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補注「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 257~259ページ
こうした情勢の下に、日本醤油株式会社は、旋風のように高い世評の中で、株式公募を発表すると同時に満株となって、明治40年(1907年)6月10日に、資本金1千万円という、当時の工業会社としては最大の創業資金で設立された。そして藤三郎は衆望を担って、その社長となった。常務取締役が松本孫右衛門で、三星炭砿会社の社長で衆議院議員であった。また藤三郎の甥で、精製糖事業の創業当時から苦楽をともにしてきた安間熊重が、営業方面担当の取締役に就任した。そのほか取締役には、維新の功臣郷純造の息で、ドイツ・フランス両国に遊学して来た新進実業家の郷誠之助や、毛利公爵家の資本を代表した田島信夫があった。また、北浜銀行頭取の岩下清周、川崎造船所社長松方幸次郎も、関西方面の資本を代表して取締役に就任した。
※ 「郷誠之助は、維新の功臣郷純造氏の二男、夙(つと)に独国に留学し、帰途仏国に留りて蛍雪の労を積み、かたわら実業を視察し、帰来身を実業に投じ各種会社に重役たり。」と「黎明日本の一開拓者」357頁にある。
「人間・郷誠之助」186頁に明治40年郷が日本醤油の取締役となった次第が載っている。
「この会社は当時有名だった鈴木藤三郎という発明家の主唱に依って与ったもので、その主旨は、
『今までの醤油醸造法は四季を通じ一年を経過しなければシ醤油として使用する事が出来なかったが、かような間だるい方法ではいけない。機械の操作と科学作用によって2か月経てば立派な醤油を醸造し得る発明が成功した。これは醤油醸造界における大革命であり、国民経済の上に非常な貢献をもたらすものである』 というにあった。そして今まで醸造家を向うに廻し、新式な方法によって良い品を廉く売り出すという事が会社の目的であった。
実験の結果悪い成績ではなかったので、それならばやって見ようというので、鈴木を社長に、専務松本孫右衛門、取締役岩下清周、郷誠之助、松方幸次郎、大橋新太郎というソウソウたる顔触れを備え、資本金1千万円、250万円払込みの大会社を造り上げた。
ところが実際に醸造して見ると、技術の点に未だ不完全、未熟な所があって、所期の効果を挙げることが出来ない。結果は失敗ということになって、42年遂にこの会社は解散の悲運に立ち到った。その跡始末がまたすこぶる面倒で、大分借金が残っている。株式の末払込金を徴収する訳にもいかず、有志の醵出金を募って、一部の整理をつけたが、残余の負債を郷、松方、岩下の3人で引受け整理することになった。
この整理は45年まで3年かかった。合名会社東(あづま)商会というものを造って、郷がその代表社員となり、醤油会社の庶務課長格であった森美文が営業の方を担当し、残った醤油のモロミの処分をしたり、財産の整理を行ったり、総て郷の責任において、その跡片付けが進められた。幸にも残骸となっている醤油会社の引受手も出来、負債を一応返却して綺麗になった。
郷は別に発頭人でもなく、勧められて取締役に名を連ねただけであるが、責任感の強い郷としては、会社が倒産したからといって、巧みに責を免れるような行動には出られない人である。
この会社には原田二郎が暗躍し、郷はじめ連帯の重役をひどく苦しめたものだが、経験の浅い郷にはよい試練であった。そして、この会社を通じて初めて岩下清周などと知り合い、共に連帯の関係に立ったため共に苦しんだ。苦しい時に知り合いになって、共に苦しんだ仲であり、お互いにその人物、意志、性行などを知るに及んで、いわゆる肝胆相照らす仲となった。」
※ 岩下清周について「日本人名大辞典」第1巻から引用する。
この会社の創立に当って、藤三郎は、在来の醤油醸造家といたずらに対立的立場となるのを好まないので、森村市左衛門を通じて、当時最大の醸造家である山サ醤油会社社長の浜口吉右衛門に、事業をともにしたいという希望を伝えてもらった。しかし、なぜか浜口は怒って、この申込みを斥けたので、彼はやむなく、在来の醤油醸造家と提携することを断念して、孤立のうちに事業を起す決心をしたのであった。この事実は、当時の『実業之世界』(明治41年12月1日号)に、詳しく載っている。
日本醤油醸造会社の東京工場は、深川の小名木川岸に、大日本製糖会社の東京工場と並んで建ってい鈴木鉄工ぶを、路一つ隔てた西に移して、その跡に建設したものであった。前記のように会社創立に着手する前から個人として経営するつもりで、建築や機械の製作は進められていたので、初夏に会社が創立されると、秋の初めには醸造を開始して、その年の11月には、もう第1回の製品を市場へ売り出した。
商標は左図(省略)のようであった〔「ウメニホン」「マツニホン」「フジニホン」「ヒシニホン」と、商標もそれぞれ意匠がちがっていた〕。
この東京工場は、藤三郎の発明した醤油醸造装置の基盤の上に、どこからどこまでも彼がくふうした機械力が応用してあって、ほとんど人力をかりなくてもよい一貫作業になっていた。まず原料の小麦と大豆は、自動昇降機で階上の精選機に送られて、豆や麦の中の塵埃を除くと、これを自動的に階下の回転式煎熬(せんごう)機に送って、ここで適度に煎られて、再び自動昇降機で階上に送られる。これを破篩機にかけてローラーでひき割って粉末と区別して、蒸熱缶に入れて蒸熱したものを、トロッコで製麹室へ送って麹(こうじ)とする。この麹をさらに自動昇降機で3階に送って、醤麹輸送機で醤油諸味(もろみ)醸造機に入れて、別に溶解機で食塩を溶かしたものをこれに加え、連続的に攪拌して、麹を十分に発酵させる。そして、その諸味から、圧搾装置で醤油を搾り取って、これをポンプで加熱缶に送って火入れをして、濾過機を通して精製したものを、貯蔵桶に送って樽詰めとする。
このように作業の初めから終りまで機械が一貫して働いて、人はわずかにこれを助力し監督するだけである。醤油醸造が始められてから200年もの間、いつに人力ばかりを頼って1か年半から2か年半もかかったものが、この装置では機械力だけを用いて2か月で醸造できるということは、全く醤油工業の革命であった。また、半世紀後の現代に、初めて世界の問題となったオートメーションの生産方式が、製塩の場合と同じように、ここでも藤三郎によって完成していたということは、真に驚嘆に値する事実であるといわなければならない。
補注「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 その1… 2025.12.03
補注「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 その1… 2025.12.02
補注「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 その1… 2025.12.01