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木本神社から北に向かい、笛吹橋を越えると熊野古道松本峠に向かう登り口があります。大泊から熊野古道松本峠を越え、峠の西麓に位置する木本集落に辿り着く。 砂礫を敷き詰めた平坦な七里御浜が現れ、花の窟を経て熊野大神が降臨したとされる神倉山に向け延々と続いています。写真は木本集落北端に位置する松本峠登り口で、ここから先は樹々に包まれた登り坂が続きます。 進んでみたい気持ちはあったが、この日は花火鑑賞が目的。汗だくにはなりたくないうえ、入口付近には「熊注意」の貼り紙まであり、潔く諦めた。登り口から左の市街地に向かう道すがら、写真の鳥居が目に止まり立ち寄ってみた。山の西斜面に立てられた石鳥居があり、境内に続く石段脇には解説板も立てられている。境内に続く石段からの眺め。 参道脇には古い梅の樹もあり、鳥居の前の境内の奥行きに余裕はないようだ。参道の右上に長方形の石の水槽らしきものが見えています。神社解説板かと思っていたが、これは境内にある水槽石の解説だった。「熊野市指定文化財 有形民俗文化財 宝暦の水槽石(四基) 新田天神社新田天神社手洗水船として使用されている水槽石は、もともと西川町の元八百屋の隣に据えられており、住民の飲料水を確保する水槽であった。 作成 寛政十一年(1799)正月、石工 玉助 長さ 3.39m、幅1.22m、高さ1.13m木本浦は海辺にあることから、地中が砂礫層に覆われ井戸を掘ることが困難で、人々は谷川まで水を汲みに往復しなければならず、水の便が悪い土地であった。 正徳二年(1712)、濱地太右衛門は、永年の水不足に耐えかね、切立奥の谷郷の水源地から木本浦に水を引く工事を起こした。松の木を縦に割り、中をくりぬき、再び合わせ、地中に埋めて水を引き、木製の水槽に水を溜め、飲料水の確保に努めた。 宝暦年間(1751〜1764)に、この地方では、最も堅牢な岩質(花岡斑岩)として知られる曽根石の大きな一枚岩をくりぬいた水槽を全四基が作られた。その後も水槽石は場所を変えながらも現に残り、活用されている。 昔の水の不便な生活の苦労を偲ぶ貴重な民俗資料である。他の三基は次の通り。1.木本神社 宝暦七年作2.新出町稲荷神社 宝暦9年作3.天理教紀大教会 宝暦9年作」熊野市史には「天保の旱魃の際は水一荷(60liter)を200文で販売した記録」も残るという。 江戸時代の物価で考えると蕎麦が約20文、酒だと一合4文に相当したとされる。今時、水1literはコンビニで160円とすると、1万近い金額になる。 温暖化で水源に雪は積もらず、各地の水がめが底をつき、取水制限が行われ、作物に与える水に苦慮する報道が流れる。都市では局地的な豪雨が発生しても、その多くは十分に活用されることなく海へ流れていく。 そう考えると、これからは都市部での雨水貯留についても考える必要がありそうだ。捻れば出てくる水も大切な資源と捉え、一人一人が節水を心がける時代が訪れている。これが水槽石。 小さな子供なら水遊びが出来るほどの大きさで、側面には二箇所穴があけられています。もともと八百屋の横にあったとか、この時期ならスイカも冷やされていたのかもしれない。 側面に開けられた穴は、水槽からあふれる前に別の水槽や水路へ水を分けるためのものだろうか。水事情の悪いこの地だけに、一滴たりとも無駄にはしなかっただろう。 側面には寛政十一年、石工 玉助の銘も読み取れ、江戸時代中期には既に簡易水道のような仕組みが整えられていたことになる。木本神社の長い手水鉢も、そうした目的から作られた水槽石で市内に置かれていたのだろう。 水事情が改善され、本来の目的を終えた水槽石も、神社の手水鉢として新たな役割を担っている。用が無くなれば捨てる現代において、先人達の思いを今に伝えている。 これは江戸時代の人々が築いた、町の小さなダムだったのかもしれない。松葉山天満宮 社頭全景。 Gマップでは松葉山天満宮として表示されるが、上の解説板に「新田天神社」と書かれている。当ブログでは松葉山天満宮と表記します。 因みに熊野市史には天神社として表記されていました。資料によって名称に違いはあるものの、いずれも同じ天満宮を指しているようである。鳥居の先には撫で牛が安置されており、天満宮らしさが漂う。 本題のこの松葉山天満宮、三重県神社庁には登録されておらず、創建等の詳細は記されていなかった。熊野市史に目を通すと、水槽石の記述と天神社として以下の記述を見付けた。「言い伝えによると、昔当地に狸が住んでいて、よく漁師について困るからそのために天満宮を祀ったといわれている。 御神体は天神木像を納めている。7月24日が祭日で西川地区が中心となって祭りを行う。」別の資料では、「御神体は熊野市指定文化財の天神画像で、大和絵の傾向をふまえ、鎌倉時代に流行った「似せ絵」の画風を偲ばせるもので、昔、京都より来住していた水谷善吉の蔵品だったが、宝暦年間(1751~1764)西川久兵衛がこれを譲り受け、私山山の松葉山に祭祀し木本天神社のご神体として伝えられてきた。」とあった。創建時期は宝暦年間、菅原道真をお祀りするもので、Gマップの松葉山天満宮、解説の新田天神社、どちらも正しいようである。社殿全景、社殿は随分傷みが目立つ状態だった。 松本峠の麓にあたるこの場所では、漁師について困るという伝承からも、昔から狸が身近な存在だったのだろう。実際に狸による何らかの被害があり、それを鎮めるため神が必要だったのだろう。 菅原道真を祀る天満宮には、雷神・天候の神、さらには災厄を鎮める神としての性格もあるが、狸との直接的な関係は見当たらない。 しかしなぜ狸除けに天神様だったのか、その理由は今となっては分からない。境内から鳥居と木本集落の眺め。小高い高台に築かれた石積みも当時からのものだろうか。松葉山天満宮創建 / 宝暦年間(1751〜1764)祭神 / 菅原道真例祭日 / 7月24日所在地 / 三重県熊野市木本町1584参拝日 / 2026/8/17関連記事・ 2026熊野大花火・ 木本神社過去記事・「神倉神社」熊野権現降臨地ゴトビキ岩は神秘的・「花の窟(はなのいわや)神社」三重県熊野市
2026.08.30
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熊野大花火で訪れた熊野市木本町、打上げまでには時間もあり、熊野市木本町地内を少し歩いてみました。上は打ち上げ会場の七里御浜から鬼ヶ城の眺め。 七里御浜から山側に入った木本町は、熊野灘に面した熊野市の中心市街地。現在は静かな町並みですが、かつては熊野地方の政治や経済の中心として栄えた町です。 江戸時代、この地には紀州徳川家の本藩公領地として「奥熊野代官所」が置かれ、熊野川以東から現在の紀北町に至る広い地域を管轄していました。そんな木本町の一角に鎮座するのが、今回訪れた木本神社です。木本神社は、もともと木本町字新田に鎮座していた「若一王子権現」と称する神社がその始まりと伝えられています。 「若一王子」は天照皇大神を意味するとされ、現在の祭神にも天照皇大神が祀られています。創始の年代は詳らかではありませんが、慶長13年(1608)12月に新田地区から現在地へ遷座したことを記す棟札が現存しており、この頃にはすでに祭礼も行われていたとされています。その後、明治41年(1908)には、境内社の若宮神社二座、大国神社、恵比須神社をはじめ、新田町の稲荷神社、字切立の新田神社を合祀。 昭和26年(1951)には木本御靈神社が創設され、稲荷神社と菅原神社(旧・新田神社)は飛地境内社として、それぞれ旧鎮座地に分祀されています。現在の木本神社は、長い年月の中で周辺の神社を合わせながら、木本の町の鎮守として現在に至っているようです。社頭の「吉田大明神石祠」、熊野市指定文化財。 「安政2年3月、木本側の27か村(紀州藩領)と、有田側の5か村(新宮藩領)の「領地の入れ替え」が発表された。すると木本など27か村は、200年も仕えてきた紀州藩主から離れることを喜ばず、さらに新しい領主のもとで重い年貢を課されると予想して強く反対し、一揆のような状態になった。これが「安政の村替騒動」である。 このとき、江戸勤めの勘定組頭・吉田庄太夫が命を受けて木本へ来て説得にあたった。しかし村人の意思が固いことを悟り、ついには庄太夫が独断で「村替は据え置く」とする誓紙を渡し、江戸へ戻って村替を中止させた。 こうして三年に及んだ騒動は民衆の勝利となったが、庄太夫は独断の責任を負い、自ら命を絶ったと伝えられる。その後、熊野27か村では吉田大明神の祠を建て、村を鎮める神として祀った。 ここにある祠はその一つである。」 昨今の政治を見ていると、民意とは程遠いところで物事が決められているように思う。 海外旅行やリホームに勤しむ者ばかり、民を向いて舵取りはされていないな。今の世にも庄太夫のように、民の側に立って決断する政治家がいてほしいものだ。熊野市指定文化財 彫刻 木本神社の木造狛犬「狛犬は神社や寺の社やお堂の内や外などに守護と装飾をかねておかれる一対の獅子形をした像である。 素材は石や木が普通であるが、熊野市内では石造が多く、木造の狛犬は少ない。狛犬の起源は、インドの仏寺や中国の宮門、陵墓の前などに獅子に似た動物像を並べたのが始まりとされる。 日本でもこの風習をまねて平安時代からおかれている。木本神社の狛犬の伝来は明らかでないが、鎌倉時代作のものとされる木造狛犬の高さは四十センチで、材質はスギと思われ、一つの材から制作した一木造である。」熊野市指定文化財 木本神社の棟札。「木本神社の棟札は106枚あり、一番古い物は慶長13年(1608)のもので、時の奉行中次兵衛・辻久右衛門・与三右衛門・濱地茂兵衛・口地七太夫・宮地太郎兵衛の名が列せられている。裏側には経費(米)の43石5斗5升を出し合った216名の名が記されており、木本の殆どの人が出し合ったとされる。他にも時の代官野村平之丞の一石、大阪・松阪など他地方からも寄進されている。」鳥居から先の境内の眺め。 右手に御神輿庫、左手の社務所、正面の社殿が主なもの。木本神社を語るうえで外せないのが、例大祭で行われる勇壮な神輿渡御です。 その祭礼は熊野神が神倉山に降臨したことを起源とするとされ、かつての祭日は9月9日。祭典を終えると御神体を神輿へ移し、本殿前の白州に安置した後、町へと繰り出します。 行列の先頭に「稲荷山車」、その後に「御神輿」「六法」「よいや」「子供みこし」「元宮太鼓」が続きます。なかでも「六法行列」は、紀州藩の直轄地となった木本の住民が、そのことを喜んで大名行列を模したものと伝えられ、勇壮な行列として知られています。 そして祭りの主役ともいえるのが神輿で、総重量は約1トン。お旅所の稲荷神社を出発すると神輿を台車から外し、町内を練り歩きます。 住民から振る舞われる酒が神輿にかけられることから、いつしか「暴れ神輿」と呼ばれるようになったという。神輿は七里御浜に向かい荒波に浸けて清める「浜担ぎ」が行われ、その後、神輿は再び町内を巡り、深夜になって木本神社へ戻り、渡御を終えます。 熊野の祭りというと、山深い熊野古道や神倉神社のような山の信仰を思い浮かべますが、海辺の町、木本ならではの祭礼です。境内右の大きな手水鉢。 赤く染まっているのは清水に含まれる鉄分が多いのか。鉢の側面には宝暦七年(1757)の銘が刻まれていました。拝殿正面の眺め。 切妻平入の拝殿に切妻向拝が付くもので、左右の開けられた格子戸の先には、本殿域に祀られた境内社の拝所があり、右側には吉田庄太夫の碑が祀られている。三重県神社庁の解説によれば祭神は天照皇大神、天兒屋根命、天布刀玉命、大己貴命、事代主命、大山祗命、埴山姫命の七柱を祀る。拝殿前の狛犬は風貌に年季を感じさせるが昭和に入って寄進されたもの。 拝殿脇や道路側ともに奥に控える本殿域の様子は見られなかった。境内から社頭の眺め。 手前の道路は県道204号線で、堤防沿いを走るのが国道42号線、その先の堤防を越えると溢れんばかりの花火見物客と屋台が連なる七里御浜です。堤防の先の喧騒とは別世界のように境内は静まり返っていました。社地右側の道路から本殿の屋根がちらりと顔を出してくれた。 木本神社創建 / 不明祭神 / 天照皇大神、天兒屋根命、天布刀玉命、大己貴命、事代主命、大山祗命、埴山姫命例祭日 / 体育の日の前日春祭 / 2月17日秋祭 / 11月23日境外末社 / 稲倉稲荷神社(木本町332)、菅原神社所在地 / 三重県熊野市木本町95参拝日 / 2026/8/17関連記事・ 2026熊野大花火過去記事・「神倉神社」熊野権現降臨地ゴトビキ岩は神秘的・「花の窟(はなのいわや)神社」三重県熊野市
