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知多四国 五番札所 延命山 地蔵寺。 先回掲載した長草天神社の西に隣接する曹洞宗の寺院。県道249号線沿いに寺号標が立てられ、その先の山門に石段が続きます。江戸時代末期まで長草天神社は地蔵寺が管理していたこともあり、長草天神社境内から石段中ほどに繋がる参道があります。 長草天神社と延命山地蔵寺が鎮座するこの場所は、鎌倉時代の英比ノ庄の地頭 藤田民部の家人 藤次藤三左門がこの地に入り館(長草城)を築いたとされ、明応三年(1494)に勧請されたのが長草天神社。 地蔵寺は後の地頭 市村傳四郎が天正元年(1573)に建立した地蔵堂がはじまり。城址とはいいますが、遺構はなく、強いて言えばこの小高い丘陵くらいだろうか。切妻瓦葺の薬医門から袖壁が続き、長草天神の境内から眺める地蔵寺の伽藍はかつての館をイメージさせるものがある。薬医門から本堂を望む。 伽藍は正面の本堂と右の庫裏、本堂左の弘法堂が主なものになります。現在の本堂は平成十五年に建てかえられた入母屋瓦葺のもので、本尊の延命地蔵大菩薩は聖徳太子の作とされます。 地蔵寺も5年前に掲載しており、当時の姿と変わりはなく、その時の様子を過去記事にリンクを貼っておきます。下は知多四国ガイドブックからの引用です。『天正元年(1573)、地頭の市村伝四郎の勧進でこの地に地蔵堂が建てられたのが地蔵寺の起こりです。 ここ横須賀(現東海市)の長源寺から教岩玄珪和尚を迎え開創されました。慶長十九年(1614)には日山天朔和尚が伽藍を建立して開山した後、中興の祖とされる印宗定海和尚が延享四年(1747)に寺格を上げています。 なお隣接する天神社は、江戸時代末まで当寺が管理していました。本堂屋根の銅板葺きが昭和三十八年に完成。 同四十六年には庫裡が再建されました。この庫裡は、鉄筋コンクリートの平らな屋根の建物に仏教様式の大屋根をかぶせるという珍しい建築法が採られています。 平成十五年、新たに瓦葺きの本堂が落慶、白壁が美しく浄められた境内の庭に映えています。』本堂左の弘法堂と右の修行大師像の眺め。寄棟瓦葺の弘法堂は格子戸までの外陣が吹き抜けで、その先から内陣になっている。賓頭盧尊師から外陣の眺め。堂の左側に弘法大師が安置されています。 当日は格子戸が閉じられており、姿は拝められなかった。ろくどうの のうげをちかふみほとけの りやくながくさこのじぞうでら参拝を終え、境内西側の入口から北に向かい、大府市共和町に鎮座する八十八番札所 円通寺に向かいます。第十七回 歩いて巡拝 知多四国 五番札所 延命山 地蔵寺宗派 / 曹洞宗本尊 / 延命地蔵大菩薩開創 / 天正元年(1573)開山 / 日山天朔和尚開基 / 教岩玄珪和尚札所 / 知多四国霊場 五番札所、くるま六地蔵 一番札所、尾州大府霊場 十六番札所所在地 / 大府市長草町本郷40 長草天神社から地蔵寺 / 長草天神社から徒歩1分。参拝日 / 2026/06/22関連記事・第十七回 歩いて巡拝 知多四国 七社之社(富木島町)・第十七回 歩いて巡拝 知多四国 長草天神社過去記事・「延命山地蔵寺」知多四国五番札 大府市長草町
2026.07.29
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第十七回 歩いて巡拝 知多四国。 コースではスタートの太田川駅から大府市長草に鎮座する5番札所地蔵寺まではバスでの移動になりますが、私たちは七社之社を経由しながら徒歩で長草まで訪れました。七社之社から3km、45分ほどで目的地の5番札所地蔵寺に到着です。 今回は地蔵寺の東隣に鎮座する長草天神社を掲載します。地蔵寺と長草天神社は5年前にも訪れています。地蔵寺門前から長草町の丘陵地に鎮座する長草天神社の眺め。 社頭は右の車道側に鳥居を構えています。社頭から境内の眺め。 左側に手水舎があり、正面の石段を上ると境内が広がります。石段の両脇にそびえる大楠は、5年前に訪れた当時のまま、今も相変わらずみごとなものです。境内の様子も当時と変わっていません。 当社の由緒について、5年前は愛知県神社名鑑を見ることができず、社頭の由緒を頼りにしましたが、改めて神社名鑑を読むと前回は気付かなかった由緒も見えてきた。『十二等級 天神社 旧指定村社鎮座地 大府市長草町本郷四四番地 祭神 菅原朝臣道真、天照大御神、豊受大神、誉田別命、大山祇命由緒 社伝によれば地頭 藤次藤三左門の勧請により、明応三年(1494)配祀せり。各付士官市村傳兵衛尉勝行崇敬せられ、社殿改築費若干寄付せらる。 尾張志に「天神ノ社 荒神ノ社 八幡ノ社 神明ノ社二所 山神ノ社 田神ノ社 八社共に長草村にあり」とある。明治五年、村社に列格し、同四十二年字八幡西無格社八幡社を合祀する。 同年十月二十六日、指定社となる。神徳 進学・就職 例祭日 二月二十五日に近い日曜日社殿 本殿 流造、拝殿、社務所 特殊神事 どぶろく祭 当社創祝の明治三年より、毎年どぶろく酒を例祭当日前に供え、祭典終了後、参拝者に振舞う神事。現在神酒醸造は氏子に六組の小部落があって、その一組が輪番で酒元奉納組となり、毎年一月に「どぶろく酒」を仕込み、一ヶ月余も身を清め昼夜奉仕して醸造する。』二回目ということで、5年前の記事へのリンクを貼っておきます。こちらの神社はどぶろく祭りで知られ、境内左に醸造所を設け祭り用のどぶろくを醸造し、祭りの際に振る舞われます。 歴史のある祭りですが、寛文五年(1665)から三年間、神酒醸造を中断したところ、村内に悪病が流行し、多くの村人が亡くなったという。人々はその原因を神酒醸造を中止したことによる神罰と恐れ、寛文八年(1668)から醸造を再開したところ、以後は凶事や凶作もなく平穏な村になったと伝えられています。 以来、途絶えることなく神酒醸造は受け継がれている。醸造所右側に見えている境内社は津島社と五社宮。 あれから5年が経っているが、社殿や境内は当時のままの姿を留めていました。五年ぶりに訪れた境内は、当時と変わらぬ静けさに包まれていました。 それでは隣接する知多四国第五番札所 地蔵寺へ向かいます。第十七回 歩いて巡拝 知多四国 長草天神社創建 / 明応三年(1494)祭神 / 菅原朝臣道真、天照大御神、豊受大神、誉田別命、大山祇命境内社 / 津島神社、五社宮例祭 / 2月25日直前の日曜日氏子域 / 大府市長草町所在地 / 大府市長草町本郷44 七社之社から長草天神社 / 七社之社から東方のJR共和駅方向へ3km・徒歩45分。参拝日 / 2026/06/22関連記事・第十七回 歩いて巡拝 知多四国 七社之社(富木島町)過去記事・『長草天神社』大府市長草町
2026.07.28
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甲府盆地東部の笛吹川水系の金川右岸に葡萄や桃畑が広がる笛吹市一宮町。 視界を遮るもののない雄大な景観の中に鎮座する甲斐國一宮 淺間神社。山梨県庁からだと国道20号線を30分ほど東進した「一宮淺間神社交差点」までくると写真の大鳥居が現れます。鳥居の脇に「甲斐国第一宮 淺間神社」の社号標が建っており、鳥居の先に見える杜が淺間神社の杜になります。鳥居から北上し、京戸川に架かる赤い桜橋を渡った左側に淺間神社の境外末社天神社が鎮座します。 京戸川右岸堤に鎮座する天神社全景。 天神と言えば梅がつきものですが、社頭の二本の桜が境内に大きな影を落としています。黒光りする撫で牛は黒御影石製のもの。一本の梅の樹の先に祀られている天神社本殿と右にある大きな岩は蚕神。 今でこそ葡萄や果実の一大産地ですが、ひと昔前は養蚕も盛んな地域だったのだろう。左を流れる京戸川を遡っていくと、細い流れの山宮川が合流します。 その源に淺間神社はじまりの地、山宮神社(本宮)になります。この辺りで見かけたマンホールは桃がデザインされています。 山梨県・笛吹市は桃の生産量では日本一を誇る地域で、春ともなれば山々を背景に桃の花が咲き、桃源郷のような景色も見られる。南を向いて構える二ノ鳥居と随神門、右に「国幣中社淺間神社」の社号標がある。随神門は寛政元年(1789)に建立された切妻銅板葺の八脚門。随神門からニノ鳥居、大鳥居が建つ参道の眺め。 ニノ鳥居から左に進んだ境内に、淺間神社始まりの地とされる、神山に鎮座する元宮の山宮神社遥拝所があります。 境内の東外れに鎮座する山宮神社遥拝所。 垂仁天皇八年(BC22)、淺間神社から東南へ2kmほど、山宮川水源の神山の麓に、木花開耶姫命、大山祇神、瓊々杵命を祀る元宮を起源とする。後の富士山貞観大噴火では当地も大きな被害を受け、噴火翌年の貞観七年(865)に富士山の噴火鎮護の目的から当地に里宮を建立し、元宮より祭神の木花開耶姫命を遷座したことが淺間神社のはじまり。 遥拝所は神山に祀られている大山祇神と天孫瓊々杵命の二柱を遥拝するもの。淺間神社参拝後、山宮川を遡って山宮神社を探してみたが、容易に参拝できる場所ではなさそうで、入口を見つけられなかった。神山を背にして建つ遥拝所。 この左側には陰陽石が安置されています。当社周辺は「葡萄畑が織りなす風景」として日本遺産に指定されています。 葡萄に留まらず、今頃は桃がたわわに実る時期を迎えているだろう。下は栞に掲載されていた境内配置図。 鳥居や随神門、神楽殿の建つ方位は、富士山を仰ぐ南を向いて建てられているのに対し、社殿は神山のある東を向いて配置されているのが興味深い。随神門から境内の眺め。 門の左右の間には随神が安置されている。左右の間に随神を安置する随神門から社殿の眺め。 訪れた時は、茅の輪が設けられ、境内に入るためには作法があります。銘は見当たらず、文化財一覧に載っておらず、制作年代は定かではない。境内右側の手水舎、女神の井戸と呼ばれ、境内の井戸が枯れたため、新たに掘削された井戸で、手水鉢には享保十九年(1735)の銘が刻まれていました。 その左には大黒天像が安置されています。参道は左に向きを変え、東向きに入母屋銅葺屋根の拝殿・幣殿・本殿が建てられている。拝殿は平側に唐破風向拝を備え、寛文十二年(1672)に造営されたもの、市の有形文化財に指定されている。上は拝殿を守護する狛犬。下は拝殿から幣殿方向の眺め。 拝殿内には元禄七年(1694)に寄進された参拾六歌仙の額が掲げられています。淺間神社は武田信玄から篤い庇護を受け、宝物の中には信玄から奉納された国次銘の太刀(県指定文化財)を所蔵する。神楽殿。 拝殿右に建てられており、随神門の正面に南を向いて建てられている。四方吹き抜けの入母屋銅葺屋根の建物で、周囲は舞台造りのように高く上げられた位置に縁側がある。 舞台中心の下側は吹き抜けではなく部屋のようになっており、農村舞台の回り舞台のような仕掛けでもあるのだろうか。 神楽殿の右の裏参道口に、両部鳥居が建っており、かつての一ノ鳥居を移設したものという。神楽殿から左に進むと境内社の七社大神や護国社など祀られています。神輿庫の左脇の七社大神。 