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NHK-FMのベートーベン250。第四夜は室内楽の特集でした。「ラズモフスキー」や「クロイツェル」の話かと思いきや、ゲストがチェリストの長谷川陽子だったこともあり、おもにチェロの作品を取り上げていました。◇あくまで個人的な印象ですが、ベートーベンの室内楽作品は、シューベルトやブラームスあたりの室内楽とは、だいぶ違うんだなあ、と思う。楽器どうしの秘めやかな対話、といった感じの音楽じゃない。つまり「ダイアローグ」の要素が少ないように感じます。これはベートーベンの性格の問題でもあるだろうし、あるいは聴力を失ったことにも関係するのかもしれませんが、弦が響き合う滋味深さみたいなものは、あまり感じない。◇主役が弦楽器に置き換わってはいるけれど、前半生の室内楽作品は、ピアノ協奏曲に近いし、後半生の室内楽作品は、ピアノソナタに近い。いわば、ピアノで歌う代わりに、バイオリンやチェロで朗々と歌っている感じです。外に向かっているか、内に向かっているかの違いはあっても、基本的にベートーベンの室内楽は「モノローグ」なのだと思いました。徹頭徹尾、ひとりで語り、ひとりで歌っている。◇共演という意味では、むしろ「三重協奏曲」なんかが、すごくベートーベンらしい。スター演奏家どうしが、火花を散らしながら、全力でぶつかっていく感じ。このあいだ、Eテレで、ヨーヨーマと、アンネゾフィームターと、バレンボイムの競演を見たけど、華やかで、見てるだけでワクワクするし、理屈抜きで楽しかったです。
2020.12.22
NHK-FM「ベートーベン250」。第五夜は、望月哲也と奥田佳道が声楽曲を解説。歌曲のほかに、「フィデリオ」「エグモント」「ミサソレムニス」をとりあげました。歌劇「フィデリオ」についての話は、途中、地震情報で話が中断されたけど、要は、オペラにあってもなお、やっぱり「愛や平和や正義」を描くのがベートーベンだった!ってことでしょうか。クソ真面目な名作ではあるけど、悪くいえば、エンタテインメント性に欠ける。◇ベートーベンが、オペラで成功できなかったのは何故か。たしかに「観客の理解を得られなかった」という説明は、間違ってはいないけれど、逆にいえば、ベートーベン本人も、本気で観客の期待に応えようとはしなかった、ってことですよね。たとえばロッシーニ流のオペラなら、あるいはモーツァルト流のオペラだったら、もっともっと歓迎をもって受け入れられていたはずです。でも、ベートーベンは、その種の迎合をしなかった。第一夜の加藤昌則の話では、「ベートーベンもロッシーニを好んでいた」とのことでしたが、すくなくとも「フィデリオ」を聞くかぎり、彼は、ロッシーニのことも、モーツァルトのことすらも、オペラを書くための模範にはしていません。◇歌劇「フィデリオ」の特徴として、女性による救済が描かれる、ということがあります。さらに、合唱の見せ場が多いこと、ラストで歓喜と祝祭の大合唱になることがあります。わたしが思うに、そこでベートーベンが意識していたのは、ロッシーニでも、モーツァルトでもなく、おそらくゲーテとヘンデルなのだろうな、ってことですね。女性による救済というのは、ゲーテの題材でもあります。「エグモント」でも「ファウスト」でも、主人公の男性は、女性によって魂を救われます。「フィデリオ」はゲーテの作ではないけれど、やはり女性による救済という点で一致しているし、これは、ワーグナーの歌劇にも通じる特徴ですよね。◇一方、ベートーベンは、ゲーテの文学だけでなく、ヘンデルの音楽のことも、かなり意識していたと思います。これはベートーベンに限ったことじゃなく、当時としては一般的な価値観だったと思うけど、バッハよりも、はるかにヘンデルのほうが格上だった。ベートーベン自身、バッハ以上にヘンデルを尊敬していた。バッハが本格的に評価されるのは、ベートーベンの時代より後です。現在でこそ、ヘンデルは、バッハや、ドイツの他の作曲家と比べて、「ドイツ人らしからぬ作曲家」だとか、「ドイツ人のわりには軽めの作曲家」だと思われてますけど、当時の認識は、まったくそうではない。オペラからオラトリオに転向して、傑作「メサイア」を作りあげたヘンデルは、イタリアやフランス出身のオペラ屋とは違って、むしろ真面目な作曲家だと思われていたはずだし、とくに「メサイア」の偉大さと崇高さは際立っていました。英国で(しかも英語で)書かれていたとはいえ、ドイツ人によるゲルマン語の作品が、世界に轟くような金字塔を打ち立てたことは、ドイツの音楽家にとっても誇りであり模範だったと思う。メンデルスゾーンの復興上演によって、バッハの「マタイ受難曲」が評価されるようになったのも、その前提として、ヘンデルのオラトリオへの評価が、一般的に確立していたからだと思います。つまり、ヘンデルは、いま思われているよりも、はるかに「重みのある作曲家」だったのですよね。◇ハイドンやメンデルスゾーンが、なぜオラトリオに取り組んだのか。ベートーベンやマーラーが、なぜ合唱付きの交響曲に取り組んだのか。ヘンデルのオラトリオを抜きにしては考えられません。さらにいえば、ベートーベンとワーグナーのクソ真面目なオペラも、わたしは、ヘンデルを意識した結果なのだろうと思う。歓喜と祝祭の大合唱というのは、ほかならぬヘンデルの「ハレルヤ」を模範にしているはずです。◇ベートーベン以降の作曲家たちは、みなベートーベンの呪縛に苦しんだわけですが、ベートーベン自身は、おそらくヘンデルの呪縛に苦しんだだろうと思います。結局、ベートーベンは、オペラやオラトリオで成功を収めることができず、むしろ交響曲(第9)によって、ヘンデルのオラトリオを乗り越えることができました。逆にワーグナーは、オペラによって、ベートーベンの交響曲を乗り越えたのだと思います。
2020.12.21
NHK-FMのベートーベン250。仲道郁代はピアノソナタを解説。前半の話は「らららクラシック」でも聞いた内容だったけど、むしろ面白かったのは後半の話。ベートーベンの音楽は、ショパンやシューマンとは違った意味で泣ける。という話が印象に残りました。ロマン派ではなく、古典派で泣ける。感情や物語ではなく、形式や論理で泣ける。それは、「悲愴」2楽章の"ため息"と"天使"のモチーフの組み合わせが、結果的にラブソングのような叙情性を生む、ということでもあるし、とりわけ後期の五大ソナタのなかで、現代音楽みたいな「29番」や、ジャズみたいな「32番」が、人生や世界に対する切実な問いになる、ということでもあるし、ブレンターノ家の女性に向けられた「30番」や「31番」が、無二の愛情の証しになったりする、ということでもある。つまり、使われているモチーフが、たんに楽曲構成の道具盾ではなくなる瞬間があるのですね。論理的、あるいは数学的な音楽が、なんらかの叙情になるというのは、バッハに近いかもしれない。◇ベートーベンと仲道郁代との組み合わせは、どうにもミスマッチな気がしていたけど、(どう考えても「ベートーベン弾き」には見えないから)今回の話を聞いて、ベートーベンそのものの認識が、ちょっと変わりました。
2020.12.20
