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浅草から上野へと向かいます。昔ながらの商店街といった風情を残す合羽橋の町を進んでいくと、そこかしこに寺院が置かれています。中にはかなり大きな寺院も有りました。どうやら商店街だけではなく寺町としての側面もあるようです。江戸三十三観音霊場二番札所:江北山 宝聚院 清水寺十数分歩いた頃、商店街の一画に黄金の河童像が置かれていました。妙に凛々しくて不思議な魅力がありますが・・・どのような由緒が有るんでしょうか?台座には”かっぱ河太郎像”とありますが・・・。説明書きがありました、見てみます。かっぱ橋の由来 合羽橋の由来には2つの説がある。 その1つは、今から160年ほど前の文化年間のころ、この一帯は、水はけの悪い土地でたびたび出水を起していた。そこで、合羽川太郎(本名:合羽屋喜八)は、私財を投じて排水工事に着手したが、工事はことのほか難航した。昔、川太郎に助けられたことのある隅田川の河童たちは、これを見ていたく同情し工事を手伝ったおかげで、掘り割り(当時は新堀川と呼ばれた)は見事に完成した。この故事にちなんで「合羽橋」としたというものである。 もう1つの説は、今の金竜小学校のあたりにあった伊予新谷の城主、加藤家下屋敷に住む侍や足軽が、内職に作った雨合羽を近くの橋で乾かしたことで、「合羽橋」と呼ばれるようになったというものである。合羽屋喜八の菩提は現在同町の巨嶽山 曹源寺に収められているようです。さらにこの河童の伝説も、この寺に伝わっている話だそうですね。こうしたお江戸の風情を感じられる名跡をたずね歩いてみたいものです。合羽像の隣に、今回紹介する二番札所:江北山 宝聚院 清水寺が置かれています。屋根は宝形造で寺院様なんですが、建材や外観は近代的な建築物です。懸かる寺号額などは古様を遺しており、この寺の古くからの由緒を示しているかのようです。手前に見える階段を上ると、御朱印と共に本尊を拝むことが出来ました。本尊の前に御由緒を見てみましょう。第2番:江北山 清水寺天台宗本尊:千手観音 सहस्रभुज慈覚大師みずから一刀三礼して いただいた縁起によると、今からおよそ1200年前、五十三代淳和天皇の天長6年(829年)に疫病が天下に広まり、わがことのように悲しまれた天皇は、天台宗の総本山比叡山延暦寺の座主である慈覚大師円仁に、疫病退散の祈願を命じられた。そこで慈覚大師は京都東山の清水寺の観音さまにならって、みずから一刀三礼して千手観世音菩薩像一体を刻まれて、武蔵の国江戸平河、現在の千代田区平河の地に寺を開いてお祀りしたところ、疫病は瞬く間におさまったという。 その後、寺はやや荒廃していたが、慶長年間(1596~1615年)に当時の住職の慶円法印が、比叡山正覚院の探題豪感僧正の協力をえて中興され、徳川家康が江戸に入府すると清水寺は江戸城築城のために平河の地から馬喰町に移り、さらに明暦3年(1657年)の振り袖火事のあと現在地に再興されたという。江戸三十三観音巡礼 新妻久郎 / 26~28ページ より引用なんと本尊は円仁御作の仏像だったようです。宝冠を付けた座像で、光背や衣服の表現が非常に見事です。だからか本像は、台東区有形文化財に指定されているようです。この写真ではピンボケですが、公式サイトにて詳細な姿を見られますよページ下部にリンクが有るので、是非ご覧ください!御詠歌ただたのめ 千手のちかひひろければ かれたる木にも 花さくと本尊:千手観音 सहस्रभुज今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・江戸三十三観音札所 第二番 浅草 江北山 清水寺以上です。次の記事・三番札所:大観音寺 首だけの黒鉄観音を祀る寺院
2025年04月30日
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江戸三十三観音霊場の打ち始めは、ここ浅草の浅草寺です。7世紀に江戸の漁師の兄弟によって感得された聖観音を祀る東京一の古刹で、東京唯一の坂東札所でもあります。なんでも浅草寺が坂東三十三観音霊場の一番札所で無いことに怒った江戸の住民は、浅草寺を一番札所とする江戸三十三観音霊場を開創したと言われています。浅草寺の歴史や由緒などは坂東札所の記事で書いたので、今回の江戸札所の記事では境内の諸堂について見ていきたいと思います。江戸三十三観音霊場一番札所:金龍山 浅草寺浅草寺の入口と言えば、かの有名な雷門!この通り参拝者で溢れています。雷門から本堂に進むと仲見世通りが続いていて、人形焼きや扇など様々な店が軒を連ねています。浅草寺の発展と共に、この仲見世の商店街も拡大していったんですねぇ。商店街を抜けると、宝蔵門と呼ばれる巨大な山門が見えてきます。坂東の地にありながら、西国の寺院と比べても劣る事のない荘厳な堂宇です。宝蔵門を過ぎると巨大な本堂が置かれています。本尊の聖観音は絶対秘仏の仏像であるため、その姿を見た者はいないとされていますが、一説には5cm程度の小振りの金銅仏だと言われています。これも俗説の1つに過ぎませんが、この大きさの方が伝説の信憑性を高めているように思います。あまりにおおきな像だと、当時の漁舟では引き揚げられないと思うので・・・。今でも本尊は、本堂中央の何重にもなった厨子内に納められています。本尊についての詳細は公式サイトでご確認ください。・あさくさかんのん 浅草寺 / 絶対秘仏のご本尊本堂の手前には昭和39年(1964年)4月に浅草料理飲食業組合によって寄進されたお水舎が建っており、その中央には高村光雲作の沙竭羅龍王像が、天井には東韶光によって描かれた”墨絵の龍”と呼ばれる天井画がそれぞれ置かれています。龍の天井画についてはこちら↓からどうぞ!・あさくさかんのん 浅草寺 / お水舎本堂から左側のエリアには、神仏問わず様々なものを祀った御堂が置かれています。そこから見える五重塔もなかなかに素晴らしい眺めです。本堂の直ぐ横には聖観音の銅像が置かれています。説明書きです。銅造観音菩薩坐像 本像は銅製、鋳造、鍍金で、大きさは総高が169.5cm、像高は99.5cmである。 本像は享保5年(1720年)に尾張国知多郡北方村(愛知県美浜町)出身で諸国を遊行した廻国聖、孝山義道が発願し、神山の鋳物師、小沼播磨守藤原長政が制作した。なお造立に際しては、近所の人々はもちろん、遠隔地からも多くの寄進を受け、その寄進者名が刻まれた。 また本像の蓮華座は、元禄15年(1702年)造立の阿弥陀三尊像の脇侍(勢至菩薩)のものとして、小伝馬町三丁目の鋳物師、宇田川善兵衛が作成したものであるが、後に木造の蓮華座へ転用された(勢至菩薩は失われている)。 本観音菩薩坐像を作成した小沼播磨守藤原長政は、江戸時代前期に活躍した鋳物師であるが作例は少なく、本像は長政の作例として新たに確認されたものである。 江戸時代の鋳物師を考える上で基準となる作例のひとつであり、江戸鋳物師の作風を伝えるものとして貴重な遺品である。また、像や台座に刻まれた銘文は、江戸時代前期の信仰、宗教活動を知る上で貴重な資料である。 平成25年3月に台東区有形文化財(彫刻)として台東区区民文化財台帳に登載された。台東区教育委員会銅造聖観音像の隣には、大きな石碑が置かれています。碑の表面には物々しく梵字の文が刻まれています。この石碑は”仏頂尊勝陀羅尼碑”と呼ばれる石碑で、真言宗の僧 海如によって元治元年(1864年)に建立されました。説明書きです。仏頂尊勝陀羅尼碑 「仏頂尊勝陀羅尼」とは、唱える人に息災延命などのご利益を授けるとされる、古くから信奉されてきた尊いお経である。 碑の正面上部には「仏頂尊勝陀羅尼碑」と題字が、その下に梵字で陀羅尼が刻まれている。背面には漢字で陀羅尼の功徳について、末尾には造立年代である元治元年(1864年)と製作者の名を見ることができる。 この碑を奉納した海如(1837~1873年)は、奈良の長谷寺などで修行した真言宗の僧侶である。碑の背面に「浅草大悲閣の下に建てた」旨が記され、当時天台宗であった浅草寺に碑を建立した経緯は不明であるが、当寺が宗派を超えて信仰されていたことを物語る。金龍山 浅草寺石碑の周囲には祠や御堂がひしめいています。まずは朱印所にもなっている影向堂から見ていきましょう。東大寺の本堂にもにた御堂ですが、内部には十二支守り本尊のほか、浅草名所七福神の札所本尊にもなっている大黒天像が収められています。大黒天像は黒みを帯びた姿をしており、インドのマハーカーラー(大黒・シヴァ)の姿に寄せたものと思われます。大黒天や十二支守り本尊などはこちら↓からご覧になれます。・あさくさかんのん 浅草寺 / 影向堂説明書きです。影向堂 影向堂はもと本堂南東にあったものを、平成6年に浅草寺中興開山慈覚大師円仁さまのご生誕1200年を記念して、現在地に再建されたもので、観音さまのお説法やご活躍に不断に讃嘆協力されている仏さま方「影向衆」をおまつりしているお堂である。 堂内には、中央に聖観世音菩薩さま、その左右に十二支に応じた生まれ年の守り本尊さま8体がおまつりされている。 お堂の上、棟飾りには、火伏せの咒いとされる金箔押しの鴟尾を置く。鴟尾を取り付ける際は不思議と雨を呼ぶといわれており、平成6年夏の建立時も記録的な日照りであったが、鴟尾を取り付けると突如として雨が降り、人々を感動させた。金龍山 浅草寺影向堂周辺の祠も見てみましょう(いくつか撮り逃しがあります)。池の近くには2種類の龍神を祀る祠が置かれています。小さくとも精巧なつくりの祠です。右は九頭龍権現を、左は金龍権現を祀ります。金龍権現は山号の由来ともなった伝説を有していて、浅草寺の由緒に深くかかわっています。金龍権現に因んだ”金龍の舞”という寺舞があり、3月18日・10月18日の年2回奉納されています。その正面辺りに恵日須・大黒天堂が置かれています。小さいながらも狛犬が付随しています。恵日須・大黒天堂 堂内向かって右側の恵日須(恵比須)、左側の大黒天はともに七福神の神として広く信仰を集めている。江戸時代前期の延宝3年(1675年)に浅草寺に奉納されたこれらの石像も、参詣の方々に穏やかな顔を見せてくれる(お堂は戦後の建立)。 また天保15年(1844年)にお堂脇に建立された石碑などによると、これらの像は真言宗を開いた弘法大師空海(774~835年)が造ったと伝えられている。当時天台宗であった浅草寺においても、宗派を超えた弘法大師への信仰がみられる点は、非常に興味深い。金龍山 浅草寺隣には”めぐみ地蔵”と呼ばれる石仏が置かれています。前掛や帽子などを着せられており、地域の方々からの崇敬も篤いようです。さらにその隣には弁天堂があります。ここに祀られる弁財天は特に”銭塚弁財天”と呼ばれ、福徳財運の神徳があるとして篤く信仰されているみたいです。弁天堂の反対側も見てみましょう。薬師堂の隣には一言不動尊堂という小堂が置かれています。西国の葛城山には一言主大神という神格を祀る神社がありますが、どんな願いでも一言(1つ)に限ってかなえるとされています。それに似た霊験を持つ不動尊です。享保10年(1725年)に建立されたと言われています。薬師堂です。他の祠よりも大きく存在感があります。説明書きです。橋本薬師堂 当初は観音堂の北方にあって、北薬師と呼ばれた。慶安2年(1649年)三代将軍徳川家光が観音堂の北西に再建し、掘にかかる橋のかたわらにあったので、家光自身が橋本薬師堂と名付けた。平成6年、現在の場所に移転した。 現在の建物は、桁行三間(約5.35m)、梁間三間(約5.10m)、屋根は入母屋造、瓦葺。外部はかなり改変され、前面にあった三間に一間の向拝は取り除かれているが、浅草寺境内に遺存する堂宇のうち、浅草神社の社殿と同時代で、二天門や影向堂脇の六角堂に次ぐ古建築である。薬師如来坐像を本尊とし、他に前立の薬師如来と十二神将像が安置されている。平成8年3月 台東区教育委員会斜めから。それ程に古い建造物だったんですね!鮮やかな赤が魅力の薬師堂でした薬師堂の更に奥には三峰神社の祠が置かれています。狼と関係の深い神社として知られており、深山の中に広がる独特の信仰を伝えています。この祠はそんな三峰神社の遥拝所的なものでしょうか。説明書きです。三峯社 三峯神社とは、秩父の森厳な聖地に社殿を構える古社である。天台修験の関東総本山とされ、殊に江戸時代には「三峯講」が各地に設けられ、盛んに参詣された。 文化10年(1813年)に編纂された「浅草寺志」をひもとくと、境内各所に様々な神社が勧請され、三峯社も弁天山に建立されていたことがわかる(戦災により焼失も再建)。本社は三峯に寄せる敬虔な信心とともに、明治初年の神仏分離令以前の信仰の様子を現在に伝えているのである。金龍山 浅草寺境内の西側、他の祠よりも段違いに大きな御堂が置かれています。これは淡島堂と呼ばれる御堂で、名前の通り淡島明神を祀る御堂です。手前に見える多宝塔は写経供養塔と言う仏塔で、平成6年(1994)10月26日に落慶したものです。お堂はこの通り、本堂の縮小版といった風情です。それもそのはず、こちらは東京大空襲の折、焼失した本堂の代わりに仮本堂とされた御堂で、その後も影向堂の代わりを務めたりしています。堂内には淡島明神の本地とされる虚空蔵菩薩像なども置かれているようです。淡島堂女人守護のお堂 元禄年間(1688~1704年)、紀伊国(現在の和歌山県と三重県南部)加太の淡島明神を勧請して建てられた。現在の建物は、ひと時ご本尊様をお守りしたことがある。東京大空襲で本堂が焼失した後、仮本堂となったのである。やがて影向堂として現二天門の南に移り、平成6年に今の地に移築される。 加太淡島神社の祭神は少彦名命で、淡島という小島に鎮座しているため、淡島明神の俗称がある。このことから浅草寺では淡島堂と呼んでいる。淡島堂には、本尊の阿弥陀如来像、淡島明神像と本地仏の虚空蔵菩薩像、取子地蔵尊などが安置されている。本地仏とは、日本の神は、仏教の仏が姿をかえて現れたものとする本地垂迹説によるもので、神の本当の姿である仏を指す。 淡島明神は女性の守り神として信仰を集め、江戸時代は「淡島の願人」と呼ばれる人びとがおり、江戸市中で婦女子に淡島明神の信仰を説いてまわっていた。現在、淡島堂を中心とした行事に、2月8日の針供養会がある。あさくさかんのん 浅草寺 / 淡島堂 より引用斜めから。本当に沢山の堂宇がありますね。今回全ての堂宇を見られたわけではありません。撮りもらしたものは、再び参拝した折に撮影して、随時紹介したいと思います。規模も歴史も坂東随一の大寺院、浅草寺はまるで坂東の生き字引の様な寺院です。江戸三十三観音霊場の打ち始めの寺院として、これほどまでに相応しい寺院は他にありません。何度でも参拝したい、そんな素晴らしい古刹でした御詠歌深きとが 今よりのちはよもあらじ つみ浅草へ まいる身ならば本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर今回貰った御朱印です。江戸三十三観音霊場※江戸三十三観音霊場の巡礼をしている旨を伝えると、この様に江戸三十三観音霊場の朱印を押してくれます。忘れずに申告しましょう。浅草名所七福神 大黒天公式サイトへのリンクです。・あさくさかんのん 浅草寺以上です。次の記事・二番札所:江北山 宝聚院 清水寺 合羽橋の千手観音、白亜の清水寺
2025年04月29日
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坂東三十三観音霊場の札所の中で、唯一東京にあるこの寺院は、日本では知らぬものが無いというほどに広く知られた古刹です。東京浅草と聞くと真っ先に思い浮かぶのは浅草寺ではないでしょうか。千年以上の歴史を持ち、長く人々に愛された大寺院を見ていきましょう。坂東三十三観音霊場十三番札所:金龍山 浅草寺東京メトロ浅草駅から地下道を抜けて地上に出ると、浅草の商店街が広がり、その先に大きな提灯がぶら下がる山門が見えてきます。この雷門と呼ばれる門から先は全て浅草寺の境内になります。門の正面の道は雷門通りと呼ばれ、門を背景に撮影する参拝客であふれていました。説明書きです。聖観音宗総本山金龍山 浅草寺(あさくさかんのん)御本尊 聖観世音菩薩(御秘仏)・・・縁起(由来) 時は飛鳥時代、推古天皇36年(628年)3月18日の早朝、檜前浜成・竹成の兄弟は江戸浦(隅田川)に漁撈中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得した。郷司土師中知(名前には諸説あり)はこれを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝供養に生涯を捧げた。 大化元年(645年)、勝海上人がこの地においでになり、観音堂を建立し、夢告によりご本尊をご秘仏と定められ、以来今日までこの伝法の掟は厳守されている。 広漠とした武蔵野の一画、東京湾の入江の一漁村にすぎなかった浅草は参拝の信徒が増すにつれ発展し、平安初期には、慈覚大師円仁さま(794~864年、浅草寺中興開山・比叡山天台座主三世)が来山され、お前立のご本尊を謹刻された。 鎌倉時代に将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は、次第に外護者として歴史上有名な武将らの信仰をも集め、伽藍の荘厳はいよいよ増した。江戸時代の初め、徳川家康公によって幕府の祈願所とされてからは、堂塔の威容はさらに整い、いわゆる江戸文化の中心として、大きく繁栄したのである。かくして都内最古の寺院である浅草寺は、浅草観音の名称で全国的にあらゆる階層の人たちに親しまれ、年間約3000万人もの参詣者がおとずれる、民衆信仰の中心地になっている。雷門は雷神・風神像が置かれ、仲見世通りに参拝者を誘います。仲見世通りの終端には、宝蔵門と呼ばれる楼門が置かれています。その姿美しきこと限りなく、浅草寺を詣でる参拝者たちを見守ります。内部に置かれた仁王像は巨大で力強い秀像です。宝蔵門の左手には五重塔が置かれています。浅草寺の荘厳な景観を形造る諸堂の1つです。説明書きです。五重塔 そもそも仏塔とは、遠くインドで釈尊の遺骨(仏舎利)を起塔供養したのがはじまり。アジア東漸を経て、さまざまな形となった。五重塔もその一形態。 浅草寺五重塔は、天慶5年(942年)、平公雅によって創建されたのをはじめとする。その後、数度倒壊に遭うも、その都度再建された。徳川家光によって再建された国宝五重塔も、昭和20年(1945年)3月の戦災によって惜しくも焼失した(戦前までの五重塔は、今と反対側の本堂向かって右側にあった)。 以来、浅草寺は十方各位のご信徒を得て、また新たにスリランカ国の王立寺院より「聖仏舎利」を勧請(五重塔最上層に奉安)し、昭和48年に現在の五重塔を再建するに至った。 地上からの高さは約53mある。(塔内非公開)金龍山 浅草寺宝蔵門を抜けるといよいよ本堂が見えてきます。大きな線香立ての前には参拝客が列を成し、煙を浴びようと手を伸ばしていました。参道両脇にはお札・お守の授与所が置かれ、その奥に宝形屋根の手水舎があります。御朱印はここではなく、本堂左手にある影向堂にていただけます。ここで公式サイト内の”浅草寺の歴史”を引用して、浅草寺について更に知識を深めたいと思います。浅草寺の歴史ご本尊の示現 浅草寺は、1400年近い歴史をもつ観音霊場である。寺伝によると、ご本尊がお姿を現されたのは、飛鳥時代、推古天皇36年(628年)3月18日の早朝であった。 宮戸川(今の隅田川)のほとりに住む檜前浜成・竹成兄弟が漁をしている最中、投網の中に一躰の像を発見した。仏像のことをよく知らなかった浜成・竹成兄弟は、像を水中に投じ、場所を変えて何度か網を打った。しかしそのたびに尊像が網にかかるばかりで、魚は捕れなかったので兄弟はこの尊像を持ち帰った。 土師中知(名前には諸説あり)という土地の長に見てもらうと、聖観世音菩薩の尊像であるとわかった。そして翌19日の朝、里の童子たちが草でつくったお堂に、この観音さまをお祀りした。「御名を称えて一心に願い事をすれば、必ず功徳をお授けくださる仏さまである」と、浜成・竹成兄弟や近隣の人びとに語り聞かせた中知は、やがて私宅を寺に改め、観音さまの礼拝供養に生涯を捧げた。 浅草寺に伝わる縁起には、観音さま示現の日、一夜にして辺りに千株ほどの松が生じ、3日を過ぎると天から金の鱗をもつ龍が松林の中にくだったと記されている。この瑞祥が、後につけられた山号「金龍山」の由来となった。また現在、浅草寺寺舞として奉演されている「金龍の舞」も、これに因む。慈覚大師による中興 やがて大化元年(645年)、勝海上人という僧が当山に立ち寄り、観音堂を修造した。ある夜、上人の夢に観音さまが現れ、「みだりに拝するなかれ」と告げられた。以来今日まで、ご本尊を厨子(御宮殿)深く秘仏として奉安している。 平安初期の天安元年(857年)、比叡山第三世天台座主慈覚大師円仁さまが来山した。秘仏のご本尊の前に奉安されている御前立は、この時浅草寺の中興開山と仰がれる慈覚大師が謹刻されたと伝わる。 その後、浅草の地は、宗教的な聖地として次第に発展していく。平安中期の天慶5年(942年)、浅草寺に参籠した平公雅が、武蔵(現在の東京都と埼玉県のほぼ全域に神奈川県の東部を含めた地域)国守への補任を祈願した。この願いがかない、公雅は報謝の印に大規模な七堂伽藍を建てた。このため浅草寺は近郡に比類なき霊場となり、一層の信仰を集めた。平安後期の災禍と再建 長久2年(1041年)12月22日に起こった大地震により、浅草寺の堂舎はあらかた倒壊し、境内が荒れ果ててしまった。寂円上人という修行僧が、この惨状を見て再建の志を起こす。隣境の山中で材木を伐採し、野で葺萱を集めてまわった寂円上人は、永承6年(1051年)ついに宿願を果たして本堂を落慶した。しかしこの本堂も、わずか28年後の承暦3年(1079年)12月4日、原因不明の火災によって炎上する。この折、ご本尊が本堂の西方にあった榎の梢に自ら避難されたとの故事が伝わる。 その後、仁安4年(1169年)、学頭(寺の学問を統轄する者)であった用舜上人が中心となり、浅草寺再建に尽力したことが記録に残る。このとき用舜上人が修した聖観音の秘法によって、轟然と大雨が降り注いだ。その勢いに助けられ、山で伐採した材木はつぎつぎと隅田河畔に流れ着き、数多くの用材を無事に確保できたという。浅草寺と隅田川との関係の深さを思わせるエピソードの1つである。源義朝ゆかりの榎観音 観音堂が焼けた承暦の火災から70年ほどのち、この折の霊験を聞いた源頼朝の父義朝が、浅草寺に観音像を奉納した。その像は、ご本尊が難を避けるために飛び移った大榎でつくられたものと伝わる。現在も「榎観音」として伝来し、毎年1月に執り行なわれる「温座秘法陀羅尼会」のご本尊として拝まれている。源頼朝の参詣と『吾妻鏡』に見る浅草寺 「浅草」という地名の確実な史料における初見は、鎌倉時代に編纂された歴史書『吾妻鏡』であるとされる。 鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には、建久3年(1192年)鎌倉で営まれた後白河法皇の四十九日忌「百僧供養」に、浅草寺の僧侶3名が出仕したことが記されている。そのほか、建長3年(1251年)、浅草寺の食堂に暴れ牛が現れて怪我人を出したという記事もあり、当時の関東における大寺の1つであり、幕府とも関係を有していたことを示している。 少し前後するが、観音さまを篤く信仰する源頼朝は、治承4年(1180年)、平家追討の戦陣を進めて下総(現在の千葉県北部と茨城県の南部)から武蔵国へ入ったときに、浅草寺で勝利を祈願している。また、その後の文治5年(1189)、奥州平泉(現在の岩手県平泉町)の藤原氏征討の際にも、頼朝は戦勝を願って浅草寺に田園36町(約35万7000m2)を寄進した。 やがて源平の戦いで西上した武者たちは、西国三十三観音札所を見聞して信心を深めた。それが契機となり、鎌倉時代初期、坂東にも三十三観音札所が整えられた。このとき、第十三番霊場となった浅草寺は、東京都内では唯一の札所で、今も多くの巡礼者を迎えている。足利尊氏ら武将たちの庇護 室町時代から安土桃山時代にかけ、霊験あらたかな寺として、浅草寺の名は各地に知れ渡り、足利氏をはじめ、さまざまな武将の崇敬を集めた。 室町幕府初代将軍の足利尊氏は、観応3年(正平7年・1352年)に浅草寺へ参り、寺領を安堵した。 また応永20年(1413年)には、第四代鎌倉公方であった足利持氏が経蔵を再建して寄進している。これ以降も足利一族は浅草寺と深いつながりをもち、本堂をはじめ末舎堂塔の造営修復などに当たった。 時代が下った戦国の世、関東に勢力を拡げる小田原城主北条氏綱は、浅草寺を祈願所とし、天文8年(1539年)に川越城主大道寺駿河守を造寺奉行に任じて、堂塔を再建した。 浅草寺の別当職(住職)を勤め、中興第一世と仰がれる忠豪上人は、北条氏重臣の江戸城代家老遠山直景の流れを汲む。忠豪上人は、浅草寺内の僧侶のうち学僧を「衆徒」、祈祷僧を「寺僧」と号して区分した。そして衆徒12ヶ寺、寺僧21ヶ寺(のち22ヶ寺に増設)を制定。それまで坊中にあった100余の支院を60余に整理し、浅草寺運営の基盤を固めた。徳川家康も武運を祈念 天正18年(1590年)、徳川家康は江戸に入府した。家康が信任する慈眼大師天海の進言もあったとされ、浅草寺は祈願所に定められ、篤い庇護を受けた。 江戸城の鬼門に当たること、天台宗の古刹として名高いこと、源頼朝をはじめとする源氏一族に信仰されてきた由緒深き寺であることが、江戸に数ある寺院の中から選ばれた背景であろう。家康は、武家政治の創始者となった頼朝に尊敬の念を抱いていた。 天下分け目の関ヶ原の戦いを目前にした慶長5年(1600年)9月1日、浅草寺の中興第一世忠豪上人は江戸城に召された。頼朝が平家を追討したときと同様、今度も祈祷を修するよう家康に申し渡された忠豪上人は、古式どおり浅草寺で観音密供を修した。そして9月15日早朝に始まった関ヶ原の戦いで、家康の率いる東軍が見事に勝利をおさめたのである。これ以後、浅草寺の霊験は一段と天下に響き渡った。貴重な奉納絵馬 浅草寺の寺宝でとりわけ特徴的なものが、200余枚現存する絵馬である。谷文晁、鈴木其一、長谷川雪旦、歌川国芳、逸見(狩野)一信ら著名な絵師の作も多い。 