2026.08.29
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何でもかんでも値上げのご時世、9月から生活道路での車両法定速度が引き下げになる。 下がると聞くと嬉しいような気もしないでもないが、生活道路での重大事故抑制のため、最高速度の標識がなく、中央線などの車両通行帯がない生活道路では、これまでの法定速度60km/hから30km/hに引き下げられる。 施行は9月1日。上が警察庁のPOP、既にWeb上で公開され、町内広報板に掲示されていたり、コミュニティーの回覧板でも周知が進んでいる。 普段どの程度の速度で走る「習慣」なのか個人差もあるだろう。施行後に一般的な速度で走っていると、重い罰則が待ち構えている。 今から心の準備と生活道路走行時の自車の速度を確認しておくべきだろう。上が違反時の減点と罰金。 ご存知のように、制限速度は「その速度で走らなければならない」という意味ではなく、その道路で許される最高速度を示すもの。道路状況や交通状況に応じて、それより低い速度で走ることも当然あります。普段から制限速度一杯で走り、前車に追いついて「遅い」と感じ、感情に任せて追い越せば、その瞬間に速度違反となる。 飛ばし屋からみて前車が遅いと感じるのは、あなたが法を守っていないだけのこと。追い越し頻度の多い方は運転習慣を改めないと、生活道路で捕まれば一発免停となる可能性が高い。 高速やそれに準じる道路で30km/h超過は、ハードルも高く罪悪感もあるだろう。法定速度30km/hとなった生活道路では、30km/h超過などいともたやすく、罪悪感もないまま、免停・罰金・講習が待っている。 よくできた改正だと思う。交通違反の取り締まりを厳格化すれば、財源の宝庫だろう。 単に罰金だけでなく、免許更新時の講習区分や自動車保険料だけでなく、無事故・無違反を条件とした優待などにも影響する。無駄な出費に悲鳴をあげる前に、自分の運転を見つめるといいだろう。それにしても生活道路をMTで走るとしたら3速までしか入らないのでは。 近所に生息する跳ね馬や暴れ牛も静かになるかな。
2026.08.28
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前回掲載した天王明神社、そこから西に出て、車道を北に向かい稲永交差点に向かう。 交差点の西門に鎮座するのが今回掲載する稲永 神明社。天王明神社からだと徒歩6分ほどの位置になります。あおなみ線稲永駅から歩きはじめ、この日最後の訪問地になります。 例によって大正時代の地図と現在の地図から、地域の変貌ぶりを見ています地名の稲永は、稲富新田と永徳新田が合併して稲永新田となり、稲富の「稲」と永徳の「永」を取って命名されたという。 鎮座地を見ると、左右に伸びる道と北に伸びる道が交わる辻に位置しています。車で金城ふ頭方向に向かう際、稲永交差点角に立つ稲永神明社の鳥居が目につき、昔から気になる存在だったものの、参拝駐車場がなく、いつも通り過ぎていたが、今回ようやく訪れることができた。稲永交差点の西角に鎮座する稲永神明社の眺め。平成11年に寄進された神明鳥居から境内の眺め。 右に大正四年の銘が刻まれた神明社の社標が立っており、境内左側に手水舎、社務所、正面の社殿が主なものです。手水舎は長い柱を用いず、高い基礎のそれぞれに親柱を立て、その上に冠木が横に伸ばされ、その上に梁を渡し、そこから斜めに副柱を降ろし、大きな切妻屋根を支える一手間かけたものです。 その下に置かれた手水鉢には大きな龍口がある。境内右側に忠魂碑と当社に祀られている神社名と祭神を刻んだ石碑が立てられています。 社名・祭神は秋葉社 加具土神、神明社 天照大神、龍神社 水波能賣神。残念ながら境内に由緒書きはなく、愛知県神社庁の情報サイトと神社名鑑、港区HPの記述から記載します。愛知県神社名鑑『十五等級 神明社 旧村社 鎮座地 名古屋市港区稲永5-1-4祭神 天照大御神 由緒創建は明らかでない。 稲富新田と永徳新田が合併して明治九年稲永新田に改称した。何れも文化、文政(1804~1829)に開発した新田で村内鎮護のため産土神として奉斎した。 明治五年七月、村社に列格する。昭和二十年四月、空襲により被害、同二十二年本殿を復旧、同三十四年伊勢湾台風で度被災、同三十五年本殿復興す。 同六十一年五月四日、社殿・社務所を造営。社殿 本殿 神明造、幣殿、拝殿、社務所、祭器庫』港区HPの稲永神明社の紹介は以下のように簡潔なものだった。『祭神は天照大神。村の氏神として嘉永6年(1853)勧請した』 簡潔ですが、勧請年が記載されており、個人的にも調べてみたが嘉永6年勧請の引用元は定かにはならず、当ブログでは神社名鑑の創建不詳として記載します。主祭神の天照大御神は御存知の通り、八百万の神々の最高神で、ご利益は全てといってもいい。 加具土神は防火・防災、家内安全にご利益が得られる。水波能賣神は水源の川・池・井戸・水田を守護し、農業や水害除け、安産・縁結び・清めのご利益があり、新田として生まれた土地柄を守護するには十分な神々ではないだろうか。 拝殿正面全景。 木造の切妻造瓦葺き、平入りの拝殿と狛犬。狛犬は昭和61年に寄進されたもので、眼光鋭く、巻き毛を強調した姿をしている。拝殿斜景と後方の本殿域の眺め。 拝殿は後方で幣殿とつながっています。本殿域は高く積まれた石垣の上に透かし塀と神門が設けられ、本殿を取り囲んでいる。本殿前を守護する狛犬は拝殿前のものより古そうですが、銘を見忘れました。本殿域の眺め。本殿域には神明社本殿、左が秋葉社、右に龍神社の三社を祀る。稲永神明社社頭左に二つの地蔵堂があります。 神社と関わりがあるのか定かではないが、左の堂には6体、右の堂には2体の地蔵が祀られています。左側には御嶽講の山丸三の紋が刻まれた手水鉢が置かれています。上が右側の堂内の地蔵尊で銘が確認できず年代は不明ですが、立地を考えると辻の地蔵として安置されたものかもしれない。 下の六体の地蔵を含め、般若心経の教文が書かれた黄色の前掛けが掛けられています。山丸三の紋とこの地蔵、つながりが良くわからない。稲永神明社創建 / 不明祭神 / 天照大御神境内社 / 秋葉社、龍神社 氏子域 / 稲永例祭日 / 10月第一土曜日所在地 / 名古屋市港区稲永5-1-4天王明神社から稲永神明社まで / 北西の稲永交差点西角の社地まで450m・徒歩6分。参拝日 / 2026/8/7関連記事・二名社(にみょうしゃ)・荒子川水神社・錦神社・天王明神社
2026.08.24
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前回は稲永遊郭に祀られた錦神社を掲載しました。 今回はそこから徒歩数分の港区錦町3に鎮座する「天王明神社」を掲載します。まずは鎮座地を地図から見てみよう、上の地図の左は大正時代の鎮座地。 稲田ばかりの当地に四角く区画された部分が稲永遊郭。前回使用した稲永遊郭の拡大図ですが、赤いマーカーが天王明神社の鎮座地に相当します。 まず最初に天王明神社について調べてみたが創建時期など詳細は分からなかったことを書いておこう。この地図から推測すると、遊郭施設群の中に位置するように見えます。区画の北西角に鎮座する天王明神社の全景。 現在は道路が新たに整備され、周囲は住宅地へと姿を変えたものの、社地周辺の町割り自体は往時から大きく変わっていない。大正期には貸座敷を中心とした遊郭が立ち並んでいたが、今は更地や駐車場が点在している。 こうした歯抜け状の景観は、売春防止法の全面施行に伴う廃業などが影響しているのかもしれない。緑の少ないこのあたりにあって、濃い緑に包まれた境内は特別な空気感が漂う。鳥居正面から眺める天王明神社境内。 額には「天王明神」と刻まれている。天王社は見かけるが、この社名はあまり馴染みがなく、先に書いたように詳細は分からず祭神もわからないが、牛頭天王または建速須佐之男命ではないかと想像する。 参道脇の狛犬。 寄進年は見ていないが、集落の成り立ちから見ると古いものではなさそうだ。参道左の不明社。参道の先には二社祀られています。左の社は、天王社や津島社をイメージさせる赤で塗られている、右の社も社名札がなく不明。 愛知県神社庁に登録はなく、港区のHPにも紹介されておらず、不明ばかりでモヤモヤするが致し方ない。寄進物の裏側を見ていくとおぼろげながら歴史がみえてくるかもしれないが、この時期は蚊の集中攻撃に耐えなければならない。天王明神社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / 不明氏子域 / 不明例祭日 / 不明所在地 / 名古屋市港区錦町3-18錦神社から天王明神社まで / 錦神社から北西に220m・徒歩4分。参拝日 / 2026/8/7関連記事・二名社(にみょうしゃ)・荒子川水神社・錦神社
2026.08.23
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8/17、ツアーバスで三重県熊野市で行われた2026熊野大花火を見に行ってきました。 ツアーは9:00頃に名古屋駅を出発、途中休憩をとりながら会場となる熊野灘に面した七里御浜海岸で花火鑑賞後は取って返して、翌朝5時に名古屋駅に戻ってくるもの。以前からかみさんのリクエストがあったものの、車は帰り道の規制・渋滞、電車なら長蛇の列と苦手なことばかり。 昨年のきほく燈籠祭花火のときは、駐車場で車中泊ができたので、酒も飲め、翌日は混雑もなく観光も楽しめた。メジャーな花火大会は宿泊形態はなんでもいい、車で訪れ、現地泊まりが個人の理想、そんな自分向けに選んでくれたのがバスツアーだった。13:00、会場に到着。写真は熊野灘に面した七里御浜海岸から世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産である鬼ヶ城の眺め。 細かい小石が堆積する砂礫海岸が南の紀宝町まで延々25キロ続き、周辺には獅子巌や花の窟神社などがある。 ツアーは団体エリアにバスごとに区割りされ、紐で一名ごとに区画が用意されているので、場所取りの心配はない。ただ、16時まで立ち入りできず、それまでは鬼ヶ城まで歩く予定でいたが、手荷物を持ったままなので、市内散策や食べ歩きで時間を潰すことになる。 会場の沖には既に飛鳥Ⅱ・飛鳥Ⅲ・三井オーシャンフジのクルーズ船が停泊していた。 この3隻のほか、夕刻にはダイヤモンド・プリンセスも停泊し、船上では食事をしながら花火鑑賞となるようだ。クルーズの途中、熊野灘から優雅に花火鑑賞。 天気さえ良ければこれが一番いいのだが、雨に祟られたクルーズは意外に飽きてくる。とはいえ、海上から見る花火は経験がなく、どんな感じに見えるのか、こうした場合、右舷と左舷で価格設定が異なるのか、興味は尽きない。 少なくともイカ焼きや焼きそばの屋台がないのは確かなことだ。会場に帳が降りる頃、船には明かりが灯り、海岸には続々と花火見物に訪れた観光客が席に陣取り、打上げ開始予定の19時を今か今かと待ち焦がれるが上空には怪しい雲が漂いはじめる。 打上げは鬼ヶ城付近と海上の台船、獅子巌付近の三か所がメインで、舟を使った海上自爆など行われる。鑑賞場所が指定で、写真を撮るスポットがどこがいいのか分からないので、今回は嵩張るカメラは持ってこなかった。 三脚を立てじっくり撮影するなら花の窟あたりから撮ると三か所で打ちあがる花火を一枚に収められるかもしれない。