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遂にオリンビックの金の第1号女子柔道松本薫さんが栄冠を勝ち取られましたね。努力の結晶でしょう。 本日より嵯峨野巡りの初めに、京都一とも言われる嵐山周辺の案外知られていない名所をご案内します。 【嵐山】京都観光の「嵯峨野巡り」は、最も女性に人気が有ります。その入り口が【渡月橋】を含む此処「嵐山」です。「山紫水明の景勝地」として訪れる人々の心を遺憾なく癒してくれます。嵐山・渡月橋 大堰 保津川 渡月橋より上流の景色保津川下りの船「角倉了以」が「保津峡」を開削、豊かな渓谷は、JR「亀岡駅」からの「保津川下り」でも、スリル満点で、此処嵐山が「終着船着場」となっています。その船着場から、少し川上に、丘に登る階段が有り、少し上ったところに中国の「周恩来総理記念詩碑」が建っていますが、有名な【雨中嵐山】の詩の表現は、嵐山の表現を遍く伝えて下さっています。 中国の要人が来日の際は、どんなに忙しい日程でも、此処を表敬訪問されます。最近では、「温家宝首相」が訪れられました。 周恩来の碑「雨中嵐山」の詩が書かれています。更に「亀山公園」を登りますと、「角倉了以」そして「津崎村岡局」の銅像あります。特に村岡局は、嵯峨野「直指庵の創設者」で、幕末の影の立役者でNHK大河ドラマ「篤姫」の味方・理解者でも有りました。 角倉了以の銅像保津川の開拓者 津崎村岡の銅像 戻って、「渡月橋」は南北に架かっています。見所はブロの写真家が佇む、京都市内から訪れた、渡月橋の手前から嵐山を背景に、シャツターチャンスです。そして渡月橋を南に渡った所から、川べりに降りて、堰を含めて背景に、お饅頭の様に、丸く構えている「小倉山」(小倉山百人一首)そのバックに「「愛宕山」が見える場所も一服の絵に成ります。 真ん中丸い山「小倉山」 此処から更に、南へそして石段を登りますと、「虚空蔵菩薩」(こくうぞうぼさつ)(知恵の仏)を祀る、【法輪寺】があります。地元での言い伝えですが、子供さんたちの「七五三」のお祝いで、智恵を授かる為に、法輪寺で祈祷して、渡月橋を南から北へ、「振り向かないで、渡り切ると、その子に智恵が授かる」ということで、子供たちは真剣な様子で前を見つめて渡る姿は、とても微笑ましいです。川の名が渡月橋の上流・下流で堰と堰とで変わります。上から「保津川」「大堰川」そして「桂川」と嵐山の景勝を求めて、多くの観光客がお見えですが、その殆どの方が、目にとまらないのが、渡月橋の北東詰に在る【琴きき橋跡碑】です。 渡月橋の北詰に碑が建って今す。此処で源仲国が小督の琴の音を聴いたと偲ばれます。小督寓居跡渡月橋から直ぐの所にあります。此処には、嵯峨野の女性悲話の一つが静かに潜んでいます。あの有名な「黒田節」の二節に 「峰の嵐か松風か、尋ぬるひとの琴の音か、 駒引き止めて立ち寄れば、爪(つま)音高き【想夫恋】(そうふれん)」 宮中一の美人でお琴の名手であった【小督局】(こごうのつぼね)は、高倉天皇の寵愛を受けていましたが、中宮であった【徳子】(建礼門院)の父である「平清盛」は「わが娘をおいて何ごとぞ」と烈火のごとく怒り、小督を宮中から追い出してしまいました。高倉天皇は、愛しさのあまり部下の【源仲国】に命じて嵯峨野に身を隠していました小督局を探しに行かせました。嵯峨野の此処嵐山を訪れたころ、高倉天皇を恋い慕う想いを込めた【想夫恋】の琴の激しい曲が聞えてきました。そして出会って事情を話し、宮中へ連れ戻されました。今でも「国道1号線東山トンネル」西出口のそばにある、高倉天皇の御陵の側に天皇の遺言により、眠っています。 小督局の屋敷跡が、渡月橋の少し川上の「局茶屋」の北側に碑が建てられています。馬を止めて琴の音を聴き入る仲国の姿がまぶたに浮かびそうです。 平家物語の一つです。
2012.07.31
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オリンピックも毎日、日本人の活躍から目が外せませんですね。参加することに、意義がある気持ちで、温かく声援したいと思っています。阪神やつと勝てました。 禅宗には、臨済宗・曹洞宗そして本日の黄檗宗があります。曹洞宗では、観光寺院としてはなく黄檗宗では、庭園がありません。座禅・修行本意に造られています。 【黄檗山万福寺】 (おうばくさん・まんぷくじ) 黄檗宗総本山宇治は日本でも有名な茶処、JR黄檗京阪黄檗駅の近くにあります。【駒蹄影園碑】が、総門の前に建っています。 駒蹄影園碑 鎌倉時代の初めごろ宇治の里人たちが、茶の種の蒔き方がわからず困っているところへ、通りかかった栂尾(とがのお)高山寺の明恵(みょうえ)上人が、馬を畑に乗り入れ、その蹄(ひずめ)の跡に種を蒔くように教えたと伝えられています。この碑は明恵上人の感謝とその功績を顕彰するために建てられました。 「栂山(とがやま)の 尾上(おのえ)の茶の 木分け植えて 跡(あと)ぞ生(お)ふべし 駒の足影 明恵総門前の碑の側に龍の目の井戸がありました。 総門は、龍の頭 総門 龍の蛇腹を象った菱形の敷石(禅寺では多く見掛けます) 龍の蛇腹を模した参道 菱形石 山門山門の前の碑 にんにく・酒を口にした人、入るべからず。中国風の門 「山門を 出れば日本ぞ 茶摘み唄 菊舎尼万福寺は、開山 隠元(いんげん)禅師で10代まで中国の僧でした。従って、境内は中国風の雰囲気に充ちているため詠われたもの。 【布袋尊】(ほていそん) 都七福神 巡礼所のひとつ。正月には、七福神巡りで賑わいます。 布袋尊 みやこ七福神のひとつ写真撮影許可をもらいました。僧の姿だけは撮らない様にと 開版(かいばん)魚版で、木魚の原形となっているものです。 広々とした境内 開版 お魚の形 時を知らせるもので、禅寺の座禅で、魚は寝ていても目は開くことを諭しているとも言われています。本堂には、釈迦三尊が祀られています。一般には脇侍(きょうじ)は、釈迦如来の場合。【文殊】【普賢】菩薩ですが、此処では 十大弟子の筆頭【迦葉】(かしょう)【阿南】尊者が祀られていました。 羅怙羅 (らごら)父の釈迦の顔を胸に抱いている姿の像羅怙羅(らごら)尊者 お釈迦さんの実子で、出家して修行の末悟りを開かれ、心に仏性を抱くとして、胸を開けた場所に仏の顔が仏像として祀られていました。法堂(はっとう)砂紋が素晴らしいです。 法堂 舎利殿隠元和尚の開山堂隠元は中国人で万福寺を創設されました。豆知識インゲン豆は、メキシコ・中央アメリカの原産ですが、1654年に中国の僧隠元和尚さんが、中国(明)から日本に持ち込まれたことからの説もあるようです。
2012.07.30
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臨済宗の寺院は、京都に世界文化遺産17箇所の内、金閣寺・銀閣寺・天龍寺・龍安寺・西芳寺と5箇所含まれるほどに、文化的に高く評価されている傾向にあります。 シリーズとしても、あと宇治の黄檗山万福寺を残すのみとなりました。大徳寺シリーズも今回まで、此処だけでもこころが和みます。 大徳寺では、多くの塔頭が有りますが、特別公開以外には4箇所の常時拝観できる塔頭(たつちゅう)が有ります。【大仙院】【高桐院】【瑞峰院】そして【竜源院】です。 【竜源院】大徳寺塔頭能登の畠山氏、豊後の大友氏、周防の大内氏が建立しました。 参道本堂は、室町時代最古の応仁の乱以前に建てられた禅宗方丈建築で 本堂庭園は土塀を背景にした飾り気のない枯山水の竜吟庭と苔庭と一枝坦(いっしたん)そして小さい壷庭があります。 竜吟庭 苔庭 一枝坦の庭園 壷庭 部屋には豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝える碁盤があります。 秀吉と家康が対戦したという豪華な碁盤
2012.07.29
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オリンピック開会式をしっかり見てしまって、更新が遅れました。選手団入場雰囲気は、平和で健康に溢れて、元気をもらいました。京都昨日37.2度、全国的にも猛暑で、熱中症搬送1,000名とか充分に注意したいものです。【大徳寺4】【瑞峰院】(ずいほういん)公開。キリシタン大名【大友宗麟】(おおともそうりん)が菩提寺として建てました。戦国時代、豊後(ぶんご)大分の大名で、イエズス会宣教師フランシスコザビエル宣教師(スペイン)と会って、禅僧でもありながら後に洗礼を受け、霊名ドン・フランシスコとして、南蛮文化をとりいれました。墓は見られませんでしたが隋峰院にあります。 玄関入り口 禅宗の入り口に【韋駄天】峨祀られ守護されています。 坪庭庭園の一箇所に、十字架の庭がわかり易く、鑑賞出来ます。 十字架の庭石組みが斜めに十字架と組まれています 何と云っても【方丈庭園】は、枯山水で、荒波が岬に。怒涛の如く押し寄せる風景に、砂をするどく、深めに形作っています。外に類例が無い、豪壮な姿を表現しています。 方丈庭園・枯山水の怒涛逆巻く豪壮な砂の彫り方は他に類例ありません。信仰を貫く精神が垣間見られて、私の最も好みの枯山水です。茶室で国宝は3箇所その一つ、大山崎に有る【待庵】(たいあん)のモデルが新装なり、特別に申し込まれましたならば観られると思います。【聚光院】(じゅこういん)非公開 千利休・三千家の墓有り菩提寺。【龍光院】黒田長政が父如水の菩提のために建てました。日本国宝三茶室【蜜庵】 (みつたん)が有ります。外に愛知県犬山市【如庵】(じょあん)そして京都府大山崎の【待庵】(たいあん)です。
2012.07.28