江戸中期以降、さまざまな祈願や報謝の思いを託して、多くの人が絵馬を奉納した。そして数々の絵馬が、衆人の眼にふれる本堂や絵馬堂(額堂)に掲げられ、世の注目を大いに集めた。 絵師たちは願主から依頼を受けて絵馬を描いた。寺への奉納は、現代でいえば美術展へ出品するような側面もあり、それぞれが腕を振るって意匠や技量を競い合った。画題はよく知られた歴史の一コマや物語などから選ばれることが多く、巨大な大絵馬も人びとの話題をさらった。 かつては本堂の長押に架け並べていたが、昭和初期に行なわれた大営繕(昭和8年=1933に落慶)のときに外され、もとに戻されなかったため昭和20年(1945年)の東京大空襲の難をのがれた。現在は五重塔院に保管されている(非公開)。江戸時代の浅草寺 寛永2年(1625年)、江戸上野に寛永寺が建立された。徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するための寺で、第三代以降、歴代山主(住職)に皇室から法親王(輪王寺宮と称される)を迎え、仏教界に君臨した。 貞享2年(1685年)、時の浅草寺別当忠運上人が、五代将軍綱吉の不興をこうむったという理由で退寺の悲運に遭う。以来、浅草寺は寛永寺の支配下に組み込まれた。元文5年(1740年)からは輪王寺宮自身が別当職を兼ね、その代理人である別当代(副住職)が実質上の総責任者として浅草寺を統括した。寛永寺による支配は幕末まで続いた。当時の仏教界において最高権力を握る輪王寺宮のもとにあることは、浅草寺にとって様々な面でプラスとなった一面も見逃せない。 代々の別当代や寺内関係者の記録は、『日並記』等と呼ばれ、寛保2年(1742年)から明治期までの記録が現存し、浅草寺一山の歴史にとどまらず、広く江戸時代から明治時代に至る間を知るための貴重な史料となっている。 江戸幕府は次第に財政難となり、元禄の観音堂大修復以後、「お手許不如意」ということで、公儀普請(幕府が費用を負担する公共事業)がなくなってしまう。その後の営繕は庶民の浄財によって成されたが、このことによって浅草寺と庶民との結縁はより一層強まっていった。庶民文化の拠点 浅草は時代とともに拡大していく江戸市街地として吸収され、参詣・行楽・歓楽を目的とした人びとがあふれる江戸有数の盛り場になった。水茶屋の看板娘たちは、しばしば浮世絵の主人公にもなった。また、見世物小屋が立ち並ぶ観音堂の北西は「奥山」と呼ばれ、松井源水の曲独楽、深井志道軒の辻講釈、長井兵助の居合抜、柳川一蝶斎の手妻(奇術)など数々の興行が参詣人を喜ばせた。 こうした名人芸は江戸中の評判となり、「八代将軍吉宗が、鷹狩りの帰りに浅草寺へ立ち寄って曲独楽を見た」旨の記録も残る。将軍だけでなく、その家族、大名、さらには輪王寺宮も折にふれて参詣し、奥山の妙技見物を楽しむこともあった。将軍が参拝するときは特別に御前立ご本尊を開帳した。またその後数日間、一般の人びとに向けた「御成跡開帳」が行なわれ、将軍の恩恵が示された。 江戸後期の境内の諸相は、歌川広重の「名所江戸百景」「東都名所」などの錦絵や、町名主の斎藤月岑が刊行した『江戸名所図会』などによく表されている。境内地が公園にそして近代へ 明治維新後、時代の激しい波は浅草寺にも押し寄せて来た。浅草寺の寺領は太政官布告によって公収され、東京府の管轄となった。公園に指定された境内地は行政区画上、1区から7区に分けて整備された。 江戸期に奥山で興行していた見世物小屋は、旧火除地を埋めて新たに造成された6区へ移転した。 盛り場の流れを継いだ6区には、明治の終わり頃から映画館が林立し、東京屈指の歓楽街が形成されてゆく。また、明治23年(1890年)には、浅草寺の西側に、日本初のエレベーターを備えた凌雲閣(通称「十二階」)という展望塔がつくられて、世間の注目を集めた。 浅草寺を中核とする浅草は、明治・大正・昭和にかけ、時代を先取りする街として大いに活気を呈していった。信仰の力による復興 慶安2年(1649年)の再建以後およそ300年の間、浅草寺の本堂は不思議と火事を免れてきた。江戸時代の文献には、火が至近になると雨が降る、あるいは風向きが変わるなどの霊験が再三起きたと記されている。大正時代の関東大震災でも仲見世は全焼しながらも、主要堂宇は奇跡的に火難から逃れ、境内に5万人もの人が避難して救われたという。しかし、昭和20年(1945年)3月10日未明の東京大空襲では、諸堂伽藍もろとも本堂が烏有に帰した。 新本堂は、昭和26年(1951年)に起工。天皇陛下より金一封を拝領し、ご信徒の熱意あふれる協力も得て、7年後の昭和33年(1958年)、無事に落成を見た。また昭和35年(1960年)には、松下電器産業(現パナソニック)社長・松下幸之助氏の寄進により、慶応元年(1865年)の焼失以来95年ぶりに雷門が再建され、昭和39年(1964年)には大谷重工業・大谷米太郎ご夫妻の寄進により、宝蔵門が再建された。 五重塔は昭和48年(1973年)に再建され霊牌殿には永代供養のために納められた位牌が約3万基安置されている。 開創以来今日まで1400年の長きにわたり、浅草寺は多くの人びとの信仰心に支えられてきた。そして現在、日本全国は言うまでもなく、世界の各国からも、年間延べ約3000万人もの人びとが参拝に訪れている。これもひとえに、ご本尊観音さまによるお導きであり、今後も浅草の地域とともに新たな歩みを見せてゆくことであろう。浅草観音のご避難 火災が多発した江戸時代、大火の際は必ず、非常用のお輿にご本尊と御前立を奉安し、安全な方向の寺院に向けてご避難した。そして鎮火を確認すると、一刻の猶予もおかず本堂へご帰座していただくことが慣例であった。護衛には、寺の開創以来仕えている土師氏と檜前兄弟の子孫3人、寺侍数名など10人近くの人が当たった。また、どれほど混雑していても、浅草観音のご避難とわかれば道は開かれ、通り抜けられたという。 東京大空襲のとき、ご本尊は前もって本堂の真下、地中約3mのところに埋めた青銅製天水鉢(淡島堂境内に現存)の中に安置されていた。これにより本堂焼失にもかかわらずご本尊はご安泰であった。あさくさかんのん 浅草寺 / 浅草寺の歴史 より引用なんかもう、余りにも歴史のある寺院で全て追い切るのは相当大変でしょう。江戸が開拓されるよりも以前から当地で栄えていた寺院であるため、様々な謂れや伝説を持ち、読んでいて面白い由緒でした。当に江戸を代表する寺院です。朱印所が置かれているのは影向堂の堂内です。この御堂には大黒天と共に十二支守り本尊が収められていて、朱印の待ち時間にお参りするのも良いのではないでしょうか。因みに特に指定しなければ、本尊の御朱印は坂東三十三観音霊場の朱印になります。江戸三十三観音霊場を巡礼している場合は、その旨を伝えると朱印の判が江戸巡礼のものに変わる他、朱印帳の表紙に関しても江戸三十三観音霊場と書いていただけるみたいです。その為江戸三十三観音霊場の打ち始めとしてピッタリの札所であります。斜めから。余りにも有名な寺院で、僕が紹介する必要はあまりないんですが、それでも歴史や由緒を振り返ってみると知らないことばかりでした。ここは一度の参拝では物足りず、何度でも参拝したくなるような寺院です。次回は鎮守の浅草神社や、他の堂宇についても見てみたいと思います御詠歌ふかきとが 今よりのちはよもあらじ つみ浅草に まいる身なれば本尊:浅草観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर今回貰った御朱印です。二回目公式サイトへのリンクです。・あさくさかんのん 浅草寺以上です。
2025年04月29日
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宮城県の南部、白石の町の北方に中規模の大きさの社殿を持つ神社がひっそりと鎮座しています。ここは蔵王のお膝元、つまり白鳥信仰のメッカでもあります。この神社も例外ではなく、当地域の信仰を形作る大事な要素の一つになっています。白鳥神社(福岡)去年の十月、最初の福島出張に際して、休日に宮城県遠征をしました。その時に撮った写真になります。だから今では咲いていない曼珠沙華も写り込んでいるという・・・。鳥居は白く、白鳥神社という扁額が掛かっています。その奥には老松、手前には八幡宮の石碑などが見え、地域の信仰の集積地の様な風情があります。八幡宮の石碑の他にも、庚申、虚空蔵菩薩などの石碑も置かれています。この時点で神仏混淆の風が感じられますね。他にも金剛山の石碑と、謎の小祠2基。金剛山は関西のあの金剛山なんでしょうか?だとしたら修験とも関係してそうです。こっちにも仏教的石碑が置かれていました。子安観音が彫られた梵字の石碑です。拝殿です。入母屋屋根の中規模な御堂。長い時の流れを感じさせるシックな色の木材が特徴です。扁額には白鳥宮と刻まれています。説明書きです。白鳥神社の由緒 深谷にあり、祭神は日本武尊、明治維新前までは本山明神と号したが、明治の初めに現社号・白鳥神社と改め、明治5年(1872年)9月村社に列した。 明治21年(1888年)長袋の神明社に合祀、昭和32年(1957年)11月宗教法人設立復帰する。由緒不詳(刈田郡誌・刈田郡教育会編纂)(宮城県神社庁)白鳥崇拝 白石市を含む刈田郡と柴田郡、すなわち蔵王山東麓の、とくに白石川沿岸は白鳥の崇拝の信仰が日本で最も純粋で強烈な所であり、遠い昔から、この地の人びとは、白鳥を神として祀り、祈りや願いを込めていた。そうした思いが、いくつかの伝説となった。その伝説のひとつを、今に伝わる神話として記す。(白石市史)伝説 日本武尊は、宮の地に王子を残して帰京されたが、村人は王子の偉貌とその能力を恐れ川に捨てたが、王子は白島と化し、村々に災いをもたらした。村人はそれを悔いて、白島を神として祀ったという。(刈田嶺神社縁起)令和元年10月20日 白鳥神社氏子会斜めから。今回見た白鳥神社の他にも、この地域には数か所白鳥神社が鎮座しています。おそらくどこも祭神は日本武尊だと思われますが、それは白鳥と日本武尊の切っても切れない縁のせいでしょう。日本武尊は帰郷道半ばで果てますが、その魂は白鳥となり飛び去ったとされています。名古屋の熱田神宮の近くには、白鳥古墳という陵墓が置かれており、ここには白鳥となった日本武尊が降り立ったという伝説まで残っているんです。この白鳥伝説については、いずれ特集記事にまとめたいと思っています。こうご期待!以上です。
2025年04月28日
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納められ私東通村から田名部川に沿って北上すると、桑原という民家10数軒からなる集落が見えてきます。この集落の中ほどに今回紹介する札所が置かれているんです。田名部海辺三十三観音霊場六番札所:桑原村観音堂集落内は道が細く、駐車できる場所を探すのに苦労しました。かなり遠くに駐車し、徒歩で赤鳥居を目指します。この赤い両部式鳥居が境内の入口となっています。境内に進むと、小さな倉庫とこの桑原集会場しか建物が見つかりません。六番札所:桑原村観音堂は稲荷神社の境内に置かれているとのことですが、一体どこにあるんでしょうか。観音堂を探して境内をうろついていると、集会所前に見慣れた立て看板がありました。もしやこの集会所が桑原村観音堂の裔なんでしょうか?おそるおそる中に入って見ると、祭壇と共に朱印が置かれていました。それを見て一安心、ここが桑原村観音堂です。朱印はお金を納めて自分で押すタイプ。・・・それにしても、稲荷神社の社殿も見当たらないんですが、はて・・・?説明書きです。六番札所:桑原村観音堂本尊:千手観音 観音さまは、かつて稲荷神社境内に鎮座していた観音堂から移安された。 稲荷神社の本殿には、天保14年(1843年)と昭和2年の棟札が所蔵されており、天保14年以前から観音堂が鎮座していたことを証明している。 又、黒漆の厨子には、「安政3年(1856年)辰7月5日盛岡井上庄右門六番」と墨書きで記されている。堂内の祭壇です。本尊:千手観音と共に権現頭・大幣が置かれています。まずは大幣から。これは神社で神主などがお祓いの時に左右に振っているものと同じなんですが、幣部分が紙ではなく稲わら?木皮?で作られています。これを初めて見た時には、アイヌの祭具 イナウにそっくりで、もしかして当地域の本州アイヌが用いた物なんじゃないかと早合点して、かなり興奮してしまいました。しかし、先日の弘前花見遠征にて、鷹揚山 不動寺に立ち寄った際、堂内にて同じものを発見。住職にこれはなぜ紙を使っていないのかと尋ねてみました。住職の言う事にゃ、これは山伏が使った大幣であるため、当時入手が難しかった(高級品だった)紙の代わりに、入手しやすい稲わらなどの植物素材が使われていたからだとのこと。逆に高野山の山伏などは稲わらよりも紙の方が入手しやすかったため、大幣には紙を用いていたそうです。つまり、その土地土地で手に入りやすい素材で、大幣を作っていたことが分かります。この桑原村観音堂の大幣も、この土地で入手しやすい素材で作られたものだったんでしょう。植物素材を使った木幣は、津軽の山伏では一般的だったようで、お山参詣などにもこのような大幣が使われていたそうなんです。紙の物よりも丈夫で壊れにくく、水にも強いため重宝されたんではないでしょうか。津軽の強かな人間性が伝わって来ますねぇ大幣の隣には権現頭。こちらは詳細不明ながら、神楽などに使われたものと思われます。最後に本尊です。宝冠を付け、蓮華に座した千手観音。背後の腕には、錫杖や剣といった持ち物が数個残っています。当初はもっといろいろと持っていたんではないでしょうか。大きな欠損などはなく、優し気な微笑を今でも湛える美像でした。斜めから。今では観音堂の姿はとっていませんが、そこに仏が収まっていれば観音堂と呼べるんではないでしょうか(?)。御堂の姿かたちは変わっても、今でも本尊は脈々とこの地に受け継がれ、崇敬されています。桑原村観音堂はそうした意味でも、かなり印象的な札所でした。とは言え、修験との関連を思わせる祭具等も見られ、かなり満足できる札所でもありました。こうした地域の文化などが垣間見えると、神社仏閣めぐりに更に熱が出てしまうわけです御詠歌?本尊:千手観音 सहस्रभुज今回貰った御朱印です。以上です。次の記事・七番札所:池徳庵 東通りの漁村に居わす如意輪観音
2025年04月28日
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堤川沿いに青森寺と言う寺院が置かれています。隣には諏訪神社が鎮座し、もしやもとは鎮守と別当の関係だったのかしらとも思ったんですが、どうやら違うみたいです。この寺院の御由緒などは東北三十六不動尊霊場の記事で書いたので、今回は境内の祠などを見ていこうと思います。津軽弘法大師霊場十七番札所:成田山 青森寺開放的な境内の北側に、青いトタン葺の建物が置かれています。この建物には十二支守り本尊や弘法大師像、水子地蔵像、子安大師像などが置かれています。弘法大師像の前には足形が書かれていて、この下に四国八十八ヶ所巡礼のお砂が埋められています。十二支守り詣出・四国八十八ヶ所お砂踏みなど様々な体験ができますね。十二支守り本尊は仁王像と共に平成2年(1990年)の建立です。境内の奥まったところに赤いお堂が置かれています。これは稲荷堂と呼ばれる御堂で、当寺院の鎮守である稲荷大神が祀られています。稲荷堂の傍らに小祠がありました。覆堂の中はこんな感じです。扁額には龍神堂とあります。こちらの御堂は正式には清瀧権現堂と呼ばれ、おそらく清瀧権現や八大竜王などが祀られているんではないでしょうか。取り囲む様に置かれた布袋尊・大黒天・恵比須様なども、この祠の崇敬の篤さを表しています。斜めから。さすが成田山の分院と言わざるを得ない、忿怒相猛々しい本尊不動明王を擁する寺院でした。本尊以外にも天井画・九頭竜の板碑・屋久杉の根の置物など様々な見所がたっぷり詰まった寺院を、ぜひご参拝ください御詠歌鈴をふり 詠歌ささげん青森寺 川面にうつる 御堂清らかれいをふり えいかささげんせいしんじ かわもにうつる みどうきよらか汚ろう身 詣で来たりしこの寺に 堤川風 清らにぞ吹くけがろうみ もうできたりしこのてらに つつみかわかぜ きよらにぞふく寺院本尊:成田不動明王 अचलनाथ以前貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・成田山青森分院 青森寺 青森成田山以上です。次の記事・十八番札所:浅虫高野山 陸奥護国寺 陸奥湾見おろす御山の弘法大師
2025年04月28日
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青森市の堤川沿岸は、イルカの諏訪詣りでも有名な諏訪神社や、火伏の霊験あらたかな茶屋町延命地蔵尊など多数の神社仏閣が置かれているエリアでもあります。今回の札所もそんなエリアの只中にある寺院で、青森市に置かれたいくつかの成田山の内の1つです。2024.5.25東北三十六不動尊霊場十七番札所:成田山 青森寺先述の諏訪神社の隣に置かれています。寺の入口は広く、狛犬と共に仁王像が建っています。この仁王像ですがなかなかの迫力です。阿形。吽形。力がみなぎっている様に見えますねぇ本堂の前には巨木が一本生えていて、絶妙な角度のまま成長しています。正面から撮影するのは難しそうです。本堂の方は黒い屋根に白い壁のコントラストが素晴らしい中規模の御堂でした。ご由緒です。第十七番 成田山 青森寺真言宗智山派 成田山青森分院本尊:成田不動尊 寺の開創は明治21年(1888年)9月のこと。千葉の成田山 新勝寺に参詣する「成田講」の信者が中心となり、青柳に不動堂を建立したのが寺の始まりである。地元の信仰を集め、明治41年(1908年)には現在地に本堂を建立。信徒は青森市内のみならず、八戸・十和田・鯵ヶ沢など県下全域に拡大し隆盛することとなった。 昭和20年(1945年)7月の空襲で堂舎・本尊とも焼失したのち、県内をはじめとする東北各地の信奉者の寄進により、昭和32年(1957年)7月に本堂を再建。本尊不動明王は昭和35年(1960年)7月に奉安されている。東北三十六不動尊霊場ガイド 春野草結 著 110~112ページ より引用それでは内陣を見てみましょう。中央には2体の童子と共に本尊の不動明王像が置かれています。この立派な尊像は青森県大湊出身の彫刻家 古藤正雄の手になるもので、彼は棟方志功らと共に”青光画社”を結成したことでも有名です。本尊の不動明王は羂索と諸刃の剣を持ち、背には迦楼羅炎、大盤石の上に座すその姿は本当に堂々たる風格を纏っていました。他にも不動明王像が置かれていました。その背後には屋久杉の巨大な根。のたくるその姿はまるで迦楼羅炎のようです。そして堂内左手には九頭献瑞と書かれた板碑が置かれています。相当に巨大なもので、中央の玉を囲むように9頭の龍が威嚇しあっています。外の説明書きによると、中国では八大竜王に皇帝(龍)を加えて九頭竜として祀っているようです。この板碑が誰によって何のために奉納されたのか気になりますね。斜めから。街中に置かれた境内は、広く開放的で鎮守の小祠等も置かれていますが、それらについては津軽弘法大師霊場の記事の方で取り上げたいと思います。シックな色合いの御堂もさることながら、そこに納められている不動明王像も大迫力の巨像で素晴らしかったですねここの寺号は青森寺(せいしんじ)、その名に相応しい青森を代表する真言宗寺院でした。御詠歌めぐりきて 外ヶ浜辺のほとりなる 成田不動へ 参へるうれしさめぐりきて そとがはまべのほとりなる なりたふどうへ まいへるうれしさ本尊:成田不動尊 अचलनाथ以前貰った御朱印です。今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・成田山青森分院 青森寺 青森成田山以上です。
2025年04月27日
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新井田には大きな寺院が2つあり、一方を上手(かみて)にある事から”上の寺”、もう一方を下手(しもて)にある事から”下の寺”と呼びます。上の寺は以前紹介した十六番札所:凉雲山 浄生寺で、下の寺は今回紹介する貴福山 對泉院になります。八戸御城下三十三観音霊場十七番札所:貴福山 對泉院交差点に参道の起点があります。入り口には地蔵菩薩と如意輪観音の石像が置かれ、参拝者を迎えます。参道沿いには現在も巨大な杉が生い茂り、往時の姿を今に伝えます。参道には供養塔が置かれています。これは尾州(名古屋市)の和吉によって建立されたもので、なんでも巨大な自然岩をそのまま石碑にしたそうです。山門です。八戸に現存する貴重な楼門形式の山門になります。この他に楼門形式の山門は市内に2つあり、それぞれ福聚山 大慈寺(糠塚)・福聚山 大慈寺(松館)の境内に置かれています。個人的には、3つの内この對泉院の山門が一番好きなデザインです。色合いもシックでかっこいいですよね!説明書きです。県重宝建造物(平成29年8月16日指定) 対泉院山門 貴福山対泉院は、根域南部氏の一族である新田氏の菩提寺として、正平23年(1368年)に甲斐国(現山梨県)で創建された後、慶長9年(1604年)に新田氏とともに八戸に移ったとされます。現在の山門は当寺の十二世聖山英賢和尚の代の文化8年(1811年)に完成した伝わりますが、棟札は残っていません。 山門の上層に、文化8年に安置されたことを記す祈祷札をもつ十六羅漢、門両脇に、文化8年寄進と記す板をもつ仁王像があることから、この時期に山門が建立されたと見られます。明治43年(1910年)の火災で本堂は焼失、山門と鐘楼が焼け残り、現在に至ります。 山門の構造は三間一戸の楼門で、屋根は入母屋造りです。桟唐戸や円柱下の礎盤、上層の花頭窓など、禅宗寺院らしく禅宗様の手法が散見されます。また、市内に残る三棟の楼門(対泉院、松館・糠塚大慈寺)の中で最も古くかつ大きいものです。 建立当初の状態を保ち、保存状態も良好である山門は、江戸時代後期の八戸地方の建築技術を知ることができる重要な建造物です。令和2年12月 八戸市教育委員会明治の火災を潜り抜けた山門には、荘厳な装飾の山号額が懸かっています。更に内部には仁王像も置かれています。阿形は赤く・・・。吽形は青いです。衣の表現や装飾が見事ですねぇ!山門の周りには石碑がいくつも置かれています。これは天明の大飢饉の餓死者を弔った供養塔です。正式名称は”餓死万霊等供養塔”で裏面に飢饉の様子を示す文面が刻まれています。 安永7年(1778年)の頃から、ここ数年の間耕作はよくなかった。天明3年(1783年)の大凶作の様子は、4月11日の朝に雷が強く鳴り、やませ(冷たい風)が吹き、大雨が降りだした。 それ以来、八月の末まで雨が降り続き、九月一日にようやく晴れた。夏の間ずっと綿入れを重ねて着なければならないほど寒かった。田や畑の作物は実らず、青立ちのままだった。人びとは階上岳へ登りわらびの根を掘り、海草や山草はもちろん、わらも粉にして食べた。そればかりか■■■■■■(※この部分は削りとられています)。 翌年になると、領内すべてで収穫がなくなり、病気が流行し、多くの人が餓死(がし)して、死体が山のようであった。町や村では毎晩のように火事があり、押し込み強盗などが多くなった。しかし、新井田村では出火はなかった。 領内の人口6万5千人あまりのうち、3万人あまりが死んだ。新井田・十日市・田向・塩入・岩淵の人口男女あわせて1418人、そのうち696人が死んだ。家は272軒のうち、136軒がつぶれた。これまでにないことである。これからは、米や穀物をたくわえておくべきだ。この数年後に津軽を訪れた菅江真澄も、津軽地域の惨状を記録していますが、やはり南部地域も相当な被害があったようですね。今では対寒性のある稲が栽培されていますが、そうではない品種を栽培していたであろう天明の頃には、天候1つで自らの食い扶持が脅かされるという恐ろしい状態だったんでしょう。飢饉と言うと実りが無いというイメージがありますが、それだけではなく上納しなくてはいけない米の量が年々上がっていたそうで、津軽藩も南部藩もその辺りの采配が上手くいかなかったんではないでしょうか。どちらも相当な被害が出ています。こんな説明書きも有ります。三浦哲郎「おろおろ草紙」ゆかりの地 この作品は、足軽の次三男で結成された鉄砲十六文隊の最年少の隊士である立花小十郎の目を通して、天明3.4年の大飢饉の惨状を描いたものである。 哲郎は、『自作への旅』の中で、「この作品を書いている間、何度もおそろしさでペンを持つ手がかじかんだ。一歩も先へ進めなくなったこともある。そんなとき、帰郷して、新井田の対泉院の門前にある飢饉の餓死者の供養塔を訪ね、願わくは我に勇気を与えよと、合掌してひたすら祈ったことを忘れない。」と述べている。三浦哲郎文学顕彰協議会山門をくぐると、同じく明治の火災を潜り抜けた鐘楼が建っています。昔ながらの鐘楼といった構造で、垂木の下の装飾も美しいです。境内は霊園に隣接しており、かなりの広さです。本堂の横には池が広がっていて、まるで庭園の様です。その境内の隅の方に赤い祠が置かれています。両端に前掛けを付けた狐が置かれているので、おそらく稲荷社でしょう。祠の中には古い狛狐?像と貴福稲荷大神の木幣が置かれています。名前からして、この境内に長らく祀られていた稲荷神社なんではないでしょうか。もう少し境内を散策してみましょう。本堂の奥側のところで歌碑を見つけました。例のごとく歌は判読できませんでした・・・んでもって蓮池です。池の中央には観音像が置かれています。この蓮池に咲く蓮は、なんと、大賀ハスという2000年前に生息していた古代ハスなんです。大賀ハスの説明書きです。太古のいのち大賀ハス 大賀一郎博士(明治16年~昭和40年・蓮の研究で世界的植物学者)が、昭和26年(1951年)千葉市浪花町26東京大学検見川厚生農場内の地下4mの青泥層の中から、多くの人々の善意と無償奉仕により、延べ2500人、50日間の日数と数十万円(当時)の費用をもって3粒の古蓮実の発掘に成功した。 そしてこれが昭和27年(1952年)7月19日に開花し、同年11月に米国ライフ誌の表紙となり2000年前の古代蓮として全世界に報道されたのである。 名付けて大賀ハスと言う。