現在の社殿は平成十五年に改修されたもので、雨降大神、道祖神、稲荷大神、金毘羅大神、六所大神、加具土大神、天満宮が祀られている。護国社。この先の参道は本殿を回り込むように続き、十二支石像や冨士石、境内社の稲荷社に続く。境内社の稲荷社、左の丸い石は太陽神と呼ばれるもの。稲荷社本殿。 もともとは甲斐市の工場鎮守社だったものがこちらに移築されたもの。本殿左側から本殿の眺め。 梅の樹が遮って本殿の姿は良く分からなかった。かつては天然記念物の「夫婦梅」と呼ばれた梅の老木があったようですが、現在はその子孫に受け継がれ、小授け祈願に訪れた参拝者にお下がりとして夫婦梅の実を授与しています。上は「夫婦梅」の左に鎮座する神明社と真貞社(下)。 真貞社は貞観六年の富士山噴火の時の八代郡擬大領 伴直真貞を祭神に祀る境内社。幸いにして、甲斐国と駿河国の淺間神社が富士の鎮護を祈り続け、富士は長く静穏を保っています。 その静穏が当たり前ではないことを改めて感じます。 甲斐國一宮 淺間神社創建 / 貞観七年(865)祭神 / 木花開耶姫命境内社 / 七社大神、護国社、稲荷社、神明社、真貞社境外社 / 天神社、山宮神社祭礼 / ---所在地 / 山梨県笛吹市一宮町一ノ宮1684参拝日 / 2026/06/10関連記事・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day1 「武田神社・甲斐善光寺・淺間神社」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社(1)」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社(2)奥宮登拝・ほったらかし温泉」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day3 「甲州街道台ケ原宿の水信玄餅・山梨銘醸」・ほったらかし温泉に新たに勧請された『全国オートバイ神社第45号』・甲府市徳行「式内 笠屋神社」
2026.07.27
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甲府昭和ICから北に1.6kmほどの甲府市徳行に鎮座する「式内 笠屋神社」、今回はこの式内 笠屋神社を訪ねます 最初に、神社へは県道5号線から、細い生活道路を西に入ったところに鳥居を構えており、参拝者用駐車場はないため、歩いて向かうことをお勧めします上は明治期の地図と現在の地図を比較したものです。 甲府市街地から西に約2.5kmほど、甲州往還道の南の徳行地区に鎮座します。社地は西隣の徳行公園と隣接しています。県道から25mほど西に進んだ右側に「式内 笠屋神社」の社号標が建っています。その左に石造りの明神鳥居が建てられ、その先に境内が広がっています。 笠木にはかなり大きな石が幾つも乗せられている。誰からともなく鳥居の上に石を乗せると、幸せになるとか、願いが叶うとか言われ、子供の頃に悪ガキと競い合って石を投げて遊んだ記憶がある。 うちの息子たちの時代には身近にあった神社も姿を消し、彼らからそうした言葉はでなかった気がする。鳥居の額には「笠屋神社」、額束の裏側に元号が刻まれているが、写真では読み取れなかったが、かなり古そうな感じがします。笠屋神社狛犬。台座の銘は読み取れず寄進年は不明ですが、垂れ耳で彫りの深い額や尾の形に特徴があります。境内右の石の社群と地蔵。 ここへ向かう途中、こうした石の社を見かけました、周辺の開発に伴いここに遷されてきたものだろうか、いずれも社名や詳細は不明。入母屋銅葺屋根の拝殿全景。傍らの笠屋神社由緒。『鎮座地 甲府市徳行5-1-1(巨摩郡徳行村) 祭神 大己貴命(医薬・国造り・醸造)、事代主命(商売繁盛)例祭日 十月十七日 由緒・沿革勧請鎮座は、雄略天皇四年(460)庚子十一月(甲斐国社寺記)。 笠屋神社 【延喜御式風土記】笠屋神社、【甲斐国志】の笠懸明神である。黒印神領高一石八斗、反別四反余り、社地四百八坪を有す。(現在八百六十坪) ・明治維新で上知、八年一月村社になる。・度々の河川の氾濫による旧跡の喪失。 ・昭和二十年七月七日戦災による社殿の焼失。・昭和二十六年氏子により社殿・境内を整備、神社健之。 ・平成九年氏子の寄付により神社を新築。』山梨県神社庁。『甲斐国社記寺記に勧請鎮座、雄略天皇四年庚子十一月とあり、又延喜御式風土記所載笠屋神社と記されている。 甲斐国志に云ふ笠懸明神である。黒印神領高一石八斗反別四反余、社地四百八坪を有していたが、明治維新で上知し同八年一月村社に列せられている。 度々の河川の氾濫による旧跡の喪失、戦災による社殿の焼失と幾多の苦難を越え、社殿境内を整備し今日に至る。』神社覈録 下(1971)からの抜粋。 『式内笠屋神社については、等刀村の諏訪明神と徳行村の笠掛明神の二社が事代主命を祀る点で共通し候補として挙げられるが、決め手となる資料がなく、旧跡も失われており、どれが式内社に当たるか確定には至っていない。』また、「式内社調査報告」でも「度重なる河川の氾濫により旧跡は現存せず、空襲による社殿の焼失などから笠屋神社を論社から外した」旨の記述もあり、現在の笠屋神社は徳行村笠掛明神に比定されるものの、式内笠屋神社の論社としては確定していないようです。祭神は大己貴命、事代主命。由緒には「昭和二十六年整備」とありますが、その後も改修されているのか綺麗な外観を維持しています。徳行公園から望む社殿全景。 拝殿・幣殿・鞘殿がひとつに連なっています。笠屋神社は式内笠屋神社との比定は未確定ながら、度重なる河川の氾濫や戦災を乗り越え、氏子によって守り継がれてきた古社です。甲府市徳行「式内 笠屋神社」創建 / 雄略天皇四年(460)祭神 / 大己貴命、事代主命境内社 / ・・・例祭日 / 10月17日所在地 / 山梨県甲府市徳行5-1-1参拝日 / 2026/06/11関連記事・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day1 「武田神社・甲斐善光寺・淺間神社」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社奥宮登拝・ほったらかし温泉」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day3 「甲州街道台ケ原宿の水信玄餅・山梨銘醸」・ほったらかし温泉に新たに勧請された『全国オートバイ神社第45号』
2026.07.24
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名鉄主催の歩いて巡拝 知多四国、全17回で知多四国の札所を巡るものです。 今回で第十七回となり、最後の知多四国を巡ってきました。長かったゴールも今回で終わりを迎えます。上が今回のルートです。 スタートは名鉄常滑線太田川駅でルートはここからバスで長草バス停に向かいます。私たちはゴールをJR大高駅へ変更し、太田川駅前から長草方向を目指し、歩いて5番札所地蔵寺➡88番札所円通寺➡87番札所長寿寺➡ゴールのJR大高駅に向かう、10.6km・約2時間半を歩き、三つの札所を巡るルートとしました。 相変わらず、決められたルートからコースアウトばかりしている。今回取り上げる七社之社は、太田川駅から東に約3kmほどの県道243号線の長田交差点から北に向かった先の富木島町貴船の微高地に鎮座する神社。社地南側に「村社 七社之社」の社号標と鳥居を構え、緩やかな石段を上った先に境内が広がっています。境内の全景。 左に手水舎かあり、ニノ鳥居の先に社殿、右側に富田稲荷社の赤い鳥居を構えています。ニノ鳥居から社殿の眺め。 一段高く積まれた社地に社殿が建てられています。拝殿前を守護する子持ち・毬持ちの狛犬は昭和13年に寄進されたもの。狛犬の右側の手水舎、手水鉢には文政11年(1828)の銘が刻まれています。切妻瓦葺の木造平入拝殿は幣殿とつながっており、大棟の鬼瓦や軒先の飾り瓦には魔除けの桃が載せられています。境内 七社之社御由緒。『鎮座地 東海市富木島町貴船11番地御祭神 天照皇大御神・素盞嗚尊・日本武尊・宮簀媛命・大山衹命・建稲種命・軻遇突知命 末社神明社・金毘羅社・津島社・富田稲荷社・八幡社・山之神社。境外社貴船神社・社口社・御嶽神社・大峯山・秋葉神社。由緒古記録の中より桃之宮を氏神とされた。寛永二年(1625)奉造立七社大明神宮一宇。明治初年現在の七社之社に改称。昭和二年本殿を神明造に改築。昭和三十八年拝殿を新築、夫々魔除けの為鬼瓦に桃の紋が入っている。昭和五十八年社務所を新築。昭和六十三年手水舎を新築。現在に至る。棟札寛永二年(1625) 奉造立七社大明神宮一宇享保九年(1724) 奉造七社大明神宝暦九年(1759) 奉遷宮七社大明神文化九年(1812) 奉遷宮七社大明神』愛知県神社名鑑 十ニ等級 七社之社 旧村社『鎮座地 東海市富木島町貴船11番地祭神 天照大御神・素戔嗚尊・日本武尊・宮簀媛命・大山衹命・建稲種命・軻遇突知命 由緒創建は明らかでない。寛永二年本殿修復の棟札がある。尾張志に「七社明神ノ社 神明ノ社、山神ノ社 貴船ノ社 八幡ノ社 しゃぐじの社七社ともに富田村にあり」とある。明治六年村社に列せらる。昭和十二年、当村無格社八幡社、雨宮社、貴船社を合祀する。例祭日 十月第一日曜日社殿 本殿 神明造、幣殿、拝殿、社務所』拝殿左側から幣殿本殿の眺め、本殿は神明造で5本の鰹木と外削ぎの千木が付くもの。 左側には境内社三社が祀られています。左から津島社、金毘羅社、神明社が整然と並ぶ。境内右側の富田稲荷社社頭、右手の富田稲荷社の石標は平成5年のものです。参道の先には三社祀られています。左から山之神社、八幡社、富田稲荷社が祀られています。 尾張志に記された境内社は見られるが、富田稲荷社について調べてみたが、詳細はわからなかった。富田稲荷社から見る七社之社本殿、高い塀で囲われており、本殿域に他の社が祀られているかはわからなかった。 創建時期こそ明らかではないが、桃之宮として地域の人々に守り継がれてきた歴史は、境内の佇まいからも十分に伝わってくる。第十七回 歩いて巡拝 知多四国 七社之社(富木島町)創建 / 不詳祭神 / 天照大御神・素戔嗚尊・日本武尊・宮簀媛命・大山衹命・建稲種命・軻遇突知命 境内社 / 神明社・金毘羅社・津島社・富田稲荷社・八幡社・山之神社境外社 / 貴船神社・社口社・御嶽神社・大峯山・秋葉神社例祭 / 10月第1日曜日氏子域 / 富木島町所在地 / 東海市富木島町貴船11太田川駅から七社之社 / 名鉄常滑線太田川駅から東へ2.7km・約40分。参拝日 / 2026/06/22関連記事
2026.07.23