NHK-FM、五夜連続の「ベートーベン250」。宮川彬良の「運命/さがるぞー!」も面白かったけど、毎晩、交響曲以外のジャンルを徹底解説してくれたのが嬉しい。◇14日の第一夜は、加藤昌則によるピアノ協奏曲の全曲解説でした。基本的に、古典派以降のコンチェルトが、「モテるための音楽」「外に開かれた音楽」だというのは、きっと正しいのだと思う。とりわけ作曲家自身が初演することの多いピアノ協奏曲は、自分の名を売る「興行」としての意味合いが強かったでしょうね。パガニーニやリストがリサイタルを始める前夜の時代だけど、ベートーベンもかなりの名手だったらしいし、きっと女性ファンが華麗な演奏に痺れたんじゃないでしょうか。◇ブラームスあたりになってくると、演奏家どうしのダイアローグみたいな要素が強くなって、ちょっと玄人向けのモダンジャズっぽくなるというか、あるいは室内楽っぽくなってしまうけど、本来のコンチェルトというのは、あくまで観客にむけてスター演奏家の魅力をアピールするための、かなりエンタテインメント性の強いジャンルだったのだと思う。いわば、ソリストを主役にした「伴奏付き一人芝居」みたいなものですよね。わりと物語性も強いし、ケレン味があって分かりやすい。ところどころで主役が見得を切るための、絶妙なタメとか見せ場とかも用意されている。ある種の自己陶酔的な世界を、オーケストラが背後から盛り立てる。これを、3楽章構成で変化をつけながら面白く聴かせる。第1コンチェルトが、ロッシーニのオペラみたいなのも、きっとその物語性のゆえなのだろうし、第3コンチェルトが、暗い短調の曲になってるのは、あえてミステリアスな面を見せる演出なんだと思う。ちょっと影のあるベト様も素敵だわ!的な(笑)。◇ベートーベンの場合、交響曲やピアノソナタでは作曲が後半生にまで及んで、おのずと内省的な傾向も強まったけど、ピアノ協奏曲のほうは、まだ耳が聞こえていた前半生の5曲のみ。それだけに、若さがあって、創意にあふれてて、1曲ごとに分かりやすい個性の違いもあるし、出世欲もあっただろうから、サービス精神も感じられる。9曲の交響曲のほうは、正直いって「偶数番が弱い」という印象は否めないけど、むしろ5曲しかないピアコンのほうが捨て曲がないと思いました。
2020.12.19
NHKの『らららクラシック』。「あなたが選ぶベートーベンBEST10」では、1位が「第9」、2位は「第7交響曲」でした。そして「運命」は5位、「田園」は6位にとどまりました。さらにFMの『かけるクラシック』では、1位が「7番」、3位がまさかの「8番」という結果に!(笑)なんと「第9」は5位にとどまり、もはや「運命」や「田園」は10位内にも入っていません。ベートーベンの交響曲といえば3・5・6・9だよね!…などと言ってたのは、すでに過去の話。まさに隔世の感があります。◇よく「のだめ効果」とは言われるけれど、すでにドラマの放送から14年も経っているし、上野樹里も、「のだめ」のイメージを完全に払拭して、いまはむしろ「朝顔」の女優さんになっています。つまり、現在の「ベト7」の人気というのは、たんなる一時的なブームを超えて、完全にクラシックの市場に定着したのだと思う。そして、このことによって、ベートーベンに対する認識も、根本から変わってしまった気がします。従来のように、「苛酷な運命に翻弄された苦悩と努力の人」だとか、「眉間にしわを寄せたイカつい権威主義者」だとか、そういうイメージは過去のものになった。むしろ、ベートーベンは、「革命期の市民社会に颯爽と現れた若々しい革新者」というイメージに変わってきたし、それは歴史的にも正しいのだと思う。ハイリゲンシュタットで書かれたのは「遺書」ではなく、「覚悟」と「決意」の手紙だったという解釈に変わってきた。フルトヴェングラー流の、ドイツ音楽の権威を誇るような荘重なベートーベンではなく、カラヤン流の、若々しくてカッコいいベートーベンが定着したともいえます。最近では、古楽志向もあいまって、さらに軽やかに演奏されるベートーベンも少なくありません。◇14年前の「のだめ」によるベト7のブームを、冷めた目で見ていた人たちもいるだろうけど、そもそも、クラシックの名曲というのは、なんらかの「ブーム」をきっかけにして生まれる場合が多い。たとえば、バッハの「ゴルトベルク」が有名になったのは、グールドのピアノ演奏がきっかけだし、ヴィヴァルディの「春」が有名になったのは、イムジチ楽団のレコードがきっかけだし、ショパンの「ノクターン」が有名になったのは、映画『愛情物語』がきっかけだし、Rシュトラウスのの「ツァラトゥストラ」が有名になったのは、映画『2001年宇宙の旅』がきっかけだった。クラシックとはいっても、名曲としての評価が確立するのは、案外、一時的な「俗受け」がきっかけだったりするわけで、かならずしも「のだめ」のベト7ブームだけが例外ではない。◇従来のベートーベン像は、「運命」だとか「田園」だとか、表題/標題のイメージに引きずられてる面が多分にあって、もちろん「月光」「悲愴」「熱情」もそうですね。そうしたイメージばかりが先行した結果、音楽そのものを虚心に聴く姿勢が欠けていたとも思います。昔、FMの番組で、はかま満緒が、「第9は合唱がはじまるまで退屈だ」と言ってたのを聞いて、すごくゲンナリしてしまった覚えがあるんだけど、昔の日本人のベートーベン受容なんて、その程度だった。つまり、運命といえばダダダダーン。第9といえば天婦羅そばの合唱。そして、学校の音楽室に飾られたベートーベンの厳つい肖像画。そういう先入観だけで受容されていたにすぎない。それが、最近は、ようやく変わってきた。若い世代は、もっと虚心にベートーベンを聴くようになりました。◇第7番には表題がありません。だから、なおさら先入観なしに曲と向き合うことができる。そこでは、リズムが炸裂しています。舞踊ではなく、むしろ舞踏。ロックというより、むしろファンクに近い。そのくらいグイグイいくような推進力です。この7番を中心にして、ベートーベンの他の作品を聴きなおすと、たとえば5番や9番の聴こえ方まで変わってくる。一般に7番は「リズムの権化」といわれてるけど、じつは5番の終楽章だって、十分に「リズムの権化」なのです。さらに第9のスケルツォだって、かなり「リズムの権化」なのです。ちなみに、わたしの推し曲は第9のスケルツォです! めちゃカッコいい!そこにあるのは、けっして重々しい権威主義ではなく、むしろ若々しい革新性です。5番を勝手に「運命」などと名づけたのが、アントン・シンドラーだったのか、日本のレコード会社だったのかは分からないけど、あの交響曲を終楽章まで聴けば、むしろ運命の呪縛を突き抜けていく姿が見えてくるはずです。あれは重々しい「運命」に支配される曲ではなく、むしろ「運命の突破」の曲なのです。◇それはそうと、わたし自身、ベートーベンといえば、やはり交響曲やピアノ曲という思い込みがあったのですが、それを変えるためにも、このメモリアルイヤーをきっかけに、今後は、晩年の弦楽四重奏曲も聴いてみようかなと思ってます。
2020.12.14
テレ朝『関ジャム』のゲストは松任谷正隆。今回の話を聞いて思ったのは、ユーミンにとって、松任谷正隆は、ほんとうに「最良の編曲家なのだろうか?」ってこと。そのことに疑義が生じてしまいました。何をもって「最良」と考えるかは、個々人の価値観や好みの問題だと思うけれど、すくなからず、松任谷正隆時代 < キャラメルママ時代と思ってる人はいるのではないでしょうか?◇◇94年の「春よ、来い」のアレンジに対して、ユーミン本人は「ちがう」と言ったらしいけど、正直な話、あの曲をはじめて聴いたとき、わたしも「ちがう」と思いましたよ。テキトーな古語を用いた日本語が嘘くさい、というだけでなく、曲の世界観そのものが強烈に嘘くさい、と思いました。朝ドラのためにでっちあげた愚曲だと思ってたけど、犯人が松任谷正隆だったとは意外です(笑)。あの頃から、ユーミンの音楽は、どんどん嘘くさくなった。しかも、歌詞にあわせて編曲しているのではなく、編曲にあわせて歌詞を書いている、という衝撃の事実…。このことをどう受け止めるべきなのでしょうか。90年代以降のユーミンの才能が枯渇したのは、音楽業界全体の構造変化の結果でもあるだろうけど、同時に、アレンジャーである松任谷正隆の才能が枯渇した結果でもあった。そうも思えてくる話です。ちなみに、事情は色々あるだろうけど、曲によって夫婦の意見が食い違うのなら、そのつど別のアレンジャーを立ててもよいのでは?とも思う。◇◇もうひとつの重大なエピソード。わたしは、84年の「ノーサイド」の神がかったイントロは、松任谷時代のものとしては、もっとも"キャラメルママ的"なものだと思ってたのに、じつは、あれを作ったのは松任谷ではなかった!という話。かといって、ユーミン自身でもない。高水健司が吉川忠英の曲のために作ったものだそうです。たぶん「TWO IN LOVE」という曲じゃないでしょうか。ちなみに、この当時、吉川忠英はユーミンの曲も歌っていました。当時のクリストファー・クロス風AORではあるけど、本来、あのようなフレーズやサウンドは、「フォークの歌心」とか、「ジャズ・フュージョンの感性」といった要素がないと、生まれて来ないものだろうと思います。キャラメルママには、それがあったのでしょう。そうでなければ「海を見ていた午後」のようなアレンジは不可能です。アルバム『NO SIDE』のころには、まだ林立夫などキャラメルママ時代のメンバーも加わってました。しかし、松任谷の単独のアレンジとなると、そうした要素は失われてしまうのかもしれないし、それはユーミン自身にも乏しいものなのかもしれません。はからずも、松任谷夫妻の音楽性がもつ限界を知った気がしました。
