも、週刊誌を見ると、読み物としての「芸」が残っている記事にお目にかかることがあるが、ほとんどの雑誌は、情報をたくさん詰め込めばいい原稿、といわんばかりの、センスも芸もへったくれもない「文の塊」になっている。80年代後半以降の「軽チャー」路線の中で、出版媒体全体の性格がそうなってきたからやむを得ない面もあるが、そんな中でも、「ウワシン」の記事にはそうしたリズムや「読み物」作りのツボを心得ているように思え、私はずいぶん勉強させてもらったのだ。来年、休刊になったら、岡留さんにご苦労様の花でも送ろーっと。
2003年09月13日
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「SOHO支援」を自称する人々(サイト)は、しばしば「フリーランスは弱者だから発注者に契約書を作らせろ」と主張する。 しかし、ここにリンクしていただいている某氏も日記に書かれているように、私はこの紋切り型の主張には留保をつけておく。 裁量労働の場合、契約書の作成は、それがトラブルの際に奏功することもあるが、逆に受注者側の権利を合法的に制約される口実にもなる。むしろ、そのケースの方が多いのではないか。といっても、作るなということではない。内容が問題である。 少なくとも、発注者側が一方的に提示した契約書に受注者がそのままのっかることは賢明な態度ではない。受注者側が専門家と相談して知恵を絞ったものを提示し、それを認めさせてやっと相手と五分五分といったところだろう。それでも集金できる保証はどこにもない。「SOHO支援」サイトを見ると、まるでSOHOだけが弱者のような錯覚に陥りかねない主張をしているが、本来、商行為というのは、前払いの物品販売でもない限り、集金する側が不利にできている。現代の法律は「ない袖は振れない」ことを認めているからだ。何も「弱者」は「SOHO」だけではない。つまり、集金の問題をSOHO固有の問題としてとらえることは一面的である。当たり前の話だが、それをわかっている主婦SOHOはどれくらいいるのだろうか。 前置きが長くなったが、次回は、弊社が先方の作った契約書にサインしなかったことで、不当な値引きを免れた体験を書いてみよう。 出版・編集業界というのは現象的には実にいい加減な世界で、当初は口約束で話が始まり、ある程度校了のめどが立った時点で、もしくは出版物として流通してから、先方が企画出版や業務委託の契約を求めてくることが少なくない。 そのとき、契約の内容が「なんだ、最初とは話が違うじゃないか」と思っても、発注者の言われるがままにサインしないと、お金がもらえないのではないかと思い、泣き寝入りでサインしてしまう人もいると思う。 が、「金」は向こうが持っていても、それが動くおおもとの「原稿」の権利はこっちが持っている、という立場を強気に押し出せば、きちんと集金ができるという話である。(この項続く)
2003年06月20日
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先月後半は数年ぶりに、ある大手編プロからの発注(つまり孫請け)で、ムック制作の仕事をさせていただいた。 弊社はいくつかの理由から、企業(代理店)や出版社など、おおもとからの直請けを原則としている。「原則」には「例外」がつきものだが、弊社の場合、定期的に意図した「例外」を作る。そのねらいのひとつは、プロダクション他社の“請け方”を知るためだ。 クライアントの要求はどこまで「イエス」と言えるのか、言ったとして料金はどうなるのか。もちろん全てがわかるわけではないが、仕事を進めていく上で担当者と話をすれば、編プロとしての常識や相場を知るよすがになる。 で、今回の仕事は、幸か不幸か、ちょうどその目的にピッタリの展開になってしまった。構成案から台割、カンプまでOKが出ているのに、再校の時点で文体を変更させたり、おおもとのクライアントが求めるレイアウトのコンセプトがそのときになってから出たりするなど、“今更”というような「修正」があった。 その編プロとクライアントとの交渉はわからないが、少なくとも弊社にとっては、「そうか、ここまではやっぱりやるんだな」と、「イエス」の範囲を勉強させられた。 ところで、今回のように最初の打ち合わせになかった作業が生じた場合、外注を使っているといささか面倒な展開になることが多い。それも仕事のうち、と柔軟に考えてくれる人ばかりではないからだ。 私の知っているフリーライターは、書き直しが生じると新たに原稿料の上乗せを要求するし、資料の提供が遅れればちょうどその日数だけ納期も遅らせる。文句もドンドン言う。 私が今までお願いしたSOHOの「デザイナー」を名乗るレイアウターの中にも、わずかな納期のずれと、仕事に対する本質的でない齟齬を理由に、仕事そのものを途中で投げ出す人もいた。 たしかに、相手の都合で変更した部分について、その尻ぬぐいはできないとする態度は間違いではない。だが、そのように、「労働力」を杓子定規に主張する態度というのは、この仕事が「裁量労働である」という前提を見失ったものとはいえないか。 出版業界では、というと大上段に構えた物言いになるが、少なくとも私の経験では最初に取り決めた通りに仕事が進むことはまずない。大抵はスケジュールがずれたり、方針が多少変わったりする。それは、必ずしもクライアントのわがままばかりが原因ではなく、自然的経過と割り切らなければならないこともある。我々の側が、クリエーターとしてのプライドから、むしろ当初の予定を変更してもここはこうしたい、と考えることだってある。 SOHO関連の掲示板などでは、「仕事の内容が最初の約束と違うが、SOHOは弱い立場だからいいように使われている」と嘆く声が聞かれる。職種やケースにもよるので一概にその賛否は言えないが、少なくともそのような機会にあたった人は、仕事に対する自らの価値観とクライアントとの力関係をその場でもう1度考えてみるといい。 いいものを作ることが目的なのか、労働力を切り売りする感覚なのか。後者なら、その質で価値が変わらない別の仕事(例;時間給パートなど)をした方がいいと思う。 資本主義社会は露骨な市場社会なのだから、「いいように使われている」のは、その人の仕事が市場で“その程度”であるということにほかならない。「弱い立場」に「よりまし」の改善はあり得るかもしれないが、「弱い立場」であることに変わりはない。資本主義社会では、ひっきょう、「弱い」という「質」を変えるのは自分自身にあることを忘れてはならない。
2003年05月04日
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この時点で話し合いでの解決は無理と判断し、内容証明郵便を出すことにした。これは「誰に対してどういう内容の手紙を送ったか」を郵便局が証明してくれるものだ。内容証明郵便は相手に「法的手段をとりますよ」という意思表示にも使われる。これだけでビビッてすんなり払う場合もあるらしい。 しかし、くだんの出版社はそんなヤワな相手ではなかった。 弊社が次にとった方法は、簡易裁判所からその会社に「支払い命令」を出すことだった。現在は霞ヶ関の旧都庁に集中管理されているが、当時は東京の各地に簡易裁判所があった。私は、その会社のある新宿の簡易裁判所へ行き、出版社に対して「支払い命令」の手続きを行った。「命令」の対象は、未払い原稿料、内容証明郵便料、そして、「支払い命令」発行の印紙代である。弊社の例では、この発行日は1月28日だった。「支払い命令」を受け取った会社は、その金額を支払うか、2週間以内に「異議申し立て」を行わなければならない。どちらも行わないと「仮執行」になる。この場合、金額自体には異議がなくても、時間稼ぎのために「異議申し立て」をする往生際の悪い発注者もいる。今回例に出しているこの会社もそうだった。まあ、ここまでもつれる場合には、「異議申し立て」はされるものと覚悟した方がいいだろう。「異議申し立て」をされると、自動的に本訴訟(裁判)へと移行する。本訴訟へ移るための手続きとして、「補正命令」という手続きを裁判所で行う。「補正命令」は2月23日に裁判所から送られてきている。これを受け取ってから裁判所に行く。 それを受理され本訴訟に移行すると「事件番号」が割り振られる。そう、「債権回収」は民事だが、民事であっても「(原稿)売買代金請求『事件』」なのである。この手続きから裁判までにさらに一ヶ月程度かかる。 第1回目の裁判(口頭弁論)の日。出版社社長は来なかった。すっぽかしたのだ。とことん不誠実な人間である。裁判は肝心の相手が来ないのだから、こちらの言い分が全面的に認められるだろう、と思っていたのだが、そうはならなかった。1ヶ月後に2回目の裁判を開くというのだ。 1ヶ月後。2回目の裁判には社長も出てきた。今度はこちらの要求通りの金額が認められ、すんなりと和解が成立。ただし、一度に払うのは大変なので「毎月5万円ずつ」ということになった。 支払ってもらえることになったのはいいが、「和解」なので、「補正命令」にかかった印紙代、すなわち裁判費用はこちら持ちである。悪いのは出版社なのに、とどこか釈然としない。だがまあ、金がとれるならよしとしよう。この「和解書」正本が被告に対して送られたのが7月1日だ。つまり、「支払い命令」の手続きからここまで半年を要している。 しかし、これで一件落着とはいかなかった。今度はその月々の支払いが滞るようになったのだ。ここまでもつれる場合、往々にしてこういうことはある。 この場合、また裁判所に足を運ぶ。今度は「差し押さえ」の手続きを行うのである。「差し押さえ」といっても、相手の銀行の口座なりなんなり、集金に値するものを見つけなければならない。弊社の場合には、「仕事の資料を差し押さえます」と通告した。部外者にとっては一文の値打ちもないものだが、出版社では資料を取られたらそこで仕事はストップしてしまう。 はたして出版社はその手紙が届くやいなや、全額まとめて振り込んできた。「資料差し押さえ作戦」が功を奏したのである。なんだい、ちゃんと金はあるじゃないか。毎月5万ずつチビチビ払うのも嫌がらせだったわけだ。支払い完了が、翌年の5月である。 それ以前の口頭による催促なども含めると、1年半ほどかかっていることになる。必要な資料を集め、裁判所へ何度も足を運び、精神的にも肉体的にも負担を強いられた。 今なら少額訴訟でやりあうという手もあるが、これは段取りが多少違うだけで、基本的に通常の訴訟と変わらない。何より、相手が異議を申し立てて通常訴訟に持ち込んでしまえば同じ事だ。 数百万円の債権なら、裁判してでも取り返すべきだろう。だが、数万から十数万程度の債権のために裁判するのは見合わない。そのあたりの見定めをきちんとしておかないと、債権を回収するころには身も心もボロボロ、ということになりかねない。経験者からの善意の忠告である。
2003年04月05日
