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目に見えない、血液組織の数値に一喜一憂の今日この頃です。本日はとても嬉しい好転の気配の数値が知らされていました。2週間前、【血小板数値】が正常【150】が最悪の【4】までになり覚悟を決めていました。そして【血小板血液】の貴重なお人様の好意の【輸血】に助けられて、1週間前【12】にやや戻りました。【輸血の効果】は長くは維持できないときかされていましたから本日は元通り【4】位で、再度輸血を覚悟して国立病院に望みました。輸血を受けて2週間目の本日【13】になっているよ。と医師に言われ検査結果の明細を手にして、信じられませんでした。前回を維持だけでなく【1】再生していることに、生きる希望が芽生えました。輸血はこの数値では、必要ないということで、病院を小躍りして帰ってきました。日常生活は依然用心ですが、生命の生きる心は持たねばと神に感謝しています。ブログは、過去の分を再掲載しています。悪しからずご了承願います。先ずはご報告まで。
2012.08.31
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パラリンがピック開催されましたね。ジュニア女子サッカー日本3対1で韓国に準々決勝に快勝しました。只今より、国立病院に出掛けます。【千姫輿入れ】 【伏見城御舟入り址】徳川家康は、可愛い孫娘 千姫を 豊臣秀頼に輿入れのために此処伏見城南に、宇治川と山科川の合流点【伏見城舟入】から、大阪城へと発たれたと古史に記されているそうです。 NHK大河ドラマ「江」(ごう)と徳川二代将軍秀忠ファミリーが忠臣、鳥居元忠の護った、伏見城を関が原の合戦後再興して徳川家の京都の拠点としたことが、うらづけられます。三代将軍家光によつて、城は「二条城」に一本化して廃城になりました。 旧奈良街道 より外れた、道端に見つけました。日頃人通りもなく、ひっそりと佇んでいました。バックは桃山御陵の森で、JR奈良線の土手下に見かけられました 桃山御陵の南東に地元「桃山東小学校」 校門入り口に【伏見城元石垣】京都市登録史跡元和9年(1623)に伏見城は、廃城になりその後、300個の遺石か゜掘り起こされ元、石垣が有ったと、有識者の考案で昭和45年に、再建されたものです。現代の小学生たちは、 どんな感想で、見守っているのでしょうか?
2012.08.31
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8月もあと僅かと成りました。明治天皇の御陵が、京都・伏見区にあることあまり知られていないことにご紹介出来てよかったです。写真は2年前に訪れたもので、現在外出は、通院以外自粛しています。早く健康を取り戻し、新鮮な写真も撮りご報告したいのが夢です。【明治天皇伏見桃山陵】伏見城の側には、桃の木が多く、従って、【桃山】と言われるようになりました。JR【桃山駅】・近鉄【桃山御陵前駅】京阪【伏見桃山駅】から徒歩15分の位置に有ります。明治天皇桃山陵の参道です。右手に白い石が見えますが、伏見城の石垣の掘り起こされた遺石です。【伏見城】1594年(文禄3年)に豊臣秀吉が隠居場として築城大阪難波と京都の、水路の拠点になる位置のため。1598年(慶長3年)秀吉没す。 露とおち、露と消えにし 我が身かな 難波のことも 夢の夢 豊臣秀吉辞世の句豊臣・五大老筆頭の徳川家康が城主を引き継ぐ1600年(慶長5年)関が原の戦い、鳥居元忠篭城【血天井】昨夜、たまたま民放で「今夜はヒストリー」最終回で、勇気ある武将として、鳥居元忠が放送されました。徳川家康が、京都の拠点「伏見城」を攻められることを覚悟で背後にある会津の上杉景勝を攻める隙に、案の定、石田三成が4万人で、攻めて来ました。僅か1800人の手勢で、13日篭城全員戦死しました。その遺勲を弔う為、現代も「血天井」として各所で弔われています。そのあとが、関が原の合戦となりました。1623年(元和9年)廃城 29年間の伏見城 伏見城の石垣 宮内庁の立て札 石垣の遺石群 参道の側に置かれていました。 平安京を造られた【桓武天皇陵】も隣接
2012.08.30
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本日より、私の住んでいる近くの名所をご紹介します。元気であれば、最適のジョギングコースで、街の人々は愉しんで居られます。日本で一番、広域な御陵が直ぐ側にあります。【明治天皇陵】そして【伏見城跡地は?】寺田屋を訪れる前に、明治維新日本の霊明の祖【明治天皇陵】を表敬して参りました。とても広く、高台にあり、若き昔は、正月に参拝して1年の新たな決意をしたものでした。最近になって、観光の勉強をするときに、京都には、伏見城遺構とする建物が散在し、何処に在りやと、思案していました。豊臣秀吉が築城し、徳川家康に委ねた【伏見城跡地】は、【明治天皇陵の宮内庁管轄の地】に有る事を知りました。初め、新幹線京都駅から、南に見える、目立つ城の形は、桃山キャスルと言って、遊園地で、これを伏見城と思っている方が多いです。その私も疑問を抱きながら、城と思っていたほどです。東京宮城も明治天皇陵も、幕府の所用地を宮内庁が管轄することになりました。明治天皇陵、梅雨空ではっきり写りませんでした。此の御陵の奥に「伏見城跡地」が存在します。一般の人の目には触れられません。明治天皇御陵より、道なりに東南に降りた所に、【昭憲皇太后】の御陵が同じ形式で、広大な敷地内に、眠って居られます。昭憲皇太后御陵より更に南に下がりますと。正面に長い石段が有ります。明治天皇御陵の正面の階段ですが、とても登りきれません。ゆっくりと自動車道(一般の車ははいれません)を利用します。病後、初めて試みました。ゆっくりゆっくりとやすみやすみ杖をついて辿り着きました。上の写真石段を登り詰めた場所です。遠く奈良まで京都の南部地区が眺望よく見られます。秀吉が伏見城を此処に築城したことが頷けそうです。
2012.08.29
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昨日に引き続き、神護寺の聖域を巡ります。楼門を過ぎれば、平らな境内で、一安心しました。何といっても中心は、【金堂】で。国宝の薬師如来像が祀られています。そして重要文化財の薬師さんのセット日光菩薩・月光菩薩(がっこう)十二神将そして四天王【持国・増長・広目・多門】天が揃ってみられます。金堂(本堂)国宝薬師如来像がまつられています。 金堂への石段 石段 登りつめた場所石段の下時代劇でよくここのシーンが出てきます かわらけなげ2枚百円 清滝川渓谷かわらけ投げ みなさん楽しく試みておられます上手の人の場合は、長時間遠くへ飛行続けます下の川から此処まで登るのです。絶景 何れもかわらけなげ付近の情景です 。かわらけ、買ってみるか記念にシャツター長い石段を登りつめて、弘法大師さんの、護国のため建てられた聖域からの、渓谷に掛けての絶景は、みなさま満足気味でした。猛暑よ去って、早く紅葉の季節を迎えたいものです。
2012.08.28
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24時間テレビ 「愛は地球を救う~未来」酷暑の中でのマラソン佐々木健介~長男 健之介~次男 誠之助そいて母 北斗昌 過酷とも云えども よく完走されました。人間 未来に対する希望を失ってはいけないと励まされました。本日は、将軍塚で、平安遷都を推挙した「和気清麻呂」の墓と京都の都の礎を「嵯峨天皇」と築きあげられ護国のために神護寺を建てられた弘法大師に忍び昨秋訪れたものを二日に亘って再録します。弘法大師は、山岳仏教として、北国・高雄にまで、布教の為寺院を創られました。 【神護寺】【高尾山神護寺】高野山真言宗別格本山 開基 和気清麻呂 山号 高雄山 高尾は、京都では、「紅葉」の名所で、シーズンでは、自家用も身動き出来ない大渋滞と成るほどです。従って駐車場も何処も満杯となります。 山岳仏教の一つで、街道から一旦、清滝川の清流へと降り、再び石段を山へと登り詰めます。年老いた人には、険しい難所でも有ります。1.【仁王門】(両側に藤原時代の「持国天」「増長天」が護法神として構えています)に着いて、ひと息つき受け付けを通じて入門します。2.直ぐ右手に【和気清麻呂公霊廟】奥には墓が有ります。常に桓武天皇の側近として、「平安京」を進言された立役者でも有ります。現在でも「高雄山」から「京都」を見守り「京都御所」の西側では「護王神社」として、朝廷に仕えた形としても、祀られて居ます。3.【鐘楼】日本三名鐘の一つです。神護寺は、「銘文」として、宇治平等院は、「形」として、そして滋賀三井寺では、「音色」として讃えられています。4.【金堂】【国宝】の薬師如来(貞観時代)神護寺の本堂に当たり最も大切な場所です。脇侍に「日光菩薩」「月光菩薩」(がっこうぼさつ)(重要文化財)十二神将及び四天王が祀られ極めて落ち着いた感じで、薬師さんのお顔を拝するとき、荘厳な感じで何時までも眺めたい気持ちに成ります。ここも「時代劇」に広くって多い石段を背景にロケが採り上げられています。5.【多宝塔】【国宝】の【虚空蔵菩薩】が祀られて居ます。秘仏で観られません。6.【大師堂】本尊【弘法大師】京の都を隅から隅まで仏典に基づき護国のため奔走されて、その足跡は、至る所で、拝する事ができます。7.【かわらけ投げ】壮大なパノラマが開ける眼下に断崖、緑の林があり、「清滝川」「錦雲峡」の景勝が美しく、茶店で「かわらけ」を買って水平に飛ばすと、上手にすると、「遠く」「長く」渓谷に吸い込まれて行き、周りの人の喝采を帯びます。自然界で和やかな雰囲気を味わう事が出来ます。 本坊には、【国宝】の【源頼朝の絵画】は有名です。 高雄に着くと、一端高雄橋へと急坂を下りそして、そして山道へ1キロ急坂を登りつめた場所に神護寺があります。山岳仏教として、弘法大師さんが建てられた由緒深い寺院です。そして平安遷都を推挙した和気清麻呂の墓もあり、京都を見守っています。高雄橋・ もみじと高雄橋 参道途中の茶屋息が苦しく、足が痛み出し、勇気の撤退をしょうとしましたが、ままよと再発進参道の茶屋 参道から振り返った景色 休み休みして漸く神護寺楼門に辿りつきました 平安京の立役者・和気清麻呂公の霊廟 明王堂その側に日本三名鐘の鐘衝き堂があります銘が有名宇治平等院・形 滋賀・三井寺の音明日に続きます。
