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昨日は、この年度始めの超々多忙と緊張の疲れを引きずりまくりながらも、今夏に参加するイベントの練習に兵庫の武庫川まで走りました。 自分らだけで演奏するならいつも通りの練習でいいんですが、今回はイベント用に参加者全員でセッションを三曲もやることになっていて、そのための練習です。 正直、武庫川は遠すぎるわぁ…と思っていたんですが、なんと湾岸線を走ると自宅から一時間で到着…!昨今の道路は便利になってるんやなぁと(笑)。 で、練習会場がこれまた有り得ないほどキレイで…、日頃の疲れが吹き飛ぶほどアドレナリンが(笑)。 このメンバーではこの春にすでにプレ・イベントをしていて、その時にやったセッションの思いがけないレベルの高さに密かな手応えを感じていました。 今回も曲のアレンジや解釈論が普通に通じて、しかもそれを直ぐに演奏に還元して、またそれをあ~でもないこ~でもないと述べ合う中で変えていく…という、何とも「健全」なセッションがなされました。 思えば、こういうやり取りの中で思い付きのフレーズやハモりが自由に自然に足されていって、自分らだけのアレンジで演奏できるようになっていくのが、かつてのストリートグループ「はなくそ」に通じてるし、現在の「コ○○シマル」の原点やなぁ…こんなんがやりたくて自分は音楽やってるねんなぁ…と。 そら、楽しいはずや、と。 このメンバー、エエ歳のオッサンオバチャン集団(大変失礼!)なのに、なんと今度のG.W.に合宿まで企画しています…!(笑) 次回はまた「何」が生まれるのか、楽しみで仕方ありません。
2009/04/20
桜は既に葉桜でしたが、久々に再開した「はなくそ」ののぐっさんやながやん、そしてぐっちゃんらと、晴天の空の下でセッションしたのは、とても気持ち良かったです。 皆それぞれ家族をもって、あるいは子供が増え、あるいはやんちゃ坊主に手をやき、あるいはおむつを代え、あるいは子供と合唱したり楽器を奪い合ったり(笑)…などなど、かつての独身時代とは違う光景でしたが、それをも包括できる「はなくそファミリー」の仲間の輪(和)が何とも心地好く…。 年度始めの激務でバテ気味でしたが、本当に行ってよかったと思える時間でした。
2009/04/12
河内長野市のラブリーホールで「ホームタウン・ミュージック・コンサート」が今年も催され、それに我々MUOも参加してきました。 昨年に続き二度目の参加でしたが、我々の歌自体は、我々自身も「…まぁ、良かったんちゃう?」と思えるような、一定の達成感を感じることができるものとなりました。 4曲を歌いましたが、途中から手拍子や振り付けをお客さんが一緒にやり始めて下さった場面で、思わず心の中でガッツポーズをとりました。 もちろん最初は様々な表情で聞いてくださっていたのですが、振り付けを一緒にしてくださる時はお客さんの表情もずいぶんやわらぎ、自主的に「新たなメンバー」として会場を「作りあげ」てくださるわけですから、これはすごいことです。 もちろん、見に来てくださっていた他のシスタークワイアの方たちが最初からガンガンに(笑)踊ってくださってたんですが、それが会場中に広がる光景は、誇張無しで「鳥肌モノ」でした。 あんな風に、宗教は違っても、好きな音楽は違っても、一緒になって歌える音楽としてのゴスペルをもっともっと歌って行けたらなぁ…と心から思いました。 また、各々の諸事情により、あまりMUOメンバーが参加できなかったコンサート後の打ち上げでしたが、その場でMUOがずっとお世話になってるホールスタッフの「M様」(今回は事情により「様」づけです/笑)が、「MUOはこのところ、本当に成長してると思います。成長の速度もはやい」と誉めて下さいました。 彼は、ずっと応援はしてくださってますが別におべっかは使わない人なので、彼に誉められると嬉しいですね(笑)。 何が我々を成長させているのかは、きっと色んな要素があるんでしょうが、結果としてメンバーの皆さんの「声」が本当に出るようになってきました。 人間はもともと一定以上の大きさの声は出せるもんです。赤ん坊があんなに大きな声で泣けるんですから。 それが、いろいろな人生の中で「大声を出す」ことにリミッターがはめられていくわけです。そらまぁ、当たり前ですやね。みんながいつも大声だと迷惑ですから(苦笑)。 でも、そのリミッターは別に「大声」だけにはまってる訳じゃなくて、「大人になる」とか「大人である」とか「男は無口な方がいい」とか「女はおしとやかであれ」とかそういった世の中の風潮の中で、「自分をおさえる」ことを我々は日々植え付けられてる。 その善し悪しは別として、この我々にはまったリミッターという「枷(かせ)」は、だからそんなに簡単に外れるものじゃないんですよね。 ゴスペルを「魂の解放」と表現することがありますが、このところ、この一見おおげさに思えるような言葉が、実は誇張ではなく真実なんじゃないかと思えるようになってきました。 だって、この「社会からはめられた枷」は、「さぁ歌ってね!」とか「大声出せ!」とか、そういう言葉で簡単に外れるもんじゃないんですから。 社会とその中での生活で形作られた我々の「社会性」からの解放は、そんな簡単なもんじゃない。 そこから「解放」されるとは、まさに「社会性」によってがんじがらめにされた「魂」がそのリミッターを破るということです。 ゴスペルを歌い終わった後に感じる「あの爽快感」は、歌う場以外では決してあり得ない大声を出したことで、普段は無意識下で束縛されている魂が解放されたからなのかと、私は感じるわけです。 宗教など関係なく、ゴスペルの元々の持ち主であるアフリカン・アメリカンの人たちとは社会的背景も全く異なり、言語すら違う我々ですが、歌によって我々が「解放」されるという点では何も変わりない。 そんな「解放」を感じられる人たちが、MUOの中でも確かに増えて行ってるんだなぁ…と、私は感じました。 「魂の解放」は、内面的なモノ。だから、他人がいくら言ったって駄目で、その人が「解放される」のを我々は待たねばなりません。 待ちながら、語り合い、仲良くなり、アナタと歌えて私たちはうれしいと伝えあう。ときには失敗を許し合い、そんな弱いお互いを支え合う。 それが「仲間になる」ってことかと。 きっと、我々は、少しずつ、ホントの「仲間」になれてきたんかな、って、最近思うわけです。
2009/04/11
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