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大覚寺の境内に京都で一番広い大澤の池があり、更に東に廣澤の池があります。 そのはざまに広々とした 嵯峨野の田園風景が観られます。嵯峨野の田園風景
2012.04.30
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昨日で嵯峨野巡りを終えました。昨日のアクセス197は、私への新記録の数字でした。感謝いたします。本日は昨年の秋に訪問した、もみじと女性の駆け込み寺とも云われる。こころの癒しの名所とも云えます。 【嵯峨野の飛び地】 愛宕道とは外れますが、女性の哀話として、欠かせない閑居が有ります。NHK大河ドラマ【篤姫】が鹿児島から都の近衛家に養女となり、其のときの理解者が、【津崎村岡】でした。【直指庵】(じきしあん)浄土宗 開基 独照性円(どくしょうせいえん) 山号 祥凰山 入口【直指庵】石塔参道本堂の前庭本堂本堂奥庭への道 大覚寺の北方に位置します。やはり孟宗竹籔に包まれたひっそり佇む庵が建っています。 隠元禅師の高弟「開基独照性円」が草庵を結びました。 「直指人心見性成仏」(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)禅宗の悟りを示した言葉です。荒れ果てた「庵」を幕末の勤皇家、近衛家老女「津崎村岡」によって再興されました。「村岡局の胸像」は、亀山公園の敷地内にひっそり座しています。【村岡局】は「大覚寺」の寺侍(てらさむらい)津崎の娘でした、名を「矩子」(のりこ)といい、8歳で近衛家に仕えました。「勤皇」のこころざし厚く、女性でありながらも、国事に、奔走されました。「安政の大獄」の際、投獄されるはめにまでなりました。その後釈放後に、嵯峨野に帰り、「直指庵」にて、静かな余生を送り、88歳で亡くなりました。 津村 村岡の墓所嵯峨野の心を癒し鎮める適所なのでしょうか、「悩める女性」の「かけ込み寺」しても世に有名でして、その悩み事を記した【想い出草】として、大學ノートが侘びしく置かれて居ます。 【想い出草】のノートを記帳する部屋恋に破れた女の方が此処で心を鎮めるかなりのノートが置かれていました。 境内には、【想い出草観音像】が優しく見守って居られる様に思えます。 帰り道帰り道 次回は、【嵯峨釈迦堂】に参ります。
2012.04.30
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本日の日記で10回に亘って、話題を含めご紹介してきましたが本来は、こちら側からが、嵯峨野めぐりの始点のようです。逆まわりから記して行ったようです。【愛宕念仏寺】の読み方は【おたぎねんぶつじ】とされ、【千二百羅漢寺】とも称されています。数が多いと言う意味でしょう。西村 公朝(にしむら こうちょう)和尚さんの「仏像の見方」は本屋さんでみかけられましたら、とても奈良・京都の仏像の解かりやすい参考書となると思います。
2012.04.29
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昨日は30.5度京都は事故を初め何かと目立ちます。嵯峨野は祈りの道として、相応しく、天台宗の僧侶で仏師であった「西村公朝おしょうさん」が有志で羅漢さんを信徒の彫られた石像が奉納されています。【仏像】の知識はこの方のお話や本で解かり易く教えていただきました。一生感謝しています。 【嵯峨野巡り10】 嵯峨野巡りの道は、愛宕神社への愛宕街道とも言われています。その「一の鳥居」に至る、古い町並みを京都市で数少ない、【伝統的建造物群保存地区】として、指定されて居ます。鳥居を挟んで、手前に【蔦屋】(つたや)越して【平野屋】と言う萱葺きの茶屋がとても風情が有ります。鮎料理が主で、表に「赤い毛氈が腰掛に敷かれているのが印象的です。 愛宕山の愛宕神社の一の鳥居【蔦屋】平野屋 上から写す【平野屋】愛宕神社産気の古くからの茶店 更に道を進めてまいりますと、自動車道と交わる所に、「愛宕寺」が有ります。【愛宕念仏寺】【愛宕寺】(おたぎじ) 天台宗 開基 弘法大師 山号 等覚山「あたごじ」でなく「おたぎじ」とよばれています。京都市内で一番高い「愛宕山」頂上に「敵は本能寺にあり」とと号令した明智光秀か神託を受けたと言う「愛宕神社」の参道に有ります。 故西村公朝(にしむらこうちょう)和尚さんの寺です。ご生前中「祈りの造形」と題して、NHKの3ヶ月に亘る講義から、仏像の基本的な観方を興味深く教えて頂き、京都観光奈良も含めとても参考に成りました。「国宝の審査委員でもあり仏像修理」の担当出来る「仏師」でもありました。 現在も本屋で、仏像に就いての「公朝」さんの本が見つかれば、京都・奈良の仏像鑑賞にとても役立つと確信します。仁王門【仁王門】の側に「三宝の松」が一本有ります。「将軍塚」の「三鈷の松」(さんこのまつ)と同じく何か宝物が得られるのでしょうか? 有志の素人さん方々が彫られた羅漢さん 【羅漢石仏】(らかんせきぶつ)現代一般有志の方の志望で、一個の石が与えられ、各自の構想で、「羅漢像」を彫られたものが、数多く並んでいます。笑顔あり何とも云えない表情が夫々伺える様です。 本堂鐘楼境内本堂は坂の上に、そして境内を通して仁王門が見えます。境内に羅漢さんは数知れず多く奉納されています。 【本堂】空也上人の弟子の「千観内供像」が有ります。 現代の自動車道は、過去電車が通って居りました。「愛宕寺」の側から「トンネル」があり、越した所まで、通じていました。何故なら、「愛宕山」山上の「愛宕神社参詣」の登り口に至る為でした今は廃線となり、自動車で、【清滝橋】即ち登山登り口まで行けます。先に述べましたとおり「明智光秀」も愛宕詣でで,神託を得たとして、「敵は本能寺にあり」と丹波行きを返して都に攻め入ったとも言われています。火の神様です。 「清滝」の渓谷の清流は、とても景観で静けさを感じさせます。紅葉の景勝地でも有ります。 嵯峨野巡りは、如何でしたか?皆様のご来訪数が伸びて、やはり関心の深さに感謝しています。一度は日本にこんな素晴しい心琴をもたらす、文化の象徴とも言える場所へのご来訪をお待ちしています。。 次回は、「嵯峨釈迦堂」そしてその後「大覚寺」へと参りたいと思います。
2012.04.29
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本日の京都は、4月でありながら、30.5度と真夏日になりました。全国で岐阜に次いで2番目暑さを記録しました。ゴールデンウイークの始まりとして、道歩く人たちの溜め息が聞こえそうです。 一方、京都市では、この期間中に観光客誘致のため、日頃非公開寺院の特別公開が14箇所公開されます。中でも寂光院では、過日ご紹介しました、「建礼門院御庵室跡」を初めて公開されることになりました。殆どが室内写真撮影禁止で、皆様方に写真としてはご紹介出来ないのが、とても残念です。今回は、大河ドラマ「平清盛」に関係する社寺の公開が目立ちます。期間 4月27日から5月6日まで、例外もあります。問い合わせは、京都古文化保存協会 電話 075-561-1795です。
2012.04.28
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昨日は、寂聴さんのエピソードに共感して下さるコメントを多く戴きました。人はふれあいによって嫌いであった人とも180度転じて、お人柄の誤戒がとけることと、子供の痛みに母さんの暖かい「手をあてがう」手当てで痛みが癒されることよくききます。まして仏に仕える身の手当ては、徳効があり、感謝のきもちで共に、「般若心経」を唱えることが大切なことと感じました。 本日は弘法大師さんが清滝川上流で、神護寺を創建され、嵯峨天皇(桓武天皇の皇子)と深い都造りの相談者でもあり、此処嵯峨野を歩かれ、風葬の亡骸を鄭重に埋葬に心されたと思います。 【嵯峨野巡り9】 嵯峨野を【寂】と選ばれた作家としての「寂聴」さん。正にその一言に尽きると思います。法名の名付け親は、同じく作家で天台宗の僧で【今 東光師匠】でした。 【寂庵】を後にして、先ほどの「石仏の三叉路に戻り、散策道を北へ、其処には「化野念仏寺」が有りました。【化野念仏寺】(あだしののねんぶつじ) 浄土宗 開基 弘法大師 山号 華西山(かさいざん) 参道 受付を入りますと、石仏の群れが一杯に拡がる光景に、驚きを隠せません。 十三塔の前のお釈迦さん「十三搭の前に、「お釈迦さん」が坐り、周りを群れとして石仏が中央に向けて配置されていました。「寂聴」さんの「嵯峨野散策」の本に、お釈迦様が皆様に、お説教されている姿の様に見られます。と記されていました。今は亡き霊が、仏の慈悲で守護され憩うて居られる様にも感じられました。 西院の河原お客様からよく質問を受けます。「石仏は幾つ位ありますか?」毎年お盆の終わり頃の、8月23・24日には、【千灯供養】としてローソクをお供えする行事が有ります。千は数の多いことを意味し、毎年増えつつあるようです。 寺伝によりますと、「二尊院」から「念仏寺」に掛けてこの当たりを「化野」(あだしの)と呼ばれていました。約1,100年前「弘法大師」が「五智山如来寺」を開創され、野晒しと成っていました遺骸を鄭重に弔い埋葬されたと伝えられ、その後「法然上人」の常念仏道場として、「華西山 東漸院念仏寺」(かさいざん・とうぜんいんねんぶつじ)を建てられて、浄土宗とされたそうです。本尊・阿弥陀如来 浄土宗として、本尊は、西方浄土から東向きで【阿弥陀如来坐像】(湛慶作)が祀られて居ます。受付に至る石段参道の側に、かなり彫が見にくくなった「釈迦如来・阿弥陀如来の石仏も鎌倉時代の作とされています。 本堂前の地蔵菩薩堂の中を覗きますと、正面の両側に、極楽図と地獄図が画かれていました。【西院の河原】(さいのかわら) 「空也上人」御作【地蔵和賛】にあの世で嬰児(みどりご)が河原の石をとり回向(えこう)の塔を積み重ねます。「一重積んでは父のため、二重積んでは母のためと・・・」やっと少し積み上げると、鬼が来て潰す姿が思い遣られます、罪も功も無き幼子の死界を、この世で回向の大切さを説かれているやに思われました。石仏群の囲いには、多くの「石積み」の形が訪れる人の真心が微笑ましい形で一杯見渡せます。 京の都には、東山清水寺の附近に【鳥辺野】そして船岡山の麓北区千本十二坊に「上品蓮台寺」がありますが其のあたりを【蓮台野】と言います。【化野】と三箇所の亡骸の風葬の場所でした。 本堂より、少し奥に行ったところに、【水子地蔵尊】が祀られていました。多くのお参りの「千羽鶴」や「お人形」等が飾られていました。親の姿もこの世で見ずして、あの世に悲しい現実です。 孟宗竹 更に「孟宗竹籔」を越えますと、墓地がありその入り口には、六体のお地蔵さんが立ち、夫々「六道」の担当で持ち物が変わっていました。常にお地蔵さんが側に付いていて下さっている様です。 古語「あだし」は「悲しい」・「悲しみ」と言う意味から「あだしなる野辺」が「化野」と言われる様になりました。「無情」を端的に表現、「嵯峨野」の風情の一部とも考えられます。 紅葉時の境内 次回はいよいよ嵯峨野巡りの終着点、【愛宕寺念仏寺】(おたぎじねんぶつじ)へと進みます。