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男子サッカーも初戦 日本 1-0 スペインに白星発進。日本中が、湧きました。 【大徳寺3】カトリック教徒は、バチカンのローマ法皇を中心に「キリストの復活」を祝う「復活祭」が春に行われます。イースターといって、世界的に、国を挙げて歓喜の行事が行なわれる諸国も有りました。わが国の歴史では、「踏み絵」等でキリスト教徒への、弾圧が厳しく、公には信仰を保てなかった中で、此処大徳寺の塔頭で、2箇所公に信仰を守った人物の菩提寺が有ります。一つは【高桐院】(こうとういん)【細川ガラシャ夫人】です。公開しています。 玄関への参道明智光秀の娘で、千利休の七哲の一人細川忠興の正室【玉】でした。石田三成の「人質政策」に反抗して死を選ぶ際に、キリスト教徒は、自殺は禁じられていますので、家臣の刃で亡くなりました。 細川忠興とガラシャ夫人の墓墓石の一部をわざと欠けさせました 【欠灯篭】豊臣秀吉の名石狩りをさけるためと、銘に「無双」と印し、完全を忌(い)む公自身が一部を欠いたそうです。茶室【松向軒】(しょうこうけん)は、黒壁で質素に造られています。 茶室 坪庭 珍しく雪が 庭園 本堂・方丈 大阪環状線の玉造駅の近くに、「玉造カトリック教会」があり、細川ガラシャ夫人の和服姿の像と壁画があります。【瑞峰院】(ずいほういん)公開。キリシタン大名【大友宗麟】(おおともそうりん)は明日の日記に掲載します。 高桐院の近所に少しはなれたところにあります。特別拝観を期待します。【弧蓬庵】(こほうあん)非公開 (中国風景に出てきます、菰の帆かけ小船)「小堀遠州」が故郷「近江八景」を庭園に作庭。「船岡山」を借景に採り入れています。茶室【忘筌】 (ぼうせん)中国の諺に「得魚忘筌・得兎忘蹄」(とくぎょぼうせん・とくどぼうてい)があり、其の中から名付けられたようです。説明では茶人の心得といわれました。魚や、兎を手にすると、人は、世話になった魚や兎捕獲の器に感謝する事をわすれてしまう。(辞書の解釈)戒めとも考えられます。功成れば師の恩を忘れてしまいがちの戒めでしょうか。中国の漢詩ですが、古代は偉かったのですね。
2012.07.27
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毎日、猛暑が続きます。みなさま熱中症にお気を付けて下さい。オリンビックロンドン初陣、なでしこジャパン白星スタート日本国民にとって明るいニユースとなりました。 本日の大仙院も見所は素晴らしいものがありますが、全て、撮影禁止で皆様に画像が送れないのがとても残念です。 【大徳寺2】【大仙院】塔頭で公開している中で最も大きく、見所も多いです。入り口の隣に一休禅師の住持された【真珠庵】が有ります。非公開で特別公開の時は、七五三の石組みの庭園などが観られます。 臨済宗(禅宗)の寺院を訪問するときに、掃除の行き届いている姿に、驚き且つ気持ちよく拝観が出来ることに、幸せを感じます。禅宗では、座禅を主としますが、日常の「作務」(さむ)として特に掃除する事を大切にされます。 大仙院の表玄関沙羅双樹と菩提樹の木が植わっています。 「大仙院」の入り口を入ると、お釈迦さんに関係する樹が植わっています。一つは「菩提樹」で、お釈迦さんが、こ樹の下でよくお説教なさったそうで、他の一つは「沙羅双樹」で、お釈迦さんが、亡くなられたときに回りに有った樹とされています。「涅槃図」(ねはんず)に良く出てきます。更に門をくぐると、十二支に因んだ石が、各方向に並べて有ります。庫裏の入り口に【何妨】(かほう)の額が掛っていました。禅宗では来訪者は、どなたでもさまたげないの意味だそうです。受付を済ますと、直ぐに【庭園】に遭遇します 。特別名勝・史跡】ですから国宝級です。渡り廊下の【花頭窓】から【透渡殿】(すいわたどの)が庭園の中心にあり、それを通して、枯山水の絵が美しく、瀧の滔々と流れる姿を想像させます。そして下流には、船石が有り、何れは、【方丈庭園】の白川砂で広がる、大海へとそそぐ形式を採っています。庭園の中程の茶室は、過って「豊臣秀吉」と「千利休」が対峙した場所で、当時何を語り合ったのか、考えさせられます。「鶴島」「亀島」そして「石橋」もあり。庭園の要素を全て整っています。方丈の北側には、【拾雲軒】(しょううんけん)が有り。「沢庵禅師」(たくあんぜんじ)の書院で、「宮本武蔵」とも対面したことでしょう。【方丈】(本堂)は【国宝】で、襖絵 【四季花鳥の図】狩野元信筆 【四季耕作の図】狩野之信筆 【四季山水の図】相阿弥 筆広々した方丈庭園も、座して暫し眺めますと、心が静まります。右奥に【沙羅双樹】が配置されています。大仙院を出ます、その西隣に前田家の菩提寺があります。芳春院【芳春院】非公開 前田利家夫人芳春院の創建です。【呑湖閣】(どんこかく)小堀遠州作といわれ、前田家は、上洛の際「琵琶湖」に関係有り、金閣・銀閣・飛雲閣(西本願寺)と京都の四閣にあたります。
2012.07.26
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禅宗・臨済宗大徳寺派の本山に参ります。戦国時代の将者の菩提寺になっています。何故か豊臣秀吉の名は有りません。 【大徳寺1】臨済宗大徳寺派 開基 宗峰妙超 (大燈国師) 山号 龍宝山紫野大徳寺と言う、広い境内の中に21の塔頭(たっちゅう)が有ります。殆どが一般公開されていませんが、4箇所は、常に公開されていますので、序々に訪れたいです。先ず本坊からまいりましょう。「大燈国師」により、創建され、位も臨済宗として「五山」の上位に有りましたが、三代足利義満により、十刹(じゅうさつ)の内9位に寺格を下げられた為、辞しました。現代「南禅寺」が「五山」の上位にされたままです。応仁の乱で、焼土化し衰退しましたが、一休宗純により、難波堺の豪商の支持で再建されました。一休さんの庵は、「大仙院」の隣に「真珠庵」として今も残されています。1582年豊臣秀吉は、全国大名に対しての威信を保つ為、主人「織田信長」の葬儀を「総見院」で執り行いました。いわゆる【大徳寺焼香】として、歴史に残されています。 入り口の門本堂茶室茶室織田信長の墓 千利休と茶道にも関係あり、利休の墓は、「聚光院」にあり、各塔頭には、夫々「茶室」が設けています。豊臣秀吉に関係する緒大名が競って塔頭を建てました。「石田三成」も有ります。石田三成の墓所【大徳寺の七堂伽藍】(ひちどうがらん)【勅使門】御所の陽明門を後に下賜されました。桃山時代の遺構です。 勅使門 【三門・金毛閣】(きんもうかく)初め初層のみの唐様の三門の上に「利休」の弟子たちが上層の【金毛閣】を建て増し、「利休像」を置きました。そして秀吉をその門をくぐらしたことから、秀吉の逆鱗に触れ、遂に切腹の原因の一つと成りました。 金毛閣【仏殿】(本堂) 本尊 釈迦如来 狩野元信の図があります。 仏殿の釈迦如来本尊【法堂】(はっとう)法要を営む。狩野探幽の龍の図があります。 法堂【浴室】昔、和尚さんが入浴された場所。浴室【経蔵】(きょうぞう)天平時代から、南北朝時代の写経が納められています。経蔵【鐘楼】(しょうろう)この鐘の合図で、現在も一山の和尚さんたちの諸行事に、出頭されます。【大徳寺本坊】(非公開)【唐門】本坊に据え付けられています。「聚楽第」の遺構とされています。本坊が非公開でも、外から観られます。獅子・松・孔雀・滝に鯉。見渡している内に日が暮れると言うところから、【日暮門】とも言われています。 七堂伽藍の参道
2012.07.24
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九州も漸く梅雨明けのようで、ゲリラ的過去に例のない豪雨で被災されたされた方々のお見舞い申しあげます。 蝉は喧しいほどになき、盛夏を感じさせます。 雪舟はわたしの幼い頃、漫画でみたことのある、画聖でなんでも、和尚さんにお仕置きを受けて、お堂の中で小僧として柱にくくられ、涙していたところ何時しか絵心ついて床に足でねずみを描いたところ、ねずみは生き物のように歩いたというほど絵が上手だったそうです。 【芬陀院】 (ぶんだいん) 東福寺の塔頭参道 雪舟庭園【鶴亀の庭】 雪舟は少年時代備中(岡山)の【宝福寺】ですごしました。東福寺の末寺法縁あって東福寺に起居していました。たまたま絵描きだけでなく庭園も作庭していました。ある日亀島を造ったところ住職が夜半にそっと窓を開けると、亀が動き出したので、驚いて雪舟に知らせましたら「重石をつけましょう」と石を載せることでとどまったそうです。今も石が乗っかっています。此の話を聞いた、後陽成天皇第九皇子【一条家第十四代の恵観】が雪舟にお願いして、【鶴亀の庭園】を作庭されました。 鶴亀の庭 曲玉の手水鉢と崩家形灯篭 茶関白 一条恵観公好みの茶室が鶴亀の庭の奥にありました。 真ん丸い悟りの窓 四角張った迷いの窓 外側から 関白 一条恵観公の【図南亭】 表玄関 東福寺は、如何だったでしょうか。塔頭まで皆様方は観られるゆとりがなすようですが、隠れた素晴らしい変化のある庭園でした。斯く記す私も初訪問なのです。ブログを書くことにに感謝。
2012.07.24
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いよいよ4年に一度のオリンピックが近付いてきました。精一杯、日頃の鍛えられた成果を存分に発揮して欲しいです。 東福寺の本山の境内に塔頭があり、夫々見所が有りました。 【退耕庵】(たいこうあん)塔頭 北門の近くに有ります。小野小町作と伝える高さ2mの【玉章地蔵】(たまずさ)(文)と「小町100歳」像が有ります。伏見区醍醐の「小野の随心院」にも有ります。 玄関までの路 入口の門 入った右側に お地蔵さんがあります。 紀氏信介基総理大臣の植樹 【霊雲院】(れいうんいん)塔頭 重森三玲作枯山水庭園。【臥雲の庭】(がうん)と【九山八海の庭】(くせんはっかい)金閣寺にも「九山八海の名石」(中国より取り寄せた)が有りました。凹凸に飛んだ又美しい庭園です。九山八海は、「蓬莱山」の形を現しています。 九山八海石塔 九山八海石塔 霊雲の庭 庭園 六地蔵尊入口に新しいお地蔵さんが歓迎してくださいました。
2012.07.23