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ほったらかし温泉の所在地は山梨県山梨市矢坪1669-18。 山梨市街地の北側の山腹に位置し、施設からは甲府盆地が広く見渡せる。晴天時は正面に富士山が見え、露天風呂やテラスからの絶景の眺望が望める。 温泉までは山梨市駅から車で約10分。中央自動車道の勝沼IC、一宮御坂ICからは約25分ほどで、道中は果樹園地帯を抜けて山側へ入る。 駐車場は未舗装ですが広く、バイクの利用者も多い。写真はほったらかし温泉入口の眺め。 施設は「あっちの湯」「こっちの湯」の2つの露天風呂があり、どちらも眺望が良い。日の出前から営業しているため、朝の時間帯は近くのキャンプ場利用者や一般客の利用者が多い。 売店や軽食のスペースがあり、テラスからも甲府盆地を見下ろせる。オートバイ神社は温泉駐車場の一角のバイク専用駐車場に鳥居と祠が整備されてます。 たまたま、車を止めた後方にこの神社が祀られていました。鳥居は木造の両部鳥居で、その先の覆屋の下に社が祀られるだけの簡素な造り。 温泉利用者の動線から外れた静かな場所に祀られ、交通安全祈願の絵馬やステッカーの案内がある。額には「交通安全 オートバイ神社」と記されており、外観は非常に新しい印象を持った。 それもそのはず、当神社は2026年5月26日に創建されたものです。傍らの由緒。 『全国オートバイ神社認定第45号ほったらかし温泉オートバイ神社 正ノ木稲荷 稲積神社 御分霊御祭神は伏見稲荷を本宗と仰ぎ、商売繁盛の御神徳を持つとともに、伊勢神宮外宮と同一神と言われ、衣 食住をはじめとする生活の守護神としての御神徳を持つ。 相殿として祀られるのは稲積神社、境内社に祀られる猿田彦神社の神である。御祭神 猿田彦大神 御祭徳 みちひらき(物事の始まりを良い方向へ導く)、方位除け・方災除け、交通安全・旅行安全例祭日 五月二十六日』 今年5月の創建ということで、まだ例祭日も迎えていない。 オートバイ神社として取り上げたのは今回初めてで、調べてみると全国に67箇所あり、その多くは道の駅や観光地に鎮座するようで、中には訪れたことのある道の駅の名もあります。 全国オートバイ神社、これから地方に出かけた際の道の駅もそうした目線で見ていこう。 バイクに限らず、旅の安全を導いてもらえるように祈願しようと思う。全国オートバイ神社第45号創建 / 2026年5月26日祭神 / 猿田彦大神参拝日 / 2026/06/11所在地 / 山梨県山梨市矢坪1669-18関連記事・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day1 「武田神社・甲斐善光寺・淺間神社」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社(1)」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社(2)奥宮登拝・ほったらかし温泉」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day3 「甲州街道台ケ原宿の水信玄餅・山梨銘醸」
2026.07.22
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前回掲載した七十九番札所 白泉山 妙楽寺、その向かいに鳥居を構えるのが古見神明社。 小高い丘陵に向け参道が続いています。今回の第十六回歩いて巡拝知多四国、私の徘徊も古見神明社を参拝し終わりを迎えます。妙楽寺の入口正面に県道256号線を挟んで社頭を構える古見神明社。社頭から参道の眺め。 左に社号標があり、鳥居の先から杜の中に長い石段が続きます。最初に愛知神社名鑑による当社の由緒を下に掲載します。『十等級 神明社 旧指定村社 鎮座地 知多市新地字権一番地祭神 国常立尊 由緒 創建は明徳三年(1390)という。 本社は昔古見村字森下に鎮座されていたが、明暦三年酉年(1657)現在地に遷座された。尾張誌に「神明ノ社 冨士ノ社 シャグシノ社 山神ノ社四社共に古見村にあり」とある。 「寛永十二年(1636)三月奉造古見惣中」の棟札がある。明治五年村社に列格、同四十年十月二十六日、指定社となる。 例祭日 十月第一日曜日社殿 本殿 神明造、神門、拝殿、社務所、祭具庫、宝蔵』知多郡史、尾張志に少し目を通したが、愛知神社名鑑の記載以上のものは見当たらなかった。 ひとつ尾張名所図会に「古見の一本松」の記述に目が止まる。それによれば「古見の山上に一本松があり、海を行き交う船の山当てに使われた」とあった。 山当てと言われても、現在の古見からはピンとこないが、昭和以前のこのあたりはこの丘陵の西側に海岸が迫っていたので不思議ではない。海岸沿いの丘陵地に聳える一本松は絶好の目標物になったであろう。境内の狛犬は大正七年寄進のもの、後方には神馬像も安置されています。境内に続く正面の石段、これを上ると参道は右に向きを変え再び石段が現れます。最初の石段を上ると左に手水舎があり、左に進むと徳松稲荷社の参道の中ほどに通じています。最後の石段とニノ鳥居。 この鳥居は昭和三年に寄進された神明鳥居。境内全景。 正面の拝殿は切妻瓦葺の妻入りで、拝殿と幣殿を兼ねているようで、他に境内右に社務所がある。境内の由緒書き。 神社名鑑では明徳三年(1390)とあったが、ここには明徳二年(1389)とある、当記事では由緒書きを尊重します。祭神は国常立尊で、末社の祭神は、菊理姫神、伊奘冉尊、大日霊神、日本武尊とあるが社名は不詳。社殿は明治二十一年に改修を受けたようです。 拝殿左から本殿域の眺め。 本殿域は玉垣で囲われ、狛犬が守護する神門に続く。その先に神明造の本殿と左右に神明造の摂社の姿がある。境内右の社務所は渡廊で拝殿と結ばれている。 先に訪れた妙楽寺は明徳元年(1390)の開創とされ、神明社はほぼ同時期に佐布里池の西側に創建された古社であるが、佐布里からこの地に遷座した理由は定かではない。古見の丘陵地の深い杜の頂に鎮座する古見の氏神です。古見神明社の社頭に隣接して祀られている徳松稲荷社の社頭。 こちらが境内社にあたるものかは定かではない。奉納鳥居をくぐり、山の斜面に向け参道が伸びる。社殿全景。 覆屋の下の本殿、狛狐の前まで近づいてみたかったが、頭の中で蛇が横切るイメージがあり近寄れず、ここで参拝させて頂く。 由緒や祭神など詳細は良く分からなかったが、地域の事業者から崇敬されているようです。神明社の手水舎から稲荷社参道口の眺め。 枯れ葉が地表を覆い、滑りやすく、色々と想像が湧き立つ参道でした。以上で古見神明社の参拝を終え、県道に出て徒歩2~3分ほど先にある古見駅に向かいます。社頭の右側の古見児童遊園地にも鳥居があり、先に進んでみましたが、これは脇参道のようです。名鉄常滑線古見駅から古見神明社の杜の眺め。 長かった歩いて巡拝知多四国第十六巡目、次の第十七回を回れば自分としては初のコンプリートになる。古見神明社創建 / 明徳三年(1390)祭神 / 国常立尊、末社祭神 / 菊理姫神、伊奘冉尊、大日霊神、日本武尊 境内社 / 徳松稲荷社氏子域 / 新知、新知西町、新知東町例祭 / 10月第1日曜日所在地 / 知多市新知椿1妙楽寺から神明社 / 妙楽寺の向かい。参拝日 / 2026/05/16関連記事・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 白山神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 日長神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 山之神(日長堀田)・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 多聞天(知多市岡田)・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 七十二番札所 白華山 慈雲寺・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 秋葉神社(新知東町)・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 七十八番札所 寶泉山 福生寺・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 七十九番札所 白泉山 妙楽寺
2026.07.19
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第十六回 歩いて巡拝 知多四国も次の七十九番札所 白泉山 妙楽寺で終わりとなります。 福生寺から妙楽寺へは、国道155号線を北上、浜脇信号交差点で左折、県道156号線を直進した右側になり、移動距離は約1.2km・約15分ほどになります。 妙楽寺から西に2~3分も歩けば、帰りの最寄り駅の古見駅に至ります。県道から妙楽寺全景。 伽藍は左の本堂と右に向かって弘法堂、開山堂、庫裏が主なもの。以前は寺号標のある辺りに山門があったようですが、今はその姿はなく、県道から伽藍が見通せます。 本日最後の札所という事と、古見駅着の電車の時間調整か、出店に立ち寄る参拝客も多く見られた。境内に入った正面が庫裏で、左に見えているのが開山堂で、中央の二体の像は右が修行大師、左が亮山阿闍梨。妙楽寺の由緒は以下のようなもの。『明徳元年(1390)に創建された古刹で、本尊は大日如来。 後花園天皇の勅願所として開創され、七堂伽藍を備え、広大な寺領を有したと伝えられています。戦国時代の天正八年(1578)、兵火にかかり、仏師春日の作である本尊の大日如来ほか、薬師如来、地蔵菩薩、大黒天、白山権現は守られたものの、堂宇をことごとく焼失。 さらに豊臣秀吉の時には、寺領が没収され、末寺も転散、しかし、江戸時代に入って寛永十二年(1635)、現在地に再興された。当山の十三世住職亮山阿闍梨は、知多四国霊場の開創を発願し成し遂げた。 境内には、亮山阿闍梨をまつる開山堂が建てられ、その遺徳もたたえている。境内には400年以上前に地蔵池から現れた「いぼ地蔵」が安置されており、いぼやできもの、がん封じにも御利益がある。』本堂は木造寄棟造で、右側の方形造りの建物が弘法堂になります。 「いぼ地蔵」は本堂に続く参道右側に安置されています。白泉山の山号額を掲げる本堂、右側に賓頭盧尊者が安置されています。亮山阿闍梨像と弘法堂の眺め。 知多四国を開創した亮山阿闍梨の晩年は、直前に訪れた寶泉山 福生寺に移り入寂しました。今回の梵字カードは右手の開山堂前で配布されており、堂前は普段見られないほど参拝者が絶えず、開山堂の写真は撮っていません。弘法堂向拝と光明殿の額。本堂左の古い石塔と鎮守社白山大権現、秋葉大権現。参拝と納経印を頂き県道に戻ると、向かいは緑濃い杜を持った古見神明社の社頭。 急いで帰る事もない、ここを参拝し、木陰で涼んでから駅に向かおう。磯辺ふく松風の音も妙楽寺 波はしつやか光るたのしさ。第16回梵字カード、あと一枚揃えば歩いて巡拝 知多四国もコンプリートだ。第十六回 歩いて巡拝 知多四国 七十九番札所 白泉山 妙楽寺宗派 / 真言宗豊山派本尊 / 大日如来開基 / 不詳 開山 / 賢秀上人創建 / 明徳元年(1390)札所 / 知多四国霊場開山所、第七十九番札所、知多百観音八十六番札所境内社 / ---所在地 / 知多市新地下森29 福生寺から妙楽寺 / 福生寺から国道155号線を北上、浜脇信号交差点で左折、県道156号線を直進、約1.2km・約15分。参拝日 / 2026/05/16関連記事・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 白山神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 日長神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 山之神(日長堀田)・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 多聞天(知多市岡田)・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 七十二番札所 白華山 慈雲寺・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 秋葉神社(新知東町)・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 七十八番札所 寶泉山 福生寺