2012.04.28
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夏日かと思えば、10度も下って薄ら寒い日となりました。皆様のブログには、色彩とりどりの美しい春の花を見せていただいて居ます。家に居ながらにして楽しませてもらっています。感謝。 嵯峨野巡りも大詰めとなってきました。昨年の秋に訪問した写真です。もみじの頃となります。【嵯峨野巡り8】 【平家物語】に登場する、【祇王】【横笛】そして「渡月橋」の【小督】の哀話が此処「嵯峨野」に潜んでいるところに、女性の方に人気が有るのでしょう。 「祇王寺」「滝口寺」を後にして、暫し又歩を運びますと、三叉路に、可愛い野仏が数個道端に佇んでいました。その三叉路を右に少し行きますと右手に【瀬戸内晴美】即ち【寂聴】さんの「嵯峨野」での私邸があり、其の敷地内に庵を築かれました。 曼荼羅山 寂庵表入口 現在は一般には開放されていません。私邸前の表札は「瀬戸内」となっています。 【寂庵】天台宗 山号曼荼羅山(まんだらやま) 曼荼羅山は、「寂庵」からよく見渡せます山で、京都五山の送り火中の最後に灯される「鳥居型」が有名です。 大文字五山の送り火の「鳥居」が曼荼羅山 「寂聴」さんは、此処でも「源氏物語」を執筆されていました。 今は、締め切って、本堂内に入れなくって残念ですが、以前は開放され、時々「寂聴」さんとお客様が会われる機会が有りました。 中でも娘さんとの親子連れのお客様に、訪問をお勧めしましたが、老婆のお母さんは「瀬戸内晴美は大嫌いじゃ」と中年の娘さんの説得で、しぶしぶ「寂庵」を訪問しましたら、本当に仏の導きか、「寂聴」さんが本堂に居られました。 お母さんは、脚を痛めておられ、その旨寂聴さんにしぶしぶ訴えられたとき、「どれどれ足を出し成され、「手当てと言うでしょう、温かいおなごの手は、子供の痛みを和らげますね、私の手には、仏さまが加護されていますので、良く効きますよ」といって足を暫し摩られました、不思議と痛みは和らぎ、畳の上で坐る事が出来ました。あれほど嫌っておられたお母さんは、「勿体無い」といって涙を流して、まさかあの有名な方に、温かく気軽に接して下さった事に、「本当に来てよかつた一生の良き思い出になる」と歓ばれました。 そして、「一緒に私と般若心経を唱えましょう」と先導され、貴重な体験をされました。嫌いと言う前に、会って話される事で、誤解は消滅しました。 現代は、大変お忙しい身、高嶺の雲の上の方と成られ、庶民的に会う機会が「嵯峨野」で会えなくなって、とても惜しい事でと思います。
2012.04.27
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昨日は、27.3度の夏日となりました。ゲートボールしていて、疲れて帰宅、コメントも出来ずごめんなさい。 平家物語と嵯峨野は深い関係の、遺跡でもあります。人間関係がままならなかつたのですね。大河ドラマ「平清盛」像をどのように、表現していくのか、微妙です。 【嵯峨野巡り7】 「祇王寺」のご感想は如何でしたでしょうか?苔の庭を一周するだけでも、大自然の美しさと侘びしさを感じとる事が出来ます。白拍子の「祇王さん」の華やかさの影に世の無情を身を以って体験され、心の癒しに、仏道に出家され、此処「嵯峨野」の静かな地で、漸く人間の尊厳を会得されたのではないでしょうか。【平家物語】「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無情の響きあり、沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者(じょうしゃ)必衰の理(ひつすいのり)を顕わす(あらわす)。奢(おご)れる者久しからず。ただ春の夜の夢の如し、猛(たけ)き人も遂に滅びぬ。偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ琵琶法師の語りが深々と聞えそうです。 祇王寺に隣接した滝口寺の門【滝口寺】(たきぐちてら)浄土宗 開基 良鎮 山号 小倉山 「祇王寺」の出入り口から、少し山手に隣接して、「滝口寺」が有ります。ここもお寺とは言え、庭先のこじんまりした部屋に訪れるだけですが、「平家物語」「重盛高野の巻」に登場する、平重盛の家臣【滝口入道時頼】と「建礼門院」に仕えた侍女【横笛】の悲恋の舞台となった場所でも有ります語り部とし、縁先で訪れる人ごとに、無表情で滔々と語られたお婆さんも、この世から、浄土に召されました。同じ事柄を終日多くの人々に述べられたご労苦は察するに余りありました。【物語】 清盛の西八条殿での「花見の宴」に於いて、「建礼門院」侍女「横笛」の「舞い姿」を、重盛の侍「斎藤滝口時頼」が繁々と見て、ひと目惚れして恋しく想う様になり、恋文を送る様になりました。ところが時頼の父がこのことを知るや「お前は名門の身にして、将来平家一門に入る身上でありながら、横笛ごときを想い染めるとは」と激しく叱られました。 時頼は、主君の信頼に背いて恋に迷う自責から「これこそ仏道に入る為の仏の尊い導き」と決心して、此処嵯峨野の【往生院】で出家し、名を【滝口入道】と改めました。 【横笛】は、都で「滝口入道」が出家したということを伝え聞いて恨めしく思い、自分の恋心を持って居ることを打ち明けたいと、都から嵯峨野の往生院を探し求めて辿り着いた時はもう日も暮れて、夕闇の迫るころでした。荒んだ僧坊から念仏の唱える声が聞えました。心をときめかして、滝口入道の声と聞き澄まして、真の恋心を打ち明けたく女の身で訪れたことを告げてみると、裾は露で濡れ、袖は涙でぬれ、痩せこけた顔付きは、本心で求め尋ねてきた様子は、誰しも抱き閉めてやりたい気になるも、仏道に仕える者として心を鬼にして、同宿の僧を遣わし「全く此処にはそのような人は居りません、何かの間違いではないでしょうか」と言わせました。 「横笛」は、悲壮な悲しみで帰る時「眞の心を伝えたく」庭の近くに有った石に歌を「血染め」で書いて帰りました。 「山深み 思い入りぬる 柴の戸の まことの道に 我れを導け」 そして保津川に身を投じたという説もあります。 「滝口入道」は、未練が残ったまま別れた「横笛」に住まいを見つけられたからには、修行の妨げと思い【高野山】に移りました。これを知った「横笛」もその後直ちに、奈良の【法華痔】で尼に出家しました。現在本堂に紙製の小さな「横笛像」並びに「横笛堂」があるとのことです。 「法華寺」で尼に成ったと聞いた「滝口入道」は、一首の歌を「横笛」に送りました。 「そるまでは 恨みしかも 梓弓(あずさゆみ) まことの道に 入るぞ嬉しき」 「横笛」やっと心の通じた「歓喜」と「幸せ」をかみ締めて、返しの歌 「そるとても 何か恨みむ 梓弓 引きとどむべき 心ならねば」* 【あずさゆみ】神事に使う弓ですが、詩の「枕詞」として「春」(張る)に掛け、心の春をイメージしているようです。 「横笛」は、仏道を全う出来た心の安らぎのまま、間もなく法華寺で亡くなりました。これを聞いた「滝口入道」も仏道修行を積み【高野の聖(ひじり)】といわれる高僧に成られたと言う事す。【本堂】滝口入道・横笛の木像鎌倉後期の作で眼が水晶(玉眼)竹薮に平家の供養等が建っていす。【小松堂】平重盛を祀る【横笛歌碑】参道の庭にあり、横笛が指を切って「血染め」で、歌を書いて帰ったと言う石碑嵯峨野の雰囲気は、文学で女性の悲話を以って語られています。現代人としてその昔を偲びつつ訪れるのも自然にも触れ、祈りの気持ちにもさせてくれるようです。 次回は化野の念仏寺を訪れたいです。
2012.04.26
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夏日にいきなりなってしまいました。小学校新3年生に学校の部活として、ゲートボールを一から教え共にあそびました。担任の先生も参加でした。1時間半、すでに8名全員、難関の第一ゲート通過するほど興味を持つと覚えもはやさに驚き嬉しかったです。月に2回5名で指導を学校側から頼まれています。遣り甲斐を感じます。 【嵯峨野巡り6】【祇王寺】(ぎおうじ)真言宗大覚寺派 開基 祇王尊尼 山号 高松山祇王寺 本堂入口萱葺の門孟宗竹苔庭手水鉢 「嵯峨野巡り」の中心的叙情に溢れた観光が味わえると存じます。「平清盛」の寵愛を失い、余生を尼になって過ごしたと伝えられる「平家物語」に名高い白拍子(しらびょうし)「祇王」にゆかりの寺です。此処にも女性の哀話が話題と成ります。 平家全盛の頃。都に「平清盛」の寵愛を受けた白拍子「祇王」と妹「祇女」が仕えていました。後日加賀の国の「仏御前」が清盛の屋敷に、白拍子として出仕方申し出ましたが、清盛は「祇王には適うまい」と門前払いを受けました。心の優しい祇王は清盛に取り成して。「一度舞いを観られては」と取り成し受け入れられました。 「今様の歌」七・五調の宮廷の舞の歌で 「君を始めて 見る折は 千代も暦(へ)ぬべし 姫小松 御前の池なる 亀岡に 鶴こそ群(むれ)いて 遊ぶめれ」 (大原寂光院の池) 繰り返し三度歌ったが声も筋もすこぶる上手で、清盛の幼児の頃母御から聞いた懐かしい歌に清盛は、涙してたちまち心を「仏御前」に移したと言います。 清盛の館から追い出される「祇王」は、せめての忘れ片身にと、障子に書き残されました。 庭園の片隅に石碑として建っています。萌えいずるもの歌碑 「萌えいずるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あわではつべき」 草木が芽を出し初々しく萌え出るのも、枯れてしまうのも、同じ野辺の草(自分たちのこと)の宿命。そして秋が来ると、哀れにも姿を消していく、そうした同じ道を辿るものです。 あくる春清盛より祇王に、「仏御前が退屈しているから、舞を舞うて慰めてくれぬか」と使者をよこすも、あまりの屈辱に祇王は行く気は無かったのですが、清盛の権勢と母「刀自」(とじ)の哀願に抗し切れず,館に赴き歌いました。 「仏もむかしは 凡夫(ぼんぷ)なり われらも遂には 仏なり いずれも仏性 具せる身を 隔(へ)つるのみこそ 悲しけれ」 並み居る諸臣も、祇王の心を察して、涙を絞ったと言う事です。「祇王」は母と妹を伴って、此処嵯峨野に身を寄せ、「仏門」に入られました。暫し年を経て、母子三人が念仏している所へ、竹で編んだ網戸を静かに叩く音がしました。以外や「仏御前」でした。 あれほどの仕打ちを受けたにも拘わらず、祇王も今は仏に仕える身と、心を赦して優しく迎え容れられました。 寺とは名ばかり、こじんまりした苔の庭園の側に二部屋の本堂があるだけです。昔は祇王桜が有りましたが、枯れて今は見られません、秋には、紅葉の葉っぱが苔に散らばり、彩なす光景は心癒されます。訪れられれば、必ず、履物を脱いで、「本堂」に上がって下さい。ボタンを押すと、上記のお話しが、流れます。そしてもう一つ、別室から観られる「虹の窓」を鑑賞してみて下さい。篠竹を斜めに交差した外側に「孟宗竹」が縦に構え、障子を閉めると篠竹から「虹」が写る趣向になっています。 虹の窓本堂の側に親子三人の墓があり、嵯峨野で静かに揃って憩うて居るようです。世の無情から解き話された様に 祇王・祇女そして母刀自の墓 次回は、【滝口寺】が隣接して居ます。同じく女性の哀話が潜んでいます。