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SOHO関連サイトの掲示板には、いろいろなトラブルや悩みが書かれている。中でももっとも多く、またもっとも重要なのは、「仕事をしたのに金が支払われない」という「債権回収」に関する書き込みだ。 Web掲示板の中には、わざと訴訟をしたがっているとしか思えないような勇ましい書き込みに満ちているところもあるようだ。勇ましく債権回収を行い、勝訴して世間の注目を集められると目論んでいる人もいるらしい(笑)。 しかし、それは幻想であると言っておこう。「債権回収」裁判というのは、何も原稿料未払いの場合だけではない。サラ金やクレジットカードによる支払いなど、裁判所が1日に何件も裁かなければならないほどあり、とくにめずらしいものではない。 何より、フリーランスのライターやデザイナーの受ける仕事は、たいていは数万、もしくは数十万単位であり、専門家への相談や準備、そして長期にわたる裁判を行っていたら、とてもじゃないが見合わないものなのである。 さらにいえば、そこで本当に勝訴できればまだいい。かりに、支払いを不当に渋る発注者の言い分が認められるような判決が出たらどうなるか。判例主義の原則によって、その後、同様の争いが生じた場合、発注者は判例をタテにして支払い渋りを合理化してしまうのである。そう、一人のSOHOの浅はかな功名心による裁判権乱用が、業界全体に迷惑をかけてしまうこともあるのだ。 といっても、裁判がどのようなケースでもダメ、というわけではない。 商行為の存在を争ったり、著作権や肖像権、名誉毀損などを争ったりする場合などは裁判で決着をつけるしかないだろう。 弊社も、いろいろな仕事を経験する中で、そうした経験も何度かあった。 そこで今回は、弊社が裁判で債権を回収した話を紹介しよう。 この例で行っている手続きは、「債権回収」の手続きとしては基本中の基本であるから、多少は参考にしていただけるのではないか。 10年前、弊社はある出版社から月刊誌の連載の仕事を受けていた。支払い方法は末締めの翌翌々月10日払い。ただ、支払い方法はその時々で小切手手渡しだったり振込だったり様々で、支払いが遅れることもたびたびあった。要するに、もともと金にルーズな会社だったのだ。 弊社では支払いが多少遅れても、それまでのつきあいもあるし、ビジネスは信頼関係だから、と特に催促もしなかった。月末締めの翌翌々月10日払いだから、順調に支払われても常に3ヶ月分の売掛金が発生する。支払いが1ヶ月遅れ、2ヶ月遅れしているうちに、半年分の債権がたまってしまった。金額にしておよそ80万円である。 そんなとき、連載で一緒に仕事をしているカメラマンと話をする機会があったので、支払いが滞っている件について聞いてみた。「いや、僕はちゃんともらっているけど」 うむむ。カメラマンには払っておきながら、こっちに払わないのはどういうわけだ。すぐに出版社の社長に電話をかけたが、いつも留守で話ができない。ようやくつかまえたと思ったら、笑いながらのらりくらりと話をはぐらかして要領を得ない。 誤魔化されては困るので、端的に回答を求めた。「そんな話はどうでもいい。今現在、80万支払われていない。そのことが問われているんでしょう」 すると、それまでヘラヘラ笑っていた社長は急に私を怒鳴り散らした。「なんだと! テメーこっち来い! バカヤロー!」 そして電話はガチャンと切られてしまった。支払い交渉はできそうにもない。 弊社はここで話し合いを断念し、法的措置を検討した。(この項続く)
2003年04月04日
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「どうすればお仕事をもらえますか」SOHO関連サイトのBBSを見ていると、必ずといっていいほど目にする質問だ。 この人達は、仕事を受けるのはいいが、そのあとのことまで真面目に考えているのだろうか? とにかく仕事を「ゲット」してしまえば、あとは何とかなる。そんな見切り発車で仕事をしようとは思っていないか。「何とかなる」が「何とかする」ならまだいい。必死で頑張って帳尻を合わせてもらえれば文句はない。 しかし、自称「SOHO」の場合、それは発注側に尻ぬぐいしてもらえばいい、という甘えであることが多いのだ。 20代の女性デザイナーに、ある広報誌の表紙デザインを依頼したときのことだ。クライアントの意向は「立体的なオブジェクトの組み合わせで」という簡単なものだった。デザイナーにそれを伝えると「では3Dソフトを使ってみます」との返事だった。 数日後、3案のカンプがあがってきた。早速クライアントにそれらを送り、検討してもらうことにした。数日後、「このデザインで行きましょう」と戻されたカンプにはこう書き添えてあった。「曲線の部分がでこぼこしているので、滑らかにしてください」 オブジェクトは楕円のような形をしていたが、3Dグラフィックにありがちな多角面のゴツゴツした感じが残っていたのだ。 私はデザイナーにその修正指示を伝えると「よくわかりませんがやってみます」という頼りない返事が返ってきた。次の日、届いたメールにはこう書いてあった。「ソフトの機能としてはできるそうですが、私はまだよく使いこなせないのでできません」 なんと彼女はあっさりと敗北宣言してしまったのである。 急いで電話をかけ、なぜできないのかを聞いたが「あれこれやってもできない。私には無理」の一点張りだ。仕方がないのでデータは引き取り、社内でその後始末をすることになった。 それから数日後、立ち寄った書店で3Dソフトのマニュアル誌を手に取った私は卒倒しそうになった。なんとデザイナーが出してきたカンプとまったく同じ3Dオブジェクトがそこに載っているではないか! 幸い、採用されたデザインとは違うものだが、これはいったいどういうことなのだろう。書籍の奥付を見ても彼女の名前は載っていない。つまり著作権の侵害である。 ここへきて私はようやく合点がいった。たぶん、彼女は表紙デザインの仕事を受けてから、あわててそのソフトを使い始めたのだろう。操作に習熟していないために、カンプを3案出すのが間に合わなくて、既存のデザインを流用したに違いない。 彼女は、カンプの体裁さえ整っていればいいだろう、と安易にそのソフトを使ったのではないか。そして自分の未熟な部分はこちらで補ってもらえると考えているのだ。 著作権を侵害したうえに仕事を途中で投げ出すくらいなら、最初からそのソフトを使わなければいいだけの話だ。レタッチソフトやドローソフトでも立体的に見えるオブジェクトを描くことはできる。はじめから手にあったソフトを使えばいい。途中でコケるのがわかっていて無理に背伸びをすることもないだろう。その見栄っ張りがどれだけ人に迷惑をかけることになるか、わかっているのだろうか。 もちろん、仕事の性質上、新しいソフトを使わざるを得ないときもあるだろう。だが受けた以上は腹を決めてやり抜くことだ。メーカーのサポートに電話をかける。ユーザーサイトに相談する。市販のマニュアルを買う。いくらでも方法はあるだろう。 要は何が何でも自分の責任においてやり遂げるという覚悟を持っているかどうかだ。彼女に限らず「わかりません」と簡単に口にするSOHOは多い。甘えるのもたいがいにしてほしいと言いたい。プロとして恥ずかしくないのか。
2003年04月02日
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守秘義務は、医師やカウンセラーなどが負う義務としてよく知られている。患者やクライアントのプライバシーを知り得る立場にある者は、それらを外部に明かしてはならないということだ。だが、医師やカウンセラーに限らずどんな職業であっても、職務上知り得た情報は守らなければならない。自社の新製品情報、経営状態、顧客情報などを第三者に口外する社員はいないだろう。仕事をしていれば当たり前のことだ。もちろん、SOHOとて例外ではない。 入力作業をおもに請け負っている20代の主婦は、この「守秘義務」に無頓着なSOHOだった。彼女は新薬の臨床データの入力業務を終えたばかりだと言って、聞かれもしないのにその内容をべらべらと話し始めたのだ。新薬の名称にはじまり、被験者の年齢や既往歴、投与回数や臨床結果などを話したあと「……っていう副作用が出たんだって。やっぱり新薬は怖いわねえ」と言う。近所の医師さえ知らない新薬の「秘密」を知ったことで興奮しているらしい。誰かに話したくて仕方がないようだ。私は彼女に仕事は出せないなと思いつつ「今話したこと、守秘義務に触れるんじゃない?」と聞いてみた。するとこんな答えが返ってきた。「べつに大したことじゃないでしょう」 その製薬会社の社員ならば、開発に関わっていなくとも軽々しく口外はしないはずだ。ではSOHOに守秘義務の意識が育たないのはなぜだろう。 まず考えられるのは、そもそも守秘義務がなんたるかを知らないということだろう。一言でいえば「無知」なのだ。自分の扱う情報など、守秘に値しないと考えているケースもこれにあたる。この場合、たしかに、一介の主婦である彼女にとって、新薬の臨床データは興味本位に語る茶飲み話にしかならないのかもしれない。しかし、守秘義務の対象は「その仕事をしなければ知りえなかった情報」であり、価値があるかどうかは関係ない。価値がない(と思う)から垂れ流していい、ということでは断じてないのだ。 次に考えられるのは、口外したりデータを知人に見せたりしたところで、大した問題ではないとたかをくくっていることだ。だが情報はどんな形で流出するかわからない。そしていったん流出してしまえば、それを回収することは不可能に近い。情報が一人歩きしてしまってからでは取り戻すことはできないのだ。臨床データの例でいえば、その情報漏洩によって、製薬会社の信用が大きく損なわれることもありうる。そしていったん失われた信用を取り戻すことは難しい。彼女が製薬会社と直請けではなく、間に何社かはさんだ下請け、孫請けの立場なら、それらの会社の信用もなくすことになる。情報の扱いはそれだけ慎重でなければならないということだ。 そしてこれはあらゆる問題に通じることだが、仕事をお小遣い稼ぎとしか考えていないお気楽さがおおもとにあるのではないかと私は見ている。しょせん10円、100円の仕事だから、自分たちの仕事の責任など、ごく小さなものだと考えているのだ。 たとえ10円の細かい仕事でも、それらはより大きな仕事を完成させるために必要な仕事のはずだ。クライアント、下請け、孫請け、曾孫請けなど立場の違いはあっても、ともにプロジェクトを進めるための一員なのだ。いくら末端にいようとも、そうした大きな部分とのつながりを忘れてはならない。単価10円の仕事をしくじったからといって、10円払えばいいというものではない。単価10円の仕事はより大きな仕事の一部分だ。自分はそれを担っているのだという誇りと責任感を、彼女のようなSOHOたちには持っていてほしい。その自覚があれば、守秘義務などはことさらクライアントから念押しされなくても守るべきものとわかるはずだ。
2003年04月01日