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学校も夏休みに入りました。若さ溢れる楽しみを存分に味わって欲しいです。 京都五山第三位は既にご紹介しました【建仁寺】で、本日は第四位【東福寺】に参ります。 序に第五位は、信仰を専属に対象としていますので、拝観寺院から外れます【万寿寺】となります。 【東福寺】臨済宗東福寺派総本山 開基 聖一国師 山号 慧日山「泉涌寺」から更に南に、歩を進めますと、広い敷地として、「東福寺」をはじめ塔頭が、存在します。「紅葉」の時期には、京都駅にも近いことからか、立錐の余地も無いほどに、人出が殺到します。足利義満の決めた、禅宗の五山の第四番目に当たります。大きさを誇張するように、寺名も奈良の東大寺と興福寺から、一字ずつ採って名付けられたそうです。【七堂伽藍】(しちどうがらん)形式を採り、【伽藍面】(がらんづら)ともいわれています。 三門【三門】【国宝】禅寺としては、日本一古く大きいとのことです。扁額には【?雲閣】(みょううんかく)と書かれ、足利義持公の筆跡です。三門の上に登りますと、正面に釈迦如来像・十六羅漢像は定朝作と云われています。特別拝観で内部は拝観出来ます。 法堂【法堂】(はっとう)釈迦如来が祀られ、天井の龍の画は、【堂本印象】作です。時節(3月14日~16日)に【涅槃図】が、拝観できますが、此処も【猫】が神妙に構えて画かれている事で話題と成っています。何故なら「お釈迦さま」が亡くなる前に中毒の病で、空から「摩耶夫人」(まやふじん)母上が薬袋を投げられたところ【投薬の語源】【沙羅の小枝】(さら)に袋がひっかかり、【ねずみ】が木に登り取りに行こうとしたとき、猫が阻み、お釈迦さまのもとに間に合わなかったとのことで、十二支からも外され、功を得て、ねずみから始まる事に。 市松模様の庭園【本坊】方丈の西と北庭には、苔で【市松模様】で飾られ、芸術を感じさせられます。庭園は「重森三玲」(しげもりみれい)作です。 方丈庭園 通天橋【通天橋】(つうてんきょう)この周辺が、「紅葉」で最も楽しめるところです。渓谷「洗玉澗」(せんぎょくかん)のもみじは、最高に美しいです。【開山堂】【普門院】開基聖一国師の入定の地で、ちょっとした庭園が広がります。【竜吟庵】(りょうぎんあん)塔頭【方丈】が【国宝】です。「本坊」の東側にあり、特別公開しか拝観出来ません。先ず入り口に、「通天橋」に似た【偃月橋】(えんげつきょう)の廊下の様な橋が有ります。【竜文苑】と【敬愛の庭】があり、特に「竜門苑」の敷石は、鋭角にとがり、竜が飛び回っている豪壮なさまを見せ、枯山水の庭園としても、異様な活動的に心が躍ります。そして竹垣には、「いなずま」が走った模様で囲み、いやが上にも庭園の雰囲気が盛り上がります。京都でも珍しい庭園として、是非ご鑑賞の機会があればとお勧め致します。【退耕庵】(たいこうあん)塔頭 北門の近くに有ります。小野小町作と伝える高さ2mの【玉章地蔵】(たまずさ)(文)と「小町100歳」像が有ります。伏見区醍醐の「小野の随心院」にも有ります。 退耕庵・岸信介許総理来訪 退耕庵入口【同聚院】(どうじゅいん)塔頭 本尊不動明王坐像。モルガンお雪の墓が有ります。【霊雲院】(れいうんいん)塔頭 重森三玲作枯山水庭園。【臥雲の庭】(がうん)と【九山八海の庭】(くせんはっかい)金閣寺にも「九山八海の名石」(中国より取り寄せた)が有りました。凹凸に飛んだ又美しい庭園です。九山八海は、「蓬莱山」の形を現しています。 九山八海石 【芬陀院】(ぶんだいん)塔頭 【雪舟寺】(せっしゅうでら)雪舟作と言われる、「鶴・亀」の庭が有ります。
2012.07.22
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南禅寺は、禅宗の【京都五山の上】でした。【京都五山第1位】は世界文化遺産の天龍寺でした。ご紹介済み。【京都五山第2位】は世界文化遺産の金閣寺・銀閣寺を外塔頭とした本山は【相国寺】なのです。 【法堂】の「鳴き龍」は龍の絵の特定の場所で 手を叩くと、「るるるん」と龍が反応するように反響がありました。 【相国寺】(しょうこくじ)臨済宗相国寺派大本山 開基 夢窓疎石京都御所の北側に位置し、あの有名な【金閣寺】と【銀閣寺】の【本山】で有る事は、意外と知られていません。同志社キャンパスの北側に拡がる、広大な敷地内にあります。 法堂 「鳴き龍」 外人さんも関心有名なのは【法堂】(はっとう)で、天井には「狩野光信筆」の【龍の絵】が画かれ、「下から手を叩くと」共鳴音が、響く所から「鳴き龍」と言われています。【承天閣美術館】(しょうてんかく)禅の総合美術館で、寺宝が展示されます。近代的な豪華な美術館です。【開山塔】開山 夢窓国師を安置する。前庭 開山塔の「龍淵水の庭 【大光明寺】(塔頭)(たっちゅう)普賢菩薩の霊場、現在相国寺の管長有馬和尚の住寺。 足利義尚の墓があるそうで、 大光明寺 【塔頭】寧ろ、西南の墓地には、父の【足利義政】と「群鶏図」で有名な、【伊藤若冲】(いとうじゃくちゅう)の墓が並んで、眠っているのが、印象に深く、残ります。 左から【藤原定家】 南中【足利義政】 右【伊藤若冲】 の墓「宗旦きつね」の祠」千宗旦がお茶席を留守にしている間に、狐が宗丹に、身を化けてお茶を立てた。という微笑ましいエピソードを祠に残しています。宗旦稲荷 【花の御所跡】同志社キャンパス内にあり、当時の立派な「敷石」が窓越しに、観られるように構えています。足利義満が建てたものです。 【足利義満】の墓が相国寺にあるはずが、未だなぞとなっています。一休さんと頓知比べする様子でしたが、自らを唐の国主に「日本の国王」となのるほどに、長男より忌み嫌われた節があつたようです。 【大文字】の位置。 お盆の送り火に、「大」の字がともされますが、一説に京都御所に向かって、とあり、杯(さかずき)に酒を酌み、揺れる「大」の字を写して飲んだと、風流な光景ですが、銀閣寺の上にある「大文字」は、やや北西に向き、大本山「相国寺」を正面に「金閣寺」の「左大文字」と対向の位置に、有る事を、意識された方は、殆ど少ないと思います。 室町時代の栄華そして悲劇、歴史上の真実は判りませんが、関連して考えるとき、奥深さを覚えます。 こうして、観光も、一箇所を部分的で見るよりも、関連して、総合的に観ていくと、興味が沸くのではないでしょうか。 又、各宗派を知って、観ることも意識的に見方が深くなると思います。ガイドブックには、見る所を網羅していますが、観光の順路・見所・所在位置は、個人で行動される方にとつては、至難な業と思います、京都に住む友人から、「夫婦で、昨年清水寺に行ったが、門を潜っただけで、今回のを見て、もう一度、確かめて観光してみたい」と。励ましのメール戴きました。この方の為にも、可能な限り、進めて行きたいです。。
2012.07.21
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本格的な夏の季節となりました。学校も夏休み、児童達も楽しみでしょうね。社会悪に染まらず、健全なありかたで、友達と仲良く育って欲しいものです。南禅寺は、鎌倉中期に禅宗として、建てられましたが、応仁の乱または火災で焼失してしまいました。庭園は有る程度遺されました。徳川時代に再興された南禅寺そして塔頭が現代のこされています。本日の金地院(こんちいん)は徳川家康と懇意にあった崇伝和尚が庭師、小堀遠州に庭園を造りました。 【金地院】 東照宮への道 鳥居が立っています。 南禅寺の塔頭の一つで、「三門」の前の「中門」の外に位置します。徳川家康に仕えた「崇伝」が京の地に【東照宮】を造営し、今に残っています。 苔庭 参道 本殿入口 東照宮本殿 本堂の前には、枯山水の「鶴・亀の庭」として大きい岩が横たわっています。東照宮に対して吉慶を象徴した【祝儀の庭】とされ、「小堀遠州」作と云われています。 鶴・亀の庭枯山水庭園 方丈庭園「八窓席の茶室」は遠州好み「三畳台目」の茶席で名席とされています。
2012.07.20
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本日は、南禅寺開祖の【大明国師無関善門禅師】をお祀りする開山塔で枯山水と池泉回遊式庭園と東庭と南庭に分かれた趣の深い庭園で三門の上からも垣間見ることが出来ます。昨年まで、特別拝観で、その公開時季しか拝観できませんでしたが、今回は、常時観られるようです。【天授庵】 南禅寺の塔頭庫裏の入口 南庭への入口石畳が菱形で龍の蛇腹正門からの道も苔に満ちた石畳 此処の見所 正面が正門 苔庭南庭に通ずる書院 池泉回遊式庭園作者不明でも、南北朝時代の様相が伺われます。本日は写真だけで観察してみてください。
2012.07.19
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昨日は36.4度のもぅしょでした。梅雨は近畿地区あけたようです。祇園祭の鉾の巡行には、三連休のあとだけに、観覧する方は12万と大幅にさすがに減少です。 巡行にさんかされた人々のご苦労をつくづく感じました。 【南禅寺2】【南禅院】開基 無関普門 南禅寺の境内で、【水路閣】レンガ造りのアーチ形を潜り石段を少し登った所に有ります。 入ったところの 庭園同じく「水路閣」を更に登り詰めますと、疎水の勢い良く流れる水路を眺める事が出来ます。 水路閣の上 水路閣 奥の庭園 こじんまりした庭園ですが、【夢窓疎石】の作庭で、庭の要素は、瀧を始め揃って存在しています。南禅寺の発祥の地で、徳川綱吉の母に当たる「桂昌院」の寄進により再建されました。奥の庭園紅葉の時期も素晴しい景色を見せてくれます。
2012.07.18
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日本三大祭のひとつ、【祇園祭】の巡行の日で、84歳にして、京都に住みながら、巡行を終始鑑賞したのは、初めてでした。36度の猛暑のなか9時から長刀鉾を先頭に、今年一番山を籤でひいた郭巨山(かくきょ)がそし三番手に蟷螂山(かまきり)が続きました。昨晩の宵山は、50万の人出でした。写真を群がる歩道からで、とても難しく移動をしながら、辛うじて撮ってきました。八坂神社お旅所のちまき午前9時巡行開始長刀鉾お稚児さん和服は家族の方長刀鉾に皆さん注目青空に長刀が刃は、御所の方向を避けて回します。今年一番籤の【郭巨山】貧困のあまり、母と子を養うことが出来ない、思いあまってわが子を山に埋めようとしたところ、黄金の斧を掘り当てる。人形が台座に。中国の二十四孝のひとつ蟷螂山屋根のかまきりが動きます保昌山 木賊山(とくさ)伯芽山(はくが)外人さんも鑑賞函谷鉾(かんこぼこ)放下鉾放下鉾(ほうかぼこ)日・月・星のみっつの光が下界を照らすイメージ船鉾 船鉾「日本書紀」神功皇后の新羅出船を題材。船鉾最終の引き手四条大通りを鉾の隊列が続きます。
2012.07.17