2012.04.25
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再び京都で、無免許未成年18歳の少年による「居眠り運転」による、通学童の列に、ノーブレイキで突っ込む大惨事が起きました。とてもいたまれない何の関係もない尊い命が奪われそして怪我を受け、精神的恐怖は収まらないことでしょう。 本日は、日頃「非公開寺院」てとても落ち着いた「庵」の写真をアッブしました。秋には是非訪問してみてください。 【嵯峨野巡り5】 【二尊院】天台宗山門派 開基 円仁(慈覚大師) 山号 小倉山 嵯峨野は、文学にも各所に足跡が有ります。短歌・俳句・古書等に耽るのに最も良き環境でも有るようです。「去来の小さき墓」に一礼して、更に歩を進めますと、伏見城から移したと言う、総門に辿り着きます。瓦の端には、豊臣秀吉の「五七の桐の紋」が見られます。此処が、「二尊院」の入り口となっています。 伏見城から移築された総門 何故、「二尊」と言いますと、本尊が「釈迦如来」「阿弥陀如来」と如来が二体揃うのは、大変珍しい事で、実際本堂で、仏像を拝しますと、立ち姿で全く同形に見えます。よくクイズで違いを探すような感じです。ならば何処が違うのでしょうか?以前仏像の見方で説明させていただきました様に「手先の指」がお釈迦さんは、手の平を広げ指も揃えて全て伸ばしておられます。一方阿弥陀さんは、此処では、親指と人差し指を丸く結んで居られます。 以前は、仏像の前まで入れましたが、今は観られなくなっていました。でも確かめたいですね。 発遣(はっけん)の釈迦如来はこの世で一切の衆生の往生を勧め、来迎の阿弥陀如来は、彼の浄土に迎えられる。即ち「勧める仏」と「招く仏」とで漏れなく衆生を救済しょうとする仏の悲願から、此処に二体祀られて居ます。【小倉百人一首】の発祥の地とも言われ、本堂の横には、古式のカルタが販売されています。【時雨亭跡】「常寂光寺」と同様に、小山に登り詰めた処に「藤原定家」の「山荘」である「時雨亭跡」の石碑が建てられて居ました。 参道 参道も「紅葉の名所」で、百人一首では、その美しさを表現する歌が読まれています。 「小倉山 峰のもみじ葉 心あらば いまひとたびの みゆき 待たなん」貞信公 藤原忠平 小倉山の峰に彩なすもみじ葉よ、もしそなたに心があるならば、このまま、そっと散らないで、もう一度の天皇の行幸を待つておくれ。(紅葉のあまりの美しさを強調された歌) 「宇多法皇」が始め大井川行幸として、訪れておられました。 わが子「醍醐天皇」に見てもらいたい意と考えられます。【厭離庵】(えんりあん) 「二尊院」から本通りに出て右手少し行きますと、北側に有ります。日頃、非公開ですが、紅葉のシーズンには、特別拝観出来るようです。外の喧騒から、別天地の様に静かな雰囲気を味わう事が出来ます。 入口玄関庭園への門居間中心山荘の跡地本堂 苔生す庭園愛宕水の湧く泉懸崖上の茶室茶室への路地 懸崖の上に「茶室」を構え、愛宕水の名水で、一幅のお茶は、何とも言えない美味です。「中心山荘の跡地」も有りました。 嵯峨野は、時雨時が多く、こうした文化も発祥したのでしょうね。 作家も良く来られて、文章を綴られるそうです。昔、静かにお話を伺い、お逢いした年取られた「庵住さん」も今は、この世から浄土へ召されました。時の流れを切なく感じました。次回は、いよいよ本番【祇王寺】です。【嵯峨野の中心的訪問地】と心得ます。誰しも心の打たれるところ存じます。
2012.04.24
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朝から小雨が降っています。温かくなるはずが、薄ら寒い日が続きます。今朝のテレビで300年毎に太陽の磁気の関係で小氷河期が訪れるそうで、来年の夏は冷夏とも成る可能性を示唆していました。「地球温暖化」も小休止とか。農家がたまりません。 落柿舎【嵯峨野巡り4】 「常寂光寺」の門を後にして、直ぐの所に、のどかな嵯峨野を連想する広い畑に至ります。写真に撮られるには、畑の手前から、彼方にひそかに佇む、【落柿舎】(らくししゃ)は、一幅の絵に成ります。 【落柿舎】は、松尾芭蕉門下十哲の一人【向井去来】(むかいきょらい)が閑居した、極めて貧しそうな藁葺きの田舎風の一軒屋で、蓑笠が掛っているのが、印象的です。庭の片隅には 「柿ぬしや 木ずえは近き あらしやま」と記された「句碑」が立っています。 そもそも「落柿舎」の名の由来は、 去来が貧しい生活で稗飯(ひえめし)を食していました。ある年の秋に、庭の柿が豊かに実ったので、売買が商人との間で纏りました。「よし久方振りに、白い飯が食べられるぞ」と夢を膨らませて一夜を過ごしました。ところが夜半から嵐が吹きまくり、柿の実が全て落下していて商談は、不成立と成ってしまいました。「1升升は1升升だな」と観念して「落柿舎」と名付けたそうです。無念の句碑が、嵐と嵐山に懸けている気持ちがよく理解できます。 更に歩を進めますと、右手の墓地と句碑に立ち寄りますと、【去来の墓】がありました。 去来の墓 犬・猫の墓の様な、三角形の小さな自然石が置かれていました。石には「去来の墓」と書かれていました。その直ぐ横に、句碑が並んでいますその中に【虚子】の句碑を見付けました。 「おおよそ天下に 去来ほどの 小さき墓に 詣でけり」 去来の歌碑 実は、左京区【真如堂】内の塔頭に、「向井去来」の菩提寺が 実は、左京区【真如堂】内の塔頭に、「向井去来」の菩提寺が有り、そこには立派な墓があるそうですが、嵯峨野の居心地も、まんざらと未だにひそかに眠っているようです。次回は、小倉山百人一首の基地であるとされる【二尊院】を尋ねたいです。
2012.04.23
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気温がいささか、低くなってきました。皆様ご用心ください。常寂光寺は紅葉の名所昨年秋の写真です。。 多宝塔 【嵯峨野巡り3】 大河内山荘を後にして、暫く歩くと、「トロッコ鉄道」「嵐山駅」が有ります。春秋には、桜・紅葉の鑑賞で「保津川」の景勝地を満喫出来る事で、利用する方が多いです。【常寂光寺】(じょうじゃくこうじ)日蓮宗 開基 究竟院日愼上人 山号 小倉山 日蓮宗としての観光寺院は、極めて珍しいです。「紅葉」と「歌碑」で訪れる方が多いです。小倉山の山腹にあって静寂で清らかな「常寂光土」に遊ぶような趣が有ると言うので「寺名」が付けられたそうです。 日愼上人は、日蓮宗大本山本圀寺(ほんこくじ)「山科区御陵大岩町」にて僅か18歳で法灯を継がれ「修学」「歌道」への学問及び文化に深く達して居られました。 入口の門 拝観受付 仁王門 【仁王門】仁王さんは「運慶」の作と言われています。 本堂への参道 本堂前【本堂】一般に外からしか拝する事が出来ません。 多宝塔 【多宝塔】紅葉をバックに、よく写真を撮られます。 紅葉の境内京都市街の展望 【歌仙祠】(かせんし)歌人藤原定家の祠(ほこら)定家像が安置されています。【時雨亭跡】嵯峨には「時雨亭」は三箇所有ります。「常寂光寺」「二尊院」「厭離庵」(えんりあん)何れも、定家山荘の跡と称して居られますが、昭和10年国文学者の考証では、定家の「小倉山山莊跡」は、常寂光寺仁王門の北即ち「二尊院」南に位置し、「厭離庵」近辺は、定家の子「為家」の住まい、「中院山荘跡」の定説と言われています。寧々さんの寺【高台痔】の山上に「時雨亭茶室」があります。 定家は、このあたり山荘「時雨亭」を構えて【小倉山百人一首】を編纂したとも言われています。【二尊院】と共に往時を偲んで訪れる人も多いのでしょう。 時雨亭は、小高き山に登った所に有り、この辺りからも京都市街が見渡されます。「紅葉」はとても美しいです。【角倉資料館】「角倉了以」は保津峡等を開発した立役者で有り、「藤原定家」の落ち着いた小倉山麓に隠棲所を提供したのが「角倉了以」と言うことで、展示されています。 次回は【落柿舎】(らくししゃ)を経て【二尊院】を訪れたいです。
2012.04.22
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雨も上がり、曇りがちの天気で、何故か薄ら寒いです。昨日は、【知恩寺】(ちおんじ)左京区百万遍で宗祖「法然上人800年大遠忌法要が始まりました。25日まで続くそうです。地名になったように、大念珠1080個を御影堂(みえいどう)内に信徒600人が輪になって座り「南無阿弥陀仏」と唱えて、次々に繰って行く行事です。親玉4個が廻ってくると、頭を下げてみんなで、百万遍お祈りしたことになるそうです。祈りは大切にしたいものです。大河内伝次郎も日常から大切にしたようです。名演技の陰の努力でしょう。 【嵯峨野巡り2】 山荘内の持仏堂毎日参詣してお散歩山荘の入口 野々宮神社から「小柴垣」の散策路を選ばれるも良し、急がれる方は、【天龍寺裏出入り口】から外に出た所から、豪壮な竹薮の路と成ります。嵯峨野の風情たっぷりの雰囲気です。突き当たった所を左に行きますと、「亀山公園」経由嵐山に辿り着きます。本日はその突き当たった所にある「大河内山荘」に入山してみましょう。 お茶券で和菓子とおうすをよばれる。 【大河内山荘】映画俳優・大河内伝次郎の別荘 2万平方メートル(6,000坪)故大河内伝次郎は、常に「二枚目」を維持する事によって、この景勝地を確保すべく、精神的には、山荘内に「持仏堂」を祀り信仰も厚く、体力維持には、広々とした我が所有地内を「ジョギング」して努力されたとのことです。獲得に30年要されたそうです。 別荘の邸宅 嵐山を借景 散歩道と茶室 茶室亀山に隣接し、小倉山にも望める別荘で、坂道も含む、自然の亀山に隣接し、小倉山にも望める別荘で、坂道も含む、自然の起伏のある庭園です。小高き丘から、京都市街の眺望も素晴しく、比叡山も良く見えます。向きを変えると、嵐山の桜の遠景も目を見張る景勝に歓喜を覚えます。場所を変えると、保津峡の直ぐ側に面し、「山紫水明」の絶景も観られます。 保津峡の景色京都市街地の眺望バックは東山三十六峰 暫し、故大河内伝次郎を偲びつつ山道を巡られるのも、良い想い出に成ると思います。 故大河内伝次郎の「執念」でしょうか?茶室の一つの「壁」に染みが自然に浮き出て、主役「丹下左膳」の「顔」が浮かび挙がっているように見えます。片目が刀傷で失明している姿も、敢えて、指摘しないと、判らずに通り過ぎられるようです。みなさんで探してみて下さい。 記念館大河内伝次郎の写真展示 「記念館」もあり、「お食事処」も有ります。受付で貰った「お茶券」で、ゆっくりお菓子と「薄茶」で一服されるのも、心落ち着いて暫しの憩いとなりましょう。 次回は、トロッコ列車「嵐山駅」を経て、【常寂光寺】【落柿舎】へと参ります。