2020.11.30
松原みきの「真夜中のドア」が世界的にヒットしているそうです。1979年の曲だから、じつに40年も前!インドネシアのRainych(レイニッチ)という女の子が、これをカバーしたのがきっかけのようで、竹内まりやの「PLASTIC LOVE」に続いて、またも日本のシティポップが海外で再発見された形です。わたし自身は、とくに原曲に思い入れがあったわけじゃないけれど、たまたま最近、中島愛の歌ったバージョンを聴いて、この曲がちょっとしたマイブームになっていたので、今回の世界的なヒットにもシンクロしてしまいました。あらためて原曲を聴くと、やっぱりいいですね。都会的だけれど、ちょっと切ない。林哲司が初期に作った曲です。竹内まりやの「SEPTEMBER」あたりと同じ頃の作品。林哲司のサウンドは、まさに当時の最先端だったAORそのものですけど、そこに、歌謡曲のウェットな要素も、絶妙に織り込まれている。とくに、「♪帰らないでと泣いた…」のところは、ちょっと《演歌的》だとさえ言ってもいい。洋楽的な感覚と、歌謡曲の叙情性が、なんともいえず見事な塩梅になっていて、かつては宮川泰も、彼の作品を誉めていました。ちなみに宮川が絶賛していたのは原田知世の「愛情物語」。こういうテイストが欧米でも理解されるようになったら、いよいよ歌謡曲が世界化していくのかなと思います。PLASTIC LOVEStay With Me
2020.11.22
以前は、NHK-FMで「古楽の楽しみ」を聴いてたので、わりとフランスのバロックオペラは好んで耳にしてました。 しかし、テレビで取り上げられることは少ないので、今回、映像で見ることができたのは嬉しい。ドビュッシーやラベルのような近代音楽もいいけれど、フランス本国では、30年ほど前から、バロック音楽が若者たちに人気なのだし、それはポピュラー音楽のなかの古楽趣味にも影響しているし、今後はEテレでも、リュリやらカンプラやらシャルパンティエやら、どんどん映像で取り上げてほしいなと思います。むしろ遅すぎるくらいですけど。◇フランスのバロック音楽の人気が高まったのは、たぶん米国人のウィリアム・クリスティが、79年にレザール・フロリサンを結成して以降ですよね。91年には、マラン・マレを題材にした映画「めぐり会う朝」が公開され、00年には、リュリを題材にした映画「王は踊る」も公開されています。宮川彬良が今ごろになって「ラモー歴半年」というのは、音楽家としてちょっとどうかと思うし、フランスのバレに対する認識もズレてる気がしたけど、(彼が言ってたのは、たぶんロシアバレエのことですね)ラモーの音楽のなかに、シャッフルするビートを聞き取っていたのは、さすがに親譲りというか、なかなか面白かったです。ただし、「バッハの教会音楽がラモーにくらべて堅い」という話は、たしかに間違いではないと思うのだけど、いちはやくジャズに翻訳されたのは、むしろバッハのほうがはるかに先だったんだから、おそらくバッハのなかにも、シャッフルするビートは十分に聞き取れるはずですよね。◇当時のフランス人が、イタリアオペラを受け入れなかったというのは、ちょっと興味深い話でした。そのころからフランス音楽は独立した存在だったのですね。といっても、その基礎を築いたのはイタリア出身のリュリですけど(笑)。フランス人はカストラートを受け付けなかった、という話もありますが、わたしが思うに、イタリア人の暑苦しい歌なんぞよりも、踊りと合唱が穏やかに調和する優雅な世界のほうが、フランス人の好みに合ったのだろうな、という気がします。「バロック音楽はオペラから始まった」「オペラはイタリアではじまった」という歴史認識にとらわれてしまうと、フランス音楽の独自性を見落としてしまうし、のみならず、バッハやヘンデルが、かなり「フランス風」の影響を受けていることを考えると、むしろバロック音楽そのものを、フランス中心に捉え直すべきなのかもしれませんよね。◇ラモーが和声学の基礎を築いた、というのも知らなかったです。ベルリオーズは管弦楽の基礎を築いていますけど、そういう意味ではドイツ人よりフランス人のほうが偉いですね(笑)。意外にフランス人のほうが理論的なのでしょうか?それとも、実践的だというべきなのでしょうか?
2020.10.28
筒美京平の最後の作品は何だったのかしら?…と思って調べてみたら、田所あずさの「あなたの淋しさは、愛」という曲でした。売野雅勇が、アニメ声優たちをボーカリストに迎えて、昭和歌謡の作曲家たちと共作した企画作品の収録曲です。アルバムのタイトルは、『ネヴァーランド -Voice Actor×売野雅勇-』。2019年の5月22日に発売されていました。これが筒美京平の遺作だったようです。1. ワンダフォー!仲村宗悟(作曲:コモリタミノル/編曲:白戸佑輔)2. 東京PARADISE山寺宏一(作曲:芹澤廣明/編曲:やしきん)3. すべての愛しきRunaways野島健児(作曲:井上大輔/編曲:黒須克彦)4. あなたの淋しさは、愛田所あずさ(作曲:筒美京平/編曲:小林俊太郎)5. ヨコハマ粋森川智之(作曲:井上大輔/編曲:小林俊太郎)6. 男と女は十時半山寺宏一&内田彩(作曲:馬飼野康二/編曲:奈良悠樹)7. それは、私じゃない内田彩(作曲:後藤次利/編曲:eba)8. Clowntime Berlin木村昴(作曲:馬飼野康二/編曲:黒須克彦)9. メランコリーのダイアモンドさゆりカノン(作曲:コモリタミノル/編曲:鈴木Daichi秀行)全作詞:売野雅勇 ◇ちなみに、筒美京平の名曲ということでいえば、もちろん、これまでに、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」と、斉藤由貴の「卒業」との関係などについては、繰り返し考えてきたのですが、(⇒こちらで詳しく話しています)もしも、筒美京平の全作品のなかで代表曲をひとつ選ぶとすれば、とりあえず堺正章の「さらば恋人」を挙げます。イントロのサウンドや、アレンジにいたるすべてにおいて、いちばん"筒美らしい"と思える曲だからです。まるでStevie Wonderの「My Cherie Amour」みたいな曲。◇これが発表された1971年は、おそらく筒美京平がもっとも注目された年ですね。「また逢う日まで」と「さらば恋人」が、この年のレコード大賞を争っただけでなく、「真夏の出来事」も「17才」も「さいはて慕情」も、すべて1971年の彼の曲だったのです!さらに挙げれば、「雨のエアポート」も「お世話になりました」も、「青いリンゴ」なども、みんな彼の曲でした。この1971年を境にして、日本が筒美京平の曲であふれるようになって、歌謡曲の世界は、急にオシャレになったのです。そして、その翌年からは、「男の子女の子」だの、「わたしの彼は左きき」だの、「赤い風船」だの「ロマンス」だのといった、新しいアイドルポップも次々に生まれていきます。◇80年代以降になると、筒美京平の作風は大きく変わるのですが、わたしがいちばん驚いたのは、今井美樹の「野性の風」でした。「え?!これって筒美京平の曲なの?」と思うほど、ガラリと曲調が違っていました。それまでに聴いたことのない雰囲気の曲だった。NOKKOの「人魚」もけっこうな驚きでした。◇筒美京平が、「サザエさん」などのアニメソングを書いていたのは、まったく知りませんでした。ある記事を読んだら、「サザエさん」のサウンドにも、やはりソウルミュージックの影響があるとのこと。…そういわれてみると、あれは、Otis Redding! Booker T & M.G.'sです!!◇このほか、思いつくままに好きな曲を列挙しておきます。郷ひろみ「よろしく哀愁」太田裕美「雨だれ」大橋純子「たそがれマイ・ラブ」薬師丸ひろ子「あなたを・もっと・知りたくて」河合奈保子「暁のスカイパイロット」(albumより)斉藤由貴「海の絵葉書」「夕暮れ日記」(albumより)荻野目洋子「さよならの果実たち」小沢健二「強い気持ち・強い愛」…ほかにも思い出したら、あとで書き足します。