2012.08.27
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京の都の北西嵯峨野の山上に、桓武天皇の皇子「嵯峨天皇」の御陵をご紹介しましたが、その平安京を遷都された誕生の地が清水寺の裏手の東山ドライヴウエイを経て辿り着けます。京都の街を一望出来る【青蓮院別院】の庭園は皆様とても感動されました。 長岡京臥乱れ、和気清麻呂が桓武天皇に狩りに行きましょうと 東山のこの地に誘われ、三方が山に囲まれ、中国の易にも敵う都造りに相応しいと、進言し、天皇も盆地を見下ろし納得されたようです。そして鎧兜を着せた将軍の人形をこの地に埋め都を護ってくれるようにと「将軍塚」も建てられました。 【平安遷都】10年後の794年(延暦13年)(なくよ うぐいす平安遷都)「長岡京」より「丑寅」「北東」に【平安京】が誕生しました。 【青蓮院別院・大日堂】天台宗 別名【湘軍塚】 入口の門 本堂。石仏 大日如来が祀られています お客様が京都の街を一望出来る、東山三十六峰の「長楽寺山」の頂上に【将軍塚】があります。東山ドライブウエイの「花山天文台」とは反対の地で、「大日堂」境内に拝観券を納めて入園して下さい。展望場所は二ヶ所有ります。庭内展望台が高く築かれています この将軍塚の地にて、【和気清麻呂】が狩に事寄せて、【桓武天皇】を案内し、三方山々に囲まれ、絶好の都の地として、「此処に都を移そう」と決意された場所でもあります。政治の中心として、都造りに、中国の「風水」とか「地相」「四神相応」も参考にされ、中国では「君子南面す、都は永久(とわ)に栄えるであろう」京都御所から南面した形に成っています。国名も、山を背にしてか、「山背」から「山城」と変えられました。 京都南方の市街展望京都御所が四角の森で囲まれて見えます君子南面すの形で 一般家庭でも、太陽の道として、南側に居間の有る建築様式が望ましいようですが、近代建築はそうも言っておられません。 【将軍塚】には、此処も王城鎮護のため武将像を土で造り、兜・鎧を着せ弓矢と太刀を持って、土壌の中に、西向きに埋められて居ます。 湘軍塚 3月ごろには、紅白の「枝垂れ梅」が可愛く咲き、4月には桜が、秋には紅葉と素晴しい庭園に成っています。 「三鈷の松」(さんこのまつ)と称して、松の葉っぱが「三本」と珍しく、「三つ願い事が適う」と言ってお客様に渡すと、100%持って帰られました。受付でも尼僧から戴けます。 三鈷の松(さんこのまつ)普通2本が珍しく3本あります 京都の景観、そして観光客もご存じなくってか、殆ど訪問されず、静かな「穴場的観光地」とも言えましょう。京の都は、恵まれて1200年余の歴史と文化伝統等遺し、日本全国の「故郷」として現在も憩いの場所として、皆様を待ち続けています。 因みにこの地で平安遷都を決められた日が延暦13年(794)10月22日で毎年、時代祭りを10月22日に行います。 比叡山・手前が大文字山京都五山の送り火は全部観られるところです
2012.08.26
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本日は25日、京都では天神さんの日として、縁日が立ちます。学問の神様として、受験者の方々は熱心に祈願に訪れられます。京都の空は晴天で暑さを予感します。因みに今月21日は、雷を伴なう激しい雨が降りました。京都の昔からの慣わしに、「弘法さん」と「天神さん」とはとても仲が悪くって、東寺の弘法さんの21日が雨だと、25日天神さんは晴れると云っています。 【北野天満宮】祭神 菅原道真 中将殿(道真の長男) 吉祥女(道真の夫人) 学問の神様として【菅原道真公】が祀られて居ます。修学旅行では、日程に欠かさない貴重な参拝する場所でもあります。車中生徒さんに「祭神は?」と聞きますと返答に困る子が居ました。折角進学祈願するのに、お願いする相手の名ぐらいはと。【菅原道真公】は平安時代の公家であり「右大臣」まで成られました。11歳で詩を詠まれるほどの文才がありました。時の「左大臣」藤原時平の中傷で九州大宰府(だざいふ)に左遷され死去。その後京都では、雷火・地震などが多発し、道真の怨霊の祟りとして、時平は恐れおののき狂い死にしたそうです。鎮霊のため、道真を祀って創建されました。【本殿】【国宝】8棟の形式は「日光東照宮」にも継承され【権現造】の本源とされています。【縁日】弘法さん(東寺)は、21日・天神さん(北野)は25日京都では昔からの言い伝えで「弘法さんと天神さんとは、大変仲が悪いそうで、21日が晴天であれば、25日は雨が降るのじゃそうです。【北野天満宮の祭礼25日の由来】845年承和12年6月25日誕生・延喜1年1月25日大宰府に左遷・延喜3年2月25日逝去【菅原道真】と【臥牛】(がぎゅう)本殿の拝殿の大鈴の上の欄間だけ立っています。1.道真の誕生の年が,丑年。2.道真左遷の途中牛が道の真ん中で坐って動かず、避けた道を経ることで、時平の刺客から免れましたとか。3.道真が亡くなって、棺を引いた牛が墓に行く途中、へたりこんで動かなくなりましたので、 近くの「安楽寺」に葬られました。即ち現代の【大宰府天満宮】でした。【三光門】(中門)太陽・月・三日月の装飾が観られます。星は「大極殿」から拝殿に向かうと 「北斗七星」が見える仕組みと成っていますそうです。【伴氏社】(ともうじしゃ)祭神が道真のお母君「伴氏」祀られて居ます、京の三珍鳥居の一つ 鳥居の足許が、蓮の花に成っています。外に、「蚕の社」・「京都御所」道真は親孝行でしたから、母上の「伴社」(大伴家持の子孫)に先お参りすれば、合格出来るかもといいますと、小さい社に真剣手を合わせていました。【御土居跡】本殿の西側に豊臣秀吉が洛中を囲んだ御土居跡の公園が見られます。【梅園】道真が都を去るときに詠まれました。「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ」
2012.08.25
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本日、京都医療センターへ一週間ごとの血液検査に行ってきました。採血の順番を早く取るため6時50分病院着、診察受付8時そして採血が8時30分 順番は3番目でした。結果が9時30分で、本日は重症と観られて早めに診察を受けました。先週過去最悪の【血小板数値】【150】が正常で僅か【4】でとても気掛かりでした。【血小板減少症】で出血すれば命にかかわると云います。【血液内科】と言う特殊の科で京都市内では、僅か4人の専門医師しか居られない、その先生から【12】有るよと言われ、とても嬉しかったです。先週【血小板輸血】のお陰で、本来ならば、輸血しても一週間経てば、もとの【4】に戻るとも聞かされていましたので、輸血を覚悟していました。目に見えない、体内の血液の状態を数値でしか計り知れない世界が有ります。【再生不良性貧血】国の指定の特殊疾患(難病)に指定され現代医学で原因・治療法は不明です。特にこの科に属する方が多くなりました。神のみが知る、その計らいに生きていることのお恵み感謝しています。今後も一週間ごとの通院と成ることでしょう。皆様にご心配掛け申し訳有りません。こうした病のあることのご報告まで。
2012.08.24
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第94回全国高校野球選手権大会も、春夏同一カードの初めての巡り会わせで大阪桐蔭が優勝、健闘した青森の光星学院の健闘も及ばず、全国頂点の準優勝は、東日本の復興にこころの励みに成ったと思います。胸を張ってふるさとに報告して欲しいです。 仏像として国宝の第1号に指定された飛鳥時代の【弥勒菩薩半跏思惟像】が祀られています。【広隆寺】(こうりゅうじ)真言宗御室派 開基 聖徳太子 京都には、国宝が多いです。そこで「クイズですが、国宝指定が存在する日本では何処の都道府県が一番多いでしょうか?」聞くところによれば、最も多いのが、東京都265件国立博物館が殆ど管理しています。次いで京都226件そして奈良県198件の順に成っています。 広隆寺は、地元では。「太秦(うずまさ)の太子さん」と親しまれています。 その【国宝指定第1号の仏像】が、此処広隆寺・霊宝殿に納められている【弥勒菩薩半跏思惟像】(みろくぼさつはんかしいぞう)です。 弥勒菩薩が半分あぐらをかかれたお姿で、顔に指をあてがい人類をどのように救おうかとお考え姿です。京都検定試験1級で出題されました。漢字で正確に覚えなければ解答出来ません。半跏とは、韓国流で半分あぐらをかかれたお姿を指します。思惟とは、片手を頬にあてがって、人類をどのようにして救おうかと、想いに耽っておられるお姿指します。何ともいえない微笑を浮かべられたお顔を見上げているだけでも心打たれる仏様です。室内の放送に寄れば、弥勒菩薩さまとは、人の救いを考えられつつ、56億7千万年後に、この世に如来として現れられる仏さんと言われ、地球学の学会でも、この数とほぼ一致していると聞いた事があります。(567と覚えます) 前述しましたが、「弥勒如来像」は奈良の「唐招提寺」で観られます。 韓国にも、全く類似した「弥勒菩薩半跏思惟像」が現存しているようです。 【飛鳥の三弥勒】広隆寺にもう一体「泣き弥勒」【国宝】が隣接して納められています。べそを描いておられ、仏像には、金箔の一部が残っています。もう一体は、奈良法隆寺の東側に隣接した【中宮寺の弥勒菩薩】を飛鳥時代の三弥勒と称されています。 【霊宝殿】四隅には、「四天王」「じ・ぞう・こう・た」即ち「持国天」「増長天」「広目天」「多聞天」が少し大きめに立っています。西側に薬師如来・日光菩薩・月光菩薩そして前列に十二神将【国宝】正面に弥勒菩薩二体と天平時代の作の弥勒菩薩一体他に大日如来・聖徳太子そして使えた「秦の河勝夫妻(藤原時代)が並び、東側には、毘沙門天・吉祥天(夫婦)(尚多聞天は毘沙門天は一諸)愛染明王。不動明王が、そして南側に観音菩薩像が三体内二体は【国宝】となっています。修学旅行生も勉強の為多く案内しました。寧ろ中学生から教えてもらいました。「おじさん、四天王の覚え方は じ・ぞう・こう・た としておじさんの好きなマージャンのとん・なん・しゃ・ぺできまり」と。即ち【持国天】の東を司り、順次【増長天】の南【広目天】西そして【多門天】の北を司る四天王像となります。【本堂】【国宝】聖徳太子の立像が祀られて居ます。地元では、「お太子さん」として親しまれています。隣が太秦映画村として賑わっています。 【講堂】阿弥陀如来【国宝】「下品中生」の珍しい印相をされています。「平等院」阿弥陀さんの印相をご参照下さい。両脇に地蔵菩薩・虚空蔵菩薩(重要文化財)【南大門】仁王像 阿・吽(あ・うん)これから、国立病院の診察に行ってきます。