2012.04.21
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昨日は、京都の最も代表的な「嵐山の景勝と隠れた名所」をご紹介し、多数のご感想を得て嬉しかったです。秋に訪問した写真ですが、嵯峨野の内容の話題を暫く続けて行きたいと思っています。 【嵯峨野巡り1】 歴史の真相は定かでは有りませんが、伝説では、いにしえにも女性の「哀話」が隠れています。そして【嵯峨野巡り】にも、静かに潜んでいます。従って女性には京都の観光で、一番人気があります。勿論春は桜、秋には紅葉の景勝地でも有ります。文化・詩歌にも史跡を見出し、世相の喧騒から人間らしさの原点に戻れそうでも有ります。 既に【嵐山】【渡月橋】そして【天龍寺】世界文化遺産はお話しました。特に【琴聞き橋】と【小督局】は、筆頭に御紹介しました。 天龍寺を後にして、「小柴垣」の道を歩み最初に辿り着いた社が嵯峨野巡りの入り口 野々宮神社本殿【野々宮神社】です。祭神は「野宮大神」(天照皇大神)が祀られて居ます。「黒木の鳥居」をくぐるも、こじんまりした小柴垣に囲まれた神域で、小さい苔と池のある庭園も見られます。 苔の庭園 「伊勢神宮に仕える前に「斎宮」(さいぐう・いつきのみや)に選ばれた未婚の皇女が「潔斎」(けつさい)のため1年間篭られるそうです。【源氏物語】第十帖【賢木の巻】(さかきのまき)に登場します。【光源氏】(ひかるげんじ)と【六条御息所】(ろくじょうみやすどころ)の別れの場面です。 光源氏(23歳)は、少女のような「紫の上」と結婚したものの、気持ちが充たされなかった。それにつけても、青春時代を埋めてくれた「六条御息所」(30歳)が、愛おしかった。その御息所が源氏を待ち切れず、「斎宮」とともに伊勢神宮に下向するという。源氏は嵯峨野を尋ねて会おうとするも、会ってくれない。源氏は「榊」(さかき)を持って来て、強引に会うことが出来たが「神聖な榊を折って来られたの」と責めて伊勢神宮の下向を思い止らなかった。源氏は、この年上の恋人の深い愛情を無視して心奢って、ないがしろしたことを悔いた。【嵯峨野の竹薮の道】野々宮神社を後にして、小柴垣から。大らかな嵯峨野の竹薮の道を歩みます。とても豪壮な「孟宗竹」でコマーシャルの背景によく出てきます。 孟宗竹林と小柴垣 「孟宗」とは、中国の古事にでてきます。孝行息子のお話です。「冬の雪の積もる季節に、母上が、筍を所望されました。孝行息子の誠意の念力と願いが適い、竹薮から「筍」を掘り出す事が出来ました。それを聞いた村人は、感動して「孟宗竹」と名付けたそうです。 次回は「大河内山荘」へご一緒しましょう。
2012.04.20
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本日の日記で、亀山公園に建てられた、周恩来さんの碑の詩の内容です。周恩来さんは、3年ほど、東京にある大学校に留学され、その折にたまたま京都嵐山を訪問され、悩みに応えて呉れるような、嵐山の雨の中での、景観に詩を残されました。周恩来さんは、又、中国に帰られ、首相として、田中角栄総理と日中正常化に調印され、国交が快復された方でもあります。一国の党首ともなる方が、嵐山の景色で元気を取り戻されたとも思えます。最近でも、中国の要人の方が来日のときに、わざわざ表敬訪問されるほどの人柄だったのでしょうね。 【碑文】雨中嵐山-日本京都 一九一九年四月五日雨中二次遊嵐山、両岸蒼松,挟着幾株桜。到尽処突見-山高流出泉水緑如許、繞石照人。瀟瀟雨、霧濠濃;一線陽光穿雲出、愈見嬌妍。人間的万象真理、愈求愈模糊;-模糊中偶然見着一点光明、真愈覚嬌妍。 雨の中二度遊びに来ました。両岸には、青い松がそして幾株かの桜の花が混じっていました。岸の道が尽きる処で、高い山が望めました。流れ出る泉は、緑色に映り、石を巡って人の姿を照らしました。小雨は深々として降り、霧が濛々と漂よって居ました。一筋の太陽の光線が、雲間から射し込みました。とてもなまめかしい光景でした。人として考えるに、森羅万象、真理は、いよいよ求めれば求める程はっきりしませんが、そのはっきりしない中で、たまたま一点の光明を見出すことが出来れば、眞にいよいよなまめかしくあでやかで美しいものでした。
2012.04.19
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桜の花も遅咲きの「御室の桜」に後追いつつも、惜しまれつつその満開時は過ぎつつあります。本日より嵯峨野巡りの初めに、京都一とも言われる嵐山周辺の案外知られていない名所をご案内します。 【嵐山】京都観光の「嵯峨野巡り」は、最も女性に人気が有ります。その入り口が【渡月橋】を含む此処「嵐山」です。「山紫水明の景勝地」として訪れる人々の心を遺憾なく癒してくれます。嵐山・渡月橋 大堰 保津川 渡月橋より上流の景色保津川下りの船「角倉了以」が「保津峡」を開削、豊かな渓谷は、JR「亀岡駅」からの「保津川下り」でも、スリル満点で、此処嵐山が「終着船着場」となっています。その船着場から、少し川上に、丘に登る階段が有り、少し上ったところに中国の「周恩来総理記念詩碑」が建っていますが、有名な【雨中嵐山】の詩の表現は、嵐山の表現を遍く伝えて下さっています。(グーグルで検索して見て下さい、写真も)中国の要人が来日の際は、どんなに忙しい日程でも、此処を表敬訪問されます。最近では、「温家宝首相」が訪れられました。 周恩来の碑「雨中嵐山」の詩が書かれています。更に「亀山公園」を登りますと、「角倉了以」そして「津崎村岡局」の銅像あります。特に村岡局は、嵯峨野「直指庵の創設者」で、幕末の影の立役者でNHK大河ドラマ「篤姫」の味方・理解者でも有りました。 角倉了以の銅像保津川の開拓者 津崎村岡の銅像 戻って、「渡月橋」は南北に架かっています。見所はブロの写真家が佇む、京都市内から訪れた、渡月橋の手前から嵐山を背景に、シャツターチャンスです。そして渡月橋を南に渡った所から、川べりに降りて、堰を含めて背景に、お饅頭の様に、丸く構えている「小倉山」(小倉山百人一首)そのバックに「「愛宕山」が見える場所も一服の絵に成ります。 真ん中丸い山「小倉山」 此処から更に、南へそして石段を登りますと、「虚空蔵菩薩」(こくうぞうぼさつ)(知恵の仏)を祀る、【法輪寺】があります。地元での言い伝えですが、子供さんたちの「七五三」のお祝いで、智恵を授かる為に、法輪寺で祈祷して、渡月橋を南から北へ、「振り向かないで、渡り切ると、その子に智恵が授かる」ということで、子供たちは真剣な様子で前を見つめて渡る姿は、とても微笑ましいです。川の名が渡月橋の上流・下流で堰と堰とで変わります。上から「保津川」「大堰川」そして「桂川」と嵐山の景勝を求めて、多くの観光客がお見えですが、その殆どの方が、目にとまらないのが、渡月橋の北東詰に在る【琴きき橋跡碑】です。 渡月橋の北詰に碑が建って今す。此処で源仲国が小督の琴の音を聴いたと偲ばれます。小督寓居跡渡月橋から直ぐの所にあります。此処には、嵯峨野の女性悲話の一つが静かに潜んでいます。あの有名な「黒田節」の二節に「峰の嵐か松風か、尋ぬるひとの琴の音か、駒引き止めて立ち寄れば、爪(つま)音高き【想夫恋】(そうふれん)」 宮中一の美人でお琴の名手であった【小督局】(こごうのつぼね)は、高倉天皇の寵愛を受けていましたが、中宮であった【徳子】(建礼門院)の父である「平清盛」は「わが娘をおいて何ごとぞ」と烈火のごとく怒り、小督を宮中から追い出してしまいました。高倉天皇は、愛しさのあまり部下の【源仲国】に命じて嵯峨野に身を隠していました小督局を探しに行かせました。嵯峨野の此処嵐山を訪れたころ、高倉天皇を恋い慕う想いを込めた【想夫恋】の琴の激しい曲が聞えてきました。そして出会って事情を話し、宮中へ連れ戻されました。今でも「国道1号線東山トンネル」西出口のそばにある、高倉天皇の御陵の側に天皇の遺言により、眠っています。 小督局の屋敷跡が、渡月橋の少し川上の「局茶屋」の北側に碑が建てられています。馬を止めて琴の音を聴き入る仲国の姿がまぶたに浮かびそうです。 平家物語の一つです。
2012.04.19
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玄関に、小さきながらも春を告げる花で道行く人の目にも。思わす、目を留めております。懸命に春の歌を合唱しているようです。 玄関前の春の花の群れ大原は如何でしたか、「寂」の文字がぴったしで、歴史の重みを感じさせました。本日は、一息入れて、明日からは、皆様の観光候補第一の嵯峨野巡りに入ります。「平家物語」に関係する、女性の哀話が隠れていますので、一入、昔を偲ばれる方が多いのでしょう。昨年の秋に写した写真になりますので、ご容赦願います。
2012.04.18
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京都では、もう桜の花も満開の佳い時期は早過ぎ去ったようです。人に惜しまれて、その美しさを束の間見せてくれることで魅力があります。大原は、【寂光院】及び【三千院】のみで帰られる方が殆どです。少し足を伸ばされば、こうした意義ある歴史を感じられます。 【三千院4】「勝林院」では、殆ど訪問者無く、ゆつくり「阿弥陀さんの世界」と「声明の調べ」を満喫出来ると思います。正に「浄土宗の発祥の地」とも考えられる聖地で有りました。外に出て直ぐ隣に、「宝泉院」が有ります。【宝泉院】天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 門の正面に樹齢500年余の「富士山型の五葉の松」がどっしり構えています。 五葉の松五葉の松の前には、「法然上人」が衣を架けられたとされる石が備わっていました。 法然上人 衣架けの石【額縁の庭】として、広いガラス戸の間から、片や「近江八景図の庭園」が片や「竹林」が額縁の中で鑑賞出来ます。 額縁のような竹林の景色 「抹茶と菓子」が出され、三千院の鑑賞の疲れに、一服落ち着いて外の景色をゆっくり味わわれるのに最適です。竹林の背景には、翠黛山(すいたいざん)(阿波内侍の眠れる山)ほか大原の里が望まれます。【血天井】が京都に数箇所有り、その一箇所が此処「宝泉院」でも弔っています。伏見城で徳川の忠臣「鳥居元忠(とりいもとただ)一党が、篭城で死守して、援軍の届かぬ内に自刃して果てた、血染めの廊下を、天井に上げて、菩提を弔ったと言う。 外にも庭園があり、今回は新しき象徴の庭園も開放されました。 昔からの庭園 近代的庭園初めて訪問しました。【実行院】天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 「声明」の音階・音律を味わえる場所でもあります。楽器は四国の自然石で自由に鳴らして体験が出来ます此処も、抹茶と菓子で庭園を眺めながら憩う事が出来ます。又、庭を散策するための履物も、用意され冬でも花を付ける「不断桜」も楽しめます。秋から冬に掛けて咲いています。滝の流れと小規模の庭園形式の「契心園」も落ち着きます。 【来迎院】(らいごういん)天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 山号 魚山余程、時間の赦せる方しか望めませんが、「呂川」(南谷川)の上流に位置し、慈覚大師円仁の「声明」の根拠地とも言われています。平安時代の末期に「融通念仏の開祖・聖応大師良忍」によって、再興されました。本堂には創建当時の作と言われる薬師・釈迦・阿弥陀三如来の坐像が安置されています。 更に「来迎院」を過ぎて、「律川」(北谷川)の上流かなり山道を辿りますと、【音無しの滝】に出会いました。感無量でした。白糸をたらしたような美しい滝で、巨岩に落下する「水音」は山肌にすいこまれように静けさを深めました。聖応大師が「滝の音」と「声明」が相乱れるのを恐れられ、「呪文」で「水音」を止められたと言う伝説が伝わっています。近くに聖応大師の墓が有ります。今でも仏教音楽「声明」に心して居られる事でしょう。 大原紀行も、此処まで訪れられれば、悔いは残りません。