筒美京平自選作品集 50th Anniversaryアーカイヴス アイドル・クラシックスDISC-11 悲しみのアリア/石田ゆり2 17才/南 沙織3 芽ばえ/麻丘めぐみ4 初恋のメロディー/小林麻美5 私は忘れない/岡崎友紀6 赤い風船/浅田美代子7 娘ごころ/水沢アキ8 わたしの彼は左きき/麻丘めぐみ9 恋のインディアン人形/リンリン・ランラン10 ほほにかかる涙/エバ11 ロマンス/岩崎宏美12 センチメンタル/岩崎宏美13 木綿のハンカチーフ/太田裕美14 セクシー・バスストップ/浅野ゆう子15 恋のハッスル・ジェット/シェリー16 6年たったら/五十嵐夕紀17 リップスティック/桜田淳子18 シンデレラ/高見知佳19 日曜日はストレンジャー/石野真子20 ROBOT(ロボット)/榊原郁恵DISC-21 センチメンタル・ジャーニー/松本伊代2 夏色のナンシー/早見 優3 エスカレーション/河合奈保子4 ト・レ・モ・ロ/柏原芳恵5 卒業/斉藤由貴6 あなたを・もっと・知りたくて/薬師丸ひろ子7 なんてったってアイドル/小泉今日子8 1986年のマリリン/本田美奈子9 地上に降りた天使/水谷麻里10 夜明けのMEW(ミュー)/小泉今日子11 WAKU WAKUさせて/中山美穂12 teardrop/後藤久美子13 さよならの果実たち/荻野目洋子14 ホンキをだして/酒井法子15 17才/森高千里16 肩幅の未来/長山洋子17 ときめいて/西田ひかる18 元気!元気!元気!/高橋由美子19 TENCAを取ろう! -内田の野望-/内田有紀20 理由/安倍麻美AOR歌謡DISC-11 渚のうわさ/弘田三枝子2 さよならのあとで/ジャッキー吉川とブルー・コメッツ3 ブルー・ライト・ヨコハマ/いしだあゆみ4 京都・神戸・銀座/橋幸夫5 捧げる愛は/島倉千代子6 くれないホテル/西田佐知子7 粋なうわさ/ヒデとロザンナ8 フランス人のように/佐川満男9 真夜中のボサ・ノバ/ヒデとロザンナ10 ヘッド・ライト/黒沢明とロス・プリモス11 あなたならどうする/いしだあゆみ12 雨がやんだら/朝丘雪路13 絵本の中で/クロディーヌ・ロンジェ14 さらば恋人/堺正章15 真夏の出来事/平山三紀16 誰も知らない/伊東ゆかり17 夜が明けて/坂本スミ子18 自由の鐘/西郷輝彦19 貴方の暗い情熱/高田恭子20 かもめ町 みなと町/五木ひろしDISC-21 恋の十字路/欧陽菲菲2 二時から四時の昼下り/朱里エイコ3 よろしく哀愁/郷ひろみ4 飛んでイスタンブール/庄野真代5 銀河特急/松崎しげる6 ぬくもり/細川たかし7 魅せられて/ジュディ・オング8 来夢来人/小柳ルミ子9 スニーカーぶる~す/近藤真彦10 愛しつづけるボレロ/五木ひろし11 普通のラブ・ソング/水谷豊12 モロッコ/森進一13 こころ美人/布施明14 君だけに/少年隊15 JOY/石井明美16 抱きしめてTONIGHT/田原俊彦17 とまどい小夜曲(セレナーデ)/髙橋真梨子18 タイムマシーン/藤井フミヤ19 ありがとう おかげさん/都はるみ20 ビヨンド/平山みきシティ・ポップスDISC-11 黄色いレモン/藤 浩一2 バラ色の雲/ヴィレッジ・シンガーズ3 ダーティー・ドッグ/尾藤イサオ4 スワンの涙/オックス5 白いハイウェイ/ブレッド&バター6 サザエさん/宇野ゆう子7 ひとりの悲しみ/ズー・ニー・ヴー8 悪っぽい人だけど/森山良子9 また逢う日まで/尾崎紀世彦10 お世話になりました/井上順之11 雪が降るのに/黛ジュン12 愛の挽歌/つなき&みどり13 青春挽歌/かまやつひろし14 或る日/ザリバ15 夏しぐれ/アルフィー16 忘れ雪/オフ・コース17 セクシー・バスストップ/Dr ドラゴン&オリエンタル・エクスプレス18 ヒットマシーン/K・T-585 BAND19 たそがれマイ・ラブ/大橋純子20 グッド・ラック/野口五郎21 センチメンタル・ブルー/BUZZ22 ワールド・ファンタジー/レターメンDISC-21 ロキシーの夜/近田春夫2 ブルー・バタフライ/さとうあき子3 ラスト・トレイン/宮本典子4 とりあえずニューヨーク/山下久美子5 ドラマティック・レイン/稲垣潤一6 夏のクラクション/稲垣潤一7 Romanticが止まらない/C-C-B8 その後で殺したい/SHOW-YA9 野性の風/今井美樹10 HI! HI! HI!/森川由加里11 夏の二週間/谷村新司12 兆しのシーズン/中島みゆき13 カナディアンアコーデオン/井上陽水14 強い気持ち・強い愛/小沢健二15 MUSTBEHEAVEN/中西圭三16 恋のルール・新しいルール/ピチカート・ファイヴ17 Desire/DOUBLE18 AMBITIOUS JAPAN!/TOKIO
2020.10.13
歴史秘話ヒストリア。朝ドラ主人公のモデル、古関裕而をとりあげました。副題は「エールよ時代に響け」。戦前・戦中・戦後にかけて、「日本人にエールを送り続けた」といえば、聞こえはいいけれど、裏を返せば、それは、いかにも音楽家らしい日和見であり、非常に恐ろしいことでもある。容易には肯定できません。そのような音楽家の日和見は、現在にさえ、ありうる話だからです。◇番組では、「人々にエールを送った」「人々の背中を押した」といった表現が使われていました。戦前にも人々の背中を押し、戦中にも人々の背中を押し、戦後にも人々の背中を押した。いつの時代も、同じように背中を押すべきでしょうか?場合によっては、立ち止まらせることが必要なのでは?◇アニメ『風立ちぬ』の堀越二郎は、技術者として、朝ドラ『エール』の古関裕而は、音楽家として、戦時中に活躍し、日本を後押ししました。技術者は技術によって、音楽家は音楽によって、人々の背中を押すのが仕事だと考えれば、それほど単純で分かりやすいことはありませんが、しかし、そんな単純な話でいいのか?葛藤を強いられるのは苦痛かもしれないけれど、ときには葛藤しなければならない場合もある。葛藤を避けようとする人間が、いちばん危険です。◇技術者も、音楽家も、ついつい人々の背中を押してしまう。たとえ崖から落とす結果になるとしても。しかし、いつでも人々の背中を押せばいいわけではない。ほんとうの意味で、堀越二郎や古関裕而から学ぶべきは、そのことです。けっして「人々にエールを送ればいい」という単純な話ではない。
2020.09.24
もともとアーリー聖子が好きだったし、財津和夫のつくった曲はとくに好きでした。おなじ福岡出身ということもあるけど、彼女のいちばんピュアな面を引き出してるのが、財津和夫の曲だったんじゃないかな。かりに、すべての聖子の曲のなかで、たった1曲だけを選べといわれたら、わたしの場合は「白いパラソル」なのです。何も飾らない少女のような曲ですから。◇ちなみに、財津がインタビューで、「自分が歌うような曲を作っていた」という話には驚きました。むしろ、聖子に宛ててこそ生まれた曲だと思えたし、それをチューリップや財津和夫が演奏してる姿は、想像もできなかったですね。◇今回の「風に向かう一輪の花」も、初期のアルバムに入ってても不思議じゃない、アイドル時代を彷彿とさせる清純なワルツ。と同時に、「大丈夫」と歌う高音の部分には、いまの聖子の母性も感じられて、なかなか、いいバランスです。NHK松田聖子スペシャル 風に向かって歌い続けた40年財津和夫/篠山紀信/松任谷由実/松本隆/青井実アナ/制服デモテープクインシー・ジョーンズ/ボブ・ジェームス松田聖子40周年記念アルバム『SEIKO MATSUDA 2020』
2020.09.23
フジテレビ「MUSIC FAIR」に田村芽実が出演。ミュージカル『WiCKED』の「ポピュラー」を歌いました。いやあ、歌上手いのは知ってましたけど、あらためて衝撃。第一声を発した瞬間の説得力がスゴイ。現役シンガーのなかでは、ちょっと図抜けています。いまのミュージカル歌手で、中川晃教と木下晴香と田村芽実の3人は、個人的に見逃がせないです。でも、あまりミュージカルの枠だけに収まりすぎず、ちゃんとポップスも歌ってほしいですけどね。ちなみに、他の歌手との共演だと相手が気の毒だから、なるべく単独で歌ったほうがいいんじゃないかなあ。