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35度の猛暑と蒸し暑さです。祇園祭宵山25万人・昨夜は29万人の人出でした。熱中症にお互い気を付けたいです。三門 三門から参道 【南禅寺1】臨済宗南禅寺派大本山 開基 無関普門 山号 瑞龍山 禅宗五山の上位に格式が高いことが伺われます。五山の1位天龍寺2位相国寺3位建仁寺4位東福寺5位万壽寺とされています。【三門】は義賊「石川五右衛門」の楼上よりの「ああ絶景かな・絶景かな」と歌舞伎で有名に成った【楼門五三の桐】(さんもんごさんのきり)の一場面です。傾斜の急角度の梯子を伝って楼上に登りますと、その光景が体験できます。 法堂三門より参道の正面に【法堂】(はっとう)が有り、狭い窓から内部が見にくいですが、正面に「釈迦三尊」が天井には、龍が画かれています。 水路閣 【水路閣】(すいろかく) 京都をイメージした明治の名所で、ポスターによく紹介されます。レンガ造りでヨーロッバ風のロマンチックな風情を感じます。 水路閣の上、疎水の流れ その上には「哲学の道」へと京都唯一の坂に逆らって北に向かって流されています【疎水】の分流が流れています。 田辺朔郎博士像 【琵琶湖疏水】明治2年工部大学(東大)卒業論文に【田辺朔郎】(たなべさくろう)が運河により滋賀から京都への物資の運送に便を成し、そのうえ「蹴上の地」で傾斜を利用して「水力発電」を計画。日本で電車弟1号を発車させました。その論文を採り上げた京都府知事【北垣国道】 (きたがきくにみち)の英断で、苦難と財力の超過で完成。そのため知事を誹謗して「こんどきたがきは、ごくどうもの」と名前でなじったそうです。現代【水】に恵まれ、疎水の周りには、桜並木が何処も彩り、人の心の潤いに大いに寄与しています。銅像は「蹴上」に田辺工学博士が、平安神宮の西の方に「北垣知事」が今も見守ってくれています。【本坊】受付の前に履物を脱ぐ場所に、 【脚下照顧】(きゃくかしょうこ)禅宗の教えで、履物を揃えて置く様な心掛けで、禅寺を鑑賞するとよりよく、理解出来る意味で書かれていました。確かに以前も何回か記していますように、禅宗の寺院では、修行僧の行事か、「塵一つ落ちていません」 清浄感を味わうことが出来ます。廊下には、「五山の寺院の名」「東山三十六峰の山の名」が掲げてあり、一つの部屋の向う小庭には、「シシ脅し」のセットが見られます。(詩仙堂参照) 方丈庭園 【方丈庭園】「小堀遠州作」と言われる、枯山水の立派な白川砂で覆われた広い庭園に縁に坐って、ボタンを押す事で、説明が始まります。片隅の岩の配置は、【虎の子渡し】 を象徴するように、豪華なものです。襖絵は、狩野派の親子三代「狩野元信」「狩野永徳」そして「狩野探幽」の立派な絵が観られます。特に「探幽」絵の「水飲みの虎」は、有名です。何故か「三尊石」を象った石群があちこちの庭に見られます。別の枯山水の庭
2012.07.16
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【永観堂】浄土宗西山禅林寺派本山 開基 弘法大師の弟子真紹僧都山号 聖衆来迎山【紅葉の名所】法然上人八百回遠忌内庭勅使門の市松模様の砂紋龍が巻き付く唐灯篭臥龍廊下【見返り阿弥陀】全国でも珍しく、阿弥陀さんのお顔が後ろを振り向かれた形の仏像が安置されています。「永観律師(ようかんりっし)」が念仏を唱えつつ歩んで居られる時、本尊の阿弥陀さんが永観の先に立ち、共に念仏行道をされ始められましたので、その不思議さにたたずんでしまいました。そこで阿弥陀さんが永観の様子を温かく見られて「永観よ遅いよ」と見返られたという伝説があります。「先導する者(リーダー)・目上の者・強き者達は、時には、後ろに続く者に振り向いて、想い遣りの心で優しく手を差し伸べる事も大切なことを教えておられるようにも感じられます。 【永観堂の七不思議】. 抜け雀 火除け阿弥陀 大火事にも燃え残られた阿弥陀像 念仏蛙 人影の無い「御影堂」で木魚の音が絶えなかった。ふと覗くと「蛙が木魚の側で念仏を唱えて居たとか。 三鈷の松(さんこのまつ)松の葉が三本ある木があり、其の葉を持ち帰ると「三つの幸せ」がもたらされるという。「臥龍の廊下」廊下は、龍がうねるように曲がって造られています。涙を流される観音菩薩像。.本尊「見返り阿弥陀如来像」境内はとても広く、入り口の門の小さいわりに奥行きの深いことに、驚きます。観光される穴場かもしれません。境内の池楼閣への階段 【みかえり阿弥陀と永観律師】 夜を徹して念仏に励まれました、永観律師和尚さんが、東の空がしらける頃道を歩まれたとき、前に人影があって、お顔を「左」に振り向けられ「永観、遅し」と声がけがあったそうです。お顔お身体全体に漂う穏やかな微笑み、永観を 励まされた阿弥陀さまの慈悲のかたちをこれほど具体的に表された仏の姿は他に類例が無いようです。 広い寺院の境内で一番高所に「阿弥陀堂」があり、そのみかえり阿弥陀像の前に、お寺さんの手書きで素晴しい,ことばが書かれていました。 このみかえり阿弥陀如来のお姿勢を現代に問うならば 「遅れる者たちを待つ姿勢」 「自らの位置をかえりみる姿勢」 「愛や情けをかける姿勢」 「思い遣り深く周囲をみつめる姿勢」 「衆生とともに正しく前へ進むリーダーの把握のふりむき 真正面から おびただしい人びとのことを案じて 横を みかえる事には しばられない姿勢」 これがこの仏さまの み心ではないでしょうか。
2012.07.15
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過って記録のない豪雨に、犠牲に成られた方々のご冥福を祈ります。 法然上人さんの辿られた寺院をご紹介しています。寺院も一つのテーマーでリンクしてみますと、全体図の夫々関与していることで、興味がわくような気がしてまいりました。御影堂 熊谷直実の鎧掛けの五葉の松【金戒光明寺】(こんかいこうみょうじ)(黒谷)浄土宗大本山 開基法然 開山 紫雲山 吉田山(神楽岡)の南端に位置します。【真如堂】の奥に三井家の廟所があり、地続きに南へ歩みますと、 会津藩の墓地【会津藩】の墓地が広く繋がっていました。此処「黒谷」に本陣を構えて駐屯していたと言うことです。平和の時代を迎え、思わず当時の悲惨な歴史を顧みて、霊の安らかに眠られん事を念じました。 地元では、「くろだにさん」と愛称で呼ばれています。法然上人が比叡山で修行され、43歳のときにこの地で念仏を唱えられたとき、光明があたりを照らされたことから、念仏道場を開かれたとのこと。浄土宗の建物形式にそって、三門・御影堂・阿弥陀堂があり、特に変わった処といえば、 三重の文殊塔石段で高く登った所に三重の搭があり、【くろ谷の文殊さん】として「文殊塔」が一際、美しく建って居ます。 【日本三文殊】で、丹後天橋立の【切戸文殊】・大和【阿部文殊】そして【岡崎文殊】(黒谷)黒谷文殊塔は、徳川秀忠菩提のために立てられ、運慶作と云われています。 「三人寄れば文殊の知恵」賢いと言うよりも、健康的な判断が出来る智恵の授かることを願いたいです。 阿弥陀堂 【阿弥陀堂】豊臣秀頼の再建で、この寺院で最も古い建物で、本尊の阿弥陀如来像は、 「恵心僧都」の最終の作で胎内に「のみ等器具」が納めてあり、「おとめの如来」または「ノミ納めの如来」とも云われています。 山門 【山門】額縁に「後小松天皇」(一休さんの父君)宸翰で何故か【浄土真宗最初門】勅額 が掲げてあります。それは、浄土真宗の意味でなく、法然上人が説かれた、浄土経の真の教え を始めた最初の門の意味だそうです。法然上人は、比叡山から降りて、最初に真如堂の阿弥陀如来にお参りされた後、此処黒谷に草庵を持たれたそうです。浄土真宗の開祖親鸞上人も「真如堂」の阿弥陀如来にお参りされたと云われています。【吉備観音】(きびかんのん) 中国から持ち帰ったもので、栴檀香木(せんだんこうぼく)で造られた観音像で、御影堂内に安置されているようです。 御影堂の裏に、最近庭園を散策できるようになりました。
2012.07.14
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未だ記録にない激しい豪雨、被災地の方々のお見舞いいたします。 法然上人さんが、比叡山からの辿られた寺院関係を続けています。 応仁の乱を免れた阿弥陀如来さんを祀る 三重塔【真如堂】(しんにょどう)【眞正極楽寺】(しんしょうごくらくじ) 天台宗山門派 開基戒算山号 鈴声山(れいしょうざん) 銀閣寺庭園の小高き枯山水の滝組の道から望める前方に見えます「吉田山」 (旧三高の校歌で有名)を一名【神楽岡】(かぐらおか)とも言われます。即ち「山号」として「鈴声山」で「仏法有縁真正極楽の霊地とされていました。その岡の南の方に「真如堂」が建てられています。 本尊阿弥陀如来像は、【頷ずき弥陀】(うなずき)と呼ばれ、作者は、慈覚大師円仁(天台第三世座主)が比叡山で彫り終えられたとき、 「修行者の本尊に成って下さい」 と問いかけられると弥陀は頭を三回横に振られ否定されたそうで、「それでは都に降りて一切衆生、特に女性をお救い給え」 と念じられましたら、弥陀は三度うなずかれたそうです。比叡山常行堂に安置されていましたが、後に開山戒算上人が「真如堂」の本尊としてお招きされました。ひととき女性と言う事で「一条天皇の母君」「藤原詮子」離宮に安置されたともいわれています。「来迎の阿弥陀像としては、最古で、応仁の乱でも逃れておられます。 向井去来の歌碑法然上人・親鸞上人も比叡山から悟りを開いて先ず此処の阿弥陀さんに礼讃されたことで、向井去来も詩を残しています。 涼しさの 野山に満つる 念仏かな 去来そして、去来の大きい墓が境内・塔頭に有ります。【日本三如来】 信濃善光寺の阿弥陀如来・嵯峨清涼寺の釈迦如来・真如堂の阿弥陀如来 涅槃の庭 背景大文字如意ケ嶽 涅槃の庭の別庭に近代感覚の石庭【涅槃の庭】(ねはんのにわ)大文字「如意ケ嶽」東山を借景として、石組みで釈迦の横たわれた姿が見られます。別に【涅槃図】も掛け軸として存在し、珍しく猫くんが神妙に画かれています。何故ならお釈迦さまが中毒で、お母さんの摩耶(マヤ)夫人が天より、薬袋を投薬されましたが、周りに「沙羅双樹」が有り。その樹の枝に引っかかって届かず、(絵にもあります)ねずみくんが、登って取りに行こうとしたときに、猫くんが阻んで、お釈迦さまに届かなかった次第。猫くん「ご免なさいと反省しきり」借景の東山も、大文字山(如意ケ岳)がお釈迦さんの頭として寝て居られる姿が見えます。 春日局の桜【春日局の桜】本堂の横に「春日局のお手植えの桜」家光の乳母で父上の「斉藤利三」の菩提を弔うために植えられました。其の側に「利三の墓地」が又恩人の絵師「海北友松」(かいほうゆうしょう)その外「落柿舎の住人」芭蕉門下十哲「向井去来」の墓も有り眠っています。奥には「三井家の墓」が広々と有りました。 境内に去来の寺がありました。嵯峨野では小さい墓石でしたが四季折々に、桜・紅葉の名所と成っています。わらべ唄にもうなづき阿弥陀さまの庶民の暮らしへの思い遣りが伺えるようです。 ああ 真如堂(しんど) めし黒谷さん(くったか) ここらで一ぷく永観堂(ええやろう) お茶漬さらさら南禅寺(何杯や)