2012.04.17
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三千院の桜の馬場の奥、律川の橋を渡ったところに【後鳥羽天皇】と【順徳天皇】親子の大原陵がありました。 大原陵 【大原御陵】「実光院」の真向かいに位置します。「承久の乱」(じょうきゅうのらん)鎌倉幕府に破れ「武家政権」が際立つように成りました。82代後鳥羽上皇は、隠岐に、84代順徳上皇は佐渡に配流されました。時に1221年の出来事です。平家は滅び、鎌倉幕府も三代実朝が暗殺され、頼朝の妻北条政子が健在でした。朝廷は鎌倉幕府をうとみ征伐するつもりで挙兵然しあなどって逆に敗北となり、夫々処刑されることとなった悲しい歴史です。大河ドラマも白河上皇を始め天皇の座を辞して、上皇としてふるまわれるシーンが多く、之が日本の過去の歴史かと首をかしげたくなることが多くなりました。いずれにしてもせめて 大原の里で御霊(みたま)が、静かに安らいで欲しいです。遠く歴史を偲びつつ礼拝。
2012.04.16
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仏教の推移には、貴族から庶民へと伝わっていきました。その動機の発祥の地として、とても大切な「大原問答」された「勝林寺」です。浄土宗・浄土真宗の魁の聖地ともいえましょう。 三千院3】 京都市内から、かなり遠い位置に「大原」は有りますので、観光時間の関係で急がれる方が多いのか、又ご存知ないのか、「「三千院」の感動をそのままで、「御殿門」から、帰途に付かれる方が、殆どとお見受けします。その証拠に、秋の紅葉シーズンでは、観光の人並みで混雑していましても、その奥に素晴しい寺院・御陵そして「音無しの滝」を訪問される方は、少なく、ゆったりと味わう事が出来ます。 「桜の馬場」を更に北奥に進みますと、「律川」の橋を渡ります。その橋の袂に「法然上人」の弟子「熊谷直実」(くまがいなおざね)が坐って待ち構えていたという石が存在しています。 熊谷直実の座って待った石そばは鉈捨て藪ご主人に万が一のことが起きればと鉈を持って構えましたが法然上人に見破られ、その側の藪に捨てました。 そして橋の渡った辺りを「鉈捨て籔」(なたすてやぶ)と言っています。更に突き当たりまで、歩を進めますと。正面に「大原問答」で有名な「勝林院」が有ります。本堂前庭 本堂 本堂前の彫刻【勝林院】天台宗 開祖 円仁(慈覚大師) 山号 魚山(ぎょざん)勝林院】天台宗 開祖 円仁(慈覚大師) 山号 魚山(ぎょざん)受付(殆ど不在)から石畳の道を経て、本堂に履物を脱いで堂内に、そしてボタンを押しますと、堂内に厳かな「声明」(しょうみょう)が聞かれます。今回は故障していて鳴りませんでした。 其の雰囲気で本尊「阿弥陀如来坐像」を拝する事ができます。 証拠の阿弥陀如来本尊阿弥陀さんの目は拝する位置によって、怖く・優しく変化します。僧侶の読経される坐が最も優しく見える45度の角度のようです。阿弥陀さんの手から紐がぶら下がって居ますので、(細い紐が見えるでしょう)手元の紐を引くと阿弥陀さんと握手した事に成るという事で、浄土へ導かれることを願って実行されています。この手法は、他寺でも良く見かけます。縁があればお試し下さい。 【大原問答】堂内の本尊阿弥陀如来の前、両側に梯子があり、壇上が備え付けて有りました。 方や、法然上人が登られた台座彼方に問答を仕掛けた僧の台座一方には、「法然上人」がそして、もう一箇所には、「叡山南都の学僧」と浄土念仏の教理を論議・問答して信服させられたと言います。法然上人54歳対して顕真(けんしん)権僧正(ごんそうじょう)56歳でした。 既成仏教は、王朝貴族を初め、知恵者、特定の富者のみに適ったもので、貧者・大衆・凡俗は、何等仏の救いも無く、実に仏教とは他山の石・無縁の存在とされていました。そこで法然上人は、叡山で修行し会得された結果。誰もが「一意専心・南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることで「極楽浄土に導かれる」と、説かれた時、本尊阿弥陀さんの手から、御光が射したと言うことで、「証拠の阿弥陀」と称されることに成りました。その後「浄土宗」として庶民の信仰と広がっていきました。 このとき師匠「法然上人」に危害が加えられるのではと、弟子の「熊谷直実」は懐に鉈を隠し持って、近くで構えて居たところ、法然上人にたしなめられ、鉈を竹薮に捨てたという事です。 堂内の裏には小さい緒仏像が、並んでいますがその中に「踏み出しの阿弥陀如来像」があります。人を正に救おうと左足を一歩踏み出す、救いの動的表現を採っています。そして「法然上人」の像も有ります。 殆ど貸切状態の様に、来訪される方は、まばらでゆっくりと、妙なる「声明」のお経を聞きつつ阿弥陀さんの世界に心を寄せて拝観できます。「三千院」の人込みが嘘の様です。 本堂の庭折角,遠方の三千院に来られて、時間が無いのか、はたまたご存知無いのか、その奥をバスする方が殆どで、こうした意義有るものを知らずに去られる事とても残念です。
2012.04.16
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大原の人気は、歴史的にも、心の安らぎを感じさせるところに有るようです。京都の中心部より若狭湾に通ずる「鯖街道」沿いに離れた場所だけに、訪問は少し時間を要するようです。「さばかいどう」とは、都人が栄養を付ける為、若狭湾で水揚げした新鮮な魚類を「飛脚」が夕方に出掛けて、此の道をひたすらに、そして早朝「出町」に達してそのお魚に美味を得たところからの道の名とされています。 【三千院2】8.【宸殿西の間】救世観世音菩薩像(くぜかんぜおんぼさつ)(重文)鎌倉時代作、当初秘仏で観られませんでしたが、今は公開されています。不動明王像。阿弥陀如来像が祀られて居ます。部屋の中まで入って、拝観されることを、お勧めします。9.【宸殿本堂】正面に112代霊元天皇の御親筆の額が掲げて有ります【三千院】と。本尊は、薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)で伝教大師の作とされています。向かって右に歴代天皇の、左に歴代法親王の尊牌が祀られて居ます。本尊は秘仏で観られません。10.【宸殿玉座】三千院の中で最も大切な場所です。高貴の方が坐られる事から、此処からの【瑠璃光庭】と【往生極楽院】の眺めが素晴しいです。玉座は、高貴な方が坐られる為に、「格天井」(ごうてんじょう)になっています。正面に「王義之」(おうぎし)の【鵞】(が)拓本の大軸が飾ってあります。【虹の間】玉座の前の部屋で、「下村観山筆」天皇を太陽に見立てて画かれた「虹の図」従来の襖絵の常識を破って、鴨居の上の壁にすべきところを、特に「釣り襖」として、天井まで貫く大胆な構図で「虹」が画かれ、世界的に有名だそうです。虹の七彩の美しさもさることながら、下部の壁にまで、「水草」が可愛く画かれているのにも注目して見て下さい。障子の外から手をかざしますと、指の間から虹が映し出されます。「紅葉」ごろは更に美しく反映します。是非試みて下さい。11.【瑠璃光庭】本堂前から履物を履き、苔むす広い庭園は、心を和らげます。大きい地蔵菩薩が庭に立って居られます。三千院の美しさ、静けさ、清らかさ、雰囲気を味わう絶好の場所です。「造った庭」ではなく「造ることもなく出来上がっている庭」井上靖が「東洋の宝石箱」とした「池泉回遊式庭園」で、女性の着物姿が「水面にぬれた」と歌った場所かもしれません。想像して鑑賞して見て下さい。【紅葉】【雪】景色は表現の出来ない感動を与えて呉れます。「薬師瑠璃光」の如来の道場のごとく清らかで自然の姿。「杉苔と杉木立」を満喫して下さい。瑠璃光園【有清園】瑠璃光庭の一部で、「往生極楽院」の東側にあります。「さざなみの滝」水音が静けさを感じさせます。あちこちに「童地蔵」石仏が微笑ましく、皆様を歓迎しておられます。 有清園 微笑みの地蔵さん 往生極楽院12.【往生極楽院】【阿弥陀如来】脇侍として【観音菩薩】【勢至菩薩】の坐像【国宝】がゆったりと祀られて居ます。極楽浄土への御来迎の形で、「観音菩薩」は、蓮華坐を持って居られます。両脇侍は、あぐら坐でなく、「大和坐り」と言ってとても珍しく、腰をやや立て、今や迎えようとされる、動的感じを与えて居られます。「阿弥陀如来の印相」は「上品・上生」で極楽浄土への最高の迎え方をして居られます。仏さんを大きく囲う為、天井は、船底型になっています。彩色は今は剥げてしまいましたが、往時は、美しく極彩色で有ったと考えられます。板塀には、25菩薩三千仏、天井には飛天、柱には極楽浄土に咲く「宝相華」(ほうそうげ)も画かれていたようでてす。お坊さんのお話では、「建礼門院さまが、この優しく心の安らぎを感じさせる阿弥陀さん三像を目の前にして、わが子と平家の菩提を弔うに相応しいとして此処大原の里に余生を送ることを決意されたのではないでしょうか」と。
2012.04.15