2020.09.13
歴史秘話ヒストリア。小津安二郎を取り上げていましたが、ほとんど知らない話ばかり。わたしは、いままで、小津安二郎のことを、東京や鎌倉で育った粋人だと思ってたのですが、じつは三重県育ちなのですね。調べてみたら、先祖は伊勢商人だそうで、意外に関西人の血が流れている。◇もともと気性が荒かったというのも意外。中国戦線を生き抜いた事実も知らなかったし、シンガポールで、厚田雄春とともに、国策映画に関わったことも知りませんでした。小津のカメラのローアングルというのは、わたしは「子供の視線」だと思っていたのですが、もしかすると、地面に這って銃を構えるときの視線だったかもしれない。そんなことさえ考えてしまいました。戦地から帰還した監督といえば、わたしは真っ先に本多猪四郎を思い浮かべますが、小津の場合も、本多の場合も、戦争の描き方は、けっして一筋縄ではありません。小津は、戦争映画そのものは作りませんでしたが、作中には戦争未亡人も出てくるし、かつての戦友たちが酒を飲んで一緒に歌ったりします。きわめて複雑な形で戦争の影響が映り込んでいる。◇山中貞雄との関わり。山中が戦病死したのは知っていますが、その直前に戦地で小津と会っていたとは驚きです。調べてみたら、戦前からかなりの交流があったのですね。今回の番組を見ると、山中貞雄が与えた影響は、かなり大きいと思えてくる。山中は、小津の6才年下ですが、すくなくとも戦前の作品で比較する限り、山中のほうが映画作家として成熟していたと思います。ちなみに『河内山宗俊』には原節子が出てますけど、戦後の小津が彼女を重用したのも、案外、山中との交流が影響してるかもしれません。◇野田高梧との関わり。小津の映画において、野田の脚本が重要だというのは、なんとなく感じてたことだけど、今回の番組を見ると、世界的に高く評価されている戦後の小津作品は、すべて野田との共同脚本以降のものだし、その意味では、むしろ「野田作品」と言うべきものだと思えてくる。小津と寝食を共にした野田の妻と娘は、そのまま小津映画に登場するキャラクターのようです。オヤジ2人が、野田の娘に翻弄される姿を想像すると、そのまま映画のワンシーンのようで笑えてきます。
2020.09.11
このあいだのFNS歌謡祭で、鈴木雅之と前田亘輝のデュエットを聴いて、これが、予想以上に良かったのです。わたしは、もともと、鈴木雅之も好きじゃないし、前田亘輝も好きじゃない。なぜって、鈴木雅之のエセ東京(=大森)感が嫌いで、前田亘輝のエセ湘南(=厚木)感が嫌いだったから(笑)。とりわけ、鈴木雅之における「エセ 山下達郎」感や、前田亘輝における「エセ 桑田佳祐」感は、その俗物感をかえって際立たせていたのです(笑)。でも、この偽物と偽物を掛け合わせてみたら、意外なほど「本物」でした。ラッツ&スターとチューブ。このクサすぎる禁断の組み合わせ!!いわば「ー10点」と「ー10点」を掛け合わせたら、あら不思議「+100点」になっちゃった感じ!たしかに歌が上手い。歌のうまさは申し分ない。演歌歌手を凌ぐほど上手い。そして、大森×厚木。この泥臭さと鬱陶しさが丁度いいのです。東京湾一円をカバーするに十分な汎用性がある。CDが出たら買うかも。
2020.09.02
いままで見た映画のなかで、好きな作品を教えてといわれても、ついつい昔見た映画ばかりを挙げてしまって、あらたに見た映画がフェイバリットに加わることなど、最近はほとんどないのだけれど、『ラ・ラ・ランド』は、あらたなフェイバリットに加わりそうな作品です。◇とくにミュージカル好きというわけではないけど、この映画は、観る前から少しの予感があって、なぜかオープニングの高速道路の長回しのシーンから、胸がいっぱいになってしまって涙があふれました。夜景の見える丘で歌い踊るシーンでも、天文台のプラネタリウムにふわりと舞い上がるシーンでも、なぜか不思議と涙があふれてしまうのでした。夢のように美しいのに、どこか悲しくて切ない。◇愛し合い、ともに夢を追った二人。でも、たがいの夢を追うなかで、いつしか距離が離れ、夢を実現したときには、もう離れ離れになっている。なぜ一緒になれないのだろう?そりゃ、長い月日のなかで色んなことがあるからですよね。いろんな出会いもあれば、別れもあるから。ただ、それだけの話です。よくある話なのです。…でも、よくある話だけれど、けっして「よくある映画」ではない。ありえないファンタジーを描く映画はありふれてるけれど、よくある人生の断面を、これほど味わい深く描ける映画は少ない。>>そのあたりのことはこちらに書きました。◇最後の場面、夫婦がふらりと立ち寄った地下のジャズバーで、ミアが「SEB'S」の看板を目にした瞬間からは、もう、つらくて、悲しくて、涙が止まりませんでした。セブが最後にピアノで弾いたメロディは、彼がおそらく5年のあいだに繰り返し思い巡らせただろう、想い出と、淡い夢を、走馬灯のように描き出していく。ミアにも、同じものが見えたのでしょうか?◇夢追い人に祝福を。それが、この映画の主題です。そして、二人の夢は叶いました。ミアの夢は、セブが自分の店を開くこと。セブの夢は、ミアが女優として羽ばたくこと。ミアは「店の名前は《チキンスティック》よりも《SEB'S》がいい」と言い、セブは「君がパリにいったら、女優の仕事に専念するほうがいい」と言った。はたして、すべてが思ったとおりになりました。だからこそ、最後に遠くからお互いを見つめた二人は、しずかに頷いて、そのことを確認しあったのですよね。でも、いちどしかない人生、ひとつの選択しか許されない人生は、つねに胸を締めつけられるような後悔にも満ちている。ミアは、セブの音楽を理解して、ジャズのことが好きになっていたのに。セブは、ミアの故郷の話も、女優だった叔母の話も、すべて覚えていたのに。二人こそが、お互いの夢のことを、誰よりも理解していたのに。それでも、5年の月日のなかで、それぞれの歩む道は分かれてしまう。◇再会した二人はひとことも言葉を交わしません。ただ、見つめ合って頷いただけです。それだけで、言葉にするよりはるかに多くの記憶が二人のあいだによみがえり、そして「なぜ一緒になれなかったのだろう?」という想いが、一瞬のうちによぎるのだと思う。でも、答えは分かり切っています。…それが人生だからです。◇この映画を見て、なぜかわたしが思い出したのは、山中貞夫の「人情紙風船」。あるいは、ベルイマンの「野いちご」でした。ベルイマンは39才。デミアン・チャゼルは32才。山中貞夫は28才。みんな若いときに撮っているのですよね。それなのに、彼らの作品には、すでに人生の悲哀や後悔があふれている。でも、若いエネルギーがあるからこそ、これほどまでに胸の締め付けられるような作品が撮れるのかもしれません。◇とくにミュージカル好きではない私にとって、歌や踊りが素晴らしいことだけが作品を評価する基準ではないし、逆に、歌や踊りが駄目だからといって、作品を評価しない理由にもならない。わたしが素晴らしいと思ったのは、この映画が、おそらく今まで観た中ではじめて、「ミュージカルならではのドラマ話法」というものを、たしかな実感をもって理解させてくれたこと。ミュージカルといえば、とつぜん歌いだしたり踊りだしたりすることに、違和感をもつことも多いのだけれど、この映画には、一般的なドラマのリアリティとは違う、ミュージカルならではの話法がありました。夜景の見える丘で、口で話すのとは裏腹に、歌い踊りながら心を近づけていくシーンにも、グリフィス天文台で、プラネタリウムのなかへ舞い上がっていく幻想的なシーンにも、《そこでこそ歌い踊る必然性》を、たしかに実感させてくれたのですね。◇デミアン・チャゼルは、とくにミュージカル専門というわけではないようですが、今後も注目していきたい監督です。ちなみに最近は、英語の発音に忠実であろうとする流行があるらしく、わざわざ「デイミアン」と英語なまりにも表記されるようだけど、彼がフランス系であることを考えれば、むしろ「デミアン」もしくは「ダミアン」と表記するほうが、よっぽど正しいんじゃないかという気がします。過度な英語至上主義は、かえって鬱陶しいですね。
2019.02.10