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在宅ワーク情報の「女性のパソコン」(白夜書房)というムックが発売された。当サイトも取り上げたいと編集部からメールはいただいていたが、発売日も知らされておらず、他の方の日記で初めて知ることができた。 ちょうど書店に行く機会があったのでパラパラと見てみたら、切手ぐらいのサイズで隅のほうに小さく小さく掲載されていた。立ち読みしただけなので正確には引用できないが、「クライアントからの意見にも耳を傾けてみよう」といったニュアンスで書かれていた。 1/5頁程度のカコミのさらにその一部分なので、字数に制限があるのはわかるが、一言お断りしておくと、当方の意図は、「クライアント側の論理」を振りかざすことではない。 たしかにこれまでの日記には、発注者の立場から非常識な「SOHO」への鬱憤を書き散らかしたものもある。だが、ふがいない「SOHO」たちの問題点を通して、プロとして働くというのはどういうことなのか、仕事に大切なのは何かを問い続けてきたつもりだ。変な話かもしれないが、日記を読み返しながら自分自身の襟を正すこともある。 編集部が、当サイトを「クライアントの一方的な言い分」と解釈したのなら、それは私の筆力が足りないということなのだろう。しかし、もしもそうでないとしたら、あの紹介文は読者に禍根を残す誤解を与えはしないだろうか。 当該ムックのターゲット層は、これから在宅ワーカーとして働きたい主婦、あるいは在宅ワーカー初心者のようだ。まさにSOHOとしての常識を身につけ始めた人たちである。 その人たちに対する読み物として、「発注側には発注側の、請負側には請負側の言い分がある、立場が違えば言い分も違う」と受け取られかねないような構成はいかがなものか。 それはまさに哲学でいう「相対主義」の立場であり、合理的真実にヴェールをかぶせる役割を果たしかねない。何に対する「合理的真実」か。すなわち、この社会構造の中でSOHOとして働くことの真実である。 たとえば、世間知らずの在宅ワーカーたちのインモラルなことやルール違反、技術不足などを当方は指摘してきたが、それは全て「立場と言い分の違い」という逃げ道を作ってしまわないのだろうか。 何よりそうした「相対主義」の主張は結局、中小編集プロダクションと在宅ワーカーが相容れない対立関係にあるという価値観を生む。そうやって無限の対立を作り出すことは、結果的に誰を喜ばせることになるのか、書籍・雑誌媒体であれ、ホームページであれ、本当にSOHOを「支援」する意図があるのなら、そこを見失ってはならないと思う。「そうはいっても、しょせん発注側は強い立場だ。弱い立場のSOHOをあげつらっているだけではないか」という人もいるだろう。 私、というより弊社は吹けば飛ぶような編集プロダクションであり、より大手のプロダクションや出版社からの仕事を請け負っている。つまり、発注者でもあり請負者でもあるわけだ。「Small Office」という点では弊社もSOHOなのである。 そこで、今後はサイトの名称も「悪徳SOHO劣伝」から「悪徳SOHO・無法ビジネス列伝」と変更し、請負者の視点からの話も少しずつ加えていきたいと思う。SOHOたちが最も知りたがっている債権回収の話も、差し障りのない範囲で紹介していくつもりだ。
2003年03月28日
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3月18日(火)の日記についての感想が、一部誤解も含め多数掲示板に寄せられているので、具体的な例をひとつご紹介しよう。 20代後半の女性が、ライターをやりたいと相談に来た。「私は家庭内暴力、ドラッグ、中絶、売春、その他いろいろな経験をした。だから、ひとの興味を引きそうなネタを書かせたら自信がある」 直接仕事とは関係ないが、執筆の動機としてこんなことも言う。「世間から見れば規格外の自分が、ちょっと好きという気持ちもある。そんな自分をみなさんにわかって欲しい」「変わっている自分が好き」というのは、女性、とくに若い人に多く見られる傾向だ、ということは前回ご紹介した心理学者も話していた。 その女性がどういう事情で何を書きたいかはその人の自由であり、とやかく言う気はない。ただし、それをビジネスとするには道順というものがある。 この女性は、ライターとしての実務経験は、当然ながらない。それだけではなく、何をしたいのかというビジョンもない。 特定の人物や出来事に焦点をあてたノンフィクションライターになりたいのか、実用書の単行本を作りたいのか、旅行雑誌の取材記事を作りたいのかもはっきりしていない。 とにかく、「書く仕事がしたい」と単純にくり返すばかりである。 私はこの時点で面倒になってしまった。 が、相談者のせっぱ詰まった気持ちに免じて、「仕事」は「アート」ではないということを断りながら具体的に提案した。1.出版社や編集プロダクションに就職するのがいちばん。2.在宅にこだわるなら、テープ起こし、清書、データ入力など、地味に思える仕事から在宅仕事としての「ふるまい」を経験すること そして、可能性は少ないが、という条件付きで3.原稿や企画書を直接持ち込むという方法もある。 ということも紹介した。 するとその女性からは何の返事も来なくなった。諦めたのかと思ったら、どうやら3を目指しているらしい。若いのに、どうして地道な努力をしようとしないのだろう。 この女性は、手っ取り早く成果を手に入れたい根っからの山師なのかも知れないが、かりに間違って「ひとの興味を引きそうなネタ」の企画があたったとしても、職業として「ライター」を続けるのは難しいと私は思っている。 そもそも、「変わっている自分」というが、そんな人はそうそういない、と私は思う。 たしかに、その人の「ネタ」は「普通の人」から見て経験の機会が少ないことかも知れない。しかし、そんなことを言うのなら、たとえばキャリア公務員として出世して大臣になれる経験、スチュワーデスになる経験、ラーメン屋の出前持ちの経験。これらだって経験している人の方が圧倒的に少ない。世の中はそういうものに満ちている。 何より、本当に「変わっ」ているかどうかを対外的に表現できるのは、経験や職業そのものではなく、それらを通して何を伝えられるかである。筆力が全てなのである。「ドラッグやったよ」「いい気持ちだったよ」。これだけ書いたって、そんな既知の描写。いまどき衝撃的でも何でもない。 それに、「みなさんにわかって欲しい」というのもくせものである。ライターは、読者にその読み物を楽しんでいただいたり役立てていただいたりするサービス業であり、自分の価値観を押しつける仕事ではない。 もちろん、珍しい体験それ自体でひとつの読み物が絶対にできないとはいわない。筆力がどうであろうが、経験自体の面白さと勢いで1冊書き上げてしまうこともあり得るだろう。しかし、その後はどうするのだ。出版者も読者もワンパターンをおもしろがってはくれない。「いい年した女がまだ馬鹿やってるよ」と笑われるのが落ちである。経験の面白さで一発あてても、筆力がなければ「さらなる一歩」を踏み出すことはできないだろう。書くことにあたって、どのような大志を抱こうが、また願おうが自由である。しかし、物事は自然現象であれ社会現象であれ、原因があって結果がある。筆力のない者は書く仕事を持続する必然性を有しない。これは原則中の原則である。 私は、職業として継続的に書く仕事を希望する人には、ぜひ遠回りも厭わず、きちんとした道順で歩んで欲しいと思っている。 学問に王道なしというが、仕事も同じではないだろうか。
2003年03月26日
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実用書の出版にあたって、テレビなどにもよく出演するある心理学者に話をうかがった。テーマはやる気とビジネス。私は、ついでというわけではないが、悪徳商法と在宅ワーク希望者についてうかがってみた。その心理学者曰くこの情報化時代にイマジネーションが足りないから騙される。その根底には、在宅ワークが楽な商売という幻想が横たわっているのではないか。そもそも「自由業は実は不自由業」。時間が決められていないということは、逆に常識的でない時間に働くこともある。時間の拘束が約束されないということは、逆に仕事がしたくてもない場合もある。つまり、使う側にとっての「自由」業であるという視点が抜け落ちてやしないのか。けだしもっともである。さらに私は考えた。安易な在宅ワーク志願は、パソコンが普及しただけでなく、インターネットができたことで、「楽」に情報を得られるから、それを利用してデータを適当にまとめれば、自分にも何か書けるのではないかと思っているのではないだろうか。それ自体が安易なだけでなく、いつしかインターネットでのみ情報を得る方法論が定着してしまうのではないだろうか。取材経験のある既存のライターならともかく、そうでない人がインターネットに頼ることについて、私は批判的である。なまじ、インターネット「だけ」でできてしまう仕事などを経験すると、余計にそうした誤解が生じてしまうのだろう。先日、ライターの採用で面接に来た女性は、自分がいかにインターネットを使っているかを自慢していた。だから情報収集には絶対の自信があり、インターネットで「すべて」の調べものを済ませているのだと。ダイヤルアップ時代には数万円の通信費を使い、現在は常時接続環境でサクサク使っていると鼻高々だった。「自分の足を使って、人と会うというのは苦手ですか?」私がこう尋ねると、その人は、まるでバカにしたように答えた。「企業の広報と会ったって、サイトの情報以上のものはでてきませんわよ」私はその人を採用しなかった。しようと迷いもしなかった。態度が悪かったからではない。自分の足を使おうとしないこの話し方で、書き手として失格であると判断したからである。この人は、もともと全く別の仕事をしていて、インターネットが普及してからライターの仕事を始めたという。取材・調査はイコールネットサーフィンという認識になっているのも無理はなかった。だからこそ、使えなかった。インターネットで情報を集められることはいい。しかし、その質をこの人はどう客観的に判断できるのだろう。きれいに整理されたホームページだけで真実がわかるというのか。インターネットによる情報公開は、自分にとって都合の悪いことは行わない。汚職で辞職や逮捕された政治家のホームページに、自分の“不適切な”行動を正直に書いた人はいないだろう。また、誰でもすぐに公開できる仕組みであることから、悪意がなくても事実誤認や誤謬があったり、更新が遅れて情報が古くなったりしている場合もある。法的にも未整備であり、責任の所在も曖昧だ。そうした不完全かつ不確実な情報を収集したところでまとめた記事など、間違いの拡大再生産を起こしかねない。何より、取材は「企業の広報」だけではないし、「企業の広報」だって、力のあるライターなら会って特ダネをとれることもある。生きた人間との対面を軽視するこの人は、本物の取材者ではない。2月25日(火)の日記で、ホテルに確認せず、既存の本で料金調べを済ませてしまった女性の話を書いたが、その誤りは、こういう自信満々のインターネットマニアにもおそらくあてはまる。実際に企業に確認した結果、「ホームページの通りです」と言われたのなら、そのときはじめてそれを使えばいいのだが、インターネットで「すべて」すませるなどという人は、そしてそれに自信を持っている人は、そういう裏取りの手間に重きを置かない。少なくとも、こちらではそう判断せざるを得ない。インターネットの範囲でわかる真実もある。しかし、それが理解できるのは「足を使った取材」を知っている者だけだろう。いずれにしても、自分の足を使って人と会い情報を収集する。既存のメディアに発表されていないものを少しでも見つけようとする姿勢が書き手であるなら大切ではないのか。お金の取れる仕事というのは、そういうものではないのか。
2003年03月23日