2012.07.13
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九州で又、記録を超えた雨で、被害がでています。謹んでお見舞いいたします。 24年ぶり自然出産した、パンダ、名もなく、失い 残念です。 此処暫く【法然上人さん】の威徳を偲んで、更新しています。銀閣寺から岡崎・円山そして清水寺に亘っての足跡が遺されています。 【法然院】浄土宗 開基 万無 山号 善気山「安楽寺」を更に北へ歩きますと、茅葺(かやぶき)の優雅な門が見当たります。 参道 此処でも法然上人が住蓮・安楽坊と念仏を唱えた道場で、須弥壇(しゅみだん)には、四季折々の生花25組が飾られ、彩りしています。阿弥陀如来御来迎の三尊の外に、眷属25菩薩を表現しているそうです。 本堂には、恵心僧都(えしんそうず)作と伝えられる「阿弥陀如来坐像」と「法然上人」自作の木像が安置されています。 境内 境内 境内 萱葺の内から撮った門 椿の名所でもあり、墓地には「谷崎潤一郎」「河上肇」が眠っています。 かくして鹿ガ谷は、「法難の地」でもあり、「哲学の道」も西田幾多郎博士が、考えを深くして、歩まれた道で、歴史的にも過去を振り返る場所でもありました。
2012.07.12
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法然上人さんは、当時【清水寺】で【念仏道場】を最初に開かれたとされています。【阿弥陀堂】には、その旨と上人さんの像が祀られています。 鈴虫・松虫も法然さんを清水に訪ねて、その法話に、感じいれられたともいわれています。 入口京都市観光局の立札安楽寺住蓮山と号し、浄土宗の寺院である。鎌倉時代の初め、現在地より東一キロメートルばかりのところに法然上人の弟子住蓮坊、安楽坊二僧が、念仏場を建てて人々に念仏をすすめた。たまたま後鳥羽上皇官女松虫、鈴虫が教化をうけてひそかに出家する事件がおこり、上皇の立腹をうけ、「念仏停止」の宣下によって、二僧は死刑、法然上人は土佐へ親鸞上人は、越後へと配流された。これがいわゆる建永二年(一二0七)の法難であるが下って室町時代の末、天文年間(一五三二~一五五五)二僧の供養のため伽藍を之の地に再興したのが、当寺である。本尊阿弥陀尊像を安置し傍らは、住蓮、安楽両上人松虫、鈴虫両姫の座像、法然上人張子の像等をまつっている。また境内右手に住蓮、安楽両房の五輪石塔東方山林中に松虫、鈴虫両姫の五輪石塔がある 京都市境内庭園 仏足石 本堂供養塔への登り口 安楽坊・住蓮坊の供養塔 女官鈴虫・松虫の五輪塔 参道 庭園内の千両 本堂の背景 東山 鹿ケ谷
2012.07.11
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法然上人さんの遺徳を偲びつつ 【安楽寺の縁起】「紫の庵の明け暮れに 心を澄ます谷水の流れを人の聞き伝え 人里まれなる鹿ケ谷(ししがだに)なお山深く分け入りて 紫の庵を結びつゝ」 「御門の寵愛浅からず 数多の官女の嫉妬よりとかく浮世を厭い捨て 菩提の道を求めんと一念心を傾けて 剃髪染衣を求めんと」 安楽寺和賛 住蓮上人・安楽上人お二人の念仏のお話に惹かれて、大勢集まり、精進の妨げと更に山深く庵を求められたとき、一匹の白い鹿に導かれ鹿ケ谷の山中で姿を消したので、仏の導きと、其処に紫の庵を設けられました。本堂一方、後鳥羽上皇の寵愛を一身に受けた 女官、松虫・鈴虫は、当初清水寺で法然上人のお話に救われ、後に 上皇の紀州へのみゆきの留守に、宮中を抜け出し、此処「紫の庵」に駆け込み、上人の宮中へ帰ることを進めるも、仏道への志高く、両姫は見識も高く美しい姿も投げ捨て、両上人によって、剃髪をされ、出家されました。松虫19歳・鈴虫17歳でした。鈴虫・松虫の供養塔後鳥羽上皇の逆鱗は恐ろしく、兼ねてより意向に適わぬとして、住蓮・安楽上人は斬首。 法然上人は讃岐国(高松市)・親鸞上人は越後国(上越市)に流罪。【建永の法難】仏道の僧でありながら罪とされました。 松虫・鈴虫尼僧は、自分の行いが原因で、両上人が、殉教されたと知り、嘆き悲しみその後、瀬戸の生口島(いくのしま)(尾道市)で念仏を捧げ松虫35歳・鈴虫45歳で入寂。 後に、法然上人が戻られ、此処に両上人の菩提を弔う為、草庵を復興「住蓮山安楽寺」と名付けられました。 【鹿ケ谷かぼちゃ】(ししがだにかぼちゃ)無病息災のために、7月末の夏場の健康維持のためにも、寺院で炊き出し行事が行われます。
2012.07.11
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蒸し暑い夏日となりました。大原三千院を4回に分けてご紹介しました。本日のニユースで「京都観光」は世界第9位にベスト10内に入りました。 【三千院4】 「勝林院」では、殆ど訪問者無く、ゆつくり「阿弥陀さんの世界」と「声明の調べ」を満喫出来ると思います。正に「浄土宗の発祥の地」とも考えられる聖地で有りました。外に出て直ぐ隣に、「宝泉院」が有ります。【宝泉院】天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 富士の形した五葉の松 法然上人衣掛けの石 入口の小庭 奥の間への庭園 門の正面に樹齢500年余の「富士山型の五葉の松」がどっしり構えています。受付で備え付けの「木魚」を叩くと係りの方が案内して下さいます。額縁の竹林 【額縁の庭】 として、広いガラス戸の間から、片や「近江八景図の庭園」が片や「竹林」が額縁の中で鑑賞出来ます。「抹茶と菓子」が出され、三千院の鑑賞の疲れに、一服落ち着いて外の景色をゆっくり味わわれるのに最適です。竹林の背景には、翠黛山(すいたいざん)(阿波内侍の眠れる山)ほか大原の里が望まれます。 【血天井】が京都に数箇所有り、その一箇所が此処「宝泉院」でも弔っています。 伏見城で徳川の忠臣「鳥居元忠(とりいもとただ)一党が、篭城で死守して、援軍の届かぬ内に自刃して果てた、血染めの廊下を、天井に上げて、菩提を弔ったと言う。 宝泉院別の庭園宝泉院庭園 【実行院】天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 「声明」の音階・音律を味わえる場所でもあります。楽器は四国の自然石で自由に鳴らして体験が出来ます此処も、抹茶と菓子で庭園を眺めながら憩う事が出来ます。 又、庭を散策するための履物も、用意され冬でも花を付ける「不断桜」も楽しめます。 滝の流れと小規模の庭園形式の「契心園」も落ち着きます。女性のみが、「宿坊」として利用も出来るそうです。 後鳥羽天皇・順徳天皇大原陵【大原御陵】「実光院」の真向かいに位置します。「承久の乱」(じょうきゅうのらん)鎌倉幕府に破れ「武家政権」が際立つように成りました。82代後鳥羽上皇は、隠岐に、84代順徳上皇は佐渡に配流されました。大原の里で御霊は、静かに安らいで居られる様です。遠く歴史を偲びつつ礼拝。【来迎院】(らいごういん)天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 山号 魚山余程、時間の赦せる方しか望めませんが、「呂川」(南谷川)の上流に位置し、慈覚大師円仁の「声明」の根拠地とも言われています。平安時代の末期に「融通念仏の開祖・聖応大師良忍」によって、再興されました。本堂には創建当時の作と言われる薬師・釈迦・阿弥陀三如来の坐像が安置されています。 更に「来迎院」を過ぎて、「律川」(北谷川)の上流かなり山道を辿りますと、【音無しの滝】に出会いました。感無量でした。白糸をたらしたような美しい滝で、巨岩に落下する「水音」は山肌にすいこまれように静けさを深めました。聖応大師が「滝の音」と「声明」が相乱れるのを恐れられ、「呪文」で「水音」を止められたと言う伝説が伝わっています。近くに聖応大師の墓が有ります。今でも仏教音楽「声明」に心して居られる事でしょう。 大原紀行も、此処まで訪れられれば、悔いは残りません。
2012.07.10
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浄土宗の発祥の基盤となった大原問答勝林院・大原問答【三千院3】 京都市内から、かなり遠い位置に「大原」は有りますので、観光時間の関係で急がれる方が多いのか、又ご存知ないのか、「「三千院」の感動をそのままで、「御殿門」から、帰途に付かれる方が、殆どとお見受けします。 その証拠に、秋の紅葉シーズンでは、観光の人並みで混雑していましても、その奥に素晴しい寺院・御陵そして「音無しの滝」を訪問される方は、少なく、ゆったりと味わう事が出来ます。 熊谷直実が座って待機した石 「桜の馬場」を更に北奥に進みますと、「律川」の橋を渡ります。その橋の袂に「法然上人」の弟子「熊谷直実」(くまがいなおざね)が坐って待ち構えていたという石が存在しています。 そして橋の渡った辺りを「鉈捨て籔」(なたすてやぶ)と言っています。更に突き当たりまで、歩を進めますと。正面に「大原問答」で有名な「勝林院」が有ります。【勝林院】天台宗 開祖 円仁(慈覚大師) 山号 魚山(ぎょざん) 受付(殆ど不在)から石畳の道を経て、本堂に履物を脱いで堂内に、そしてボタンを押しますと、堂内に厳かな「声明」(しょうみょう)が聞かれます。其の雰囲気で本尊「阿弥陀如来坐像」を拝する事ができます。 証拠の阿弥陀さん阿弥陀さんの目は拝する位置によって、怖く・優しく変化します。 僧侶の読経される坐が最も優しく見える45度の角度のようです。阿弥陀さんの手から紐がぶら下がって居ますので、手元の紐を引くと阿弥陀さんと握手した事に成るという事で、浄土へ導かれることを願って実行されています。この手法は、他寺でも良く見かけます。縁があればお試し下さい。 両台座に座して問答 【大原問答】堂内の本尊阿弥陀如来の前、両側に梯子があり、壇上が備え付けて有りました。一方には、「法然上人」がそして、もう一箇所には、「叡山南都の学僧」と浄土念仏の教理を論議・問答して信服させられたと言います。 法然上人54歳対して顕真(けんしん)権僧正(ごんそうじょう)56歳でした。 既成仏教は、王朝貴族を初め、知恵者、特定の富者のみに適ったもので、貧者・大衆・凡俗は、何等仏の救いも無く、実に仏教とは他山の石・無縁の存在とされていました。そこで法然上人は、叡山で修行し会得された結果。誰もが「一意専心・南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることで「極楽浄土に導かれる」と、説かれた時、本尊阿弥陀さんの手から、御光が射したと言うことで、「証拠の阿弥陀」と称されることに成りました。その後「浄土宗」として庶民の信仰と広がっていきました。 このとき師匠「法然上人」に危害が加えられるのではと、弟子の「熊谷直実」は懐に鉈(なた)を隠し持って、近くで構えて居たところ、法然上人にたしなめられ、鉈を竹薮に捨てたという事です。 前庭 前庭 堂内の裏には小さい緒仏像が、並んでいますがその中に「踏み出しの阿弥陀如来像」があります。人を正に救おうと左足を一歩踏み出す、救いの動的表現を採っていますそして「法然上人」の像も有ります。 殆ど貸切状態の様に、来訪される方は、まばらでゆっくりと、妙なる「声明」のお経を聞きつつ阿弥陀さんの世界に心を寄せて拝観できます。「三千院」の人込みが嘘の様です。