2026.07.18
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甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day3。8:25。ホテルシーラックパル甲府を後にして諏訪湖方面に向かい、甲州街道・台ヶ原宿を目指します。その前に、近くのコストコ南アルプス店に寄り道してガソリンを満タンにしてから向かいます。9:10。コストコガスステーションで満タンにしたのち、国道52号線、県道42号線、韮崎から国道20号線で白州方向へ約一時間ほど先の甲州街道・台ヶ原地区の市営 台ケ原宿 駐車場へ。10:20。市営 台ケ原宿 駐車場に到着。 駐車場から南に向かうと集落内を東西に延びる道にでます、それが日本橋から下諏訪を結ぶ旧甲州街道の台ケ原宿になります。江戸時代は甲州街道の宿場として栄えた台ヶ原宿、今でも少ないながら街道の趣を感じさせる建物が点在しています。 写真は街道から諏訪方向の眺め。目的は街道を歩くことではなく、和菓子屋と酒蔵を訪れる事にあります。 最初の目的地は水信玄餅や生信玄餅で知られる金精軒、こちらで水信玄餅を食べるのが目的。街道沿いの旅籠のような趣きを感じさせる外観の金精軒。この建物は台ヶ原宿の旅籠のひとつで、明治35年に旅籠から菓子店となり、現在も受け継がれています。こちらの名物は信玄餅、生信玄餅で、この時期には水信玄餅が販売されます。 この水信玄餅目当てに訪れました。店内は黒光りした梁や柱、使いこまれた木型などが飾られた昔の作りそのままで、落ち着いた雰囲気が漂う。水信玄餅。 事前に知らされていなかったが、どうやら甲斐駒ヶ岳の水の恵みを食べるものらしい。店の前のテーブルでしばし待つと、水晶玉のような透き通ってプルンゝの水信玄餅が出てきた。 空の色と雲が映り込んで、キラキラと輝く水信玄餅、かみさんが必ず寄ると言っていたのも分かる。食べ方は、添付のきな粉と黒蜜を絡めながら食べるのが作法の様です。 それを知らず、上からかけたものだから透明感が一瞬にして隠れてしまった。この水信玄餅は、水に固まるギリギリの片栗粉を混ぜて作られるものらしい。 もちもちの信玄餅とは別の食感で、口の中で水に戻る感覚。今日のように暑いときに食べるには絶好かもしれない。 家用に生信玄餅を買い求め金精軒を後にする。台ヶ原金精軒木曜日定休所在地 / 山梨県北杜市白州町台ヶ原2211金精軒の向かいにある酒蔵七賢の創業者北原家の住宅。 主屋と文庫倉・文化倉の他四棟が県の有形文化財に指定されていて、寛永3年に大中屋の屋号で酒造りをはじめ、幕末には諏訪高島藩、伊那高遠藩の御用商人を務め、脇本陣を兼ねる豪商としてしられた。表門。 明治13年、明治天皇巡幸の際に北原家母屋の奥座敷がご宿泊所として使われた。甲州街道台ヶ原宿で寛延3年(1750)の創業以来酒を醸す山梨銘醸。 建物全体が山梨県指定有形文化財に指定されています。七賢の名の由来は、天保6年(1835)に初代蔵元の母屋竣工祝に、高遠城主より贈られた「竹林の七賢人」の欄間に由来するという。 その欄間は今も母屋に残されています。暖簾をくぐった店内の眺め。 レールが敷かれた土間の左右は、直売所や左側に神棚を祀った事務所や座敷が広がる。店内奥に甲斐駒の伏流水が注がれ、試飲もできる。 周辺には豊かな水を求め、大手の醸造所や天然水の製造工場などが点在します。王道の大吟醸をはじめ多様な日本酒の他、海外向けを意識したスパークリングなど幅広いラインナップを揃えており、にごり酒をブレンドし瓶内で二次発酵を促したスパークリング日本酒を推しているようだ。上の写真は古酒貯蔵庫と右が敷地内にある醸造用水源泉。 醸造施設はこの後方、市営 台ケ原宿 駐車場の向かいに門を構えています。店内には店頭販売所もあり、利き酒も可能。下の写真は七賢スパークリング・山ノ霞。 うすにごりのスパークリング日本酒。瓶内で二次発酵が進み、開けた瞬間きめ細かい泡が弾け、スパークリングならではの爽やかな舌触りで刺身やチーズにもあう。 この他に活性純米花水香を買っていくことにした。山梨銘醸(株) 直売店所在地 / 山梨県北杜市白州町台ヶ原228310:40、台ヶ原宿を後に諏訪に向け国道を走りだす。11:20、道の駅はくしゅうに立ち寄る。 施設内に澄んだ小川が流れ、水辺にはクレソンが自生する。橋の袂に天然水の水汲み場があり、観光客や地元の人が水を汲みに来る姿が絶えない。 橋を渡った先の施設には地元野菜や銘菓を販売しており、立ち寄った目的は澤田屋の黒玉を手に入れること。探し求めるものはあったが、4個入りの商品は売り切れで大容量のものしかなく、諦めたかみさんは普段の買い物モードになる。道の駅はくしゅう所在地 / 山梨県北杜市白州町白須1308白須若宮八幡神社。 かみさんが買物している間、道の駅の北側にある神社を見かけ訪れてきた。元弘年間(1331〜1334)に創建された神社で祭神は仁徳天皇、神功天皇、応神天皇をお祀りする神社。 武田氏から代々崇敬され、永禄年間(1558〜1570)にこの地に遷された。社地左側にも鳥居があったが、詳細はわからないので調べてみる必要がありそう。白須若宮八幡神社。山梨県北杜市白州町白須159811:40、買い物を済ませ再び国道20号線で諏訪ICから中央道に乗る。12:50、諏訪湖 サービスエリアで昼食。 諦めていた馬刺しがあり、迷わずオーダー。上はかみさんオーダーの信州サーモン定食。 諏訪湖を眺めながら堪能する。このSAでかみさんが探していた澤田屋の黒玉の4個入りを見付け、かみさんの目的も満たされた。 さて諏訪湖を眺めながらSAの温泉に浸かろうかなと思ったが、利用者が少なく昨年閉館したらしい。山やキャンプの帰りに良く利用したが、なんてこった、閉館とは知らなかった。当てが外れやむなく帰途に就く。 高速は相変わらず工事による車線・速度規制。渋滞が見えてくると早目に減速、後続の車が速度を緩めるか確かめながらの走行、追突だけは勘弁してほしい。 速度規制区間の意識はなく一向に右足を緩めない、速度取り締まりがあってもよいと感じる。 この日は瑞浪IC〜恵那ICの上り区間でトラックが炎上、通りかかった時は閉鎖となっており、火災現場付近の下りは工事渋滞、しかも強引に割り込みをして、追い越し車線上で接触事故を起こしたばかりで、二車線ともほとんど動く気配がなかった。 インターの流入車線から事故渋滞は迂回できたが、車間を詰め過ぎた車は左にも出られない状況となっていた。車両火災はともかく、渋滞の中、二人のドライバーの意地の張り合いは、周囲を巻き込むだけで迷惑だ。16:55、守山スマートインターから下り、コストコ守山店で買い物を済ませ、三日間の旅を終えることができた。 三峯での熊への不安は確かに恐怖だったが、渋滞の中で見た身勝手な行為の方が、むしろ恐怖を感じさせる存在だった。 この日の走行ルートはこちら関連記事・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day1 「武田神社・甲斐善光寺・淺間神社」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社(1)」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社(2)奥宮登拝・ほったらかし温泉」
2026.07.17
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前回掲載した新知東町の秋葉神社から北に進み「新知東町1丁目」信号交差点に向かいます。 交差点の北側正面に見える小高い丘が目的地の七十八番札所 寶泉山 福生寺になります。秋葉神社から約0.35km・約5分の距離になります。交差点から七十八番札所 寶泉山 福生寺鎮座地の眺め。つい最近まで丘陵地ばかりで集落も少なかった土地柄でしたが、今は造成され住宅地となり、縦横無尽に道路が整備され、かつての面影は皆無といってもいい、当時の名残はこの高みくらいだろうか。 正面の細い道の先に寺の入口はあります。本日二つ目の札所となる七十八番札所 寶泉山 福生寺入口全景。境内に入ると正面に大きな蘇鉄とコンクリートの大黒天像があります。 伽藍は寄棟瓦葺の本堂と右に庫裏がある。本堂に掲げられている山号額、真言宗のお寺で本尊に不動明王を祀る。当寺の由緒は以下のようなもの。 『宗派 真言宗豊山派開基 不詳 開山 精真法印本尊 不動明王 由緒 福生寺は永禄三年(1560)、精真法印によって開創されました。 しかし大正二年の火災より過去の記録、古文書の一切を焼失しており、古くの変遷については不明です。 この火災では、本堂、庫裡などすべて焼き尽くす猛火のなか、木造の大黒天像が無事な姿で見つかり、直ちに堂裏の宝珠池に安置すると、突然大雨が降り出し猛火が鎮まった。 以来、防火・厄除・開運の守護神「やけん大黒天」として厚い信仰を集めております。 本堂は、昭和元年の再建で、やがて大黒天は堂内に安置されています。 境内には信者の寄進のやけん大黒天像も建立されています。 なお、知多四国霊場開創の亮山阿闍梨は、弘化四年(1847) 三月十八日、当寺で入寂されています。』堂内の弘法大師像。当日は大正二年の火災で焼けずに残った「やけん大黒天」が間近で拝観できた。 その像は、煤けてしまって全身漆黒のもので、にこやかに微笑む大黒様の表情が印象に残る。境内西側から伽藍全景、本堂と弘法堂がひとつになっています。 お世辞にも広いとは言えない境内、本開催のこの日は多くの参詣者が訪れ賑わいを見せていた。さちよきを いのりかいあるふくしょうじ ふどうのこころゆめなわすれじ第十六回 歩いて巡拝 知多四国 七十八番札所 寶泉山 福生寺宗派 / 真言宗豊山派本尊 / 不動明王開基 / 不詳 開山 / 精真法印創建 / 永禄三年(1560)札所 / 知多四国霊場第七十八番境内社 / ---所在地 / 知多市新知東町1-8-3秋葉神社から福生寺 / 秋葉神社から北の新知東町1丁目信号交差点まで約0.35km・約5分。参拝日 / 2026/05/16関連記事・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 白山神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 日長神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 山之神(日長堀田)・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 多聞天(知多市岡田)・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 七十二番札所 白華山 慈雲寺・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 秋葉神社(新知東町)