しかし、この浜から眺める花火は迫力がある。 空気を揺るがし、背後の山々に反響する炸裂音とともに、頭上いっぱいに花開く光景、そして目の前で炸裂する海上自爆。まさに感動ものだ。三か所から同時に打ち上げられるスターマインは一枚に収まり切れないスケール感がある。 寝転がって上空を眺めるのが、いいかもしれない。この日は一時小雨に降られたり、風がなくなり連続的に打ちあがる花火の煙が滞留し花火が隠れ条件は良くなかったのではないだろうか。 クライマックスの鬼ヶ城大仕掛けは煙の切れ目から見えるような感じだった。しかし全長600mとも云われる三尺玉海上自爆は、遮るものなくクリアに見ることができ満足できるものだった。こうした海上自爆を体験するには浜席が一番適している。 浜には無料エリアがありますが、既に場所取りされており競争率は高そうだ。自分なら屋台や迫力あるこの光景は諦めて、獅子巌方向に逃げていくだろう。 打ち上げ終了後は混む前に市内から出たいものですが、打ち上げ終了の21:00~22時までは国道42号線は歩行者用として封鎖され、24時まで市内各所は一般車の通行が制限され、市内各所に停められたツアーのバスが優先的に移動できるように規制されます。無理に動かずに、駐車場で時間を潰し、日付が変わってから動くのがいいと思われます。 自分なら釣竿出して釣りを楽しむか、そのまま車中泊の二択だろうか。列車なら名古屋行きの上りが24:15が最終で一時間毎、下りは新宮行きで23:36を最終として約30分毎に運行されていたようです。 いずれにせよヨーイドンで一斉に動くので、混雑は避けられない、気長に行動するのが一番だろう。もうひとつの情報。 市内の笛吹橋を渡った先の熊野古道松本峠口に熊出没注意のポスター、道の駅マンボーにも同様のポスターを見かけました。今夜の海岸は香しい香りが漂っているので、誘われて熊も降りてくるかもしれない。2026熊野大花火訪問日 / 2026/08/17走行ルート
2026.08.22
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稲永駅から南西に徒歩10分ほどの港区錦町地内に鎮座する錦神社、今回はこちらを掲載します。左は大正時代、右は現在の錦町周辺の地図の比較で、かつては稲永新田と呼ばれていた地域に鎮座します。 当時のこの周辺は見渡す限り稲田が広がる一帯で住居などは皆無だった。その稲田の中にポツンと整地された区画がある。 この一画は明治45年(1912)、市街地にあった熱田遊郭が移転し、稲永遊郭として開かれた。 地の利の悪さから、中村遊廓に比べリーズナブルな歓楽街で港湾労働者も多かったという。町名の錦もそうした雅名からきている。色と欲にまみれた稲永遊郭も、昭和20年(1945)、空襲で焼失して以降、再興されることなく、戦後に赤線地区に指定されていた名楽園・城東園・八幡園・港陽園などに散っていったという。その中心に位置するのが錦神社。 錦神社のはじまりは、熱田遊郭がこちらに移転した際、熱田神宮と津島神社を勧請したことにある。社頭の全景。 鳥居は、この社標の立つ北側と、左の道路沿いの二箇所にある。 昭和三十七年寄進の社標と鳥居。 社殿はこの先の右側に纏められています。社殿全景。 高く積まれた基壇の上に三社、基壇左に稲荷社が祀られている。神社の歴史が遊郭誕生とともにはじまることから、新田の鎮守目的で祀られたものではなく、遊郭の鎮守のために祀られたもの。 愛知県神社庁に登録されており、愛知県神社名鑑では以下のように解説されています。『十五等級 錦神社(にしきじんじゃ)鎮座地 名古屋市港区錦町一丁目三六号 祭神 熱田皇大神由緒 この地はもと稲富新田と称し、文政三年(1820)熱田の社人粟田兵部の開拓にかかる。 明治九年(1876)、隣接の永徳新田と合併して稲永新田となり、愛知郡寛政村に属し、同四十年七月、名古屋市に編入し、昭和五年九月錦町と改称した。大正元年より熱田からの移住者増え錦町の新住者、町内安全を願い奉斎する。 時に昭和七年九月なり。同三十四年九月、伊勢湾台風で被災、同三十八年本殿を造営、平成二年に改築した。 例祭日 十月十二日社殿 本殿 神明造、社務所』とある。港区HPの錦神社解説は以下。 『明治43年頃、建立されたもので、中央に伊勢神宮と熱田神宮が、右に津島神社、左に秋葉神社がある。御神体はなく、毎年御札を迎えている。 日本武尊、素戔嗚尊を勧進し、後に商売繁盛のためお稲荷さんも建立されました。』と紹介されているが何れも熱田遊郭については触れてはいない。創建時期は港区HPでは明治43年頃の建立とされる一方、愛知県神社名鑑では昭和七年に奉斎されたとされ、資料による相違が見られ、本ブログでは神社名鑑の昭和七年と記載します。本殿前を守護する狛犬は色町らしく化粧が施されている。上は狛犬の台座。 寄進年は昭和七年で寄進者には大吉楼・八開楼と楼主名が刻まれ、かつての遊廓の名残を留めている。この年号の寄進物は常夜灯や東側の鳥居などにも見られるが、明治・大正の元号を記した寄進物は見かけなかった。 このことからも、神社名鑑の昭和七年というのは説得力がある。本殿域には、中央に伊勢神宮と熱田神宮の相殿、右に津島神社、左に秋葉神社がある。本殿は三社ともに神明造で右の津島神社を除いて、千木や鰹木の欠落が痛々しい。境内の手水鉢(寄進年未確認)。境内左の錦稲荷大明神。 創建時期や祭神など詳細は不明です。本殿正面の東参道口。 鎮座地の周辺は住宅街に変貌し遊廓の建物の名残は見られないかもしれないが、居酒屋やシャッターを下ろした店舗を見るとかつての歓楽街の香りは漂ってくる。東側の鳥居から眺める境内。 鳥居の右に「国威宣揚」と刻まれた石標があった。この神社が創建された時代を思うに、出征を前にここで思いを遂げ戦地に向かったのだろうか。稲永遊廓の中心で、錦町の鎮守と商売繁盛を願い祀られた錦神社、今は歓楽街の面影はない。錦神社創建 / 昭和七年(1932) ※神社名鑑による 祭神 / 熱田皇大神境内社 / 津島神社、秋葉神社、錦稲荷大明神氏子域 / 港区錦町例祭日 / 10月12日所在地 / 名古屋市港区錦町14-22公共交通機関アクセス / あおなみ線稲永駅から南西に徒歩約10分。参拝日 / 2026/8/7関連記事・二名社(にみょうしゃ)・荒子川水神社
2026.08.18
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荒子川水神社。 あおなみ線稲永駅から北東へ徒歩約5分の十一屋川緑地東園北側に鎮座する。十一屋川緑地東園は、名古屋市港区の十一屋川沿いに整備された細長い緑地帯。 南側に片側3車線の県道227号線が並行するように続いており、南北は住宅地が広がる地域。埋め立てにより生まれた土地なので緑に乏しく、十一屋川沿いに続くこの緑地は、県道と生活域の緩衝帯の役割を果たすとともに、木陰が続くこの公園は遊歩道や休憩スペースもあり憩いの場でもある。 赤のマーカーが荒子川水神社の鎮座地。 過去の地図を遡ってみても、鳥居の姿が記されるのは昭和になってからです。Gマップでは神社の鎮座地はどんぐり児童遊園地内と表示されますが、敷地には遊具らしきものも見当たらず、児童遊園地としては実感がない。南北に長い社地で、目の前の十一屋川に向かって社頭が設けられており、左右は住宅に挟まれている。 右側に昭和28年に寄進された「荒子川水神社」の社標があり、平成7年に寄進された白い明神鳥居を構えている。鳥居から境内の眺め。 境内には正面に本殿があるだけで、手水鉢や由緒を記したものなどは見られなかった。高く積まれた石垣の上の本殿、祀られているのはこの社のみでした。 いつ頃創建されたものか愛知県神社庁の神社情報を調べてみたが、当神社は登録されておらず、港区のHPからも創建・祭神などの詳細は分からなかった。鎮座地の稲永の前身は、文政三年(1820)、熱田の粟田兵部らが開発した「稲富新田」と、同九年(1826)、大喜下総らが開発した「永徳新田」が、明治九年(1876)に合併して稲永新田となった地域。 地名の十一屋は江戸末期、呉服商十一屋の主人 小出庄兵衛の所有地であったことに由来するという。寄進物や地図だけで判断するのは安直だが、少なくとも昭和初期の当地には、現在の県道の南に競馬場はあったものの、集落は見られない。 水を司る神を祀る動機を考えると、かつては田畑の鎮守として祀られたのではないだろうか。そのはじまりが幕末なのか、近代に入ってからなのかを明確に示す記述は見られなかった。本殿には社名や祭神を表す木札は見られなかった。本殿側面の眺め。 この石垣の高さは、何を物語っているのだろうか。境内からは、今ではほとんど流れのない十一屋川と、十一屋川緑地東園が望める。 その先は車の流れが多い県道が迫っている。荒子川水神社創建 / 不明祭神 / 不明氏子域 / 不明例祭日 / 不明所在地 / 名古屋市港区十一屋1-24公共交通機関アクセス / あおなみ線稲永駅から北東へ徒歩約5分。参拝日 / 2026/8/7関連記事・二名社(にみょうしゃ)
2026.08.17
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毎日毎日体温越えの気温が続き、炎天下のなか神社巡りも熱中症のリスクが伴う昨今、外出する機会は極端に少なくなりました。 この日はアジア競技大会のボランティア研修が金城ふ頭で開催されるため、久しぶりに外へ出ることになった。写真はあおなみ線「荒子川公園駅」 この日は横着して、自宅から車で荒子川公園駐車場に向かい、車を荒子川公園駐車場に停め、駅近の神社に参拝してからあおなみ線で会場に向かうことにした。 その候補に挙がったのが、駅から北に400mほどの距離にある二名社(にみょうしゃ)。 荒子川を越えたところにも善進神明社はあるが、二社巡るほど余裕はないので今回は諦めた。上の地図は左が大正9年の地図で、当時でも一面に水田が広がる地域だったが、僅か100年で水田は消え、住宅地が広がる地域に変貌した。往古の東海道以南は、遠浅の海岸が続く一帯で、石高を増やすには絶好の条件が揃っていた。 正保四年(1647)の熱田新田の干拓以降、寛政十二年(1800)には熱田奉行津金文左衛門の主導により熱田前新田の開発が始まり、突貫工事によってわずか6か月後の享和元年(1801)に完成、文化二年(1805)には検地が行われた地域。 しかし後の安政二年(1855)には、暴風雨のため新田堤防が決壊して大きな被害を受け、藩の財源不足から一時は放置されていたそうです。 荒子川と中川運河に挟まれた立地なので標高は1mほどだろうか。今回掲載する二名社は、この熱田前新田の歴史と深い関わりを持って誕生した神社と言ってもよいだろう。所在地はあおなみ線荒子川公園駅から北に6分程の港区寛政町6-1-2に鎮座します。 町名の由来は新田が開拓された寛政から付けられています。当地は明治二十二年(1889)町制施行で寛政村として設立し、明治三十九年(1906)には明徳・寛政・宝田が 三村が合併、小碓村となり、翌年には名古屋市に編入され同市熱田前新田となる。 大正十年(1921)愛知郡小碓村大字寛政、昭和12年に南区寛政町となった。二名社社頭全景。 鳥居左の社号標(1915)は「村社 二名社」と刻まれています。境内左に祭器庫と手水舎がある。コンクリート造り手水舎と拝殿方向の眺め。 そろそろ盆踊りの時期なんだろうか。拝殿は切妻平入のコンクリート造りで後方で幣殿と鞘殿が一続きになっています。 左右には社殿を優に超えるほどに成長した二本の楠木が聳えています。境内に由緒は見られず以下の二つの資料から情報を得る。 ひとつは港区の史跡散策路の解説で内容は以下のように記されている。「祭神は天照大神・日本武尊。安政六年(1859)2月15日勧請した。 昔は善進町の神明社と一つになっていたが、土地を中ノ割、社を西ノ割というように分けた。」勧請・祭神までは「なるほど」なんだが、それ以降の内容の捉え方が分からない。愛知県神社名鑑の解説は以下となっている。 「十三等級 二名社(にみょうしゃ)旧村社鎮座地 名古屋市港区寛政町六丁目一番二号 祭神 天照皇大神、倭武命由緒 創建は安政六年(1859)三月十五日と伝う。 明治五年、村社に列格する。昭和三十四年九月伊勢湾台風により社殿被災したが氏子の尽力により復興した。 同三十七年一月十六日港区港北町二丁目四十七番地を購入する。社殿 本殿 神明造、拝殿、社務所、祭器庫」 というものだった。創建は安政六年(1859)とあることから、新田堤防決壊後の再興に際し、当地の鎮守を願って二柱を祀るために建立されたのではないかと考えています。 拝殿右の「創始100周年碑」が立てられています。創建が安政六年(1859)とすれば、100周年は昭和34年(1959)で、奇しくも伊勢湾台風の年に当たります。 被災からの再興と合わせて建立されたものだろうか。社名の二名は馴染みがないが、思うにその二柱を表したものかもしれない。拝殿前の狛犬。 拝殿額。天照皇大神、倭武命を祀る本殿方向の眺め。拝殿右の忠魂碑。幣殿と棟持柱が見える鞘殿、鰹木は6本、内削ぎ千木が付くもの。社殿後方の社務所側から社殿の眺め。拝殿前から社頭の眺め。 かつては稲田を吹き抜ける風も心地よかったことだろう。盆踊りの時間ともなれば、涼しい風が吹き抜けたものだが、今では地表は覆われ熱風の吹き抜ける町になった。 二名社(にみょうしゃ)創建 / 安政六年(1859)祭神 / 天照皇大神、倭武命氏子域 / 港区寛政町例祭日 / 10月第2月曜日所在地 / 名古屋市港区寛政町6-1-2公共交通機関アクセス / あおなみ線荒子川公園駅から北に400m、徒歩6分参拝日 / 2026/8/7