発掘の経緯 昭和22年(1947年)前記場所から古代のカヤの丸木舟とハスの花托が浮かび出たと言う。考古学上、2~3千年前の舟と判定された。花托が有る以上ハスの実が有るに違いない。それが見つかり発芽すれば間違いなく世界最長のいのちである。 大賀博士の執念の始まりである。 しかし、掘るにしても老学者1人の手に負える事ではなく博士は、当時近くの(農林省)印旛沼干拓工事中の八戸市出身の穂積建設(株)穂積重二社長(明治28年~昭和29年)に頼み込み直属の近藤組(近藤泰次郎他八戸出身者25人)とふるい出しに千葉市第七中学校校長他生徒40数名の協力を得てようやく発掘作業へ取りかかる。 予想を越え作業は困難を極め、千葉県からの補助金6万円と一週間の予定をとうに使い果たし、追加費用捻出のめども立たないまま途方に暮れたのである。 干拓工事の現場の方も当てのない蓮の実にいつ迄も関わっていられる程、余裕があった訳ではない。 その時、社長の穂積重二氏は「このせせこましい世の中に夢を掘るのもいいじゃないか」とその後の費用の援助と共に作業の続行を命じたと言われている。 しかし、尚、湧水と崩壊との闘いが続く。 3月30日、博士は、これ以上発掘作業の人々に迷惑をかける訳にはいかないと、明31日をもって作業の打ち切りを申し出る。 その日、古蓮実の1粒が(午後5時10分頃)第七中学校女子生徒西野真理子さんの篩(ふるい)の中にふるい出されたのである。正に奇跡としか言い様がなくこれに力を得て更に掘り進め、4月6日2粒が出土し合計3粒が発掘された。作業開始後35日目である。 その後この古蓮実は、5月6日府中市の大賀博士の自宅に於いて播種され、5月9日に発芽する。 2000年の眠りから覚めたいのちの神秘である。八戸市への移植 この事業が当八戸市に関係ある人々によって成功を見たと言うことは、誠に感慨深いものがあり、以上の様な由縁により昭和44年(1969年)4月是川清水寺へ分根されたが、湧水が冷たく枯死し、昭和45年4月再び此処対泉院貴福池に移植したのが、翌年8月開花し今日に至るまで毎年8月には古代蓮特有(一重咲き・淡紅色・24弁のやや細長い花弁)の美しい花を見せてくれている。平成4年8月~「このせせこましい世の中に夢を掘るのもいいじゃないか」~出ました、本日の名言です不思議な縁で八戸市に古代ハスはもたらされたんですねぇ!池から霊園側に進むと巨大な独鈷が置かれていました。更に奥へ。扇塚の石碑。その隣。茶筅塚と茶筅炉。更にその隣に金色に輝く”交通安全守護観音”が置かれていました。対泉院の境内には〇〇塚という石碑が多いですね。また歌碑がありました。歌碑の隣には心経塚。経塚の一種でしょうか。説明書きを見てみましょう。心経塚由来 摩訶般若波羅蜜多心経は釈尊の説かれました5000余巻のお経巻中、唯一無二のものと尊ばれて来たお経であります。この1巻は262文字ではあるけれども一切経の精随骨子を説かれたものであります。即ち一心を説いて萬心を悟らせる迫力のある信心を明らかにしております。 従って古来からこの心経のことを神前の寶修業円成の花として非常に多くの人々から読誦され、信仰されて来た不思議な*化力を持つお経であります。この不思議な微妙の法にひかれて同志相寄り報恩寫経(写経)会を組織し日々夜々寫経の修行を積んで参りました。 この大功徳一大結集のために近年中に心経塚を建立して佛法興隆のためにも子孫繁栄のためにも寫経運動を続ける覚悟でありました。 この時私共の一念が天に通じてか寫経会の会員であります横田興一郎夫婦がお陰様でこの一生を円かに暮らさして頂きました感謝のために、且つ社会福祉の充実を期するために建立さして下さいとの心願を起してくれました。 この尊い発願を成就させるために早速着工しましたところ、横田氏自ら設計構想に参加し、直接工事にも参直して工事の促進を計り、斯くも堂々たる日本一の心経塚が完成いたしました。 就いては佛教信者の各位におかれては諸願成就・子孫長久・営業繁昌確立のために萬障を*除き、一心不乱に寫経してこの意義ある宝庫に納めて自らの永遠の歴史を*します事を念願いたします。昭和53年11月20日 廿一世 照山頼石 *心経塚の隣には、なんらかの男神を祀る社が置かれていました。謎の社です・・・。いよいよ本堂を見ていきます。八戸にありて、ここまでの大きさと荘厳さを具えた御堂を持つ寺院は、多くはありません。屋根の頂部をよく見ると、南部の七曜紋が捺されており、南部氏との関りが伺えます。御堂を近くで見てみましょう。所々に金色の装飾が見られます。垂木の先端にもこれでもかと付いていますね各所の木彫に関しても、かなり精巧なつくりで見ごたえが半端ないですよ・・・!更にズームアップ。一番手前には天女が、その下の蟇股には草花が、虹梁には鳳が刻まれています。木鼻?の所の獅子(左)は毬を持っているんですが、その彫り抜き具合も相当に芸術的ですよぉ寺号額は波打ち、その下には三頭の龍が踊ります。以上、御堂外側の装飾でした。ご由緒を見てみます。※滝尻氏の「八戸御城下三十三番札所巡り」の記述を参考にまとめてみました。十七番札所 貴福山 對泉院曹洞宗 遠野大慈寺末寺開山:松舘大慈寺三世大陰恵善和尚 とも 有也和尚(永正2年・1505年) とも伝わる開基:新田政持(正平22年・1367年) とも 新田政盛(元亀元年・1570年) とも伝わる本尊:釈迦三尊札所本尊:千手観音 貴福山 對泉院の由緒については不明な所が多く、開山・開基ともに幾つかの説がある。先ず開山については以下の2通りの説が見られた。1. 松舘大慈寺三世大陰恵善和尚が寺沢に建立した(大館村誌)。2. 永正2年(1505年)真言宗有也和尚が対川精舎として建立した(和漢朗詠集私注)。次に開基については下の2通りの説が見られた。1. 正平22年(1367年)新田政持が甲斐国に創建した(大館村誌)。2. 元亀元年(1570年)新田政盛が甲斐国倉見山から当地に菩提寺(対泉院)を移した(新田家系略)。いづれも真偽は不明ですが、根城南部氏の庶家 新田氏の菩提寺であることは確かです。 寛永4年(1627年)には、根城南部氏の遠野移封に付き従い、当寺も遠野に移ったために八戸の対泉院は廃寺になってしまう。ただこの数年後に、遠野大慈寺七世用室存心和尚によって再び開山。当寺三世林南儀道和尚が中興開山となる。 寛文4年(1664年)に八戸藩が誕生すると、領内の有力寺院に数えられ、百石もの寺領を持つに至った。 明治43年(1910年)3月18日、近隣の民家火災が飛び火して山門・鐘楼以外の堂宇を失うも、昭和25年に本堂が再建されている。尚、本堂の再建を手掛けたのは、火元の二男中村松太郎とされている。 札所本尊の千手観音立像は、大正初期に八戸観音講中によって奉納されたもので、現在は位牌堂に安置されている。新田氏と関りの深い寺院で、今でも遠野対泉院には新田氏の墓が置かれていると言われています。いつかは移封前後の寺院を並べて記事を作り、楽しみたいです・・・乞うご期待!堂内にはおじさまとおばさまの木像が置かれています。もしかして心経塚の説明に出てきた横田興一郎夫婦のものではないでしょうか?像には本物の数珠が懸けられています。本尊阿弥陀三尊です。明治の火災以前は丈六の阿弥陀如来像があったとも言われており、十四世黙禅湛堂和尚が誤って阿弥陀像の頭部を落としてしまったところ、中から三体の聖観音像が出てきたなどの逸話が伝わっています。現在の阿弥陀三尊像は由緒などの詳細は不明ですが、相当に立派なものです次に位牌堂の仏像群です。中央に地蔵尊、右に札所本尊の千手観音像、左に不動明王像が置かれています。中央の地蔵尊像は金色の荘厳な仏像で、優し気な表情が特徴的です。法衣もかなり装飾的で美しいですよね。何分でも見ていられます。お待ちかね、札所本尊千手観音立像です。箔の剥がれや欠損は無く、大事に管理されていることが見て取れます。背後の腕の本数は25本でしょうか?茨城の友人曰く一本の腕に40の救いを併せ持つため、25×40=1000とカウントされているとか・・・。京都などには実際に1000本の腕を持つ千手観音像なども有るらしく、いつか見てみたいですねぇ斜めから。新井田の下の寺こと、対泉院は八戸の寺院の中でも山門・御堂・仏像のどれもが群を抜いて素晴らしいものでした。これらは本当に一度は直に見てい頂きたいくらいにお気に入りです新田氏の菩提寺とのことですが、国替えによる廃寺から救ったのは遠野の大慈寺。大慈寺は根城南部氏の菩提寺であり、きっと移封後の根城南部氏(遠野南部氏)が家臣の菩提寺跡を救うために画策したんではないでしょうか。八戸南部氏の代になると、その庇護はますます篤くなり、現在の荘厳な堂宇を持つに至ります。何とも激動の歴史を持つ波乱万丈な寺院でしたね御詠歌ありがたや 誓いは此處に貴福山 五障の誓ひも はるる此寺現代新御詠歌ひた燃ゆる 炎のこころ幾十年 つらぬき大き み寺は建ちぬ札所本尊:千手観音 सहस्रभुज以上です。次の記事・十八番札所:長根天満宮(雨覆横枕観音堂) 長根の元観音、天満宮
2025年04月23日
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今回の札所は津軽三十三観音霊場の中でも、梵珠山の松倉神社に次ぐ難所です。山奥の岸壁に建てられた懸造の観音堂で、アップダウンのある参道を進むことになります。歩きやすい格好での参拝をお勧めします。片道10~15分位ですので、そこまで気張る必要もないんですが、さすがに足を滑らせるとそのまま転がり落ちていく位には急な斜面ですので・・・お気を付けください。津軽三十三観音霊場九番札所:見入山 大悲閣津軽の方の追良瀬の村から、追良瀬川に沿って上流方向に車を走らせます。津軽の清流追良瀬川は、毎年何万匹もの鮭が遡上してくることで有名です。津軽に追良瀬川ありとはよく言ったもので、他県にも鮭の良質な漁場として知られています。15分程走ったでしょうか、右手には追良瀬川、左手には立派な杉が見えてきます。ここから見入山 大悲閣へ向かうことができます。トイレもある駐車場なので、車でも安心。駐車場周辺には石碑や祠がいくつも並んでいます。これは魚籃観音。サケ漁と関係がありそうです。石碑の手前に如意之水と書かれており、何か謂れのある名水が汲めるんではないでしょうか。こちらは千手観音。表情がお気に入りです。人位の大きさの聖観音像も有ります。その隣には馬頭観音像。迫力のある表情です。次に祠です。この祠には吉祥天と非母観音が祀られています。内部には石造の御神体が収められています。こちらは吉祥天。稲荷とも習合していたような・・・?そして非母観音。幼子をあやす観音の姿が刻まれています。子安観音と同一でしょうか?では、大悲閣の方に向かいましょう。参道の起点には鳥居が置かれており、それに梵字の扁額が掛かっています。恐らく本堂に収められている如意輪観音・聖観音・地蔵尊を表したものだと思われます。簡単な地図も置かれています。スタートからすぐに圧倒的な登りがお出迎えです。説明書きです。町指定名勝 見入山観音堂(大悲閣)昭和49年8月16日指定 室町初期の康永3年(1344年)造営の棟札があり、創建の古い観音堂である。 洞窟の中に建てられた舞台造りの堂宇で、昔から”窟観音(いわやかんのん)”と称され、本尊は如意輪観音である。 本堂の前には薬師如来・毘沙門天・愛染明王・弁財天・稲荷神・山神が、胎内くぐりには不動明王、麓には地蔵・吉祥天などの九つの堂社がある。 津軽三十三ヶ所観音霊場第九番札所で、地域の人々からあつい信仰をうけている。深浦町教育委員会鳥居の脇の祠。恐らく説明にあった地蔵尊の物でしょう。左に御影も懸かっています。鳥居をくぐると供養塔が建っています。行円・万良・善寿院という三名の僧(修験僧)の名が刻まれています。彼らは共に開創・中興など、当寺院の存続に関わった者たちです。歌碑も有りましたが判読不能です。”行円上人を偲びて”と見えますが・・・歌の方は分かりませんでした・・・参道の様子。ここから徐々に傾斜が急になってきます。だんだんと太ももに乳酸が溜まってきます・・・。そこまで長い距離ではないんですが、こりゃなんともキツいですよただ、途中途中でこのように聖観音がエールを送ってくれます。もう少し頑張ってみましょうか。木々や葉で隠れて見えづらいんですが、岩に裂け目ができています。ここが胎内くぐりと呼ばれるところで、以前は不動明王の祠が置かれていました。祠はこんな感じ。蚊を恐れて未だに胎内くぐりをしたことはありません・・・。ここまでくれば観音堂は目の前です。見えました、見入山 大悲閣です。津軽が誇る懸造の観音堂は、全国の御堂と比較しても負けない位の素晴らしさですよ!津軽三十三観音霊場の札所の中でも、相当な名刹と言えます。ご由緒です。見入山 古棟札によると、建立は康永3年(1344年)8月22日。大和国宇多郡神願寺の住僧行円が開き、藤原氏家の寄進により建立されたと記録されています。後に木食万良が山麓に草庵を結び法務していました。 本尊は智証大師作による如意輪観音の石像です。 庵が無住となった期間には、本寺円覚寺において寺務を執り山伏修行道場としていました。 明和8年(1771年)には円覚寺別家善寿院・永慶法印が再興しましたが、明治7年(1874年)政府の布達により再び円覚寺の管理下に置かれました。 大正11年(1922年)9月に堂宇が焼失しましたが、ただご本尊如意輪観音菩薩像のみは猛火の中にあって、つつがなきをえたのは、観音菩薩の法力の賜といわざるを得ません。 現在のお堂は大正13年(1924年)に再建されたものです。 室町初期の康永3年(1344年)造営の棟札があり、創建の古い観音堂である。 洞窟の中に建てられて舞台造りの堂宇で、昔から”窟観音(いわやかんのん)”と称され、本尊は如意輪観音である。 本堂の前には、薬師・毘沙門・愛染・弁天・稲荷・山神・胎内くぐりには不動明王、麓には地蔵・吉祥等の九つの堂社がある。 津軽三十三ヶ所観音霊場第九番札所で、地域の人々からあつい信仰をうけている。深浦町教育委員会春光山 円覚寺 ちょんまげの寺 / 見入山 大悲閣 より引用こちらの由緒も見てみます(一部加筆)。見入山観音堂(深浦町)概要古義真言宗 春光山円覚寺末寺開山:智証大師 とも 行円和尚(康永3年・1344年)とも伝わる開基:藤原氏家(康永3年・1344年)本尊:如意輪観音山号:見入山元寺号:善寿院 見入山観音堂は青森県西津軽郡深浦町大字追良瀬初瀬山草分に境内を構えている古義真言宗の寺院です。見入山観音堂の創建は不詳ですが伝承によると智証大師(智證大師:平安時代の天台宗の高僧、入唐八家)によって開かれたのが始まりとされ、南北朝時代の康永3年(1344年)、藤原氏家が大檀那となり堂宇を再建し行円和尚(大和国宇多郡神願寺住僧)を招き中興開山したと伝えられています。 その後、無住となり衰微しましたが円覚寺の管理下に入り境内は修験僧の修験の場として整備され「飛び地境内」などと呼ばれました。 明和8年(1771年)に円覚寺の永慶法印が弘前藩七代藩主津軽信寧の帰依を受け再興し独立、寺号を善寿院に改称し、修験道場として発展、歴代弘前藩(藩庁:弘前城)藩主にも崇敬庇護され代参が行われました。 明治時代初頭に発令された神仏分離令と修験道廃止令により、明治7年(1874年)に善寿院が廃寺となり観音堂として再び円覚寺の管理下に入りました(現在でも参道正面には鳥居が残され神仏習合時代の名残が見られます)。 大正11年(1922年)の火災により多くの堂宇や寺宝、記録などが焼失、現在の見入山観音堂の建物は大正13年(1923年)に再建されたもので、崖地を利用した懸け造り(傾斜地に建てられる建築工法の1つで、建物が斜面や水面から張り出す為、多くの柱や梁で床を支える独特の外観が見られる)、入母屋、正面軒唐破風、鉄板葺き、平入、桁行三間、張間二間、外壁は真壁造り板張り、格天井には梵字、霊場の雰囲気を感じることが出来ます。 境内には薬師如来、毘沙門天、愛染明王、弁財天、荼枳尼天、不動明王(胎内くぐり)、十二神将、地蔵菩薩、吉祥天の9宇(御堂は何れも四尺四面)があり創建は不詳ですが明和8年(1771年)、永慶により再建されています。見入山観音堂(大悲閣)は貴重な事から昭和49年(1974年)に深浦町指定名勝に指定されています。青森県歴史観光案内所 / 見入山観音堂 より引用本寺に伝わる由緒に従うと、南北朝時代に大和国の僧行円によって開山されたようです。このころ深浦の港が栄えていたのかは定かではありませんが、遠く大和国から僧を呼びつけた藤原氏家とは何者なんでしょうか?調べてもあまりヒットしなかったんですが、宇都宮氏の氏流に氏家氏という一族がいた様で、南北朝の頃に斯波氏に付き従い、奥州や羽州(東北全土)に入部したようです。宇都宮氏も元をたどれば藤原の家系であり、藤原氏家という個人名ではなく”藤原の家系の氏家氏のだれか”ということを示している可能性はないでしょうか・・・かなり強引な解釈ですが。謎の多い人物です。創建以来、修験色の強い霊場であり続け、火災によって全焼した後も崇敬の篤さから、再建されています。様々な法難を乗り越えた、かなり息の長い古刹でもあるんですね。大悲閣の入口手前には、小さなものも含めて7つの祠が置かれています。右手前から山神宮(なぜか木神宮と書かれている)・稲荷堂・弁天堂・愛染堂・祭神不明の小祠・毘沙門堂・薬師堂と並んでいます。いずれも御神体は、御影が線刻された石碑です。大悲閣の入口はこんな感じです。扁額も懸かり堂々たる姿です。内陣に入ってまず目に入るのが、梵字の彩色天井です。これは本寺の円覚寺本堂内の天井とそっくりで、関係の深さが伺えます。本堂には三仏(如意輪観音・聖観音・地蔵尊)が祀られており、中央が本尊:如意輪観音、左:聖観音、右:地蔵尊です。由緒を見てみると、聖観音が本尊の時もあったそうですが、この聖観音像と同一かは不明です。それにしてもこの飾りつけ様はすごいですね。信仰の篤さがうかがい知れます。下山後、撮影ポイントを探して周囲を歩いていると、見入山 大悲閣が置かれている場所は、かなり岩石が露出していることが分かります。恐らく大悲閣が置かれた岩窟以外にも、いくつもの岩窟があったんではないかと思わせます。目時薬師堂然り、天開山 大谷寺然り、こうした石灰質の岩石層は、古くから霊地とされているケースが多いと思います。特に調べたわけではないんですが、個人的にはここもそうした霊場なのではと思っています。縄文の頃からの聖地だったりして・・・なんて妄想しながら、今回は終わりにしたいと思います。御詠歌深山路や 檜原松原分け行けば 山も誓いも 深き谷川本尊:如意輪観音 चिन्तामणिचक्र以前貰った御朱印です。※朱印所は深浦の春光山 円覚寺判のみのもの直書きのもの以上です。次の記事・十番札所:春光山 円覚寺 津軽の湊守りし大寺院調子に乗って撮った写真ギャラリー秋の大悲閣
2025年04月22日
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つがる市の蓮川集落に鎮座する月夜見神社。その境内の一角に十二番札所の蓮川観音堂が置かれています。この通り元は神仏混淆の霊場だった様で、明治の神仏分離に際して現在の状態になりました。祭神が月夜見大神ということで、月山神社を勧請したものかと疑いましたが、どうやら関係ないようです。津軽三十三観音霊場十二番札所:月夜見神社 蓮川観音堂集落中央の水路を越えて、今鳥居の前に立っています。両部式の立派な石鳥居、その奥には朱塗りの鳥居が続きます。参拝したのは去年の秋ゆえ、境内にはイチョウの葉が敷き詰められています。以前は銀杏の香りが苦手だったんですが、だんだんと秋を感じさせる風物詩の様に感じてきました。拝殿はこじんまりとしたものですが、かえって趣があります。ご由緒です。月夜見神社 月夜見神社は青森県つがる市木造蓮川清川に鎮座している神社です。月夜見神社の創建は延宝7年(1679年)に勧請されたのが始まりと伝えられています。天和2年(1682年)には観音堂が建立され聖観音像が安置、その後神仏混合して正徳院と称していたようです。 正徳3年(1712年)に社殿・堂宇など再建し寛延年中(1746~1751年)には蓮川観音堂が津軽三十三観音霊場第十二番札所に選定されると広く信仰を広げました。その後、正徳院は廃れましたが、残された蓮川観音堂には多くの参拝者が訪れ賑ったとされとされます。 明治時代初頭に発令された神仏分離令で形式上は仏式が廃され、飛竜宮から月夜見尊神を主祭神とする月夜見神社に社号を改め、明治6年(1873年)に郷社に列し、明治40年(1907年)に神饌幣帛料供進に指定されています。 昭和32年(1957年)火災で多くの建物・社宝・記録など焼失した中、本尊である聖観音像は類焼が免れ、更に神聖視されるようになったと言われています。祭神:月夜見大神、豊受姫神例大祭:8月18日青森県歴史観光案内所 / 月夜見神社 より引用17世紀創建の月夜見神社。当地域の人々はどのような神徳を得ようと月夜見神を祀ったんでしょうか。神話内での活躍に乏しいこの神格、あまりどのような神徳を持つとされるのか良く分かりません。やはりなんらか月と関係した物事について恩恵を得ようとしたんですかね、不明です。掠れてはいますが美文字の扁額もあります。堂内です。牛の置物に馬の扁額など、家畜に関連する奉納品が多いですね。それと気になるのが中央手前の扁額。**大権現と刻まれていますが、判別不能です。これが分かればどのような神徳が期待されていたのか、月夜見大神の特徴について考察できそうなんですが・・・。口惜しや・・・斜めから。津軽の内、北五津軽と呼ばれるこの辺りの神社は、圧雪に耐えるためにトタンや近代建材で建てられた社殿が多いです。ここも同様で、バリバリ近代的な建造物になっています。あまり風情は感じられませんが、実用的な利を取る強かさも感じられます。どのような形になったとしても、受け継がれていって欲しいもんです。次に境内社と観音堂を見ていきます。月夜見神社左手の小祠。祭神は不明ですが、由緒通りならもしかしたら豊受姫神が祀られているんではないでしょうか。伊勢神宮でも、天照皇大神の衣食住を賄うためにこの神格が祀られていますが、ここでもそのような考えのもと祀ってるんではないでしょうか、知らんけど。境内の西端には1基の鳥居が建っており、その奥には幾つかの石碑が並んでいます。ふむ、庚申・猿田彦・二十三夜。どれも月待に関連したものですね。そして観音堂です。神仏分離による廃堂を免れるためか、鳥居も併設されています。正面から。非常に簡素な造りです。観音堂を囲むように三十三観音像が建てられています。面白いことに、この三十三観音像は西国三十三観音霊場では無く、津軽三十三観音霊場の写し霊場のようです。馬頭観音の下部には”津軽廿七番”と入っています。二十七番札所というと白山姫神社(袋観音堂)ですね。白山姫神社は如意輪観音を札所本尊としていますが、一時期は馬頭観音の時もあったとどこかで聞いたことがあります。おそらくその時の状態が反映されているんではないでしょうか。こっちも馬頭観音っぽいんですよね。二十九番は神明宮 沖館観音堂ですが、こちらは十一面観音が札所本尊です・・・。馬が重要な労働力とされていた時には、今よりも多くの場所で馬頭観音が祀られ、それが三十三観音巡礼の札所本尊になっていたんでしょうか?今は痕跡も少ないですが、津軽でも確かに蒼前さまの信仰があったようなので、そうしたところに馬頭観音像が置かれたんではないでしょうか。こっちに関してはどの観音なのかさえ判別不能です。印などから千手観音に見えなくもないですが・・・准胝観音という線もありますよね。堂内です。こちらにも絵馬が奉納されていました。斜めから。やはり他の地域の観音堂と比べても、当地域の観音堂は見栄えが劣る所もあるでしょう。しかしこれはしばれる冬の豪雪に打ち勝つための姿なのです。寒さ厳しい津軽の地で、三十三観音霊場が受け継がれ続けたのには、当地に生きる人々の強かさ、必ずこの信仰の札所を守護ろうとする強かさが主因になっていると思っています。華美な御堂ではないですが、素朴な津軽の信仰の姿を体現した観音堂でした。御詠歌野をも過ぎ 里をも行きて眺むれば いつも妙なる 法の蓮川本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर以前貰った御朱印です。以上です。次の記事・十三番札所:三柱神社 川倉芦野堂 今は神社の境内に、金木川倉の観音堂
2025年04月21日
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福島県棚倉町は古くからの城下町で、現在も棚倉城跡から棚倉街道に沿って幾つかの寺院が置かれています。その中の一つが今回紹介する堀川山 安養院 観音寺。もともとは現在地から東の方、かなり山手の方に境内を構えていました。その時の山寺号は金剛山 満福寺で、本尊の聖観音像は仙道三十三観音霊場の二十一番札所に選定されています。現在でも堀川観音堂として古くからの地に鎮座していますが、寺院の機能としてはこちらの観音寺とともに現在地に移っています。仙道三十三観音霊場二十一番札所②:堀川山 安養院 観音寺棚倉街道(県道177号)沿いに境内を構えています。駐車場も有るので、車でも安心。寺門は四脚門で、山号額が懸かっています。境内に進んでみましょう。境内には地蔵尊像などが有りましたが、なによりも気になるのがしだれ桜です。丁度今時分参拝出来ていれば、美しい桜を撮影できたかも知れません・・・。本堂です。件の桜の直ぐ側です。大きさ的には中規模ですが、屋根も外壁も新しくキレイです。本堂手前の説明書きです。本堂建立記念碑 当山は寛治元年(1087年)宥明僧都を第一世とし開山。仏宇を草創し金剛山 林蔵院 満福寺と称し仙道三十三観音第二十一番札所の霊場なり。後に寛永元年(1624年)現在の地棚倉へ移し堀川山 安養院 観音寺と改称す。 以来法灯連綿として現在に至るも、今を去ること200年前類焼に遭い諸堂悉く焼失し灰燼と化す。その後古材を使い仮本堂を建て、本尊聖観世音菩薩を奉て幾星霜。屋根の改修等にて体面を保つも堂宇の老朽著しく、依って前住職誠栄代より話し合いを重ね、時代は平成となり将来を憂慮し現住職始め当代役員の発願により、平成16年4月役員会総会を開催。総代、世話人一同の賛同を得、これが達成に向け厳しい経済情勢の中、十方有縁の壇信徒呼応して協心*力浄財を仰いでようやく荘厳を得、平成18年4月9日落慶の運びとなる。 開山920年(2007年)を迎え、当山有史の一大聖業は壇信徒による先祖への厚恩報謝、あわせて子孫長久の願いを込めた浄業なり。 ここに観音寺隆昌、壇信徒・家門繁栄を懇念す合掌推時 平成18年4月吉日 堀川山 安養院 観音寺第三十二世住職 賢栄 代扁額です。御立派!堂内に入ってみましょう。中央には荘厳な厨子が置かれ、その中に黒っぽい聖観音像が置かれています。これがもともと堀川観音堂(金剛山 満福寺)に置かれていた由緒ある観音像でしょうか。近くで見てみると、腕から下がる衣の表現がなんとも見事です。手に持つ蓮の蕾も、今にも開かんとしているのが見て取れるようにリアルです特に文化財に指定されているのかは分かりませんが、個人的にはかなり素晴らしい仏像だと思いました。斜めから。かつての仙道札所は街中に移り、現在も法灯を絶やすことなく崇敬を集めていました。何度も言いますが、おそらくこのしだれ桜が花開けば、すんごい景観美しき写真が撮れると思うんです。本当にまた参拝したい寺院です。合計3ヶ月の福島出張でしたが、何とも良き出逢いに恵まれた時間となりました。ここだけでなく、再び巡ってみたい神社仏閣、巡り残した神社仏閣がいくつもあります。何としてもそちらも廻りつくしたい、そんなことを心に留めつつ、今回は終わりとします。御詠歌?本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर以上です。