2026.07.14
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前回掲載した三峯神社から続きとなる今回、三峯神社奥宮への登拝を中心に二日目の行程掲載します。 まず最初に所々に書いた時刻は撮影機器の内部時計を基に表記しており、ペースは普通より遅いものです。8:10。身支度を整え駐車場を出発し、5分ほどかけて三つ鳥居の近くの奥宮参道入口から出発。 杉が聳える簡易舗装された参道をしばらく歩いて行きます。8:30。 奥宮 二ノ鳥居に到着。ここで登山届を提出し。鳥居をくぐり、歩きはじめる、鳥居の額には「奥之宮」と記されている。 ここまでは整備された簡易舗装が続きましたが、ここから先は杉の根が地表に現れる登山道になります。濡れた根や岩に足を乗せると滑りやすく、転倒のリスクがあるので足を置く場所を選ぶべき道が続く。 最初は杉林の中を緩やかな登りが続きます。 コース全般比較的緩やかで、急登と感じるところは途中の階段の上り下りと、奥宮直下の鎖場くらいか。例によって「熊出没注意」の看板を至る所で目にします。 役には立たないが熊鈴や音の出るものを持って入るべきところだろう。因みに、見通せない場所では、ポール同志を互いにぶつけ、不規則な金属音をたてながら上っていった。8:46。 三ノ鳥居に到着、ここで少し水分補給のため小休止。鳥居は木造の両部鳥居で額には「奥宮」とある。 ルートには目印となるカラーテープやこうした鳥居が建っているのでわかりやすい。ここでまた水分補給。 下で気になっていた朝霧はここまでは思ったほど酷くはないので先に進む。ここからしばらくの間、地表をヘビのように這う木の根と岩が露出する登拝道になる。8:55。 稜線に出たところで麓から舞い上がる霧が立ちはじめ、見通しが悪くなる。ここまで下山する人も、上ってくる人の気配はない。 周囲の熊の気配の有無、足元の根っこ、ヘビや獣の足跡、樹の上のクマ棚など探しながら歩いてきたが、霧で見通しが悪くなると尚更厄介だ。9:12。 稜線に立てられて案内板に到着。ここから左手方向に向かいますが、道の状況と視界を確認するため一人で様子を見に行く。 ある程度視界が利くので先に進むことに、登拝道は左手が急斜面で、狭い箇所もあり、甘く見ていると痛い目に遭う。9:22。 四ノ鳥居到着。石の明神鳥居で額は「奥宮」霧で登拝道はよく見えないが、幅1.5メートルほどの尾根道。 余談になるが、下山時にこの尾根筋で四人連れの日本人を見かけた。少し上で待っていたが、谷側に岩を蹴落としているだけで、登る気配はなく待つだけ無駄と降りることにした。 挨拶を交わし、去り際に「ここ、国立公園ですよ」と一言残して降りた。9:40。 霧の先に階段が現れる、これが見えてくれば奥宮は近い。このあたりに古い鎖が見られ、整備以前はここを越えていったのだろう。 この先、長い下りの階段がありますが、気を抜いて踏み外すとただでは済まない。9:45。 目の前の岩肌に古い石段が現れ、ここで一気に標高を上げる。この前で後続がやってきた、写真も撮りたかったので道を譲る。 自分たち以外に人がいることで気持ちが落ち着く。ポールを片付け登りはじめる。9:47。 次は足の掛けどころが少なく、てれんとした岩場。鎖も降ろされ、脇に鎖も張られ、手摺もあるが、倒れた石柱を見ると頼りない。 登りはともかく、下りは厄介だ。 9:50。 標高1329m、妙法ヶ岳山頂の奥宮到着。鎖場の前のお立ち台の右に「妙法」と書かれた石標があります。 この状態では眺望は望めない。まずは呼吸を整えるが、この程度で息が切れているようでは、他の山深い奥宮に行こうなんて思わない方がいいようだ。切り立った岩峰の頂に鎮座する奥宮、玉垣の中には、狼が守護する石の祠が建てられています。 まずは、ここまで無事にこれたことに感謝を伝え、無事に下山できるように願いをかけた。左側には秩父宮殿下登山記念碑があり、右には奥之宮社殿改築記念碑が建てられています。創建は寛保元年(1741)とされ、現在の社殿は昭和41年に改築された、流造で軒唐破風に千鳥破風、千木や鰹木も施された石造社殿。 奥之宮社殿改築記念碑。 ここから左奥に進むと見通しの効く断崖に出ます。9:55。この雲さえなければ三峯神社の奥宮遥拝殿も見えるはずだが、周囲真っ白のこの光景も神秘的でいいかもしれない。 一時は視界も悪く、戻ることも考えたが、熊にも遭わずここまでこれたことに感謝するしかない。さて、下山するか。下山途中に4組ほどすれ違った。 女性一人、軽装で登る姿も見られたが最低でもトレッキングシューズに雨具くらいは持っていた方がいいだろう。10:52。 三ノ鳥居到着、ここまで来ればあと少し。神社で御朱印を頂いて、境内の興雲閣で昼ご飯としよう。11:55。 下山のご報告と御朱印を頂き興雲閣に向かう。小教院。 「天平八年(736)、全国で痘瘡が流行し、天皇は諸国の神社に病気平癒を祈願した。皇后は各地の霊山に観音を祀り、その際三峯神社にも別殿を建てて観音像を安置した。 これが現在の「小教院」の起源である。この別殿は後に「三峯山本堂」となり、天台宗の「高雲寺」、真言宗の「観音院」、さらに「平等坊」と称された。 明治の神仏分離により、この本堂は閉ざされ、政府による国民教化、大教宣布運動にそって「小教院」と呼ばれ、この運動の終了後は、宿坊として老朽化するにまかされていた。現在の建物は元文四年(1739)、当山再中興 日光法印の代に再建されたもの。 平成三年歴史的建造物として保存・改修工事を行い、内部は二十四畳の「広間」、十二畳の「仙人の間」、八畳の「金の間」がある。」興雲閣は温泉など完備した参拝者の宿坊。 ホテルレストラン風の食堂で一般にも食事が提供されています。かみさんがソースカツ丼orシイタケ丼で決めかねていたが、結局二人とも写真のシイタケ丼をオーダー。 甘辛く煮た肉厚のシイタケをカツにしたもので、ありきたりなものより新鮮味があって美味しかった。12:30。 帰り際奥宮遥拝所に立ち寄ってみた。やはり、妙法ヶ岳山頂は雲に包まれたままだ。13:07。 駐車場に戻り、着替えと靴を履き替え、冷たいコーヒーで一休み。今回は幸運にも熊に出逢うことはなかったが、訪れる前は親子熊、最近も駐車場手前の道路を横断する熊が目撃されています。 都会でも出るのだから、いるのが普通、「いるか・いないか」ではなく、「出逢うか否か」の話だろう、その答えは誰も持っていない。できれば複数、単独ならば他のグループに付かず離れずついて行くのもいいかもしれない。 山の食物連鎖の頂点に立っていた狼は絶滅し、熊がその座に着き、食性や生息域も変えて進化している。全国規模で速やかな頭数制御をしないと山間部の生活や森林保全、屋外レジャーや観光にも影響が出ている。今回事前に調べた熊情報サイトは以下の通り。・三峯神社公式熊情報・秩父市公式 大滝地区出没情報いろいろ考えさせる秩父の山を後に甲府方面に向かいます。14:17。道の駅みとみ。 三峯から国道140号線を甲州方面に約一時間ほど下った広瀬ダム付近にあり、盛んに鳴く春ゼミが印象的な道の駅だった。こちらで小休止、地酒と漬物を買い求める。山梨県笛吹市のスズラン醸造工業の辛口獨酒「日本男児」、甘口の「濁酒」もあるようです。 甲斐一ノ宮の近隣にあり、県内で唯一濁酒製造免許を持つ1905年創業の酒蔵。濁酒表記で妙な添加物表示もないので買ってみた。道の駅みとみ。所在地 / 山梨県山梨市三富川浦1822-1 15:07。 山梨市矢坪にある温泉施設「ほったらかし温泉」に到着。ここで汗を流し、足腰の疲れを癒す。すぐ後方に「ほったらかしキャンプ場」があり、過去には何度か候補に挙がったが行く機会はなく、下見がてら訪れた。 甲府盆地を眼下に望み、遠く富士を望むロケーションの良さで知られる。施設はあっちの湯とこっちの湯のふたつあり、夜景や日の出など湯船から絶景が望める。 写真右手の建物がこっちの湯で、左の方に進むとあっちの湯に続きます。こっちの湯は日の出が望めるためか、クローズ時間は早いようで、この時間にして、あっちの湯へ行く事を勧められた。あっちの湯建屋の眺め。街並みが良く見渡せる方向に湯舟が向いています。泉質は無色透明で、多少ぬるっとした感じで、湯温は温めで長時間入っていられる。夜景を眺めながら湯に浸かるにはもってこいかもしれない。 しかし、キャンプ場は高台を整地したもので、サイト間は遮蔽物がなく、日差しを遮る樹も少なくてイメージしたものとは違っていた。ほったらかし温泉名物、外はサクサク中はトロリとした温玉あげ。ほったらかし温泉。所在地 / 山梨県山梨市矢坪1669-18それではここから甲府昭和IC付近の二日目の宿ホテルシーラックパル甲府に向かう事にする。 移動距離は約20km、30分ほど。17:35。 国道20号線と県道5号線が交差する付近にあるリーズナブルなビジネスホテル。夕食は馬刺しを目当てに地元の居酒屋へ。 ホテルから徒歩10分ほどの「我が家」で晩御飯。 目指す馬刺しがなく、牛たたきに変わってしまったが、そこそこ美味しく、酒やワイン・焼酎など品数もそこそこあり満足できた。地元の酒の品揃いが少ないのが残念だった。 今日は普段使っていない筋肉を使った気がする、遅れてやってくる筋肉痛が怖いかも。day2移動距離約100km、移動ルート甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社奥宮登拝・ほったらかし温泉」関連記事・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day1 「武田神社・甲斐善光寺・淺間神社」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社(1)」