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大原三千院に行って来ました。 【三千院1】天台宗 開基 最澄(伝教大師) 山号 魚山(ぎょざん) 大原は、京都を訪れる若い女性にとって、嵯峨野巡りと並んで人気のあるところです。「京都 大原三千院 恋に疲れた女がひとり 結城(ゆうき)に塩瀬の素描(そびょう)の帯が水面(みずも)にぬれていた京都 大原三千院 恋に疲れた女がひとり」デューク・エイセスの歌声が耳に残ります、作詞家 永六輔が京都の代表として選ばれたようです。グ-グルで「京都 大原三千院 恋に疲れた女」として検索されると、デューク・エイセスの歌のキャシュで、曲が流れ、写真が次々表示されます。一度お試しになられては、 「寂光院」から紫色の「ちそ畑」を眺めながら、坂道を登ったところに「三千院」が有ります。「穴太積」(あのうづみ)と称して、滋賀県坂本の穴太衆の作業で石垣が目立ちます。地震があれば余計に揺すられて固まる仕組みに成っています。フランスの女性客に説明していましたら「よっぽど自信(地震)が有ったのですね」とジョウクで返されました。桜の馬場と言いますが、紅葉が素晴しいです。 大原は、【声明】(しょうみょう)の道場の地で、「声明」とは、お経に節を付けて、歌う様にお経を唱えます。とても荘厳で仏への世界へと誘われ落ち着きの保てる雰囲気になります。従って「三千院」桜の馬場の両出入り口「呂川」(りょかわ)と「律川」(りつかわ)が流れる「橋」が架かっています。何れも「声明」の音律から付けられたもので、節回しが上手く行かない時に、酒に溺れて酔っ払って言語のはっきりしない人を「ろれつがまわらない」という語源が出来たそうです。【天台五門跡】妙法院(三十三間堂)・青蓮院・毘沙門堂(山科)・曼殊院・三千院格式の高い寺院で、天台座主の後継者候補が門跡として、仏事に坐しておられる方が多いです。現在の比叡山延暦寺の総本山で「256世天台座主」になられた「半田孝淳(こうじゅん)座主」は「曼殊院門跡」でした。「三千院」の建物は、【往生極楽院】1143年建設を除き、明治以降に修理改築された建物と比較的に新しいです。【順路】1.「呂川」に架かる「魚山橋」を渡り、「穴太積」の石塀と茶店で挟まれた「桜の馬場」を散策、 穴太積の石塀と桜の馬場 【御殿門】の前の石段を登ります。門前に大きく「三千院」の立て札が掲げてあり、記念撮影に、シャッターを切っておられます。 三千院大門 2.受付を済ませて玄関に入りますと、先ず目に付くのが香時計】です、朝灯した香の軌跡で時を図る仕組みで、珍しいです。3.同じ場所に、「往生極楽院」の阿弥陀如来の脇侍の一体「勢至菩薩」の大和坐りの写真が大きく飾られています。4.【坪庭】京の都では、昔、面玄関の間口の幅の広さで課税したそうです。そのため奥行きを長くして建造しました。いわゆる「鰻の寝床」と称します。健康上中間に太陽をと言うことで、坪庭を設けました。その雛形が此処にも有りました。家の中に庭を設けたところから「家庭」の語源ともなるほど大切な要素でもありました。「三尊石」植木「千両」そして苔が飾られています。 坪庭 5.おみくじの元祖「元三大師」が祀られた部屋が有ります。「角大師」(つのだいし)とも言われお札が置かれています。帰って玄関入り口に飾る事で、魔除けになるとの信仰です。6.【聚碧園】(しゅへきえん)「芝法師琳賢(りんけん)」の原作で、庭師金森宗和が自ら手を加えて今日の清楚にして優雅な庭園が生まれました。池の源は、「音無川」の滝よりで、杉木立の間から「往生極楽院」が望めます。小さい池の奥に「枯れ滝の石組み」は古いです。 聚碧園 彼方に往生極楽院を望む7.【客殿】最近内部が改造されて、開放的に成りました。客殿から「聚碧園」を眺める事も出来る様になりました。以前は廊下伝いでした。明日は此の続きを掲載します。
2012.04.14
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昨日醍醐の桜を見てきました。 8日には太閤の花見行列があり交通停滞で動きも取れなかったですが、相変わらず人出は多かったです。晴天にやっと巡り合い佳かったです。観光バスも満車参道の桜三宝院の枝垂桜三宝院の奥庭の桜国宝・勅使門(唐門)太閤の五七の桐で飾られた垂れ幕桜まつり国宝。五重の塔国宝・金堂薬師如来三尊及び十二神将を祀る太閤花見行列沿いの桜表門の枝垂桜最も、近所にありながら訪問が出来ませんでした。汗ばむ陽気になりました。明日は、三千院をご報告します。
2012.04.13
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今回大原に行って来ました。大河ドラマの平清盛の娘「徳子」さん即ち、「建礼門院」さんの威徳を偲びつつ。高倉天皇の皇后ゆえに宮内庁の御陵です。御陵の背景に忠実に仕えた阿波内侍の見守る墓がありその翠黛山(すいたいさん)が見えます。御陵の山上への参道 【寂光院】(じゃくこういん)天台宗 開基 聖徳太子 山号 清香山京都観光の嵯峨野巡りに次いで、人気のある大原三千院を訪れる前に、「寂光院」に参りましょう。平家物語に登場します「後白河法皇」の【大原御幸】の辿られた道は、「上賀茂神社」から鞍馬街道を経て、市原・静原街道に入り、【江文峠】(えぶみとうげ)経由大原の里に入ります。普通は「鯖街道」を路線バスも走る道ですが、古を偲びつつ利用するのもまた楽しいです。車も空いています。 寂光院への参道 寂光院本堂594年と言いますから、平安京遷都794年の昔、聖徳太子か父君の31代用明天皇の菩提のため創建されたと伝えられています。「六萬体の地蔵菩薩」が祀られていましたが、近代放火で焼失、現在新しく再建されました、本尊地蔵菩薩立像の向かって左に「建礼門院像」右には侍女の「阿波の内侍像」が安置されています。阿波内侍の姿は、「大原女」(おはらめ)のモデルとなったそうです。建礼門院は「徳子」と言い、平清盛の娘で、80代高倉天皇の中宮(皇后)で、81代安徳天皇の生母で、源平合戦「壇ノ浦」で平家滅亡の際、母子ともに入水されましたが、源義経に母だけが助けられ、一時京都東山の「長楽寺」で、出家され、一説に寄れば安住の地を求め山道を超え大原の里に辿り着かれ、「極楽往生院」の「阿弥陀如来像」の優しさに触れ、わが子「案徳天皇」と「平家一門」の菩提を弔うに相応しいと、余生を「寂光院」で静かに送られたということです。村人達は、建礼門院を慰めようとして、畑で採れる野菜は勿論、「ちそ」栽培で「柴漬け」を発案、お食事の進むように、親しく付き合われたそうです。「京漬物・柴漬け」の発祥。29歳の秋も深まるころ、「後白河法皇」が10人の侍女をお供に、お慰めに来られたと言う平家物語・謡曲で有名な「大原御幸」が当時を偲ばれます。建礼門院は中宮のため、院の東隣に御陵として、石段をかなり登ると辿り着けます。 翠黛山にある阿波内侍の墓への苔むす三度石段始めて登ってきました。阿波内侍の質素な墓に始めて手を合わすことが出来ました。周りの大木は850年前の歴史を感じます。阿波内侍の墓は谷を経て向かいに位置する「翠黛山」(すいたいさん)に階段を登った所で、ご主人を永久に見守りつつ眠って居られます。境内には、「汀(みぎわ)の池」樹齢1000年の「姫小松」汀の池(嵯峨野巡り祇王寺仏御前の舞で紹介)「雪見灯篭」太閤秀吉寄進の雪見灯篭五七の桐であしらうそして滝の流れる小規模の庭園を鑑賞する事が出来ます。日本庭園ドイツ万国博覧会に出展 【建礼門院庵居跡地】残念なことに、現在は囲いがしてあって入れず、受付で聞きますと「特別拝観時に開放する」と申されました。一番寂光院らしさを味われるだけに 惜しまれます。境内の西側の外に、、、「建礼門院庵居跡地の碑」が有り、此処に入った途端、静寂と霊気が身に染みて、「寂光院」を訪れたな、と最高の雰囲気を味わう事が出来ます。未だに「清水」が湧き出て、当時のお住まい方が偲ばれるようです。建礼門院は此処で採れた生花を摘み取り、仏前に供えられたと聞きます。この庵室で静かに息を引き取られる時に、西(極楽浄土)から紫雲がたなびき薫香が庵室に充ち、空から妙なる音楽が聞えたと「平家物語」に記されているそうです。幾多の悲しみと苦労を体験なさり、御歳59歳で御逝去なされました。石碑の元に未だに「清水」が湧き出てここですすぎをされたとされています。御庵室跡御暗室跡の寂を感じる再興の場所苔の石垣だけは往時の面影を遺しています。思ひきや み山のおくに 住居して 雲井の月を よそに見もとは 建礼門院京都に住いして、翠黛山に眠る ご主人に忠実に仕えた阿波内侍の墓を始めてお参りし、貴重な体験をさせてもらいました。
2012.04.12
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私の住む伏見に寺田屋のまえから、三十石舟が観光で動いています。 【宇治川派流】(うじがはりゅう)として、大阪難波へと運行していました宇治川から入りこんだ運河です。その上流では、伏見の酒【月桂冠】酒造の蔵を眺めながら十石舟が運行し、川沿いの桜・柳・そして雪柳 を眺めて乗船する方がおおかったです。寺田屋の前からは三十石舟十石舟の乗船場 予備舟 月桂冠の酒蔵 柳を背景に酒蔵ここの写真はポスターでよく見かけます。 酒蔵と運河ガマッチしています。【伏見】は【伏せ水】から長まれたようで、地下水(伏流水)がとても良水で醸造のためには最適の水に恵まれています。 晴天で青空が黄沙のため望めず、残念でした。
2012.04.11
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もう春がやってきました。本日の日記の賀茂川と高野川の分岐点です。左が賀茂川そして右が高野川です。此の賀茂大橋から合流して【鴨川】となり淀川に通じます。玄関先に、小さい春を見つけました。一つは一輪のチューリップが花開こうとしています。もう一つは、我が家の前の舗装した道路に逞しく、可愛い花が咲きました。僅かの割れ目から、ど根性の生命を誇らしげに咲いていました。生きるという力を教えてくれているようで、頭を垂れました。 一輪のチューリッブ ど根性の可愛い花が健気に咲きました。
2012.04.10
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京都の桜が各地で漸くみごろになりました。ようやく春の訪れを感じるようになりました。以前にご紹介しました、賀茂川・高野川の桜の咲く風景をリクエスト受けましたので、行って来ました。 賀茂川の桜雪柳と桜賀茂川の流れ賀茂川雪柳と桜やなぎと高野川高野川の桜何れも高野川の桜です。曇り空でこのあと小雨が振り出しました。晴天が見ごろには訪れません。残念です。
2012.04.10