紅白は、今回から3年間、新しい路線なんだそうですが、去年までとは明らかにちがうのが分かりました。よかったです。基本的にこの路線で続けてほしい。いつものダラダラした余興とかがなくて、歌に魅入ってるうち、4時間があっという間に終わってしまった。すぐに歌で始まって、最後も歌で終わったのもよかった。今回は、ア-ティストのパフォーマンスも、今までとずいぶん印象が違いました。例年だと、ろくに歌えていないアーティストが、すごく多いから。とくにポップス系のアーティストに多いんだけど、普段のライブや民放の番組では良いパフォーマンスをしてるのに、紅白になると全然ダメ、という歌手が、よく見かけられた。つねにちゃんと歌えるのは、ベテランの演歌歌手ぐらいだった。だから、紅白というのは、よほどアーティストにとって歌いにくい環境なんだろうなあ、と思ってました。でも、今回は、何か今までと演出上の変化があったのか分かりませんが、不思議なくらい、みんな良く歌えているのが分かりました。演歌歌手の人たちも、例年以上に腰を据えて歌えてるのが分かった。そもそも、プロなんだから、(アイドル系の子たちはともかく)みんな歌がちゃんと歌えて当たり前なんだし、アーティストがまともに歌すら歌えないというのは異常なんだけど、今までの紅白では、その最低条件すら満たせてなかった。中島美嘉とか、平井堅とかは、場合によっては悲惨なくらいダメな時もあるけど、今回はとてもよく歌えていたと思います。それから、氷川くんは非常に素晴らしかったです。全体的に、演奏のアレンジも良かったと思います。アレンジというのは、各アーティストに任されているのか、それとも、全体を統括する音楽監督がいるのか分からないけど、全体的に、歌そのものを引き出すような、シンプルなアレンジが良かったです。とくに、天童よしみと秋川雅史のアレンジ。歌の迫力が直に伝わるようなアレンジになっていました。あと、ドリカムと寺尾聰の演奏もよかったです。ほかに印象に残ったパフォーマンスは、絢香、TOKIO(歌が上手くなった)、長山洋子(三味線の弾き歌いカッコよかった)、槇原敬之、ガクト(ここまで来ると、ビジュアル系も一年がかりだな)、大塚愛(というより、流石組の振り付けが良かった)、小椋佳、一青窈(の手話&コーラス)、早乙女太一くん(番外)あと、薬師丸ひろ子の語りもステキでした。長山洋子とか、坂本冬美とか、石川さゆりとかがそうだけど、演歌のほうも、情念とか耽美主義とか、ビジュアル系なんですね。長山洋子のパフォーマンスは、ちょっと椎名林檎っぽいと思った。司会の鶴瓶は、知識と、親しみと実感がこもってて、これぞ噺家の実力だなあ、と思わせられるところが大きい。それと、それぞれの歌にひとつひとつストーリーがあったことも、歌に引き込む上で、たしかに功を奏してました。ただし、これは、あんまり無理矢理なストーリーをでっち上げると逆効果だから、その点は、今後も、注意してほしいです。
2008.01.01
NHK-FMが、夜中の時間帯に、これまでの「名盤コレクション」にかわって、新しく「ミュージックリラクゼーション」ってのを放送してる。いわゆるイージーリスニングの番組。番組スタイルとしては、かつての「クロスオーバーイレブン」あたりを意識して、全体がゆったりと“音楽的”に構成されてる感じ。個人的にイージーリスニングってのは、安易だから嫌いなんだけど、番組のコンセプトとしては、悪くないと思います。ただ、前回の「名盤コレクション」にしても、今回の「ミュージックリラクゼーション」にしても、コンセプトじたいは悪くないと思うんだけど、内容的に、今ひとつクオリティの高いものになってこないのも事実。◇前の「名盤コレクション」は、週ごとにゲストを招いて、その人の選曲したものを聴くという試み。通常なら聴けないようなジャンルの曲も耳にできる好企画だったけど、せっかくのゲストとの会話はいつも中途半端で、紹介された音楽にかんする理解もまったく深まらなかった。今回の「ミュージックリラクゼーション」は、イージーリスニングの番組というのは現在少ないので、こういう枠もどこかに必要だとは思し、かつては喜多郎やエンニオモリコーネ、最近なら加古隆を“発見”したNHKの卓越した選曲センスに期待したいとも思う。たしかに、この番組を聴いてると、だんだん意識が遠のいてくるような、いかにもリラクゼーション効果のありそうな選曲ではある。でも、ある意味、そのへんのCDに売ってそうなパターン化した選曲とも思える。曲の合間で朗読される、「木星」や「火星」がどうとか言うお決まりのナレーションも、さほど練られた感じのしない安っぽい文面だし、ラストに短歌をひとつよむって発想も、なにやら安易な気がする。毎晩、凝ったスクリプトを展開していたかつての「クロスオーバーイレブン」の質から見ると、そうとう見劣りがするのは否めない気がします。はっきり言えば、スタッフが二流なんじゃなかろうかと思える。◇ついでに、NHK-FMの、夜の番組編成全体についても一言。夜11時台のラインナップにかんしては、番組の質はともかくとして、少なくとも、バランスはとれてる。いろいろなジャンルの音楽が聴ける。いわゆる「渋谷陽一」的な枠は、週にひとつと限定されてるし。問題は、9時台の「ミュージックスクエア」です。この時間帯に中高生向けの番組をやるのはもちろん構いません。だけど、はたして週に7~8時間も使って、毎日毎日J-POPの新作を紹介する必要があるんでしょうか?それらが自国の商品文化だとはいえ、NHKがそこまでして宣伝媒体に徹する必要があるんでしょうか?まるで、『ロッキングオンジャパン』の内容を毎晩音で聴かされてるかのようです。今の「ミュージックスクエア」を聴いてる中高生のなかから、かつて「サウンドストリート」を聴いて刺激された人たちのように、高い文化センスをもった人たちが育ってくる気はしません。たんにレコード会社のコマーシャリズム漬けになってるとしか思えない。もっといろんな音楽を聴く機会を与えようよ。NHKは、かつて「ロッキングオン」にさんざん貢献したけど、いまのうち日本の音楽文化の「ミュージックマガジン」的な部分に目を向けておかないと、いずれ手遅れになってしまうと思う。それは、今後のNHK-FMそのものの存在意義にもかかわってくる。
2007.04.10
以前の「NHK-FM問題」にも絡んで、今日は、そのFMの番組のことを少し。NHK-FMの昼の番組、「ひるのいこい」。ラジオ第一だけの放送だった頃は、とくに聴いてませんでしたけど、FMでも放送するようになってから、よく聴くようになった。あらためて聴くと、この番組、最強です。◇絶妙な選曲。古い歌謡曲や演歌に固執してるわけでもなければ、最近のJ-POPに偏ってるわけでもない。気持ちの落ち着く曲が多いけど、どの年代の日本人にも受け入れられる選曲だと思う。この番組で流れてくる曲を聴いてると、現在の日本のマーケットやポップ・ジャーナリズムが、いかに偏った嗜好をもった、排他的な世界をつくっているかが分かる。日本の普通の曲のなかにも、いいものはあるんだなと思える。今のマーケットも、ジャーナリズムも、つねに「新しいもの」を求めようとする傾向があるけど、じつはそれじたいが、偏狭で、狂信的な考え方だし、まして、一部のジャーナリズムのように、「歌謡曲的なもの」を意図的に排除しようとする態度は、日本の音楽文化にとって、かなりの害悪にさえなりつつある。新しくはないけれど、普通の音楽でも、いいものはいい。◇この番組の特筆すべき点が、もうひとつある。それは「番組全体が“音楽的”に構成されている」という点です。毎日、担当のアナウンサーが、日本中から届く、いろんな“便り”を読むんだけど、それを読むアナウンサーの語り自体が、番組のなかで、ひとつの音楽的な要素になっている。ぶっちゃけ、“便り”そのものの内容は、よく意味が分からなかったりもするんだけど、それは、さほど問題じゃない。重要なのは、語りと曲とが、ともに音楽を奏でてるという番組の構成です。こういうタイプの番組は、だいぶ少なくなった。かつての「クロスオーバーイレブン」なんかは、そういう番組の一つだったと思うけど、今はそれもないし。かろうじて、現在では「音の風景」とか「FMシアター」ぐらいかな。わたしが、個人的にNHK-FMに期待する番組には、大きく言って2種類あるんだけど、そのひとつが、この「ひるのいこい」のように、番組全体が“音楽”になるようにつくられた、洗練された番組です。あと、もうひとつは、徹底的にテーマを絞って、特定のジャンルの音楽を系統的に紹介してくれるような番組。以前のNHK-FMには、その種の専門番組や特集番組もあったんだけど、最近では、それも少なくなりました。近年のNHK-FMは、祝日などに「○○三昧」というのをやってるけど、たいした専門的な解説もなければ、選曲もさほど系統的でなかったりする。NHKなんだから、それなりに高い水準の内容にしてほしい。そのためには、資料になる音源も必要ですけど。こう言っちゃなんだけど、知性のないパーソナリティが、いきおいにまかせて喋りながら曲をかけていく、みたいな、そういう安っぽいDJスタイルの番組ってのは、おおむね、民間の放送局にやらせておけばいいんじゃないでしょうか。※現在、音楽惑星さんにお邪魔して、「斉藤由貴」問題について考えています。