2026.08.16
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専修寺と津四天王寺を訪れるため津を訪れた。 もともと津には縁もあり度々訪れていたが、今回は津に来るとよく立ち寄る鰻屋を紹介しようと思う。津駅の西口前に暖簾を構える「大観亭支店 津西口店」 津を訪れると良く立ち寄る店です。津は海が近いこともあり海産物が豊富で、この界隈では新鮮なビンチョウマグロなど販売する店も多かったが、今では様変わりしてそうした店も見られなくなった。 そんな中、昔から西口で鰻を焼く香ばしい煙を漂わせているのが大観亭である。間口は広いとは言えず、見窄らしい外観ですが、味は名の知れた店には負けてはいない。 名古屋の某店を考えると価格も安い。メニューは鰻丼、鰻重、ひつまぶしの他にも一品料理もある。 鰻丼は並丼・中丼・上丼があり、写真は蒲焼きが4切れ乗った上丼。肝吸いも付き、この味とボリュームで価格は1,400円〜2,500円。この店は三重の日本酒もあり、而今が飲める店でもあります。 よく耳にする銘柄だと一合1,000円以内、而今は2,000円とかなりお高いが、普段目にしないだけに飲むことが多い。飲み比べると香りや喉越しの違いは明確。 かみさんが目を離した隙にグラスを入れ替えても「変えた?」とすぐに分かるほどだ。美味しい鰻と美味しい酒を手軽に味わえるのが大観亭だと思います。大観亭支店 津西口店所在地 / 三重県津市大谷町261近鉄名古屋線津駅(西口)より徒歩1分営業時間 / 11:00~20:00(LO.19:30)不定休
2026.08.13
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日本一短い駅名として知られる津駅。 駅から南へ徒歩10分ほどの津市栄町に今回掲載する塔世山 四天王寺が鎮座します。歩道を歩いていると、写真の文化財解説と鐘楼門が見えてくれば四天王寺到着。 門に続く参道には松尾芭蕉の文塚や地蔵堂跡・平影清鎧掛松の碑がありますが、門は閉じられており、左側の山門から境内へ向かいます。四天王寺山門全景。 聖徳太子によって建立されたと伝わる曹洞宗のお寺で、境内には織田信長の母 土田御前や、津藩藩主の藤堂高虎の正室久芳夫人のお墓があり、歴史上の権力者から庇護をうけてきた。門前左側に四天王寺を訪れた坂村真民が記した大きな歌碑が置かれている。 この碑文には、長い歴史を紡いできた四天王寺と、本尊である薬師如来像への思いが込められています。四天王寺のはじまりは、6世紀の日本が仏教受け入れをめぐり、蘇我氏と物部氏の対立が深まり、やがて丁未の乱へと発展した時代に遡ります。 聖徳太子(厩戸皇子)は蘇我氏に与し、仏教を支持する立場にあったが、戦況は物部氏が優勢で、蘇我氏は三度退却を余儀なくされる。四度目の決戦を前に、聖徳太子はヌルデの木で四天王像を刻み、「勝利したなら四天王をまつる寺を建てる」と誓願して戦いに臨み、丁未の乱(587)は蘇我氏の勝利に終わり、物部守屋が討たれる。 太子は誓いどおり各地に四天王寺を建立したとされ、その一つが津市の「伊勢国 四天王寺」になります。創建年は明確ではないようですが、境内から奈良時代の瓦が出土するなど、1000年以上前には寺が建立されていた痕跡が見られるという。 聖徳太子によって建立された四天王寺は、ときの権力者から庇護をうけてきました。それを物語るように、境内には織田信長の母 土田御前や、津藩藩主の藤堂高虎の正室 久芳夫人のお墓があります。山門は江戸時代の寛永18年(1646)に建立された切妻瓦葺の四脚門で、派手な意匠の少ない落ち着いた佇まいで市の指定有形文化財になっています。 四天王寺は、その歴史の中で幾度か兵火にかかり伽藍を焼失し再興されてきた、昭和20年(1945)の空襲でもこの山門と鐘楼門を除き伽藍を焼失していますが、本尊の薬師如来坐像は、市郊外の蔵に避難させていたことから、空襲の被害を免れることができたという。四天王寺の現在の宗派は曹洞宗ですが、幾度か改宗を繰り返し、平安中期は律宗、その後天台宗へと改宗、室町時代には正海慈航禅師によって現在の曹洞宗に改められています。山門をくぐった右側に祀られている四天王寺稲荷大明神。中門は入母屋瓦葺の四脚門で二層は擬宝珠付きの高欄が付くもので、2代目藩主 藤堂高次により建てられたもので、正面と背面には花頭窓が施され、津市の有形文化財に指定されています。中門には應供客と記された額が掛けられている。中門から本堂の眺め。中門と山門方向の眺め、ここから写真左に向かうと冒頭の鐘楼門に続きます。 鐘楼門と右側の堂は琥珀観音堂、堂内には琥珀で作られた観音様が安置されていました。鐘楼門。 正徳三年(1713)に再建された鐘楼門で、上層は瓦葺の入母屋屋根の四脚門で左の階段から上層に上がることができる。梵鐘は、延宝8年(1680)、津の鋳物師・辻越後守陳種によって鋳造されたものであることが銘文に記されています。 この梵鐘の他、本堂軒下に同時期に鋳造された半鐘がある。本堂全景、現在の伽藍の大半が戦災以降に再建されたものです。 推古天皇の勅願により聖徳太子が整備したと伝わる津四天王寺。戦国時代の兵火によって多くの堂宇を焼失し、一時衰退しましたが、津城主となった織田信包によって再建されました。 本能寺の変の際、安土城にいた母・土田御前(花屋寿栄禅尼)を信包が引き取り、没後は当寺に葬られています。 関が原の戦いでは津城も戦場となりその兵火により再び焼失。 元和5年(1619)に津藩主となった藤堂高虎により再建。寛永14年(1637)に2代藩主藤堂高次が寺領を寄進しています。 本堂左の高台には藤堂高虎の正室 久芳院の墓もある。 上は本堂の配置図と拝観順序で、堂内の撮影は許されています。 訪れた時は聖徳太子像図、藤堂高虎公像図を所蔵する右側の間が個展開催中で立ち入り難い雰囲気で見てはいません。堂内の全景。 正面に釈迦如来坐像、右が薬師如来坐像、左に豊川稲荷大明神と三面大黒天像が安置されている。四天王寺の本尊「薬師如来像」 平安時代に生き、蘇我氏と対立した物部氏の物部美沙尾が自身の病気平癒を願って薬師如来像の造立を発願したことに始まります。物部美沙尾は仏像の完成を見ることなく亡くなり、思いを継いだ僧・定尋によって承保4年(1077)に完成しました。 この経緯は、仏像の胎内から見つかった紙に記されており、他には平安時代の鏡や櫛などが入れられており、当時の人々が物部美沙尾が生前愛用したものを納め、安寧を祈ったのではないかと思われます。 像高は65cm、一木割矧造、彫眼、漆箔で、仏師定朝の作とされています。祭壇右側に穏やかな表情が印象的な如意輪観音像が安置されています。中央の釈迦如来坐像と脇侍の馬頭観音像と阿弥陀如来像。左の豊川稲荷大明神と三面大黒天。普段見かける大黒様の顔立ちとは違い、向かって右側に毘沙門天、左側に弁財天の顔が合わさったもの。 戦国時代に広まり、一節には豊臣秀吉の若い頃、常にこの像を懐に忍ばせ、勝負運・財運・良縁を願ったという。堂内左の令和の大観音像と救世主観音像(右)。 宝石が散りばめられた冠の内側には、人々を救うために姿を変えた化仏と呼ばれる小さな仏様が飾られています。本堂外陣の天井には、波と波がぶつかって龍神が生まれ、真ん中に月が浮かぶ「波龍円相図」と呼ばれる天井絵が描かれている。 本堂前の十三重石塔から朱塗られた橋を渡る。 塔世山 四天王寺は西国四十九薬師霊場の34番札所にもなっています。庭園に鎮座する不動堂。不動堂の右にある目洗い地蔵。 中央の岩のくり抜かれた部分に小さな地蔵さんの姿がある。古くから湧き出る泉のようでこんな言い伝えがあります。 目の病で仕事ができず困っていた職人が、四天王寺に助けを求めて参拝に来たところ、痛みに耐えているこの湧き水の音に気づき、その水で目を洗うと痛みが消え、視力も戻ったという。職人は薬師様に感謝して参拝し、その後は病も治り仕事に励めるようになったという。 以来、目洗い地蔵と呼ばれるようになったという。目洗い地蔵から墓地方向に進み、右の斜面の先に藤堂高虎の正室久芳院の墓と織田信長の生母・土田御前の墓があります。上が織田信長の生母土田御前の墓、法名は花屋寿栄禅尼です。 織田信秀の継室となり、信長・信行・秀孝・信包・お市・お犬を産んだとされ、本能寺の変の後は津城の織田信包を頼り、晩年を津で過ごした。下が藤堂高虎の正室で一色義直の娘久芳院の墓、法名は久芳院殿桂月貞昌大姉。 高虎は、7度も主人を変えたことや、築城の名人として知られますが、一方で愛妻家としても知られる戦国武将で、後に津藩初代藩主となった高虎は、戦火で荒れた津城や城下の復興、正妻の菩提寺である四天王寺の再興に尽力したという。四天王寺は西国四十九薬師霊場の34番札所の他、伊勢の津七福神巡りの大黒天の寺になっているようで、津市内の由緒ある七つの神社仏閣を巡拝する歩き方もあるようです。幾度もの兵火や戦災を越え、権力者の庇護を受けながら今日まで受け継がれてきた四天王寺。 その境内には、津の歴史を刻んだ人々の足跡が今も静かに残されています。津市栄町 「塔世山 四天王寺」宗派 / 曹洞宗創建 / 6世紀頃開山 / 聖徳太子本尊 / 薬師如来像中興 / 元和5年(1619)所在地 / 三重県津市栄町1-892参拝日 / 2026/7/13関連記事 ・三重の国宝二堂を訪ねて 一身田寺内町と高田山 専修寺・津市一身田町「一御田神社」
2026.08.12