2026.07.13
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慈雲寺の参拝を終え、県道252号線海渡交差点を右に進み、北上して中部中学校南交差点に到着しました。 ルートは僅かに上る坂を更に北上し中部中学校西交差点で左に進むのですが、それが嫌で中部中学校南交差点を左に入り、住宅街を斜めに歩いて新知東町1の交差点を目指しました。 今回は住宅街の一角で見かけた秋葉神社を掲載します。とはいっても神社に関する情報が見つからず、ここに記す程度のものです。鎮座地は慈雲寺から1.7kmほどの知多市新知東町2の新東集会所の横になります。 白い幟が目に止まり、正面にきて見ると地蔵堂のような祠が祀られていました。外見から秋葉神社を思わせるものは幟の文字と羽団扇の紋くらいで、これがなければ地蔵堂に見えるだろう。 生花が供えられ、この区域の火伏の神として祀られたのだろう。この地域は昭和期に造成され住宅地となったので、推測としてはこの時期に祀られたものと思います。格子戸の内部は恐らく地蔵さんだろうか、一体の石像が安置されていた。 地域住民が集まる集会所に隣接して秋葉神社が祀られる例は珍しいものではないと思います。しかし、祠内に社は見られず、地蔵さんが祀られているのは珍しい。 とはいえ、住宅が増えた区域の火伏を担っているのがこの秋葉神社だ。第十六回 歩いて巡拝 知多四国 秋葉神社(新知東町)創建・祭神 / 不明 所在地 / 知多市新知東町2-20-49慈雲寺から秋葉神社 / 海渡交差点を右に進み、中部中学校南交差点を左折した新知東町2地内の秋葉神社まで1.7km・約25分ほど。参拝日 / 2026/05/16関連記事・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 白山神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 日長神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 山之神(日長堀田)・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 多聞天(知多市岡田)・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 七十二番札所 白華山 慈雲寺
2026.07.12
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第十六回歩いて巡拝知多四国。 今回は新舞子から5.7km先の知多市岡田を目指し、ひたすら歩きます。最初の目的地七十二番札所 白華山 慈雲寺は、五郎坊信号北側の山を背にして鎮座します。前回掲載した多聞天からだと5分もあれば到着します。多聞天から東に直進すると、左に五郎坊の交差点が見えます。 コースアウトしてここに来たので、途中参詣者に会う事はなかったが、ここからルートに沿って歩きます。太郎坊の三叉路、山を背にして鎮座する七十二番札所 白華山 慈雲寺。 その入口に威厳のある書体で刻まれた山号と寺号の石柱が立っている。参道は日長川に架かる誠橋を渡り山門に続きます。山門から境内の眺め、意外と参詣者は少ないのか?。 山門は瓦葺の四脚門。山門の正面がこの観音堂になります。 室町時代初期の建築とされ、江戸時代には観音堂が慈雲寺本堂で、尾張名所図会の挿絵に当時の伽藍が描かれています。弘法堂はこの観音堂の左にありますが、堂前の人波が絶えず写真に収めていません。 2022年に訪れており、境内の白山妙理大権現、秋葉山大権現、行者堂大権現など過去記事にリンクを貼っておきます。そちらをご覧ください。慈雲寺の寺宝には範光公愛用の「兼光の刀」、「一色禅門悼文」などがある。 慈雲寺には伝承が伝わり、田植えが終わっても雨が降らず、村人から相談を受けた和尚が、壺を携えて観音堂の裏の池から水を汲み、観音堂で雨乞いをしたところ、たちまち雨が降ったという。 その壺は「雨乞いの壺」と呼ばれ、今も大切に守られているという。本堂全景。 この日最初の札所ということもあってか、境内は多くの巡拝者で賑わい、長い距離を歩いて来たこともあり、日陰で涼む巡拝者の姿が見られた知多四国のガイドブックから慈雲寺の解説を引用すると以下。「妙心寺派十刹のひとつに数えられる慈雲寺は、観応元年(1350)、宮山城主一色修理大夫源範光が開基し、夢窓国師を開山として創建されました。 御本尊の千手千眼観世音菩薩は、範光公の念持仏で、恵心僧都の作と知られています。観音堂は室町時代初期の代表的な建築といわれています。 また、当寺からは京都大徳院館長となった松岡寛慶老師、妙心寺四派の筆頭霊雲院に従事した柴田慈孝老師など多くの傑僧が輩出されています。門前の両脇に建てられた石柱の文字は、草書の大家として知られた当山第十一世虎渓文快(白水)老師の大作が刻まれたものです。 江戸時代の『尾張名所図会』には、名勝名跡のひとつとして書かれており、当寺の山を背景にした美しい景観は、古くから多くの人びとを魅了してきました。平成十八年には本堂の屋根の葺き替え等の修復が完成し、ますますその風格を高めています。」本堂の眺め。 4年振りに慈雲寺を訪れましたが、岡田の町を見守るように鎮座する姿は当時の印象のままです。うれしくも じうんたなびく てらにきて みなをとなふる のりのこえごえ次の七十八番札所 寶泉山 福生寺へは、日長川沿いを下流に向かい、2.4km先の新和東町1丁目交差点に向かいます。第十六回 歩いて巡拝 知多四国 七十二番札所 白華山 慈雲寺宗派 / 臨済宗妙心寺派本尊 / 千手千眼観世音菩薩創建 / 観応元年(1350)開山 / 夢窓国師 開基 / 一色修理大夫範光札所 / 知多四国霊場第七十二番、知多西国三十三所霊場第十九番札所境内社 / 白山宮・秋葉社・行者堂所在地 / 知多市岡田字太郎坊108番地多聞天から慈雲寺 / 多聞天から直進し太郎坊信号まで約0.35km・約5分。参拝日 / 2026/05/16関連記事・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 白山神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 日長神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 山之神(日長堀田)・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 多聞天(知多市岡田)過去記事・知多四国霊場第72番 慈雲寺 (1) ・知多市岡田太郎坊 (慈雲寺2) 「白山宮・秋葉社・行者堂」
2026.07.09
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知多市岡田高見多聞天。 前回掲載した日長の山之神から農道を直進し、東海知多新線、県道46号線を越えた岡田高見まで小一時間ほどひたすら歩きます。岡田に入れば最初の札所もあと僅か。 岡田は江戸時代初期の慶長11年(1606)、日長郷の奥・中・里の3つの村が統合され、岡田村として誕生しました。田畑の多い地域で、伊勢から伝わった木綿栽培と機織りが盛んになり、農家の副収入となった。 特に享保年間(1716~35)になると、岡田村の中島七右衛門と竹内源助が江戸の木綿買継問屋(鑑札)を取得し、海路を活かして知多木綿の販路を拡げました。江戸時代から昭和中頃にかけては、「知多木綿」として全国有数の木綿生産量を誇り、生産に携わる女工達も多く集まったという。 その中心地として繁栄したのが岡田で、町の中を歩くと繁栄していた当時のなまこ壁の蔵やレトロな建物が今も残ります。今は岡田といえば・・・ビールかな。岡田高見75に鎮座する多聞天。 奥から石垣が続く毘沙門天坂を歩いてきて、右側が開けた一角の片隅に多聞天と刻まれた石標を見かけ立ち寄ってみた。入口には岡田街並保存会の多聞天解説が立てられていた。 「正徳年間(1711~)、中村に住んでいた徳左衛門という百姓がある日、海岸で肥料にする海藻を採っていたところ、不思議な光で輝いている多聞天の尊像が流れついたのを見つけ、拾って家に持ち帰った。尊像を安置して毎日お祈りを続けていたところ、そのご利益は絶大であった。 徳左衛門が亡くなって、この尊像を中村の毘沙門堂に移して祀ったのが由緒である。●現在も岡田二区中組の年寄衆が交代で堂守を勤め、融通念仏を伝承している。」石標から先の境内は、右に手水があり、正面に毘沙門堂がある。堂の側面に由緒が掲げられていました。「昆沙門堂の由来 創建・享保九年(1724)、本尊は多聞天 ○当初は萱葺で、九尺四面の本堂であった。 ○天明八年(1788)、石燈明一対建立。 ○文久元年(1861)、拝殿建立。 ※彫り物は、山車の彫師と同じ、瀬川治助。 ○明治七年(1874)、百五十年忌ご開帳。 ※この年に、諸仏像と建物がすべて調えられた。 堂守(日常のお勤めと御堂の管理) ○創建当初から堂守が置かれていた。(由来記) ※現在までこの制度は引き継がれている。 ○融通念仏の開祖、良忍上人ゆかりの念仏講も、宗派にとらわれず中組衆によって受け継がれている。」知多郡史で毘沙門天を調べてみたが、これ以上の情報は得られなかった。参道右側の手水と古井戸。鉢には「寛延2年 十王堂 中村若者建立」と刻まれています。 今から約300年前の若者衆が寄進したものです。堂は入母屋瓦葺の妻入りで妻側に向拝が付くもので、向拝の先は吹き抜けの外陣と内陣に分かれています。昆沙門堂で特筆すべきところは破風の手挟や海老虹梁に施された龍の彫飾りだろう。外陣の格子天井には薄くなってよくわからないが草花が描かれている。 内陣は左から大黒天・禅尼師童子・毘沙門天・吉祥天・弁才天が安置されています。左から眺める毘沙門堂。堂の左に背の高い山車庫と隣に堂が建てられています。中組山車(雨車) 「現在の山車は、天保十年(1839)に藤田佐右エ門、藤原雅房が製作。岡田では一番大型で最も古い山車。 力神、獅子等の彫刻師は瀬川治助重定。神前では、上山でからくり人形「綾渡り」、前台で、人形「三番叟」「弥津志」「尾弥間」が奉納される。」 毎年4月岡田地区の神明社、白山社の祭礼である春祭りが行われます。 奥組、中組、里組の3台の山車がお祭り広場に引き出され、木偶やからくり人形の奉納が行われます。山車庫左の堂の内部。 薄暗い堂内中央に金色の厨子、左に弘法大師らしき姿が見えます、更にその左右には複数の像の影があるようです。手水鉢に十王堂と彫られていましたが、もしかするとこの影が十王かもしれません。 さて本題の知多四国七十二番札所慈雲寺に向かいます。第十六回 歩いて巡拝 知多四国 多聞天(知多市岡田)創建 / 享保九年(1724)本尊 / 多聞天境内社 / ---例祭日 / ---氏子域 / ---所在地 / 知多市岡田高見75山之神から多聞天 / 山之神から農道を直進、東海知多新線、県道46号線を越え、岡田町内の岡田二区中組会所へ。約2.6km・約40分。参拝日 / 2026/05/16関連記事・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 白山神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 日長神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 山之神(日長堀田)
