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2026.05.28
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カテゴリ: 内村鑑三
「宮部金吾」抜粋 自叙伝

P22-   横浜高嶋学校

13歳(明治5年)の8月下旬、かくて私は始めて家を離れて横浜に遊学する事になった。忠僕に伴われ、お台場を目の前にして小波打ち寄せる品川を後に汽車で横浜に向かった。 新橋-横浜(現今の桜木町)間の京浜鉄道開通式は明治5年12月に挙行されたもので、それ以前は便宜上、乗車を許可していたものと思われ、私が横浜へ行った当時は乗客の始発駅は品川であった。客車は用意されておらず、貨車内のベンチをならべ、別に車窓もなく扉が二尺くらいあけてあった。それでも始めて乗った私には非常に快適なものであり、風を切って進む速さに驚嘆したものである。

横浜の学校へ行くようになったのは亡き父の友、神奈川県の高官なる高木氏が保証人となってくれたためで、氏が一切の監督をしてくれる旨を申し出られ、母も安心して手離されたのであろう。それに文臣兄も同氏のお世話で神奈川県属官に採用され、同市戸部町の官舎に引き移っていたからである。

高嶋学校は、この前年なる明治4年8月高嶋嘉右衛門氏が欧米の学問をわが国に普及せしめんとて金3万円を投じて設立したものである。敷地として野毛山下のガス局の隣地(今の花咲町5丁目)に約1万坪を下し、そこに生徒数百の名を収容するに足る広大な校舎並びに寄宿舎を建てた。この建築は当時としては珍しい白ペンキ塗りの西洋風の建物で、正面(南北)に13個、側面(東西)に18個の西洋窓があり、かつ広中庭を囲んで廻り廊下があり、これに沿って寄宿生の室が並んでいたが、階上の窓には鉄色に塗った木製の格子が入っていた。なお登 舎と称する平屋建の附属小学校が廊下つづきに本校舎の西北に在った。

学校の組織はいわゆる「正則学校」で、初級より英語の教科書を用いて米人の教師から読み方、文典、算術、地理、歴史等を教えられ、まるで米国の学校の観があった。この「正則学校」に対し、慶応義塾のような翻訳式の教法を「変則学校」と称していた。高嶋学校には当時数人の米人がおったが、西洋人の教師の組に入る前に附属小学校の一室で約1ヶ月間日本の先生から英語の初歩の教授を受けた。それから私達の級は始めモーリスという教師に、後にはバラー兄弟に就いた。バラー兄弟は宣教師であり、日曜日には兄のジェームス・バラーの自宅でバイブルクラスが開かれ、私も誘われて1、2度行った事がある。

P23-   寄宿舎

高嶋学校在学中、私は寄宿舎にいた。寄宿舎は既に記したようにこの校舎の大部分を占め、居室は畳を敷いた日本間であった。普通一室に舎生2人、大きな室に舎生4、5人いた。寄宿舎には随分多数の生徒がおり、後に知名の士となった人も少なくないと思うが、当時在舎していた者の名簿が手に入らないので残念ながら一向に判明しない。友人として一緒に写真を撮っている者に、横浜豪商の令息添田君と、高嶋家に関係のあった富田君の2人がある。この2人はいずれも通学生であった。

日曜日にはよく高木氏の豪華な邸宅や文臣兄の野毛町官舎に行き、いろいろの厚遇を受けた。また居留地のあたりから海岸、桟橋にかけて散歩にも出かけた。時には郊外を散策したが、春早き山野に咲いていたタンポポの紅花や、シュンランの清楚な花は今も心に残っている。

しかしまた、急に親の膝下を離れ、大人びた青年達の間に放り込まれたので、自分ながらその時の生活を思い出すと穴にでも入りたい気がしてくる。14歳というのに喫煙の悪癖を覚え、煙草入を腰にさげていた。また芝居の味も知り、ひどい時には代り目代り目に劇場に友達と足を運び、銭湯に行ってもすぐに風呂場に飛び込まず、年上の友だちと一緒に2階にあがって一休みした。ある時には牛肉屋にも出入りした。私の環境はあまり好かったとはいえない。そのままで行けばあるいはませた、ひどく生意気な者ができあがったかもしれないのである。