2012.08.24
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アクセス100,000に対し、多くの方々からお祝辞と今後への激励を頂き、有り難う御座いました。ご支援の重みを感じ今後とも精進したいと思いますのでよろしくお願い致します。ブログで観て頂きたい一念で、過去一度も訪問出来なかった箇所にも参りました。昨今の【名古曾の瀧跡】もそうで、本日は嵯峨野の山上にある、京都の都を本格的に定められた、桓武天皇の皇子【嵯峨天皇】陵に初めてあえぎながらも、極めてきました。 【嵯峨天皇御陵】は山道を登ること、二百段、杖をついて登ってきました。再三申しあげますが、794年に桓武天皇によって、【平安遷都】が行われましたが、その皇子さん【嵯峨天皇】によって、大覚寺で弘法大師さんと共に、まことの都造りを成し遂げられました。今でも、小高き山上より、嵯峨野を通して、京の都を見守って居られるようです。嵯峨天皇御陵 参道入口 坂道 坂道振り返ると嵯峨野 まだまだ目的地が見えません。やっと見えてきました とても清々しいかんじです。 嵯峨山上陵と書かれています 帰途は獣道から しだがはえています。 裏山には、小倉山そして愛宕山が見えました。この愛宕山の頂上には愛宕神社があります。 小倉山を見下ろす、別の風景です。 漸く嵯峨野の景色にもどってきました。 山道にこんな林も麓にありました。達成感は、清々しい感じでした。然し疲れ切りました。
2012.08.23
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赤子の手探りにより、退院後、息子の勧めで、 人生の励みにとエムケイタクシーでお客さまに案内して歓ばれた、京都観光の現地で学んだ事を 、綴って2年8ヶ月、思いもよらないアクセス100,000も観て戴いた方があることに、感激と心より感謝申しあげます。 •· ブログ名:京都観光をご案内し・・・•· 総アクセス数:100007 アクセス(平均 103 アクセス/日)•· 開設日数:973日(開設日:2009/12/23)•· 日記記入率:94.2%今朝6時33分に楽天よりメール戴きました。心よりお礼申しあげます。世界文化遺産に大覚寺はご指摘もありましたが、有名であって国宝級の建物・仏像が無く、世界遺産に登録されていませんが、京都の都造りを嵯峨天皇と弘法大師さんと常に親しくご相談あって基礎的な都が生まれた、由緒ある嵯峨御所として貴重な歴史を持っています。 【大覚寺】真言宗大覚寺派総本山 開基 嵯峨天皇 山号 嵯山 玄関 華道嵯峨御流 「大覚寺」は「嵯峨天皇」の離宮を寺に改め、代々法親王が継がれた格式の高い門跡寺院でも有ります。境内は渡り廊下で繋がり、広く、今でも御所風の雰囲気に満ちて、優雅な気持ちを味わう事が出来ます。 玄関(何故か「明智門と言います)の門を潜りますと、豪華な「御嵯峨流」の生花が歓迎してくれます。明智門 各部屋の襖絵には、狩野派の画家によるものが、観られます。【宸殿】(しんでん)後水尾天皇の中宮(皇后)「東福門院」の旧殿を移築されたものです。 宸殿前庭に、「左近の梅」「右近の橘」が構えています。「桜」のはずが、100代後小松天皇まで「梅」でした。【勅使門】 勅使門 【御影堂】嵯峨天皇・後宇多法皇が祀られて居ます。【御霊殿】後水尾天皇の御法体尊像が祀られて居ます。【五大堂】弘法大師御作と言われる「五大明王」は「嵯峨天皇」が祈願される「本尊」でした。【霊明殿】嵯峨天皇・後宇多法皇を始め歴代御門跡の尊牌、全国華道の師範の霊が納められています。【心経殿】般若心経の写経場。 嵯峨天皇が弘法大師のお勧めで、写経された所、世の悪病が鎮まり、その後も引き継がれています。若い訪問者も増えています。【正寝殿】南朝・北朝が講和された歴史的場所と成っています。結果南朝の後亀山天皇から、北朝の後小松天皇(一休和尚の父君)へ譲位されました。境内のもみじ 境内から大澤の池を望む。池を眺める展望舞台 京都観光の人気の高い嵯峨野巡り、スケールの大小、壮大さ、侘びしさ、祈りの場、紅葉・桜の名所、景色の名勝、竹や苔の美しさ、悩める人には慰めてくれる環境。変化があって、四季を通じて、又感想が違うそして、詩歌の跡の文化を味わう観光地でした。次回は嵯峨天皇陵へご案内します。
2012.08.22
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オリンピックメダリストの銀座パレード50万人の人出で賑わいました。きな臭い世相に、明るいニュースでした。政府も国民に感動と勇気を与えてくれたと、感謝状が手をされました。平和で有ってほしいです。 【大覚寺】真言宗大覚寺派総本山 開基 嵯峨天皇 山号 嵯山 いよいよ嵯峨野巡りの集大成の「大覚寺」に参りました。現代で有りながらも、未だに「時代劇のロケ地」として、大自然の趣を見せています。「大沢の池」池畔からのシーンが多いです。中国の洞庭湖を模して造られ、向いに「遍照山」(遍く照らす太陽のこと)が池面に写され、舟を浮かべて観月にも興ずることが出来ます。池の随分北の方面に歩みますと「名古曽の滝跡地」が、ひっそりと存在していました。百人一首に歌われています。 「滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名古曽流れて なを聞えけれ」 藤原公任(きんとう) この状況で、作詞家 永六輔は、「女ひとり」1節「大原三千院」2節に「栂ノ尾高山寺」そして3節に「らんざん大覚寺」を「京都」として選ばれました。ディュクエイセスの歌 「京都らんざん大覚寺 恋に疲れた女がひとり 塩沢かすりに名古屋おび耳をすませば滝の音 京都らんざん大覚寺 恋に疲れた おんなが ひとり」「直指庵」も近くにあり、女性の心の癒し安らぎ憩いが得られる環境に嵯峨野はあるようです。 大澤の池 池の一番奥に【名古曽の瀧跡】がありました。 瀧の鑓水の流れの跡大澤の池に注ぎます。 瀧の水が池に注ぐ場所背景の山は、嵐山です。遍照山が大澤の池に映っています。遍く照らす即ち仏の慈悲観音堂時代劇に常にロケに利用されます。次回は大覚寺の境内をご紹介します。あと少しでアクセス数 100,000戴けそうです。大きい目標でした。皆様に可愛がられて幸せです。
2012.08.21
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戦時中、神戸湊川神社に参拝時、「ああ忠臣楠子の墓」として畏敬の念で対しました、碑は水戸光圀公とあるので尚更でした。足利尊氏は後醍醐天皇を【天龍寺】を建てて菩提寺にしました。息子足利義詮は、楠木正成の子「正行」を慕い、墓所の側に崇めて塔と首塚を隣接して眠っています。親子の武将として相手への思い遣りが遺された記しを感じます。 もみじの隠れたお寺をご紹介します。ちょつと寄られるに相応しいです。 二代将軍足利義詮の墓と楠正行の首塚【宝篋院】(ほうきょういん)臨済宗天龍寺派 「清凉寺」仁王門の西に位置します。二代将軍足利義詮(よしあきら)の塔所で戒名から寺名にしています。有名なのは楠正成の子「正行」(まさつら)の首塚が義詮の墓所に隣接して、義詮の墓所が三重の搭」そして正行の首塚が「五重の搭」として石塔が隣接して立っています。南北朝の敵ながら。義詮が正行の人柄を慕い、其の側に葬るように遺言されたということです。父 【足利尊氏】が対戦相手であった、【後醍醐天皇】を慕いその菩提寺として、立派な【天龍寺】を建てたように、父子ともに相手を人間的には慕い、菩提を弔っています。 秋には【紅葉】の素晴しい穴場ですのてで、是非覗いて見て下さい。 本堂 何れも境内 【森嘉】(もりか)仁王門の東へ直ぐの所に「嵯峨の豆腐」の老舗が有ります。「愛宕水」の名水で作り上げた豆腐は、朝一番に売切れてしまうほどです。ひろす・湯豆腐等
2012.08.20
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オリンピックも落ち着き、全国高校野球の熱戦が繰り広げられています。諦めず精一杯のプレーが、清々しく元気を頂きます。本日は、清凉式釈迦像(仏像に縞模様)の原点の国宝釈迦像の祀られた。嵯峨釈迦堂に参ります。 【清凉寺】(せいりょうじ)【嵯峨釈迦堂】浄土宗 開基 ちょう然(ちょうねん) 山号五台山 正面・仁王門仁王さん 嵯峨野巡りも終えて、嵐山の方に戻った位置に「嵯峨釈迦堂」があります。 この一帯は「源氏物語」に登場する「源融」(みなもとのとおる)が営んだ山荘(栖霞観)(せいかかん)と言われています。「源融」は嵯峨天皇の皇子で、「源氏」の性を受けました。 奈良の東大寺の僧、「ちょう然」が中国「宋」から帰国し、中国の五台山にならって、「愛宕山」を五台山に見立てて「清凉寺」を建立、「栖霞寺」内に釈迦堂を建てました。完成を待たずに逝去、弟子によって其の意志が完成しました。 有名な【三国伝来の釈迦如来像】【国宝】(インド・中国・日本)仏像に独特の筋が入り、頭髪は渦巻きのように現されると言う「清凉寺式釈迦」として異色の雰囲気を持つ、「お釈迦さん」です。全国に100体あるそうです。 釈迦堂・本堂 本堂 多宝塔 背景が嵐山 【阿弥陀堂】阿弥陀如来・観音菩薩勢至菩薩(両脇侍)【国宝】左大臣「源融」は、晩年、阿弥陀如来像の建立を発願しましたが、完成を待たずに他界しました。息子達は亡父の意思を継ぎ、一周忌に完成しました。 死後極楽浄土を願っての造像は、後に「藤原頼通」発願の宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像に繋がりました。 【釈迦堂内】の【釈迦十大弟子】足には靴を履いています。奈良の興福寺は草履を履いているようです。 十大弟子像には【通肩】(つうけん)は少なく、「右肩」を出している姿が多いようです。この着方を「偏担右肩」(へんたんうけん)と言い、仏や師匠を礼拝するときの恰好とされています。「十大弟子」にまつわる二題【阿那律】(あなりつ)釈迦の従姉妹にあたり、お説教中居眠りし、反省して「私は、一生眠りません」と誓い、目がわるくなって失明します。顔を右に向け必死で目を見開いている姿。結果彼は失明しますが、「天眼智恵の目」を得ました。【優波離】(うばり) 阿那律の従者でありながら、主人より先に出家してしまいました。奴隷の身分で、自分のように身分の低い者でも釈迦の弟子に加えられた歓喜の表情を浮かべています。次回は宝筐院 紅葉の名所に参りります。アクセス数憧れの10万に近付き、ハラハラしています。 JR山陰本線「嵯峨嵐山駅」ホーム左が嵐山・右が小倉山です。