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昨日は、醍瑚寺で、太閤の桜の花の行列があり、交通機関は全く大混乱で、近付くことも出来ない状態でした。臨済宗シリーズが終わったと言いましたが、訪問すると、辰歳に限り春・秋特別拝観が可能であることが、偶然出くわし、此処も始めてお目にかかりました。「鳴き龍」は法堂の龍の絵の特定の場所で手を叩くと、「るるるん」と龍が反応するように反響がありました。 【相国寺】(しょうこくじ)臨済宗相国寺派大本山 開基 夢窓疎石京都御所の北側に位置し、あの有名な【金閣寺】と【銀閣寺】の【本山】で有る事は、意外と知られていません。同志社キャンパスの北側に拡がる、広大な敷地内にあります。 法堂 「鳴き龍」 外人さんも関心有名なのは【法堂】(はっとう)で、天井には「狩野光信筆」の【龍の絵】が画かれ、「下から手を叩くと」共鳴音が、響く所から「鳴き龍」と言われています。【承天閣美術館】(しょうてんかく)禅の総合美術館で、寺宝が展示されます。近代的な豪華な美術館です。【開山塔】開山 夢窓国師を安置する。前庭 開山塔の「龍淵水の庭 【大光明寺】(塔頭)(たっちゅう)普賢菩薩の霊場、現在相国寺の管長有馬和尚の住寺。 足利義尚の墓があるそうで、 大光明寺 【塔頭】寧ろ、西南の墓地には、父の【足利義政】と「群鶏図」で有名な、【伊藤若冲】(いとうじゃくちゅう)の墓が並んで、眠っているのが、印象に深く、残ります。 左から【藤原定家】 南中【足利義政】 右【伊藤若冲】 の墓「宗旦きつね」の祠」千宗旦がお茶席を留守にしている間に、狐が宗丹に、身を化けてお茶を立てた。という微笑ましいエピソードを祠に残しています。宗旦稲荷 【花の御所跡】同志社キャンパス内にあり、当時の立派な「敷石」が窓越しに、観られるように構えています。足利義満が建てたものです。 【大文字】の位置。 お盆の送り火に、「大」の字がともされますが、一説に京都御所に向かって、とあり、杯(さかずき)に酒を酌み、揺れる「大」の字を写して飲んだと、風流な光景ですが、銀閣寺の上にある「大文字」は、やや北西に向き、大本山「相国寺」を正面に「金閣寺」の「左大文字」と対向の位置に、有る事を、意識された方は、殆ど少ないと思います。 室町時代の栄華そして悲劇、歴史上の真実は判りませんが、関連して考えるとき、奥深さを覚えます。 こうして、観光も、一箇所を部分的で見るよりも、関連して、総合的に観ていくと、興味が沸くのではないでしょうか。 又、各宗派を知って、観ることも意識的に見方が深くなると思います。ガイドブックには、見る所を網羅していますが、観光の順路・見所・所在位置は、個人で行動される方にとつては、至難な業と思います、京都に住む友人から、「夫婦で、昨年清水寺に行ったが、門を潜っただけで、今回のを見て、もう一度、確かめて観光してみたい」と。励ましのメール戴きました。この方の為にも、可能な限り、進めて行きたいです。。
2012.04.09
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今日は、お釈迦さんの誕生日てもあり、各寺院で甘茶を掛ける行事が行われます。キリスト教では、実はクリスマスより意義深い、御復活祭(イースターが)が全世界で盛大に祝われる日でもあります。天気は快晴15度程度になりそうです。 【真如堂】(しんにょどう)【眞正極楽寺】(しんしょうごくらくじ) 天台宗山門派 開基戒算山号 鈴声山(れいしょうざん) 本堂・阿弥陀堂本堂からの三重塔 銀閣寺庭園の小高き枯山水の滝組の道から望める前方に見えます「吉田山」(旧三高の校歌で有名)を一名【神楽岡】(かぐらおか)とも言われます。即ち「山号」として「鈴声山」で「仏法有縁真正極楽の霊地とされていました。その岡の南の方に「真如堂」が建てられています。 本尊阿弥陀如来像は、【うなづき弥陀】と呼ばれ、作者は、慈覚大師円仁(天台第三世座主)が比叡山で彫り終えられたとき、「修行者の本尊に成って下さい」と問いかけられると弥陀は頭を三回横に振られ否定されたそうで、「それでは都に降りて一切衆生、特に女性をお救い給え」と念じられましたら、弥陀は三度うなづかれたそうです。比叡山常行堂に安置されていましたが、後に開山戒算上人が「真如堂」の本尊としてお招きされました。ひととき女性と言う事で「一条天皇の母君」「藤原詮子」離宮に安置されたともいわれています。「来迎の阿弥陀像としては、最古で、応仁の乱でも逃れておられます。法然上人・親鸞上人も比叡山から悟りを開いて先ず此処の阿弥陀さんに礼讃されたことで、向井去来も詩を残しています。涼しさの 野山に満つる 念仏かな 去来 そして、去来の大きい墓が境内・塔頭に有ります。 向井去来の寺【日本三如来】 信濃善光寺の阿弥陀如来・嵯峨清凉寺の釈迦如来・真如堂の阿弥陀如来涅槃の庭園右端の立石はお釈迦さんの母「マーヤ夫人」見守って居られます。借景も大文字山(左)を頭にして寝て居られる姿にみえます。「マーヤさん」の石組みお釈迦さん見守って居られます。周りの石は弟子たちの悲しみの姿とされています。そして動物たちも。【涅槃の庭】(ねはんのにわ)大文字「如意ケ嶽」東山を借景として、石組みで釈迦の横たわれた姿が見られます。別に【涅槃図】も掛け軸として存在し、珍しく猫くんが神妙に画かれています。何故ならお釈迦さまが中毒で、お母さんの摩耶夫人が天より、薬袋を投薬されましたが、周りに「沙羅双樹」が有り。その樹の枝に引っかかって届かず、(絵にもあります)ねずみくんが、登って取りに行こうとしたときに、猫くんが阻んで、お釈迦さまに届かなかった次第。猫くん「ご免なさいと反省しきり」借景の東山も、大文字山(如意ケ岳)がお釈迦さんの頭として寝て居られる姿が見えます。春日の局のお手植えの桜【春日局の桜】本堂の横に「春日局のお手植えの桜」家光の乳母で父上の「斉藤利三」の菩提を弔うために植えられました。其の側に「利三の墓地」が又恩人の絵師「海北友松」(かいほうゆうしょう)その外「落柿舎の住人」芭蕉門下十哲「向井去来」の墓も有り眠っています。奥には「三井家の墓」が広々と有りました。四季折々に、桜・紅葉の名所と成っています。わらべ唄にもうなづき阿弥陀さまの庶民の暮らしへの思い遣りが伺えるようです。ああ 真如堂(しんど) めし黒谷さん(くったか) ここらで一ぷく永観堂(ええやろう) お茶漬さらさら南禅寺(何杯や)2010年作庭 重森千青氏によって阿弥陀堂で受付、拝観ができますが、私も今回始めて訪問してきました。涅槃の庭も初めてで、実際に眺めると東山と一体になって実物でした。
2012.04.08
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【永観堂】浄土宗西山禅林寺派本山 開基 弘法大師の弟子真紹僧都 山号 聖衆来迎山【紅葉の名所】【見返り阿弥陀】全国でも珍しく、阿弥陀さんのお顔が左後ろを振り向かれた形の仏像が安置されています。「永観律師(ようかんりっし)」が念仏を唱えつつ歩んで居られる時、本尊の阿弥陀さんが永観の先に立ち、共に念仏行道をされ始められましたので、その不思議さにたたずんでしまいました。そこで阿弥陀さんが永観の様子を温かく見られて「永観よ遅いよ」と見返られたという伝説があります。「先導する者(リーダー)・目上の者・強き者達は、時には、後ろに続く者に振り向いて、想い遣りの心で優しく手を差し伸べる事も大切なことを教えておられるようにも感じられます。 【永観堂の七不思議】. 抜け雀 火除け阿弥陀 大火事にも燃え残られた阿弥陀像 念仏蛙 人影の無い「御影堂」で木魚の音が絶えなかった。ふと覗くと「蛙が木魚の側で念仏を唱えて居たとか。 三鈷の松(さんこのまつ)松の葉が三本ある木があり、其の葉を持ち帰ると「三つの幸せ」がもたらされるという。「臥龍の廊下」廊下は、龍がうねるように曲がって造られています。涙を流される観音菩薩像。.本尊「見返り阿弥陀如来像」 門前 みかえり阿弥陀如来の石塔 法然ショウニン年忌 記念植樹 庭園の池 勅使門(唐門)と市松模様の砂紋平地が有れば谷道もある教え高麗灯篭年以前韓国より渡来臥龍廊 多宝塔に繋がります。阿弥陀堂一番高い所に建っています。御影堂 法然上人像が祀られています。放生池 山腹にたほう問うが見えます。 境内はとても広く、入り口の門の小さいわりに奥行きの深いことに、驚きます。観光される穴場かもしれません。
2012.04.07
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【みかえり阿弥陀と永観律師】夜を徹して念仏に励まれました、永観律師和尚さんが、東の空がしらける頃道を歩まれたとき、前に人影があって、お顔を「左」に振り向けられ「永観、遅し」と声がけがあったそうです。お顔お身体全体に漂う穏やかな微笑み、永観を 励まされた阿弥陀さまの慈悲のかたちをこれほど具体的に表された仏の姿は他に類例が無いようです。 広い寺院の境内で一番高所に「阿弥陀堂」があり、そのみかえり阿弥陀像の前に手書きで素晴しい,ことばが書かれていましたが、今回,紙に控え下記の通り記してみました。 このみかえり阿弥陀如来のお姿勢を現代に問うならば「おくれる者たちを待つ姿勢」「自らの位置をかえりみる姿勢」「愛や情けをかける姿勢」 「思いやり深く周囲をみつめる姿勢」「衆生とともに正しく前へ進むリーダーの把握のふりむき真正面から おびただしい人びとのことを案じて 横をみかえる事には しばられない姿勢」 これがこの仏さまの み心ではないでしょうか。
2012.04.07
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昨日久し振りに、観光地の取材に出掛けました。あいにくの曇り午後から雨でした。永観堂・真如堂そして今年は辰歳として、天井「鳴き龍」で有名な相国寺の特別拝観ほぼ今年1年間開放、そして京都御所の春の一般公開でしたが、雨で訪問は諦めました。3日京都での開花宣言で何処も桜はあまり咲いていませんでした。 自宅近所のそめいよしの桜とゆきやなぎ 永観堂ではお釈迦さんのお誕生時の姿(4月8日)天上天下唯我独尊(てんじょう・てんげ・ゆいがどくそん)のお姿で甘茶を掛ける行事のセットがされていました。真如堂の桜真如堂・元山太子堂の桜とうめ同志社大学と桜 京都御所 猿が辻の枝垂桜御所の東北の鬼門に猿が網に囲まれて護っています。当時、夜な夜な出歩いて悪さをするもので網の中へ。
2012.04.06
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京都で3日桜の開花宣言ありましたが、異常気象はゲリラ的でもあり、竜巻暴風雨で多くの犠牲で被害をうけられました。温度もさほど上がりません。今日も法然上人にゆかりのある寺院をご紹介します。 【金戒光明寺】(こんかいこうみょうじ)(黒谷)浄土宗大本山 開基法然 開山 紫雲山吉田山(神楽岡)の南端に位置します。【真如堂】の奥に三井家の廟所があり、地続きに南へ歩みますと、【会津藩】の墓地が広く繋がっていました。此処「黒谷」に本陣を構えて駐屯していたと言うことです。平和の時代を迎え、思わず当時の悲惨な歴史を顧みて、霊の安らかに眠られん事を念じました。 山門御影堂 阿弥陀堂 地元では、「くろだにさん」と愛称で呼ばれています。法然上人が比叡山で修行され、43歳のときにこの地で念仏を唱えられたとき、光明があたりを照らされたことから、念仏道場を開かれたとのこと。浄土宗の建物形式にそって、山門・御影堂・阿弥陀堂があり、特に変わった処といえば、石段で高く登った所に三重の搭があり、【くろ谷の文殊さん】として「文殊塔」が一際、美しく建って居ます。 文殊の塔 【日本三文殊】で、丹後天橋立の【切戸文殊】・大和【阿部文殊】そして【岡崎文殊】(黒谷)黒谷文殊塔は、徳川秀忠菩提のために立てられ、運慶作と云われています。「三人寄れば文殊の知恵」賢いと言うよりも、健康的な判断が出来る智恵の授かることを願いたいです。【阿弥陀堂】豊臣秀頼の再建で、この寺院で最も古い建物で、本尊の阿弥陀如来像は、「恵心僧都」の最終の作で胎内に「のみ等器具」が納めてあり、「おとめの如来」または「ノミ納めの如来」とも云われています。【山門】額縁に「後小松天皇」(一休さんの父君)宸翰で何故か【浄土真宗最初門】勅額が掲げてあります。それは、浄土真宗の意味でなく、法然上人が説かれた、浄土経の真の教えを始めた最初の門の意味だそうです。法然上人は、比叡山から降りて、最初に真如堂の阿弥陀如来にお参りされた後、此処黒谷に草庵を持たれたそうです。浄土真宗の開祖親鸞上人も「真如堂」の阿弥陀如来にお参りされたと云われています。【吉備観音】(きびかんのん)中国から持ち帰ったもので、栴檀香木(せんだんこうぼく)で造られた観音像で、御影堂内に安置されているようです。御影堂の前に「鎧掛けの五破の松」があり、法然に仕えた熊谷直実峨武士を捨てて、鎧を掛けたという由来が有ります。鎧掛けの松やつ橋の塔頭京銘菓「やつはし」はお琴の形をしています。みなさまお土産でで買って返られますが、箏曲作曲家、演奏家「八橋検校」(やつはしけんぎょう)の寺院が境内にあります。御影堂の裏に以下素晴らしい庭園を載せます。もみじこころも美しいです。
