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98 しあわせな人【解説】 詩編16は、元来、カナンからイスラエルに移り住んだ人が、改宗して行った、信仰告白と思われます。詩編作者は、主である神との一致は、死よりも強いと感じ、まことの神との一致にこそ、しあわせと永遠のいのちがあると確信した美しい歌です。死に打ち勝ち、復活したキリストの父との一致こそ、この、永遠のいのちをもたらすものに他なりません。それゆえ、使徒たちは、この詩編を、詩編118(87「きょうこそ神が造られた日」)と同様に、キリストの復活のあかし・預言として用いました(使徒2:21-33参照)。 答唱句は、冒頭から、5小節目の「喜びに」までは、八分音符の細かい動きと、四分音符+付点四分音符と八分音符(2小節目のバスとアルト、4小節目のテノールとアルト)のリズムで、神の豊かな恵みを受ける人の、しあわせなこころの喜びを、活き活きと表現しています。最後の3小節は、付点二分音符や二分音符という、長い音価の音符を使って、この恵みに生きる安心感が表されています。さらに、「喜びに」では、旋律で、最高音のE(ミ)が用いられて、強調されています。 詩編唱は、最終音の2度上(一音上)のH(シ)から始まり、歌い始めやすくなっています。そして、次第に下降し、E(ミ)に至りますが、この音は、答唱句の冒頭の音と同じです。なお、詩編唱の最後の和音は、E(ミ)-Gis(ソ)-H(シ)ですが、これは、和音の位置こそ違いますが、答唱句の最初の和音と同じです。ちなみに、この曲はA-Dur(イ長調)ですが、この和音は、主和音ではなく、五度の和音です。答唱句が、主和音ではなく、五度の和音から始めることで、次の「しあわせな」に向かう、勢いを付けているのです。【祈りの注意】 上にも書いたように、冒頭は、勢いを付けて歌われ始めます。最初の「し」は、マルカート気味で歌います。冒頭の速度指定は、四分音符=112くらいとなっていますが、最初は、これよりもかなり早いテンポで歌い始めます。そうでないと、答唱句の活き活きとした感じを出すことができません。この、速度は、答唱句の終わりの rit. したテンポと考えてよいと思います。付点四分音符や四分音符の後の八分音符、すなわち「しあわせ」や「しあわせな」、「かみの」、「そのよろこび」が遅くなると、どんどんテンポが落ちてゆきますので、注意しましょう。なお、続く、連続する八分音符もきびきびと歌ってください。 「ひと」や「受け」の付点二分音符で旋律が音を延ばしているところは、しっかりと音を延ばし、一瞬で息継ぎをして、次の四分音符を歌うようにします。この延ばしている間に、「ひと」では、バスとアルトが、「受け」では、テノールとアルトが遅れてこのことばを歌います。ここでしっかりと延ばすことで、ひとまとまりの文章である、答唱句がひとつの祈りとして継続されますが、早く音が切れると、この祈りが続かなくなります。答唱句の後半は「喜びに」から、徐々に rit. して終わりますが、いつ、rit. が始まったか分からないようにできれば、最高です。一番最後の答唱句(歌い終わり)は、最も、ていねいに rit. しましょう。 ところで、この答唱句で歌われる、「しあわせな人」とは、だれでしょうか?実は、この答唱句を歌う、わたしたち、一人ひとりがしあわせな人なのです。わたしたち一人ひとりが「神の恵みを受け、その喜びに生き」ているのでなければ、この答唱句が活き活きと歌われないのではないでしょうか? 詩編唱は、1から3節が歌われます。まず、技術的な注意ですが、答唱句が小気味よいテンポで歌われますから、詩編唱も、早めに歌いましょう。1節の1小節目と、2節の2小節目は、少し歌詞が長いので、「ゆずり」と「おられ」の後で息継ぎをします。息継ぎをするときは、その、少し前に、やや、rit. して、一瞬で息継ぎをし、再び、元のテンポに戻して歌います。 最後になりますが、この詩編は、第一朗読と福音朗読で語られる、世の終わり=神の国の完成の時、を受けて歌われます。世の終わりというと、悲観的な感じがしますが、キリスト者にとっては、それは、神の国が完成するときであり、まさに、待望のときであり、約束された永遠のいのちに入るときなのです。そのときを待ち望みながら、この詩編を味わいたいものです。《この答唱詩編のCD》「典礼聖歌アンサンブル」『復活節の聖歌』【参考文献】『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968)