2025年04月20日
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福島県中通り地方の南部、浅川町の更に南に棚倉町があります。陸奥国一之宮とも称される馬場都都古和氣神社や、8世紀創建の古社:宇迦神社などがある城下町です。その集落から東方に車を走らせると、高低差のある農村があり、その村の奥地に今回紹介する観音堂があります。仙道三十三観音霊場二十一番札所①:堀川観音堂(金剛山 万福寺)農村の奥地と言いますと、本当に道は細く、その割上り坂は急で、登り切った先にも駐車スペースは無いというなかなかに厳しい状況の札所です。村の入口辺りに駐車して参拝しました。息を切らしながら坂を登っていくと、参道が見えてきました。落ち葉に被われ、石段は傾き、歩きやすいとは言えません。ただ雰囲気は抜群です。参道の麓には恐らく淡島明神のものと思しき石碑が置かれています。石碑の脇辺りから女坂が伸びています。今回はこちらから参拝してみましょう。程なくして観音堂が見えてきました。宝形屋根で中規模の観音堂です。先ずは境内から見ていきましょう。先ほどの参道(男坂)を登り切った所に標柱と変わった形の石碑が置かれています。石碑をよく見ると鐘の様な形をしています。更に表面には文字が刻まれており、おそらくもともとここに鐘があったことを示しているものと思われます。碑文です(一部書き下し)。梵鐘供出*念 東亜の戦雲彌々(いよいよ)急なる秋。堀川観世音の名鐘、茲(ここ)に應*時に昭和19年(1944年)3月18日なり。 鐘は牛車に揺られて*川駅に向かう。沿道別れ惜しむ者***十。しかして日暮**所に送***発器に改遠せられて戦終に参加す*々終戦の大招喚発せられ平和来復せたりとも名鐘また還らず。*に信徒相**名鐘の由来を石に刻み、之を***伝う。 鐘は正徳元年夏五月水戸太田の住人の治工藤原重貞の作にして、青銅より成る鐘面には釈迦・*師・観音・勢至・阿弥陀の五佛を鋳刻する。高さ三尺、回り六尺三寸、重さ六十二貫*****金剛山 満福寺十一世の法印宥貞の足りる所**美響をもって聞こゆ。昭和十二年陰暦四月十八日 浅川町長 鈴木正美*文戦時供出されるまでは、ここにも他の仙道札所と同じく鐘楼・梵鐘が置かれていた様です。往時はその美しい響きを集落にもたらしていたんですね。境内には他にも小祠や石碑が置かれています。こちらは石祠、祭神不明です。こちらの2基の石碑には牛頭観世音・福石観世音と刻まれています。何か名の有る観音像でも収められていたんでしょうか?特に牛頭観音の方は気になりますね。牛頭天王と馬頭観音の習合とかだったら面白いですよね経塚のような石碑も置かれています。そしてこちらの石碑にはご由緒が刻まれています。堀川観世音菩薩由緒之誌 往昔源義家朝臣逆徒討伐のため東国に下向のみぎり、当地に立ち寄り大悲の冥助を祈願せしに、感応空しからず。明かに叢雲の棚別くを賭る。これぞ観音大慈大悲の霊験ならんと深林幽谷の中に猛獣を駆り、榛荊を拓きて当山に*ぢ登りたまえば、境地幽*にして*流清し。 その除く森々たる大樹の蟠根に乗馬足を止めて不思議にも落命せり。朝臣驚嘆して曰く「これ我が駿馬宿因の地なるか」と深く感得して、武運長久祈願・駿馬菩提のため堂宇を此*に設け、護持の観音を安置奉祀し、宥明を開祖として金剛山 満福寺を、今の堀川山に創立す。 以来、春風秋雨600余年幾多の幾多の変遷を経て、正徳元年(1711年)満福寺十一世 権大僧都法印宥貞の代に至り梵鐘を鋳造し、続けて享保5年(1720年)更に堂宇を改築せしも、星霜久しきに亘り漸く*朽に瀕せり。ここに信徒相謀りてこれが改築を企圓せしも、時偶志那事変に際会し工事を延期するのやむなきに至り。 また、然るに昭和16年(1941年)宗教団体法により、当観音堂移転の議起りしも、真摯なる地方崇信者の仰敬念願と執誠なる陳情との結果、永久に移転せざるべき旨、その筋の諒解を得て、ここに大草部落を中心とし、近郷信徒諸彦く浄財喜捨を得て堂宇の改築工事を起し、当局よく計り、工人よく努めて、輪奐の美を具現し竣工せり。ここに梗概を叙して後昆に伝う。前*川町長 矢吹藤之助撰文続けてこちらの説明書きも見てみましょう。堀川観音 堀川観音は、その昔堀川観音寺といわれていた。この寺の縁起は明らかではないが、寛永元年(1624年)に、真言宗智山派の観音寺として棚倉町新町に遷った。 堀川観音の伝説として「源義家」が奥州征伐の折、騎馬で堀川の渓谷を渡った時、俄に乗馬が斃れたので、護持の観音を祀り、僧に祈祷させたのが起こりとも伝えられている。 御堂の中には、享保5年(1720年)に林蔵宥貞上人の献上した額が掲げられている。 この観音堂は、仙道三十三観音の第二十一番札所となっており、諸国巡礼の善男善女の参詣も多かったと言われている。 例年4月、棚倉町観音寺住職の祭祀により大草区長を中心に住民総出で、人々の安寧な暮らしを祈願している。浅川町史より平成31年3月 浅川町教育委員会これらの内容をまとめてみると・・・堀川観音堂 観音堂の創建は源義家公東国下向にさかのぼり、霊験に導かれて深山幽谷の中を自身の馬を駆って進むと、なんとも風光明媚な霊地が広がっています。そこに生える一本の大木の根元で、馬が急に立ち止まり、そのまま命を落としました。このことに驚いた義家公は、「この地は我が愛馬と強く結びつく土地であろう」と深く感じ入り、武運長久と愛馬の菩提を弔うために御堂を置き、自身の御持仏を本尊として祀りました。そして御堂に僧の宥明を招いて開祖とし、金剛山 満福寺として堀川山に当寺を開きます。 寛永元年(1624年)には、真言宗智山派の堀川山 安養院 観音寺として棚倉町新町に遷りますが、観音堂はそのまま当地に残されて今日に至ります。 時は下り正徳元年(1711年)、当山十一世 権大僧都法印宥貞の代には、水戸太田の住人で治工の藤原重貞に依頼し、釈迦如来・*師・聖観音・勢至菩薩・阿弥陀如来の5仏が鋳刻された青銅製の梵鐘が奉納されています。その数年後には、御堂の改築が計画されますが、満州事変の最中につき頓挫しました。 昭和16年(1941年)宗教団体法によって移転の危機に瀕しますが、信徒たちの働きかけによって、当地に永久に鎮座することを認められます。そして近郷の方々の喜捨と、御堂改築工事に関わる全ての人々の働きによって、現在の美しい御堂が完成しました。と、なるでしょうか。由緒には源義家公が出てきており、不思議な導きによって当地に観音堂を建立しました。戦勝祈願だけでなく、愛馬菩提供養の意味合いもあったようですね。これは後に馬頭観音信仰などに発展しそうなんですが、そこんとこどうなんでしょう?また、宥貞上人が出てきていますが、この方はここで長年過ごした後、浅川町の東永山 観音寺に移り、最後には即身仏の法を用いて世を救おうとした偉人です。彼の代に奉納された鐘はたいそう美しい音色だったそうですが、一度はその音を聞いてみたいもんですね宥貞上人の即身仏は現在、浅川町の金久山 貫秀寺に収められています。では、いよいよ観音堂です。大きな宝形屋根を支えるように四隅に支柱が建っています。なかなかに風格のある立ち姿です。扁額には正観音と刻まれています。そして蟇股の装飾部分には法輪の様な造詣がなされています。真言宗のシンボルとも似ていますが、中央の線の数が少し足りないように見えます。堂内です。奥の方に厨子の様なものが置かれていますが、ここに本尊が祀られているんでしょうか?個人的には、ここには仙道巡礼の札所本尊は置かれていないと思っています。というのも、先ほど出てきた棚倉町の堀川山 安養院 観音寺にそれらしき聖観音像が祀られているからです。堂内には絵馬が幾つか置かれています。やはり家畜守護的な信仰も有ったんではないでしょうか。観音堂のある丘から景色を眺めてみます。本当に山間の緑深い土地にある事が分かります。眼下には集落と田んぼが広がり、この様な景色を眺めながら宥貞上人も鐘を撞いていたのかと思うと、かなりエモい気持ちになれます・・・!斜めから。御堂は簡素でも、そこに残された由緒や歴史は絶大に面白いという札所でした。この札所はアクセス面に難があるという、ある意味で典型的な仙道札所的特徴を持つ寺院です。参拝時は時間配分にお気をつけください。参拝に難があるけれど、由緒はかなり面白いという特徴も、他の仙道札所と同じく持っているので、その点もお楽しみください以上です。次の記事・二十一番札所②:堀川山 安養院 観音寺 棚倉の桜の寺院、観音寺
2025年04月19日
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青森県平川市の南東、沖館地区に鎮座する神明宮。この境内には津軽三十三観音霊場の二十九番札所:沖館観音堂が置かれています。ここも当然の様に坂上田村麿が創建したという由緒を持っているんですが、特筆すべきは中世に再興されたという由緒を持つことです。それに加えて津軽初代為信の戦勝祈願の場としても有名な霊場です。津軽三十三観音霊場二十九番札所:神明宮 沖館観音堂東北自動車道の道路下をくぐり、山手の方に進むと境内が見えてきます。一応朱印所の手前に車数台は停められるので、車でも安心。朱印所横を進むといくつもの鳥居が建っており、境内へと誘います。朱印所内にも祭壇があります。遥拝所なのかな?とりあえずここに朱印と奉納経が置かれているので、料金を支払いセルフで判を押します。朱印所裏には池があり、中央の島に祠が置かれています。例のごとく祭神は不明ですが、闇龗神・宗像三女神・弁財天・水波能売神など、水に関連した神格が祀られているものと思われます。鳥居の先に進むと、庭園の様になっている境内が見えてきます。参道はこのように伸びており、直進すると神明宮、左折すると沖館観音堂。手水舎です。一応使えそうです。その向かいには血管を浮き立たせた力強い馬像が置かれています、そしてその先には観音堂、鳥居も建っていますね。札所の観音堂です。切妻と何かが組み合わさったような造りの特徴的な屋根です。ご由緒です。神明宮(沖館観音堂)祭神:天照皇大神本尊(観音堂):十一面観音 沖館観音堂の創建は延暦10年(791年)、坂上田村麻呂が東夷東征の際、御堂を造営し歓喜天像と十一面観音を祀り戦勝祈願したことが始まりと伝えられています。一時荒廃しますが永仁2年(1294年)に知慶和尚が再興、文亀3年(1503年)又は文明11年(1479年)に一道坊全賢(修験者)が神明宮を勧請し神仏混合となります。 天正3年(1575年)、当時の領主津軽為信が瀧本氏(南部家家臣)の居城大光寺城攻略の戦勝祈願をしたところ見事念願成就し、感謝の意を込めて「十一面観音画像(「天正四丙子年8月、願主藤原為信」の銘)」を始め鏡や祭具を奉納し社殿を再建しています。 慶長13年(1608年)火災により多くの社殿、社宝、記録など焼失し「十一面観音画像」だけは奇跡的に被害を免れています。その後も弘前藩(藩庁:弘前城)の藩主となった津軽家から庇護され安政6年(1859年)には十二代藩主津軽承昭が厨子を奉納しています。 明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、本尊も大行院(弘前市・現弘前天満宮)に遷され社号も神明宮に改められられましたが、廃仏毀釈運動が薄まると再び境内に沖館観音堂が建立され本尊も戻されました。津軽三十三観音霊場二十九番札所として信仰を広く集めています。 神明宮(沖館観音堂)寺宝である菩薩坐像は寛文7年(1667年)に円空上人が津軽の地に巡錫で訪れた際、彫刻されたと推定される木像で、沖館観音堂に安置された経緯は不詳ですが青森県内に残る数少ない円空仏の遺構として貴重なことから昭和43年(1968年)に青森県宝に指定されています。 社宝も多く「観音絵馬」と「絵馬」が貴重な事から平成18年(2006年)に平川市指定文化財に指定されています。青森県歴史観光案内所 / 神明宮(沖館観音堂) より引用ご由緒は以前、貴峰山 月峰院の記事で詳しく解説したので今回は省きます・・・が、数点面白いと思った点を・・・。先にも述べましたが、何と言っても中世頃の記録が残っているというのが面白い点です。津軽の神社仏閣は田村麿の伝説が付いて回るのが常なのですが、この沖館観音堂にはそれ以外にも知慶和尚・一道坊全賢といった僧侶・修験僧等による中興伝説が伝わっています。津軽の大鰐や弘前の山側の地域には津軽真言五山と呼ばれる寺院が点在しており、早くから修験僧達が流入していたことが伺えます。この沖館観音堂もそうした修験僧達の祈祷所だったんでしょうか。更に近くには古刹、嘉承山 福王寺 大福院(現乳井神社)もある事から、そことも何らかの関連があったものと思われますが・・・。青森県の奥羽山脈西麓には、こうした修験等に関連した寺院が置かれていることが多いと思います。観音堂からも神明宮まで道が伸びています。その脇には歌碑が置かれていました。・・・判読できませんでした。こちらは石仏でしょうか。うっすらと観音が浮かびあがっている様にみえますが・・・。観音堂斜めから。本尊は現在返還されたと由緒にありますが、貴峰山 月峰院の本尊になっているという話も聞きます。どちらが正しいとかは言えないんですが、そうした曖昧な部分も想像(妄想)に拍車を掛けてくれるので、面白いポイントでもあります。次は神明宮です。由緒通りなら、15世紀末から16世紀初頭の内に一道坊全賢という修験僧によって勧請されました。切妻屋根の厳かな社殿を持つ地域の信仰の社です。参道の脇に構える狛犬も迫力があります。阿形。吽形。なかなか見ないタイプのデザインです。扁額です。もとは鮮やかな青色で飾られていたんでしょうか。斜めから。町はずれにひっそりと鎮座する神明宮の境内は、庭園を思わせる造りなどが見られ、更には何基もの鳥居が建っており、往時は相当に賑わったものと思われます。津軽三十三観音霊場の札所としては、よくグーグルマップが東北自動車道によってあらぬ方向に導いてくることでも知られています。ここを目指す際は、高速を利用するからチェックを外すことをお勧めします。地域の鎮守の社は、そうした面でも人々を(高速道路に)導いてくれるのです。御詠歌霧霞 くもりて見ゆる沖館の 祈る心も 晴るる薄雲本尊:十一面観音 एकदशमुख以前貰った御朱印です。以上です。次の記事・三十番札所:保食神社 大光寺慈照閣 大寺院の裔の神社
2025年04月18日
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今回紹介するのは、三戸町の泉山地区に鎮座する鎮守の社、月山神社です。南部地域では藩主が篤く出羽三山(特に月山)を信仰していたからか月山神社が何社もありますが、当社もその1つです。特にこの泉山月山神社については、南部町・三戸町に跨る名久井岳の峰の1つ、月山の頂に奥之院が存在し、山岳修験道とも関連していると思われます。2025.4.12泉山月山神社集落の奥まったところに境内を構えており、鳥居の脇には泉山鎮護月山神社と刻まれた、立派な社号標が建てられています。このように南部地域において出羽三山(特に月山)の信仰が篤いのには、根城南部氏の鹿角遠征の際、陣中にて月山の神に戦勝祈願して、無事勝利できた縁からのことでしょう。籠田山月山神社の由緒に、この出来事が伝わっています。因みに、南部地域では月山ですが、津軽では羽黒山の信仰がチラホラと見られます。特に岩木山の麓の地域に固まっており、出羽国から修行僧が盛んに流入してきた事を示しているのではないでしょうか(推測)。鳥居の脇には”南無阿弥陀仏”、”念仏供養塔”などと刻まれた石碑が建っています。特に念仏供養塔に関しては、奉納されたのが天保7申年(1836年)と大飢饉の起きた年と一致します。おそらく飢饉で亡くなった方を供養したものなのではないでしょうか。境内には石碑が沢山。どれも月山に由来するものばかりです。特に気になるのが、この新しい石碑です。月山神社 奥殿新築記念碑 遷座580季と刻まれていますね。この奥殿とはおそらく名久井岳の次鋒月山の峰に建つ社の事だと思われます。泉山月山神社は、詳細な由緒が不明となっていますが、この石碑にある通り16世紀頃には、創建されていたんではないでしょうか。因みに、月山の山頂に建てられた社とはこんな感じです。月山神社奥之院と呼ばれる赤祠。内部にはこのように石の権現頭と狩衣姿の木像などが置かれています。僕の想像としては、石の権現頭は月山権現を、狩衣姿の木像は月読命を表現しているんではないかと思っています。更に権現と言う事は仮の姿を意味しており、本来は仏であるという解釈を含んでいます。このような神仏混淆・本地垂迹に基付く祀り方というのは、山岳信仰で顕著です。明治初頭になって神格と仏尊とは別のものとして分かれてしまいましたが、それまでは本地(仏尊)・垂迹(神格)を同じ社殿に置き、併せて祀る形態が一般的でした。と言うことはですよ、おそらくこの月山の月山神社奥之院が作られたのは少なくとも明治初頭以前と言えますよね。境内に戻ります。拝殿の隣には神馬舎が置かれています。内部の神馬像は2体。どちらも生き生きとした秀逸な出来です。木材を芯にして何か塗り固めて成型したように見えます。こんな額も懸けられていました。南部二十八代重直公の御代 家老日記正保元年(1644年)9月23日 三戸月山に先年御立願3ヶ年の内、2ヶ年懸って一度に御済しについて、御代34人三戸にて仰付けらる。当月28日吉日の由、野矢半左ェ門言上に付、24人の初尾銭4貫200文、1人に300文宛。御神馬(黒毛3才・青毛3才)三戸にて御買。馬轡(くつわ)2口、手綱2筋麻糸にて染め綯う。300文八日町検断又蔵、同六日町検断城太郎に渡し遣わす。この記述から、正保元年(1644年)には名久井岳の次鋒は月山と呼ばれていたことが伺えます。社があったかどうかまでは分かりませんが・・・。拝殿も見てみましょう。入母屋屋根の形の整った社です。正面には月山社と書かれた扁額と鰐口が懸かっています。”奥之院”という呼称やこの鰐口が、もとは神仏混淆の形式であったことを感じさせます。堂内にも扁額あり。月山と大きく書されています。もう1つ明治12年に奉納された扁額も有りました。拝殿外側の壁面には、泉山部落の地図が懸けられています。名久井岳を西麓から見た図ですが、山頂の所には天神岳と書かれています。もともとは名久井岳ではなく天神岳と呼ばれていたのか・・・それとも最高峰を天神岳と呼んでいるのか・・・詳細は不明です。最後に、泉山地区に残る伝統について見ていきましょう。泉山地区には”泉山七歳児初参り”と呼ばれる行事が現存しています。数え年七歳になる子供たち(男の子のみ)が、泉山月山神社でお祓いを受けた後、大人に付き従って月山神社奥之院まで登拝するという行事で、子供たちの健やかな成長と強い心をはぐくむことが目的で行われます。国指定無形民俗文化財にもなっており、長らく受け継がれてきた貴重な文化を今に伝えます。月山神社奥之院の祠裏側には赤い手形付の絵馬が懸かっているんですが、これは参加した子供たちのものでしょう。今も脈々と受け継がれているんですねぇ斜めから。名久井岳と関りの深い神社でした。おそらく最初に建てられたのは奥之院の方で、こちらの泉山月山神社は遥拝所的な立ち位置だったんではないかと妄想しています。ここからも月山が良く見えますからね、たぶんそうなんじゃないでしょうか・・・知らんけど。ホトカミには一応御朱印も載っており、三戸大神宮にていただけるようですが、まだ貰いに行ったことはありません。いつか貰いに行きたいです。以上です。
2025年04月16日
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福島出張中に参拝した神社仏閣は数在れど、ここまで異彩を放つ寺院は他にありません。浅川町の小貫地区に置かれた金久山 貫秀寺は、地区の供養寺的な立ち位置の寺院です。伽藍は中規模で、本堂の他に薬師堂が置かれています。この薬師堂が今回の記事のメインになります。金久山 貫秀寺立派な山門が建っています。門の背後には白い倉風の御堂が見えますね。あれが福島県内に唯一存在する貴重なモノが祀られている薬師堂です。山門の扁額。山号の金久山が書されています。ご由緒です。浅川町有形文化財指定 浅川町文化財保護条例第4条第3項の規定により、下記有形文化財について、浅川町有形文化財として文化財名:権大僧都宥貞法印ミイラに付随する、権大僧都宥貞法印入定石棺及び木棺並びに入定由来書壱巻は天明6年(1786年)東永山観音寺住職の清海が書いた。権大僧都宥貞法印行状記で宥貞法印が入棺する様子を表した貴重な巻物であるため合わせて町有形文化財に指定するものである。由来 出雲国松江村郷士:近松右ェ門入道安利氏の長子として天正19年(1591年)に生まれ、幼名を貞作といい、元服して宗右衛ェ門と名乗った。 慶長19年(1614年)23歳にして、讃岐国小松の松尾寺の住職:宥昌の弟子となり、宥貞という名を賜った。 27歳の時に師の宥昌に死別された後、陸奥・出羽・北陸を諸国行脚を重ね、高野山で密教修行を積み、小僧都の位を得た。その後、江戸に出て深川の永代寺住職となり、寛永8年(1631年)に権代僧都の位についた。 宥貞は再び旅に出て、磐城の国の閼伽井嶽に登り修行した後、大草の堀川観音堂に永年住み、その後小貫の東永山観音寺の住職となった。 天和3年(1683年)12月8日、宥貞は弟子の宥林に住職の地位を譲り、村人を集めて薬師如来の十二大願(薬師力佛としての悟りを開く前に、人々の病気を治し長命させようとして経てた十二の誓い)を説き、斎戒沐浴の後「さんしち21日後に入滅するであろう」と鈴を持ち、かねて用意した石棺の中に入り、薬師如来の名号を唱えながら入定したと伝えられる。時に宥貞92歳であった。 ミイラは当時、真言宗 東永山 観音寺に安置してあったが、明治22年(1889年)の大火で観音寺が焼失し廃寺となったため、貫秀寺がミイラを引き取り大正14年(1925年)に小堂(薬師堂)を建て祀っている。浅川町教育委員会ご由緒で出てくる、宥貞上人が長らく住んだ大草の堀川観音堂とは、仙道三十三観音霊場の二十一番札所:堀川観音堂(金剛山 万福寺)であり、現在本寺の方は堀川山 安養院 観音寺として棚倉町新町に居を構えています。宥貞上人が暮らしていた頃にはもう、移転した後であり、現在の様にポツンと観音堂のみ残っていたと思われます。宥貞上人は享保5年(1720年)この観音堂に額を納めており、今でも堂内に懸かっているそうです。宥貞上人の来歴も面白そうなんですが、まずは堂宇の方から概観していきましょう。先ずは金久山 貫秀寺本堂です。入母屋屋根のシンプルな御堂で、堂内には釈迦如来が鎮座しています。詳しい創建年などは不明なんですが、境内の説明書きから宗派や本寺などを知ることができます。山門横の説明書きから引用してみましょう(由緒はパンフレットから引用)。金久山 貫秀寺曹洞宗通幻派 春日山長伝寺末寺本尊:釈迦如来 正保元年(1644年)、宥貞が最後に住職を務め、入定を迎えた東永山 観音寺、その近くに金久山 貫秀寺は創建されました。 東永山 観音寺焼失後は、宥貞上人の仏体を引き取り、大正14年(1925年)に薬師堂を建立、その堂内に安置した。薬師堂です。少し大きめの蔵の様な造りと外観です。もう由緒の方で何回も出ていますが、この堂内には福島県唯一の即身仏、弘智法印宥貞即身仏が安置されているんです。拝観は大人1人500円程、予約必須です。※最低でも拝観の30分前までに予約が必要です。浅川町のサイトに電話番号が載っています。電話をかけると、薬師堂を管理している集落の方5名の電話番号を教えてくれるので、その内つながった方に予約したい旨を伝えます。恐らく持ち回り制で管理しているんでしょうね。それではいよいよ堂内を見ていきましょう。天井にはまんべんなく鳥や花、仏尊などが描かれ、非常に華やかです。もう一枚、パシャリ。本当に見事な彩色天井です。虎の額なども懸かっています。当然宥貞上人に関する説明書きも沢山あります。こちらは宥貞上人と薬師堂の来歴です。この年表の中で興味深いのが、元和4年(1618年)~寛永8年(1631年)の記述です。宥貞は師である宥昌が逝去した後、27歳で諸国行脚の旅に出たというのは、↑の由緒などで触れたんですが、その折出羽の湯殿山に立ち寄り”捨身成仏の風習に触れる”と書かれています。さらにその後、弘法大師の即身仏で名高い高野山で修行し、小僧都となります。これらの出来事は、宥貞の思想に強い影響を与え、即身成仏の考えを根付かせたんではないでしょうか。当地の住民を救うために薬師如来たらんとした名僧です。横長の額の中に古い書が収められています。これは宥貞上人の数代後の住職:清海によって書かれた”権大僧都宥貞法印行状記”という書で、宥貞上人がどのように入定したのか、その経緯などが記載されています。平成3年(1991年)、浅川町有形文化財に指定されました。そして、おまちかね、これが福島県唯一の即身仏、弘智法印宥貞即身仏です。荘厳な厨子の中に錦の袈裟と法衣を纏って鎮座しています。腐敗を防ぐために厨子内は真空になっているようです。もう少し近くで見てみましょう。日本に20体存在するとされる即身仏のその1つ、なんとも貴重な仏体が、目の前に置かれています。脇に置かれた鈴は、おそらく宥貞上人入定の際に使用したものでしょう。即身仏の脇には木製の小さな厨子が置かれています。もとはこちらの厨子の中で保管されていたそうです。現在の厨子よりも、ひとまわり以上小振りで、本当にこの中に入り切るのかと不安になります。移動の際は、この厨子に棒を通して神輿の様に担いでいたそうです。即身仏の左には薬師如来石像が置かれています。説明書きを見てみましょう。薬師如来像(17世紀) 石棺の蓋の上に作られた、人間の一切の病気を治すと言われる薬師如来の石像。石質は石棺と同様に福貴作(ふきざく)石で、鮮やかな彩色が施されている。石棺の前面には「薬師如来」、後面に「権大僧都法印宥貞不生位」と記されており、この石棺の中へ入定することで、一般的な土の中への入定とは異なり、薬師如来の御身に入定するという意味合いを持たせている。 平成23年(2011年)の東日本大震災で頭部が破損するという大きな被害にあったが現在は修復されている。薬師如来の脇には、件の石棺が置かれていました。この上に先ほどの薬師如来像が蓋のように置かれていたんですねぇ。六角形の棺の中で、宥貞上人は薬師如来に帰依しようと入定されました。入定石棺(17世紀) 浅川町指定文化財 天和3年(1683年)12月8日に、弘智法印 宥貞が入定したと言われる石棺。高さ122.5cm、形状は六角形で外周322cm、重量は1125kgに及ぶ。 内部を丸くくり抜いて、湿気を防ぐために石棺下部に焼炭を敷き、その上に弘智法印 宥貞は入定した。尚、焼炭を2尺ほどつめたという言い伝えから、石棺は現在の1.5倍程の高さが必要であり、一部が失われたものと考えられている。石質は近隣で産出される福貴作(ふきざく)石。 明治22年(1889年)の小貫集落の大火災時には、当時置かれていた小貫 東永山 観音寺が焼失廃寺となる被害の中で、所々にヒビ割れができたと考えられる。そしてもう1つ、石棺の隣には木棺が置かれています。これは石棺の中に入れられていたもので、石棺と共に二重で即身仏を外気から守っていたものと思われます。こちらも浅川町指定文化財になっているようです。木棺(17世紀) 浅川町指定文化財 石棺の中に入っていた木棺。高さ75cm、外周は上部で210cm、下部で183cm。材料はスギで、約300年前に作られたと考えられており、全国的にも希少な木棺となっている。 発見時は竹製のタガが腐っていたため杉板がバラバラになっていたが、復元すると、現在も使えるほどの優れた保存状態にあった。斜めから。以前東北三十六不動尊霊場の巡礼で、山形県の大日坊に参拝した時、そこにも即身仏が置かれていました。調べてみると即身仏は東北・北陸に集中して現存しており、特に山形県が著しいようです。茨城県の天台宗 妙法寺など、坂東にも幾つかあるようですが詳細は不明です。出羽三山では、どうして即身仏のムーブメントが起こったんでしょうか?やはり真言宗寺院が集中していたからなんでしょうか。宗祖弘法大師にならい、救世の為に身を捧げる僧侶が、今もその大願を胸に眠っていると思うと、人の思いの強さがひしひしと感じられました今回は本当に貴重なものを見させて貰いました・・・。このおかげで、山形に行きたいという思いがとても強くなっています。今春~夏を目途に遠征しようかと考えていますが、上手く予定が組めるかどうか・・・。とにかく行けるように模索したいですね以上です。