2026.07.08
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道の駅 大滝温泉で迎えた二日目。 今日は今回の目玉といえる三峯神社と奥宮登拝です。6/11 5:55。 昨晩は正面の駐車場に車中泊の車が多かったが、朝起きてみれば一台もいなかった。三峯神社の玄関口となる市営駐車場に入るのに渋滞が発生すると聞く、ここで仮眠を取って夜明け前に向かう人もいるのかもしれない。 私たちは道の駅入口にあるコンビニで朝食を買ってから三峯神社に向かう。途中、長い待ち時間の二瀬ダム信号までは後続車もなかったが、信号待ちの間に一台後続車がやってきたため、ダムを渡ってすぐに道を譲り、先に走ってもらう。「なんで譲ったの?」と聞かれるが…。 山道の運転は嫌いじゃないが、ここからクネクネ道が続くだけに、クネクネ大嫌いなかみさんが隣にいるので、後から先の状況を見ながら走る方がスムーズに走れる。昨年の秋、鹿が路肩から飛び出してきたこともある、ここなら恐らく熊の親子も出てくるだろう、見通しの効かない山道は、ついて行くに限る。7:10。 クネクネ道を30分ほど登り、標高1100メートル付近の三峯神社駐車場に到着。山霧が湧き立つ山深いこの地に立つと、ようやく三峯へ来た実感が湧いてくる。 すでに多くの車両が駐車しており、参拝へ向かう人の気配がある。三峯神社の社殿は前方に見える建物の奥になります。 尚、この時間であれば料金所も解放されていました。まずは車内で朝食を済ませ、三峯神社に参拝し奥宮登拝の安全を祈願することに。駐車場向かいのビジターセンター前に立てられていた案内板。 三峯神社まで約500m。そして奥宮までのコースマップ。 ビジターセンターの右から奥宮までは約70分の道のりのようだ。7:18三峯神社正参道に立つ白い鳥居に到着。 よく見かける鳥居ではなく、明神鳥居の柱の両脇に鳥居が連なるもので、三輪鳥居とか三ツ鳥居と呼ばれるもの。その前には三峯神社のシンボルともいえる阿吽の狼が安置されています。 三峯神社は狼(大口真神)を眷属とするため、境内に見慣れた狛犬は存在しません。こうした狼信仰は三峯神社に限らず全国で見られますが、関東圏では秩父や奥多摩に多く、秩父三社のうち三峯神社と宝登山神社、さらに奥多摩の武蔵御嶽神社で狼の姿を見られます。農耕社会では狼が田畑を守る神の存在として見なされ、食物連鎖の頂点に立つ捕食者として生態系の一部に関わっていたとも考えられる。 頂点捕食者であった狼が姿を消し、山の生態系が変化したことに加え、職業猟師の減少も重なった結果、熊・猪・鹿などが人の生活圏へ近づきやすくなり、食害が目立つようになったともいえる。犬の起源はオオカミの家畜化にあり、人の生活圏で狩猟・警護などの働きを担いながら、人と共に暮らしてきた。 昨今のペットブームを見ると、外で神域を守る狼像とは対照的に、現代の犬は室内で人に寄り添い、本能は薄れ“人化”が進んでいるようにも見える。7:20、鳥居から社殿に向かう参道の眺め。 杜に入ると山霧が一層濃さを増してくる。随身門。 神仏習合時代の江戸時代に仁王門として建立されたが、明治に入り随身を安置する随身門に改められたもの。随身門は元禄4年(1691)に建立され、その後の寛政4年(1792)に再建された八脚門で、昭和40年(1965)に改修を受けた。 切妻造で軒唐破風を持ち、魔除けの朱、連子窓は緑で塗られています。また正面の破風回りや妻壁には極彩色の装飾が施されています随神門前で守護する狼。平成14年に彩色復元が行われたこともあり、鮮やかな色彩が保たれています。 「三峯山」と書かれた大きな扁額は、江戸時代中期の文人大名として知られる増山雪舟の筆跡とされる。ここに安置されていた運慶作とされる仁王像は、明治15年、埼玉県鴻巣の勝願寺の消失に伴い、大正9年に再建された仁王門へ移設された。随身門から先の参道は緩やかに下りとなる、参道脇は見上げるばかりの杉が聳えている。 ここから拝殿前の石段まで2・3分ほどだろうか。途中の左側に三ツ鳥居の左から続く道沿いから境内に入る脇参道がある。拝殿に向け直進を続けた先の狛狼。石段下から拝殿を見上げる。 正面に銅鳥居を構え、左に手水舎、右に八棟木灯台が建てられています。八棟木灯台。 安政4年(1857)の建立で、四つの切妻破風がクロスし、一つの屋根となる、手の込んだ八棟造の灯台で、一つ一つの切妻破風の下には軒唐破風が付くもので、どの角度から屋根を見ても同じ見え方をする。屋根から下も手が込んでいて、屋根を支える4本の柱には龍が飾られ、柱を支える部分は円筒形。 最下層は四角柱となり、細かい彫が施された手挟上の部材が上層を支えている。手水舎。 切妻屋根で平側に軒唐破風が付くもので、こちらも全周に龍や獅子など煌びやかな装飾が施され、柱や梁まで紗綾形の紋が刻まれる細かい細工が施されている。嘉永6年(1853)の造営とされ、鮮やかな発色は平成16年(2004)に彩色復元が行われたようです。左奥の建物は神楽殿。八棟木灯台付近の解説。明治41年(1908)にダム建設で消えた大滝村滝の沢地区に伝わる滝の沢神楽を奉納するために建てられたもので、現在は催されていないと聞きます。 山霧に包まれる三峯神社拝殿の眺め。 寛政12年(1800)に建立された入母屋銅葺屋根で、千鳥破風と唐破風向拝が付く権現造。妻壁はじめ壁面、向拝に至るまで極彩色の装飾が施され見応えがある。 拝殿左側に興雲閣と呼ばれる宿泊施設もあり、早い時間帯から祈祷が行われています。埼玉県神社庁の概説を以下に記載します。 「秩父多摩甲斐国立公園内標高約1100mに鎮座する三峯神社。約1900年前に日本武尊が甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中、この地を訪れ、伊弉諾尊・伊弉册尊をお祀りしたのが始まりと伝わる。 この時、尊を道案内したのが狼(山犬)であったとされ、神様の使いとして一緒にお祀りされています。江戸時代には、猪鹿除け・火難除け・盗難除け・病気除けの霊験あらたかと、「お犬様」と呼ばれる御眷属信仰が遠い地方まで広まり、以来その名は全国に知られています。」とあります。拝殿左から本殿を望む。 当日は本殿の改修工事中、遠目から見た本殿は外削ぎの置き千木と2本の鰹木が載る春日造のように見えます。では、奥宮登拝の安全を祈願しに向かいます。向拝柱の梁には、鮮やかに彩色された彫り飾りが施されている。正面の「三峯神社」の大額は有栖川宮熾仁親王の染筆によるもの。 祭神は伊弉諾尊と伊弉册尊の夫婦神を祀ります。拝殿は平成16年に彩色復元され、霧の中に包まれても鮮やかさは際立っています。拝殿から銅鳥居と灯台、手水舎の眺め。 鳥居は弘化2年(1845)の建立で、荒川を筏に載せてここまで運ばれたという。拝殿から右に境内社が連なります。 左から祖霊社、右が国常立神社。国常立神社。 平成18年、彩色復元され、向拝回りの意匠が煌びやかで、国常立尊をお祀りする。宝暦11年(1762)の再建で、明治維新前は十一面観音と不動明王を安置した護摩堂だった。 日本武神社。 明治維新前は役小角を安置した行者堂と呼ばれていた。嘉永6年(1853)の再建で平成28年に彩色復元を受けた。更に右に進むと多くの社が祀られている。 ・・・ますます霧が濃くなってきた。覆屋に収められた神明造の社は伊勢神宮。同じ作りの社がその先の東照宮まで16社連なっています。 月読神社、猿田彦神社、塞神社、鎮火神社、厳島神社、杵築神社、琴平神社・・・小銭をたくさん用意したほうがいい。16社最後の祓戸神社の隣が東照宮。東照宮の右隣の3社は春日神社、八幡神社、秩父神社、狼が守護する右の社は大山祇神社。大山祇神社の狼。境内社の参拝を済ませそのまま直進すると奥宮遙拝所に至ります。奥宮遙拝所入口。 鳥居の先の遥拝殿から妙法ヶ岳(標高1332m)の頂に鎮座する奥宮の岩肌が見えるはず。これから奥宮を目指すのでここはスルー。8:10。 足慣らしを終え駐車場に到着、南の前白岩山、雲取山方向はガスっている。奥宮のある妙法ヶ岳はどうなんだろう、視界が悪ければ諦めるとして、足拵えと雨具・水・飴玉・ナイフをリュックに放り込み、役には立たないが熊鈴二重連で奥宮参拝道に向かいます。甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社」創建 / 景行天皇41年祭神 / 伊弉諾尊、伊弉册尊境内社 / 祖霊社、国常立神社、日本武神社、伊勢神宮、東照宮、大山祇神社など所在地 / 埼玉県秩父市三峰298-1参拝日 / 2026/06/11道の駅 大滝温泉から三峯神社 / 距離15km・約30分関連記事・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day1 「武田神社・甲斐善光寺・淺間神社」
2026.07.07