2006.10.29
19 いのちあるすべてのものは【解説】 詩編146は、ここから始まる5つのハレルヤ詩編(146-150)の最初です。この5つの詩編は、冒頭とおしまいに「ハレルヤ」があることから「ハレルヤ詩編」と呼ばれています。現在も、ユダヤ教の朝の祈りで用いられていますし、教会の祈りでは、読書課に含まれています。この、詩編146は元来、神殿で唱えられた神への賛美です。「神」が主語となっている部分の動詞は、すべて分詞「~~するもの」という意味ですが、これは、その動作が現在も継続して行われていることを表しています。つまり、分詞で表されている「まことを示し」「裁きを行い」「かてを恵み」「解放される」「目を開き」「愛される」という神のわざは、現在も神が継続して行われているのです。また《同義的並行法》を用いることで、それらの内容が、さらに強調されています。 答唱句は、冒頭、オルガンが主音Es(ミ♭)だけ、八分音符一拍早く始まります。二小節目の「すべてのもの」では「地にあるすべてのもの」を象徴するように、旋律の「すべての」でC(ド)、バスの「すべての」でG(ソ)と、それぞれ、最低音が用いられています。また、アルトの「すべての」では、ナチュラルでH(シ)が歌われ、それが強調されています。なお、二小節目の冒頭は、他の声部では八分休符になっていますが、バスだけは、一拍早く始まり、文章の継続を表しています。後半では、旋律もバスも、ほぼ、1オクターヴ上昇し、特に、Last では、旋律が最高音Es(ミ♭)まで上がり、力強く「神をたたえよ」(原文では「主を賛美せよ」)と呼びかけます。 詩編唱は、前半、G(ソ)-As(ラ♭)-F(ファ)-G(ソ)と動きが少なくなっていますが、後半の三小節目では、最後に八分音符で旋律が上昇し、さらに、四小節目で最高音C(ド)にまで、高まり、バスのB(シ♭)との開きも2オクターヴ+3度に広がり、「神をたたえよ」という呼びかけが力強く歌われます。【祈りの注意】 答唱句の前半、一小節目と二小節目、旋律では、八分休符が冒頭にあり、下降→上昇の動きが繰り返されます。八分休符は、ことばのアルシスを生かすだけではなく、旋律の動きも生かすものです。二回目の八分休符があるところも、バスだけ、早く、一拍早く出て文章を継続させています。混声四部でない場合でも、オルガンの伴奏が、それを表していますから、二小節目の八分休符で文章の継続も、祈りの精神も切れることのないようにしましょう。 前半の終わり「すべてのものは」の後では、一瞬で息を吸いますが、そのためには、「のー」でわずかに rit. します。できるだけ分からない程度にしましょう。これは、非常に難しいかもしれませんが、何回も練習することで、だんだんとできるようになってきます。 後半の、上行音階では、「すべてのもの」に呼びかけますから、力強く cresc. しますが、ここで、気をつけなければならないのが、間延びすることと、rit. の違いです。rit. の場合は、「神を」で元のテンポに戻りますが、間延びした場合は、前のテンポのままか、さらに遅いテンポになっています。この違いがはっきり分かり、元のテンポで始められるかどうかが、ことばにふさわしい、祈りの歌にできるかどうかの分かれ目になります。 今日の第一朗読でも福音朗読でも、神の恵みに一抹の不安も持たず、万全の信頼を置いているやもめの姿が描かれています。詩編唱でも、そのやもめをはじめ、神に信頼する人々に恵みを与えられる神のいつくしみが歌われます。詩編を歌う人も、これを聴くわたくしたちも、名誉や富や人の目ではなく、神にのみ信頼して日々過ごせるように、その恵みを祈りたいものです。 《この答唱詩編のCD》「典礼聖歌アンサンブル」『復活節の聖歌』(詩編は異なります)【参考文献】『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968)
2006.10.25