2012.08.19
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病気で皆様にご心配掛けました。【血小板減少症】も昨日の血液検査で、正常値【150】が【4】と2ヶ月で急降下、生命の不安も考えていました為、ブログも一時休止しょうとしました。昨日血小板血液の貴重なお人様の血液を輸血され、今後の治療方法にゆだねるようになりました。同病の前例者とも不思議と出会い、過去3年続けている社長さんが居られました。生きる勇気を戴きました。大切に恵まれた余生を送りたいと思いました。 途切れた嵯峨野の続きを更新してみます。未だ猛暑厳しき夏に沿わない、もみじの名所です。 昨近で嵯峨野巡りを終えました。本日は昨年の秋に訪問した、もみじと女性の駆け込み寺とも云われる。こころの癒しの名所とも云えます。 【嵯峨野の飛び地】 愛宕道とは外れますが、女性の哀話として、欠かせない閑居が有ります。NHK大河ドラマ【篤姫】が鹿児島から都の近衛家に養女となり、其のときの理解者が、【津崎村岡】でした。【直指庵】(じきしあん)浄土宗 開基 独照性円(どくしょうせいえん) 山号 祥凰山 入口【直指庵】石塔参道本堂の前庭本堂本堂奥庭への道 大覚寺の北方に位置します。やはり孟宗竹籔に包まれたひっそり佇む庵が建っています。 隠元禅師の高弟「開基独照性円」が草庵を結びました。 「直指人心見性成仏」(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)禅宗の悟りを示した言葉です。荒れ果てた「庵」を幕末の勤皇家、近衛家老女「津崎村岡」によって再興されました。「村岡局の胸像」は、亀山公園の敷地内にひっそり座しています。【村岡局】は「大覚寺」の寺侍(てらさむらい)津崎の娘でした、名を「矩子」(のりこ)といい、8歳で近衛家に仕えました。「勤皇」のこころざし厚く、女性でありながらも、国事に、奔走されました。「安政の大獄」の際、投獄されるはめにまでなりました。その後釈放後に、嵯峨野に帰り、「直指庵」にて、静かな余生を送り、88歳で亡くなりました。 津村 村岡の墓所嵯峨野の心を癒し鎮める適所なのでしょうか、「悩める女性」の「かけ込み寺」しても世に有名でして、その悩み事を記した【想い出草】として、大學ノートが侘びしく置かれて居ます。 【想い出草】のノートを記帳する部屋恋に破れた女の方が此処で心を鎮めるかなりのノートが置かれていました。 境内には、【想い出草観音像】が優しく見守って居られる様に思えます。 帰り道 帰り道 次回は、【嵯峨釈迦堂】に参ります。元気に生きてまいります。よろしく。
2012.08.18
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国立病院に血液検査に赴くに当たって、皆様にとてもご心配掛け申し訳有りません。お見舞いいただき有り難う御座いました。 再生不良貧血という、国の指定の難廟が悪化して、本日の血液検査では遂に血小板が「4」と言う危険な状態になりました。現代の医学では、その原因も確たる治療法もなく、本日は応急処置として血小板の輸血が施されました。貴重な有志の方の献血から更に分離した尊い、人の血液で救われています。感謝しても余りあるものです。血小板数値減少に、不安を感じていましたが、不思議にも同病の先輩の方に、全く久し振りに会し、此処3年同じ状態で、会社の社長を務めておられることを知りました。生死には今のところ支障なく、怪我をして、出血を防ぐことで恵まれた余生を大切に送りたいと思っています。朝6時自宅を出て、16時に帰宅、疲れ切った一日となりました。
2012.08.17
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本日は、京都の街に五山の送り火が。20時から灯されます。【大】 【妙法】 【舟形】 【左大文字】そして嵯峨野の【鳥居】と5分送れで順次点灯されていきます。お盆の行事の一環でしょう。よくお盆のお供えに 胡瓜と茄子に足をつけたのをみますね。胡瓜は馬をそして茄子は牛を現し、13日以降馬で早くお精霊さんを向かえ16日には牛にのってゆっくりと送るという願いが篭られているようです。本日昨日の続きを載せてみます。総本山知恩院布教師会 副会長 羽田 恵三 大善寺和尚さんの法話 その2 お釈迦さまの反対の親指に砂が残った。その数は人間として目覚めた人として、真の目的に達した人の数。 この世に何をする為に産まれて来たのか? 楽しい目先の目的要素に拘らず、人間の本当の目的は? 癌の専門医が2,000人の患者から、癌の告知をして最後に立ち会った。 死を迎える場合、諭す医師の手を掴んで、最も多かった言葉は•1. 遺して行く家族・子供が心配。•2. 先生、助からんとして、死んだらどうなるの?•3. 色々して来たが、振り返ってこの世に何をして来たか?癌が克服出来たらどれほど安心か。一度しかない人生そして必ず訪れる死。「おぎゃ」と産まれたら、種を抱える 【因果応報】死の縁は無量。 (この時、敢えて癌の告知の心境を話されたことは、今思えばご自身に降り掛かった闘病を語られたと思われます。3ヶ月後示寂されました) 女性の漢字の推移 娘 嫁 嬶 姑 婆 (一同笑う)ハハ にご褒美を上げると ババ チチにご褒美を上げると ヂヂ(更に皆が笑う) お金で長生き出来る訳でもなく、総理大臣になっても 小渕さんの様に気を使って早死にする。 四苦 生老病死八苦 愛別離苦 怨憎会苦 求不得苦 五陰盛苦 私の一生何処から産まれて、何をするために、命が亡くなったらどうなるのか?生きている内が花。見た事、行ったことの無いあの世。見て来て帰ってきた事がない世界。釈迦の信仰を信じて極楽浄土を目指すことが、人生の目的。【臨死実験】死ぬ1歩手前。意識がなくなって、共通して、遠き昔は平安時代そして西洋でも、アジアでも科学的証明がなされています。京大教授 カールベッカー氏死の瞬間のメツセージ15年前 のぼり・たくろう氏がバス停で大型トラックに触れ大怪我殆ど即死情態で、お医者さんもお手上げ、霊安室に置かれた。塩沢先生(29歳)は成りたての医師集中治療室で、50日目にして、意思が取り戻されました。 ゼスチァーで何ぺーじにも書留められた。 【付合有体分離】 心が離れ、自分の身体を外から見て、生まれた時からずーとみている。カナダに旅行してアヒルを追っかけてたり、真っ暗闇で、一人ぼっち。其の内に、小さい光が見えた、長い暗闇のトンネルを出ると川があり、桟橋に白い髭のお爺さんが立って居られた。舟は川上へ川上へと昇り、得も云えぬお花畑が広がった、絵描きさんに描いて貰っても、首を縦に振らなかった。画がけられない程、神秘的風景であつた。 そこへ一人のお爺さんが「きさくか?」と父の名前を呼ばれた。首を横に振ると「お前が噂に聞く、たくろうか?」そうですと答えたら「お前は帰れ」お花畑を逃げ廻って、3回繰り返し舟に乗った。長い行列の最後に自分が並んでいた。閻魔さんのもう4人目になって「たくろう・たくろう」と呼び名で目が覚めた。 お花畑のお爺さんの特徴を言葉遣いで描くと、たくろうお前のお曽祖父さんや、お母さんの祖父で写真を見せるとこのおじいちゃん眼鏡をかけていなかったよ。と 極限の状態になったとき、私は経験していないので何ともいえないが、 カールベツカ氏の特徴的お話です。 夢ならお爺ちゃまは解からない。 生命が終わり、仏さま・神さまのお家に行ける様に、今日の日を大切に暮らしましょう。 死後のお手本が無い。然し人のお世話にもなり、お米もただでは食せられない。生命の手間賃として三度の食事で前後、両手を合わせて感謝しましょう。 親が拝めば、子も拝む。お手本を示しましょう。小さい子は身に付くものです。 お陰が無ければ、自分の本当の姿は見えません。 【振り向けば、ご恩を受けた人ばかり】自分の本当の姿に気付く事の大切さ。動物も生きている。無益な殺生はしない様に。 自分の尊い生命を授かり、相手さんの立場が考えられる。 もう物の時代では無い。 心の教育が大切。 今日の本当の姿を形に表して行く。親の姿で育てて行く事。 忙しさに、心の在り方を忘れがち、 合掌の後ろ姿をそして心を残して行くことは難しい。 仏さま・先祖に手を合わせることは、宝物で有ります。* 8年前に伺った法話、人間の一生の反省とお恵みを感謝して読み直す次第です。明日又国立病院での血液検査の予約日です。
2012.08.16