2025年04月15日
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名久井岳(なくいだけ)●概要 青森県の南部地域において霊峰と呼ばれる山岳の1つで、南部町と三戸町の境界に屹立しています。南部小富士とも呼ばれるほど形の整った山で、特に八戸から南部町に向かう国道104号~国道4号から見た姿は何とも神々しく、四季折々様々な様相を見せてくれます。 複数の峰からなり、主だったものは主峰の名久井岳(615m)、月山(542m)、前岳(474m)の3つです。三戸側から見ると、月山の手前にもう1つ小峰があり、俗に薬師岳と呼ばれ、頂点には薬師如来を祀る小祠が建てられています。 名久井岳の頂上からは、南北八甲田の山々・十和田三山・階上岳・久慈平岳など、糠部地域の名山達を見渡せる他、天気がいいと岩手山まで眺望が利きます。遥か遠くまで広がる雄大な太平洋の姿も楽しめました。●各峰に祀られる神格1. 名久井岳名久井岳大権現・名久井岳天神? 名久井岳頂上に権現頭と石祠が置かれており、各々名久井岳大権現・名久井岳天神と刻まれていました。泉山月山神社の社殿に懸けられた地図には、名久井岳ではなく天神岳と載っており、古くはそのように呼ばれていたんではないでしょうか。2. 月山月読命山頂の祠(泉山月山神社 奥之院)御神体 月山頂上には泉山月山神社の奥之院が置かれています。祠の中には石の権現頭や狩衣姿の木像、地蔵尊風の石像などが収めてあり、名前からしても仏教色が強めです。麓の泉山月山神社の扁額も”月山神社”ではなく、”月山社”と刻まれていることから、もとは修験の御堂で月山権現を祀っていたんではないかと思っています(推測ですが・・・)。神仏分離によって月読命を祀る社になったんでしょうか。3. 前岳不明 前岳には登山道が整備されておらず、薮をこいで進まなくてはいけません。YAMAPにて、他の方の登頂報告を見てみましたが、現在は祠などはないようです。山岳と言うと三山形式で祀るケースが多いと思うので、昔は前岳にも何かしら祀られていた可能性があります。ただ、現在そうした痕跡は見られません。●登山ルート1. 名久井岳登山口 長谷観音堂の脇辺りにあります。少し進んだ熊野権現の石祠の所で、月山経由の縦走コースと天狗杉・木落しコースとに分岐します。月山経由縦走コース YAMAP / 月山・名久井岳 縦走コース天狗杉・木落しコース2. 名久井岳かもしか遊歩道入口 法光寺の駐車場脇から、かもしか遊歩道を通って登頂するコースです。3. 名久井岳かもしかライン登山口 林道脇から登頂を目指すコースです。後に1. の天狗杉・木落しコースに合流します。ストリートビューで確認しましたが、一応駐車スペースはあるみたいです。4. 名久井岳樹海ライン登山口 名久井岳南麓を走る樹海ライン脇から、登頂を目指すコースです。後に2. と合流します。この登山道入り口にも駐車場があるみたいです。●山中の祠や名所など1. 名久井岳登山口脇の3社右:熊野権現、中:文殊菩薩、左:千手観音近くの河童石2. コース分岐の石祠熊野権現3. 月山経由縦走コースで見られる祠や名所荒澤不動明王堂と周辺の祠4社鳥居鳥居脇の祠:羽黒権現羽黒権現:御神体羽黒権現後ろの祠:祭神不明龍の置物がある事から、水神を祀っている可能性がある。鳥居をくぐると不動堂が見えます。荒澤不動明王堂内陣。子供の着物を着た地蔵尊が置かれていました。他には神鏡の前に3つの幣が祀ってあります。荒澤不動明王の御影の写真も飾ってあります。火焔の表現が見事です。不動堂向かいの石祠:深山大権現深山神社・新山神社などは、もともと仏を祀っていた御堂が、明治の神仏分離によって神社化したものとされます。多くは鈴の代わりに鰐口が懸けられ、仏閣の名残りを感じられます。直ぐ側に稲荷社:稲荷大神(詳細な祭神は不明)内陣。石祠と白狐。崩れた御堂:地図から推測するに勢至菩薩薬師岳山頂手前:地図から推測するに大日如来参道脇の巨岩薬師岳山頂の祠:薬師如来月山~名久井岳間にある石祠:大山祇神4. 天狗杉・木落しコースで見られる祠や名所天狗杉天狗杉手前の祠:祭神不明船石木落し名久井岳山頂付近の石祠:道開大明神(猿田彦神か?)●関連する神社・寺院1. 白華山 法光寺 名久井岳の東麓に鎮座する古刹。平安時代の創建ともされ、南部地域にいくつもの末寺を持つ、当地域の仏教文化中心地とも言える寺院です。本堂三重塔白華山 法光寺曹洞宗開山:玉峰捐城和尚開基:鎌倉五代執権 北条時頼公創建:建長年中(1249~1256年)とされる本尊:釈迦如来※因みに廃寺となった前身の宗岳量山 観音寺は天台宗寺院だったとされる。由緒(白華山法光寺縁起より引用) 法光寺は、今から1130余年前(平安朝時代)に創立されたもので、それより400年程経て鎌倉執権最明寺時頼公がひそかに奥州行脚の折に名久井岳に登られ、夕日をあびて無量山観音寺と称する寺に一夜の宿を乞うたが山主は応じてくれなく、やむなく山に登って一草庵をたづねて宿を乞うたところ、庵主大いに喜んで迎え、出来合であったが饗応して一夜を過した。 時頼公は、庵主の歓待に深く感謝し、翌朝目がさめ、あたりを見たが庵主が見当たらなかった。時頼公は携えて来た扇面に「目通り壱千石、右永代可令知行也、最明寺時頼(花押)名久井山主玉峰捐城和尚殿」とかき、別面には「水結ぶ名久井が岳を眺むれば海よりいでて山に入る月」の一首を残して、名残り惜しげに庵を立ち、山を下る途中で庵主に逢った。庵主の云うには「恥ずかしながら今朝飯糧がなかったので、お客人の目覚めぬうちに托鉢に出てこのように喜捨をうけて帰ったので再び庵に戻られるように」とねんごろに勧めた。 時頼公は、このことに深く感激して、鎌倉に帰られた。最明寺時頼公と、庵主の逢われた処が「出逢坂」と称してあり、またこの庵を夢想軒と称して、今なお「古寺」としてその面影がある。 時頼公が鎌倉に帰られるとすぐ、宮野玄蕃、板垣監物の雨人を普請奉行として、大工・左官・鍛冶・木梚に至る迄は遺して、観音寺は命令をもって廃止し、その跡に七堂伽藍を建立して、白華山法光寺と号して、開山に捐城和尚を請す。公自ら開基となられ、曹洞宗の道場を開設なされたものと伝えられている。寺院記事:南部町:白華山 法光寺 美麗な庭園と三重塔を擁する古寺2. 長谷観音堂 蓮台山 長谷寺の跡地に鎮座する観音堂で、隣接する宝珠山 恵光院によって管理されています。観音堂の直ぐ後ろには奥之院と言う白い御堂が置かれ、長谷寺の本尊であった十一面観音像が収められています。秘仏ですが、年一回8月20日だけは御開帳されるようです。平安時代末期に造像された県内最古級の仏像で、南部氏入部以前に造られ、貴重なことから県重宝に指定されています。 長谷寺は三戸南部氏の盛岡遷座に付き従い、寺宝を残してこの地を後にしています。境内入り口の鳥居長谷観音堂奥之院蓮台山 長谷寺真言宗開基:明尊(後亀山天皇)創建:建徳元年(1370年)本尊:十一面観音由緒(奥州南部観音霊場巡り 糠部三十三札所 滝尻善英著 より引用)・・・。さらに、長慶天皇の弟の明尊(後の後亀山天皇)は、この地が大和国(奈良県)長谷寺の景観によく似ていたことから、建長元年(1370年)に「長谷寺」と称する寺院を開基したという。・・・。文化財 奥之院には県重宝の十一面観音木像以外にも、木造女神座像という仏像も収められており、こちらも県重宝。一説には、名久井岳の神格を表現したものとされ、十一面観音と本地垂迹の関係にあったものと思われます。 他には県有形民俗文化財として、笈と巡礼札が収められています。巡礼札は、永正9(1512年)に観光上人が奥州南部糠部三十三観音霊場の巡礼の際奉納したもので、青森県最古の巡礼札とされています。・青森県南部町 県指定文化財寺院記事:二十二番札所:長谷観音 修験の地の観音堂3. 宝珠山 恵光院 長谷観音堂の別当寺院。もともとは↑の蓮台山 長谷寺の塔頭で、三戸南部氏の盛岡遷座に際して、長谷寺の境内に留まり寺宝などの管理を任されたと言われています。現在でも山門には蓮台山の扁額が掲げられており、往時の姿を偲ばせます。山門本堂本尊:十一面観音斜めから宝珠山 恵光院真言宗豊山派 蓮台山長谷寺(後裔不明)末寺本尊:十一面観音由緒 長谷寺の境内寺院(塔頭)として開創され、長谷寺が盛岡に移る際、当地に残り境内や寺宝の管理を任された。現在でも、長谷寺の名残りとも言える長谷観音堂の別当として、名久井岳西麓に鎮座している。 本尊の十一面観音は、錫杖を持った独特の姿をしており、俗に言う長谷十一面観音の形態と同じである。寺院記事:二十二番札所:長谷観音 修験の地の観音堂4. 泉山月山神社 名久井岳西麓の集落、泉山地区の鎮守社です。青森県神社庁三八支部のサイトにも詳しい由緒は載っていませんが、祭神は月読命、祭日は7月25日(旧暦6月12日)です。例大祭の日に行われる”泉山七歳児初参り”は国重要無形民俗文化財に指定されています。鳥居拝殿扁額と鰐口斜めから神社記事:三戸町:泉山月山神社 名久井岳西麓の月山神社5. 長谷山神社 長谷観音堂からまっすぐに里の方に下ると、大向の集落の中に見つけることができます。かつては宝珠山 恵光院のすぐ近くに鎮座していましたが、20世紀初頭に個人の管理となり、その後現在地に移転、現在に至ります。当初は四八末社の1つ 新山権現を祀っていましたが、現在は全ての末社が合祀されているようです。鳥居御神木社殿神社記事:南部町:長谷山神社 名久井岳の神仏を集めて祀る里の社●名久井岳と関連する習俗1. 長谷四十八末社 長谷寺創建後、当時は深い山林の間を通り峰づたいに頂上まで建立され、修験者が修行祈願されたといわれる。 その後近世になり、地元の人々が旧暦9月29日、大向・泉山・赤石の諸社を合わせ四十八末社として頂上まで参拝する風習が続いている。境内説明書き より引用長谷観音堂手前に、山中の祠が書かれた地図がありますが、現在はこの地図の配置とは異なっています。ここに書かれていない祭神もあり、時代と共に変化している感が有ります。また、近世になってから大向集落の長谷山神社に全ての末社が合祀されています。2. 泉山七歳児初参り 名久井岳の西側にある集落、泉山地区の伝統行事です。泉山月山神社の説明書きによると、以下の様に伝わっています。国指定文化財 泉山七歳児初参り種別:無形民俗文化財指定:平成9年(1997年)12月15日 「泉山七歳児初参り」は泉山地区に古くから伝わる登拝行事です。毎年7月25日(旧暦6月12日)に、数え年7歳の男児が名久井岳の第二峰「月山」に登り、すこやかな成長を祈願します。 当日早朝、白装束に身を包んだ子どもたちは月山神社でおはらいを受け出発します。ただし、女人禁制のしきたりにより、登山道入口の泉山神社からは、子どもと男性だけで山頂の月山神社奥殿を目指します。片道約2.5kmの険しい山道を踏破し、行事を終えた子どもたちは一回りたくましく成長します。 全国でも極めて珍しい伝統行事として、昭和55年に県無形民俗文化財に指定されました。さらに平成9年には国重要無形民俗文化財に指定され、神社や参道の整備など、地元保存会によって大切に守り続けられています。2019年 三戸町教育委員会3. 長谷七観音詣り 名久井岳を中心として南部町・三戸町・軽米町に置かれた7つの観音堂を周る巡礼です。一番札所を名久井岳麓の長谷観音堂とし、二番札所:野瀬観音堂、三番札所:観音林観音堂、四番札所:矢立観音堂、五番札所:外手洗観音堂、六番札所:法光寺観音堂という風に続き、七番札所:相内観音堂で締めとなります。 それぞれの札所本尊は製作年代が異なっていますが、”慈覚大師円仁が桂の大木から7つの観音像を作り出し、↑の観音堂にそれぞれ収め祀った”という伝承があります。”滝尻善英著 奥州南部観音霊場巡り 糠部三十三札所”でも言及されている通り、これは霊場の格を上げるためのハク付けだと思われます。 各札所については、↓のリンクからご覧になれます。・長谷七観音詣り以上です。
2025年04月14日
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同町の日渡神社からは車で十数分。農村部の細い道沿いに杉林が広がっていて、奥へ誘うように鳥居が建っています。東鳥神社は、日渡神社と同じく雲龍山 満願寺に起因する神社仏閣で、詳しい由緒などは不明ですが、以前は仙道三十三観音霊場六番札所として知られていた様です。仙道三十三観音霊場六番札所②:東鳥神社(雲龍山 満願寺 東鳥堂)境内は少々小高くなっており、既に社殿が見えていますね。鳥居の脇には、石碑に混ざって田村三十三観音霊場の札所標柱が建てられています。鳥居をくぐり階段の上を見上げると、白くかすむ空を背景に、立派な社殿が建っていました。参道脇の石碑です。妙見尊と刻まれています。福島県の内、妙見信仰が篤いのは浜通り地方で、今でも妙見菩薩と同一とされる天之御中主神を祀った神社がかなり多く存在しています。関東に根付いた桓武平氏の氏族たちは妙見菩薩を篤く信仰していたようで、千葉氏などが有名です。千葉氏の庶流である大須賀氏(または相馬氏)が浜通りの行方郡に移り住んだことで、これらの信仰がもたらされたとか・・・。この辺の分野についてはまだまだ勉強が必要です。とにかく、東鳥神社が鎮座しているのは浜通りと中通り両地方を結ぶ街道沿いであり、人の往来などによって、こうした信仰が持ち込まれたものと思われます。こちらには古峯神社の石碑もありました。栃木県を代表する天狗の神社です。社殿も見てみましょう。入母屋屋根の社殿で、大きさは一般的な観音堂と同じくらいです。前の記事で載せましたが、もう一度ご由緒を見てみましょう。六番:東鳥堂(雲龍山 満願寺)天台宗本尊:千手観音 観音堂は現在東鳥神社と名を改めている。もとは移ヶ岳東麓の船引町横道にあったといわれている。 雲龍山 満願寺は船引町新舘にあった。移ヶ岳観音(現・移ヶ岳神社)と日渡観音(現・日渡神社)の別当でもある。『道中記』の六番は、新舘の「万願寺」となっている。ガイドブック 仙道三十三観音札所 山椒の会編 12ページ より引用ご由緒に現われる移ヶ岳というのは、船引町の東に立つお山です。北西麓に日渡神社、登山道途中に移ヶ岳神社が現存しており、それらと共に東鳥神社は雲龍山 満願寺の堂宇の1つとして、移ヶ岳信仰を形作っていたんではないでしょうか、知らんけど。いずれにしろ、雲龍山 満願寺と移ヶ岳とのつながりは強そうです。更に↓のサイトにて、移ヶ岳神社の御由緒も見つけたので見てみます。・福島の山々 / 移ヶ岳移ヶ岳神社由緒祭神:大山祇大神、天熊大人神旧称:移ヶ岳観音 明治3年移ヶ岳神社と改称 起源は遠く坂上田村麿将軍東征に遡り、将軍当地方に駐軍せられしとき、この山に登り四方を偵察し大山祇大神その他の軍神を祭き祀り戦勝を祈願し、軈て大勝を博し賊徒を平定せられた。神徳を称え里人等祠を建て尊崇した。 後ち将軍の後聞:田村友顕公、康平年間(1058~1065年)三春城主となり、祖先の遺跡を偲び代々深く信仰せられた。霊城なりと伝いらる 降って正保年間(1644~1648年)秋田公三春城主として入城以来崇敬信仰厚く、毎年1月15日2夜3日間祭祀を奉仕するを例にされたと云ふ。 明治維新神仏分離のとき、同3年神官権訓導菅村嗣江氏中心となり、頂上の直下後ろに屹立する巌壁を負ひ、脚下断崖の下に清冽なる清水滾々として湧き、南面して四方開け眺望絶佳、はるかに太平洋を望む勝景の地をトし、社殿を造営し改めて奉祀し、山の鎮守・農業の守護神、特に産馬擁護の神としてしられ、近接諸町はもとより遠く双相地方より参詣者相次ぎ崇敬信仰せられ、その後大正6年(1917年)社殿を改築し現在に至った。田村麿にまつわる伝説は書かれていますが、観音についての由緒などは書かれていないみたいです。田村市史なども見てみましたが、当地における中世の頃の記録が乏しいらしく、詳細は分かりませんでした。御由緒が気になりすぎます・・・。扁額です。圓通閣とあります。社殿の正面、壁面にいくつも木札が打ち付けてあります。多くは田村三十三観音巡礼の物で、新しいものは平成3年、古いものは昭和61年のものがありました。仙道札所として巡礼している木札も数個あります。来光寺千手観世音と刻まれたものもあり、もしかしたら仙道巡礼の札所本尊以外にも、複数の仏像が置かれているのかも知れません。内陣はこんな感じです。絵馬や蚕繭の額が奉納されていることから、日渡神社同様、祭神は保食神だと思われます。移ヶ岳神社の場合大山祇神を祀っていますが、保食神のように農業の守護・産馬擁護などの神徳が期待されており不思議です。移ヶ岳の本来の信仰は、日本の神話由来の神格かそうでないかは分かりませんが、保食神の様な属性の神格を祀っていたのではないでしょうか。そこに仏教が伝播して混ざり合い、観世音にそのような神徳が引き継がれ、期待され、移ヶ岳観音として祀られるようになったと予想します。以上、妄想終了札所本尊かどうかは分かりませんが、社殿内には素晴らしい千手観音像が置かれています。円仁御作と言われても信じてしまいますよ、これは再び外へ。社殿右手に末社と思われる神社があります。扁額には東作稲荷神社とあります。祠は石祠も含めて3つ。すべて稲荷社なんでしょうか?斜めから。東鳥神社を調べていると、移ヶ岳や田村三十三観音など魅力的な情報がザクザク出てきました。再び福島に赴くのはいつになるのか分かりませんが、登山や巡礼を楽しみたいです。田村以外にも安積・安達・信達それぞれに三十三観音霊場があります。それらを廻り切ることが出来たらどんなに楽しめることか・・・夢のまた夢です。そして田村三十三観音霊場の巡礼を通して、もう少し福島県全体の歴史などについて知っていきたいですね。他の札所を調べていれば、自ずと東鳥神社などの情報が分かったりするかも知れませんし。歴史や文化を楽しみ続けるには、やっぱり神社仏閣めぐりはやめられません御詠歌現し世を ここに移しの山なれば 誰か歩みを 運ばざるべき本尊:千手観音 सहस्रभुज以上です。次の記事・七番札所:堂山王子神社(龍頭山 南霊院 堂山寺) 田村は船引の元観音、堂山王子神社調子に乗って撮った写真ギャラリー雪詣出
2025年04月12日
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田村市の北部、閑散とした農村が広がる船引町の郊外に、仙道三十三観音霊場の六番札所があります。日渡神社という神社ですが、元々は雲龍山 満願寺という寺院の観音堂だったと言われています。堂山王子神社と同じく、ここにも鳥居が建てられておらず、神仏分離を乗り切るためにやむを得ず神社に転換したことを示している様に思います。仙道三十三観音霊場六番札所①:日渡神社(雲龍山 満願寺 観音堂)日渡神社は県道50号の脇、高台の地に境内を構えています。東鳥神社を目指して走っている時に、見覚えのある仙道巡礼の標柱を見かけ、急遽こちらから参拝することに・・・。参道にはこの通り石柱が建てられていますが、仙道三十三観音霊場の物だけではなく、田村三十三観音霊場のものも建っています。ちなみに、”ガイドブック 仙道三十三観音札所 山椒の会編”では、六番札所は東鳥神社となっています。写真にもこの仙道巡礼の六番札所の標柱が写っており、何時のころか、札所の変遷があったものと思われます。東鳥神社も雲龍山 満願寺の堂宇の1つ(または本堂か)とされているみたいです。そう考えると、当初の札所は雲龍山 満願寺。それも堂宇の1つである観音堂だったんではないでしょうか。日渡神社、東鳥神社のどちらが雲龍山 満願寺の本堂が置かれた地かは、詳しい由緒が不明なため分からないんですが、山椒の会のガイドブック 12ページに気になる記載がありました。六番:東鳥堂(雲龍山 満願寺)天台宗本尊:千手観音 観音堂は現在東鳥神社と名を改めている。もとは移ヶ岳東麓の船引町横道にあったといわれている。 雲龍山 満願寺は船引町新舘にあった。移ヶ岳観音(現・移ヶ岳神社)と日渡観音(現・日渡神社)の別当でもある。『道中記』の六番は、新舘の「万願寺」となっている。・・・。下線部の記載では、雲龍山 満願寺は新舘に置かれており、日渡神社も新舘に置かれています。日渡神社のある丘は、頂部が結構広くなっていて、他にも堂宇が置かれていても不思議ではありません。現在は観音堂しか残っていないだけで、もとは本堂が隣接して建てられていたんではないかと思っています。ただし、下線部は過去形である事にも注意が必要だと思います。「あった」ということは、「今は無い」という取り方もできます。元は日渡神社の近くに本堂があったが、後に東鳥神社の地に移されたとか、本尊のみ移されたなどの解釈も出来そうです。ここまで述べたことは想像でしかないので、ご注意ください。参道を進むと庚申・二十三夜塔が置かれています。その数はかなりの物。先ほどの石碑からすぐ、かなり長い石段が続いていました。ここを頑張って登れば、日渡神社は目の前です。階段を登り切ると、急に開けた台地が広がります。杉に囲まれた境内の中央に日渡神社が静かに座しています。雪がホロホロと降り、境内を白く染める様は、冬に参拝して本当に良かったと思わせます。本当に美しい景色でした境内を見回してみましょう。観音堂右手には御神馬舎が置かれています。中には木彫の白馬像が収められていました。ご由緒では、正長元年(1428年)に田村氏の臣:豊前が木馬を献納したとされていますが、おそらくそれとは異なる像だと思われます。観音堂の左側には石碑が数基建っています。左から千手観音・観世音弁財天供養塔?・地蔵尊と思われます。寺院時代の遺物でしょうか。↑で述べましたが、日渡神社は仙道三十三観音霊場だけでなく、他の巡礼の札所にもなっています。説明書きには田村円通三十三観音・田村庄司三十三観音・田村百観音などが見えますね。御詠歌・田村円通三十三観音第五番札所請戸より 飛んで常葉の休石 嶽にのぼるは 千手観音・田村庄司三十三観音第十四番札所未来とも 懸けてぞ頼む満願寺 みなみ移しの 嶽の白雲・仙道三十三観音第六番札所うらちしを ここに移しの山なれば たれか歩みを 運ばざるべき・田村百観音第二十二番札所未来をも 懸けて頼むや満願寺 御影移しの 峰の白雲福島県の巡礼を通して、本当に様々な巡礼が有るなと非常に驚きました。東北六県の中では最も仏教の伝播が早く、それ故か各地域にいくつもの三十三観音霊場が広がっているんです。青森県も多い方ではありますが、さすがに福島県の数にはかないません。本当に観音信仰の盛んな地域だったんでしょうね社殿正面には、日渡神社に置かれている文化財についての説明書きがありました。※名称クリックで田村市のサイトに飛びます(文化財の写真有)。