2012.07.09
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皆様、七夕の祭りたのしまれたでしょうか。どうにか天候はよかったようですが、 本日は、建礼門院さんも慕われたとされる【往生極楽院】という三千院の中心部分をご紹介します。【三千院2】8.【宸殿西の間】救世観世音菩薩像(くぜかんぜおんぼさつ)(重文)鎌倉時代作、当初秘仏で観られませんでしたが、今は公開されています。不動明王像。阿弥陀如来像が祀られて居ます。部屋の中まで入って、拝観されることを、お勧めします。9.【宸殿本堂】正面に112代霊元天皇の御親筆の額が掲げて有ります【三千院】と。 本尊は、薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)で伝教大師の作とされています。 向かって右に歴代天皇の、左に歴代法親王の尊牌が祀られて居ます。本尊は秘仏で観られません。 瑠璃光の庭10.【宸殿玉座】三千院の中で最も大切な場所です。高貴の方が坐られる事から、此処からの【瑠璃光庭】と【往生極楽院】の眺めが素晴しいです。 玉座は、高貴な方が坐られる為に、「格天井」(ごうてんじょう)になっています。 正面に「王義之」(おうぎし)の【鵞】(が)拓本の大軸が飾ってあります。【虹の間】玉座の前の部屋で、「下村観山筆」天皇を太陽に見立てて画かれた「虹の図」従来の襖絵の常識を破って、鴨居の上の壁にすべきところを、特に「釣り襖」として、天井まで貫く大胆な構図で「虹」が画かれ、世界的に有名だそうです。虹の七彩の美しさもさることながら、下部の壁にまで、「水草」が可愛く画かれているのにも注目して見て下さい。障子の外から手をかざしますと、指の間から虹が映し出されます。「紅葉」ごろは更に美しく反映します。是非試みて下さい。瑠璃光の庭 小さいお地蔵さん11.【瑠璃光庭】本堂前から履物を履き、苔むす広い庭園は、心を和らげます。大きい地蔵菩薩が庭に立って居られます。三千院の美しさ、静けさ、清らかさ、雰囲気を味わう絶好の場所です。「造った庭」ではなく「造ることもなく出来上がっている庭」井上靖が「東洋の宝石箱」とした「池泉回遊式庭園」で、女性の着物姿が「水面にぬれた」と歌った場所かもしれません。想像して鑑賞して見て下さい。【紅葉】【雪】景色は表現の出来ない感動を与えて呉れます。 「薬師瑠璃光」の如来の道場のごとく清らかで自然の姿。「杉苔と杉木立」を満喫して下さい。【有清園】瑠璃光庭の一部で、「往生極楽院」の東側にあります。「さざなみの滝」水音が静けさを感じさせます。あちこちに「童地蔵」石仏が微笑ましく、皆様を歓迎しておられます。往生極楽院内部は写真が撮れないのが残念です。12.【往生極楽院】 【阿弥陀如来】脇侍として【観音菩薩】【勢至菩薩】の坐像がゆったりと祀られて居ます。極楽浄土への御来迎の形で、「観音菩薩」は、蓮華坐を持って居られます。両脇侍は、あぐら坐でなく、「大和坐り」と言ってとても珍しく、腰をやや立て、今や迎えようとされる、動的感じを与えて居られます。「阿弥陀如来の印相」は「上品・上生」で極楽浄土への最高の迎え方をして居られます。仏さんを大きく囲う為、天井は、船底型になっています。彩色は今は剥げてしまいましたが、往時は、美しく極彩色で有ったと考えられます。板塀には、25菩薩三千仏、天井には飛天、柱には極楽浄土に咲く「宝相華」(ほうそうげ)も画かれていたようでてす。 お坊さんのお話では、「建礼門院さまが、この優しく心の安らぎを感じさせる阿弥陀さん三像を目の前にして、平家の菩提を弔うに相応しいとして此処大原の里に余生を送ることを決意されたのではないでしょうか」と。
2012.07.08
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今夜は、七夕祭りですね。全国的に傘マークでざんねんです。平清盛の娘「徳子」は、幼くして高倉天皇の中宮(皇后)になられ、壇ノ浦では、幼き吾が子安徳天皇と入水するも、義経にご自分だけ、救い出され、京都の円山公園そばの「長楽寺」で身を整え往生極楽院の慈悲深き阿弥陀如来のお姿に、大原の里を選び「平家一門の菩提を弔う為、」忠実な侍女阿波内侍と優しい里人の支えで女の一生を遂げられました。大原は、歴史の哀れすら感じる場所ともいえましょう。 【三千院1】天台宗 開基 最澄(伝教大師) 山号 魚山(ぎょざん) 大原は、京都を訪れる若い女性にとって、嵯峨野巡りと並んで人気のあるところです。 「京都 大原三千院 恋に疲れた女がひとり 結城(ゆうき)に塩瀬の素描(そびょう)の帯が水面(みずも)にぬれていた 京都 大原三千院 恋に疲れた女がひとり」 デューク・エイセスの歌声が耳に残ります、作詞家 永六輔が京都の代表として選ばれたようです。 「寂光院」から紫色の「ちそ畑」を眺めながら、坂道を登ったところに「三千院」が有ります。「穴太積」(あのうづみ)と称して、滋賀県坂本の穴太衆の作業で石垣が目立ちます。地震があれば余計に揺すられて固まる仕組みに成っています。フランスの女性客に説明していましたら 「よっぽど自信が有ったのですね」とジョウクで返されました。桜の馬場と言いますが、紅葉が素晴しいです。 穴太積(あのうずみ)の石垣桜の馬場 大原は、【声明】(しょうみょう)の道場の地で、「声明」とは、お経に節を付けて、歌う様にお経を唱えます。とても荘厳で仏への世界へと誘われ落ち着きの保てる雰囲気になります。従って「三千院」桜の馬場の両出入り口「呂川」(りょかわ)と「律川」(りつかわ)が流れる「橋」が架かっています。何れも「声明」の音律から付けられたもので、節回しが上手く行かない時に、酒に溺れて酔っ払って言語のはっきりしない人を「ろれつがまわらない」という語源が出来たそうです。【天台五門跡】妙法院(三十三間堂)・青蓮院・毘沙門堂(山科)・曼殊院・三千院格式の高い寺院で、天台座主の後継者候補が門跡として、仏事に坐しておられる方が多いです。 現在の比叡山延暦寺の総本山で「256世天台座主」になられた「半田孝淳(こうじゅん)座主」は「曼殊院門跡」でした。「三千院」の建物は、【往生極楽院】1143年建設を除き、明治以降にに修理改築された建物と比較的に新しいです。【順路】1.「呂川」に架かる「魚山橋」を渡り、「穴太積」の石塀と茶店で挟まれた「桜の馬場」を散策、【御殿門】の前の石段を登ります。門前に大きく「三千院」の立て札が掲げてあり、記念撮影に、シャッターを切っておられます。 三千院の正面の門 2.受付を済ませて玄関に入りますと、先ず目に付くのが、【香時計】です、朝灯した香の軌跡で時を図る仕組みで、珍しいです。3.同じ場所に、「往生極楽院」の阿弥陀如来の脇侍の一体「勢至菩薩」の大和坐りの写真が大きく飾られています。4.【坪庭】京の都では、昔、面玄関の間口の幅の広さで課税したそうです。そのため奥行きを長くして建造しました。いわゆる「鰻の寝床」と称します。健康上中間に太陽をと言うことで、坪庭を設けました。その雛形が此処にも有りました。家の中に庭を設けたところから「家庭」の語源ともなるほど大切な要素でもありました。「三尊石」植木「千両」そして苔が飾られています。 坪庭5.おみくじの元祖「元三大師」が祀られた部屋が有ります。「角大師」(つのだいし)とも言われお札が置かれています。帰って玄関入り口に飾る事で、魔除けになるとの信仰です。6.【聚碧園】(しゅへきえん)「芝法師琳賢(りんけん)」の原作で、庭師金森宗和が自ら手を加えて今日の清楚にして優雅な庭園が生まれました。池の源は、「音無川」の滝よりで、杉木立の間から「往生極楽院」が望めます。小さい池の奥に「枯れ滝の石組み」は古いです。 聚碧園(しゅへきえん)7.【客殿】最近内部が改造されて、開放的に成りました。客殿から「聚碧園」を眺める事も出来る様になりました。以前は廊下伝いでした。 続く
2012.07.07
