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2025.12.01
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カテゴリ: 坐禅
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)

普勧坐禅儀抄話その20

 禅には、仏教の三量といって、現量、比量、非比量というものがある。非比量というのは、冬瓜(とうがん)のぶらさがっているのを入道と間違えたというようなものである。臆病者が恐ろしさのあまり、冷たいものがぶらさがっていたというて逃げて来た。大勢でいってみたら冬瓜だった。ふんどしが干してあるのを幽霊と思って気絶した。夜があけたらふんどしだった。非思量というのは、こういう錯覚や間違いのことで、宗教的にいえば迷信である。比量とは、垣を隔てて角を見て牛なることを知る。あるいは山を隔てて火を見て火事なりと思う、ということである。ところが火ではなくて雲のことがあったり、垣を隔てて角を見ても牛でなく山羊であることもある。コケコッコーというても、鶏と思うたらあにはからんや物まねの上手な者がやったということもある。こういう間違いもある。ところが現量というのは、その実物にぶつかったということである。ボタ餅とはどんなものであるか、アイスクリームというのはどんなものか、デパートで売っているがどんなもんだろうと思って食ってみると、ああ、こんなものかということがちゃんとわかる。坐禅はこの現量にぶっつかることである。それを「不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん、非思量という、つまり、坐禅は意識の問題でなしに、坐禅そのものが現実の問題、現量の問題になってくる。そこで前にもいったように、慈雲尊者の修すべし、求むべからずでただやってみることである。
 むかし五百匹の猿が五百人の辟支仏(びゃくしぶつ)―これは本当の仏ではない、縁覚のことである―に仕えておった。ところが辟支仏が涅槃に入った。涅槃ということは、滅ということであるが、滅ということでもそこには理想がある。我々も、どうせきたなくなって、死臭をはなって死ぬのであるが、何とかいい死に方がありそうなおのだと考える。ところが、この辟支仏は灰身滅智(けじんめっち)といって、一遍にパラパラと灰と気体になってしまう。人のお世話にならないところでぱらっとなくなってしまう。実に立派な死に方である。こうして五百人の辟支仏が、ぱらっといってしまった。ところが、辟支仏に仕えておった猿は、おん大将たちがあまりあっけなくいったものだから、自分たちだけ食うのでは力があまる。そこで、五百匹の猿どもは辟支仏のまねをして、みな坐禅をしてしまった。木の上とか巌窟とか洞穴とか崖下とか、それぞれ仕えておった辟支仏の通りに五百匹の猿が坐った。実に壮観だったに違いない。そこへ五百人の仙人たちが、道を求めてやってきた。どこへいっても求める道にゆきあたらないので、山へきたところが、五百匹の猿が坐禅しておる。その姿を見ただけで仙人たちは感激してしまった。そこでみんな猿のまねをして坐禅を組んだ。すると五百人の仙人たちは、みな悟りを開いたという。悟りを開いたということは、仏さんとぴたっと波長があったということである。そこで坐禅は、この身をもって仏法をやることである。身をもってやってみれば仏法の極意に達することができるのである。(『禅談』p.334-335)





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最終更新日  2025.12.01 05:20:04


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