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先日、このホームページの掲示板にこんな書き込みが寄せられた。「請負った側がしくじった場合の損害を保証する保険はあるか?」 これには以下の回答がよせられた。「不慮の事故に対する保険はあるが、パソコンやソフトが壊れたからといってデータまでは保証されない」 言われてみればその通りである。プロである以上、「パソコンが壊れました。データも無くなりました」では通用しない。 なぜこんな書かずもがなのことを日記のテーマにするかというと、パソコンのトラブルで納品が遅れる主婦SOHOが後を絶たないからだ。 SOHO歴5年のデザイナーは、納品日の夜になってからこんなメールを送ってきた。「パソコンの調子が悪くてデータが壊れてしまったようです。原因不明です」急いで電話をかけ「いつ頃までにアップできそうですか」と尋ねると「復旧の目処がたたないのでわかりません」と言う。 それは困る。すべてのデータが壊れてしまったのか、一部は生き残っているのか、納品が遅れるだけなのか、遅れる場合こちらはいつまで待てばいいのか。それがわからなければ手の打ちようがないではないか。 トラブルそのものは不可抗力の面があるとしても、それを言い訳にするのはプロとして恥ずかしいことだ。自分の使う「道具」のメンテナンスや準備も仕事のうちだからだ。メインマシンと同じ環境のサブマシンを用意しておく。作成中のデータは毎日数カ所へバックアップして万が一の被害を最小限に食い止める。 二重三重にセーフティネットを張っておくべきであろう。
2003年03月22日
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業界の端くれながら、現役として仕事をしていると、「ライターになりたい」という相談を受けることがままある。2月14日(金)に紹介した「エッセイスト希望」の主婦などもそうなるかもしれない。 その人たちは、おおむね次のように動機を語る。「作家になれないまでも、せめてモノを書く仕事がしてみたい」 中には、もっとあからさまなものもある。「将来作家になるステップとして、ライターをやってみたい」 プランはその人の価値観なので、とやかく言う気はない。ただ、なぜそんなに書く仕事にこだわるの? と尋ねると、次のような動機を述べる人がいるのは鼻白だ。「自分は人間関係を作ることが苦手なので、部屋にこもって書く方がいいと思う」「私は普通と違う個性的な人間なので、きっと面白いことが書ける」 とくに女性に後者のケースが多いのだが、こういう動機ではライターとしてはつとまらないだろう。 前者のケース。取材はどうするのだ。ギャラの交渉はどうするのだ。仕事がうまく流れるように業界の人たちとの人脈づくりやお愛想はどうするのだ。ライターもビジネスなのだ。「人間関係を作ることが苦手」な人の逃げ道として選択することはできない。 何より、お金をいただいて(自分の作品を)不特定多数の人々に読んでいただく「サービス業」なのだ、ということが、その人たちの意識にはないんじゃないだろうか。 個性的な人間(と自称する人ほど本質的には凡庸なのだが)が個性的な文を書いた。これだけでは商品にならない。「個性的」な空間に読む者を誘える筆力があるかどうかが大切なのではないか。「私は個性的なのよ」という自己分析や気取りに立った視点を押しつけられても、読者には嫌悪感しかもたらさない。 もちろん、中には「マイ・ワールド」がクライアントにウケ、さらにクレジットの入った仕事が認められ、自分の本を出すということもある。 しかし、それはたまたま「アート」が市場で評価されたというだけのことで、我々の仕事それ自体は「アート」ではない。 そのへんの認識が曖昧だから、名もない一介の主婦が「エッセイ書きたい」なんて言い出すんじゃないだろうか。「作文」と「作品」は違うのに。
2003年03月18日
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この日記を始めてから、掲示板やメールなどでいろいろご意見をいただいている。賛否両論とはよくいったもので、毀誉褒貶相半ばする状態ではあるが、「否」の方は残念ながら論理的でないものも少なくない。以下はおおまかなパターンから私の回答をつけてご紹介しよう。・被害者ヅラしているが、(いい加減な在宅ワーカーに)騙される側にも責任がある 上記の論理をわかりやすいたとえ話にすれば、窃盗事件の原因を被害を受けた側の責任とする観点から述べるものだ。善意に見ても「両成敗」といったところか。「鍵が甘かった」とか。泥棒に入られたい家の造りなのがいけないとか。 しかし、論理的に考えてみれば、窃盗事件は窃盗をする人間がいるから起こるのである。当たり前の話だが、盗み自体がすでに悪いことなのだ。 つまり、当該日記に対する上記のような意見は、おおもとの悪を免罪する意図を勘ぐらざるを得ない。 しかも、在宅ワーカーの側は、「騙す」つもりではなく、本当に無知や世間知らずや能力不足から間違いを起こしていることがほとんどだ。「加害者」の問題点として述べることは、その人達へのアドバイスにもなるのだから、決して道理のない糾弾ではない。 もちろん、私にたいして、「ここをこうすれば騙されなくなる」という具体的なアドバイスをするというのなら話は別だ。が、上記のような意見に限ってそれはない。きっと、過去に「加害者」として「騙した」過去があるから、その古傷でもうずいて、カッとなって反射的に論理的に奇妙な反発を書き殴ってしまうのだろう。・主婦に仕事をやらせる方がどうかしている これも、半分は上記と同じ答えである。誰であろうが看板を出して仕事を受けたのなら、仕事ができなければその人の責任は免れない。 考えてもみて欲しい。博士の学位を取った大学教授だろうが、中卒の主婦だろうが、店のものをちょろまかせば同じように捕まる。「教養がない奴を店に入れた方が悪い」という論理は成り立たないだろう。 もう半分は、(私が)誰を使うかは価値観の問題であり、それは私の批判的指摘における客観的な判定とは次元の違う問題だということである。ややこしい言い方をしたのでこれも例を挙げる。 ひと頃話題になった偽装牛肉というのがある。騙された消費者に対して、「最初から最高級の黒毛和牛を買っておけば騙されることはないのに」という意見があったらどう見るか。 騙された消費者たちはこう思うだろう。安い国産牛を買うことを支持してくれなくても結構だ。だけど、だから偽装を免罪するという論理にはならないでしょう……と。 黒毛和牛を買うか、国産牛を買うかはその消費者の価値判断である。国産牛が、黒毛和牛のようにおいしくなかったとしても、国産牛を買った消費者は文句は言えない。しかし、どちらも商品として出ている以上、たとえ(安い)国産牛だろうが、流通や原産地表示など、決められたルールに則って商品としての体裁は守らなければならない。 この日記の論点は、いうなれば、和牛と国産牛の差でもなければ消費者の価値判断でもなく、「偽装」それ自体を問題にしているのである。・タイトルや本文の一部に不適当な表現がある これは素直に聞き入れ、反省したい。客観的な見地から書いているつもりが、つい、当時を思い出し、恥ずかしながら多少なりとも感情が高ぶり、知らず知らずのうちにその人達と同じ土俵でやりあうようなことを書いてしまうことがあった。改めて読んでそう思う。 今後も、賛否いろいろなご意見をお待ちしている。
2003年03月15日
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「金を貸せば友を失う」とはよく言われることだが、シビアな関係になりきれない友人とのビジネスも避けるべきだ。情にほだされて仕事を頼むなどもってのほか。自分の首を絞めることにもなりかねない。 まだ子供が小さかった頃、私は自宅近くの小さな制作会社にパートタイマーとして勤務していた。もっとも、正社員は一人もいない個人事務所だから、社長以外はすべてパートタイマーだ。近所に住んでいるため時間の融通がつけやすい私は重宝な存在だったらしく、仕事の悩みなどもよく社長からもちかけられた。口幅ったいようだが、それなりに信頼されていたと思う。 挨拶状の制作から発送までを請け負ったときのことだ。宛名書きの人員が足りず、社長から「誰か適当な人はいないか」と言われた私は、同じ年頃の子供を持つ「公園仲間」の友人にうっかりそのことを漏らしてしまった。単なる雑談の延長で話したわけだが、それを聞いた彼女は「私にやらせて!」と言い出した。 彼女は第二子を妊娠中でまもなく臨月に入ろうかという身体だ。「その身体では無理だよ」「旦那にさせるから! お金が足りなくて困っているの。お願い!」 私は彼女のご主人とは一面識もない。どんな人かを知らずに紹介はできない、と断ったが、最後は拝み倒されるように渋々口利きを約束してしまった。 ほかに外注先が見つからなかったのか、社長は彼女への発注を快く承諾してくれた。仕事の内容は挨拶状の封筒入れと宛名書きだ。紹介した手前、彼女には責任持ってしっかり仕事をしてくれと何度も念押ししておいた。「こう見えても私、仕事には厳しいから。絶対大丈夫」 しかし納品された封筒を確認してみると、挨拶状にインクの指紋がうっすらと残っていたり封筒の宛名が擦れていたり。お粗末な仕事ぶりは誰の目にも明らかだった。挨拶状を印刷しなおす時間はないし、封筒もクライアントから預かっている社名入りのものなのでやり直しはできない。仕方がないので、あまりにも汚いものだけ予備と差し替え、あとは誤魔化して納品した。 おかげで私の立場は丸つぶれだ。社長には平謝りに謝り、彼女に「一体どういうことだ」と文句を言ったところ、「ごめんね~。急いでやったもんだから」の一言だけで悪びれた様子もない。私は彼女の人間性をみた思いで、その後友人関係も自然消滅した。
2003年03月07日