2006.10.17
「NHK-FMは、公共放送としての役割を終えた」という、意味の分からない、根拠もはっきりしない提言が、政府周辺から出てきた。は??って感じ。「民放のFM局で用が足りるから。」みたいに言ってるけど、はたして、いまの各民放のFM放送局が、公共性という観点から、日本の音楽文化を担い得る存在になれるでしょうか??わたしは、これまでのNHK-FMが、充分に「公共放送」としての役割を果たしたとは思っていない。かといって、いまのところNHK-FM以外に、公共性という観点から音楽文化を担い得る代替機関が存在するとも、まったく思ってません。むしろ今こそ、NHK-FMを、公共性という観点から日本の音楽文化を担い得る機関として、再建しなおすべきです。つくづく、日本の政治の、文化的感性の無さってものに呆れる。そもそも、「政治」に文化的感受性が不要だと思ってること自体が、大きな間違い。土建国家が作り上げた、現在の日本のブザマな風景というものは、こんなふうに文化的センスの欠如した「政治」によって作られたんです。あらためて、小泉政権の自由主義一辺倒にもあきれ返る。音楽文化というのは、たんに商業主義的な論理だけで作られていくものじゃありませんよ。◇教科書的な解釈でいえば、「公共性」って概念は、すなわち「多数の人々の利益」を意味するんですが、となると、NHKが実現すべき「公共性」って何なのか?それを理解するには、教科書的な解釈をもっと深めなきゃならない。たんに、NHKの番組が、「多数の人々の利益」を実現すればいいんだと解釈してしまうと、じゃあNHKも、ほかの民放と同じように、多数の人々が見る(聴く)ような番組、すなわち「視聴率のとれる番組」をつくればいいじゃないかってことになる。でも、それは間違いです。民間の放送局は、基本的に、視聴率の稼げる番組をつくりますし、そうした番組は、たしかに「多数の人々の利益」にかなうんだけど、そこから零れ落ちてしまう少数派の人々というのも、社会には存在します。NHKの公共放送の役割というのは、「視聴率の論理」からは零れ落ちてしまうような、社会のなかの少数の人たちの知的関心をカバーすることで、つまり民放をはじめとする民間メディアの活動を“補完”することによって、結果として、マスメディア全体が、多数の人々の利益を実現するように計らうことにあるんです。したがって、NHKというのは、つねに民放をはじめとする他の民間メディア(ネットや出版を含む)との、動的な関係性の中で、その存在意義を追求し続けなければなりません。早くいえば、「民間メディアの隙間をそのつど埋める」というのが、NHKが担うべき大きな使命なんです。クラシック音楽、純邦楽、ワールドミュージックなどの音楽的価値に、日本全国の人が平等にアクセスしうるような機関というのは、いまのところ、NHK-FM以外に存在しません。もちろん、現在のNHK-FMの番組内容が、日本の音楽文化の公共機関として万全なものだとは到底言いがたいけど、だからこそ、今こそ抜本的な改革と、存在意義の見直しが必要なんです。そうしないと、日本の音楽文化の質は、大きく損なわれる。もしも、NHK-FMが日本社会に不要だというんなら、それに代替する機関がいったい何であるのかを、政府は国民に示すべきです。永田町も、霞ヶ関も、もっと社会に存する「文化」ってものの意味を、真剣に考えてよ。
2006.06.07
日本の映画ってのは、世界的に見ても歴史が豊かなほうだし、同時に、映画賞にもいろんなのがあって、日本映画に歴史がある分だけ、映画賞のほうにも、それなりの歴史と伝統がある。いちばん古いのが、「キネ旬ベストテン」。◇べつに、キネ旬ベストテンに権威があるとも思わないし、絶対的な信用があるとも思わないけど、とりあえず過去のキネ旬ベストテンを見れば、これまでに、さほど間違った選択はしていない。選考に大胆さが欠けるところはあるし、つまらないといえばつまらないけど、洋画、邦画ともに、まあまあ無難な選考をしてきてる。一方で、日テレ主催の「日本アカデミー賞」ってのはスゴイです。堂々と間違えますから。(~~;というか、もはや間違うのが伝統なのかもしれません。「間違ってて何が悪い」的な威厳だけはあります。◇どの映画賞の選考委員も、かりにもろもろの事情や好き嫌いがあったにせよ、「とりあえず今年はこの映画にやっとかんとマズイでしょ」みたいな配慮とか体裁って、最低限あると思うし、映画賞としての権威を維持する上でも、そういうのって意識せざるをえないと思うんですけど、日本アカデミー賞の場合、まったくそういうことは意識すらしてないみたいで、堂々たる間違えっぷりの上に、平然と開き直ってます。今さら間違うことなんか恐れてもないって感じ。この際、映画賞としての信用を得ることなんか、べつに望んでもいないのかもしれない。しかも今年は、身内が配給した映画に12部門を独占させるという、ある意味快挙!!(笑)これによって、『ALWAYS三丁目の夕日』という映画の評価が定まったというより、むしろ「日本アカデミー賞」という映画賞への評価が定まった、といっても過言じゃない。表向きの「公平性」とか、見た目の「バランス」とか、映画賞としての「信用」や「権威」の保持とか、そういうこと、全部かなぐり捨てて、とにかく自分とこの作品が一番!!12部門総なめ。問答無用。自分とこの映画で何が悪いんだ的大盤ぶる舞い。・・まあ、今年は日本アカデミー賞にとって、ちょっと不運だったってのも確か。『ALWAYS三丁目の夕日』という、それなりに話題性もあって、目立った失敗作でもなく、一般の人気と感動も得ることのできた映画を、うまいこと自分の配給で作れたわけですから、アカデミー賞選考サイドとしても、これなら心おきなく手前ミソな選考をしても構わないはずだったし、多少の大げさな評価をしたところで、さほど文句も言われないで済むという目算だったと思う。だけど、今年は『パッチギ』があったせいで、そういう手前ミソな選考ってのは、映画賞そのものの信用を失うリスクを賭けてやるほどの、思い切った独断的選考なしにはできなくなった。『パッチギ』は、べつに映画史に残るような大傑作ではないけど、とりあえず今年度の日本映画にかぎって見れば、この映画を選んでおくというのが無難な選択なのは誰の目にも明らか。今年の日アカ賞にとって、それが最大の不運だった。◇今回の「ALWAYS12部門独占」と、くわえて「パッチギはずし」という結果が、はたして映画賞としての信用と権威をかなぐり捨てた結果なのか、それとも、他の映画賞がこぞって『パッチギ』に傾いてたので、とりあえずアカデミー賞だけでも『ALWAYS』で独占させて、全体としてかろうじてバランスをとろうとした結果なのか、そのへんはよく分からないけど、これだけ華々しく、可もなく不可もないような映画に「12部門」もあげてしまったんなら、この際、そのことを、ある種“有終の美”にして、この映画賞それじたい、一緒に華々しく散ってもよさそうなんだけど、やっぱり、来年もまたやるんでしょうか・・・こうなると、貰うほうが恥ずかしいと思う。
2006.03.03