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三重県津市の高田山 専修寺を訪れた際、太鼓門から東に進んだ一身田町地内に鎮座する「一御田神社」を見かけたので今回はこちらを掲載します。写真は高田山 専修寺境内の東側に建つ太鼓門、そこから東に続く生活道路が伸びています。 かみさんとの集合時間には少し余裕もあり、専修寺の環濠を探しに東に歩いてみました。太鼓門から80mほど進んだ左側に写真の一御田(いちみだ)神社を見かけ立ち寄ってみた。 道路から眺める境内は左に赤い鳥居を連ねる稲荷社と拝殿、更に右側に鳥居の姿が望める。 ここから道路を右に進むと一御田(いちみだ)神社の社頭があります。社頭全景。 右側に古びた「一御田神社(いちみだ)」の社標が立っています。よく見ると社名の上は文字が刻まれていたのを埋めた形跡が見られます。 旧社格が刻まれていたと思われます。石の鳥居に掛けられた銅製の額には一御田神社とあります。参道に入ると左に舟形の手水鉢が置かれ、笠木と島木の反りが大きな明神鳥居……あれぇ、貫が柱から出ていない。 これまであまり気にしていなかったのか、今回やけに目に止まる。神明系なんだろうか。境内にはこの他に三つの鳥居が建てられています。写真の常夜灯の竿には「梵天宮」と刻まれています・・・・・・梵天さまを祀るお宮さん? 調べてみたところ、この神社は、元は「天ツ宮」と称されていたが、寛文8年(1668)に高野山沙門の春深によって「梵天宮」と改称されたが明治政府の神仏分離を受け、往古の地名に因み現在の社名である「一御田神社」に改称されたということで、石灯籠寄進年は明治以前のものだろう。 境内の一御田神社神宝類の解説。 大半が室町時代(1336~1573)のもので、特に棟札は22枚残り、中には嘉吉元年(1441)のものがあり、専修寺が建立される以前からこの地に祀られていたことになる。参道正面の狛犬と木造神明鳥居。 正面の神門には「天満宮殿」と掲げられており、「殿」の文字を付した社号はあまり見かけない。狛犬と鳥居はこの天満宮のものだろう。境内右の木造神明鳥居は慰霊殿のもの。天満宮と慰霊殿の本殿、左に写り込んでいるのが一御田神社の社殿。 一御田神社拝殿前の鳥居は石造の明神鳥居で、切妻平入の拝殿の軒下には神仏習合の名残を感じさせる鰐口が吊るされています。拝殿左側に一御田神社の概説が掲げられていました。 概説から一部抜粋「この神社は原始時代に農業集落であったころからの鎮守で、農耕と水の神を主神とする。最古の棟札には36軒の農民が神社に奉仕していたことが記されている。」三重県神社庁は一御田神社について以下のように述べています。 『一御田神社 天満宮、花山稲荷神社、一身田区戦没者町功労者慰霊社(一身田町戦没者町政功労者121柱の神霊を祀る) 神社の創立年月日は不詳であるが、社殿創建前は本殿西隣の欅の古木が御神木であり信仰の対象であったと考えられている。棟札に嘉吉元年(1441)のものがあるので、創建はこれ以前と思われる。 寛文8年(1668)に天ツ宮と称してきた社名を高野山沙門の春深により梵天宮と改称された。その後、周辺に専修寺文教施設が設置された事から菅原道真公(天神)を祀る天満宮が勧請される。 官公が雷を境内井戸に封じ込めて以来当該地区には落雷が無くなったとの伝承が残っている。現社名である一御田神社は、明治期に往古の地名に因み改称された。特殊神事 御田植祭 往古より続く御田植祭は、毎年5月に催行される特殊神事で、板書に記された御田植歌の歌詞からも伊勢の神宮への御供米調進を行っていた関係を伺い知ることが出来る。現在は拝殿前に砂利で田の形を造り神職が歌を奉唱する間、稚子(女児)が松葉を苗に見立てて植栽して地域の豊作と平和を祈願する。主祭神 高皇産霊神、神皇産霊神(天ッ神)合殿 菅原道真公、大山祇神、大山津見神、大日霊貴神、猿田毘古大神、波迩夜須毘売神、金山毘古神、深淵之水夜礼花神、天宇受売命、火産霊神、豊宇気比売命、宇迦之御魂神境内地に一御田神社・天満宮・花山稲荷神社・慰霊殿が鎮まる。 祭祀 歳旦祭 天満宮祭 節分祭 初午祭 御田植祭 慰霊祭 例祭 七五三祭 大祓祭昭和34年には所蔵品27(能面、棟札、扁額、板書御田植歌等)が津市より歴史資料文化財に指定されている。』当社が伊勢神宮への御供米調達を行っていた由緒に因み、現本殿は遷宮後の神宮末社社殿を拝領されたもの。拝殿左側の花山稲荷神社の朱の鳥居。奉納鳥居の先は覆屋と切妻屋根の本殿が建てられています。御田植祭が行われる境内と社殿の眺め。 当初は専修寺の傍らに鎮座する小規模な神社という印象だったが、専修寺が建てられる以前より、一身田集落を見守り、村人が受け継いできた歴史のある神社だった。目的地であった国宝二堂を有する専修寺と、専修寺より以前に一身田に鎮座する一御田神社を訪れ当地を後にして津に戻ることにします。 一身田町にはこれらの他にも見どころの多い土地柄なので再度訪れたいと感じた。津市一身田町「一御田神社」創建 / 不明(嘉吉元年の棟札)祭神 / 高皇産霊神、神皇産霊神境内社 / 花山稲荷神社、天満宮、慰霊殿例祭 / 御田植祭他所在地 / 三重県津市一身田町679 参拝日 / 2026/7/13関連記事 / ・三重の国宝二堂を訪ねて 一身田寺内町と高田山 専修寺
2026.08.11
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名古屋から近鉄とJRを乗り継ぎ1時間15分ほど、三重県津市一身田町地内の高田山 専修寺を訪れてきました。津駅からJR紀勢本線で専修寺の最寄り駅一身田駅に降りたつ。 座れて良かったと安堵したが、たった一駅でしかも無人駅。駅舎の西側は長閑な景色が広がり、駅舎の外観と相まって味のある駅です。駅舎付近で見かけた一身田寺内町マップ。 駅の西側には旧伊勢別街道が伸びており、「いせみち」「参宮道」「山田道」などと呼ばれる。関宿東追分から津市芸濃町、津市一身田を経て、伊勢街道に合流する江戸橋までの総距離およそ18kmの街道です。 政治の中心が大和にあった頃、大和から伊賀を通り伊勢に至る主要ルートで幾つかの宿場町があり、江戸時代には京都方面からの参宮客で賑わったという。一身田駅から東に300mほど進むと、左手に檜皮葺でシックな色合いの唐門が現れます。唐門(重要文化財)。 如来堂の正面に建つ門で、文化6年(1809)に木挽きが始まり、文政10年(1820)に地築き、天保15年(1844)に棟上げをしている。屋根は檜皮葺で、正面と背面の軒に大きな唐破風があることから唐門と呼ばれる。 控柱4本が腰長押から下で、斜め外に踏みだした形になっているのは注目される。材料はすべて檜造りで、厳しく吟味された良材が用いられ、細部まで入念な仕事が施されています。 腰長押と飛貫との間、扉、その脇の小壁、欄間には勢いのある菊、ぼたんの透かし彫が彫られ、他の部分にも親子の獅子や力士の彫刻がされるなど、華麗で複雑な構造をした門である。造営時に配られたと思われる木版刷りの立面図が残っていて、それによると始めは檜皮葺と本瓦葺の2案が考えられていたらしい。 大工の棟梁は近江国八幡(滋賀県近江八幡市)の高木作右衛門光規、同光一の2代で、光規は如来堂を建立した人物の孫にあたる。唐門正面から如来堂の眺め。唐門から東へ約80m進むと、入母屋瓦葺の二層の山門が建っています。 高田山専修寺の総門に当たる重厚な門で、この門の南側には石畳の参道が伸びています。専修寺山門(重要文化財)。 御影堂の正面にあり、専修寺の総門にあたる。すぐ前には、道をへだてて石畳が伸び、その途中にある石畳や釘貫門、左右にある玉保院、智恵光院、さらに古い町並と一体になって、本山の門前にふさわしい雰囲気をつくっている。 2階建て、間口20m、奥行9m、高さ15.5mの大きな門である。正面の柱間は5間で、そのうち中の3間に扉を付けて入口とし、2階内部には釈迦三尊像を安置している。 下層の組物は大仏様の形式をとり、挿肘木という肘木が斗にのらず直接柱に挿し込まれる形になっている。全体の形式と組物の用い方は京都の東福寺三門(国宝)、応永12年建立(1405)とよく似ており、参考にしたと思われるが、裏側で3間分だけ屋根が張り出す裏向拝は他に例をみない珍しい手法である。 瓦の刻銘その他の史料によると、元禄6年(1693)ごろから建築にとりかかり、宝永元年(1704)頃に完成したものと思われる。柱などの部材の傷みや傾きが激しくなったため、平成5年より3年がかりで大規模な修理が行われた。大きな山号額さえ小さく見えるほどの威厳ある山門。山門から眺める御影堂(右)と如来堂。高田山 専修寺の伽藍配置。 広い境内、まずは真宗を開いた親鸞聖人を祀る御影堂に向かいます。境内から銅燈籠と山門、手水舎、唐門の眺め。銅燈籠(津市指定有形文化財) 江戸時代。この銅燈籠は、辻越後守陳種の代表的な作品で、笠には8個の蕨(わらび)手がのびやかにつけられ、笠の上には火焔の付いた宝珠がのせられています。基礎と中台は側面を8つに分けていて、基礎には唐獅子が浮彫りされ、全体に釣り合いのとれた、どっしりとした重厚な風格を感じさせる燈籠です。どちらも飯高郡名残町(松阪市新松ヶ島町)の小嶋角兵衛慶次等が3人の33回忌供養のために寄進したもので、この3人の供養が終った後の寛文11年(1671)と延宝7年(1679)に造られたものと考えられます。専修寺ではこの年の9月、御影堂の再建落慶法要をとり行っています。作者の辻氏は釜屋町に住んでいた鋳物師で、このほかにも津市内の寺院の梵鐘や銅燈籠など多くのすぐれた作品を残しています。専修寺には、辻越後守陳種の先代の辻越守重種とその一族氏種が鋳造した銅鐘(市指定文化財)が鐘楼(重要文化財)にあります。山門正面に鎮座する入母屋瓦葺の御影堂。 右側から眺める破風の意匠。三間の大きな向拝。 屋根を支える部分(尾垂木)の先端には龍・獅・麒麟・象の彫刻が施され、蛙股に中国の故事にちなんだ人物の彫刻が見られ、細部に手の込んだ意匠が施されている。御影堂(国宝)江戸時代。 専修寺伽藍の中心にある建物で、真宗高田派の開祖親鸞聖人の坐像と歴代住持の画像(これらの像のことを御影と呼ぶ)を安置しているので御影堂といわれる。正保2年(1645)の大火ののち、津藩2代藩主藤堂高次から土地の寄進を得て、境内地がそれまでの3倍の約3万坪に拡がった。 その境内地の中央に万治2年(1659)から建設が始められ、寛文6年(1666)に完成した。間口約42m、奥行約33mという大建築で、近世以前の国宝指定仏堂のなかで全国5番目の大きさを誇る。 屋根瓦は約19万枚使われ、中の畳も内陣の板の間をのぞいて729畳も敷かれている。外観は和様という日本的で重厚な建築様式になっているが、内部は金欄巻きの柱、極彩色の天井、欄間の牡丹の彫刻など豪快さが目立つ。 本体と向拝をつなぐ虹梁上の構造が長野の善光寺本堂などと同じ構造なのも特徴の1つである。大工の主棟梁は江戸坂本三左衛門であったと伝えられているが、この人物は江戸幕府の御用大工だったらしく、藤堂藩を介して専修寺御影堂の建設に加わったと思われる。 また脇棟梁のひとり森万右衛門は一身田の人で、その後幕府作事方の一員として活躍したことも知られている。御影堂の内部に入り、まず目を引くのは欄間に施された彫飾りの数々。 堂内は手前から奥に向かって長細い鞘の間、大間、中陣、内陣にわかれ、鞘の間と大間の境目の欄間には鳥や花、想像上の動物など様々な彫り物が施されています。写真は欄間を左から順に並べています。中央の大きな欄間三枚には、それぞれ、想像上の動物が描かれています。 上から麒麟、龍、鳳凰が細かく彫られ色鮮やかに彩色されています。その右側の欄間の意匠。 上は孔雀に雉だろうか、下のふたつは右が鷹のように見えるが左は良く分からない。大間から中陣の眺め。 天井から梁・柱・欄間など全面に文様や彩色が施され、黄金色の欄間や柱など実に荘厳な眺めです。内陣の空殿に安置されているのが真宗を開いた親鸞聖人の坐像。 金色に輝く勅額の「見真」は明治天皇から宗祖・親鸞聖人に贈られた「大師号」。如来堂(国宝)と通天橋(重要文化財)。通天橋は御影堂と如来堂を結び、切妻瓦葺の長さ31.9mの廊下です。棟札から、寛政12年(1800)に上棟され、大工棟梁は名古屋の伊藤平左衛門吉俊であったことがわかります。また、破風の鶴の彫刻には墨書があり、寛政10年(1798)の銘があります。瓦の銘書には享和元年(1801)の年号があり、この頃に竣工したと考えられます。上は如来堂から通天橋の眺め。 下は通天橋の屋根を支える柱、この一本だけ接手が施されていたので写真に収めました。竣工後の補修の過程で施されたと思われますが、それがいつなのか定かではない。如来堂の妻壁には左甚五郎作と伝えられる鶴の彫物が取り付けられています。専修寺如来堂(国宝)江戸時代 。御影堂の西にならぶ建物で、堂内中央に「証拠の如来」と呼ばれる専修寺の本尊阿弥陀如来立像(国指定重要文化財)が安置されています。