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今日も、ビジネスがクライアントの「評価」で成り立っているという大前提から目を背けている人の実話を2題書いてみよう。 我々の仕事には、「コンペ」という競争を勝ち抜かなければならない場合がある。ある仕事の受注先を決めるために、クライアント(または代理店)が参加者に作品(カンプ)を提出させてから受注先を決めるものだ。大企業や官公庁などの発注ではしばしばこの方法を採用している。 弊社も以前は何度か参加し、受注を獲得したこともあるが、どちらかというと弊社の場合、外注の「実力テスト」がわりに使っていた。 それで、何人かのフリーランスがこの話に乗って作品を提出したが、ま、普通は落ちてしまう。落ちてもともとなのだが、経験の少ない人ほど、「自分こそ一番」という思いが強くあるようで、現実を素直に受け容れられない。 あるポスターのデザインコンペに参加してもらった20代の女性デザイナーは、自分の作品が採用されなかったことに不服そうだった。そしてこんな捨てぜりふを言ってのけた。「コンペは作品の質ではなくクライアントの好みで選ばれるから、プロの仕事とは言えない」 おいおい、「仕事」と名の付くものは、本人の自覚や他の生業の有無にかかわらず、すべて「プロ」によるものだろう。 言葉尻のつっこみはともかくとして、選ぶ側がおかしい、という「自己弁護」で“総括”する態度は、やはりちょっと違うのではないか。 いかなる選考であれ、選ぶ裁量は選ぶ側にある。つまり、その仕事において作品に商業的価値を与えるのは選ぶ側であり、我々ではない。これは、コンペであろうが通常の受注仕事であろうが基本的に同じだ。通常の仕事は、コンペのように競い合う中で価値を買ってもらうわけではない。が、いうなれば価値をクライアントから信任してもらえるかどうか、ということではないだろうか。クライアントが欲しいのはクライアントが価値を感じるものであり、我々はその前提で結果を出すのが仕事なのである。 次は、A5版書籍のレイアウトをお願いした30代の自称「デザイナー」の女性の話だ。彼女はセオリーを無視したシロモノを提出してきた。ノド(綴じる側の余白)もその他の余白も1センチに満たないところまで割り付けている。理論上印刷はできるかも知れないが、読みやすさを考えたら常識的なものではない。おまけにA5の単行本なのに2段組ときた。「こんな商品にならないものを作ってたら、恥ずかしくて看板出せないでしょう」「私はそうは思いません。あなたがどこに何を割り付けるかをすべて指示しないのが悪いんです」「いやね、こっちがそこまでやったら、あなたはデザイナーではなくて、たんなるオペーレーターでしょう。デザインをおこすところからするという約束だったし、またそういう条件でもできる人がデザイナーを名乗れるんじゃないの?」「いいえ、私はデザイナーです。話は平行線ですね」 もっとも、その自称「デザイナー」は、「オペレーター」としても失格だった。画像などもいわれたところにおいていないし、基本的な用語も理解していなかった。そもそも、「デザイナー」であろうが「オペレーター」であろうが、ノドや余白の常識がわからないのはおかしな話であるし、きちんと仕事をする人は自分の職域や肩書きに対してもっと誠実であろう。 いずれにしても、以来、弊社では仕事を発注する際、「デザイナー」か「オペレーター」かの違いについて、相手に失礼になるのではないかと言うほどくどい確認を行うようになってしまった。あつものに懲りてなますをふくというが、これもトラウマの一種かもしれない。
2003年03月02日
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このホームページが、他の「SOHO」関連サイトで宣伝をしていただいていることは掲示板の書き込みで知ったが、昨日、複数のサイトでそれを確認できた。 ホームページを開設するということは、不特定多数の方々の閲覧が前提となっているわけだし、ましてや私はメールマガジンも出しているぐらいなので、宣伝自体は大変ありがたいことだと思う。本来は、私がやるべきことなのだから。 ただ、宣伝してくださった方の意図や自覚はどうあれ、宣伝されたサイトでは、ここの日記に書かれていることは、おそらく黙殺されるか、場合によっては意図的に歪曲された形で、悪意をもって取り上げられるのではないかと私は危惧している。 多くの「SOHO」関連サイトは、明らかにSOHOの「弱者」としての断片を話題の中心に据えることを意図し、さらには、SOHO同士のグチやたわいもない会話で盛り上がることを目的としているようで、掲示板でも以前、どなたかが書かれたと記憶しているが、まじめなSOHOに対する真の啓蒙を目的としているとはいえない。 それはいきおい、社会人としての常識はおろか、ネットワーカーとしてのルールまでも無視した、「SOHOさえよければそれでいい」という、いわば「SOHO独善主義」とでもいうべき価値観で全てを丸め込む、社会的に見ればクレーマー的な方向への「議論」すら繰り広げられることもある。 たとえばあるサイトでは、企業の実名まで暴露して、「雇い賃が安いから悪徳だ」「本社から離れた地域で募集しているのは怪しい」などという中傷が、何の疑いもなく繰り広げられている。 SOHOが弱者であろうがなかろうが、これ自体、立派な信用毀損(個人の場合、名誉毀損)になる。近代法に於ける「名誉」とは「虚名の保護」という法の原則を、SOHOだけでなく、その管理者がきちんと認識していないから、そんな危ない「議論」にストップがかからない。 ケーススタディとして議論したいのなら、企業の実名を出さずにプロットだけで語ればいいことである。それは社会人として、ネットワーカーとして当たり前の分別であろう。 そもそも、「安い」ことと「悪徳」であることは、法的にも論理的にもイコールではない。それに、「安い」というのはコストや予算や受け手の能力によって解釈が変わるものであり、何らかの客観的な基準に基づいた「事実判断」でない限り、あまり合理性のある議論にはならない。 面白いのは、主婦SOHOはしばしば、中小の編プロを「雇う側」などとして一線を画し、自分たちへのいかなる意見(善意の批判を含む)も、「敵対」した側の為にするものという口実のもとに真正面からそれを受け止めようとしない(いや、本気でそう思っているのか?) 彼女たちは、中小の編プロも主婦SOHOと同じ立場から悩まされる場合もある、という社会構造を知るべきである。しかし、いわゆる「SOHO関連サイト」(の管理者)がきちんとそういうことを啓蒙しているとは言い難い。それはたぶん、その人達も世間知らずなのだろうと私は考えている。「SOHO」の商行為が抱える問題点というのは、「雇う側」と「雇われる側」が最初から固定的なレッテルのもとに役割分担されて対峙しているわけではない。「SOHO」をめぐるトラブルをちょっと考えて欲しい。商行為自体は本来、SOHOであろうがなかろうがれっきとした商法上の問題である。いわゆる「下請けいじめ」という社会政策的問題も、SOHOだけが被害者となる問題ではない。悪徳業者に騙される事件は、本来は消費者問題の一環になる。 つまり、「SOHO固有の問題」である場合も全くないわけではないが、基本的にそれらは、SOHOであろうがなかろうが、関係ない。しかし、考えてみれば、以前も書いたようにそれは当たり前の話なのである。「SOHO」というのは形態に過ぎず、「個人や零細で働く者」という本質は、何も目新しい労働主体ではないのだ。 そういった客観的な仕組みも知らせることのないまま、「SOHOは弱者」であるという啓蒙ばかりを行ったらいったいどういうことになるのか。彼女たちは自分たちの無知も力不足もすべて「雇う側が悪徳だから」という論法で安易に片づけてしまうだろう。それは悪質な責任転嫁になる場合もあり、何よりもその人が本当に努力と自省をする機会を奪うことにならないのだろうか。そして、結局はSOHOという形態自体が社会的な信用を失うことになるだろう。 私が、「主婦SOHO」の人たちにアドバイスしたいのは、伸びる秘訣は、広い意味での「経験」の量と出会いの質、ということだ。 もしあなたが本気で仕事をしたいのなら、苦しいことがあっても逃げずに、「貴重な経験なんだ」という発想の転換をして、ことに技術的な面では自分に対する厳しさを手放さないで欲しい。念のため言っておくが、それは「悪徳」に対して泣き寝入りをしろ、ということを全く意味しない。強いて言えば、「悪徳」のつけ込みうるこの現代社会の構造やルールなどをありのままに見て、その中をしっかり生きていく、という勇気と見識をもってほしい、ということである。 それには、SOHOと名のつく小さいコミュニティーで自己満足的な議論に止まることなく、より広い視野でカルチャーショックを正面から受ける意欲をつねに持っていて欲しい。 そして暇つぶし目的で「仕事をゲットしたい」のなら、別の趣味を見つけて欲しい。仕事は遊びではない。貴重な人生、何も好きこのんで辛いことに手を出し、挙げ句の果てに人様に迷惑をかけることもないだろう。
2003年03月01日
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2月24日(月)の日記で、フリー歴6年の女性に旅行雑誌の特集記事執筆をお願いしたことを書いたが、この女性は、原稿用紙の件だけでなく、肝心の原稿の中身で大変なミスをやらかした。弊社はそのおかげでクライアントをひとつ減らすことになったが、今思い出しても背筋がゾッとする話だ。 仕事は、有名リゾートホテルの夏季キャンペーンの内容を、写真や各ホテル自体の紹介も兼ねて特集する36ページの記事だった。最初に受けた注文は24ページ。私が全部書き上げるつもりだったが、進行の途中で版元から「もう12ページぜひ増やして欲しい」と言われて変更になった。 向こうで予定していた他の原稿が落ちそうだったのかもしれないが、途中まで書き上げた私の原稿を、先方が「使える」と判断してくれたことは間違いないだろう。いずれにしても、急な注文のため、弊社では手が足りなくなって、その女性にも手伝ってもらうことにしたわけだ。 私が最初作っていたときは、各ホテルの担当者に直接アポを取り、取材をして記事をまとめていた。注文追加の際、版元からは、「急な増ページで時間もないから、取材は電話で済ませてしまい、写真など資料はホテルの広報から送ってもらうようにしてください」と指示された。 彼女に依頼するときもその旨説明し、連絡を取りたいホテルのリストアップに使ってもらうように、その版元とは別の会社が刊行したホテルガイドを手渡した。ホテルガイドには、ホテルの住所、電話番号、サービス料金、独自キャンペーンなどが紹介されており、今回の企画である夏季リゾートキャンペーンについても紹介されていた。 そして、2月24日(月)の日記にも書いたように、彼女は約束の期日を遅れてギリギリのところで原稿を提出した。弊社で原稿チェックに使いたかった時間も猶予に使ってしまったので、ほとんどノーチェックで原稿を版元に入稿したところ、大変なことになってしまった。 雑誌が発売されたが、サービス料金が本来の料金よりも少なく間違っているというのだ。彼女に確認すると、各ホテルにきちんと電話取材をして料金を確認せず、ホテルガイドに載っていたサービス料金をそのまま原稿に転記していたのである。「ガイドに載ってたし、わざわざ電話しなくてもわかるからいいと思ったんですけど」 既刊のガイドは必ずしも最新のサービス料金を書いているとは限らないし、記事自体が間違っている可能性もある。ホテルを紹介するときに、サービス料金を間違えるというのは絶対にあってはならないこと。ましてや、その間違いが怠慢によるものでは論外ではないか。 その版元は、たんなる情報雑誌社ではなく旅行代理店の出版部であったために、記事とパッケージツアーの販売を連動させていた。結局差額はその版元が負担することになった。金額は定かでないが、かなりの損害を出したのではないか。弊社も該当する各ホテルに一件一件電話をして謝罪した。 もちろん、版元が数字をきちんとチェックをすればそのような損害は起こりえなかったということで弊社への損害賠償請求だけは免れたが、法的なことはどうあれ、弊社がちゃんとした原稿を提出できなかったことに違いはない。もちろんその版元との取引はパーである。これは当時、弊社にとって大変な打撃だった。 以来、弊社では、外注の原稿チェックには細心の注意を払い、とくに数字に関してはくどいほどの確認作業を行っている。 外注の原稿を見ると、数字だけでなく、たとえば既存の書物の文章をそのまま長々引用する「パクリ」が何のためらいもなく行われていることがしばしばある。これは著作権侵害であることをまず認識して欲しいし、何より「自分の言葉」で表現できないというのなら、そんな人は絶対にライターの仕事をしてはならない。 ちなみにくだんの彼女は、「どうもすいませーん」という一言だけで、弊社が後処理に負われている最中、事前連絡なしに請求書を送りつけてきていた。