明治7年(15歳)の1月、朝授業が始まって間もなく東北隅教室のストーブから火を発した。折悪しくその教室には授業がなかったので誰も室におらず、そして誰も知らぬ間に天井裏に燃えぬけ、往来の通行人によって燃え上がった火が始めて発見され大騒ぎとなった。各室には石油ランプと石油入のガラスビンが置いてあったので、火の廻りは頗る速く、また無風で小雨が降っていたため、煙が中庭や廊下にモウモウと停滞し、息苦しく廊下にはグズグズしていられなかった。」それに階段は南側と西側のみであって、出口は東側の玄関と小学校へ続く廊下のみであり、下の室は窓が頗る太い鉄格子なので、これを破ることは容易でない。生徒の大部分は僅かな手荷物を持ち、ほとんど身をもって煙が渦巻く玄関から避難した。私の居室は2階の西側すなわち野毛山に面した大きな室で4人おり、私を除いては皆20前後の青年であった。火事となるや一同室に帰り、窓の木製の格子を破壊し、窓の下の便所の屋根に下り、それより更に地上に飛び降りてどんどん避難してしまった。既に火の廻りが速く、煙は玄関は勿論小学校への入口にも満ち満ちて、階下の廊下は歩行困難となっていた。私は非常に困ってしまった。窓から下の屋根に降りてみたものの、小柄であった少年の私にはそこから下がいまだ相当の高さであり、かつ地上には窓から投げ出された本や机の引出しが雑然と打ち重なり、もしその上に飛び降りればケガをすること請け合いである。それで飛び降りることはできず、思案にくれたが、急に思いつき再び室に入り、夜具布団を全部窓から放り出してその上に飛び降りた。おかげで私はケガをしなかったばかりか、おそらく寄宿生中夜具布団を全部出し得たのは私一人であったかも知れない。

この室は野毛山から眼下にみおろせる所にあったので、沢山の見物人がこれを見ていた。そして子供(私)が一人便所の屋根の上でまごまごしている様を見て、「早くハシゴを持って行ってやれ」とわめきたてた人もいた由である。ところがそのうちに布団を投げ下ろしてその上に無事飛び降りたので一同やんやの歓声を挙げて安全を祝ってくれたという。私はその夕方野毛町の銭湯に入っている時、得意気になって声高にかく語る人の話を聞いたのである。

奇縁とでもいうものか、火事の際の同室の2人までがその後札幌で遭っている。一人は碇山晋君で、後札幌に来り、予科に英語を講じ生徒監となり、また更に後年、その有する語学の才もかわれて横浜居留地の加賀町署長となり、外人にも名署長の名声をはせた。またもう一人は川口宗晴君で、札幌農学校一年目の時、聴講生として入って来たが、一年余で退学の止むなきに至った。高島学校は火事後廃校することとなり、横浜在住の生徒はドクトル・ブラウンが教えていた修文館に転校することとなった。私もそこに転校した。この修文館は老松町上の元の十全病院の隣にあったように記憶する。


P26-31 4  東京英語学校

 明治7年3月東京外国語学校英語科の試験を受けて合格し、最下級なる英語学下等6級の丁組に編入された。学校は神田一ツ橋に在って、現在の学士会館前に当り、元の商科大学敷地内に位置していた。この外国語学校の英語学の部門はその年の12月に分離して東京英語学校となり。旧校舎の筋向いなる榊原邸に移った。その敷地は開成学校(後の東京大学)の敷地の隣接地である。なお、余談になるが、東京英語学校は明治10年に廃せられ、大学予備門に変った。

英語学校の教育方針は全部英語のいわゆる正則主義で、教師は英米人が主となり、下級には邦人が加わり、最下級は邦人のみで担当した。英語学校の学級は一級から六級にわかれ、一級から三級までは一組、四級は甲乙の二組、五級は甲乙丙の三組、六級は甲乙丙丁の四組から成っていた。最下級六級の丁組を振り出しに、各級担任教員監督指導のもとに、毎月もしくは2,3か月ごとに小試験が行われ、その成績の優良なものは抜擢進級せしむる制度であった。 私は先に記したように、入学当時は、六級の丁組にいたのであるが、同年5月には級のもの4,5名と共に丙組に進級、6月には乙組に、9月には甲組に、同月重ねて五級の丙組に、11月には五級の乙組に、翌8年の3月には五級の甲組に、7月には四級の乙組に、10月には四級の甲組に、更に翌9年の3月には三級に、9月には二級に、10年の3月には一級に進んだ。このようにほとんど試験のたびごとに幸いなる進級を続けた。

入学当時、同校に在学していた札幌に関係のある士、または知名の士を、明治7年3月発行の「東京外国語学校官員並生徒一覧」により、その若干を採録してみよう。  下等一級-伊藤鏗太郎(札幌農学校第二期生)、柳壮蔵(北大医学部柳教授の厳父)、真崎健

 吉(北大医学部真崎教授の厳父)

下等二級-橋口文蔵(札幌農学校長をした人)、飯島魁

下等三級-中島信之(札幌農学校第一期生)、藤田四郎(藤田九三郎氏の弟、元農商務次官)、加藤高明

下等四級-末松謙澄、野村龍太郎(工学博士)、内村鑑三

下等五級甲組-土方寧

下等六級甲組-田中館愛橘

下等六級乙組-石川千代松

下等六級丙組-広井勇(札幌農学校第二期生)

下等六級丁組-宮部金吾(札幌農学校第二期生)