「如来堂御建立録」によると、享保4年(1719)に建設が始まり、資金不足のために工事には30年近くを要し、寛延元年(1748)に落慶遷仏の行事が行われた。東南隅の礎石に「寛保三年(1743)七月十二日」「本覚道元信士 俗名勘六」という刻銘があり、勘六という老人が工事の成功を祈願して人柱になったという伝説が残る。屋根は2重になっていますが、2階部分はなく、下の屋根は裳階といって庇のような役目をしています。全体は禅宗様式で、組物が複雑で彫刻も多く、華麗な印象を受ける建物です。上は内陣の眺め。 欄間の上には煌びやかな笙、太鼓、琴などの雅楽器の彫刻が施されています。極楽浄土ではその音を聞く者は皆、三宝(仏・法・僧)を敬う心を起こすとされ、全てが美しく調和する浄土世界を表現したものという。下はご本尊の阿弥陀如来像を納めている金色の宮殿。 彫刻や金箔で華麗に装飾され、扉には元文六年(一七四一)に京都で制作されたと記されているという。本尊の阿弥陀如来像(証拠の如来)。かつて比叡山延暦寺は真宗の教えに対し、高田派に疑義を抱いた時代があったといわれています。高田派第10世、真慧上人はその疑義を解くべく、比叡山延暦寺の学僧に対し教えを詳しく伝えた結果、延暦寺はその教えが真宗正統であると認め、証として阿弥陀如来像を専修寺に贈られたそうです。そのことから尊像は「証拠の如来」と呼ばれ一身田本山専修寺の本尊となっている。製作年代は、鎌倉時代中期、13世紀後半頃とされ、衣全体に繊細な切金文様が施され、慶派仏師・快慶の様式を伝えるもので、足裏に仏足文を表し、手足の指の爪や蓮華座の蕊に金属を用い、本体を銅柱で台座に固定するなど特色ある造法のもの。如来堂全景。 東大寺大仏殿にも通じる外観は、入母屋平入で、三間の向拝の中央に唐破風が付く大建築。伽藍全体を通して組物の意匠は非常に精巧です。 如来堂左の太子堂と境内に置かれた無数の鉢植えの蓮。 当日は蓮の花が咲き始めていました。太子堂から左に進んだ先の御廟拝堂・御廟唐門。御廟拝堂・御廟唐門及び透塀(重要文化財)江戸時代。 正面の御廟唐門から御廟拝堂、石橋と続き、その奥に親鸞の墓「御廟」があり、それをとり囲むように専修寺歴代住持の墓が配置されています。御廟唐門は文久元年(1861)の建築で、屋根は檜皮葺、長押や柱の間や扉などは工芸品のように美しく隙々まで彫刻で埋め尽くされています。 左右に連なる透塀も同時に造られたもので、腰廻りにスイセン、ハス、タンポポなどの草花の彫刻が付けられています。御廟拝堂は江戸後期の銘文で安政5年(1858)の建築と考えられ、屋根の4面に千鳥破風を付け、正面軒に唐破風を付けています。 内部の床は瓦の接ぎ目を斜めにした、いわゆる四半敷で敷かれています。親鸞の墓「御廟」は寛文12年(1672)、専修寺に伝えられていた親鸞聖人の遺骨5粒を埋めて造られたものです。御廟唐門と透塀。御廟拝堂。 入母屋瓦葺で前後に千鳥破風が付き、正面に唐破風が付くもの。拝堂正面全景。 拝堂正面や唐破風向拝の意匠も手が込んだもの。上は拝堂内部から御廟の眺めと御廟の全景、親鸞聖人のお墓になります。 右手の切石が積まれ、石柵と石門で囲われた中に、四角形の石が置かれているだけで墓標もない。古目録に、寛文12年(1672)この墓を造営し、遺骨の一部を埋納したことが記されているという。 拝堂の右奥に雲幽園や安楽庵がありますが、当日は立ち入り禁止だったので、ここから再び御影堂に戻り、境内右側の伽藍を見てまわります。 専修寺鐘楼(重要文化財)江戸時代。 一般的な鐘楼建築と同様に1間四方で、入母屋造の屋根をのせている。4隅の柱は、先を内側に倒した四方転びという形式である。 その間には、八角形の柱が2本ずつ入れられている。肘木の先を大仏様風にするなど、全体的に奈良東大寺鐘楼に似たイメージを与える。 平成5〜7年に行われた大修理において、鬼瓦から正徳元年(1711)の刻銘が発見されたので、そのころに再建されたものと思われる。江戸時代中期の大型の鐘楼として質も高く、貴重な建物である。銅鐘(津市有形文化財)江戸時代。 専修寺第15世専朝の夫人高松院が専朝の7回忌を迎えるにあたって、慶安5年(1652)に辻雄佐守重種と一族の氏種に鋳造させたものである。高松院は初代津藩主藤堂高虎の長女である。 堯朝は江戸幕府より専修寺に伝わる親鸞自筆の文書を将軍家へ献上せよと、働きかけがあったことに対して抵抗したと言われており、正保3年(1646)江戸で切腹している。その時堯朝は32歳の若さであった。 作者の辻氏は津の釜師町に住んでいた鋳物師で、この地方にすぐれた作品を数多く残している。鐘には慶安5年の銘文がある。大玄関・対面所(重要文化財)江戸時代。 御影堂の北東にあたる対面所・大玄関をはじめとする建物は、天明3年(1783)の火災で焼失しており、対面所は天明5年(1785)に再建されました。桁行24.5m、梁間19.5m、入母屋造本瓦葺の建物で、召見殿とも呼ばれます。 本山寺院にふさわしい規模と品格を備えた建築で、3室5列の15間と、その周囲を廻る入側縁をもつ間取りは壮大です。大玄関は対面所から少し遅れて寛政2年(1790)に再建されたと伝えられています。 再建当初は対面所の東に位置し、正面を東にして建てられていましたが、明治11年(1878)に現在の位置に移築され、その際に正面を南向きに変更されました。大玄関・対面所の右側に建つ食堂、ここから奥に進むと宝物館 燈炬殿に至ります。食堂の右の太鼓門、この門から東側が境外になります。 平屋建ての長屋門の上に三層の櫓をのせ、最上階に大太鼓が吊られている事から「太鼓門」と呼ばれています。専修寺の外周は環濠が廻らされていますが、東側の濠は太鼓門より更に東に見られ、かつての寺領はかなり広大だったことが伺えます。参拝を終え山門から境内を後にします。 山門の先には石畳が伸び、その左右に玉保院、智恵光院が鎮座し、その先の釘貫門が境内と門前町を区切っています。三重の国宝二堂を訪ねて 一身田寺内町と高田山 専修寺宗派 / 真宗高田派 本山創建 / 文明年間(1469~1487)開山 / 真慧本尊 / 阿弥陀如来(証拠の如来)所在地 / 三重県津市一身田町2819参拝日 / 2026/07/13専修寺公式HP
2026.08.08
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うんざりする酷暑が続き、空調の効いた部屋から一歩も外に出たくない毎日が続く。 そんななか、外に出かけろとばかりにTDSのチケットが届いたので7/8から7/9にかけて東京に出かけました。今回の目的は前回未完成だったフローズンキングダムとTDSアニバーサリーイベントのスパークリング・ジュビリー・ナイトとシー・オブ・ドリームスを鑑賞、二日目は台場からレインボーブリッジを歩き、帰り際に明治神宮・靖国神社に参拝し、ごった返す観光地には近寄らないものだった。名古屋から遅めの新幹線に乗車し一路TDSへ。到着したのは昼頃。開園から今年で25周年を迎え、場内はジュビリーブルーをテーマカラーにした装飾が盛りだくさん。これもそのひとつ、よく冷えたビールが注がれたアルミ製のカップは手に持つだけで火照った体をクールダウンしてくれる。 入場後真っ先にフローズンキングダムの列に並ぶ、アトラクションに入ってしまえば涼しいのだが、並んでいる時間は陽射しから逃げようがない。予約システムもあるが、それのために映画一本分投資することになる。 炎天下の下、リスクを抱えながら並ばせるくらいなら、一般客のゲートに端末を読み込ませ、搭乗30分前に知らせるシステムを導入しないのだろうか。 姑息な者がいたりするので並ぶしかないのだろうが、回転ずしの席待ち対応の方が遥かに自由が利く。この日はフローズンキングダム・ネバーランドアドベンチャー・ヴェネツィアン・ゴンドラの三つを巡り夕刻を迎える。 このメディテレーニアンハーバーの海上とホテル外壁を使用した映像でショーが行われます。色々な仕掛けとキャラクターが乗った台船がハーバー内を航行し、30分ほどのショーでしたが、花火とともに存分に楽しむことができた。 尚、花火打ち上げについては大人の事情から夏季は中止になっており、8月に打ち上げ予定はなくある意味貴重な体験だったのか。 東京ディズニーシー所在地 / 千葉県浦安市舞浜1-13今回のホテルは有明の相鉄グランドフレッサ 東京ベイ有明、お任せで予約したら19Fのエグゼクティブスイートだった。 二人一泊のスペースとしては十分すぎるものだった。予定では、ここから歩いてレインボーブリッジの夜景を見がてら橋を歩くはずだったが、空調の効いた部屋に入るや外に出る気は失せ、ホテル内のコンビニで酒を買い求め酒盛りに変更。相鉄グランドフレッサ 東京ベイ有明所在地 / 東京都江東区有明3-6-6翌朝、夢の大橋を越えて台場公園まで片道約2.3kmの散歩。 もともと海だった所を埋め立てて造られた地域だけに、都心に比べれば解放感があり、風を感じられるが、自然の木陰などは皆無と言ってもいい。おだいばビーチからレインボーブリッジの眺め。 手前の石垣で囲まれた島は品川台場の第三台場と奥の小島が第六台場で左が鳥の島と呼ばれる堤防。今回の目的地はかみさんに全て任せ、リクエストはしなかったが、ここにくると聞いて、台場は一度見たい場所でもあり、橋に向かう前に第三台場を訪れた。お台場海浜公園の北側にある人工島、品川第三台場。 フジテレビや自由の女神像がある台場の由来となった建造物が品川台場。台場の名からも分かるように、ここは海上から江戸進入する船舶の侵入を阻止する目的から造られた人口の要塞跡で見所はこの石垣にあります。 鎖国を続けてきた日本、嘉永6年(1853)7月、突如現れた黒船の来航に危機を感じた江戸幕府は、江戸湾の海防強化のため6つの台場を築造しました。当初は南品川猟師町(品川洲崎)から深川洲崎にかけての海上に11基の台場を築造する構想だった。工事は翌月の嘉永6年(1853)8月末から昼夜兼行で進められ、台場で使われた主な石材は、伊豆や房総半島から切り出された安山岩や凝灰岩、土丹岩が品川台場に送られ、翌年7月に第一・第二・第三台場、12月には第五・第六台場と途中で加えられた陸続きの御殿山下台場が完成した。築造時の絵図など残ります。重機のない時代、僅か1年で海上に築かれた台場(砲台)は、将軍家に近い大名によって、慶応4年(1868)の幕府崩壊直前まで江戸湾警備の拠点として機能した。その台場の一部が現在残る第三台場と第六台場になります。台場は全周を土塁で囲み、その中に砲台・玉薬置所・火薬庫・陣屋・竈が設けられたが、礎石が残るのみで砲台などは後に復元されたものという。海に浮かぶ台場は、第三・第六台場を残して埋め立てや撤去により姿を消したが、石のみ跡が残る石垣は当時をしのばせてくれる。現在の第三台場は、都立台場公園として無料開放されています。台場からレインボーブリッジ遊歩道へ。 やはりここは夕涼みがてらに夜景を見に訪れるのがいいだろう。P29橋脚から先の眺め、左下に写り込んでいるのが第六台場、渡るかと思っていたがここからUターン。朝の散歩には結構あるか。 ここからP31橋脚に戻り、サウスルートの歩道から台場方向に向かう。サウスルートP29橋脚から眺める第三台場、夜では見えないかなぁ。P29橋脚のお台場海浜公園解説。 この後、お台場海浜公園駅からゆりかもめに乗車し有明駅に戻り、ホテルを後にして明治神宮参拝に向かった。台場公園 所在地 / 東京都港区台場1-10-1都心に造られた広大な杜の中に鎮座する明治神宮。 初詣参拝者数全国一位を誇り、明治天皇と昭憲皇太后をお祀りする神社。写真は三ノ鳥居から南神門。明治神宮所在地 / 東京都渋谷区代々木神園町1-1靖国神社、護国の英霊を祀る神社。 みたままつりの準備が進み、日本人として一度は参拝に訪れるべき神社だろう。両社ともに参拝者の8割近くがインバウンド客だったのに驚いた。靖国神社所在地 / 東京都千代田区九段北3-1-1皇居東御苑。 一度は一般参賀の列に加わってみたいと思いながらも叶わない。今回は北桔橋門から天守台の石垣を眺め、大奥跡の木陰で横になり休憩の後、皇居東御苑を横断し大手門から東京駅に向かう。江戸城天守台所在地 / 東京都千代田区千代田1東京観光(TDS・台場公園第三台場・明治神宮・靖国神社・江戸城天守台)2026/7/8~7/9