先日来、お伝えしている『日本のミサ曲』と『ミサ曲・賛歌集』の件ですが、一応の、めどが立ってきました。そろそろ、各ブログも、通常の更新に戻れると思います。 ところで、過日の記事で、著作権法違反があたかもかくていしたかのような表現がありましが、今のところ、この点については何の判断も示されていませんので、この点ついて、お読みの皆様に誤解を与えかねないものだったことは、お詫びしたします。 さて、著作権法の問題はさておき、『ミサ曲・賛歌集』については、神学的な観点から、気になることがあるので、この点について、考えてみたいと思います。 まず、第一に、これが一番の問題かもしれませんが、この『ミサ曲・賛歌集』の使用範囲と、タイトルがはっきりとしないことです。タイトルには『ミサ曲・賛歌集』とありますから、実際的な内容から言えば、ミサ賛歌(あわれみの賛歌・栄光の賛歌・感謝の賛歌・平和の賛歌)と、さまざまな賛歌がその内容になりますが、実際には、主の降誕や聖週間の典礼の答唱詩編なども含まれています。ですから、実際の内容とタイトルに微妙ですがずれがあるわけです。 次に、『ミサ曲・賛歌集』は、あくまでも個人の編集です。今回は、長崎大司教認可で出版されていますから、長崎大司教区での使用には問題がないかもしれませんが、それが、日本全体のなると、一教区の司教の認可だけではなく、日本の各司教区全体の問題です。そのために、司教団に典礼委員会があるわけですが、今回、典礼式文に当たる「復活賛歌」の楽譜に手を加えたり(「復活賛歌」は内容からも、奉献文と同等の性格を持つものです)、答唱詩編が基準となる『教会暦と聖書朗読』(いわゆる「オルド」)と全く異なるものしかありませんので、まるで、典礼委員会を無視した選択をしていると思われても仕方ありません。とりわけ、『ミサ曲・賛歌集』の詩編は、『聖書 新共同訳』が用いられていますが、日本の典礼委員会は、数年後に、フランシスコ会聖書研究所訳を底本にして、新しい訳を採用することを発表しています。それまでは、既存の『詩編 典礼訳』(あかし書房)を使用することになっています。なぜなら、典礼文の国語の使用については、あくまでも、司教が決定することで、日本のように、複数の司教区で同じ言語を使用する場合には、複数の司教(日本の場合は日本司教団)の協議によって決定するからです(『典礼憲章』36条§3、§4参照)。 これが、あくまでも、個人の(編著者が大学内のミサだけで)使用というように、”ad usum purivatum”なら問題ないのかもしれませんが、序文を見ると、日本のカトリック教会全体の使用を目的としているようですから、司教団(第二バチカン公会議が決定した、使徒たちの後継者としての、司教の団体性=この点については『教会憲章』第3章参照)の権威を無視した行為、と受け取られても致し方ない部分があります。なお、修道会の場合には、その修道会ごとの独自の聖歌集がありますが、この場合、修道会は教皇ないし司教の認可を受けていますので、問題はありませんが。 もうひとつは、歌詞の神学は語られていますが、聖歌全体の神学が語られていません。たとえば、ホームページでも、書いていますが、「栄光の賛歌」の大きな区切りは、「全能の父なる神よ。」です(詳しくはホームページをご覧ください)が、『ミサ曲・賛歌集』に収められている「栄光の賛歌」ほとんどが、「感謝し奉る。」で、区切りになっています。第二バチカン公会議で発布された、現在の『ローマ・ミサ典礼書』(”missale Romanum")以前の作曲ならば、既得権として認められますが、それ以後の作曲では、この、新しい区切りにする必要があります。つまり、厳密に言えば、「感謝し奉る。」で、区切られている「栄光の賛歌」は、第二バチカン公会議以後の、ミサの神学に適応していないもので、神学的に誤りといわれても仕方ないのです。そのような「栄光の賛歌」が、ほとんどと言うことになると、神学的観点と言う理念も、少なからず、問題になります。 先にも書いたように、日本の司教区全体の聖歌集を編纂する、と言うことになれば、やはり、個人の編集と言うレベルで行うべきものではありません。歌詞の内容も音楽も、あるいは、典礼文(詩編のことばなど)も、教会共同体の司牧者である、司教の任命によって決められた典礼委員会やその他の専門委員会のもとで行うものです。 今回の『ミサ曲・賛歌集』の編集・発行には、教会共同体の霊の共同識別と言う、教会共同体の本質的な伝統が、残念ながら欠如していたところにも、問題があったのではないかと思います。 最後に、今回の事件で思い出したことがひとつあります。今は、司祭になりましたが、当時、神学部時代に神学生だった学友の一人が教会音楽家は謙虚でなければならないよと言った一言です。今回の、楽譜の書き換えが、間違いなのか、間違いを正したのかは、最終的には神さまが判断する問題です。しかし、このような、複数の教区にまたがる教会共同体に関わる問題は、一個人が簡単に判断する問題ではなく、司教団の権威のもとに考えるべきものではないでしょうか?確かに、正しいことであったとしても、やはり、このようなことは、一個人や一部の信徒と司祭だけで行うものではなったのです。あえて言えば、教会共同体=司教団の権威のもとに行うべきものを、一個人が行ってしまった事、すなわち、神の前に謙虚さを失ってしまったことが、最も大きな問題なのではないかと思います。 神の前に貧しい人は幸いと言うマタイ福音書の山上の説教の最初の一言、=それは神しか頼ることをしないということですが=言い換えれば、神の前にいつも謙虚であることを、いつも忘れないようにしたいものです。