田村市指定有形民俗文化財・絵馬「馬籍の図」(二面)紀年銘:嘉永2年(1849年)規格:縦 145cm、横 192cm絵師:雲龍斎移岳・日渡神社の算額紀年銘:明治21年(1888年)規格:縦 100cm、横 340cm奉納者:佐藤正善(新舘)ほか13名指定年月日:平成17年4月18日由来等 日渡神社は、もとは満願寺の観音堂で、江戸時代には、観音巡りの霊場地でした。明治2年(1869年)に廃仏毀釈の影響で現在の名称になりました。 堂内に奉納されている絵馬「馬籍の図」には、江戸後期に三春領西北部26村で飼育されていた馬880余頭が、飼主名とともに描かれています。それほど多くの馬が描かれた絵馬は県内でも珍しく、当時、馬産が盛んであったことを物語る貴重な資料です。 また、神社正面に掲げられた算額は、最上流和算家 佐久間庸軒の門下により奉納されたもので、十一題の算題が書かれていますが、残念なことに図家に彩色や問題の文字が褪せて見えにくくなっています。田村市教育委員会日渡神社の直ぐ下を走る県道50号沿いには、現在でも広大な田畑が広がっており、農耕用・使役用様々な役割を期待されて馬が飼育されていたんではと思いを馳せてしまいます。養蚕や馬産が盛んな地域では、保食神などの農業・畜産を司る神格が祀られる例が多いですが、ここもその1つだったようですねぇ。それでは社殿(観音堂)を見ていきましょう。手前に標準的な大きさの燈籠が建っていますが、それから考えても随分大柄な観音堂です。社殿の後ろは本殿などもなく、観音堂の姿そのまま。正面の戸などは開け放してあり、軒の様になっています。そこから祭壇などが置かれている部屋が見えますが、外とは格子戸で仕切られています。ご由緒です(一部加筆)。日渡神社由来記雲龍山 満願寺 観音堂天台宗 羽黒山若王寺(廃寺)末寺本尊:千手観音 天喜2年(1054年)この地は日渡山と称されるが、暗夜に光明を放つ奇石飛降して、日渡の石に奇瑞する蚕種子石(こたねいし)の奇石として、崇められるようになり、堂宇を建立して日渡観世音を鎮座する。 天台宗 雲龍山 満願寺 脇立別当観音堂。御本尊は千手観世音菩薩像、慈覚大師の作。本寺は出羽の国、羽州 羽黒山 若王寺(山形)、末寺に堀越の井堀山 密蔵寺。 正長元年(1428年)田村氏の臣豊前が木馬献納。明応8年(1499年)田村右近が神札献納。永禄6年(1563年)拝殿を建立。天正19年(1591年)蒲生氏の臣田丸中務が絵馬献納、同年9月御神馬殿再築。 慶長16年(1611年)3月、蒲生五郎兵衛参堂。承応元年(1652年)代官船田八右エ門藩主の許可を得て、領内の寄付金をもって御堂を改築。承応3年(1654年)遷座の式を行う。延享5年(1748年)石橋供養塔。宝曆10年(1760年)現在の御堂を建立。田村・仙道三十三観音札所(安永年代納札)。 庶民これら繁栄と平安を願い、祈願すれば良馬繁殖養蚕豊饒の霊験著しいと、多くの絵馬や供養塔奉納。 明治2年(1869年)神仏分離令。御祭神:宇気持大神を祀り日渡神社と改称、現在も祭礼は年3回執り行われる。 昭和33年(1958年)屋根工事鉄板に葺替え遷宮を行う。昭和48年(1973年)和算額(明治21年・1888年奉納)一面。昭和49年(1974年)馬籍図絵馬(嘉永2年奉納)2面。右、いずれも船引町有形民俗文化財の指定。 平成元年(1988年)300有余年の御神木、翁松の根株奉納。平成8年(1996年)崇敬者、多額の浄財を寄進されて、参道180余役の石磴を修復。合掌平成9年1月吉日 船引町新舘区文化財保存会満願寺 観音堂の本尊は千手観音ですが、円仁の御作と伝わります。日渡観音と呼ばれている観音像(または石体でしょうか)もあるようですが、隕石?である蚕種子石を彫ったものなんでしょうか?どちらの仏像(神体)も直に見てみたいところ・・・。満願寺の本寺は、出羽三山の内、羽黒山にあった若王寺です。明治の廃仏毀釈によって廃寺となり、現在は跡地しか残っていません。神仏混淆の体制を採っていた出羽三山の神社仏閣は、神仏分離による被害がかなり大きかったんではないでしょうか。往時は奥羽山脈を越えて、天台宗の教線をここ船引まで伸ばしていたようですが、現在では本寺も当寺も仏閣の形では残っていません。本当に残念なことです社殿を細部まで見てみましょう。この神社(観音堂)の虹梁の装飾は最高です・・・!何と2匹の龍が向かい合う様に彫り込まれています。しかも下から見上げた時に見やすいよう、角度なども調整されているんです。何というこだわりポイントでしょうか、いやはや素晴らしい外扉の上部には、↑の説明書きに在った算額が懸かっています。長年の風雪によってか、かなり掠れてしまっていますが、確かに今でも図形だけはくっきりと見えます。祭壇がある部屋の手前、軒の様になっている所には、天井に彩色がなされています。幾つもの絵馬も懸かっており、崇敬の強さが伝わって来ます。内陣です。どえらい豪奢な厨子が置かれていますねぇ!おそらくこの中に円仁御作の千手観音像が収められているのではないでしょうか。斜めから。ここも仙道札所の中ではかなりお気に入りの札所です。自分がそうだったからか、ひいき目になってしまうんですが、仙道三十三観音霊場の札所には、雪景色が似合うところがかなり多いと思いました。津軽では考えられない程よい積雪が、観音堂や社殿を飾って非常にエモいんです今回もかなり興奮してしまいました・・・!福島県にアクセスしやすい方は、是非この神社にご参拝ください。苦労(長い上り参道)に見合ったすばらしい社殿を拝めますよ御詠歌うらちしを ここに移しの山なれば たれか歩みを 運ばざるべき本尊:千手観音 सहस्रभुज以上です。次の記事・六番札所②:東鳥神社(雲龍山 満願寺 東鳥堂) 田舎道の脇の元観音境内の絵馬調子に乗って撮った写真ギャラリー
2025年04月11日
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五番札所:法海山 天聖寺の記事でも出てきました、長者地区の一角にあった小庵:長者山寺が六番札所です。天聖寺の宿寺として創建された庵寺で、テーマの所にも”廃寺”とある通り、現存していないんです。現在は天聖寺の墓地”山寺霊園”となっており、その片隅にある幾つかの石碑が、唯一現存する山寺の痕跡です。八戸御城下三十三観音霊場六番札所:長者山寺(廃寺)長者山の麓に置かれています、山寺霊園。近くには長者山新羅神社の参道の内、女坂の入口が置かれています。山寺は天聖寺の宿寺とされますが、天聖寺からはそんなに離れていません。山寺の痕跡を辿る前に、まずはご由緒と説明書きを見てみましょう。まずはご由緒から。六番札所:長者山寺(跡だけ)浄土宗 法海山天聖寺末寺本尊:延命地蔵尊・・・。現在は、隣接した有料駐車場内の杉木立の中に、高さ数mにもなる「南無阿弥陀仏五千日回向」「元禄11年(1698年)」と刻まれた石碑が建っている。それと並んで二mほどの「三界萬霊卯辰供養塔」の石碑が建っており、これは文化3年(1806年)7月4日に藩の下命により、天明期の餓死者供養を山寺で行った時の石碑である(『御勘定所日記」)。それに向かって右側には阿弥陀如来石像が座っている。これらはすべて餓死者供養のためのものと思われる。・・・。 そして、「文久改正八戸城下絵図」を見ると、この山寺の位置が、ちょうど永久寺の隣に鎮座している。永久寺とは、領内十ヶ寺のひとつで、山号は揚柳山。貞享年間(1684~1688年)に河原木田中観音を本尊として移し、寺にしたという(「八戸藩史料」)。そのため、つい最近まで下長小学校付近の町名に「観音堂」という名が残っていた。藩主の祈禱所でもあり、真言宗寺院で、豊山寺の末寺であった(「諸寺院寺号山号帳」)。 文化8年(1811年)4月10日、豊山寺から十石を給されていたが、明治初期の廃仏毀釈の際、豊山寺とともに廃寺となってしまった。そのため、永久寺の墓を、難を逃れた山寺に移しているので、 田中観音もいっしょに移したに違いない(一説によると、田面木善照院に移したともいわれる)。「嘉永4年(1851年)永久寺観音堂再建の棟札」を見ると、その観音像は、十一面観音で、九代八戸藩主信順公が修築の願主となっていることが分かる。 山寺は、天聖寺の宿寺として建てられ、糠部巡礼を行った即誉守西上人もこの庵寺で余生を送っている。山寺も度々の火災に見舞われており、宝曆11年(1761年)7月24日(『八戸藩日記』)と文化5年(1808年)7月27日(「御勘定所日記」)に焼失している。山寺の本尊は、左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、少しほほえみかけている木彫延命地蔵尊立像である。その両わきに天聖寺を中興開基した村上宗清・知貞尼の座像があった。しかし、二十年ほど前の台風のため、三間四方二階建て御堂の屋根が吹き飛ばされてしまい、現在は、そのまま天聖寺に移安されている。おそらく、観音像もこの御堂に安置されていたと思われるが、現在その所在は不明となってしまった。 ともかく、これほどまで荒廃してしまった宿存も珍しい。これで永久寺が栄えていたならば、山寺ももっと大きくなっていたかも知れない。デーリー東北出版「八戸御城下三十三番札所巡り」滝尻善英著 33~36ページ より引用次に説明書きです。これは霊園の外側に建てられています。昌益坂 安藤昌益は山寺に住む守西和尚をしばしば訪ねて来た。守西は天聖寺を隠退してから山寺の住職となっていた。昌益は、延享元年(1744年)に八戸に来住して以来、『糠部三十三観音巡礼』を定めた守西と交友を結んでいた。山寺には、江戸時代に地蔵堂と念仏堂があったが、天明や天保などの大飢饉で亡くなった人たちの理葬地とされ、餓死供養塔が建てられていた。 昌益の時代にも、寛延2年(1749年)の猪飢渇をはじめ、宝暦5年(1755年)の宝暦大飢饉があい次いで起こり、数千人の「直耕」する農民が飢え死にするという悲惨な現実があった。昌益はここにたたずみながら、非命にして死せる者を救おうと決意したのではなかろうか。 昌益のこのような思いを現代に伝えるために山寺の旧境内を通るこの坂道を「昌益坂」と名づけることにしたい。平成二十二年五月 天聖寺 安藤昌益資料館を育てる会これらの説明を見ると、山寺はそれなりに大きな庵寺だった様に感じます。本堂のほかに少なくとも地蔵堂・念仏堂という2つの堂宇が置かれていた様です。隣には揚柳山 永久寺という真言宗寺院が置かれていたようで、神仏分離の法難の際に、墓が山寺に移されたみたいです。著者によると、この際に永久寺本尊の田中観音(十一面観音)も移されたとありますが、こちらも行方不明、どこに行ってしまったんでしょうか・・・。神仏分離の数十年前、永久寺は八戸南部氏によって修築されており、名の有る観音像だったことが分かります。何かしらの巡礼の札所になっていたりしたんでしょうか?気になります。それでは現存する山寺の痕跡を見ていきましょう。山寺霊園の入口近くに”発心”と刻まれた石碑が建てられています。見にくいですが、他にも”奥州南部糠部巡礼ゆかりの地”とも刻まれています。現在の奥州南部糠部三十三観音霊場の札所を選定した即誉守西上人の隠居寺であることを示していると思われます。そして少々小高い場所に、飢饉の餓死者供養塔等が現存しています。これらの石碑すべてが餓死者を弔ったものなんですが、その数の多いこと多いこと。江戸末期に起きた飢饉の凄まじさがひしひしと伝わって来ます。奥州南部糠部三十三観音霊場の選定者所縁の地であると共に、天明・天保の大飢饉とも関りの深い寺院でした。山寺では飢饉にあえぐ民衆を救うために、食事などを提供する救い小屋を建てたと言われているんですが、そこでは疫病が蔓延し、バタバタと人が倒れていったそうです。この光景をみた山寺の住職は、いったいどれほどの無力感を感じたんでしょうかね。飢饉の犠牲者をこの地に供養し、見守り続けて来た山寺は、今でも墓地の片隅に石碑が残り、往時の姿を思い起こさせます。御詠歌いくたびも まゐるこころは後の為 大悲の誓 おもき山寺現代新御詠歌餓死供養 塔のこるのみ山寺の 跡いちめんに 蒲公英の咲く札所本尊:田中観音(十一面観音) एकदशमुख以上です。次の記事・七番札所:福聚山 大慈寺(糠塚) 八戸に寺二つあり、名は大慈寺
2025年04月08日
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八戸の中心街には、大きな寺院が集められて寺町の様になっているんですが、その中に一際豪奢な御堂を持つ寺院があります。法海山 天聖寺と呼ばれる寺院で、かの”奥州南部糠部巡礼次第”を著した即誉守西上人が住職(八世)を務めたことで有名です。近代的な御堂と、昔ながらの構造の社務所が並立する面白い光景も見られます。八戸御城下三十三観音霊場五番札所:法海山 天聖寺ゆりの木通りから於本病院を右手に、本八戸駅方面に向かうと社号標が置かれています。しかしここから入ることは出来ません。いったん十六日町の方に出てから左に進むと、入り口が見えてきます。参道がすごいことになっています。なんという形式の門なのかは分かりませんが、かなり特徴的な門が架かっていますね。庭木もキレイに整えられています。参道脇の石碑です。昌益思想発祥の地と刻まれていますね。説明部分も見てみましょう。昌益思想発祥の地 浄土宗法海山天聖寺の歴史は八戸町の誕生とともに始まる。八戸の街地がほぼ形成されたのは、江戸時代の初頭、承応年間(1652~1654年)のことであるが、このとき八戸の人々の信仰の拠り所として町の中心部のこの地に建立されたのが当寺である。 所伝によると、往時は、根城にあり、涼雲山 善道寺と称し、のち現在地に移転して天聖寺を名乗ったという。 寛文4年(1664年)八戸藩が誕生すると、領内「近回り五か寺」の一つに数えられ、燈明料五駄が与えられた。元禄年間(1688~1703年)には、鐘楼などの諸堂が整備され、城下の町寺として極楽往生を願う人々の厚い崇敬を集めた。 武士が農民を支配する封建社会を激しく批判した思想家として名高い安藤昌益は、ここ天聖寺においてその思想を初めて八戸の人々に語った。 延享元年(1744年)12月、八戸にやって来た昌益はここで数日にわたる講演を行った。参会者は則誉守西、当寺九世延誉擔阿を始め、藩士、藩医、神官、僧侶、商人など八戸の主だった知識人たちであった。彼らは昌益の話に深い感銘を受け、「大医元公昌益、道の広きことは天外にもなお聞こえん、徳の深きことを顧みれば地徳もなお浅し」と賛辞を贈った。昌益42歳のときである。 その後、当寺には岡本高茂や神山仙庵、高橋大和守などの檀徒、さらに中居伊勢守、中村忠平、関立竹、上田祐専などといった昌益の門弟が集まり、談論風発して親交を深めた。 やがて、寛延2年(1749年)の猪飢渇から始まる飢饉の頻発は昌益を社会批判に向かわせた。品益は「統道真伝」や「自然真営道」を執筆しながら、すべての者が「直耕」する平等な社会とは何か、そこにおいて最も人間らしい生き方とはどのようなものか、さらに人間と自然とはどのように相互依存して共生できるのかなどを追い求め、「自然の世」という理想社会の実現をめざした。 宝暦8年(1758年)頃、全国の門人が集まり、シンボジュウムが開かれた。場所は恐らくこの八戸、想像すると天聖寺と思われる。 これに参加した門人は、八戸は神山仙確、福田定幸、北田静可、高橋栄沢、中村信風、嶋盛慈風の6人、他は松前の葛原堅衛、須賀川の渡辺湛香、江戸の村井中香、京都の明石龍映・ 有来静香、大阪の志津貞中・森映確の7人である。 昌益は八戸に来てから確龍堂良中と号するが、昌益の「良」が八戸の地で到達した最終的思想を門弟に「演」べ、これを門弟の「哲」たちが「論」ずるという形で討論が進められた。 この討論は確門第一の高弟といわれた仙確の手により稿本「自然真営道」巻二十五に「良演哲論」として編さんされた。仙確とは昌益の号にちなんで名付けられた仙庵の号名である。 昌益はこのシンポジュウムを最後に、15年にわたって過ごした八戸の地を旅立ち、故郷の大館の二井田へ向かった。 このように天聖寺は昌益の八戸在住時代に門弟たちと交流を重ねた場所であり、昌益思想を独創的に深化発展させるうえで大きな役割を果たした所である。 紛れもなく昌益思想はこの地より発祥したものといえよう。平成8年10月14日 安藤昌益基金 天聖寺先ほどの石碑の裏手には小さな覆い堂と、花と刻まれた石碑が建っています。何の石碑なのかは分かりませんでした。特徴的な門をくぐると、社務所が見えてきます。こちらの建物は門等とは違って、古めかしい趣ある感じの建物です。中央に見えている入り口からお参りできます。先に本堂を見ておきます。大きさもさることながら、ところどころ彩色されており、相当に立派な御堂です。人々の信仰のために置かれた寺とありましたが、その崇敬の篤さがありありと感じられます。ご由緒です。五番札所:法海山 天聖寺浄土宗 盛岡大泉寺末寺本尊:阿弥陀三尊・・・。伝承によると、馬淵川の南を下町と呼んでおり、ここに仏沼があり、そのほとりに仏浜寺があったという。ところが、応永のころ(1394~1428年)、大洪水がおこり、民家とともに仏浜寺も流されてしまった。 そこで、少し高台の荒谷村(現・売市)に遷座し、転性寺と改名した。ところが、貞享2年(1685年)7月7日の火事により焼失してしまったため、元禄4年(1691年)、現在地へ天聖寺として完成させた(「転性寺縁起」)。その移転の際、尽力したのが、藩の御用商人として財力を持っていた村上宗清であった。寺領は村上宗清のもので、念仏堂があったという理由でここに移したらしい。しかし、沼があり、水はけが悪かったので、私財をつぎ込み、長者山下の宿寺であった山寺から土を運んで盛りあげたという。そのため、村上宗清と、その妻知貞尼を中興開基とし、天聖寺中興開基の村上夫妻像が、本堂左脇に並んで安置されている。 本堂右脇には、文政年間(1818~1830年)野村軍記によって取りつぶされた七崎屋半兵衛の持仏、阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音・勢至菩薩)が安置されている。本堂中央の本尊は木彫阿弥陀如来座像。両側に脇侍の観音・勢至菩薩。その前には、経巻を右手に持った黒褐色の中国系青銅の観音像が安置されている。この観音像は比較的新しいものである。 佐々木恭岑上人が巡礼した際の観音像は、その仏像たちのずっと奥の光が当たらない、高さ二尺ほどの厨子に入った木彫聖観音像である。 もとは、本堂と別に、観音堂が、現在の駐車場のあたりにあったが、大正13年(1924年)の八戸大火により焼失し、先々代の成田龍観上人が観音像を持って山寺へ逃げたという。この観音像は、転性寺が現在地へ移った際、初代楢舘弥三郎氏が寄進したと伝えられている。・・・。デーリー東北出版「八戸御城下三十三番札所巡り」滝尻善英著 28~30ページ より引用前半の御由緒が境内の説明書きとはずいぶん違いますが・・・どちらが正しいんでしょうか。どちらのご由緒でも、17世紀中に八戸の町に建立された・移されたと書かれているので、この辺は確かそうです。由緒に書かれている宿寺の山寺とは、次の六番札所の事です。現在は廃寺となり、天聖寺の墓地となっていますが、説明書きや石碑などは残されており、当時の様子を今に伝えています。扁額です。では、内陣の方を見てみましょう。中央にかなり荘厳な本尊:阿弥陀三尊が置かれています。その左手には、地蔵菩薩を始め、子安地蔵、聖観音、白衣観音など、様々な仏像が置かれています。この内いちばん右手に置かれている、厨子内の仏像が札所本尊の聖観音になります。近くで見てみましょう。宝冠から表情から何から何まで美しい観音像です。ゆるやかな表現の衣と、半跏座ならではのゆったり感が特徴的です。なかなかに珍しい姿です。観音像だけではなく、厨子の花の装飾なども秀逸で見ごたえが有ります。稀に見る美像、しかと堪能しました斜めから。八戸だけでなく、糠部地域の観音巡礼の要地であるすばらしい寺院でした。本尊の阿弥陀三尊もそうですが、何と言っても札所本尊の聖観音が相当に印象的です。駅からも徒歩十数分、八戸に来た際は是非、お立ち寄りください!御詠歌おとにきく 法海山の観世音 二世安楽 いのるこの寺現代新御詠歌昼も夜も 静寂なき世の法海山 菩薩半跏の 観世音おはすひるもよるも しづまなきよの ほうかいさん ぼさつはんかの かんぜおんおはす札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर以上です。次の記事・六番札所:長者山寺(廃寺) 今は無き、長者の小庵
2025年04月08日
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今回の福島出張で、予てより気になっていた秋保温泉の共同浴場に行くことが出来ました。秋保温泉街の中ほどに位置する小さな浴場で、隣には湯元薬師という寺院が置かれており、まさに温泉街という空気が充満しています。大都市(仙台)からも近く、すばらしい保養地です。秋保温泉共同浴場概観はこんな感じです。想像していたよりも小ぢんまりとしています。外には自販機が3台。入浴後は外の風に当たりながら飲み物を飲むのも一興!早速中へ。入ってすぐの番台さんに入浴料を払います。なんと入浴料は300円!激安です値段に驚きつつ脱衣所へ。ここも手狭ですが、何とも言えない公衆浴場の趣が感じられて、いとをかし。あやうく一首詠んでしまいそうでした。さっきまでゴチャゴチャと語っていましたが、いざ浴室に入ると言葉を失っていしまいます。洗い台は3台・シャワー無し、といった具合でかなり簡素な感じです。浴室自体大人が10人も入ればパンパンになるくらいの広さ。それ故か、室内は騒がしくなく落ち着いた雰囲気になっています。津軽弁で言えばゆったど休める感じ、とでも言いましょうか、とにかく心地よいです。肝心かなめの湯舟はというと、広さは3.4人入るくらいです。湯温は相当に高く、体感45℃くらいに感じました。同じ県の温泉で例えると、遠刈田温泉 壽の湯くらいの熱さです。静かに入ってみます。足先を入れた段階でもう耐えきれない感じがするんですが、そこをグッと我慢して入り続けると、ある段階から急に心地よく感じてくるんです。ランナーズハイならぬ温泉ズハイとはよく言ったもので、疲れが体から溶け出す様に取れていきます。さすがに長湯は出来ず、浴室の片隅で胡坐をかいていると、窓の隙間から涼しい風が入って来て、火照った体を優しく撫でます。同じ東北でも青森と宮城では気候が全然異なって、ほんとに春らしい温かな風が吹いていました。上がる前にもう一度湯舟にしっかり浸かって、温泉成分を身体にチャージ。これから始まる名取熊野三山の巡礼に備えます。心も体も準備は万端、鼻息荒く浴室から出ました。外に出てみると、煌々と太陽が照っています。もう外套の類はいらないでしょうね、すっかり春です。今年度も山・神社・寺院巡りのシーズンが開幕したことを、ひとり嬉しく思いながら、次の目的地に向かいました。秋保温泉共同浴場料金:300円(2025.3.22現在)休憩所の飲食物:自販機(ジュース)3台入浴備品の販売:有湯の温度:45℃くらい湯の種類:1種類サウナ:無し以上です。
2025年04月07日
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今回紹介する札所は、かの有名な十和田神社の祭神を祀る神社で、大鰐の阿闍羅山北嶺に鎮座しています。南部で篤く信仰されているイメージがありましたが、調べてみると津軽でも何ヵ所か信仰の形跡が残っているようで、ここもその1つです。十和田神社(阿闍羅山):十和田龍神明王祭神:十和田龍神明王の御神体は、普段は阿闍羅山 専稱院の阿闍羅堂に収められています。旧暦の8月1日に催される御山参詣の日には、信者・講中の方等に背負われて十和田神社(阿闍羅山)の祠に遷され、祈祷などが行われるそうです。これらの行事を司るのは阿闍羅山 専稱院であり、御朱印などもここでいただくことができます。それでは十和田神社を見ていきましょう・・・と言いたいところなんですが、僕の勘違いで十和田神社の写真は撮っていません。というのも、阿闍羅山中腹の行者堂が札所だとずっと思っていたからです。再び写真撮りをするには、春になるのを待つしかないんです・・・無念。阿闍羅山自体は、かなり前に麓の鳥居から登山したことがあり、写真撮りが済むまでは、その時の写真を載せておきます。かなり古めかしい木製の鳥居ですが、大きさはかなりのものです。この鳥居を過ぎると十和田神社までは直ぐだった気がします。2025.9.21十和田神社(阿闍羅山)に参拝してきました。想像していた場所ではないところに鎮座していて、探すのに苦労しました・・・。あじゃら公園の駐車場に車を停め、阿闍羅山登山道を進んでいくと、林の中に壊れた鳥居が建っています。近づいてみると、何やら水の流れる音が聞こえてきたんです。2025.9.21草がすんごく深く繁っていて、とてもこれ以上進むことは出来ませんでした。恐らく雪解けする頃に行くと、らくらく参拝出来ると思われます。石積みの上に小さな祠が建っており、その脇には今でも小さな滝が音を立てて流れ出でていました。十和田神社に関連する他の社同様に、ここでおよりを使った占いが行われていたんではないでしょうか。祠の脇には赤倉山大神の石碑も見え、山岳修験と深い関りがあると分かります。今回も麓からではないですが、青森ワイナリーホテルからゴルフ場を抜けて、阿闍羅山山頂まで登拝してきました。先述の行者堂は、ゴルフ場の端の方にひっそりと建っています。行者(三番休み) 阿闍羅山が津軽山岳信仰の中心であったころ、ここに修験の行者堂があり、行者が山の霊力を身につけるため「籠もり行」をする行場であったと言われている。 かつては、深い樹木に被われ、水神信仰の泉が湧く霊地として米や銭の浮き沈みでする占いもされていた。行者堂は現存しています。いつ頃に建て替えられたかは分かりませんが・・・。扁額には阿闍羅行者堂と書かれており、内部には石碑が置かれているようです。中央はおそらく聖観音、その左右に仁王が刻まれた石碑が置かれています。堂内には水場らしきものは有りましたが、今では完全に水が枯れていました。それに池と呼べる大きさでも無いですし、先ほどの説明書きの後半は、麓の十和田神社のことを指しているんじゃないですかねぇ。行者堂の右手には仏塔が建っていました。そんで池らしきものも探したんですが、特に見当たりません。続いて山頂の阿闍羅山大権現堂へと向かいます。行者堂に参拝してから天気が急変し、雨と共に霧まで出る始末。神域感が際立って美しいんですが、参拝する方としては、ただただ寒く辛い道のりとなりました。登山道入り口は、行者堂からゴルフ場の端の道に沿って、山頂方向に進むと見えてきます。体感往復で40分くらいでしょうか。そこまで複雑な道ではありません。少し進むとかつての鳥居跡が見えてきます。山頂までは脇に見える砂利道が続いており、おそらく車で進むことも出来るのではないでしょうか、知らんけど。両脇に熊笹が広がり、いつ熊とバッティングするか、ハラハラしながら道を進みます。青森の中でも、大鰐は白神や秋田に近く、熊の目撃情報も他の地域より多いです。山頂に着きました。鳥居が1基建っており、参道はその先に続いています。説明書きです。阿闍羅山頂 ここは標高709mである。中世のころ、山頂に蔵館大円寺の阿弥陀如来像の大日堂、古懸の不動堂、久渡寺の観音堂の三堂が建てられ「阿闍羅千坊」と言われていたと伝えられている。 阿闍羅の地名は仏教とかかわっている。現在ではスキーのリフトが建てられてこそいますが、ここが津軽山岳修験の霊場の中心であったそうです。説明に出てくる寺院は全て、現在真言宗の寺院になっています。山頂には石碑が置かれ、標高なども書かれています。そして個人的に激アツなのが、この石柱です。北門鎮護・立心安国と刻まれていますが、これらは都の鬼門に位置する岩木山神社を示す標語です。それと同じ文言が刻まれているということは、阿闍羅山も岩木山と同様に、鬼門鎮護の霊山と捉えられている事が示されているのではないでしょうか?境内の最奥に祠が置かれています。阿闍羅山大権現を祀る祠です。先述の御山参詣では、この祠に岩木山山頂の本尊:聖観音が収められ、様々な祈祷などが行われるみたいです。以前来た時は、かなり良い眺望だったんですが、今日の天気では霧が深くて何も見えません。境内の様子です。阿闍羅山はネーミング的にも印象深い山で、形も屏風の様に横長で面白いです。岩木山の写し霊場の様な雰囲気で、津軽の信仰の一片を現代に伝える信仰の山でもありました。今年度は、再び麓からの登拝を予定しています。YAMAPの活動報告も書きたいので、天気と雪解けの様子を見ながら、登れそうな日を待ちたいと思います。今回貰った御朱印です。龍入り合わせ龍以上です。