2003年02月25日
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まだ、手書きの原稿による納品があった頃の話だ。30歳で独身だが、フリーになってから6年になるという女性に、ある旅行雑誌の執筆を依頼した。 原稿が締め切りよりもはるかに遅れ、本人が直接持参でやってきた。直前まで書いていたのか、その場で書き終えた用紙を用紙帳から切りはなしていた。それは今回は措こう。さらなる問題の行為は次にある。原稿用紙は400字詰めだったが、書かれた最後のページにあたる原稿用紙は、半分にもみたない100字程度しか書かれていなかった。彼女は、私の見ている前で、その用紙に縦半分に折り目を付け、引き離すように2つに裂いて書いてある方を提出。升目の余っていた方はまた使うつもりか、鞄にしまったのである。私は、まさに「目が点になった」状態で言葉を失った。 考えてみて欲しい。500円の買い物をしたからといって、1000円を半分に裂いて渡すバカがどこにいるだろうか。原稿用紙は、たとえ1字でも書いたらそれがまるごと商品なのである。 これまで書いてきたように非常識な言動は枚挙にいとまがないが、商品そのものを自分から冒涜するここまで“自虐的”な人は後にも先にもそうはいない。 この人は6年フリーをやっているというが、もともと出版社などを経験していないため、この仕事に対する基本的なふるまいや知識を教えてもらえる機会がなかったのかもしれない。いくらキャリアがあると自称していても信用はできないということだろう。 2月14日(金)の日記でご紹介した、エッセイストも司法書士も挫折してしまった主婦も似たようなことをしてきた。彼女が書き上げた原稿は、原稿用紙帳からまとめて切りはなしたのか、提出したものの1枚1枚が切りはなされておらず、タクアンの包丁入れそこねのように全部をつなげたままだった。ノンブル(頁番号)もふられておらず、タイトルも入っていない。クリップで止められてもいない。私はその場で1枚1枚切りはなしながら、「あなたの提出したものは商品なんですよ。商品としての取り扱いを、制作者である著者自身が放棄してどうするのですか?」と注意をした。彼女は謝罪もせず、ふてくされたようにそれを聞いていた。彼女が仕事を投げ出したのは、それも気にくわなかったのかも知れないが、そんなもの、知らない方が悪い。 昨今は、パソコンで原稿を作成し、メールで送るケースが主流ではあるが、「商品」としてのルールは手書きのものと同じではないにしても厳然と存在する。しかし、それを配慮しているとは思えないケースが多すぎる。 たとえば、通常のベタ原稿について、断りも必要もないのに特定のワープロデータ形式で送ってくる人がいるが、なぜプレーンテキストで提出できないのだろう。リードやキャプションなどを、こちらが不必要と言ったわけでもないのに書かなかったり、書いても、本文と見分けがつきにくい書き方をしたりする人もいる。画像や図版がつく原稿は、何があってどのへんに入るかという断りもないままバラバラに送りつけてくるケースも少なくない。いくらブロードバンド時代とはいえ、大容量の画像データを一言の断りもなく勝手に送るのは「ネチケット」に反するだろう。 これらに共通して言えるのは、仕事として非常識であるだけでなく、ネットワーカーとしての常識も疑わざるを得ないことである。「パソコンを買ったからお気楽アルバイトで仕事をゲットしよう」と考えているアナタ。仕事以前に、まずパソコンユーザーとしてのキャリアを積んで下さい。
2003年02月24日
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弊社ではよくお仕事BBSで外注を募集しているが、メールでの応募に限定している。いちいち電話で応対していると本来の業務に差し支えること、応募メールはそのまま電子履歴書としてデータベース化しておけることなどがその理由だ。 応募資格を無視するSOHOは以前の日記で紹介したが、この応募方法を守らないSOHOも少なくない。 いきなり電話で「インターネットで外注募集を見たんですが、詳しく教えてほしいんですが」とくる。こういう場合、名前を聞いてから「メールでの応募のみと書いてあるはずです」といって電話を切ることにしている。 大抵、あとからお詫びを兼ねた応募メールが届くが、いくら実績のある人でもそういう人は採用しない。厳しいようだが、募集要項ひとつ守れない人はそれだけで対象外だ。 こうしたSOHOたちは「ルールの守れない人」というだけでなく、「書いてあることをきちんと読まない人」でもある。いわゆる粗忽者だ。 日常生活を営むうえでは笑って済ませられることかもしれないが、ビジネスでは命取りになることもある。 テープ起こしの外注を募集したときのことだ。応募してくれたSOHOには「発注の際はあらためて連絡をするから」と返事を出しておいた。翌日その中の一人から突然電話があり、「テープはもう送ってくれましたか?」と聞かれた。彼女に発注するとは一言も書いていないし、そのつもりもなかったのでこの電話には面食らった。「発注のお約束はしていませんが」と答えると「テープ送るということでしたが」と言い張る。 まさかと思い、送信したメールを読み返してみたが、どこにも発注の約束やテープの発送については書いていない。どうやらこの女性は「このたびはご応募ありがとうございます」の最初の文面だけを見て発注されたと思いこんでいたらしい。 メールは今や重要なビジネスツールだ。契約内容についてやりとりすることもある。書いてある内容がきちんと伝わらない人では、信頼して仕事を任せることはできない。「人の話をよく聞くこと」「ルールは守ること」これらは幼稚園で学ぶことだと思うが、その親となる世代のSOHOでもこうした基本中の基本ができていない人がいるのには驚くばかりだ。
2003年02月22日
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プライドを持って仕事をするのは大切なことだが、中身の伴わない虚栄心は滑稽なだけでなく、仕事にも確実に支障を来たす。つまらないことがきっかけで、仕事を中断して、自分の言い分をを認めてくれという矮小な主張をくり返す沙汰に、困惑させられたことは何度もある。「主婦SOHO」がトラブルを起こすケースは、自分の仕事に見合わない図々しい請求をするときと、もうひとつは、今回ご紹介するような「脱線した矮小な自己主張」がほとんどではないかと思う。 20代の女性デザイナーにレイアウトを頼んだときのことだ。同じページに入る画像データを2種類渡してしまったことがあった。彼女からは「どちらを使えばいいのでしょうか」という問い合わせがきた。 急ぎの仕事だったので、不要なデータまで紛れてしまったらしい。私はそのことを詫びた上で、「スケジュールが詰まっているのでこちらも急いで作業をしている。もしかして今後もこういうことがあるかもしれないが、原稿と画像の内容から判断してどちらかを選択してもらえないだろうか」と答えた。 この返信に問題があるとは思えないし、もちろんに私に他意はない。ところがこの女性はそう受け取れなかったらしい。自分が、「画像の内容から判断してどちらかを選択」できない者であるかのように言われたと感じたらしく、わざわざもめ事を呼び込むような自己主張をした。「どちらを使うべきなのかぐらい、私にだってわかっています。ただ、他の画像とファイル形式や解像度が違うので確認したかっただけです」「確認」はもはや仕事を進める上で不要であると言っているはずだ。私は、「DTP用の画像データにはファイル形式や解像度、カラーモードなど一定の約束事がある。渡した画像をDTPで使えるように変換するのはオペレーターの仕事だ。あなたの裁量で作業を進めてください」と噛んで含めるように伝えた。 ところが、彼女はなおも食い下がってきた。「2つの画像の形式が違っているのをご承知ならいいんです。もしかしたら気づいていないかなと思って。あなたはそれに答えればいいんです」 不遜であり、また全く意味のない繰り返しである。百歩譲って当方が「気づいていない」としても、「画像の内容から判断してどちらかを選択」してくれと返事をしているのだから、作業を進めるための問題は解決している。ところが彼女はそれでは飽きたらずに、今度はDTPにおける画像データの解説を延々と始めた。こういうパフォーマンスのために、この仕事は確実に遅れることになる。「私はこんなにいろいろ知っているんです」と言いたいようなのだが、当方は別にこの女性の知識の多寡を知りたいわけではなく、使える商品(DTP)を作成してくれればそれでいいのである。そもそも、本当に知っている人はそんなところで空威張りの「知ったか」はやらない。案の定、彼女の話には勘違いや用語の間違いもあり、私に言わせれば基本的な部分での理解ができていないように思われた。これでは恥の上塗りだ。 その人が無知であっても私が知ったことではないし、もとより脱線に付き合う気はなかったが、現在の仕事にその間違いを適用されては困るので、私はそれらの間違いを指摘し、こちらがいちいち指示しないのは、そうした知識がないからではなく、オペレーターの仕事の領域だからあなたの判断に任せているのだということを説明した。 彼女はいよいよ立場がなくなったのか、言うに事欠いて遂にこんな要求まで行った。「私はそういうコミュニケーションを求めていたのではありません」 メールには、たとえば私にはこう答えてほしかった、それに対する私の答えはこうだ、と想定問答をいくつも書いてきた。もう、完全に仕事のことは忘れているようだった。ここで推測はできると思うが、結局、この人はお願いした仕事を完了できなかった。 これ、にわかに信じがたいかも知れないが、子どものいる母親SOHOがやらかした実話である。彼女の無意味な粘りは、実は仕事の経験もなく知識にも自信がないことをはしなくも白状している。 世の中は厳しい。認めてもらうには結果を出すしかないのだ。それを忘れてはならない。
2003年02月21日
