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2026.05.29
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カテゴリ: 坐禅
大智禅師偈頌講話 沢木興道

  鳳山山居(三) 
 名韁利鎖留不住 (名韁利鎖(みょうきりき)留むれども住(とど)まらず)
 晦跡煙霞水石中 (跡を煙霞水石の中に晦ます)
 折脚鐺児煎野菜 (折脚の鐺児野菜を煎る)
 住山自効古人風 (住山自ら古人の風に効(なら)う)


 仏教で大事なことは、この名利を投げ捨てることである。坊主になっても名誉乞食というのがある。これくらい醜いことはない。名誉職を欲しがる。これくらい情けないことはない。これくらい哀れなものはない。あるいはまた坊主もお布施で利を貪る。まあ紙に包んであるから、知れたものじゃ。わたしはそう思う。あの大会社の財閥達の、権利を売るとか、いや権利を取るとか、あれは闇取引きか知らんけれども、それは何百万よこせ、何千万円よこせ、とごそごそ取り合いをする。
 まあ坊主で一番金持ちといわれていた人が別荘を持っておったが、一年病気をしたら、別荘を売ってしまった。一番金持ちで、一番悪い者で、凄いことをやって、それだから子分もたくさんあったが、その子分が甲斐性なしばかりで、一年病気したら別荘を売った。まあ哀れなものと思うた。坊主の金持ちといってもしれたものじゃ。名誉といっても、本山の住職になったところがなんというかー。
 名誉といって、坊主の名誉ぐらい、どうせ先祖が乞食じゃ。その乞食の末孫、王位を捨てて裸で乞食した釈迦の末孫じゃ。それで名誉がって、「御前様―」といわしたり、紫の衣を着て、先の開いた扇子を持って、昔の貴族の真似をしたりしても、それでまたよかろうわけがない。だから誰が考えたって、この世捨人は、世を捨てたところがよい。社会を捨てたところに値打ちがある。
 わたしがよう小寺の和尚というと、腹を立てる人がある。大寺よりわたしは小寺が大好き、それより松茸小屋の方がなおいい。捨てたなら捨てた方がなおいい。なるだけない方がいい。ないような顔をして、二万円ばかり貯めておる奴がある。実に哀れなものだ。実はそれはつまらん話である。それでこれは昔にも例がある。
 昔、中国である和尚が山に住しておった。そこへ勅使がたった。それは日本でもある。京都妙心寺の開山、関山国師が岐阜の伊深の麓で牛追いをしておった。その遺跡が今の正眼寺である。そこへ勅使が立った。その和尚山住まいをして、なんやら、松茸小屋みたいなところに、ごもくを寄せて、そこで火を焚き、芋を焼いて食っておった。そこへ、お勅使が立ったところが、一向どうも取り合わん、べったり青洟(あおばな)を垂らしておる。
「和尚、洟をかんだらどうか」「この忙しいのに洟をかむどころか」といって芋を食っておった。
 勅使がそのことを天子様に申し上げると、ますますご帰依なされて、あの和尚芋が好きだからというので、遠くそのぐるりにいっぱい、天然に生えたように芋を植えて、芋に不自由せんようにして、鹿の天然飼いのような理屈に、和尚を天然飼いにして遠巻きに保護をなされたという話がある。これは近ごろにない、いい話である。
 で、これらが「名韁利鎖(みょうきりき)留むれども住(とど)まらず」名誉の絆でも、利益の鎖でもつながれない。それこそ金もいらん。命も要らん。名誉も要らん。
「跡を煙霞水石の中に晦ます」ここに人間の眼に当らない。この人間も人に褒められないところ、褒めようと思うとも、褒めるところにいないというのはむずかしい。わたしらぼんやりしておると人を感心させようとする。感心さしてはいかん。誰でも人は感心する。なんやら人が感心するから馬鹿らしい。誰ぞ悪口をいえばいいけれども、誰も悪口をいうてくれん。煙霞水石の中に晦ます。霞の奥に鎮座ましまして、人間の眼に当らん。
そうして見ると、あの桃水は偉いものじゃ。わたしらのいう乞食の六とか、手車王とか、こういうのが日本にたくさんあったに違いない。まあ桃水和尚でも誤って面山和尚が書いたから世に出てしまった。そうでないと、あれは知られずにしまった。跡を煙霞水石の中に晦ます。これは一体、地理的な煙霞水石の中でなく、褒めようと思っても褒める場所がない。それは人物が小さいから、褒めるところがある。もう一歩進んだら褒めるところがない。人間が褒めるというのは碌なものではない。人間が感心するというのは、碌なものではない。人間の感心するところもない。これがいわば山居である。山中の生活である。
「折脚の鐺児野菜を煎る」これは永嘉(ようか)大師の言葉の中にあるのを、ここに利用した。ここでやれ、鐘を撞かんならんとか、やれ、太鼓を叩かんならんとか、やれ、お経を読まんならんとか、やれ、坐禅の時間が来たとか、それは俗世界である。そうすれば、この山中の生活。それは人間もホントの無人島で生活して見ると面白い。
わたしは書生を五人つれて、無人島でキャンプ生活をした。わたしが飯炊き兼講師、それは風が違う。頭は剃らんならんことはない。延び放題。松の木に腰かけて「正法眼蔵」の提唱じゃ。なにもかも人間は体裁でやっておるが、一つ体裁を離れて山居になったらなんでもない。囚われておる。こういう格式は、何色の衣を着んならん、なにをぬかす。それは娑婆の話じゃ。ここには猿や鶴しかおらん。
折脚の鐺児野菜を煎る。あり合わせのものを煮る。それはなんぼ山居でも塩もいる。炭もいる。味噌もまたよう使う。それはわたしの友達が山に住まいしておったが、ときどき里へ味噌を法王、醬油を法王というて貰いに行かんならん。醤油がないというと、なんぼ山の中でもどうにもならん。それから銭を貰うて、待っていて買うて、茶飯に入れたり、芋を焼いて、醤油をかけたりして食わんならん。折脚の鐺児野菜を煎る。
「住山自ら古人の風に効(なら)う」これは『永嘉集』の言葉を引いて書いておる。住山自ら古人の風にならう。(大智禅師偈頌講話p.15-18)





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最終更新日  2026.05.29 01:00:05


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