2025年04月07日
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大鰐の町からスキー場の方に向かうと、屏風型の一際特徴的な山容を見せる阿闍羅山と呼ばれる山があります。古くは山頂に、不動堂・観音堂・大日堂などから成る大伽藍を有していた大安国寺が置かれていたとされています。岩木山同様修験の山とされ、最盛期には阿闍羅千坊とも言われるほどの規模を誇ったとか。あくまでも伝説ですので、様々な異説なども存在しており、真実かどうかは不明ですが、今でも御山参詣が細々と行われるなど、当地域では信仰の中心地として機能していたのではないでしょうか。そんな阿闍羅山を山号にとる寺院が大鰐町にはあります。2024.11.17津軽八十八霊場六十二番札所:阿闍羅山 専稱院寺院は高台にあるんですが、その坂下には不動明王の両足型と地蔵尊像が置かれています。坂を登り切ると本堂と宝形造の御堂、石仏等が見られます。この小さな御堂には何が祀られているんでしょうか。扁額には阿闍羅堂と有りますね。内部はこんな感じです。5つの幣と厨子が置かれています。後の御由緒で出てきますが、阿闍羅山 専稱院は、旧暦の8月1日に阿闍羅山へ上り、山頂の祠にて祈祷を行うようなんです。その際に秘仏の聖観音像(もと百沢寺 岩木山山頂本尊)・十和田龍神明王像の2尊を背負って山頂まで運ぶのですが、ここにはそれらが収められている可能性があります。あと3つは何が収められているんですかねぇ、気になります。境内に戻ります。本堂前には片肘をついた如意輪観音像が置かれていますが、これは西国三十三観音の写しで一番札所の物。他は境内右手に固まって置かれています。今回の馬頭観音。表情が分かりやすいですね。本堂です。入母屋造の御堂で、新しめの外観です。御朱印などは、左手の社務所にて対応してくれます。陸奥新報の記事に載っている御由緒を見てみましょう(一部編集)。・引用元:陸奥新報 / 津軽の街と風景 / 阿闍羅山のお山参詣阿闍羅山 専稱院浄土宗 本尊:阿弥陀如来阿闍羅山観音堂 専称院の前身は、明治期に建立された阿闍羅山観音堂である。 「阿闍羅山観世音縁起」によると、明治16年(1883年)、湯殿山の井上弘運海という行者が阿闍羅山に登った。明治22年(1889年)、弘運海は、山田聖観(のちの専称院初代住職)と宮野諦忍という若い僧を伴って再び登り、お堂に籠って苦行を行った。その際、弘運海の夢枕に、聖観音がたびたび現れ、「阿闍羅山に勧請して信者で信仰せよ」と告げたという。 弘運海を信仰する地元の人々は、懸命に捜索し、最勝院(弘前市)にあることを突きとめたが、像は最勝院の隠居寺である横内村(現青森市)の常福院に遷(うつ)されていた。その後関係者の尽力により、明治24年(1891年)、聖観音を譲り受けることができたとする。 また「阿闍羅山専称院縁起」では、明治22年(1889年)、最勝院住職の鷲尾照堯(『大鰐町史』では「堯照」とするが『最勝院史』に従った)の弟子である山田聖観は、師から十一面観音の古像を譲り受け、大鰐に持ち帰って、稗田沢に阿闍羅山観音堂を建立した。この堂には、明治初年の神仏分離で廃寺になった百澤寺の四天王像や前述の聖観音像も祀られることになる。百澤寺と専称院 この稗田沢の観音堂は、明治35年(1902年)(もしくは明治33年・1900年)に、現在の専称院の地に移転した。1902年頃、地元有志のなかで観音堂を「百澤寺」に改称して、阿闍羅千坊を再興しようという動きが起こったが、県からは、廃寺になった百澤寺の再興と新寺建立は許可できないと通知された。 関係者は、観音堂を寺に昇格させたいと奔走し、明治37(1904年)1月、岩手県にあった専称院を大鰐に移転させることで、寺格を取得することができた。これが現在に続く阿闍羅山専称院である。このご由緒からは、阿闍羅山と岩木山、専稱院と百沢寺の不思議な縁が感じられます。阿闍羅山と岩木山は姉妹だとも言われており、そうしたイメージからか、百沢寺の再興のために専稱院は建立されたんですね・・・。再興はかないませんでしたが、岩木山山頂に置かれた聖観音像や百沢寺由来の十一面観音像もこの寺に運ばれ、いよいよ第二の百沢寺という感が漂い始めます。一応百沢寺の堂宇は岩木山神社の社殿として現存していますが、津軽の人々にしてみれば神仏混淆の姿が本来の姿として強く意識されていたんではないでしょうか。神仏分離が人々に与えたインパクトは、相当に大きいものだったようです。また、この記事では初代住職が最勝院より譲り受けた十一面観音についても記載しています。貴重な仏たち 明治初年に廃寺となった百澤寺(現岩木山神社)の仏たちが、廃棄されずに専称院にもたらされたことは奇跡といってもよい。 山田聖観が最勝院から譲られたという十一面観音(台座を除き4尺6寸)は、『最勝院史』では室町時代頃の作とする。寺では百澤寺の本尊だったと伝えるが、百澤寺大堂(本堂)の本尊は現在、長勝寺(弘前市)に祀られている。 かたや、百澤寺山門の十一面観音(像長6尺)は、小舘衷三が『岩木山信仰史』で、「行方不明」と記しているが、寺の伝承に資料的な裏付けができれば、この像は、山門の本尊仏であった可能性も秘めていることを指摘しておきたい。(元青森県史編さん執筆協力員・日本民俗学会会員 石戸谷勉)今でも岩木山神社の随神門として鎮座する百沢寺山門は、県内では並び立つ例がない程に立派な寺社建造物です。津軽の誇りといっても差し支えないでしょう。その山門に置かれていたかもしれない十一面観音像は、室町時代の作とも言われる美像です(現在は錆びていますが・・・)。すばらしい門にはすばらしい仏像を、長い伝統にはこの上ない宝を。ちなみに、グーグルマイマップによると札所本尊は↑の十一面観音とされているんですが、その紹介文には”元百沢寺(現岩木山神社)の岩木山山頂の奥宮に安置されていた御本尊で、岩木山三所大権現のうちの巖鬼山大権現(国安瓊姫命)として祀られていました”と書かれているんです。山門か山頂か、それともそれ以外に置かれていたのか・・・謎は深まるばかりです。一応記事上の札所本尊は、寺院本尊の阿弥陀如来としておきます。扁額です。力強く阿闍羅山と刻まれています。内陣です。中央の厨子には本尊の阿弥陀三尊が置かれています。これらは岩手県の専称院時代からのものだそうです。他には先の十一面観音像や四天王像が置かれていました。斜めから。津軽の霊山岩木山。その姉妹の阿闍羅山を信仰の拠点とする寺院でした。割と新しい寺院でしたが、そこに残されたエピソードや仏像は、舌を巻くほど極上のものです。阿闍羅千坊の伝説と共に、古くから仏教文化の浸透があったと思われる大鰐。そこかしこに面白そうな神社仏閣があり、これからもっと探索していきたいです。今回は本当に面白い信仰を残す寺院に巡り合えました。満足です御詠歌ちちははの めぐみもふかきせんしょういん となうるひとは ふかくなるらん本尊:阿弥陀如来 अमिताभ以前貰った御朱印です。秘仏:岩木山山頂聖観音阿闍羅山大権現阿闍羅山登拝記事については下のリンクからどうぞ!・津軽龍神霊場:十和田神社(阿闍羅山) 大鰐の霊山に祀られし十和田龍神明王以上です。次の記事・六十三番札所:古懸山 不動院 國上寺 碇ヶ関の古刹、國上寺調子に乗って撮った写真ギャラリー茶臼山からの専稱院
2025年04月06日
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八戸市の新井田川沿いに岩淵という地域があり、そこに美女かん子の伝説が残されています。今回紹介する稲荷神社は、美女かん子を鎮めるために当地に建立されたものと言われているようです。2025.3.29かんこ稲荷神社満面の水を湛えた新井田川、もう少し進めば鮫町に突き当り、太平洋に注ぎます。いつの頃の話か、この新井田川に生きたまま沈められたかん子という美しい女がいたそうです。岩淵に住んでいたかん子は、沢山の男たちから求婚されますが、既に心に決めていた男がおり、全てはねのけていました。それに逆上した男たちがかん子を擦巻にし、新井田川に投じて殺してしまったのです。それからは夜な夜な火の玉が出るように・・・それは丁度八戸セメントのある辺りだと言います。かん子の怨念を鎮めるために、新井田川沿いに稲荷神社を建て、側に石柱を置いたとか。今その稲荷神社は”かんこ稲荷神社”と呼ばれています。とっちぱれ。かんこ稲荷神社の参道はかなり見つけずらいです。別雷神社(岩淵観音堂)と、(おそらく)八戸セメントおかかえの稲荷神社との間に、ひっそりと置かれています。※八戸セメントおかかえの稲荷神社には、一般の方は立ち入りできませんので、間違って入らないように注意しましょう。茂みの側に石畳が敷かれており、ここから参拝出来そうです。かんこ稲荷神社です。社殿は半壊状態で、あまり管理されていないようです。社殿の脇には石柱が建っています。もはや表面の文字は摩耗して判読できませんが、これが恐らくかん子を供養した塔だと思われます。社殿内陣には、まだ神棚が残っています。中には金属製の幣と稲荷の置物が収められていました。社殿を後ろから見てみます。本当に倒壊寸前、参るなら今の内です。ちなみに今立っている辺りに2基の墓が置かれています。片方は岩藤家の奥津城(神道式墓)、もう片方は岩淵家のものです。岩淵家のものは折れてしまっていて、痛ましい姿をしています。かん子の苗字も岩淵と伝わっていますが、これはもしや・・・。以上です。
2025年04月06日
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東京都上野には、日本一有名な公園と言って差し支えない上野公園が広がっています。大きさは何と東京ドーム11個分とも言われ、動物園や美術館、博物館なども置かれ、都内屈指の観光スポットです。この上野公園ですが、もともとは東叡山 寛永寺の境内だったそう。戊辰戦争や廃仏毀釈の影響もあり、今では数ヶ所の堂宇が残るのみです。今回紹介する札所も、もとは堂宇の1つだったものです。江戸三十三観音霊場六番札所:東叡山 寛永寺 清水観音堂不忍池から公園側に歩き、信号を渡って長い石段を登ると、朱塗りの舞台と御堂が見えてきます。清水観音堂と呼ばれるその御堂は、京都の清水寺を模して建てられたものです。手水で清めたら、早速境内に入ってみましょう。境内の舞台では、観光客の人達が何人も写真を撮っていました。そのバックには奇妙にねじれ、円を描く松が生えています。これは”月の松”と呼ばれるもので、現在は2代目。2012年に植えられ、今はこのように立派な姿を見せてくれます。詳細は下のリンクからどうぞ。・台東区文化探訪アーカイブ / 清水観音堂の舞台に立つこの松の円をのぞき込むと、その先には不忍池の弁天堂がありました。景観も優れ、これだけ見栄えする松は他に無いでしょうね。歌川広重も浮世絵の題材にしたと言います。・台東区文化探訪アーカイブ / 清水観音堂の月の松観音堂です。日光の諸堂や岩木山神社の様に真っ赤です。清水観音堂を創建した天海大僧正は、さきの日光山 輪王寺の貫主でもあります。さらに岩木山神社がある津軽とも一応縁があって、津軽二代信枚の師となって津軽の真言宗布教を進めたともされています。では、御由緒も見てみましょうか。清水観音堂の歴史 清水観音堂は、寛永8年(1631年)に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643年)によって建立されました。 天海大僧正は寛永2年(1625年)に、二代将軍徳川秀忠公から寄進された上野の山に、平安京と比叡山の関係にならって「東叡山寛永寺」を開きました。これは、比叡山が京都御所の鬼門(艮=東北)を守るという思想をそのまま江戸に導入することを意味し、江戸城の鬼門の守りを意図したのです。そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立しましたが、清水観音堂は京都の清水寺(きよみずでら)を見立てたお堂です。 清水観音堂は、京都の清水寺の義乗院春海上人から、同寺安置の千手観世音菩薩像が天海大僧正に奉納されたことにちなみ、清水寺と同じ舞台作りで、初めは上野公園内の「擂鉢(すりばち)山」に建てられました。 しかし元禄初期、今の噴水広場の地に、寛永寺総本堂の根本中堂建設が決まると、その工事に伴って元禄7年(1694年)9月に現在地に移築されました。上野の山に現存する、創建年時の明確な最古の建造物です。 平成2年12月から文化財保存修理が行われ、平成8年(1996年)10月に竣工、元禄移築時の面影を再現するに至る、国指定重要文化財です。東叡山 寛永寺 清水観音堂 / 清水観音堂について より引用17世紀建立の御堂で、創建当時の姿を今に伝えています。江戸時代の頃、東叡山 寛永寺は桜の名所上野公園にありながら、一般の人達は立ち入りが制限されていたようです。その中で清水観音堂だけは別で、一般の方の御参りの為に天海大僧正自ら私財を投じて建立したともされています。その親しみやすさ故か、現在でも沢山の人々に愛されているように感じました。次に堂内の仏像群について見てみましょう。秘仏ご本尊の縁起 京都清水寺からご遷座された秘仏ご本尊・千手観世音菩薩は、平安時代の比叡山の高僧・恵心僧都の作と伝えられています。 秘仏ご本尊には合掌したお手・禅定印を結ぶお手の他に小さなお手が40本あり、それぞれの小さなお手が、仏教で考えるあらゆる世界の生きとし生けるもののすべてに、慈悲の手をさしのべるお姿を表しています。 秘仏ご本尊は『平家物語』に述べられる、主馬判官(しゅめのほうがん)平盛久(たいらのもりひさ)の伝説があります。盛久は千手観音を清水寺に奉納し、千日参詣の祈願を続けていました。しかし源平の合戦で敗れた盛久は、鎌倉由比ヶ浜で斬首されそうになります。その際に刀が折れて盛久の命が助かり、また北条政子の夢に清水寺の高僧が現れて盛久の赦免を願ったので、驚いた源頼朝は直ちに盛久を許したのです。京都に戻った盛久が清水寺に参詣すると、盛久が斬首されそうになった際に観音像が倒れたという話を聞きます。こうして観音像に護られたことに気づいた盛久は感涙にむせんだ、という物語です。 この奇瑞が午の年・午の日・午の刻に起きたことから、ご開帳は年に1日、2月の「初午(はつうま)法楽」の日に行う縁起となっているのです。脇尊の子育て観音さま 右に祀られる脇尊の仏さまは「子育て観音」で、子授け・安産・子育ての観音さまとして多くの信仰を集めています。この観音さまに祈って子宝を授かった両親が、その無事な成長を願って奉納した身代り人形が、ご宝前に多数供えられています。この人形の供養が、こんにちではかわいがってきた人形に感謝する、人形供養となっています。 人形供養は毎年9月25日14時から行われます。東叡山 寛永寺 清水観音堂 / 清水観音堂について より引用本尊十一面観音についての平盛久の伝説は、おそらく観音経の中の一節をもじった創作で、史実ではないように思います。こうした伝説と結びついた謂れをもつ観音像、かなり好みですが・・・!御堂の名前からの縁なのか、実際に清水寺からもたらされたと書かれており、ここに歴史のエモさがありますよね、大好物です子育て観音と同一か、そうじゃないのか分かりませんが、こちらの聖観音像も収められているようです。これもかなりの古仏の様です。木造観音菩薩立像(寛永寺) 本像はヒノキ材の寄木造で、玉眼を嵌め入れます。肉身部は金泥塗り、衣部は漆箔です。右足柄の外側に「大し□たか□やか/勘十良」の墨書がみられますが、この墨書は近世修理時のものと考えられます。作風は文治5年(1189年)運慶作、浄楽寺阿弥陀三尊像脇侍(神奈川県横須賀市)や清水寺観音・勢至菩薩立像(京都府京都市)などと良く似ていることから、鎌倉時代初期の運慶派の制作と考えられます。しかし、本像の制作年代はそれらよりやや下がり、13世紀前半ころと推定されます。 本像の伝来は明らかでありませんが、現在は清水堂須弥壇、向かって左方の厨子内に安置されています。 清水観音堂の本尊である木造千手観音菩薩坐像(秘仏)は、13世紀の制作で、東叡山諸堂建立記によると京都清水寺の僧義定房某(東叡山之記は義足房某とする)が持参した像を主馬判官盛久が天海に献じたものと伝えます。清水観音堂には、寛文3年(1663)銘の義乗院春海の位牌が安置されていることから、義定房某との関連が推定されます。 本像は、区内に現存する木造観音菩薩立像の中では、比較的古いものに属し、ことに運慶派の正統的な作風を伝えるものとして貴重です。台東区 / 台東区の文化財 / 木造聖観音菩薩立像 より引用最後に不忍池の方から清水観音堂を眺めてみます。写真を撮ったのは確か3月、桜の開花前だったと思います。これは桜花とかなり相性がよさそうな外観です。桜と合わせて見てみたいもんですが、今年は早くも東京の桜は散ってるみたいですね。あまりにも青森県と状況が違いすぎて驚いております。東京の名所はやはり東京住が圧倒的に有利で、時期を見て写真を撮りに行けるのが羨ましいです。東京には日本各地の名所を模した”写し名所”とも言える所が非常に多いですが、ここもその一つでしたね。これを拝んだ江戸っ子も、京の都の清水の舞台に思いを馳せながら帰路に着いたんじゃないでしょうか。飛び降りる方が出る前に、僕も帰ります御詠歌松風や 音羽の滝は清水の むすぶ心は 涼しかるらん本尊:千手観音 सहस्रभुज今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンク・東叡山 寛永寺 清水観音堂以上です。次の記事・七番札所:柳井堂 心城院 聖天祀る湯島の寺院
2025年04月05日
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発足当時の陸奥国は、茨城県の北部と福島県の一部という小さな領域しかない国でした。国の北側は蝦夷の領域と接し、幾多の戦いが繰り広げられ、徐々に前線は北上。ついに蝦夷の根拠地である胆沢の地まで支配領域を広げました。この胆沢の地には、阿弖流為(あてるい とも あてりぃ とも)と呼ばれる蝦夷の戦士がいて、朝廷軍を苦しめていたのです。業を煮やした朝廷側は、かの征夷大将軍田村麿を派遣。この地を鎮めようと躍起になります。このような歴史ドラマの舞台として、かなりの知名度を誇る神仏混淆の霊地が、今回紹介する達谷窟の毘沙門堂と別当寺院:西光寺です。2024.11.2東北三十六不動尊霊場二十三番札所:神鏡山 達谷西光寺岩手県の神社仏閣の中で、最も気に入っている寺院を挙げてください、と言われれば迷わずここを挙げるくらいにお気に入りの霊地です。達谷窟で有名なのは、なんと言っても懸造の見事な毘沙門堂でしょうか。本地垂迹説にのっとって、蝦夷達を鎮めた田村麿将軍を毘沙門天の垂迹として崇め祀っています。毘沙門堂の別当としては、神鏡山 達谷西光寺という寺院が置かれており、現在でも境内を接しています。西光寺の金堂と不動堂は拝観可能なんですが、本堂は一般の方は立ち入りできないのか、車止めなどが置かれています。下の写真は本堂への入口に置かれた寺門で、薬醫門と呼ばれています。奥にはチラリと茅葺屋根の御堂が見えますが、おそらく本堂でしょう。門の手前辺りにも茅葺屋根の家屋があります。これは何のための建物なのか不明なんですが、名前からして御供え物を置く神饌所的な役割の御堂なんじゃないでしょうか、知らんけど。それに御が付いているということは、国からの奉幣もあったのでは・・・?知らんけどぉ・・・。それでは境内に向かいます。入口で入場料と御朱印帳とを預け、身軽な状態で思いっきり楽しみましょうこちらは一之鳥居。説明書きです。鳥居 「一之鳥居ハ石之鳥居(いちのとりいはいしのとりい)、二之鳥居ハ丹之鳥居(にのとりいはにのとりい)、三之鳥居ハ杉之鳥居(さんのとりいはさんのとりい)」と称され、古くから参道にあった。三之鳥居は明治初期に、二之鳥居は昭和30年(1955年)に失われたが、平成10年に再建された。二之鳥居・三之鳥居ともに、他には見られない特殊な形式を今に伝えている。 一之鳥居は「ひこじうらう、とくぢ、せいのじゃう」という達谷村の3人の石工により達谷石を用いて江戸時代に建立されたものである。二之鳥居です。確かに単純な両部式鳥居とは異なり、分厚い屋根が付いていますね。二之鳥居をくぐると、東北三十六不動尊霊場の札所本尊:姫待不動尊が収められている不動堂がチラリと見えます。もとは宝形造・茅葺屋根の素朴な御堂だったんですが、ここ数年の建て替えによって現在の姿になりました。後で詳しく見てみましょう。三之鳥居です。ここをくぐると毘沙門堂は目の前です。三之鳥居の脇には観音石像と古峯山と刻まれた石碑が建っていました。古峯山というと修験を連想してしまいます。ここも修験が大本になっているんでしょうか、不明です。おほー!これですよ、これこそ僕が求めていた光景です仁王2のDLCにてここを知ってからというもの、日に日に参拝したいという思いが強くなり、2023.8.31に初めて参拝出来ました。厳美渓の方から山道を抜けて、急に開けたと思ったら岸壁から生えるように御堂が建っていて、それはもう感動したもんです・・・!それでは蝦蟆ヶ池辨天堂から見ていきましょう。蝦蟆ヶ池と呼ばれる小さな池の浮嶋に赤い御堂が建っていますね。御堂までに架かる橋も趣深きこと限りなし。心満たされること際限なし。辨天堂の扁額は、宇賀神に因んでか蛇文字で書かれています。にょろにょろと波打つ蛇たちが”蝦蟆*神”という文字を表現しています。説明書きです。蝦蟆ヶ池辨天堂 昔、満面の水を湛えていた達谷川や北上川を美しい浮嶋が行き来するのを、奧刕巡錫の慈覺大師は、五色の蝦蟆の姿で、貧乏を齎す貪欲神が化けていると見破った。 大師は嶋を捕えて窟毘沙門堂の前まで引きい、再び逃げ出さぬように一間四面の堂宇を建立し、蝦蟆を降伏する白虵、即ち宇賀神王を冠に頂く八肘の辯才天女を自ら刻して祀り、蝦蟆ヶ池辯天堂と名付けたと伝えられる。 昭和60年(1985年)の調査で蝦蟆ヶ池旧護岸から平安末期の土器が大量に発掘されている。 現堂は、昭和21年(1946年)の大火で焼失し、昭和46年(1971年)再建の堂が狭小で、神事の執行に甚だ不便であったため、平成25年癸巳の歳(2013年)に、元祿再建時の舊規に倣い、脇侍の十五童子の内の九躰と共に、御修覆となったものである。 辯天樣は巳年守本尊である。昔から「藥師、辯天には錢上げて拜め」といわれ金運商売の神で商家の信仰が厚い。また、智慧の神、技芸の神として民衆からの信仰が厚い。 「生けるが如し」と賞される美しい御姿は美人の譬とされたが、流石に祟を恐れて誰も御貌を覗き見る者はいなかったという。 悋氣な天女の故、仲良き男女は共に詣らぬ習しがある。 蝦蟆ヶ池は神の池で、ここに棲む生きとし生けるものは、古来から辯天樣の御使であり、特にも虵はその最も尊いものとされている。慈覚大師円仁にまつわる伝説が伝わっているようですね。旧護岸からは土器も出土しているようですが、これは儀式用の物だったんではないでしょうか。だとすると、中世の頃には既に神聖な場所として認識されていたんではないでしょうかね。本尊の弁財天像は、色白の豊かな頬を持つ美像で、光背の表現も見事でした。背後の童子像も似たような作風でした。今では美しい庭園の様になっていますが、歴史ある古辨天を祀る御堂でした。お次は毘沙門堂です。紅白に染められた幅広の御堂は、いつまでも見ていられる位美しいですねぇ仁王2では、この奥に隠し金山があるんですが、実際はどうなっているんでしょうか。右側の扉から堂内に入れます。入り口近くには狛犬が置かれており、あらためて神仏混淆の霊地である事を実感させます。狛犬:阿狛犬:吽堂内を見てみましょう。公式サイトにてご覧になれます。・達谷窟毘沙門堂 別當 達谷西光寺 / 達谷窟毘沙門堂諸堂通常、寺院の内陣には、四隅に四天王が置かれていることが多いんですが、ここはその中でも毘沙門天に的を絞り、数え切れない位の毘沙門天像が置かれています。