かなりサボリぎみです。訪問してくださってる方、書き込んでくださる方、トラックバックしてくれるみなさん、ゴメンなさい。フツーに数ヶ月ぐらいさぼったりすることもザラだと思うので、どうか、長い目で見といてください。(~~;;書き込んでもらったりするのも、トラックバックしてもらったりするのも、今後も遠慮せずに、みなさんおねがいします。(~o~)* * *サボってるあいだに、amazon.comのほうで、「お気に入りCD」のリスト作ったりとかしてて。それをつくってて考えたことを、今日はここに。◇わたしはもともと、レゲエとかスカとかがきらい。ボサノバもあんまり好きじゃないし、タンゴにもさほど興味なかった。なのに、いま作ってるアマゾンの「お気に入りCD」リストには、プリンスバスターとか、トムジョビンとか、ピアソラのCDとかが並べてある。いまだにレゲエとかは好きじゃないし、「東京スカパラ」とかもあんまり興味ないし、ラジオから流れてくるボサノバとかも、どうしても、退屈にしか聞こえない。それでも、プリンスバスターは別だし、トムジョビンも別格!というより、そもそもプリンスバスターを「スカ」として聴いてない。トムジョビンも「ボサノバ」として聴いてない。わたし自身は、ジャンルにこだわるわけでも拒否するわけでもないけど、音楽じたいが「ジャンル」にはまりすぎてるのは、どうしてもつまらない。パターン化してしまったスタイルのうえに、適当にポコポコとメロディーをのっけただけ、みたいな音楽を聴くと、なんだか、腹がたつ。・・腹を立てる必要もべつにないんだけど、ただポコポコポコポコした音楽を聴かされてるみたいで、バカにされてるような気分になる。どんな音楽の形式でも、パターン化すると茶番になって、本来の真摯な思いが伝わってこなくなるっていうか、なんだか人を喰ったような感じに聞こえてしまう。なんつーか、もともとあるはずの、音楽的なエモーションが感じられなくなるというか・・アストル・ピアソラの音楽は、まだあまり詳しくないけど、「ピアソラのタンゴ」にも、ちょうど「プリンスバスターのスカ」とか、「ジョビンのボサノバ」とかと似たところがある気がしてて、「ピアソラなんて、あんなものはタンゴじゃない!」みたいな言い方がされるのは、ある意味正しいのかも、と思う。じっさい、そういう意味で言ったら、プリンスバスターだって「スカ」じゃないし、ジョビンだって「ボサノバ」じゃないから。なんていうか、スタイルより前の、原初的な、音楽の衝動みたいのがある。そういう点で共通するんじゃないかなぁ。。いまだに「レゲエ」も好きになれないし、「スカ」も「ボサノバ」も「タンゴ」も興味ないけど、それでも、聴きたいと思わせる人の音楽というのは、やっぱり別格ですっ。※ここにamazonのリンクを貼ろうかと思ったんですけど、「アフィリエイトがどーのこーの」で、貼れない模様です。ブックマーク(お気に入りリンク)の「まいかの音楽レビュー!」のところからなら飛べます(~~)
2004.06.06
TVで見ました。とりあえずミーハーなんで、話題作はとり上げておこうかなってことで。(放映してからアップするまで遅くなりました)山田洋次って、こんなのも撮れるんだあ、と。予想外によかったんでビックリ。何十年も「寅さん」なんかやってる間に、こういうのをたくさん撮ればよかったのにと思った。それから、名作といわれてる『砂の器』(映画は見てないけど)の脚本が、「山田洋次&橋本忍」だったので、山田洋次の脚本家としての能力というのも気にしながら観ました。宮沢りえちゃんがとってもステキでした。そして、田中泯相手の最後の立ち回りが、凄かった。あんまり感動したので、山田洋次の監督としての力量を見直したんだけど、ネットでいろんなレビューなんかを見てみたら、けっこう批判なんかもあって、なかには、かなりナルホドと思える批判もあった。たいていは時代考証にかんする批判でしたけど。あと、もうひとつは、岸恵子のナレーションと、物語の「後日談」に対する批判も多かった。なかでも「後日談は不要だった」という意見がけっこうありました。時代考証うんぬんについては、わたしはあまり分からないというのもあるし、べつに時代劇の話に「リアリティ」も期待しないので、さほど気にもならなかった。たしかに、「なんで大勢で鉄砲で田中泯を退治しないんだろう?」というのは、ちょっと思いましたけど。岸恵子にかんしては、あの金属的な声のナレーションが、静謐な映画の雰囲気にそぐわないというのはあるし、あのバタくさい顔が、「後日談」に登場してくるのもそぐわないかも、というのはあった。でも、「後日談」そのものは、映画にとって必要だったと思う。以登(次女)の目をとおして映画を語ることは、絶対重要だったと思う。真田広之の「清兵衛」と、りえちゃん演じる「朋江さん」の人物像は、清廉で、潔白で、慎ましくて、いわゆるステレオタイプな「古き良き日本人像」だけど、それが「次女の目」をとおして語られるからこそ、記憶の中の「父と母」の姿が、ステレオタイプな「理想の日本人」として描かれることを許されるんだと思う。そうじゃないと、ステレオタイプな昔の日本人の、あまりに陳腐な時代劇になっちゃう。じっさいの昔の日本人が、ほんとうにそんなふうに清廉で潔白だったかは分からないわけで、でも、すくなくとも「次女の記憶の中」ではそうだった、というのが、たぶん大事。そして、同時に、そういう「古き良き日本人」としての父が、「侍」としては、強く、立派に、正しく生き抜いたんだけども、時代の変化のなかで、「けっきょく鉄砲にあたって死んでしまった」ということも重要なんだと思う。もし、その後日談が無いと、「しがない下級武士がじつは剣豪のスーパーヒーローでした」みたいな話になっちゃうし、それじゃアメリカ映画の「スーパーマン」や「ゴーストバスターズ」と変わらない。そういう意味で、この映画は「古き良き理想の日本人」を描いたいい作品だったと思いますが、ただ、冷静に考えてみると、山田洋次の脚本も、たしかに過不足なくよくできてるし、演出もすごく正確だと思うけど、逆にいえば、オーソドックスにすぎる。心憎いような過剰な繊細さとか、おどろくような大胆さはない。最後の立ち回りのシーンは、山田作品としては、仰天してしまうほど大胆だったけど、あれはたぶん、やっぱり田中泯に負うところが大きいんじゃないでしょうか。というわけで、映画史を塗り替えるような傑作ではありませんけど、日本人の話題作になるのには、ふさわしい佳作だったと思います。山田洋次のオーソドックスな演出と、宮沢りえちゃんの演技力と、田中泯の存在感と、真田広之の運動神経が、ちょっとずつ良かったんじゃないかな。(~~)
2004.03.06
まいかのHPでは、日記リンク(おすすめ日記)で、楽天内の「海賊キッド」さんの日記にリンクしています。日記といっても、海賊キッドさんの場合は、文章ではなく、毎日「音楽にあわせた絵」をのせています。私は、完全にこの絵にハマってしまいました。きのうも、朝方まで、海賊キッドさんのサイトで、絵と音楽の鑑賞をしてました。最初にハマッたのは、1/20の『闘牛とサロンパス』。(絵のタイトルは、まいかが勝手につけてます。以下同じ。)観衆にののしられながら、闘牛士をいたわった闘牛がサロンパスをはっている様子が、物悲しげな音楽とともに涙をさそいます。(笑)それから、昨日の日付で発表されたばかりの、『折鶴と風ぐるまと写真たて』。海賊キッドさんの説明によれば、音楽は、安井かずみさん作の72年の歌謡曲で、『折鶴』という曲なんだそうですが、これまた、お腹がよじれそうなフンイキを醸しだしてます。そのほかにも、まいかのお気に入りをあげておきます。まだ行ってない方は、ぜひ見てきてください!http://plaza.rakuten.co.jp/midipod/ (12/24)『雪と舞う恋人たち』(12/23)『ほうら、雪が降ったよ!』(1/6)『夢見るお姫様』(10/14)『地球のうえでブランコ』(12/7)『おとうさんは帰ってきたんだよ』(11/17)『黄色いバラのプレゼント』(12/9)『プリンのある午前』(12/29)『舟唄』(トップページ)『アルハンブラの想い出』(トップページ)『コーヒーとパン』(カノン)他にもステキな絵がたくさんあります!ぜひ見てきてください!
2004.01.29
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