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Webサービスの手順書のデザインを頼んだ30歳のデザイナーとは、すでに数年のつきあいだった。それまではレイアウトのラフをきっちりと作り込んで、その通りにページを埋めていくだけの仕事しか頼んだことはなかったが、本人が「デザイナー」を名乗っていることもあり、もう少し手応えのある仕事をやらせてみようと考えての発注だった。 もちろん、最初から全ページを任せてしまうのはリスクが大きいので、手始めに4ページだけをデザインさせてみた。Webサービスの手順を解説する本なので、パソコンのマニュアル同様、画面キャプチャの点数も多い。それらをどう本文とうまくリンクさせ、必要な部分を強調するかが最大のポイントになる。ページを生かすも殺すもデザイン次第といってもいい。 しかし、上がってきた彼女のデザインにはそうした配慮も意欲もなく、単にすべての画像を同じ大きさで並べただけの単調なものだった。 そこで、どの部分をどう直せばよいかを細かく指示してやり直しをさせた。ところが何度言ってもメリハリのないデザインしか上がってこない。「もっと大胆にページを演出してくれ」といっても、相変わらず画像をチマチマと並べてくるだけなのだ。 ついにはこんな質問まで飛び出した。「この画面ではどういう操作をしているのでしょうか」 要するに、原稿の内容がチンプンカンプンなので、うまく本文と絡めることができないらしい。どの画面のどの部分を強調すべきかも判断できない状態なのだ。 それにしても、だ。特殊なアプリケーションやハードウェアの解説書をやれと言っているわけではない。インターネットユーザーなら誰でも見られるWebサービスの解説だ。本文を読み、対応する画面を見ていけば、どういう操作をしているのかわかりそうなものだ。どうしてもわからなければ、実際にそのサイトにアクセスしてみればいい。そうしたささやかな努力がなぜできない? ところが彼女は自分の無能を恥じることなく、こう言い返してきた。「デザイナーに原稿の内容を理解しろというほうがおかしいでしょう。それに画面キャプチャはWindowsマシンのものですが、私はMacintoshしか使ったことがないのでわかりません。Windowsユーザーでなければできない仕事なら最初に言ってほしかった」 デザインは演出である。そのページで何を伝えようとしているのかを理解せずにデザインはできない。Windowsの件にしても、原稿を渡した時点でわかっていたはずだ。それに、ブラウザの画面キャプチャなのだからOSの違いは理由にならない。 何のことはない、自分の能力以上の仕事を引き受けてしまった。ただそれだけの話である。自分のスキルをアップさせることでしか解決できない問題だ。あれこれと言い訳する前に、そのWebサービスを実際に体験してみるなり、類書のデザインを参考にするなり、やることはいくらでもあるはずだ。 誰にでも失敗や挫折はある。壁にぶつかったら、自分を高めるよう努力しなければそれを乗り越えることはできない。そこで「壁が高すぎる」だの「そういう壁があるとは知らなかった」と言っていても何の解決にもならないのだ。そういういじけた方向へ向かうのではなく、なんとか問題をクリアできるような方向へと力を注ぐのが本来のあり方だ。そしてそれは自分を成長させることにもつながるだろう。
2003年02月20日
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よく、「後かたづけも仕事のうち」などと言われる。これは、片づけという行為それ自体の大切さを指すだけでなく、自分の関わった仕事全体が完了するまで見届けるべき、という訓話的意味も含まれている。ひとつの仕事には様々な工程が連関して成立しているので、現象的に自分の関わりが終わっても、本当に任務完了とはいえないことがあるからだ。 しかし、そこから明らかに阻害されている仕事がある。時間の切り売りをしているパートタイマーや、定時になるとサッサと化粧をなおして帰社してしまう「一山いくら」扱いのOLたちである。この人達は、自分が関わる仕事の全体をそれほど切実に考える必要がない。「できあがってナンボ」ではなく、何時間労働力を切り売りしていくら、という仕事だからだ。残念ながら、「普通の女性」の多くの職歴はこれらにあたる。そういう人たちは、現象的に直接自分が関わっている工程しか責任を感じようとしないのではないか。 20代の女性に月刊誌の特集記事を依頼した。それまでにも生活情報誌の記事を執筆した経験が何度かあるという。ならば大丈夫だろうと思っていたが、メールで送られてきた原稿は他の「自称」ライターと同様、使えない代物だった。内容もまずいのだが、なんと言っても字数が当初の約束より圧倒的に足りない。これでは商品として成り立たないので、書き足してもらうことにした。 ところが、そのライターのメールにはこう書いてあった。「今日はこれから出かけます」 行き先の電話番号は書いていない。携帯電話の番号もわからない。つまり、連絡はとれません、ということだ。原稿は送ったんだから、あとはお役ご免でいいでしょ。ということらしい。 この女性は、ここで2つの「非常識」をやらかしている。まず、原稿それ自体の受け取り確認をしていないこと。メールは送信/受信ミスもあれば、プロバイダ側の事故で届かないことも考えられる。受信したメールが文字化けを起こしたり、添付ファイルが壊れてしまったりということも珍しくはない。直接手渡しでない限り、この確認はきちんと行うべきだ。 もうひとつは、「校了」という指示が出ていないのに自分の仕事が終わったと勝手に解釈していること。特別な約束でもない限り、通常、ライターの仕事というのは原稿を納品したから即、終わりというわけではない。編集者がチェックして、修正や加筆の必要があればその指示に従って書き直して初めて商品として成立する。それをしなければ、自分の仕事を途中で放り投げたということになる。「SOHO」が、仕事をしたのに支払いをきちんとしてくれないと言ってもめるケースには、こうした「校了」以前の不完全原稿を完遂と勝手に解釈していることによる場合も少なくない。仕事をきちんと完了せずに「私は働いたんだ」と大きな顔をするのは、支払いについての法的な解釈がどうあれ、プロとして恥ずかしい限りだと個人的には考える。だってそうでしょう。そんなセコい争いに血道を上げられるエネルギーがあるなら、きちんと所期の約束をきっちり果たした上で、堂々と満額の対価をいただく方がどれだけ気持ちいいことか。 この「非常識」の根底には、自分の商品なのにその商行為を自覚できないノーテンキさがある。「SOHO」の非常識には、現代のビジネス社会が男社会である悲劇も反映されていることが感じられるが、しかしいずれにしても、社会のせいにばかりしていたら何も解決しない。
2003年02月19日
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やはりパソコンの「図解マニュアル」で、急ぎの仕事があった。短期間で作らなければならなかったので何人かに分担してお願いすることにしたが、そのうちの1人が「SOHO」を名乗る30代前半の主婦だった。東京近郊にある国立大学を出て、それなりに名前の通った会社で勤務したことになっている。 いくら名門大学や大会社に入ったことがあるといっても、それだけでスキルは保証できない。しかし、少なくとも一定期間きちんとおつとめをしていないと、社会人としての常識を身につける機会がないのではないか、ということは考えられるので、職歴はほんの少しだけ参考にさせてもらった。しかし、それも結局は決め手にはならないということをこの人で思い知らされた。 仕事を受けてから1週間もたたないうちに、彼女の自宅にかけても連絡が取れなくなってしまった。携帯電話でたまにつながってもすぐに切られてしまい、折り返し向こうからかかってくる電話は、どこかのオフィスや移動中のようである。原稿も約束の期日を大幅に遅れる。そして内容もまずい。もともとシロウト原稿である上に、何度同じ注意をしても誤りが直らない。力もない上に、そうした外出先からのやりとりできちんと内容を把握できなかった面もあるのではないか。結局、当初予定していた半分も発注できなくなってしまった。 それでいて、集金ばかり手際がよい。約束の支払日前から連絡を入れてくる。連絡が取れなくなって原稿が遅れたのは、途中から“おいしい”派遣の仕事が入り、いわば「ダブルブッキング」の状態になっていたということもわかった。それではあまりに態度が悪いので注意をすると、これまた開き直ってこんなことを言い出した。「私を見て、使うか使わないかを決めるのはそちらの責任。私ではダメだと見なして、約束の半分以下の原稿しか発注しなかった。ならそれ以降、私は関知しないことでしょう」 そうじゃないんじゃない? 今回の場合、この人がきちんとその仕事を完遂することが所期の約束だった。それができないだけでも、こちらは大変な迷惑がかかっているのだ。何より、自分が約束を完遂できなかったことを、この人はどう考えているのだろう。この人の理屈では、泥棒が何かを盗る前に被害者に110番されたところで、「あなたが110番して被害が出なかったんだからそれでいいでしょう」と、うそぶくようなものではないか。 後から割のいい仕事が入ったからと言って、前の仕事をなおざりにしていいという道理はない。我々でも、安い仕事が決まった後に、より稿料の高い仕事が入ることがある。だが、道義的に、たとえ「おいしい仕事」が来ても、すでに決まっている仕事を優先するのは我々なら当たり前と考える。自分にとっておいしいものだけ「いいとこ取り」の仕事をしていたら、クライアントとの信頼関係を築くことができなくなるからだ。もし、どうしても断れない事情があって、後からきた仕事を受けるのであれば、先の仕事先にはちゃんと事情を話して判断を仰ぐのが常識である。 この女性がそういう非常識なことをできるのは、そのときだけ効率よく稼げればいい、という腰掛け根性で仕事をしているからであるとしか考えられない。そこには、「私には旦那という稼ぎ手がいるから、しょせん本気で働かなくていい」という逃げ道があるのだろう。こういう「SOHO」が好き勝手なことをするたびに、主婦というだけで「どうせ自分本位の小遣い稼ぎだろう」と思われて信用されにくくなる風潮ができてしまうのだ。 どんな価値観、ライフプランをもつかはもちろん各人の自由だ。しかし、ビジネス上の信義だけは守ってもらえないものだろうか。
2003年02月18日
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街角の書店は、今やPC関連だけでひとつのコーナーが作られている。パソコン本は、今や出版業界でも侮れない市場に成長したということだろう。そこに陳列されている書籍やムックの多くは、OSやアプリケーションソフトの機能とインターフェイスを、画面キャプチャ付きで紹介する「図解マニュアル」である。弊社でもそうした出版物の制作を請け負うことがあるが、パソコン本制作をめぐるトラブルも少なくない。 たとえば、あるグラフィックソフトの図解マニュアル執筆に応募してきた30代後半の女性には、「一杯食わされた」という思いが残っている。 その人は、「過去の実績」といって3冊の著書を持参してきた。なるほど、それを見ると、どれもその人が著者として名を連ねている。ただ、いずれも共著だった。「どのくらい書いたのですか?」と尋ねても「全編に渡ってお互い協力して書いた」としか説明しない。 その人がどのくらい書いたかはわからないが、書籍なら1冊で256頁、ムックなら160頁のボリュームなら、数十頁は書いていると普通は考えてしまう。制作期間や印税、制作手順などを聞いても辻褄が合うので、「名前貸し」ではなく、著者がその人というのは嘘ではなさそうだった。書籍の出版なら著者に著作権があるものだから、編集者が手を入れたとしても一部であり、基本は著者が書いているはずだ。私はその人を信用して、執筆をお願いすることにした。 ところが、書かせてみると、文章は「メチャクチャ」という表現を使わざるを得ないシロモノだった。主述が符合せず、「です、ます」と「である」が混用されている。