見ると作風は様々、大きさも様々、本当に不思議な空間です。中央の厨子は伊達家が寄進したもので、中には円仁作の毘沙門天・吉祥天・善膩子童子像が収められていると言われます。次にご由緒を見てみましょう。達谷窟毘沙門堂綠起 およそ1200年の昔、惡路王・赤頭・髙丸等の蝦夷がこの窟に塞を構え、良民を苦しめ女子供を拐さらう等乱暴な振舞が多く、国府もこれを抑える事が出来なくなった。 そこで人皇五十代桓武天皇は、坂上田村麿公を征夷大将軍に蝦夷征伐の勅を下された。対する惡路王等は達谷窟より3000余の賊徒を率い駿河国清見関まで進んだが、大将軍が京を発するとの報を聞くと、武威を恐れ窟に引き返し守を固めた。 延曆20年(801年)大将軍は窟に籠る蝦夷を激戦の末打ち破り、惡路王・赤頭・髙丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。大将軍は、戦勝は毘沙門様の御加護と感じ、その御礼に京の清水の舞台を模して9間4面の精舎を建て、108体の毘沙門天を祀り、鎮護国家の祈願所とし、窟毘沙門堂(別名を窟堂)と名付けた。 翌延曆21年(802年)には別當寺として達谷西光寺を創建し、奥真上人を開基として東西30余里、南北20余里の広大な寺領を定めた。 降って前九年後三年の役の折には源頼義公・義家公が戦勝祈願のため寺領を寄進。奥州藤原氏初代清衡公・二代基衡公は七堂伽藍を建立したと伝えられる。 文治5年(1189年)源頼朝公が奥州合戦の帰路、毘沙門堂に参詣され、その模様が「吾妻鏡」に記されている。 中世には七郡の大守葛西家の尊崇厚く、延徳2年(1490年)の大火で焼失するが、直ちに再建された。 戦国時代には東山の長坂家より別當が赴き、多くの衆徒を擁したが、天正の兵火により、岩に護られた毘沙門堂を除き、塔堂楼門ことごとく焼失した。 慶長20年(1615年)伊達政宗公により毘沙門堂は建て直され、爾来伊達家の祈願寺として寺領を寄進されてきた。 昭和21年隣家から出火。御本尊以下20数体を救い出したが毘沙門堂は全焼した。昭和36年に再建された現堂は創建以来五代目となる。 内陣の奥に慶長20年伊達家寄進の厨子を安置し、慈覺大師作と伝える御本尊毘沙門天・吉祥天・善𧸐師童子を秘佛として納める。次の御開張は令和24年(2042年)となる。 毎月3日の月例祭・春秋の大祭を始め多くあるが、特に修正会は正月元旦から8日迄行われ、慈覺大師から二世別當恵海大和尚が伝え、1000余年も続く神事である。元は108体もの毘沙門天像が置かれていたんですね。今ではそこまでの数には到底見えません。幾度も起こった火事や時の流れによる風化など、だんだんとその数を減らして行ったんでしょうね。毘沙門天像の少なさについては菅江真澄も触れており、↓の様に記載しています。かすむ駒形天明6年(1786年)1月26日 空は晴れてのどかである。きょうは達谷村(平泉町)に行って山王の窟を見ようと、千葉某の案内で深い雪をふみながら行った。たいへん高い窟の内に堂を作ってある。よこたわっている梯子をはるばると登ると、内部はひろそうである。真鏡山西光寺といって坂上田村麿の建立で、百八体の毘沙門天を安置してあり、鞍馬寺をうつした所といわれている。 むかし、赤頭、達谷(たかや)などという鬼が、この窟に籠っていたのを、田村麿がうち平らげられたという。大きな円形のうちに、ささやかな田村将軍の霊像を据え祀っている。それが右手には、唐の軍扇を持たれている。 正月二日の夜はここで、たいまつを投げあう祭があるので、板敷や柱がみなこげている。この正月二日の火祭を追儺(おにやらい)という。そのため、このように仮敷や柱がところどころ、むかしからやかれたのだという。 百八体の毘沙門天王も、年を経てこわれて、今はわずかばかり残っているのを修理して、十体ばかりが立っている。蛇の歯、鬼の牙などの宝物があり、中尊寺で見たものと同じだった。 梯子を下りて来ると、五尺ばかりの高さに鼻垂大仏という像が岩面に彫られてある。これは源義家将軍が弓の上弭で刻まれたもので、某仏の頭とかということだった。 姫待が滝という所があり、また、かずら石というものがある。この滝のもとに達谷麿が身をひそめて、女が来ると捕えて、蔓でつなぎ、この岩にゆわえておいたという。また、葉室中納言某卿の御娘をも捕えたという物語がある。平凡社 ワイド版東洋文庫68 菅江真澄遊覧記2 25ページ より引用この追儺(おにやらい)という祭りですが、もしかして火災の原因の殆どはこの祭りだったんじゃないでしょうか?天正の兵火以外の火災原因は、民家からの出火以外書かれていませんが、僕はこの祭りが原因説を推したいと思います。どういう結果になろうとも、大切な祭事であることに変わりはありません。由緒などに出てくる姫待ヶ滝・髢石は、境内から少々離れたところにあります。駐車場から平泉町方面に車を走らせると見えてきます。姫待ヶ滝は小さな滝ですが、水のベールが非常に見事な名滝です。別角度から。達谷麿・悪路王・赤頭などと伝わる蝦夷ないし鬼たちは、この滝の側に隠れて人(おもに姫)が通りかかるのを待ったんでしょうね。それ故に姫待ヶ滝。今は不動堂に収められている不動尊も、もとはこの近くに置かれていたことから姫待不動尊と呼ばれています。姫待ヶ滝から車で数分、髢石と呼ばれる巨岩が見えてきます。さらった姫の髪をここに縛ったとか、首を刎ねてここに置いたとか、様々な類型が伝わっているようです。今では岩から木々が生え、本当にかつらをつけている様に見えなくもないです。再び境内に戻ります。次は田村信仰についての説明書きを見てみましょう。中世文学の故郷 達谷窟と田村信仰 征夷大将軍坂上田村麿公東征の霊跡である殺生禁断地、国指定史跡達谷窟に関する最古の記録は『吾妻鏡』文治5年(1189年)9月28日の条であり、それ以降『田村三代記』『諏訪大明神絵詞』『鹿島合戦』『神道集』等の中世文学や芸能の他、日本国中の社寺縁起にこの窟の名が記され、古来奥州で最も著名な窟であり、また窟毘沙門堂は岩窟に堂宇を構える窟堂としては、今なほ日本一の規模を誇る大堂であります。 御創建の代将軍に於かれましては『公卿補任』に「毘沙門天ノ化身来タリテ我国ヲ護ル」と記されている様に、大将軍は神であり、その本地を毘沙門天と見なす田村信仰発祥の霊場として、貴賤の尊崇を集めて参りました。 窟毘沙門堂内陣の扉の奥に祀られる御本尊様は、慈覺大師が毘沙門天の化現である田村麿公の御貌を模して刻し給う所の秘佛であります。それ故に毘沙門様に抱かれた床下の広い空間は往古より守護不入とされ、諸国行脚の遊行の聖や山伏、乞食等の休める安住の宿として、また合戦に敗れた武士が暫し身を隠し、而る後生まれ替わって行く再生の場として、さらには御先祖様の霊魂があの世から還り来て集う聖なる処として、現在も人の立入る事を許さぬ禁足地とされており、その信仰は「現世で毘沙門様を拝めば災に遇う事無く、極楽往生の際は毘沙門様が擁護し給ふ」と言われる程、隆盛を極めました。 三つの鳥居を潜り達谷毘沙門堂の御神域及び別當の達谷西光寺境内に座す諸佛諸神に御参りすれば、延暦20年の創建以来、今も変わらぬ田村信仰の佇たたずまひを、きっと懐かしく感じられることでしょう。「南無大慈大悲多聞天王」「南無田村大將軍」平成18年正月 合掌 別當今回達谷窟では毘沙門天と習合していますが、東海道の難所鈴鹿峠では、その峠の神と習合し祀られている様なんです。恐らくこの様なエピソードは幾つもあって、田村信仰の実態は各地の神との習合という所にあると思います。田村麿のことを、自分たちの崇めていた神と同じくらい力のある存在と捉えていなければ、この様な現象は発生しないと思うので、崇敬はよほどの物だったでしょう。※↓他の土地に残る田村信仰に興味のある方はご覧ください!・甲賀市 / 鈴鹿峠と田村麻呂信仰この様に、古くからの信仰と田村麿を崇める信仰とが混ざり合い、現在の達谷窟毘沙門堂の信仰が形作られたんですねぇ!そんな特別な信仰に触れられる素晴らしい霊場でした。達谷窟毘沙門堂の隣には、東北地方随一の磨崖仏、岩面大仏が見られます。かなり摩耗しており、遠く昔に刻まれたことを実感させます。体は殆ど削れてしまっていますが、今でも顔の部分ははっきりと浮かび上がっています。大仏の前には、鰐口が懸かった遥拝所が置かれており、そこに説明書きが建ててありました。岩面大佛 毘沙門堂西方の約そ十丈(約三十三m)にも及ぶ大岩壁に刻まれた磨崖佛は、前九年後三年の役で亡くなった敵味方の諸霊を供養する為に陸奥守源義家公が馬上より弓弰を以って彫り付けたと伝えられている。 この大佛は高さ五十五尺(約16.5m)、顔の長さ十二尺(約3.6m)肩幅三十三尺(約9.9m)全国で五指に入る大像で、「北限の磨崖佛」として名高い。 元祿9年(1696年)の記録に「大日之尊體」(岩大日)その後岩大佛と記され、現在は岩面大佛と呼ばれている。 猶、尊名は岩大日の記録から大日如來とする考えもあるが、拙寺では昔から阿彌陀佛の名号を唱えており、戦死者追善の伝說からも阿彌陀如來とするのが正しいと思われる。その証左として岩面大佛の下に立つ「文保の古碑」(1317年)には阿彌陀の種子である「キリク」が刻まれている。 明治29年に胸から下が地震により崩落し、現在も摩滅が進んでおり早急な保護が叫ばれている。岩面大仏は阿弥陀如来なんですね。大日と呼ばれているのは、何だか真言宗の信仰の広まりを感じさせますが、この様に阿弥陀如来が”大日さま”とか呼ばれている例が青森県にもあるんです。大鰐町の神岡山 大圓寺の本尊は”大鰐の大日さま”と呼ばれる古仏で、まさに岩面大仏の状況と同じです。もともと阿闍羅山山頂の寺院に祀られていたとされています。いつか記事を書きたいと思います。達谷窟毘沙門堂は余すところなく楽しめました・・・!そろそろ別当の方も見てみましょう。西光寺の方に進んでいくと、一際立派な杉の木が生えています。奉行坊杉と呼ばれるこの杉には、面白いエピソードが残っているんです。説明書きです。奉行坊杉 達谷窟毘沙門堂の祭事を司る僧を別當奉行という。奉行の指図により各坊の僧がこの杉の元に参集したので奉行坊杉と呼ばれる。 「安永風土記」にも大杉と記される。昭和21年、隣家から出火し、西風に煽られた炎は毘沙門堂と辨天堂に燃え移ったが、この杉が西側の枝葉を失いながら炎を防ぎ、不動堂、鐘楼等の諸堂が類焼を免がれたのは、古来暫々雷が落ち神宿木である大杉に、火之神不動尊が降りた為であると云われた。巨大で遠くからも見えやすかったからか、集合地点としても使われていた様です。奉行坊杉を過ぎ、左の方を向くと立派な鐘楼が置かれています。杉によって火災から守られた堂宇の1つです。掠れてはいますが、丹が塗られて赤く染まっています。説明書きも見てみましょう。鐘楼 窟毘沙門堂、鹿島社と共に慶長20年(1615年)の建立と伝える。 江戸時代には伊達藩が毘沙門堂と共に屋根の葺き替えを行っていた事が記録に残る。 かつては板葺で120貫(約450㎏)の洪鐘を吊っていたが、昭和19年に戦時供出。昭和58年に150貫(約563㎏)の洪鐘を新鋳。 平成27年に御修復を了え、面目を一新した。今でも五ツ(午前8時・辰刻)、九ツ(正午・午刻)、七ツ(午後4時・申刻)に昔ながらの打鐘で時を報せている。鐘楼を過ぎると直ぐに不動堂があり、その向かいには閼伽堂が置かれています。名前からして水神を祀っている御堂だと思われます。お待たせしました。今回の巡礼の札所、姫待不動堂です。早速ご由緒を!姫待不動堂 惡路王等は京から拐って来た姫君を窟上流の「籠姫」に閉じ込め、「櫻野」で暫々花見を樂しんだ。逃げようとする姫君を待ち伏せした瀧を人々は「姫待瀧」、再び逃げ出せぬよう姫君の黒髪を見せしめに切り、その髪を掛けた石を「髢石」と呼んだ。 姫待不動は智證大師が達谷西光寺の飛地境内である姫待瀧の本尊として祀ったものを、藤原基衡公が再建した。 しかし年月を經て堂宇の腐朽が著しい為、寛政元年(1789年)當地に移された。 桂材の一木彫で、全國でも希なる大師様不動の大像である。制作年代は平安後期で、岩手有形文化財に指定されている。達谷窟毘沙門堂 別當 達谷西光寺 / 達谷窟毘沙門堂諸堂 より引用不動堂は、なんと智證大師(円仁)によって建立され、奥州藤原氏二代基衡公によって再建された御堂だったようです。何という華々しい由緒でしょうか、本当に面白いです。以前は茅葺・宝形造でしたが、現在は銅板葺き・宝形造でしょうか、鮮やかな色彩の御堂に生まれ変わっています。調べていくと、2021年に火災があったようですが、その時に古い御堂は焼失してしまったんでしょうか?この新しい御堂の建立年代なども、いつなのかは不明です。扁額もこのように見事な朱塗り。御堂の中には火焔光背はありますが、不動尊像は有りません。現在絶賛修理中で、今年の9月に完成予定だそうです。姫待不動尊は3m近い巨像だそうで、この火焔光背を背負った時の迫力は相当なものでしょうね修理後の姿を早く拝みたいです!斜めから。今年は不動堂本尊、姫待不動尊の修理が完了する記念すべき年です。御堂も本尊も一新され、生まれ変わった姿を拝むことが出来るんです。特に本尊は、造像当時の総カツラ材造に立ち返るそうで、1000年以上の時を超え、本来の姫待不動尊の姿をこの目に映せるというのは、本当に今からもって楽しみで仕方ありません立替え前の不動堂は↓のリンクからご覧になれます。・文化財デジタルコンテンツ / 達谷窟<たっこくのいわや>最後に金堂を見て終わりましょう。西光寺の堂宇において、最も重要な御堂です。金堂 古くは講堂とも呼ばれ、延曆21年(802年)に達谷川対岸の谷地田に建てられたが延徳2年(1490年)の大火で燒失した。 江戸時代には現在地に建てられた客殿が金堂の役割を果たしていたが、明治初年に廢佛毀釋で破棄された。 昭和62年(1987年)に再建に着手し、平成8年(1996年)に完成した。桁行五間梁間六間の大堂で、後世に技を伝える為、昔ながらの工法を用いて作られた。 本尊は眞鏡山上の神木の松で刻まれた四尺(約120㎝)の藥師如來である。達谷窟毘沙門堂 別當 達谷西光寺 / 達谷窟毘沙門堂諸堂 より引用金堂は入場可能で、本尊の目の前でお参りすることも出来ます。本尊の薬師如来像は、最近修復されたのかかなり煌びやかな姿をしています。螺髪は鮮やかな青色、身体と蓮台は輝く金色です。光背は火焔の様な赤と、後光の様な金色によって縁どられており、所々に独鈷が取り付けてあります。古刹に相応しい荘厳な本尊でした。本尊の左右には年代物の十一面観音像と聖観音像が置かれています。像本体は錆や損傷(特に十一面観音の頭上の頭)が目立ちますが、光背や宝冠は新しく、光輝いていました。そちらも是非ご覧ください!ご由緒を見てみましょう。神鏡山 達谷西光寺天台宗開山:奥眞所上人開基:坂上田村麿本尊:薬師如来別當 達谷西光寺 縁記 「ここはお寺でせうか、神社でせうか」というご質問をよく頂きますが、江戸時代迄はどこの社寺でも神佛が仲良く一つの所におわしたのです。 抑々達谷窟は征夷大將軍坂上田村麿公により達谷の靈窟に創建された毘沙門堂を根本道場とし、その御神域に建つ諸堂と、別當達谷西光寺境内の諸堂、及び鎮守社からなる神佛混淆の社寺で、昔のまゝなのです。 古来毘沙門堂境内は殺生禁断地で、達谷西光寺境内と厳格に区別され、毘沙門様が主で別當は従来、毘沙門様に仕へ奉るのが勤めとされ、神事に関わる都合上、弔事に出仕した当日は、鳥居をくぐる事さえ叶わなくなるのです。從って壇家は一軒もなく、寺でありながら葬式を營まない大変珍しい寺であります。 嘗て達谷西光寺に於ては、飛澤にあった別當達谷西光寺廣照院正念坊を筆頭に、樺澤坊、下田坊の天台三箇院、さらに赤部(あかぶ)の奉行坊を筆頭に敎覺院、龍覺坊、無量壽院といった本山派修驗の諸坊からなる一山寺院で、廣照院衆徒として勢い盛んでありました。然し度重なる戦乱で次第に荒廢し、江戸時代には本坊の正念坊と脇院の敎覺院を残すのみとなり、さらに明治維新の廢佛毀釋で、敎覺院は雲南神社として分離されて了ったのです。 爾来達谷西光寺は一箇寺のみとなりましたが、法燈護持に努め、修正會や師走二日に執行される日本一早い毘沙門樣の御年越祭、そして四季折々に奉納される神樂等の諸行事を、今も大切に守り伝えているのです。達谷窟毘沙門堂 別當 達谷西光寺 / 別當 達谷西光寺 縁記 より引用修験の寺であり、かつては幾つもの僧坊が置かれていたんですね。かつての僧坊の一つ、敎覺院は雲南神社となっており、こちらも今年度訪れてみたいです。斜めから。東北には、田村麿創建と伝わる神社仏閣は幾つもありますが、ここに関しては本当に田村麿が建てたんじゃないかと個人的には思っています。そう思わせるだけの歴史と文化が息づいており、何度訪れても感動が薄れません。毘沙門天堂は幾度も焼失しますが、その度に建て直され現在に至っています。時の支配者からの後援を受けて、千年以上にも及ぶ長きに渡って崇敬され続けた霊地中の霊地です。その歴史と文化に、改めて感嘆のため息をつき、にやけ面で記事を眺めながら酒を飲むのでした・・・。御詠歌大悲心 姫待つ滝の不動尊 もるゝかたなき ちかひぞうれしだいひしん ひめまつたきのふどうそん もるゝかたなき ちかひぞうれし札所本尊:姫待不動尊 अचलनाथ以前貰った御朱印です。東北三十六不動尊霊場(姫待不動堂)達谷窟毘沙門堂(以前貰ったもの)達谷窟毘沙門堂(今回貰ったもの)蝦蟆ヶ池辨天堂最強のお札と名高い”牛王宝印”です。公式サイトへのリンク・達谷窟毘沙門堂 別當 達谷西光寺以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー境内仁王2 聖地巡礼再現された達谷毘沙門堂御堂の奥には隠し金山が広がる
2025年04月03日
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津軽弘法大師霊場の札所は全部で23ヶ所。その中でもこの札所は最も西に位置する札所であり、青森市・弘前市どちらから向かってもそれなりに時間がかかります。この札所をいつ回るかで、予定の建て方が大きく変わると思います。参拝は大変ですが、その手間に見合う以上の体験ができる、必ず訪れるべき寺院です。津軽弘法大師霊場十二番札所:春光山 円覚寺だいたいの解説は津軽三十三観音霊場・津軽龍神霊場の記事で終えたので、ここでは境内を概観することにします。まずは別サイトの御由緒を見てみましょう。第十二番札所 春光山 圓覚寺 「大同2年(807年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が東征の折に草創し、聖徳太子の妙巧なる十一面観音像を安置す。」と伝説ではいう。 貞観10年(868年)、円覚法印が大和国より諸国の霊山を遍歴し、ついにこの地に来り観音堂を再興し、三世大善法印の時、醍醐三宝院末当山派修験となる。 その後、嘉応年間(1169~1171年)になり鎮守府将軍・藤原基衝公、永正年間(1504~1521年)には葛西木庭袋伊予守頼清公の庇護(ひご)を受け、藩政時代になってからは津軽家の祈祷所に選ばれ、歴代藩主の手厚いひ護のもと、北前船貿易の華やかな江戸中期から明治中期にかけ、大阪をはじめ日本海の港からの船の出入りが多く、信心深い船主や船頭たちが海路の無事を祈って数多くの絵馬を奉納し、澗口観音と呼びならわされた。 当円覚寺は、開祖円覚法印より続いた法燈を守り千百有余年、現在は二十八世である。津軽弘法大師霊場 / 第十二番札所 春光山 圓覚寺 より抜粋それでは見ていきます。円覚寺といえば、この勇壮な山門が特徴です。現在の山門は、本堂と共に大正9年(1920年)深浦出身の船大工によって再建されたものです。因みに、山門の向いには”かまど屋”という茶屋があります。うどん・そばなどの軽食と、かき氷などの氷菓が楽しめる、暖かい空気感のお店です。円覚寺に詣でる時には、決まってこのお店にも寄っています。下の写真は観音うどん。ナルトとかき揚げが入ったうどんで、しっかりとお腹を満たしてくれます。温かいだし汁が胃腸を活性化してくれるので、その日一日の元気を補充することも出来そうです続いて境内を見ていきます。本堂の右手あたりに、護摩焚用の祭場があります。元旦などには、ここで護摩行が行われるんじゃないでしょうか。ついでに円覚寺の年間行事も見てみましょう。円覚寺の行事・イベント日時:内容1月1日 午前10時~11時:新年除災招福祈願護摩祈祷1月11日 終日:船玉供(海上安全・大漁満足祈祷)1月17日 終日:初観音供旧暦1月11日 終日:船玉供(海上安全・大漁満足祈祷)旧暦2月1日 終日:春祈祷(仁王会 厄除け・家内安全祈祷)※本来は旧暦2月1日が春祈祷の日ですが、申込み数が多いので、旧暦2月1日より1週間前から随時ご祈祷をいたします(旧暦2月1日が彼岸に入ってしまう場合は彼岸入りの前日)。 旧暦4月8日 終日:灌仏会(花祭り)お釈迦様の誕生仏を花御堂へお祀りして、甘茶のご接待があります。6月第1月曜日:円覚寺巡礼会津軽三十三観音霊場巡拝(春):第1番~第12番、第25番を日帰りでバスにて巡拝いたします。7月16日 午後6時~8時:例大祭宵宮柴燈護摩、火渡りの行7月17日 午前10時~11時:例大祭海難者供養・弘法大師奉讃・円覚法印供養法要7月17日 午後1時~3時:例大祭本祭・大般若経六百巻転読観音護摩大法要8月24日 午後7時~7時30分:地蔵盆地蔵夜祭9月第1金曜日~土曜日:円覚寺巡礼会津軽三十三観音霊場巡拝(秋):第13番~第33番、番外を一泊二日でバスにて巡拝いたします。9月15日 午前11時~11時30分:見入山例大祭深浦町追良瀬にある津軽観音霊場第9番札所「見入山大悲閣」の例大祭山上の観音堂にて権修12月17日 午後5時~5時30分:産土講裸参り崎の町産土講による裸参り春光山 円覚寺 ちょんまげの寺 / 円覚寺の行事・イベント より引用護摩焚き場の一角には、円覚寺開山:円覚法印の供養塔が置かれています。伝説上では坂上田村麿の創建ですが、実際のところはこの円覚法印の開山であろう、と住職が説明してくださいました。その隣には修行大師の線刻石碑が置かれていました。南無大師遍照金剛十二番札所:春光山 円覚寺は、御朱印の郵送なども行っているそうです。一度は参拝したけれど、御朱印は貰い損ねた・・・といった方は、申し込んでみましょう。梵字が連なる御朱印は、県内でもなかなかお目にかかれません。後悔無きよう、是非御詠歌沖つ風 吹くや深浦円覚寺 迷いも晴るる 春の光におきつかぜ ふくやふかうらえんがくじ まよいもはるる はるのひかりに天聳る 杉の梢のともり光明よ 沖行く海士の いのち救うてあまそそる すぎのこずえのともりびよ おきゆくあまの いのちすくうて寺院本尊:澗口観音(十一面観音) एकदशमुख以前貰った御朱印です。以上です。
2025年04月02日
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三方を海に囲まれた青森県には、何かと龍神や海神の伝説が多く残っています。特に津軽は領内を幾筋もの川が流れており、それになぞらえるかの様に龍神の伝説が豊富です。津軽三十三観音霊場の十番札所、深浦の名刹円覚寺にも、遭難者を救う龍神の話が伝わっており、今回はそれについて見ていきましょう。春光山 円覚寺:大愛海龍王津軽三十三観音の記事に載せた御由緒の中に、↓の様な記述があります。 深浦湊は寛永12年(1635年)に青森湊・十三湊・鯵ヶ沢湊と共に弘前藩の四浦に指定された事で藩の庇護の下飛躍的に発展、それに伴い円覚寺が湊に近接した事もあり、海運業や漁業関係者から「澗口観音(湊を司り航海安全・豊漁の守護神)」として信仰され豊漁祈願や海中安全祈願などの船絵馬が数多く奉納されています。本尊自体が豊漁・海中安全などをもたらすと考えられていたことが分かります。ただし、津軽龍神霊場の札所祭神は大愛海龍王であり、十一面観音ではありません。なぜここの大愛海龍王が航海者に崇敬されるに至ったのか、境内に赴き由来を探してみましょう。山門をくぐる時に、ふと上を向くとそれはもう立派な龍の墨絵が描かれていました。不確かですが、これは何代か前の住職さんの手になるものだったはず。山門の直ぐ先に一本の巨大な杉が立っていました。竜灯杉とよばれるこの巨木は、名前の通り龍が宿るとされているようです。公式FaceBookによると、この竜灯杉が津軽龍神霊場の札所となっています。説明書きです。町指定天然記念物 円覚寺の竜灯杉平成5年12月24日指定 江戸時代、西廻り航路(北前船)の海の男たちが、この沖で暴風雨に見舞われ、髷(ちょんまげ)を切って一心に祈ると、この杉の梢から一条の光が放たれたそうです。 九死に一生を得てたどり着いた船乗り達は、常日頃篤く信じていた潤口観音円覚寺にその髷を納めました。(重要有形民俗文化財 髷額) このような伝説が、いつごろからか、北前船の船乗り達に「竜灯杉」(竜神が宿って船乗りに助けを与える神木)といわれるようになりました。深浦町教育委員会この杉が光ったかどうかは検証のしようがないんですが、それを裏付けるように円覚寺の宝物館には恐ろしい数の髷額が収められています。僕が実際に見たものは、大きめの絵馬の様な木板に髷が1つないし2つ打ち懸けてありました。それが壁一面に飾られているんです。これを見ると本当に光って見えたんでは、とも思ってしまいます。死に直面した時にどうにかして生きようと、人体は恐ろしい能力を発揮することがあると聞きます。火事で建物の中に取り残された際、天使が出口まで導いたとか、雪山で遭難した時に誰かが道案内してくれて急死に一生を得たなどの減少は実際に報告されているようです。サードマン現象と呼ばれる現象ですが、竜灯杉もその一例と言えるのではないでしょうか。下のリンクから実物の髷額をご覧になれます(髷額単体ではなく絵馬などと共に国指定重要有形民俗文化財に登録されているようです)。・文化財オンライン / 円覚寺奉納海上信仰資料竜灯杉もそうですが、当の祭神大愛海龍王は金毘羅堂内に尊像が置かれているようです。どのようにして杉と龍とが結びついたんでしょうか、不明です。津軽龍神霊場の札所の中でも、本当に不思議な由緒を持つ寺院でした。以前貰った御朱印です。今回貰った御朱印です。以上です。
2025年04月01日
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