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日長神社を後にして、常滑街道を東へ、日長川に架かる新城見橋を渡り、国道155号線の交差点を直進した先の左側が今回取り上げる不明社。 日長神社から距離にして約0.8km、移動時間は10分少々。上は不明社の鎮座地。 戦国時代、日長神社の北東丘陵地に日長城があったとされ、元禄元年に書かれた「日永大明神略縁起」には、匹田氏、駒沢氏と云う武将が砦を築いたとある。城の全体像は不明で、現地は樹々が生い茂る小高い山で遺構などはないという。 不明社が鎮座する日長堀田地区、日長川右岸の城見坂地区など城の名残を伝えるようだ。訪れた当日、不明社の前の水田ではちびっこ達が泥と格闘しながら田植えを行っていた。こちらが今回取り上げる不明社。 田圃と畑が広がる一帯にこんもりとした森が残されています。子供のころ、身近にこんな景色は普通にあったものが、住宅やビルに代わり消えていった。 こうしてポツンと残る森は古墳か、神社が祀られているもので、ここには日本の原風景ともいえる光景が残っています。田植えに忙しいちびっ子たちを横目に農道を歩き森に向かう。こんもりと盛り上がった高みは円墳のように見えなくもないが、解説板もないことから古墳ではなさそうだ。 森の南側に石段が作られ、頂に小さな社が祀られています。社の主は「山之神」。 自然崇拝のひとつで農民から崇敬される神で、春になると山から里に下りてきて、田の神となり稲を育み、収穫が終わると再び山に戻り山の神となる。農業を営む者にとって一番身近な存在かもしれない。 こうしたロケーションの場所には水神が祀られていることもある。食糧自給が問われ、人口減少が進む現在でも、農地は宅地となり家は建てられる。 こうした社のある光景も見られなくなるのだろう。 山之神を祀る森を後にして、かつて田んぼであっただろう農地の中に伸びる細い農道を進み、岡田の町を目指します。 随分怪しげな道ですが、車道を歩くよりは安全で心地いい。第十六回 歩いて巡拝 知多四国 山之神(日長堀田)創建 / 不詳祭神 / 不詳境内社 / ---例祭日 / ---氏子域 / ---所在地 / 知多市日長堀田35-7日長神社から山之神 / 日長神社から常滑街道を東へ、日長川に架かる新城見橋を渡り、国道155号線の交差点を直進した左側。約0.8km・12分。参拝日 / 2026/05/16関連記事・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 白山神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 日長神社
2026.07.04
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新舞子の白山神社から次の目的地「日長神社」に向かいます。 国道155号線を北上、神田交差点で右折し常滑街道を進みます。目の前の日長川に架かる参宮橋を渡り前方を眺めると小高い山が見えます、そこが日長神社の鎮座地です。参宮橋を渡り左に進むと日長神社一ノ鳥居が建つ参道がある。上は尾張名所図会(1838~1841)知多郡の挿絵に描かれた日永神社。 地名の由来は日本武尊の時まで遡るようで、日高から日永に変わっていったとされる。現在は日長と書かれる。一ノ鳥居から日長神社の眺め。参道中ほどに小さな堂が建てられています。入口にかなり古びた手水鉢が置かれています。大峯山大権現。 奈良県吉野村にある山上ヶ岳の頂に役小角が開祖の大峯山寺の神仏。この大峯山大権現が単独で建てられたものか、参道向かいの福田寺と関係あるか定かではない。 つい最近まで奈良国立博物館で「大峯山寺の秘仏蔵王権現展」が開かれ秘仏蔵王権現が展示されていた。折しも、かみさんが旅行中で留守番が続き、行きたいなとは思いながらも行きそびれてしまった。山の入口にニノ鳥居が立っており、頂の境内まで石段が続く。明治初期に寄進されたニノの鳥居、右脇に日長神社由緒が立てられている。 右に「郷社 日長神社」の社号標があり、石段左に玉垣で囲われた境内社が祀られている。社名札はなく、常夜灯からも社名は分からなかった。長く続く石段から三ノ鳥居の眺め。石段中ほどに安置されている狛犬、台座には「明治拾年」とある。 細部まで彫られた大量生産前のもの。石段の先に大正七年寄進の三ノ鳥居と神門。鳥居の左側手水舎。 鉢には石造りの龍口と五七桐紋が施されている。神門。 軒唐破風が着く切妻瓦葺の四脚門で重厚感が漂う。神門前の狛犬、寄進年は見なかったが、風貌は先に見たものより古そうだ。 左右の袖壁の連子窓に神社の由緒と伝説を記した木札がありますが、文字が薄く全文読み取れなかった。神門正面の拝殿はコンクリート製の入母屋造。愛知県神社名鑑(1992)の当社解説は以下。 『九等級 日長神社 旧郷社鎮座地 知多市日長字森下四番地 祭神 日長命、日本武尊、倉稲魂命由緒 社伝によれば、延喜十四年(914)、寛徳元年(1044)創建ともいうが、戦火により古記録が灰燼に帰せしにより明らかでない。上古蕃賀郷の総社として祀られた。 本国帳には従三位日長天神とある。江戸時代には日永天神社、江文大明神とも称せられ、日長七村の総社であった。 本殿は天正九年(1581)十二月、造営の古い社である。明治五年九月、郷社に列格せらる。 昭和四十八年、幣殿、拝殿を造営した。 社殿 本殿 流造、幣殿、拝殿、社務所。特殊神事 祈年祭 二月第二日曜日 新嘗祭 十一月第二日曜日 奉射祭 四月第二日曜日・弓道大会を行ない、金的を奉納する。 御馬頭神事四月第二日曜日・飾馬四頭が出る。』境内の由緒より一部抜粋。『境内末社神明社、八幡社、薬祖社、風宮社、恵比寿社、八剣社、山神社、天満社、金刀比羅社 例祭日 四月第二日曜日由緒 創立年月日は明らかでありません。日本武尊は、「東夷征伐の折この地に立ち寄られたご縁」により、日長命は、「この地方を開拓された神」として倉稲魂命は、「農業や諸産業の発展と守護の神」としてお祭り申し上げています。 古代には蕃賀郷(知多西北海岸地方と云われている)の総社として崇敬されたと云われています。後鳥羽天皇文治年中(約八百年前)に従二位日永天神を賜り、近世には、日長七村(森村、鍛冶屋村、松原村、大草村、羽根村、岡田村)の総社として崇敬されました。 文政頃より日長神社と称するようになりました。』拝殿額と神紋。拝殿内から幣殿本殿を望む。本殿域内の右側にある磐境。 古代祭祀形態の磐座と伝わっている。拝殿右に南向きに境内社が纏められています。 左から薬祖社、風宮社、神明社、八幡社。こちらは西を向いて五社が祀られています。 左から山神社、八剣社、恵比寿社、天満社、金刀比羅社。境内右側の東に続く参道の先に、日本武尊が東征の際に当地に立ちより、村人に掘らせたと伝わる「手水池」があります。 名のとおり、参拝前にこちらで手を洗い清めたとされます。日照りが続いても干上がることはなく、水が澄んでいると平和、濁ると争いが起こると伝わり、四年に一度氏子達により池さらえが行われているという。境内左から拝殿全景の眺め。境内左の社務所。境内から神門を眺める。 昭和四十八年に幣殿、拝殿造営とありますが、この神門も同時期のものだろうか。三ノ鳥居から見下ろす社頭方向の眺め、ルートは社頭から山裾に沿うように東に向かって進んでいきます。 第十六回 歩いて巡拝 知多四国 日長神社創建 / 不詳、(延喜十四年(914)・寛徳元年(1044)とも)祭神 / 日長命、日本武尊、倉稲魂命境内社 / 神明社、八幡社、薬祖社、風宮社、恵比寿社、八剣社、山神社、天満社、金刀比羅社例祭日 / 4月第2日曜日氏子域 / 旭桃台、旭南、新舞子、新舞子東町、長浦、日長、日長台、日長東田、緑浜町、南浜町所在地 / 知多市日長字森下4番地白山神社から日長神社 / 白山神社から国道155号線を北上、神田交差点を右折・直進、日長川に架かる参宮橋を渡り直進。約1km・15分。参拝日 / 2026/05/16関連記事・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 白山神社
2026.07.03
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名鉄主催の歩いて巡拝 知多四国、全17回で知多四国の札所を巡るものです。 今回で第十六回となり、5月16日本開催の知多四国を巡ってきました、長かったゴールもみえてきました。上が今回のルートです。 スタートは名鉄常滑線新舞子駅。駅前から一路東に向かい72番札所慈雲寺➡78番札所福生寺➡79番札所妙楽寺・開山所妙楽寺➡ゴールの名鉄常滑線古見駅に戻る約9km、4つの札所を巡るもの。既に一巡したかみさん、今回は姉妹でフランス旅行中で参加できず、おやじ一人での参加。 ということで、スタートからコースアウトして参加者とは別の方角に歩き出します。新舞子駅東口から住宅街に伸びる常滑街道を北に向かうこと約5分ほど、国道155号線の西に鎮座する白山社に到着。白山社の鳥居前から境内を望む。切妻瓦葺の妻入りの拝殿とその前に掲げられた白山社由緒。白山社由緒。『神社名 白山社 鎮座地 知多市新舞子字北屋敷七番地御祭神 菊理媛命 イザナギが、なくなったイザナミを連れ戻そうと黄泉国に赴くが、イザナミの変わり果てた姿を見て逃げ出した。黄泉平坂で追ってきたイザナミに追いつかれ論争となる。 この時二人の間に立ち、言葉を取り伝え、相互の主張を聞き入れ和解させた神。『日本書紀』。この説話から、二人を仲直りさせたとして、「夫婦和合」・「縁結び」の神とされている。 また、「くくりひめ」から「くくりむすび」につなげ「産霊」と書いて「むすび」と読むことから、「あらゆるものを産みなす霊力」を現す神として、諸願成就の信仰が篤い。境内末社 秋葉社、山神社、駒嶽社、金刀比羅社、御鍬社、金峯社例祭日 七月第四土曜日由緒 社伝によれば、創建は慶長十九年(1614)という。その根拠は、元禄十一年(1698)の棟札に「慶長年中の末、長雨の為大きな洪水があった時、浜辺に社が流れ着いたので里人が集いこの所に安置し祀った・・・」とあることによるものと思われる』愛知県神社名鑑(1992)では当社を以下のように記している。 『十四等級 白山社 旧無格社鎮座地 知多市新舞子字北屋敷七番地 祭神 菊理姫命由緒 社伝によれば、創建は慶長十九年(1614)という。尾張志(1843)には、白山ノ杜山神社松原村にありしとある。 明治六年、据置公許となる。例祭日 七月第三土曜日 社殿 本殿 流造、拝殿、社務所、山車庫』境内左の眺め。 ここに手水舎、社務所、山車庫が集約されており、正面の山車庫には天保年間の築造とされる、漆塗りと金箔で仕上げられた山車が保管されています。小堂と手水舎。堂内には役行者(役小角)像を安置する。拝殿は普段は四方の戸板が付けられ、内部の様子を垣間見ることは出来ない。 後方の本殿域の右側には境内社が建てられています。拝殿額は「白山神社」。本殿域は一段高く盛られており、冠木門から玉垣が廻らされています。 本殿域には本殿の他、左右に複数の境内社が祀られています。流造の白山社本殿、頭貫の上の龍の彫飾りは手がかかっています。本殿左の境内社四社。 右から金峯社、駒嶽社、山神社、御鍬社。右の秋葉社と白山社本殿。本殿左の境内社、御鍬社、金刀比羅社。本殿域右の境内社は霊神碑が纏められた御嶽神社。境内から社頭の眺め。 交通量の多い国道から一本入っているため、騒音は気にならない。第十六回 歩いて巡拝 知多四国 白山神社創建 / 慶長十九年(1614)祭神 / 菊理媛命境内社 / 秋葉社、山神社、駒嶽社、金刀比羅社、御鍬社、金峯社、御嶽社例祭日 / 7月第4土曜・日曜氏子域 / 新舞子、新舞子東、日長、日長東田所在地 / 知多市新舞子北屋敷7名鉄常滑線新舞子駅から白山神社 / 新舞子東口から700m北上した北屋敷地内。参拝日 / 2026/05/16関連記事
2026.07.02
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