2026.08.07
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JR身延線「善光寺駅」から北へ約1km。また、中央自動車道「笛吹八代スマートIC」から県道313号線・国道411号線を経て約20分の場所に、甲府市善光寺に鎮座する甲斐善光寺があります。上は境内の観光マップで、場所は山梨県庁から東へ約3kmほどに位置します。 善光寺駅の東側にある「善光寺入口」交差点を北へ進むと、表参道にあたる善光寺通りに入ります。道の正面奥には、朱色の山門と金堂の屋根が遠くに見えてきます。約1kmほど真っ直ぐに伸びる善光寺通りの正面に、甲斐善光寺の二層の朱塗りの山門が堂々と聳えています。寺の入口となる朱塗りの堂々たる山門は、ほぼ南向きに建てられた桁行5間に梁間2間の入母屋銅葺き屋根の二層の門で、上層は擬宝珠高欄が廻され、両脇に火灯窓と連子窓が施され、中央に定額山の寺号額が掛けられています。 下層の正面3間は壁や扉のない吹放ちで、両の間に仁王像を安置しています。桁方向が約17mで梁方向は約7mにも及び、屋根までの高さは約23mにもなる巨大な楼門。両の間に安置されている仁王像、なにか違和感は感じないだろうか。 山門から金堂を望む。 山門をくぐって左に立てられている山門解説。 国指定文化財の山門は江戸時代中期の宝暦四年(1754)大火で本堂と共に焼失したが、明和四年(1766)金堂に先立って上棟供養が行なわれている。昭和34年の台風で被災したが、翌年に修理がはじまり、昭和37年(1959)に竣工したが、約70年を経た現在は朱も剥げ落ちており、次の修復が必要な時期にきているようだ。 その際は無数に貼られた千社札を一掃してほしいものです。境内から善光寺通りを望む。香炉台と金堂、左は手水舎の眺め、写真では切れていますが左に地蔵堂がある。上は栞の境内マップ・周辺マップと甲斐善光寺の文化財の解説。香炉台左の地蔵堂の眺め、後方に芭蕉翁月景塚がある。地蔵堂内の眺め。 祭壇には無数の水子地蔵が安置されています。澄み切った水を湛える庭園の脇に立つ芭蕉翁月景塚の石標。宝珠の付いた宝形屋根の下の手水鉢。金堂を左斜めから眺める。 二重の屋根の撞木(しゅもく)造と呼ばれる形式で、正面の三間の向拝には唐破風向拝、左右に一間軒唐破風が付くもので、何れの向拝も肘木や木鼻など意匠に拘りを感じます。信濃善光寺のシックな色合いに比較すると、朱に塗られた甲斐善光寺金堂は華やかで堂々とした大建築です。甲斐善光寺栞の由緒は以下のようなものです。 『当山は、開基武田信玄公が、川中島の合戦の折、信濃善光寺の焼失を恐れ、永禄元年(1558)、御本尊善光寺如来像をはじめ、諸仏寺宝類を奉遷したことに始まります。板垣の郷は、善光寺建立の大檀那本田善光公葬送の地と伝えられ、善光寺如来因縁の故地に、開山大本願鏡空上人以下、一山ことごとくお迎えいたしました。 その後、武田氏滅亡により、御本尊は織田・徳川・豊臣氏を転々といたしましたが、慶長三年(1598)信濃に帰座なさいました。甲府では新たに、前立仏を御本尊と定め、現在に至っております。 江戸時代には、本坊三院十五庵を有する大寺院として浄土宗甲州触頭を勤め、徳川家位牌所にもなっておりました。豪壮な七堂伽藍は、一度焼失いたしましたが再建され、東日本最大級の伽藍として広く知られております。 また、重要文化財五件・県指定文化財四件、市指定文化財八件をはじめとする文化財の宝庫として著名で、その一部は宝物館等で公開しております。』とある。現在の金堂は寛政8年(1796)に再建されたもので、総高27m、奥行49mという大建築で、内部は前寄りの二間が外陣、一間を中陣、三間が内陣、四間を内々陣、後方一間が後陣となっている。武田菱の下の懸魚に花をあしらった鰭と妻壁の装飾。正面の三間の破風にあしらわれている龍の彫飾り。 こちらは向かって左側。中央の龍の彫飾り。右側の龍の彫飾り。向拝から外陣、中陣の眺め。金堂正面厨子に安置される、本尊阿弥陀三尊像は、建久六年(1195) 尾張の僧定尊が、信濃善光寺の前立仏として造立したものという。 善光寺の本尊は、仏教伝来とともに将来された、生身すなわち、実際に生命が宿っている霊像として深く信じられており、絶対の秘仏のため、人々が拝むことは叶いません。そこで鋳造されたのが、本尊であるとされ、本像は、いわゆる一光三尊式善光寺如来像の中では、在銘最古、かつ例外的に大きな等身像として知られています。 御開帳は信濃善光寺と同様、七年ごと開催されます。次回は令和九年四月四日から六月十九日までの七十七日間の予定です。 (写真は栞の画像を加工したもの)向かって右側の脇向拝から中陣の眺め。 天井には、巨大な龍が二頭描かれており、中陣の廊下の部分のみ、吊り天井となっており、特定の場所で手を叩くと反響による共鳴が起こり鳴き龍と呼ばれます。各地に鳴き龍はありますが、共鳴の度合いは経験した中では一番のもの。 拝観料を収めると鳴き龍の他にも後陣にかけて安置されている仏像や金堂の地下に造られた戒壇廻りもあります。信濃善光寺、元善光寺ともに戒壇廻りでは鍵は見つけられず、かみさんに導いてもらったが、ここ甲斐善光寺で初めて鍵に触れることができました。 暗闇で実感はないが、内部は「心」の字をかたどっているとか。脇向拝の意匠。金堂右側の鐘楼堂に吊られる梵鐘(県指定文化財)は、「引き摺りの鐘」と呼ばれ信州から引きずって運ばれてきたと伝わっています。正面の鳥居の先には正一位稲荷社が祀られています。稲荷社社殿全景、額には「正一位王子稲荷大明神」と記されていますが創建等の詳細は不明。 荼枳尼天を祀り、後方にも複数の石の社が並んでいます。鳴き龍が描かれた御朱印。 今回金堂後方まで廻っていませんが、後方には薬師堂や阿闍梨の井戸、秀吉家臣加藤光泰の墓などがあり金堂を一周することができます。 甲斐善光寺は、参詣客や食べ歩きで賑わう信濃善光寺とは違って落ち着いて参拝できました。甲斐善光寺宗派 / 浄土宗本尊 / 善光寺如来創建 / 永禄元年(1558)開基 / 武田信玄所在地 / 山梨県甲府市善光寺3-36-1参拝日 / 2026/6/12関連記事・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day1 「武田神社・甲斐善光寺・淺間神社」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社(1)」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社(2)奥宮登拝・ほったらかし温泉」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day3 「甲州街道台ケ原宿の水信玄餅・山梨銘醸」・ほったらかし温泉に新たに勧請された『全国オートバイ神社第45号』・甲府市徳行「式内 笠屋神社」・甲斐國一宮 淺間神社・白須 若宮八幡神社
2026.08.06
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山梨県北杜市白州町白須の「道の駅はくしゅう」、その北側の杜の中に鎮座するのが白須 若宮八幡神社です。 道の駅に駐車し徒歩1~2分の距離になります。社地南側の細い通り沿いに若宮八幡神社は社頭を構えています。社頭脇の由緒。 仁徳天皇、神功皇后、応神天皇を祀り、武田家代々崇敬された神社で、境内に町指定天然記念物のモミの巨木がある。若宮八幡神社社頭の全景。 小高い丘の入口から石段が伸び、その上の社殿に続く。鳥居の前を守護する狛犬は、毬持ち・子持ちのもので、平成2年に寄進された若いものです。阿形の背後に古そうな手水鉢があり、その奥に複数の石の社が祀られています。ここには社名不明の五社が祀られています。嘉永四年(1851)に寄進された鳥居には、「若宮八幡宮」の額が掲げられている。鳥居をくぐると、入母屋・銅葺の拝殿が建つ。拝殿に額はなく、比較的新しい三枚の奉納額が掛けられ、中央の額には信玄の姿が描かれています。境内は二段構成となっており、下段に拝殿・幣殿、上段には覆屋が建てられ、その右手に社名不明の石祠が祀られています。覆屋内の本殿は流造で、本殿左側の斜面にも石祠が祀られています。白州町誌(1986)の当社解説は以下。 「若宮八幡神社(旧郷社)鎮座地 白須1598番地 祭神 仁徳天皇・神功皇后・応神天皇祭日 九月二十三日由緒 『岐北神社誌』には、後醍醐天皇の御子・守邦親王の時代に勧請・創建されたと記されています。一方、『甲斐社記』では「勧請の時期は年暦が分からない」としつつ、伝承として、甲斐源氏の祖・新羅三郎義光が任国の折に神主・石田道麿へ命じ、宮原の北側に白須八幡宮を鎮座させたとあります。 これ以降、武田家の祈願所として代々厚く尊崇されました。永禄年間(1558~1570)には、白須刑部少輔義政が馬場信房と協力し、現在地へ遷座して社殿を造営しました。 徳川氏の治世においても崇敬を受けたと伝えられています。明治四年に上知となり、明治六年には郷社に昇格して社勢は大いに栄えました。 しかし、明治四十年(1907)九月十六日の祭典で、提灯の失火により本殿・拝殿が全焼しました。その後、明治四十三年五月にようやく再建され、大正三年(1914)四月二日に神社財産登録の許可を受け、現在に至っています。若宮神主殿 社殿建造物 仮本殿・拝殿・石灯籠・石鳥居宝物 青銅神鏡一面、掛軸一軸(宗良親王白須松原を詠める御歌、阪正臣書)、額面三面。境内末社 琴平社・東照宮社・道祖神社・稲荷社・山神社・八坂社・熊野社・秋葉社・愛宕社・石尊社・春日社。その他 境内にモミの巨木がある。根回り6.5m、目通り幹囲5.84mの規模であったが、落雷で幹部は中断、南枝が伸びているが、幹の内部は空洞。町の天然記念物に指定されている。」創建時期や、当初の鎮座地とされる「宮原」が現在のどこにあたるのかは明確ではないが、永禄年間(1558~1570)当地に遷座したようだ。拝殿の向かいに聳えるモミの巨木。 落雷により主幹は途中で失われてしまったが、脇の枝から上に向け伸び続けている。樹齢は書かれていなかったが、落雷前の樹高がどれほどのものだったか知りたいところです。若宮八幡神社の社頭から左へ進むと、別の参道と思われる鳥居が立っています。 当初、脇参道かと思っていたが、石段を上ってみるとどうやら違うようだ。昭和17年寄進の鳥居をくぐると一対の常夜灯が立てられていました。この辺りは若宮八幡神社の境内にも繋がっていますが、参道は更に上へ伸びています。 参道左側に解説板が立てられていた。「旭嶽皇大神宮社前宮。祭神 天照大神・成田不動明王 由緒 口伝によれば、成田山不動明王のお告げにより、開祖酒井鉄次郎(天神霊神)崇敬者と計り地蔵嶽中腹旭嶽に社殿を建立、御祭神二柱を勧請し祭祀したが、老若者の参詣困難なため、昭和10年(1935)現在地に大教正伊奈波弘宜 前宮を造営し国家太平家内安全を祈願した。春宮祭 4月20日 末社 八方神社他6社。」昭和10年に建立された前宮とあるが、文中にある「地蔵嶽中腹旭嶽に社殿」がどこにあたるのか分からない。 「老若者の参詣困難」……?、この参道の方角には赤岳があるが、地蔵嶽は知らない。解説の後方に聳える甲斐駒方面には地蔵ヶ岳はあるが、向きが違うように思える、……良く分からない。上に続く石段の先の常夜灯、ブッシュの先に複数の石の社の姿が見られます。 それが前宮なんだろうか。確かめにいこうか? いやいやローカットのスニーカーでブッシュに分け入る度胸はない、ここまでにしておこう。諦めて道路に戻り若宮八幡神社の杜の全景を収める。杜の西側の田畑の先には甲斐駒方面の山々が迫る。白須 若宮八幡神社創建 / 諸説あり当地への遷座 / 永禄年間(1558~1570)祭神 / 仁徳天皇、神功皇后、応神天皇境内社 / 琴平社・東照宮社・道祖神社・稲荷社・山神社・八坂社・熊野社・秋葉社・愛宕社・石尊社・春日社例祭日 / 九月二十三日所在地 / 山梨県北杜市白州町白須1598 参拝日 / 2026/6/12関連記事・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day1 「武田神社・甲斐善光寺・淺間神社」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社奥宮登拝・ほったらかし温泉」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day3 「甲州街道台ケ原宿の水信玄餅・山梨銘醸」・ほったらかし温泉に新たに勧請された『全国オートバイ神社第45号』・甲府市徳行「式内 笠屋神社」・甲斐國一宮 淺間神社