2012.04.05
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台風並みに、全国を突風と激しい雨に覆われ、被害が可也あったようです。みなさま大丈夫だったでしょうか。京都も急に雷がどんとなり。雹のような激しい雨にみまわれましたが、瞬時で治まりました。皮肉にも、京都での桜の開花宣言で、例年より6日遅れということになりました。 【霊鑑寺】臨済宗・南禅寺派哲学の道のほぼ半ばを東に入った少し小高き所に有ります。 門跡尼寺で、谷御所とも云われています。特別拝観のときしか内部は観られません。本堂・書院・居間が佇み立石を多く使った石組みで、池泉回遊式庭園はこじんまりしても心和みます。後水尾上皇の遺愛の散り椿ほか、黒に近い濃い紫の椿など各種の品種が見事で,【椿寺】としても有名です。。代々皇女が尼僧として継がれ、寺宝には、皇室で使われた宝物が多く、特に御所人形は200点にも及ぶといわれています。 【大豊神社】 哲学の道沿いにあります。神社は、此処「鹿ケ谷」(ししがだに)・南禅寺地区の産土神(うぶすな)として信仰されています。鼠の狛犬が珍しいです。 ねずみくんの狛犬阿吽の呼吸 片方は口を「あ」と開け、片方は「うん」と口を閉じています。 哲学の道は、「道」として日本百選に選定されています。東天王町にある【岡崎神社】にも狛犬に変わり「兎」が居ました。 岡崎神社 狛犬の「うさぎ」
2012.04.04
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各地で死者が出るほどの、台風並の突風と雷を伴なう、激しい雨が叩きつけました。昔の人なら何かの祟りとおもうかもしれませんね。本日のに日記で、後鳥羽上皇の官女 鈴虫・松虫 が清水寺で法然上人の法話を聴いたとされますが、事実宗派が北法相宗と違いますが、清水寺の奥の院に阿弥陀堂があり、法然上人の坐像も祀られ、念仏発祥の地と明記されています。鈴虫・松虫がその後、出家することで、上皇は怒り、導いた住連・安楽坊を処刑されただけでなく、法然上人を土佐へそして親鸞上人を越後夫々配流されました。建永二年の法難事件です。民衆に理解されやすく、信者がふえることで、為政者は恐怖を感じたのでしょうか。現代の信仰の守られる世では考えられないことと歴史を顧みています。
2012.04.03
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本日は春の嵐が吹きまくると予報しています。充分ご注意願います。法然院の側にやはり念仏修行の安楽寺があります。(非公開)キリスト教への弾圧だけでなく、解かり易く一般民衆にも会得出来る法然上人・親鸞上人の説かれた宗教に法難の歴史がありました。安楽寺山門の前に掲げた「京都市の立札」です。 安楽寺住蓮山と号し、浄土宗の寺院である。鎌倉時代の初め、現在地より東一キロメートルばかりのところに法然上人の弟子住蓮坊、安楽坊二僧が、念仏場を建てて人々に念仏をすすめた。たまたま後鳥羽上皇官女松虫、鈴虫が教化をうけてひそかに出家する事件がおこり、上皇の立腹をうけ、「念仏停止」の宣下によって、二僧は死刑、法然上人は土佐へ親鸞上人は、越後へと配竜流された。これがいわゆる建永二年(一二0七)の法難であるが下って室町時代の末、天文年間(一五三二~一五五五)二僧の供養のため伽藍を之の地に再興したのが、当寺である。本尊阿弥陀尊像を安置し傍らは、住蓮、安楽両上人松虫、鈴虫両姫の座像、法然上人張子の像等をまつっている。また境内右手に住蓮、安楽両房の五輪石塔東方山林中に松虫、鈴虫両姫の五輪石塔がある 京都市 入口の門 本堂 本堂の背景庭園 千両 【安楽寺の縁起】「紫の庵の明け暮れに 心を澄ます谷水の流れを人の聞き伝え 人里まれなる鹿ケ谷(ししがだに)なお山深く分け入りて 紫の庵を結びつゝ」 「御門の寵愛浅からず 数多の官女の嫉妬よりとかく浮世を厭い捨て 菩提の道を求めんと一念心を傾けて 剃髪染衣を求めんと」 安楽寺和賛 住蓮上人・安楽上人お二人の念仏のお話に惹かれて、大勢集まり、精進の妨げと更に山深く庵を求められたとき、一匹の白い鹿に導かれ鹿ケ谷の山中で姿を消したので、仏の導きと、其処に紫の庵を設けられました。 一方、後鳥羽上皇の寵愛を一身に受けた 女官、松虫・鈴虫は、当初清水寺で法然上人のお話に救われ、後に 上皇の紀州へのみゆきの留守に、宮中を抜け出し、此処「紫の庵」に駆け込み、上人の宮中へ帰ることを進めるも、仏道への志高く、両姫は見識も高く美しい姿も投げ捨て、両上人によって、剃髪をされ、出家されました。松虫19歳・鈴虫17歳でした。 女官 鈴虫・松虫の墓 お墓に至る 小さい門 後鳥羽上皇の逆鱗は恐ろしく、兼ねてより意向に適わぬとして、住蓮・安楽上人は斬首。 法然上人は讃岐国(高松市)・親鸞上人は越後国(上越市)に流罪。【建永の法難】仏道の僧でありながら罪とされました。 松虫・鈴虫尼僧は、自分の行いが原因で、両上人が、殉教されたと知り、嘆き悲しみその後、瀬戸の生口島(いくのしま)(尾道市)で念仏を捧げ松虫35歳・鈴虫45歳で入寂。 後に、法然上人が戻られ、此処に両上人の菩提を弔う為、草庵を復興「住蓮山安楽寺」と名付けられました。 仏足石【鹿ケ谷かぼちゃ】(ししがだにかぼちゃ)無病息災のために、7月末の夏場の健康維持のためにも、寺院で炊き出し行事が行われます。帰路からみた表門
2012.04.03
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4月に入って随分春めいてきました。京都の落ち着いた庭園をご紹介している内に、何時しかアクセス80,000台を頂戴していました。ブログを始めて1万でもうれしかつたですが、此処まで応援して下さる方の多いのに感謝そして感謝です。今後も続けられる限り精進したいと思いますのでよろしく見守ってやってください。
2012.04.02
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銀閣寺から哲学の道を伝って、暫し山側に登りますと【法然院】があります。浄土宗の寺院です。昔、法然上人が弟子の安楽・重蓮坊と子の地で【六時礼賛】(昼夜六度、阿弥陀仏を礼拝そして賛嘆すること)を行われていた寺院とされています。本堂には、阿弥陀如来三尊(脇侍・観音菩薩・勢至菩薩)そして法然上人自作と言われる法然像が祀られています。境内は、こじんまりしていますが。幽玄の境地を感じる雰囲気にさせられます。山門の横から少し山手に墓地があり、其処には有名な谷崎潤一郎先生の墓が大勢の墓地の中で眠っておられます。 法然院の参道 萱葺の三門 苔庭 池のある庭 帰途くぐる山門
2012.04.02
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もう間もなく皆様に親しまれています【哲学の道】にも桜で豪華に飾られることでしょう。源流は滋賀県の琵琶湖で疎水により、南禅寺境内の【水路閣】を通って此の道に辿ります。南禅寺境内の水路閣琵琶湖疏水は、明治の頃にあって 一大学生の卒業論文を採りあげた英断に起因します。即ち工部大学校 (東京大学工学部の前身) 【田辺朔朗】(たなべさくろう)が卒業論文に 発電所と水の需要供給に関し提出されました。 田辺朔朗工学博士の銅像日本初の発電所を造った「蹴上公園」 当時、第3代京都府知事【北垣国道】(きたがきくにみち)が明治のころでありながら、一学生の計画案を採用することと、莫大な費用をなじって「こんど、来たがきは、ごくどうもの」と非難を一手に受けました。然し、蹴上の高低の坂を利用して、日本で最初発電所が出来このとき、万国博覧会を岡崎にその交通機関として、これも日本初の電車を走らせました。高低の坂を「インクライン」と言って舟を台車に載せて低い水路までケーブルのように降ろします。蹴上並びに哲学の道を北上した、松ヶ崎に浄水場を造り、市民は水に恵まれました。滋賀県大津から京都には、二箇所急坂の峠があり、牛馬では厳しい中、舟で疎水運河を利用出来ました。疎水周辺の寺社の池も、琵琶湖の恩恵を受けることもできて、未だ水枯れの経験は皆無といえましょう。知事の判断が英断となって、明治からの京都の文化・環境に著しく貢献されました。こうした先輩並の知事さんが日本に生まれると素晴らしい国づくりが出来ると思う今日この頃です。
2012.04.01
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いよいよ4月に入りました。とうに春のはずが今朝も気温が3度と寒い朝でした。でも桜前線が次々開花宣言をすることでしょう。 只今、NHK大河ドラマの「平清盛」の父が【白河天皇】で権力旺盛で何事もわが意のままに世情を我が物とされていました。然し、三つは適わなかったと言います。1. 加茂の流れ2. 賽の目3. 比叡の山法師その一つの鴨川の写真を掲載します。今出川橋鴨川は此の今出川橋を境に Y字形に源流が分かれます左側を賀茂川と字を変えて呼ばれます。森は下鴨神社の糺すの森で右側は高野川と称して、川上には、大原に至ります。その後ろが「比叡山」が見えます。そして此の橋から下流を「鴨川」と称し淀川と合流して大阪湾に至ります。 左・賀茂川 右・高野川堤には、間もなく桜並木が美しく飾るのも、時間の問題です。 鴨の流れを逆流することは、白河院には、不可能として出来ませんでしたが、明治になって 工学博士「田辺朔朗」が「琵琶湖疏水」を成し遂げ、その一環として、琵琶湖・山科そして蹴上の地が高位地にあり、南禅寺の水路閣を通して「哲学の道」の川の流れは南から北へと見事成し遂げました。松ヶ崎浄水場まで届きました。 哲学の道水が南から北に向かって流れています。案外気付く人はいません。此処の桜並木も見事なところといえましょう。
2012.04.01
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