2006.10.23
64 神はわたしを救われる【解説】 この詩編18は、王が歌った感謝の詩編とされていて、表題にも「ダビデの詩。主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌のことばを主に述べた」と書かれています。ダビデの生涯の物語の終わりのサムエル記22章にも「ダビデの感謝の歌」があり、両方に大きな違いはありませんが、この詩編18のほうが原形に近いと言われています。全体は二部に分かれていて、前半は、神をたたえた導入、作者の直面する死の危険、自然界に現れた神の顕現、神の正義をたたえた前半の結び。後半は、神から与えられた戦いの準備、内政の敵への勝利と、外的への勝利、最後に王位への感謝が歌われ、最後に「油そそがれた王、ダビデとその子孫に」と結ばれます。教会は、この約束がキリストにおいて成就したと考えています。パウロはローマの教会への手紙15章9節で、この詩編の50節を引用して、すべての民が神をたたえる根拠としています。 答唱句は、珍しくテージス(小節線の後ろ)から始まります。旋律の音は、G(ソ)、A(ラ)、C(ド)の三つの音で、その他の声部の音も大変少ない音で構成されています。文末以外は、ほとんどが八分音符で、「すくわれる」と「たたえよう」で四分音符が用いられて、ことばが強調されています。とりわけ「たたえよう」では、アルトのAs(ラ♭)とテノールの最高音E(ミ)で、信仰告白のことばが高められています。さらに、テノールは冒頭から「いつくしみ」までC(ド)が持続して、神への信頼と救いの確信が表されています。 詩編唱は、3小節目でバスに臨時記号が使われ(Fis=ファ♯)、緊張感が高められますが、4小節目は5の和音で終止し、旋律も答唱句の冒頭と同じ音になり、落ち着いて終わります。【祈りの注意】 冒頭は、指定の速度の、四分音符=72よりやや早めで始めるとよいでしょう。八分音符が連続しますので、メトロノームで計ったように歌うと、歌はもちろん祈りになりません。変なたとえかもしれませんが、ところてんを作る道具で、最初に、一気に押し出すような、そんな感じではじめるとよいでしょう。2小節目の「救われる」でやや rit. しますので、「わたしを」くらいから、わからない程度にゆっくりし始めます。「その」のバスが八分音符一拍早く始まるところで、テンポを元に戻します。最後の「いつくしみをたたえよう」から、再びわからないように rit. して、最後はていねいに終わります。最後の「たたえよう」は、こころから神をたたえて、祈りを神のもとに挙げるようにしたいものです。 この答唱句は、「神はわたしを救われる」と現在形になっています。神の救いのわざ(仕事)は、かつて行われて終わってしまったのでもなく、いずれ行われるのでそれまで待たなければならないものでもありません。神の救いは、今も、継続して行われています。その、顕著なものが、やはりミサではないでしょうか。ミサは、キリストの生涯の出来事を思い起こす福音朗読と、その救いの頂点である受難-復活-昇天を記念=そのときその場に現在化するものです。このミサが、世界のどこかで、必ず継続して行われている。それを、この答唱詩編は思い起こさせてくれます。そのことを思い起こしながらこの答唱句を歌うことが、祈りを深め、ことばを生かすことになると思います。 第一朗読でも、福音朗読でも、主題となるのは、律法の中心である「聞けイスラエルよ。われらの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:5-6)という、いわゆる「シェマーの祈り」です。イエスは、律法を廃止するためではなく、完成=本来、神が定めた正しい解釈を=するために、こられました。律法もそうですが、本来、すべての法律は、この、第一の掟と第二の掟である「自分の隣人を自分のように愛しなさい」(レビ19:18)という、二つの掟にしたがって、解釈される必要があるでしょう。 この、二つの大切な掟を、神が先に与えてくださる(「神はわたしを救われる」)ので、わたしたちは「そのいつくしみをたたえ」ることができるのです。 《この答唱詩編のCD》「典礼聖歌アンサンブル」『四旬節の聖歌』(詩編は異なります)【参考文献】『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968)