この頃を考えると、教育の制度がちょうど一つの大きな過渡時代にあったように思う。生徒は多く東京で正則教授をしていた神田の共立学校からか、横浜の高嶋学校から入って来た。一級全科目を通じ一外人が算術、読み方、綴り方、地理、歴史等皆英語の教科書を使用してこれを担当していたが、明治9年頃には漢学が課程の中に加わった。また翻訳の組も出来た。私がやったのは、MurryのPhysical Geographyで、割合に早く2月位で卒業と認められた。この組の受持は教諭下条幸次郎氏であった。教師についての思い出は今になっては大分散漫になっているが、その2、3を記してみよう。6級の頃にポート(POAT)がいた。彼は歯医者志望の英人で、米国遊学の徒中を日本に立ち寄っていたものである。私の前歯二本が虫歯になっているのを見て、直してやるから来るようにと誘われたまま、彼を訪問した所、前歯の穴にゴムを埋めてくれた。一通りの治療器具が揃っていて、それがバカに美しく清潔に見えた。5級の甲組にいた時はマッカーサー(MACARTHUR)という酒飲みの英人がいた。商人あがりらしく、数学も加減乗徐くらいしか判らなかったらしい。彼は生徒をよくかわいがり、しばしば生徒に遊びに来ないかと誘いかけた。私は級友と共にそこに算術を教わりに行き、分数のことを聞いたら、「分数?そんなことは判らないさ」と平然と答えた。四級の甲組に進んだ時にはマイヤー(MEYER)というフランス人のふとった教師がおり、彼は私の試験点等評に "A good hard working boy"「宮部君は頗る出精なり」との評を与えてくれた。四級を終った時、彼を中心として撮った記念写真が今私の手許に残っている。その中には穂積八束(後年法学博士、東大教授)、近藤仙太郎(後年工学博士)、松田武一郎(後年工学博士)、伊藤悌蔵(後年控訴院判事)、市嶋謙吉(後年早稲田大学教授)、梅岩誠太郎(後年早稲田大学予科教授)、高木甚平、横井左久、内藤信一郎、鶴見次昌、曾我鼎三郎、山田義容に諸氏がいる。三級の時の教師のフェントン(FENTON)はイギリス人で昆虫学者だった。私が札幌に来た翌年石川千代松君を助手として札幌に蝶類の採集にやって来たことがある。二級の時の教師レーシー(LECEY)はアメリカ人である。彼は金星が太陽の前を通過した時の観測班に加わって来たまま、居残って教師となったので、数学が得意であり、また音楽にも趣味を持っていた。彼は私の点等標に "A model pupil, would make a fine teacher of Arithmetic"なる評をくれた。

一級の教師はスコット(Scott)という米国の教育家で、英作文を教えることが非常に巧みであった。この組に入ってから英作文の上達は飛躍的であったと思われ、それが非常に後年のためになった。スコットは後ハワイの中学校長になっていた。一級の時の同級生中には後年有名になった人も少なくなかった。その中でも抜群なのは穂積八束君や酒井佐保君であろう。穂積君は級中での秀才で何学科でもよくできたが、特に同君の英作文は卓越したものであった。同級生の奇才として根岸錬次郎君がいる。同君は長岡藩士であり、河井継之助や森源三氏の一族であって非常な論客であった。ある時スコット教師はアメリカ人は一般に発音(pronunciation)が良くないがケンタッキー人は正しい。自分はケンタッキー州の産であると言うや否や、根岸君は直ちに"Yes, your pronunciation is very clear" と大音で誉めたので、スコット教師は赤面し、級友一同どっと爆笑した。同君は永らく日本郵船会社のロンドン支店長をしていたが、今は隠退して88歳の高齢をもって東京にかくしゃくとしている。戦前ロンドンを非常に親しみ「おらが村」と呼んでいた。

この英語学校時代は慈愛溢れる母の温かき膝下で全く勉学に専念した。学校は一時の油断も許さぬ進級試験制度であったので、夜はうす暗いランプの下で11時すぎまで勉強し、時には深更に及んだ。このためにいささか視力を弱めた。勉学に急がしかったから交友も少なく、多くは御徒町方面から通う連中と往復を共にした位のものであるが、一級上の高田早苗君とは家の近かったため特に親交があり、同君とは竹馬の交を深くし、時には上野の山を散歩し、球投げに仲間の4人高田早苗、梅若誠太郎、伊藤悌蔵の3君と私で撮影した記念写真が残っている。

高田君は当時御徒町3丁目にあった母堂の令弟にあたる富田冬三氏の家に身を寄せていた。富田氏は後年農商務省の商工局長まで勤めた人で、旧幕時代から幕命を帯びて洋行をし、また維新になってからも2、3度西洋へ赴き、岩倉大使の欧米巡遊に際しては随伴したという経歴があって頗る時勢に通じていた。したがっていつも高田君に向かって、「何でもこれからは英語を学び、まず世界の大勢に通じなくてはならぬ」と教えていた。高田君と共に富田氏方に世話になっていた梅若誠太郎君は私と同級であった関係から親しく交わった。同君は非常にタバコが好きで中毒のためその頃から手が震えていた。のち文学士となり、宮城県書記官を勤め更に早稲田大学予科の教授となられた。なお球投げの仲間の一人伊藤悌蔵君は、私と同級であって学校の往復によく一緒になった。同君は法学部を卒業され後大審院の判事になった。






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最終更新日  2026.05.28 07:00:05


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