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比叡山の麓にも、寺院が取り巻いています。特に、京都観光でも、大原・三千院は、嵯峨野巡りに次いで人気が高いです。 本日は、その前にNHK大河ドラマ平清盛に関係する「寂光院」をご紹介してみます。 本堂 境内 参道の門 本堂参道の坂道【寂光院】(じゃくこういん)天台宗 開基 聖徳太子 山号 清香山 京都観光の嵯峨野巡りに次いで、人気のある大原三千院を訪れる前に、「寂光院」に参りましょう。平家物語に登場します「後白河法皇」の【大原御幸】の辿られた道は、「上賀茂神社」から鞍馬街道を経て、市原・静原街道に入り、【江文峠】(えぶみとうげ)経由大原の里に入ります。普通は「鯖街道」を路線バスも走る道ですが、古を偲びつつ利用するのもまた楽しいです。車も空いています。 594年と言いますから、平安京遷都794年の昔、聖徳太子か父君の31代用明天皇の菩提のため、創建されたと伝えられています。「六萬体の地蔵菩薩」が祀られていましたが、 近代放火で焼失、現在新しく再建されました、本尊地蔵菩薩立像の向かって左に「建礼門院像」右には侍女の「阿波の内侍像」が安置されています。阿波内侍の姿は、「大原女」(おはらめ)のモデルとなったそうです。 建礼門院は「徳子」と言い、平清盛の娘で、80代高倉天皇の中宮(皇后)で、81代安徳天皇の生母で、源平合戦「壇ノ浦」で平家滅亡の際、母子ともに入水されましたが、源義経に母だけが助けられ、一時京都東山の「長楽寺」で、出家され、一説に寄れば安住の地を求め山道を超え大原の里に辿り着かれ、「極楽往生院」の「阿弥陀如来像」の優しさに触れ、「平家一門」の菩提を弔うに相応しいと、余生を「寂光院」で静かに送られたということです。 村人達は、建礼門院を慰めようとして、畑で採れる野菜は勿論、「ちそ」栽培で「柴漬け」を発案、お食事の進むように、親しく付き合われたそうです。「京漬物・柴漬け」の発祥。 29歳の秋も深まるころ、「後白河法皇」が10人の侍女をお供に、お慰めに来られたと言う平家物語・謡曲で有名な「大原御幸」が当時を偲ばれます。 中宮・建礼門院の御陵 侍女・阿波内侍の眠る翠黛山ご主人を常に見守っている 御陵への坂道の参道 建礼門院は中宮のため、院の東隣に御陵として、石段をかなり登ると辿り着けます。 阿波内侍の墓 翠黛山・墓地への階段参道初めて訪問 阿波内侍の墓は谷を経て向かいに位置す「翠黛山」(すいたいさん)に階段を登った所で、ご主人を永久に見守りつつ眠って居られます。 千代の松枯れてしまいました雪見灯篭 庭園 境内には、「汀(みぎわ)の池」樹齢1000年の「姫小松」「雪見灯篭」そして滝の流れる小規模の庭園を鑑賞する事が出来ます。 湧き水庵室の跡の碑 奥に宝蔵庫積み上げられた石垣は当時の姿を語ってくれそうです。 更に心有る方は、境内の西側の外に、一応縄で仕切られていますが、断わって中に入らしてもらいますと、「建礼門院庵居跡地の碑」が有り、此処に入った途端、静寂と霊気が身に染みて、「寂光院」を訪れたな、と最高の雰囲気を味わう事が出来ます。 未だに「清水」が湧き出て、当時のお住まい方が偲ばれるようです。「穴場」と心得て下さい。 然し今年訪問しましたところ、「特別拝観」制としての扱いとされて常時は拝観できなくなったようです。極めて残念です。 建礼門院は此処で採れた生花を摘み取り、仏前に供えられたと聞きます。 この庵室で静かに息を引き取られる時に、西(極楽浄土)から紫雲がたなびき薫香が庵室に充ち、空から妙なる音楽が聞えたと「平家物語」に記されているそうです。幾多の悲しみと苦労を体験なさり、御歳59歳で御逝去なされました。
2012.07.06
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昨晩、科学の超先端を研究の結果「最後の素粒子」の存在が高確認率で得たトップニュースが入りました。日本を含む国際チームのご健闘を讃えたいです。 池泉回遊式庭園 詩仙堂の石川丈山作庭【蓮華寺】 天台宗山門派 開基 実俊 山号 帰命山 大原より「大原街道」又は「鯖街道」を南下します。何故「鯖」なのでしょう。昔、京の都には、食栄養を採るために、野菜類だけでは不十分の為、若狭日本海で、「夕べに水揚げした鯖に塩をまぶし飛脚によって、早朝都に着くころは、美味しい鯖味に成っていたということで、若狭から京都までの大原を通る街道を「鯖街道」と、何時しか云われる様になりました。 途中、「八瀬」では、比叡山に登れる「ケーブルカー」の駅があり、其の先に「ロープウエイ」に乗って、渓谷を見下ろし比叡山の頂上「四明岳」に至ります。八瀬の紅葉も素晴しいです。 更に南下して、街道筋に「蓮華寺」が有ります。しっかりと大原の観光をした後の、こじんまりとした憩いの場所として、お勧めしたいです。 受付では、「散華」(さんげ)の栞が、記念に成ります。「声明」(しょうみょう)による僧数人の大きい法要のお経を唱えられるときに、「散華」が撒かれます。出来れば受付で「お茶券」も頼まれると、後で別室で静かに憩う事が出来ます。 受付の側が既に本尊「阿弥陀三尊」が祀られて居ます。観光とは云え一礼敬意を表すると気持ちも落ち着きます。 大広間に座して、柱の間から「額縁」のように池を巡る庭園を鑑賞出来ます。「池泉回遊式庭園」は「詩仙堂の主人」「石川丈山」の作庭 と言われています。 高野川 ら採り入れた水による「滝の音」は絶えることなく聞かれます。雰囲気充分です。 蓬莱山 不老不死の棲むといわれる「蓬莱山」そして「鶴島」「亀島」があり、 仏の手 「蓬莱山」に通ずる「石橋」の真ん中の下部に、「仏の手」 と言われる石が間を空けて受け皿のように、立っています。 宝船 「宝船」は「出船形式」で船の後ろが満載で沈みがちの表現を苔で表わしています。庭内には「薬草」が満ち満ちています。 蓮華寺型灯楼 庭園の奥に「仏殿」があり、其の前には、珍しい「蓮華寺灯篭」が構えています。六角形の急勾配の笠をあしらっています。 魔除の蝉 入り口の施錠には、 「蝉」 の金具が装飾として付けられ、魔除けの意味だそうです。堂内正面には唐獅子と牡丹の白木造りの「須弥壇」があり、左奥に「阿弥陀如来像」が祀られて居ます。 「天井」には、「愛宕寺」(おたぎじ)住職であった「故西村公朝和尚」 の画かれた「龍」が輝いています。 一応鑑賞が終わりました後に、別室で抹茶とお菓子を茶券で頂戴します。 おうすをよばれる部屋の前の小川 前庭には、小川が流れ右手上流には、池と分かれた水が「水分石」(みくまりいし)の役目のように水を二手に分ける小さい島があしらってありました。人生の分かれ道とも申しましょうか。とてものどかな風情を味わうことが出来ました。 庭園全景
2012.07.05
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祇園祭の本番前の祭りの行事が始まりました。【山鉾巡行くじ取り式】で、長刀鉾は一番は、定着していますが、その次の順番が「くじ取らず」を除いて24基がくじを引き今年は【郭巨山】 (かっきょやま)が【山一番】をひきあてました。中国の二十四孝の【郭巨の得釜】(かっきょのとくふ)母と妻と三人貧しい暮らしの上に子供一人加わり、3歳に成長したとき、それまで、母は自分の食べ物を減らし孫にあたえていました。あまりの貧しい暮らしに、郭巨は母を大切にするため、妻に子供と、共に地中に埋まって欲しいと涙ながらに了承、穴を深く掘っていると「光るもの」金の釜が現れました。天の救いで親孝行のまごころが通じたという故事です。 【詩仙堂】(しせんどう) 曹洞宗大本山【永平寺】の末寺 開基 石川丈山 山号 六六山 宮本武蔵の一乗寺下がり松 松ヶ崎より白川通りを南下、東に坂を登りますと、「宮本武蔵」と「吉岡門下」との「一乗寺下がり松決闘地跡」を眺めつつ、更に登りますと、「詩仙堂」の小さい門に辿り着きます 。過っては、皇太子殿下浩宮様が推奨されて、英国の故・元英国皇太子妃ダイアナ妃が訪れられた写真が悲しくも飾られています。 古びた歴史を感じる「山荘」も落ち着きますが、自然で構成された庭も趣が深いです。四季折々に咲く花を愛でて心が和みます。 庭園 額縁に【酔花醒月】(すいかせいげつ)と丈山の隷書で書かれています。花の美しさに酔っている内に、何時しか月が出て目が醒めました。 獅子脅し 有名な 【僧都】(添水)(そうず)一般に「ししおどし」の元祖 が此処に有ります。水の流れに従って竹筒に水が溜まると重さで、傾き、水を吐き出します。反動で置かれた石を叩く音で、野性のししを脅して退散させたという事ですが、近代では、静寂を強調するように、テレビの対話するシーンで部屋の前の庭にセットされるように成りました。 「蓮華寺」の庭園も造園された【石川丈山】が寓居された山荘でもあり、仏間も有ります。 59歳の時造営、90歳で亡くなられました。三河の国の出身で、三河武士として25歳のとき駿府城火災の際に、徳川家康の第11子「頼房(のちの水戸藩主)」当時5歳と乳母を救出した功労も有りましたが、大阪夏の陣で家康より「一番乗り」を禁じられていたにも拘わらす、決行してしまい。33歳で蟄居(ちっきょ)を命じられてしまいました。そして髪を切って「妙心寺」に出家、禅僧の修行をしました。 幼い頃より、自然の美しさ特に「富士山」の霊姿が心に焼きつき漢詩を残しました。そして此処一乗寺村に小さな庵を建て、好きな詩と自然の風景、観月も含め一生を過ごしました。 「詩仙堂」の名の由来は、中国の三十六歌仙を一室に、肖像画は、「狩野探幽」が画き、「詩仙の間」を中心に呼ばれる事に成りました。 入り口の額には、 【蜂腰】(ほうよう) 蜂の腰は曲げて居ます。謙虚を表わすようです。 仏間は、比叡山根本中堂の様に、僧の礼拝される場所を低くして、仏と私たちは同じ高さから拝めるようになっています。 仏間の前に、台所で働く人への注意書,【六勿銘】(ろっこつめい)の掲示板が懸けられていました。その裏には、【既飽】(きほう) の字が書かれ、既に満腹、腹八分目の大切さを説いて居られる様です。【六勿銘】 【火の用心】【戸締り用心】【早起き】【粗食】【倹約・勤勉】【清潔・掃除】 一例を記しますと、 「勿妄丙王」(丙王を妄(みだ)りにする勿(なか)れ)「火を粗末に取り扱うな」の意です。 嘯月楼 【嘯月楼】(しょうげつろう) 庵の屋上に、丸と四角の窓が有り。一説には幕府に敵対する怪しい者の見張りが、何時しか観月詩歌を詠まれ自然を謳歌されるように成ったと言われています。
2012.07.04