2006.10.17
お知らせや他のブログおよびホームページにも書きましたが、先般発売された楽譜と、4年前に発売された楽譜で、高田三郎作曲の『典礼聖歌』が、著作権継承者や教会関係者の承諾なく、編者によって改ざんされるという、典礼音楽史上では、グレゴリオ聖歌メディチ家版、以来、前代未聞の事件が発生しました。ただし、メディチ家版の時代は、無知によって起こったものですが、今回は、意図的に書き換えてあることから、あえて、改ざんという表現を用いました。 とにかく、詳細に分析すると休符が違っているとか記号を付け忘れたという程度ではなく、リズムがずらされて音が変えられているところがあったり小節線の位置が変わっていると言うように、手が加えられていることは明らかな状態です。 作曲者が祈りが深まるように、信仰が間違ってつたわらないようにと、神に祈り、こころを砕いて作曲した日本の祈りのこころをこのように改ざんすることは、著作権法上も違法ですし、良識にももとることはもちろん、作曲者を通してこれらの『典礼聖歌』を書かせた、神と聖霊に対する冒涜と言っても過言ではありません。 しばらくの間、この件に力を入れますので、他のブログの更新には、時間が避けなくなることになりそうですので、ご覧の皆様にはご不便をおかけしますがなにとぞご了承ください。なお、この『今日の聖歌』の「毎週の主日の答唱詩編の解説」は、滞りなく行うよう、尽力いたします。
2006.10.10
154 涙のうちに種まく人は【解説】 詩編126は、「都に上る歌」の一つですが、内容を見て分かるように、バビロン捕囚から帰ったばかりのイスラエルの幸福な状態を思い起こし(1-3節)、その後の苦難から、捕囚直後の幸福な状態への回帰を願うものです。ネゲブは、パレスチナ南部の乾燥した高原地帯で、ここに流れる川は、雨の後にだけ水が流れ、その流れは不毛の地を肥沃な大地へと潤します。 種をまくことですが、加工すればパンになる小麦を地に撒くことで、一時的な上を覚悟することを意味しています。つまり、その先にある、収穫を神の恵みによって、期待するのです。 答唱句は、歌詞に従って、前半は1♭の短調であるd-moll(二短調)、後半は同じ調号の長調であるF-Dur(へ長調)と、並行調で対照的にできています。前半は、バス以外「涙のうちに」と「種まく人は」という、二回の下降音階で、これらの姿勢と感情が表されています。後半は、「よろこび」で、まず、バスとソプラノが2オクターヴ+3度開き、「よろ」でバスがオクターヴ跳躍し、「よろこび」では、付点八分音符+十六分音符という付点を用いることで、この、神による回復の喜びの大きさが表されています。続く「刈り取る」では、この音価がバス以外で拡大され(付点四分音符+八分音符)て、強調されます。 詩編唱は、旋律が属音(ドミナント)を中心に動き、和音もd-moll(二短調)の基本的な和音で動いています。なお、『混声合唱のための典礼聖歌』(カワイ出版 2000 )では、詩編唱の三小節目の最後の和音と、四小節目が変更されています。【祈りの注意】 答唱句は、決して、早く歌うものではありませんが、前半の下降音階を生かすように、きびきび、そして、ことばを生かすように、厳しくしっかりと歌いましょう。後半は、付点の音価を生かすように、明るく軽めに歌います。食事の用意、宿題、残業、苦労の種はいっぱいありますが、その後に待っている喜びを知っている人は多いと思います。わたくしの場合には、熱いお風呂とその後のビールでしょうか?身近な、苦労と喜びを思い起こして、その気持ちを答唱句に反映させるのが、一番、分かりやすいかもしれません。 もう一つ、下降音階の注意ですが、きわめてレガート(滑らか)に歌うようにしましょう。力が入ると、一つ一つの音が飛び出すようになりがちですが、これでは、よい祈りになりません。 詩編唱は、主に、第一朗読を受けて歌われますが、福音朗読の最後にある、一節、「なお道を進まれるイエスに従った」(マルコ10:52)が、重要なキーワードになります。この「道」の行き着く先は、エルサレムですが、そこには、受難と十字架が待っています。しかし、その受難と十字架を通らなければ、復活はないのです。今日の、答唱句と詩編は、実は、この受難と十字架を通して復活へと過ぎこされる、主の姿、それは、また、イエスに従うわたしたち一人ひとりの姿を歌っているのではないでしょうか。 これらのことを少しでも、こころに留めることができれば、祈りもまた深まるかもしれません。《この答唱詩編のCD》「典礼聖歌アンサンブル」『待降節・降誕節の聖歌』【参考文献】『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968)