文章中には、まるで日記でも書いているような話し言葉が遠慮会釈なく使われ、リードがなかったり論理レイアウト(章立てなど)が整えられていなかったりと、全く商品として使うことができなかった。 図解マニュアルには必須の、文章とともに使うパソコンの画面キャプチャもつながりがおかしい。たとえば、手順を説明するのにそれぞれのイベントの前後の画面も掲載するが、その画面のデスクトップの色が途中で変わっている。おそらくキャプチャし直したのだろうが、同じ環境で統一するのはあったりまえのことである。 ことほどさように、駄作というよりも、そもそもこの仕事をしたことがないとしか推測できない「シロウトのような至らなさ」が随所に目立った。私は途中で朱を入れる気もなくなり、改めて仕事の経験を問いただした。彼女も自分の限界を悟ったのか、何と、こう白状したのだ。「著作としてお見せした本は作例だけを作り、文章は共著者が担当しました」 ワープロにしても表計算にしても画像レタッチにしても、アプリケーションソフトの図解マニュアルは、作例を完成する手順を見せていくことで機能やインターフェイスを紹介する構成になっている。彼女はその作例「だけ」を「全編に渡って」作ったというのだ。そりゃ、著者として名前が出ても「嘘」とは言い切れないし、「全編に渡って」作品には関わっていることになるだろうけど、せめて「文章は書いてません」と正直に言うべきではないのか。それに対して、彼女は開き直ったようにこう言った。「本当は言おうと思ったんですけど、どうしてもこの仕事がやりたかったので、言いそびれたというか、何か曖昧にしたままにしたかったんです。私がいけないことしましたか? だいたいフリーを使うのなら、このくらいのリスクは当然でしょう」 そうだろうか。こうしたSOHOを巡るトラブルについては、十把一絡げに、すべて「未熟なSOHOを雇った方にも責任がある」という言い方をする人がいる。しかし、このような誇大宣伝によるトラブルは、誇大宣伝それ自体に問題があることは議論するまでもないことだ。 いくら仕事をしたいからといって、こういう「ホラ吹き」は結局誰のためにもならず何も生み出さないだろう。「仕事をしたい」という情熱と、「今、何ができるか」というスキルは別の話だ。何をどこまでできるか、それを正直に申告した上で、こちらの判断で使えると判断した仕事に起用する。もちろん、それでもうまくいくかどうかはわからないが、たとえうまくいかなくても、そのときこそ雇う側が責任を感じればいいことだ。 仕事は、双方の信頼関係によって成り立っている。仕事を発注する信頼に応えられるスキルと責任感が欠落しているのは、雇う側ではなく、もっぱらSOHOの側の問題である。
2003年02月17日
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弊社の「外注応募」のチラシを見て応募してきた自称デザイナーの主婦は、平日昼間の数時間を仕事にあて、休日は家族と過ごそうと思っていたらしい。 月刊誌のレイアウトを頼もうと思い、締め切り間際は夜中に修正を頼むこともあるが対応できるか? と確認すると涼しい顔でこう答えた。「そのときにならないとわかりません」 これでは怖くて頼めない。 せっかく応募があったからと思い、別件の仕事を金曜日に打診したときもある。 そのときは「月曜日に詳しい話を」ときた。 何ですぐ動かないの? 金曜日の午後に頼んで月曜日までに仕事を上げる「SOHO」はいくらでもいる。だから、この仕事も他の人に頼んだ。これでこの主婦は仕事をまたひとつ失ったわけだ。 働きたい時間しか働かない。それはその人の自由だ。しかし、それでは仕事のチャンスは永遠にこない。SOHOの仕事は「名前」ではなく「労働力」である。誰が一介の主婦をご指名なんかするものか。「スキルの高い人」は欲しいが、「○○さんのスキル」という求め方はしない。安くて力があってがんばってくれる人なら誰でもいいのである。前述の主婦はそこに気がつかない大先生気取りなんだろうな。とんだ自惚れやさんだ。こうした仕事は「無理をしてもやってくれる人」という信頼が、次の大きな仕事の依頼につながっていくものだ。そういう経験もないから、信頼を得るための努力がどれほど大事かわからないんだろう。「在宅ワークを始めたんです。ええ、仕事は子供が幼稚園に行っている間の3時間だけ。家計にもゆとりが出来て、この夏は家族で海外旅行に行こうかって夫と話してるんです」 雑誌に出てくるSOHO主婦の華やかなインタビュー記事。もちろんそんなものは嘘っぱちだ。だが主婦向け雑誌の広告や関連業者サイトではこれと似た話がまことしやかに語られている。興味を持つなというのが無理かもしれない。 しかしくり返すが、在宅ワーカーの実態はそんな楽なものではない。特に、無理なく子育てと両立できるような都合のいい時間に仕事がくるわけはない。名前で仕事がとれる有名クリエイターでもないのに、自分の都合に合わせて仕事ができるものか。大抵はクライアントの都合に合わせて仕事をさせられると知っておくべきだ。
2003年02月16日
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「とにかくSOHOになりたい」という30代の主婦から、こんな相談を受けた。「将来の希望はSOHOをやりたいと思っています。SOHOなら、在宅ワークで自由な時間にマイペースで仕事ができるでしょう? 家にはパソコンもあるし。どんな仕事がいいと思いますか?」 こういうのを本末転倒というのである。この相談には、肝心の「何の仕事をしたいのか」が抜け落ちている。マスコミが弄んでいる「SOHO」という言葉とイメージにひっかかっているだけではないのか。 そもそも、「SOHO」などという職種や業種など存在しない。gooのWeb新語辞典の言葉を借りれば、「小規模な事業者や個人事業者のこと。また,事務所などを離れネットワークを利用して仕事をする形態」(http://dictionary.goo.ne.jp/cgi-bin/nw-more_print.cgi?MT=SOHO&ID=a4f1/a4f1191508150000000000.txt&sw=3 )である。 そう。「業種」や「職種」ではなく、仕事をする「形態」を表しているに過ぎない。基本はあくまでも「ライター」や「デザイナー」といった、これまでにも存在している仕事なのである。 たとえば、パソコンマニアがいくらパソコンとプリンタとFAXを揃えてADSLの通信回線に加入していても、それだけでは「SOHO」にはならない。その人が原稿を作成する能力を以てその環境を使った業務を遂行したとき、はじめて「SOHO(のライター)」であるといえるのだ。インターネットにあるSOHO支援サイトの掲示板などを見ると、パソコンを買えば「SOHO」になれる(または「SOHO」になろう)、という絵に描いたような勘違いの書き込みがいまだに多いようだ。 そんな人は、悪徳業者に騙されるか、逆に何の罪もないクライアントに多大な迷惑をかけてしまうか、そのどちらかでしかないだろう。そういう人は、自分のためにも周囲のためにも業界のためにも、とっとと身を引いて別に趣味でも見つけて欲しい。何もできない無名無能な主婦に、都合のいいときだけ働けばいい「SOHO」の仕事など絶対に存在しない。在宅だから楽チンだろう、というのもムシのいい勘違い。在宅ワークは職住の区別がつけにくく、自己管理のきちんとできない人には難しい。安易な気持ちで手を出されたら雇う側も迷惑だ。(この項続く)
2003年02月15日
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「私、本当はライターをやりたいんです」 通信教育の添削者に応募してきた主婦は開口一番、そう言い切って私の反応を待っていた。宅配新聞の折り込みに入ってくるフリーペーパーを持参している。投稿が著者の写真付きで採用されたものだという。「司法書士の勉強をしてたんですけど、これがきっかけでエッセイとか書けるようになったらいいな、なんて思いまして」 私はそれならというので、ライティングとしては比較的簡単な、学生向け雑誌の偉人伝を2000字お願いしてみることにした。字数が2000字なら、出生のエピソードと公然とした功績をひとつ書いておけば十分埋まるものである。彼女の出身大学を作ったとされるクリスチャンが「お題」だったので、彼女も大乗り気だった。いきなり難しい仕事では気の毒なので、より完成しやすいものを、と配慮をしたわけだ。 こう言ってはなんだが、すぐに使える原稿が上がってくる、と思っていたわけではない。案の定、書かれた原稿は芳しいものではなかった。何点か朱を入れ、不服そうにしている彼女に書き直してもらうことにした。 ところが、2日たっても3日たっても連絡が来ない。こちらで書き直すとしても時間がギリギリまで迫った頃、やっと電話が来たと思ったら、またしても……だ。「私、やめます。やっぱり司法書士の勉強も中途半端じゃいけないと思うし、エッセイみたいな軽い文の方が向いてるみたいな感じもするんです」 気は確かか、と言いそうになった。一介の主婦の「エッセイ」に誰が金を払うだろう。世の中は、主婦の道楽に金は払ってくれない。「エッセイ」が商品として成り立つのは、著者のネームバリューによって付加価値がつくからに決まっているだろう。何を勘違いしているのだ。 1年後、偶然、その主婦と会ったところ、司法書士も「合格しても主婦業と両立しない仕事なのでやめた」という。
2003年02月14日
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自分で調べもせずに人にモノを尋ねてばかりの人を、BBSでは「教えてチャン」と言うらしい。それくらい自分で調べろよ!という揶揄が込められた呼び名だが、実はSOHOにもこの「教えてチャン」がいた。 32歳主婦ライターは15分おきにメールで質問する人だった。これまでWebライターしか経験がなく、商業誌には書いたことがないという。わからないことはフォローしますよ、と言ったのが運の尽き、私はそのあと何時間もメールの回答に追われることになった。「アルファベットは半角でしょうか」 縦書きでない限り、英数字は半角です。「半角も1文字と数えるのでしょうか」 1/2文字で計算してください。「19字×10行とありますが、190文字ということになりますと、半角の文字が奇数分入った場合は190文字ピッタリになりません。どのようにすればいいのでしょうか」 手元の雑誌でも新聞でもいいから見てごらんなさい。行末まできっちりと文字が入っている段落のほうが少ないでしょうが。要するに最後の行に文字が入っていればいいんです。 万事この調子だ。 Webライターだろうが商業誌のライターだろうが、文章を書くという点で違いはないはずだ。和食しか作ったことがない人が中華料理を作るからといって、包丁の持ち方やまな板の使い方までいちいち聞くだろうか。 紙媒体の仕事の進行方法がわからないから、それを聞くというのならわかる。だが彼女の聞いていることはライターならば当然知っていなければならないことばかりだ。それすらわからない素人ならば、そもそも仕事を受けるべきではないだろうと思う。
2003年02月13日
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