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地区老人会での法話を筆記したものです。地元【六地蔵】【大善寺】の和尚さんでこのお話後3ヶ月して、癌のため遷化されました。とても愉快な方でした。そして奥様もその1年後に同じく癌で亡くなられました。夫婦仲もとても良かったのですね。先祖の大切さが印象に残ります。お盆に相応しいので掲載してみました。総本山知恩院布教師会副会長 羽田 恵三(はだけいざん)大善寺和尚さま【心 やわらかに】 平成16年3月2日和歌山では暖かつたですが、京都に帰ると今晩は特に冷えますネ。でも何処となく春の兆しを感じます。皆さん眠かったら【幸せ者】どうぞお話を聞きながら眠ってもらって結構ですよ。(一同笑い)豆電球でも眠れない。何か音が聞こえても眠れない。一杯ひっかけないと眠れない人が居られます。 大善寺は1200年の歴史があり、【小野 篁】(おののたかむら)が六体のお地蔵さんを奉られ、その後、後白河法皇の信仰により、平清盛に命じて京都の各街道の辻に分けて奉られました。その中でも大善寺のお地蔵さんは、最も美しく【所願成就】として願い事を敵えて下さいます。 何が幸せか? 三つの要素があります。 身(健康) 命(長生き) 財(遣って困らないお金)でもこれらが揃って果たして幸せでしょうか? この場に皆様が居られるのも健康だからでしょう。長生き人生生涯50年と云っていた時代があります。昭和20年の平均寿命でした。現在、少子化・高齢化によって 男 78歳 女 82歳 (平成22年 男 79.59 女 86.44 世界一長寿) そこまで生きなければ、損したみたい。 平成8年に金さん銀さんが知恩院に法然上人が80歳で亡くなられたので80歳の方60名と共に来訪ありました。何処へもお堂中黒山の人だかり。新幹線でご一緒しました。姉の金さんは前の席其の後ろに銀さんの席またその其の後ろに私が居ました。 金・銀・坊?(一同笑い)お姉さんの貫禄、握手攻めで、ここでは良い気分でも、家に帰れば蒸しタオルが真っ黒。そしてハイポーズ(坊主)と(又笑い)100ばん・100ばん(ダスキン) 嬉しいような悲しいような、長生きしたばかりにつらい日も多く共に味わった。今や100歳以上2万人。床に付かれたままで周りでお世話する人も大変。 財 お金が有っても邪魔なものでない。然し、大金持ちのお爺さんが医者に「時間の問題ですよ」と言われ、息子達は銀行から現金化して回った。三個のミカン箱を何処にしまおうか、火をつけられたら大変、考えに考えて天井裏に、そして夜もおちおち休む間が無かった。 お経の中に 【有田・憂田】 【有宅・憂宅】田が有れば、田によって憂う。邸宅が有れば邸宅で憂う。世の常。 【唯、何の苦もなく水鳥の、足に暇なき我が思いかな】水戸黄門の歌ですよ。世間で名高い、先の副将軍水戸の光圀公にあらせられる。 【娑婆】(しゃば) 仏教の世界から見て、俗世界のこと。インドの言葉で、忍耐する意味 【堪忍土】お互いが、許しあい、辛抱しあっていく世界。 幸せと思われる 【身・命・財】に満たされないのは【器】(心)ここが立派に耕されるかどうかが大切です。 【持つ人の受ける器で 宝とも仇ともなる 黄金かな】 お釈迦さまが手の中に砂を握られた。そしてこの一握りの砂と大地の砂とどちらが多いか?弟子達に問われた。勿論大地の砂です。と答えた。 そこで、人としてこの世に生を受けしは、この手の砂ほどであると。 また、糸を天井から吊るし、海底にある 【針孔】(めど)針の穴に通ずる確立は本人 両親 祖父母 曾祖父母 ・・・・先祖25代にして3,355万4432名の先祖の末裔である 尊い生命出生。 本来なら存在しない自分の姿。この世に生ある親の恩。確率は、お母さんのお腹の中で十月十日、お腹の中で亡くなることもある。よう産んで下さった。 今日の私の生命に関わる事ですぞ。【咲いた花にて 歓ぶならば 咲かせた 根元の恩を知れ】枝があり、葉っぱがあり、その下に根が有ったからこそ。この世に人として、生ある事即ち立派なエリート。尊い生命大地の動物に比べて人間として感謝。 次回この続きを更新します。
2012.08.15
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お寺さんに聴いたお話です。日本人は、【お盆】の時期を大切にします。故郷への交通関係も大渋滞に成るほどに、年に一度13日から16日まで先祖を迎え報恩の墓参または供養を捧げそして16日には送り火で一連の先祖さまを大切にする偲びと謝恩のひとときです。何故「お盆」といわれるようになったのでしようか?お話によりますと、お釈迦さまの十大弟子の一人に【目蓮尊者】は神通力第一といわれ、六道の餓鬼道のさまに、親愛なるお母様の餓え苦しまれて居る姿が見え、好物を与えようとすると、口元で好物は火と燃え幾度繰り返しても果たせず、お釈迦さまにお伺いをたてました。お釈迦さまは、お前の母は、わが子大事さに偏りすぎたため餓鬼道にいるが、お前の力では敵わない、90日間修行した僧に仏に対し布施と供え物を捧げ回向してもらうことで救われると言われ早速、お供え物を「盆」に載せて法要をしてもらいました。修行僧の犠牲の法力も加わり、愛するお母さんが極楽浄土に召されたことも神通力で観られ、大喜びして踊ったそうです。お供え「盆」から、何時しか「お盆」と言われ、親孝行したことで盆踊りとなったそうです。犠牲を伴なうお祈りの大切さと、先祖を大切にする事で家族は安泰とも考えられます。朝、目覚めて、生きているお恵みに感謝しています。
2012.08.14
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私のプログを応援して下さった方々にご報告があります。昨日の国立病院での、血液検査の結果、【血小板数値】が僅か6まで、急降下しました。正常値150。3年前同じ数値で入院病名は「再生不良性貧血」で国の指定の難病特定疾患です、うさぎの血清で、196まで再生したのですが、ここ2ヶ月で急に有れよと言う間に一桁になりました。現代の医学でも原因は解からないそうです。出血は生死にかかわることで、よって日常生活は外出は止めとなりますので、今後はブログの新しい情報は無理で、この嵯峨野シリーズを以って更新を休止させて頂きたいと思います。アクセス10万を目前に、多くの方々のご支援温かいコメント生涯忘れ得ないお恵みを感謝いたします。有り難う御座いました。 嵯峨野は祈りの道として、相応しく、天台宗の僧侶で仏師であった「西村公朝おしょうさん」が有志で羅漢さんを信徒の彫られた石像が奉納されています。【仏像】の知識はこの方のお話や本で解かり易く教えていただきました。一生感謝しています。 【嵯峨野巡り10】 嵯峨野巡りの道は、愛宕神社への愛宕街道とも言われています。その「一の鳥居」に至る、古い町並みを京都市で数少ない、【伝統的建造物群保存地区】として、指定されて居ます。鳥居を挟んで、手前に【蔦屋】(つたや)越して【平野屋】と言う萱葺きの茶屋がとても風情が有ります。鮎料理が主で、表に「赤い毛氈が腰掛に敷かれているのが印象的です。 愛宕山の愛宕神社の一の鳥居【蔦屋】平野屋 上から写す【平野屋】愛宕神社産気の古くからの茶店 更に道を進めてまいりますと、自動車道と交わる所に、「愛宕寺」が有ります。【愛宕念仏寺】【愛宕寺】(おたぎじ) 天台宗 開基 弘法大師 山号 等覚山「あたごじ」でなく「おたぎじ」とよばれています。京都市内で一番高い「愛宕山」頂上に「敵は本能寺にあり」とと号令した明智光秀か神託を受けたと言う「愛宕神社」の参道に有ります。 故西村公朝(にしむらこうちょう)和尚さんの寺です。ご生前中「祈りの造形」と題して、NHKの3ヶ月に亘る講義から、仏像の基本的な観方を興味深く教えて頂き、京都観光奈良も含めとても参考に成りました。「国宝の審査委員でもあり仏像修理」の担当出来る「仏師」でもありました。 現在も本屋で、仏像に就いての「公朝」さんの本が見つかれば、京都・奈良の仏像鑑賞にとても役立つと確信します。仁王門【仁王門】の側に「三宝の松」が一本有ります。「将軍塚」の「三鈷の松」(さんこのまつ)と同じく何か宝物が得られるのでしょうか? 有志の素人さん方々が彫られた羅漢さん 【羅漢石仏】(らかんせきぶつ)現代一般有志の方の志望で、一個の石が与えられ、各自の構想で、「羅漢像」を彫られたものが、数多く並んでいます。笑顔あり何とも云えない表情が夫々伺える様です。 本堂鐘楼境内本堂は坂の上に、そして境内を通して仁王門が見えます。境内に羅漢さんは数知れず多く奉納されています。 【本堂】空也上人の弟子の「千観内供像」が有ります。 現代の自動車道は、過去電車が通って居りました。「愛宕寺」の側から「トンネル」があり、越した所まで、通じていました。何故なら、「愛宕山」山上の「愛宕神社参詣」の登り口に至る為でした今は廃線となり、自動車で、【清滝橋】即ち登山登り口まで行けます。先に述べましたとおり「明智光秀」も愛宕詣でで,神託を得たとして、「敵は本能寺にあり」と丹波行きを返して都に攻め入ったとも言われています。火の神様です。 「清滝」の渓谷の清流は、とても景観で静けさを感じさせます。紅葉の景勝地でも有ります。 嵯峨野巡りは、如何でしたか?皆様のご来訪数が伸びて、やはり関心の深さに感謝しています。一度は日本にこんな素晴しい心琴をもたらす、文化の象徴とも言える場所へのご来訪をお待ちしています。。 次回は、「嵯峨釈迦堂」そしてその後「大覚寺」へと参りたいと思います。
2012.08.11