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京都観光数多い中で、人生在り方を庭園の中で表しておられることを、踏まえて鑑賞しますと、【曼殊院】の素晴らしさが深く味わえると思います。何もご存じなくってつても、枯山水の調和の取れた庭園の景色は感動的でも有りますが。良尚法親王和尚さんの優しさが心を癒してくれそうです。 【曼殊院3】 小堀遠州好みの枯山水の庭園8.「大書院」の縁側に出るや否や、お客様が歓喜の声が思わず発せられるほどに、美しい「枯山水の日本庭園」が目の前に展開しました。 9.廊下の角を曲がりますと、【小書院】の屋根が、【雁行形】(雁が規則正しく飛ぶ群れの形)は「桂離宮」にも有ります。此処は是非写真を撮られることですね。 廊下と屋根が 屋形船に乗っている幹事で庭園を船から観る感じです。 10.「小書院」の廊下の屋根は又、【屋形船】の様に造られ、庭園を船に乗って観ることを意味して居るようです。 亀の手水鉢の周りに 梟が4羽あしらっています。夜、水面に月を写して鑑賞 11.その廊下の側に【梟の手水鉢】が有ります。手水鉢の周りに梟が彫られています。月をこの手水鉢の水面に写し、又反射して側の白壁に月の揺らぐ姿を鑑賞します。「間接的月の鑑賞」 最も貴重な場所見ごたえのあるとの作庭になっています。 12.「小書院」は、門跡が客を迎える為の最も貴重な場所で、一番奥に構えて居ます。二部屋あり、庭側に【富士の間】釘隠しが「富士形の七宝焼」で部屋の四方に飾られています、客人が座す部屋で、廊下の低い欄間越しに、立って見るのでなく、坐って鑑賞しますと更に美しく落ち着いて観られるように、作者は作庭しているようです。此処からの庭園の観方が最高と言うことです。廊下沿いの襖に殆どの人が、気付かない「中国の小船に乗った船頭」が狩野探幽によって小さく画かれて居ます。部屋の畳に坐って、庭園を観ますと、柱・襖等で額縁の様に鑑賞できます。正面にこの庭の中心的存在として、背の高い、 瀧の流れを象徴する【瀧石】です。【滝石】 が目立ちます。裏の【八窓の茶室】からも真正面に観られます。「茶室拝見」ご希望の方は、院内売り場で申し出になれば、説明付きで案内されます。隣には、別に【無窓茶室】も有り、お湯が涌く音は、正面の滝から滔々と流れる音にも聞え、静寂な雰囲気は、お客様の心を楽しみ印象付けることは間違い有りません。廊下の上に【閑静亭】の額が掛っています。松花昭乗(しょうしょうじょう)の筆によります。13.「小書院」【黄昏の間】(たそがれのま)玉座と床が有り。最高の間といえましょう。「富士の間」との欄間に表菊と裏菊が「市松模様」の透かし彫りで、玉座に灯された「灯」が菊花(皇族)を通して、客人に灯が共有する思考が伺えます。14.【枯山水の庭園】小堀遠州好みの庭園。庭園の要素が整い、眺めただけでも美しさが味わえます。此処【曼殊院の庭園】は他に類例を見ない、 【仏教思想】 を形で判り易く秘めている意義深い日本庭園と皆様に御紹介したいです。 先ず、薬師如来の世界【過去仏】庭園の中心的【滝石】は生命の発生とも取れます。次いで 亀島 釈迦如来の世界【現在仏】庭園の中心部分全体で表現。【亀島】【鶴島】【石橋】【水分石】【蓬莱島】そして【五基の燈籠】(灯窓3・2・1・1・1計八灯窓)はお釈迦さんの50年の説法を【五時八教】に分けて説かれたことで、燈籠で表現。 キリシタン灯篭【鶴島】は【宝船】にも見立てその松の下に【キリシタン灯篭】 が有り、燈籠の下部に「十字架」が刻まれています。「良尚法親王」の母上が若狭の京極家で、クリスチャンで有ったことから、偲びつつ置かれたようです。 桂離宮では、お兄様は、丹後の【天橋立】の風景を庭園に採り入れ京極家出身の母堂を偲ばれています。 、阿弥陀如来の世界【未来仏】「宝船」は西へと庭園の西一帯に赤い霧島ツツジが植えられ、正に夕陽に包まれ西国極楽浄土に迎えられる形式を取っています。15.【宿直の間】(とのいのま)から通路に「華道」の「立花図」「香道」の「書式」「親王「竹」「書道」「竹筆」で書かれた展示が見られます。16.最後に【三方正面の壷庭】の廊下に小さい釣鐘がぶら下がっています。近所の農家の民衆の方が、農作物を献上すべく訪れられたときに、合図の鐘といわれています 「おお、よしよしありがとう」と「良尚法親王」の声が聞えそう
2012.07.03
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本日梅雨の合間、朝から晴れています。【桂離宮】は、良尚法親王の親・兄で八条の宮家として建てられ天橋立が庭園に採り入れられているようでした。母さんが京極家で、丹後を偲ばれての心遣いでしょう。多くの方が【P70ちゃん】の桂離宮の写真観て頂いて嬉しいです。【曼殊院】では、寺院でありながら、庭園の中心に五葉の松を宝船としてその真中に、【キリシタン灯篭】が立っています。母さんがクリスチャンだったからとのことです。次回報告します。 【曼殊院2】 田舎風の小道を、登り詰めますと、「曼殊院」の勅使門に辿り着きます。門前は急な石段が構えられ、周囲は石垣の上に白壁で五本の筋が入った格式の高い寺院として圧倒されそうです。勅使門の前には、各皇族の方々のご訪問を記念された「植樹」が目立ちます。 順路として「北門」から拝観出来ます。媚竈(びそう)1.【庫裏】(くり)の玄関面に良尚法親王の直筆で【媚竃】(びそう)の額が掲げて有ります。 竹筆の隷書です。論語に「その奥(目上)に媚(こ)びるより、竃(かまど)で働く人に媚びよ」から掲げられたようです。現世でも中々実行しにくい事柄です。訪問して筆頭考えさせられる、民衆的優しい思い遣りが伺われます。2.台所から大玄関への廊下伝いに、「皇室」の来られた写真が、飾られています。3.表玄関の手前の部屋では、日本初の版画で 「竹」 模様の襖が見られます。 「竹の内御殿」 の趣からでしょう。4.【大玄関】(先入関)は高貴の方の入り口【勅使門】からの玄関です。来客に威厳と興味を、持たせる為に、「竹と虎」 の襖絵が構えています。「狩野永徳」の絵で、此処での見ごたえは、正面の虎が何故か、竹を噛み締めている異常な絵なのです。思考しますに弟ゆえに出家、と言う「竹」という権威・制度に噛み付く絵師の「良尚法親王」への心遣いとも採れます。5.【孔雀の間】此処でも親鳥と二羽の子鳥が仲良く餌をついばめているシーンから、一羽は母さんと飛び立ち、一羽は残され「しょぼん」としている、そして親鳥は天へと孔雀の一生を江戸後期の絵師「岸駒」(がんく) が画いています。「しょぼん」姿が「良尚法親王」か?岸駒は「清水寺でも虎の石碑」が有ります。又「長野の善光寺の出張先」として「仏間」が兼ねて有ります。一生に一度は「牛に引かれて善光寺詣うで」ここでも済ませます。6.廊下伝いに【大書院】へ「華の間」では、法親王の画かれたカラーの屏風が置かれています。其の隣の間は、天井の桟が、正面に対して突き刺さっている仕組みで、不吉な感じがしますが、後程の「宿直の間」(とのい)も正面床に突き刺さっています。法親王の寝所として何時命を奪われるか、覚悟を決めて居られました。武士の居間の床にも敢えてこの形式を採るそうです。7.【大書院】「滝の間」の襖絵に中国人が囲碁を楽しんでいます。襖に向かって碁盤を眺めながら、蟹歩きのように移動しますと、碁盤が小さく成ったりします。欄間に卍型が見られます。「十雪の間」は【仏間】でもあり本尊は「阿弥陀如来」で他に十一面観世音菩薩(北野神社にあったものを当院に移されました)【曼殊院棚】 は仏間の隣に有ります。 【桂棚】 に似せたもので、「違い棚」は段違いも有りますが、材質も細かく違っていて、芸術美を感じさせます。【大書院】の外側に【塵慮尽】(じんりょじん)の額が飾られています。「よこしまな心を払い取り除くの意が有ります。
2012.07.02
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7月に入りました。朝から梅雨らしく雨が降り続いています。本日からの3回分の【曼殊院】は、私の京都観光として、最高の奥深い意義の濃い内容の観光地と心得ます。写真撮影が、禁じられていますので、充分に理解を得られないことが残念です。 勅使門壁には最高位の寺格「5本線の筋塀」があしらつてあります。【曼殊院1】(まんしゅいん)天台宗の五門跡の一つ 開基 是算(ぜさん)(菅原一門の出身) 大原街道も街中に、「白川通り」から東山山麓に位置し、【修学院離宮】と広域の隣接地に【曼殊院】が静かに存在しています。素晴しい観光地でありながら、観光バスが入れ切れない状況で、コースから、外されています。従ってタクシー貸切を利用されます。 天台宗の格式高き門跡寺で、京都の寺社数ある中で、皇室のご訪問されたのは、少なく、此処では、皇太子殿下・秋篠宮殿下の学生頃に、そして「紀子妃殿下」もお一人で来られた写真が展示されています。 天台宗五門跡から天台座主に成られる傾向も可也有り、現代256世天台座主半田孝淳大僧正は、当所曼殊院に門跡から推挙された方でも有ります。 主人公は、【良尚法親王】(りようしょう)で、今から380年前、徳川三代家光の頃、「八条宮智仁(としひと)の次男坊に産まれたばかりに、寺を与えられ僧となられました。いわゆる出家されました。同じ母親から腹を痛め、長男「八条宮智忠(としただ)親王」は父君と【桂離宮】を造られました。【修学院離宮】を造られた「108代後水尾天皇」とは従姉妹同士の関係です。 「良尚親王」のお気持ちを推し計ってか、襖絵などに、それらしく画かれた部屋が有ります。 然し、ご本人は、度量の大きい方で、五道の達人の結果を遺して居られます。そして封建時代に有って、今で云う「民主主義」の優しい志を持たれたことも、遺産として随所に遺されています。書道(竹筆)・華道(立花図)・香道・茶道(八窓茶室)・画道(色彩採用)そして仏への道と。 その上「小堀遠州好み」の「枯山水の庭園」を眺めながら、一生を優雅に過ごされ72歳に遷化されました。一方宮家を継がれたお兄様は、宮家の護持に気を配られてか僅か35歳の若きご生涯を閉じられました。何れが幸せであったのでしょうか? 「良尚親王旗」にも【竹】を、図柄に採り入れられています。「竹の内御殿」とも言われます。随所に「竹」が現れます。何故なら、「開基是算」は「北野天満宮」にも関係しその「梅」そして天台宗の本山「比叡山延暦寺」の「松」合わせて「松竹梅」となり、修行の一つに経を唱えながら、わらじ姿で小走りに「阿闍梨」(あじゃり)さんはこのルートを通られます。 【桂離宮】は宮内庁事務所から許可証が必要ですが、此処【曼殊院】も父上と兄上の意に、適う為、「雁行型の屋根」等に離宮の類似点が観られます。「桂棚」に対しても「曼殊院棚」も其の一つで、「桂離宮」の面影が伺い知れます。桂離宮に関しましては、私のブログの訪問者が今回桂離宮を予約申し込まれ、素晴らしい得難い庭園茶室の写真を撮って居られますので、是非Googleで「P70ちゃん」と検索され「P70ちゃんプロフィールなおさん時々チャモのブログ」を開けてみてください。きっと感動されると思います。
2012.07.01
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