2006.10.09
46 神の注がれる目は【解説】 その詩編の18節から答唱句が取られている、詩編33は、創造主、救い主である神をたたえる賛美の詩編です。6節の「星座」(ヘブライ語の原文では「軍勢」)は、天にいる神の軍隊のことで、神の栄光を示し、その命令を実行するものです。6節には、「神(原文では「主」)」の他に、「ことば」「いぶき」という語句があることから、教父たちは、「ことば」=神のことばであるキリスト(ヨハネ1:1)、「いぶき」=聖霊、と考え、この詩編には三位一体の秘義が隠されていると考えました。 答唱句は8小節と比較的長いものです。前半は「神」と言うことばが三回出てくることや、神のやさしいまなざし=「目」を強調するために、旋律は高い音が中心となっています。特に、「目」は最高音のD(レ)の二分音符で歌われます。二回出てくる八分休符は、次の「神」をアルシスとして生かすためのものですが、バスは八分休符ではなく四分音符で歌われ、どちらも精神を持続させながら緊張感を保ちます。 後半の「希望を」では、「きぼう」で旋律とバスの音程が2オクターブ+3度開き、バスのオクターヴの跳躍で、ことばが強調されています。 詩編唱はドミナント(属音)から始まり、同じ音で終止し、下一音(Fis=ファ♯)以外はすべて上方音というところは、グレゴリオ聖歌の手法が生かされています。答唱句、詩編唱ともに、最後は順次進行で下降し、落ち着いて終止しています。【祈りの注意】 解説に書いたように、答唱句は8小節と比較的長いので、全体に、緊張感を持って歌う必要があります。とは言え、早く歌う必要もないのですが、間延びすることのないようにしましょう。そのためには、まず、冒頭の「神の」の「の」の八分音符が遅れないように、言い換えれば「かみ」の四分音符が長すぎないように、と言うことです。最高音D(レ)が用いられる「目」は、この詩編でも歌われるような、いつくしみに満ちた神のまなざし、十字架の上から、愛する弟子と母に向けた、キリストのまなざしを表すように歌ってください。高い音なので、どうしても、音を強くぶつけてしまいがち(「メー」)ですが、そのように歌うと、怒りと憤りに満ちた音になってしまいます。高い棚の上に瓶をそっと置くような感じで、声を出すようにするとうまく歌えます。 「ものに」は、アルトが係留を用いているので、やや、rit. しますが、これは、分かるか分からないか程度のものです。決して、「あ、リタルダントしたな」と思わせないようにしましょう。後半に入ったら、すぐに、元のテンポに戻します。最後の「希望を」は、少し、テヌートして「希望」をしっかりとこころに刻みましょう。 最後は、rit. することはもちろんですが、やや、dim. もすると、安心して答唱句の祈りのことばを終わらせることができるでしょう。 答唱句のテンポは「四分音符=88くらい」ですが、冒頭は、これよりやや早めのほうがよいかもしれません。 詩編唱の4節の1小節目は、音が変わる前と変わってからの音節数が同じですが、後半のほうが拍が1拍多いので、最初はやや、ゆっくり入り、「すまい」で少し、小戻しし、すぐにrit.します。 詩編唱で黙想する第一朗読ですが、ここで預言される主の僕は「自らの苦しみの実りを見(て)、それを知って満足」します。キリストは今も、いつも、教会とともにいて、この、教会の実りを見ておられ、ミサの中で「多くの人の身代金として自分の命を献げる」のですが、このミサこそ「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た」具体的な奉仕の場なのです。 《この答唱詩編のCD》「典礼聖歌アンサンブル」『四旬節の聖歌』【参考文献】『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968)
2006.10.01
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