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朝一番に国立病院に血液検査のめ行って参ります。気になるなでしこジャパンはアメリカに2対1で接戦の末惜敗し銀メダルに輝きました。佐々木監督の最後の采配でベストを尽くして私達に夢を与えてくれました。感謝。 昨日は、寂聴さんのエピソードに共感して下さるコメントを 多く戴きました。人はふれあいによって嫌いであった人とも180度転じて、お人柄の誤戒がとけることと、子供の痛みに母さんの暖かい「手をあてがう」手当てで痛みが癒されることよくききます。まして仏に仕える身の手当ては、徳効があり、感謝のきもちで共に、「般若心経」を唱えることが大切なことと感じました。 本日は弘法大師さんが清滝川上流で、神護寺を創建され、嵯峨天皇(桓武天皇の皇子)と深い都造りの相談者でもあり、此処嵯峨野を歩かれ、風葬の亡骸を鄭重に埋葬に心されたと思います。 【嵯峨野巡り9】 嵯峨野を【寂】と選ばれた作家としての「寂聴」さん。正にその一言に尽きると思います。法名の名付け親は、同じく作家で天台宗の僧で【今 東光師匠】でした。 【寂庵】を後にして、先ほどの「石仏の三叉路に戻り、散策道を北へ、其処には「化野念仏寺」が有りました。【化野念仏寺】(あだしののねんぶつじ) 浄土宗 開基 弘法大師 山号 華西山(かさいざん) 参道 受付を入りますと、石仏の群れが一杯に拡がる光景に、驚きを隠せません。 十三塔の前のお釈迦さん「十三搭の前に、「お釈迦さん」が坐り、周りを群れとして石仏が中央に向けて配置されていました。「寂聴」さんの「嵯峨野散策」の本に、お釈迦様が皆様に、お説教されている姿の様に見られます。と記されていました。今は亡き霊が、仏の慈悲で守護され憩うて居られる様にも感じられました。 西院の河原お客様からよく質問を受けます。「石仏は幾つ位ありますか?」毎年お盆の終わり頃の、8月23・24日には、【千灯供養】としてローソクをお供えする行事が有ります。千は数の多いことを意味し、毎年増えつつあるようです。 寺伝によりますと、「二尊院」から「念仏寺」に掛けてこの当たりを「化野」(あだしの)と呼ばれていました。約1,100年前「弘法大師」が「五智山如来寺」を開創され、野晒しと成っていました遺骸を鄭重に弔い埋葬されたと伝えられ、その後「法然上人」の常念仏道場として、「華西山 東漸院念仏寺」(かさいざん・とうぜんいんねんぶつじ)を建てられて、浄土宗とされたそうです。本尊・阿弥陀如来 浄土宗として、本尊は、西方浄土から東向きで【阿弥陀如来坐像】(湛慶作)が祀られて居ます。受付に至る石段参道の側に、かなり彫が見にくくなった「釈迦如来・阿弥陀如来の石仏も鎌倉時代の作とされています。 本堂前の地蔵菩薩堂の中を覗きますと、正面の両側に、極楽図と地獄図が画かれていました。【西院の河原】(さいのかわら) 「空也上人」御作【地蔵和賛】にあの世で嬰児(みどりご)が河原の石をとり回向(えこう)の塔を積み重ねます。「一重積んでは父のため、二重積んでは母のためと・・・」やっと少し積み上げると、鬼が来て潰す姿が思い遣られます、罪も功も無き幼子の死界を、この世で回向の大切さを説かれているやに思われました。石仏群の囲いには、多くの「石積み」の形が訪れる人の真心が微笑ましい形で一杯見渡せます。 京の都には、東山清水寺の附近に【鳥辺野】そして船岡山の麓北区千本十二坊に「上品蓮台寺」がありますが其のあたりを【蓮台野】と言います。【化野】と三箇所の亡骸の風葬の場所でした。 本堂より、少し奥に行ったところに、【水子地蔵尊】が祀られていました。多くのお参りの「千羽鶴」や「お人形」等が飾られていました。親の姿もこの世で見ずして、あの世に悲しい現実です。 孟宗竹 更に「孟宗竹籔」を越えますと、墓地がありその入り口には、六体のお地蔵さんが立ち、夫々「六道」の担当で持ち物が変わっていました。常にお地蔵さんが側に付いていて下さっている様です。 古語「あだし」は「悲しい」・「悲しみ」と言う意味から「あだしなる野辺」が「化野」と言われる様になりました。「無情」を端的に表現、「嵯峨野」の風情の一部とも考えられます。 紅葉時の境内 次回はいよいよ嵯峨野巡りの終着点、【愛宕寺念仏寺】(おたぎじねんぶつじ)へと進みます。
2012.08.10
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長崎の原爆投下の平和祈念式典多くの犠牲に成られた方々の追悼の意を表します。 嵯峨野巡りも大詰めとなってきました。昨年の秋に訪問した写真です。もみじの頃となります。【嵯峨野巡り8】 【平家物語】に登場する、【祇王】【横笛】そして「渡月橋」の【小督】の哀話が此処「嵯峨野」に潜んでいるところに、女性の方に人気が有るのでしょう。 「祇王寺」「滝口寺」を後にして、暫し又歩を運びますと、三叉路に、可愛い野仏が数個道端に佇んでいました。その三叉路を右に少し行きますと右手に【瀬戸内晴美】即ち【寂聴】さんの「嵯峨野」での私邸があり、其の敷地内に庵を築かれました。 曼荼羅山 寂庵表入口 現在は一般には開放されていません。私邸前の表札は「瀬戸内」となっています。 【寂庵】天台宗 山号曼荼羅山(まんだらやま) 曼荼羅山は、「寂庵」からよく見渡せます山で、京都五山の送り火中の最後に灯される「鳥居型」が有名です。 大文字五山の送り火の「鳥居」が曼荼羅山 「寂聴」さんは、此処でも「源氏物語」を執筆されていました。 今は、締め切って、本堂内に入れなくって残念ですが、以前は開放され、時々「寂聴」さんとお客様が会われる機会が有りました。 中でも娘さんとの親子連れのお客様に、訪問をお勧めしましたが、老婆のお母さんは「瀬戸内晴美は大嫌いじゃ」と中年の娘さんの説得で、しぶしぶ「寂庵」を訪問しましたら、本当に仏の導きか、「寂聴」さんが本堂に居られました。 お母さんは、脚を痛めておられ、その旨寂聴さんにしぶしぶ訴えられたとき、「どれどれ足を出し成され、「手当てと言うでしょう、温かいおなごの手は、子供の痛みを和らげますね、私の手には、仏さまが加護されていますので、良く効きますよ」といって足を暫し摩られました、不思議と痛みは和らぎ、畳の上で坐る事が出来ました。あれほど嫌っておられたお母さんは、「勿体無い」といって涙を流して、まさかあの有名な方に、温かく気軽に接して下さった事に、「本当に来てよかつた一生の良き思い出になる」と歓ばれました。 そして、「一緒に私と般若心経を唱えましょう」と先導され、貴重な体験をされました。嫌いと言う前に、会って話される事で、誤解は消滅しました。 現代は、大変お忙しい身、高嶺の雲の上の方と成られ、庶民的に会う機会が「嵯峨野」で会えなくなって、とても惜しい事でと思います。次回は、弘法大師さんが無縁ほとけを一同に会し、供養仏を建てられた化野の念仏寺に参ります。
2012.08.09
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オリンピック卓球団体日本初の銀メダル福原愛ちゃん20年越しの悔しがりの涙から笑顔がこぼれました。石川香純・平野早矢香選手と共に頑張りました。 平家物語と嵯峨野は深い関係の、遺跡でもあります。 人間関係がままならなかつたのですね。大河ドラマ「平清盛」像をどのように、表現していくのか、微妙です。 【嵯峨野巡り7】 「祇王寺」のご感想は如何でしたでしょうか?苔の庭を一周するだけでも、大自然の美しさと侘びしさを感じとる事が出来ます。白拍子の「祇王さん」の華やかさの影に世の無情を身を以って体験され、心の癒しに、仏道に出家され、此処「嵯峨野」の静かな地で、漸く人間の尊厳を会得されたのではないでしょうか。【平家物語】「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無情の響きあり、沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者(じょうしゃ)必衰の理(ひつすいのり)を顕わす(あらわす)。奢(おご)れる者久しからず。ただ春の夜の夢の如し、猛(たけ)き人も遂に滅びぬ。偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ琵琶法師の語りが深々と聞えそうです。 祇王寺に隣接した滝口寺の門【滝口寺】(たきぐちてら)浄土宗 開基 良鎮 山号 小倉山 「祇王寺」の出入り口から、少し山手に隣接して、「滝口寺」が有ります。ここもお寺とは言え、庭先のこじんまりした部屋に訪れるだけですが、「平家物語」「重盛高野の巻」に登場する、平重盛の家臣【滝口入道時頼】と「建礼門院」に仕えた侍女【横笛】の悲恋の舞台となった場所でも有ります語り部とし、縁先で訪れる人ごとに、無表情で滔々と語られたお婆さんも、この世から、浄土に召されました。同じ事柄を終日多くの人々に述べられたご労苦は察するに余りありました。【物語】 清盛の西八条殿での「花見の宴」に於いて、「建礼門院」侍女「横笛」の「舞い姿」を、重盛の侍「斎藤滝口時頼」が繁々と見て、ひと目惚れして恋しく想う様になり、恋文を送る様になりました。ところが時頼の父がこのことを知るや「お前は名門の身にして、将来平家一門に入る身上でありながら、横笛ごときを想い染めるとは」と激しく叱られました。 時頼は、主君の信頼に背いて恋に迷う自責から「これこそ仏道に入る為の仏の尊い導き」と決心して、此処嵯峨野の【往生院】で出家し、名を【滝口入道】と改めました。 【横笛】は、都で「滝口入道」が出家したということを伝え聞いて恨めしく思い、自分の恋心を持って居ることを打ち明けたいと、都から嵯峨野の往生院を探し求めて辿り着いた時はもう日も暮れて、夕闇の迫るころでした。荒んだ僧坊から念仏の唱える声が聞えました。心をときめかして、滝口入道の声と聞き澄まして、真の恋心を打ち明けたく女の身で訪れたことを告げてみると、裾は露で濡れ、袖は涙でぬれ、痩せこけた顔付きは、本心で求め尋ねてきた様子は、誰しも抱き閉めてやりたい気になるも、仏道に仕える者として心を鬼にして、同宿の僧を遣わし「全く此処にはそのような人は居りません、何かの間違いではないでしょうか」と言わせました。襖の陰で涙しながら 「横笛」は、悲壮な悲しみで帰る時「眞の心を伝えたく」庭の近くに有った石に歌を「血染め」で書いて帰りました。 「山深み 思い入りぬる 柴の戸の まことの道に 我れを導け」 そして保津川に身を投じたという説もあります。 「滝口入道」は、未練が残ったまま別れた「横笛」に住まいを見つけられたからには、修行の妨げと思い【高野山】に移りました。これを知った「横笛」もその後直ちに、奈良の【法華痔】で尼に出家しました。現在本堂に紙製の小さな「横笛像」並びに「横笛堂」があるとのことです。 「法華寺」で尼に成ったと聞いた「滝口入道」は、一首の歌を「横笛」に送りました。 「そるまでは 恨みしかも 梓弓(あずさゆみ) まことの道に 入るぞ嬉しき」 「横笛」やっと心の通じた「歓喜」と「幸せ」をかみ締めて、返しの歌 「そるとても 何か恨みむ 梓弓 引きとどむべき 心ならねば」* 【あずさゆみ】神事に使う弓ですが、詩の「枕詞」として「春」(張る)に掛け、心の春をイメージしているようです。 「横笛」は、仏道を全う出来た心の安らぎのまま、間もなく法華寺で亡くなりました。これを聞いた「滝口入道」も仏道修行を積み【高野の聖(ひじり)】といわれる高僧に成られたと言う事す。【本堂】滝口入道・横笛の木像鎌倉後期の作で眼が水晶(玉眼)竹薮に平家の供養等が建っていす。【小松堂】平重盛を祀る【横笛歌碑】参道の庭にあり、横笛が指を切って「血染め」で、歌を書いて帰ったと言う石碑嵯峨野の雰囲気は、文学で女性の悲話を以って語られています。現代人としてその昔を偲びつつ訪れるのも自然にも触れ、祈りの気持ちにもさせてくれるようです。 次回は化野の念仏寺を訪れたいです。