2026.08.03
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前回掲載した圓通寺から、第十七回の最後の札所となる八十七番札所 鷲頭山長寿寺に向かいます。 私たちは圓通寺から東に向かい、愛知用水沿いを名古屋南JCT方向に進みました。 この日は大気が不安定で、雨雲レーダーではまもなく通り雨が降りそうなので、イオンモール大高に向かい食事を摂りがてらやり過ごすことにしました。 近頃は天気予報より雨雲レーダーの方が頼りになり、イオン到着とともに雲が沸き立ち、雨が降り出し辛うじて濡れ鼠を免れました。 このまま降り続けるようなら、JR南大高駅から帰ることも考えましたが、食事を済ませ外に出ると嘘のように晴れ上がり、長寿寺を目指すことにした。イオンモール大高から東海道新幹線をくぐり、県道50号線をJR大高方向に北上した約2km地点。 丸根砦を越え、名古屋市緑区大高町西丸根に鎮座する山神社が見えてきました。ここまでくれば長寿寺は目と鼻の先です。 山神社は過去に参拝しており、過去記録に参拝当時の様子を貼り付けておきます。山神社から500mほど先の緑区大高町鷲津山に鎮座する長寿寺に到着。長寿寺を象徴するといっても過言ではないコンクリート造りの鐘楼門。 右手の赤い鳥居は鎮守社の高蔵坊稲荷。その昔、住職の高蔵坊は寺が傷み修理ができず憂いていた、この山には一匹の狐が住んでおり、住職はこの狐をとても可愛がっていました。 狐は住職の嘆きを知り、住職に姿を変え、村々を巡ってこの寺の御利益を説いて廻ったという。その結果、各地からお参りの人々がつぎつぎ訪れる様になり寺は立派に修理できたということです。 村人はその狐を高蔵坊狐と呼び、お堂を建て祀ったのがはじまりという。こちらも過去記録に参拝当時の様子を貼り付けておきます。左の長寿寺の由緒は以下のようなものです。 鷲頭山と号し、臨済宗永源寺派。当山はもともと真言宗長祐寺と称したが、1560年(永禄3)鷲津砦の兵火で伽藍を焼失。 江戸時代、大高領主の志水忠継の母長寿院は黄檗宗への信仰が厚く、その臨終に際しこの地に禅寺の建立を孫忠時に遺命した。1682年(天和2)徳川光友の援助もあり伽藍が竣工し、春日井郡三淵村の臨済宗黄檗派(現在の黄檗宗)の「紫金山慈眼寺」を開山した越伝和尚を招聘し中興開山、この時宗派を黄檗宗へ改宗、寺号を長寿寺に改めた。 宗派が臨済宗になったのは、1691年(元禄四)の時。本尊は阿弥陀如来で知多四国霊場 八十七番札所。 その他に知多西国観音 二十六番札所、知多百観音の一番札所でもある。門前から境内の本堂の眺め、大棟の鴟尾が印象に残る。 参道左の手水舎と正面の本堂。 参道右手に庫裏、左に目指す弘法堂がある。本堂に掲げられている山号額。 まずは本堂を参拝してから、弘法堂に向かいます。堂内の眺め、本尊は阿弥陀如来。参道左手の弘法堂。弘法堂の額と鰐口。堂内の眺め。弘法堂左には西国三十三霊場石仏群が安置されています。みほとけの ふかきめぐみに おおだかの ながきよわいも ねんぶつのとく第十六巡目の歩いて巡拝 知多四国。 個人としては初めてだったが、2025年1月から1年半をかけて全十七回に参加・踏破した証がここに集結した。それに付き合ってくれたかみさんには感謝しかない。 歩いて巡拝 知多四国、第十七巡目も予定されているようです。飽きられないよう毎回コースを変え、その地域の見どころにも案内してくれる、歩きやすく参加しやすい企画だと思います。 願わくば強烈な暑さが訪れる前に回りきれるといいのだろうが、冬も暑いだけに難しい判断だろう。第十七回 歩いて巡拝 知多四国 八十七番札所 鷲頭山長寿寺宗派 / 臨済宗永源寺派創建 / 不明開山 / 越博紹付開基 / 長寿院元操尼中興年 / 1689年(元禄2)中興 / 中興道雲石梯本尊 / 阿弥陀如来札所 / 知多四国霊場 八十七番札所、知多西国観音 二十六番札所、知多百観音 一番札所所在地 / 名古屋市緑区大高町鷲津山13圓通寺から長寿寺 / 圓通寺から東に向かい、名古屋南JCT方向のイオンモール大高へ、東海道新幹線をくぐり、県道50号線からJR大高方向に北上。3.9km・55分ほど。参拝日 / 2026/06/22関連記事・第十七回 歩いて巡拝 知多四国 七社之社(富木島町)・第十七回 歩いて巡拝 知多四国 長草天神社・第十七回 歩いて巡拝 知多四国 五番札所 延命山 地蔵寺・第十七回 歩いて巡拝 知多四国 八十八番札所 瑞木山 圓通寺過去記事・丸根砦跡 ・『山神社』名古屋市緑区大高町・「高蔵坊稲荷神社」名古屋市緑区大高町・知多四国八十八箇所霊場 八十七番札所 「鷲頭山長寿寺」
2026.08.02
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前回掲載した五番札所 延命山 地蔵寺、西参道から一路北に向かい、県道23号線末広交差点を目指します。寺から北に進み、前屋敷、中屋敷と城の名残を感じさせる住宅街を抜けると、写真のように稲田が広がる長閑な田園風景となる。 舗装化された街中のうだる暑さから、水が張られた田んぼを吹き抜ける風は実に心地いい。写真は県道に出る少し手前で見かけた地蔵堂。 内部には三体の石仏が安置され、左に地蔵尊、中央は馬頭観音か、右側に一体の石仏が安置されていました。近付いて見ていないので、年代や像容など見ていません。末広交差点から右に向かい、10分程進んだ県道沿いに小さな地蔵堂が立っています。 以前訪れた際に像を写真に収めたものの、表情や年代は読み取れなかった記憶があります。今回も拝ませていただいたが、やはり年代や像容はよく分からなかった。県道は交通量が多く、歩道も整備されておらず、道路を歩く歩行者をかすめるように走り去っていく、・・・・・・教習所で何を学んできたのかと首をかしげたくなる。 そんな危険な県道を離れ、地蔵堂から右の田畑の中に続く農道を進み、正面の小高い丘に鎮座する万願寺の「圓通寺」を目指す。正式ルートでは歩道のない主要道を歩くこともあり、コースアウトばかりするのはそうした道を避けたい思いもある。地蔵堂から10分程、共和町小仏地内の小高い丘の上に鐘楼堂の屋根が見えてくる。 この先には「知多四国霊場第八十八番札所・満願霊場」と刻まれた石標が建っています。前回訪れた時は本堂の新築工事と重なり、本堂は見られず、この鐘楼堂と弘法堂だけしか見られなかった。令和五年(2023)に200年振りに本堂が再建され、火灯窓が象徴的な本堂と左の弘法堂を結ぶ渡り廊下も刷新され見違えるほど美しくなった。 落慶の年には、大府市指定文化財で平安時代に行基菩薩の手彫りとされる本尊 木造馬頭観音菩薩も御開帳されたという。圓通寺の開創は729年(天平元年)、行基菩薩が馬頭観音・子安准胝観音の両本尊を刻んだことに始まると伝えられる。 開創以来、法相宗・真言宗・臨済宗へと幾度も改宗し現在は曹洞宗の寺院。往時は七堂伽藍を有していたが、幾度も兵火に見舞われ、衰退していくが、1348年(貞和4)夢窓国師が中興開山、1593年(文禄2)昌山秀繁和尚が中興開基、1810年(文化7)の知多新四国開創に伴い、満願霊場88番札所に列する古刹。本堂は入母屋瓦葺の木造建築で、大きな向拝の先に掲げられた「圓通寺」の寺号額も新調されたもののようです。中央の本尊木造馬頭観音菩薩は脇侍に木造毘沙門天立像、木造不動明王立像を安置しています。 因みに中京競馬場の敷地に鎮座する馬頭観音堂は圓通寺住職により法要が営まれている。瓦の葺き替えなどの改修を受けた渡り廊下。弘法堂は寄棟瓦葺で向拝が付く。尾州瑞木山圓通寺観音縁起。『当寺は天平元年(729)、行基菩薩が六十二歳のとき、馬頭観音と子安観音の二尊を彫刻し、伽藍を建立して瑞木山圓通寺を創建したと伝えられています。 天慶二年(939)の平将門の乱では堂塔が焼失しました。嘉暦二年(1327)には堂宇の再建が始まり、観音開帳の法要が営まれるようになりました。 建武二年(1335)の兵乱により、堂舎は再び焼失しました。貞和四年(1348)、夢窓国師が七十四歳のときに伽藍を再建し、中興開山となりました。 応永八年(1401)には、小笠原尾張守道久禅定門が寺領布金の地に観音宝殿を建立しました。延徳年間(1489~1492)には、檀越であった浜島氏次郎左衛門が一族を率いてこの地へ移り住み、寺の外護に尽くしたと伝えられています。 弘治年間(1555頃)には、氏を山口と改めました。文禄二年(1593)、昌山秀繁和尚が諸堂を修復・整備し、中興開基となりました。 文化七年(1810)には知多新四国霊場第八十八番札所となり、満願霊場として広く信仰を集めるようになりました。当山は開創以来長い歴史を重ね、その間に法相宗・真言宗・臨済宗・曹洞宗へと法灯が受け継がれ、今日まで観音大士の霊験あらたかな寺として篤い信仰を集めています。』堂前の五色の紐は弘法大師と繋がっており、外陣に重軽石、重軽菩薩などが安置されています。瑞木山の山号額は以前同様かすれています。外陣天井は草花の絵が描かれていますが、退色と破損も当時のままで、弘法堂にも修復の手が入る日が遠くないのかもしれない。写真は圓通寺境内から南側を見下ろした先に鎮座する瑠璃山良徳禅寺。現在は無住の寺院で、こちらも圓通寺で管理されているようで、御朱印も圓通寺で頂けます。 曹洞宗禅ナビによると、『嘉永四年(1851) 、山口徳左衛門の娘ひさ(徳応妙久大姉)が、私材を投じて薬師堂を創庵。その後、三世の良貫尼和尚が伽藍を再興する。 1960年良貫尼和尚の「良」と開基戒名の「徳」を以って、「良徳寺」に改称した。2016年10月、伽藍整備に伴い、現在に至る。』とある。 「山口」の姓は、縁起に見える浜島氏が弘治年間に改姓した山口氏との関係を思わせるが、その関連については今後調べてみたい。じひぶかき だいしのめぐみ ありがたや きょうこのやまに のりのはなさく圓通寺で配布された梵字カード。これで全てのカードを揃えることができた。 第十六巡目を十七回で巡ったきましたが、次回は最終目的地 八十七番札所の長寿寺になります。第十七回 歩いて巡拝 知多四国 八十八番札所 瑞木山 圓通寺宗派 / 曹洞宗本尊 / 馬頭観世音菩薩、子安准胝観音開創年 / 729年(天平元年)開創 / 行基中興年 / 1348年(貞和4)中興開山 / 夢窓国師札所 / 知多四国霊場 八十八番札所、知多西国観音 二十五番札所、知多西国三十三所霊場25番、知多百観音札所2番所在地 / 大府市共和町小仏67番地 地蔵寺から圓通寺 / 地蔵寺脇参道から北に向かい、県道23号線末広交差点を右折直進。2.3km・32分ほど。参拝日 / 2026/06/22関連記事・第十七回 歩いて巡拝 知多四国 七社之社(富木島町)・第十七回 歩いて巡拝 知多四国 長草天神社・第十七回 歩いて巡拝 知多四国 五番札所 延命山 地蔵寺過去記事・知多四国霊場 八十八番札所「瑞木山圓通寺」・「全国餃子まつり2018in中京競馬場」に行ってきました
2026.08.01
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