2012.08.08
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オリンピックの注目の女子サツカー準決勝も凌いで日本2対1フランスで、日本中沸き返りました。あとアメリカに勝てば念願の金メダルに届きます。健闘を祈ること切に。 【嵯峨野巡り6】【祇王寺】(ぎおうじ)真言宗大覚寺派 開基 祇王尊尼 山号 高松山祇王寺 本堂入口萱葺の門孟宗竹苔庭手水鉢 「嵯峨野巡り」の中心的叙情に溢れた観光が味わえると存じます。「平清盛」の寵愛を失い、余生を尼になって過ごしたと伝えられる「平家物語」に名高い白拍子(しらびょうし)「祇王」にゆかりの寺です。此処にも女性の哀話が話題と成ります。 平家全盛の頃。都に「平清盛」の寵愛を受けた白拍子「祇王」と妹「祇女」が仕えていました。後日加賀の国の「仏御前」が清盛の屋敷に、白拍子として出仕方申し出ましたが、清盛は「祇王には適うまい」と門前払いを受けました。心の優しい祇王は清盛に取り成して。「一度舞いを観られては」と取り成し受け入れられました。 「今様の歌」七・五調の宮廷の舞の歌で 「君を始めて 見る折は 千代も暦(へ)ぬべし 姫小松 御前の池なる 亀岡に 鶴こそ群(むれ)いて 遊ぶめれ」 (大原寂光院の池) 繰り返し三度歌ったが声も筋もすこぶる上手で、清盛の幼児の頃母御から聞いた懐かしい歌に清盛は、涙してたちまち心を「仏御前」に移したと言います。 清盛の館から追い出される「祇王」は、せめての忘れ片身にと、障子に書き残されました。 庭園の片隅に石碑として建っています。萌えいずるもの歌碑 「萌えいずるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あわではつべき」 草木が芽を出し初々しく萌え出るのも、枯れてしまうのも、同じ野辺の草(自分たちのこと)の宿命。そして秋が来ると、哀れにも姿を消していく、そうした同じ道を辿るものです。 あくる春清盛より祇王に、「仏御前が退屈しているから、舞を舞うて慰めてくれぬか」と使者をよこすも、あまりの屈辱に祇王は行く気は無かったのですが、清盛の権勢と母「刀自」(とじ)の哀願に抗し切れず,館に赴き歌いました。 「仏もむかしは 凡夫(ぼんぷ)なり われらも遂には 仏なり いずれも仏性 具せる身を 隔(へ)つるのみこそ 悲しけれ」 並み居る諸臣も、祇王の心を察して、涙を絞ったと言う事です。「祇王」は母と妹を伴って、此処嵯峨野に身を寄せ、「仏門」に入られました。暫し年を経て、母子三人が念仏している所へ、竹で編んだ網戸を静かに叩く音がしました。以外や「仏御前」でした。 あれほどの仕打ちを受けたにも拘わらず、祇王も今は仏に仕える身と、心を赦して優しく迎え容れられました。 寺とは名ばかり、こじんまりした苔の庭園の側に二部屋の本堂があるだけです。昔は祇王桜が有りましたが、枯れて今は見られません、秋には、紅葉の葉っぱが苔に散らばり、彩なす光景は心癒されます。訪れられれば、必ず、履物を脱いで、「本堂」に上がって下さい。ボタンを押すと、上記のお話しが、流れます。そしてもう一つ、別室から観られる「虹の窓」を鑑賞してみて下さい。篠竹を斜めに交差した外側に「孟宗竹」が縦に構え、障子を閉めると篠竹から「虹」が写る趣向になっています。 虹の窓本堂の側に親子三人の墓があり、嵯峨野で静かに揃って憩うて居るようです。世の無情から解き話された様に 祇王・祇女そして母刀自の墓 次回は、【滝口寺】が隣接して居ます。同じく女性の哀話が潜んでいます。
2012.08.07
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オリンピックで世界は注目の中で本日67回目の「原爆の日」を迎えました。広島で貴い命の犠牲になられた方々のために、心から哀悼の祈りをお捧げします。平和は維持されるように、今のところなりました。犠牲に成られた方々の意図に酬いるよう今後も平和を護りたいです。 【嵯峨野巡り5】 【二尊院】天台宗山門派 開基 円仁(慈覚大師) 山号 小倉山 嵯峨野は、文学にも各所に足跡が有ります。短歌・俳句・古書等に耽るのに最も良き環境でも有るようです。「去来の小さき墓」に一礼して、更に歩を進めますと、伏見城から移したと言う、総門に辿り着きます。瓦の端には、豊臣秀吉の「五七の桐の紋」が見られます。此処が、「二尊院」の入り口となっています。 伏見城から移築された総門 何故、「二尊」と言いますと、本尊が「釈迦如来」「阿弥陀如来」と如来が二体揃うのは、大変珍しい事で、実際本堂で、仏像を拝しますと、立ち姿で全く同形に見えます。よくクイズで違いを探すような感じです。ならば何処が違うのでしょうか?以前仏像の見方で説明させていただきました様に「手先の指」がお釈迦さんは、手の平を広げ指も揃えて全て伸ばしておられます。一方阿弥陀さんは、此処では、親指と人差し指を丸く結んで居られます。 以前は、仏像の前まで入れましたが、今は観られなくなっていました。でも確かめたいですね。 発遣(はっけん)の釈迦如来はこの世で一切の衆生の往生を勧め、来迎の阿弥陀如来は、彼の浄土に迎えられる。即ち「勧める仏」と「招く仏」とで漏れなく衆生を救済しょうとする仏の悲願から、此処に二体祀られて居ます。【小倉百人一首】の発祥の地とも言われ、本堂の横には、古式のカルタが販売されています。【時雨亭跡】「常寂光寺」と同様に、小山に登り詰めた処に「藤原定家」の「山荘」である「時雨亭跡」の石碑が建てられて居ました。 参道 参道も「紅葉の名所」で、百人一首では、その美しさを表現する歌が読まれています。 「小倉山 峰のもみじ葉 心あらば いまひとたびの みゆき 待たなん」貞信公 藤原忠平 小倉山の峰に彩なすもみじ葉よ、もしそなたに心があるならば、このまま、そっと散らないで、もう一度の天皇の行幸を待つておくれ。(紅葉のあまりの美しさを強調された歌) 「宇多法皇」が始め大井川行幸として、訪れておられました。 わが子「醍醐天皇」に見てもらいたい意と考えられます。【厭離庵】(えんりあん) 「二尊院」から本通りに出て右手少し行きますと、北側に有ります。日頃、非公開ですが、紅葉のシーズンには、特別拝観出来るようです。外の喧騒から、別天地の様に静かな雰囲気を味わう事が出来ます。 入口玄関庭園への門居間中心山荘の跡地本堂 苔生す庭園愛宕水の湧く泉懸崖上の茶室茶室への路地 懸崖の上に「茶室」を構え、愛宕水の名水で、一幅のお茶は、何とも言えない美味です。「中心山荘の跡地」も有りました。 嵯峨野は、時雨時が多く、こうした文化も発祥したのでしょうね。 作家も良く来られて、文章を綴られるそうです。昔、静かにお話を伺い、お逢いした年取られた「庵住さん」も今は、この世から浄土へ召されました。時の流れを切なく感じました。次回は、いよいよ本番【祇王寺】です。【嵯峨野の中心的訪問地】と心得ます。誰しも心の打たれるところ存じます。
2012.08.06
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オリンピック、バドミントン女子ダブルス決勝で日本初の銀メダルを藤井瑞希・垣岩令佳選手が獲得しました。また、サッカー男子も3対0でエジプトに勝ち4強に入りました。何としても眠れない興奮度を増してくれます。 本日は、貧しさの中でも芭蕉の十大弟子のひとり「向井去来」の棲家「落柿舎」が嵯峨野の風情にぴったりで、田園風景と共にご案内します。 落柿舎【嵯峨野巡り4】 「常寂光寺」の門を後にして、直ぐの所に、のどかな嵯峨野を連想する広い畑に至ります。写真に撮られるには、畑の手前から、彼方にひそかに佇む、【落柿舎】(らくししゃ)は、一幅の絵に成ります。 【落柿舎】は、松尾芭蕉門下十哲の一人【向井去来】(むかいきょらい)が閑居した、極めて貧しそうな藁葺きの田舎風の一軒屋で、蓑笠が掛っているのが、印象的です。庭の片隅には 「柿ぬしや 木ずえは近き あらしやま」と記された「句碑」が立っています。 そもそも「落柿舎」の名の由来は、 去来が貧しい生活で稗飯(ひえめし)を食していました。ある年の秋に、庭の柿が豊かに実ったので、売買が商人との間で纏りました。「よし久方振りに、白い飯が食べられるぞ」と夢を膨らませて一夜を過ごしました。ところが夜半から嵐が吹きまくり、柿の実が全て落下していて商談は、不成立と成ってしまいました。「1升升は1升升だな」と観念して「落柿舎」と名付けたそうです。無念の句碑が、嵐と嵐山に懸けている気持ちがよく理解できます。 更に歩を進めますと、右手の墓地と句碑に立ち寄りますと、【去来の墓】がありました。 去来の墓 犬・猫の墓の様な、三角形の小さな自然石が置かれていました。石には「去来の墓」と書かれていました。その直ぐ横に、句碑が並んでいますその中に【虚子】の句碑を見付けました。 「おおよそ天下に 去来ほどの 小さき墓に 詣でけり」 虚子の歌碑 広い一帯は多くの歌碑で囲まれています。その一つです。 実は、左京区【真如堂】内の塔頭に、「向井去来」の菩提寺が 実は、左京区【真如堂】内の塔頭に、「向井去来」の菩提寺が 有り、そこには立派な墓があるそうですが、嵯峨野の居心地も、まんざらと未だにひそかに眠っているようです。次回は、小倉山百人一首の基地であるとされる【二尊院】を尋ねたいです。
2012.08.05
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オリンピックもメダルラッシュで、過去最も多い数になりそうです。なでしこジャパンも強豪ブラジルに2対0で勝ち、ベスト4に進出したようです。みまさま眠い毎日となります。常寂光寺は紅葉の名所昨年秋の写真です。酷暑の真夏に相応しくないですが、嵯峨野巡りの一環としてお許しください。 多宝塔 【嵯峨野巡り3】 大河内山荘を後にして、暫く歩くと、「トロッコ鉄道」「嵐山駅」が有ります。春秋には、桜・紅葉の鑑賞で「保津川」の景勝地を満喫出来る事で、利用する方が多いです。【常寂光寺】(じょうじゃくこうじ)日蓮宗 開基 究竟院日愼上人 山号 小倉山 日蓮宗としての観光寺院は、極めて珍しいです。「紅葉」と「歌碑」で訪れる方が多いです。小倉山の山腹にあって静寂で清らかな「常寂光土」に遊ぶような趣が有ると言うので「寺名」が付けられたそうです。 日愼上人は、日蓮宗大本山本圀寺(ほんこくじ)「山科区御陵大岩町」にて僅か18歳で法灯を継がれ「修学」「歌道」への学問及び文化に深く達して居られました。 入口の門 拝観受付 仁王門 【仁王門】仁王さんは「運慶」の作と言われています。 本堂への参道 本堂前【本堂】一般に外からしか拝する事が出来ません。 多宝塔 【多宝塔】紅葉をバックに、よく写真を撮られます。 紅葉の境内京都市街の展望 【歌仙祠】(かせんし)歌人藤原定家の祠(ほこら)定家像が安置されています。【時雨亭跡】嵯峨には「時雨亭」は三箇所有ります。「常寂光寺」「二尊院」「厭離庵」(えんりあん)何れも、定家山荘の跡と称して居られますが、昭和10年国文学者の考証では、定家の「小倉山山莊跡」は、常寂光寺仁王門の北即ち「二尊院」南に位置し、「厭離庵」近辺は、定家の子「為家」の住まい、「中院山荘跡」の定説と言われています。寧々さんの寺【高台痔】の山上に「時雨亭茶室」があります。 定家は、このあたり山荘「時雨亭」を構えて【小倉山百人一首】を編纂したとも言われています。【二尊院】と共に往時を偲んで訪れる人も多いのでしょう。 時雨亭は、小高き山に登った所に有り、この辺りからも京都市街が見渡されます。「紅葉」はとても美しいです。【角倉資料館】「角倉了以」は保津峡等を開発した立役者で有り、「藤原定家」の落ち着いた小倉山麓に隠棲所を提供したのが「角倉了以」と言うことで、展示されています。 次回は【落柿舎】(らくししゃ)を経て【二尊院】を訪れたいです。
2012.08.04
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競泳で 入江俊介選手並びに鈴木聡美選手が今回は銀メダルに輝きました。そしたバドミントンが史上初のメダル確実になりました。選手の皆様の常日頃からの懸命な努力の結晶でしょう。役者として、常に健康管理のため、山荘内を散歩そして精神的にも持仏堂を建てて祈りは大河内伝次郎も日常から大切にしたようです。名演技の陰の努力でしょう。 【嵯峨野巡り2】 山荘内の持仏堂毎日参詣してお散歩山荘の入口 野々宮神社から「小柴垣」の散策路を選ばれるも良し、急がれる方は、【天龍寺裏出入り口】から外に出た所から、豪壮な竹薮の路と成ります。嵯峨野の風情たっぷりの雰囲気です。突き当たった所を左に行きますと、「亀山公園」経由嵐山に辿り着きます。本日はその突き当たった所にある「大河内山荘」に入山してみましょう。 お茶券で和菓子とおうすをよばれる。 【大河内山荘】映画俳優・大河内伝次郎の別荘 2万平方メートル(6,000坪)故大河内伝次郎は、常に「二枚目」を維持する事によって、この景勝地を確保すべく、精神的には、山荘内に「持仏堂」を祀り信仰も厚く、体力維持には、広々とした我が所有地内を「ジョギング」して努力されたとのことです。獲得に30年要されたそうです。 別荘の邸宅 嵐山を借景 散歩道と茶室 茶室亀山に隣接し、小倉山にも望める別荘で、坂道も含む、自然の亀山に隣接し、小倉山にも望める別荘で、坂道も含む、自然の 起伏のある庭園です。小高き丘から、京都市街の眺望も素晴しく、比叡山も良く見えます。向きを変えると、嵐山の桜の遠景も目を見張る景勝に歓喜を覚えます。場所を変えると、保津峡の直ぐ側に面し、「山紫水明」の絶景も観られます。 保津峡の景色 京都市街地の眺望バックは東山三十六峰 暫し、故大河内伝次郎を偲びつつ山道を巡られるのも、良い想い出に成ると思います。 故大河内伝次郎の「執念」でしょうか?茶室の一つの「壁」に染みが自然に浮き出て、主役「丹下左膳」の「顔」が浮かび挙がっているように見えます。片目が刀傷で失明している姿も、敢えて、指摘しないと、判らずに通り過ぎられるようです。みなさんで探してみて下さい。 記念館大河内伝次郎の写真展示 「記念館」もあり、「お食事処」も有ります。受付で貰った「お茶券」で、ゆっくりお菓子と「薄茶」で一服されるのも、心落ち着いて暫しの憩いとなりましょう。 次回は、トロッコ列車「嵐山駅」を経て、【常寂光寺】【落柿舎】へと参ります。
2012.08.03
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体操男子個人で、内村航平さんが見事【金】を獲得されました。 昨日は、京都の最も代表的な「嵐山の景勝と隠れた名所」をご紹介し、多数のご感想を得て嬉しかったです。秋に訪問した写真ですが、嵯峨野の内容の話題を暫く続けて行きたいと思っています。 【嵯峨野巡り1】 歴史の真相は定かでは有りませんが、伝説では、いにしえにも女性の「哀話」が隠れています。そして【嵯峨野巡り】にも、静かに潜んでいます。従って女性には京都の観光で、一番人気があります。勿論春は桜、秋には紅葉の景勝地でも有ります。文化・詩歌にも史跡を見出し、世相の喧騒から人間らしさの原点に戻れそうでも有ります。 既に【嵐山】【渡月橋】そして【天龍寺】世界文化遺産はお話しました。特に【琴聞き橋】と【小督局】は、筆頭に御紹介しました。 天龍寺を後にして、「小柴垣」の道を歩み最初に辿り着いた社が嵯峨野巡りの入り口 野々宮神社本殿【野々宮神社】です。祭神は「野宮大神」(天照皇大神)が祀られて居ます。「黒木の鳥居」をくぐるも、こじんまりした小柴垣に囲まれた神域で、小さい苔と池のある庭園も見られます。 苔の庭園 「伊勢神宮に仕える前に「斎宮」(さいぐう・いつきのみや)に選ばれた未婚の皇女が「潔斎」(けつさい)のため1年間篭られるそうです。【源氏物語】第十帖【賢木の巻】(さかきのまき)に登場します。【光源氏】(ひかるげんじ)と【六条御息所】(ろくじょうみやすどころ)の別れの場面です。 光源氏(23歳)は、少女のような「紫の上」と結婚したものの、気持ちが充たされなかった。それにつけても、青春時代を埋めてくれた「六条御息所」(30歳)が、愛おしかった。その御息所が源氏を待ち切れず、「斎宮」とともに伊勢神宮に下向するという。源氏は嵯峨野を尋ねて会おうとするも、会ってくれない。源氏は「榊」(さかき)を持って来て、強引に会うことが出来たが「神聖な榊を折って来られたの」と責めて伊勢神宮の下向を思い止らなかった。源氏は、この年上の恋人の深い愛情を無視して心奢って、ないがしろしたことを悔いた。【嵯峨野の竹薮の道】野々宮神社を後にして、小柴垣から。大らかな嵯峨野の竹薮の道を歩みます。とても豪壮な「孟宗竹」でコマーシャルの背景によく出てきます。 孟宗竹林と小柴垣 「孟宗」とは、中国の古事【二十四孝】にでてきます。孝行息子【孟宗】のお話です。「冬の雪の積もる季節に、母上が、筍を所望されました。孝行息子の誠意の念力と願いが適い、竹薮から「筍」を掘り出す事が出来ました。それを聞いた村人は、感動して「孟宗竹」と名付けたそうです。 次回は「大河内山荘」へご一緒しましょう。
2012.08.02
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周恩来の碑本日の日記で、亀山公園に建てられた、周恩来さんの碑の詩の内容です。周恩来さんは、3年ほど、東京にある大学校に留学され、その折にたまたま京都嵐山を訪問され、悩みに応えて呉れるような、嵐山の雨の中での、景観に詩を残されました。周恩来さんは、又、中国に帰られ、首相として、田中角栄総理と日中正常化に調印され、国交が快復された方でもあります。一国の党首ともなる方が、嵐山の景色で元気を取り戻されたとも思えます。最近でも、中国の要人の方が来日のときに、わざわざ表敬訪問されるほどの人柄だったのでしょうね。 【碑文】雨中嵐山-日本京都 一九一九年四月五日雨中二次遊嵐山、両岸蒼松,挟着幾株桜。到尽処突見-山高流出泉水緑如許、繞石照人。瀟瀟雨、霧濠濃;一線陽光穿雲出、愈見嬌妍。人間的万象真理、愈求愈模糊;-模糊中偶然見着一点光明、真愈覚嬌妍。 雨の中二度遊びに来ました。両岸には、青い松がそして幾株かの桜の花が混じっていました。岸の道が尽きる処で、高い山が望めました。流れ出る泉は、緑色に映り、石を巡って人の姿を照らしました。小雨は深々として降り、霧が濛々と漂よって居ました。一筋の太陽の光線が、雲間から射し込みました。とてもなまめかしい光景でした。人として考えるに、森羅万象、真理は、いよいよ求めれば求める程はっきりしませんが、そのはっきりしない中で、たまたま一点の光明を見出すことが出来れば、眞にいよいよなまめかしくあでやかで美しいものでした。嵐山の美しい景勝を上手く捉えられた詩と考えられます。 宇治黄檗万福寺の開板 魚が口に咥えている意味を知りませんでしたが、【黄檗辞典】に下記の通り書かれていました。禅宗では、心に潜む三毒も吐き捨てる意味なのでしょうか。 かいぱん (開板) 木魚(→)の原型とされ、丸太を魚形に彫刻し、側面をたたいて音が鳴るように胴をくり抜いた板。 行事や儀式、または法会の刻限を報せるための法具(法要に使用される道具) として使用され、いわば時計の役割を果たし、食事の時間前に鳴らされる。 当初は飯○(はんぱん)もしくは魚○(かいぱんと読まれていた。)と書かれていたが、今日では呼称に文字を合わせ開板と記すことが多い。(注:○は木へんに邦の字) 魚が口に珠を喰わえ、そのまま泳ぐ姿に見えるが、実はその逆で、この珠は、貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の三毒(さんどく、さんぬ)になぞらえられていて、その球を今まさに吐き出そうとしている姿を表していると言われる。 また、魚は夜も目を開けていることから、それを見習って修行するようにと諭すために、法器に使用されたとも言われている。
2012.08.01
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